すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

思い方が、愛に向き合う

2018年10月31日 | 読書
 「」という助詞は意味の幅が本当に広い。「〇に△」という置き方では〇や△の語によって、ある程度意味は限定されるだろう。「シリアに行く」「一気に攻める」「ご飯に納豆」「首相に似てる」等々。この小説は新聞連載時『愛乱暴』だったそうだ。改題されたのは理由があるはず。乱暴する対象の問題なのかなあ。



2018読了102
 『愛に乱暴』(吉田修一  新潮社)



 吉田修一の小説の多くは、不幸や不実が露呈していくような展開が待っている。これもまた不倫しているらしい女性の独白めいた文章から始まり、正直少し重く感じた。ごく平凡な会社員の夫を持つ三十代女性の日常が、夫の女性関係が露呈し徐々に破綻していくという、ストーリーはありきたりだが、描かれる深層はいつも考えさせられる。


 姑夫婦の家の離れに住む主人公は、ふだん使っていないある部屋の床が気になりだし、チェーンソーを自ら買い込み、土台を切断し床下を覗き込む。近所では不審火が起こり、刑事が聴き込みにやって来る。こう書くと殺伐な結末が予想されるが…。職場の同僚や近所のアパートに住む外国人青年の存在など、何でもない風景に色を感じてしまう。


 多くの読者が途中から、あれっと感じる仕掛けのある作品である。結末は個人的に予想と違ってしまったが、思い返すと心に残る一つの文章につながりが深いと感じた。主人公の日記に「一言で『家族』と言っても様々な形がある(略)単に家族を思う、その思い方が根本的に違い、どちらが良くてどちらが悪いということでもない。」とある。


 実はこの「思い方」が大きいのではないか。きっと生まれた時から培われたその力があったからこそ主人公は救われた気がする。物語は途中から、主人公を初め様々な人が「乱暴」さを発揮していくが、それは様々な「愛」に対してどう向き合っているかを問うことになる。だから『愛に乱暴』になったのかと、きわめて個人的解釈をしてみた。

チコちゃん、それは甘いぜ

2018年10月30日 | 教育ノート
 金曜日の『チコちゃんに叱られる!』で、「どうして校長先生の話は長いのか」ということが、一つのテーマとして取り上げられていた。10年も務めさせていただいた役職。今は退いたが、どんな答えを導き出すのか少し興味がわいて、観てみた。うーん、なんだかがっかりした。


 端的にいうと「ネタ本があるから」と「それに自分なりの何か付け加えるから」の二つ。現職(高校が多い)や編集者、それに尾木ママなども出てきて、もっともらしく語っていた。しかし一般視聴者でも少し考えたら、少なくとも前者が本当の理由ではないことはわかると思う。



 後者の方はやや接近しているだろうか。要するに、自分の知識や経験を表現したいという教育欲が強い、いやそれ以上に対象である児童生徒に対しての相手意識が弱いと言うべきか。もちろん小・中学校であれば最近の先生方はそれなりにコンパクトさを意識しているはずである。


 自分も取り上げられた「ネタ本」「ネタ雑誌」に原稿を書いた経験もあり、そこで意識する一つに簡潔さ、明解さがあるわけで、そう考えるとネタ本利用は薦めたい。ただそれをどんなふうに溶かして目の前の子どもたちに語るか。それを考える醍醐味が教職の魅力の一つでもあった。


 長く話したがるのは教師の性のように言われ続けたなあ。三十代初め、集会でのあまりに長い校長の話に業が煮えた自分は、毎週「時間を測ります」と宣言して脅迫(笑)したことがある。だから「話の短さ」だけは自信を持ってやり切ったと言える。まあ単に中身がなかったからか。

雑談から表現の本質へ

2018年10月29日 | 読書
 広辞苑で「雑談」を調べるとね、「さまざまの談話。とりとめのない会話」と意味があり、その次に「ぞうたん」と書いてあるんだよ。何だろうと別の辞書にあたってみたら、古い読み方でなんと平安期の記録にあるそうだよ。江戸時代には「ぞうだん」という読みが出てきて、「ざつだん」と読むのはその後らしいね。


2018読了101
『雑談力』(百田尚樹  PHP新書)



 雑談は楽しいけど、「無駄話」とも言われたりする。あっ「四方山話」という言い方もあるね。とにかく「あちこち、さまざま、雑多」なイメージで、品のない言い方をすれば「妄談(ぼうだん)」「放談」「嘘話」「漫(すず)ろ物語」「口慰み」「鶯語(おうご)」なんて類語もあるくらい。そんなの「力」は必要なのかな。



 と無駄話を終えて、この本で人気作家が書くのは「人を引き付けるコツ」なので、雑談そのものではない。そうなると大体パターンは決まる。「起承転結が基本」「つかみが大事」「質問から入る」「数字は重要」…ポイントは「講演」の仕方と全く同じだ。要するに相手に対して「面白い話を披露する力」を指している。


 この新書の肝だと思った一節がある。「雑談について、多くの人が大きな勘違いをしているのは、『相手が興味を持ちそうな話をすればいい』と思っていることです。実はこれは全然違います。本当に面白い話は、『話し手が一番興味のある話題』なのです」…自分勝手で自己満足に陥ると思ってしまいがちだが、そのレベルを超えなければならない。


 『永遠の0』『風の中のマリア』『モンスター』等々、著者のほとんどの小説を読んできたが、その多彩な興味の持ち方つまり「作家自身が面白がる」ことに、ぐんぐんと惹かれて読み進めた印象も残る。つまり興味のエンジンをふかさないと、「操作」にはつながらない。表現の本質を突く一冊だ。とともに、たくさんの面白ネタも詰まっていた。

夜長の独り視聴者委員会

2018年10月28日 | 雑記帳
 「NHK新人お笑い大賞」…予選を勝ち抜いた8組の中で最も若い「Gパンパンダ」というコンビが優勝した。二つのコントネタは面白く勢いがあった。ネタをつくる視点に新鮮さを感じた。時代とともにお笑いは変化すると、当然だけれど実はあまり見られない場面を見た気がした。


 NHKで始まった土曜ドラマ『落語心中』が、とてもいい。岡田将生と山崎育三郎の二人が噺家役だ。特に初回に岡田は年老いた役で登場したが、凄みがあった。明るい話ではないけれど、昭和期の落語の隆興をいい雰囲気で伝えていると思う。画像のトーンも渋く仕上げている。



 民放の新ドラマは多いが、あまり興味をそそられない。その中でいい味を出しているのが『ハラスメントゲーム』というBSテレ東の金曜番組。ハラスメントに関する現況が次々に出てきて笑える。参ったのは「ハラハラ」という語。何かというと「ハラスメント・ハラスメント」!


 朝ドラ『まんぷく』は『半分、青い!』より安心感のある進み方だ。安藤サクラはキャラクターが立つ良い演技をしているし、脇役も適材適所。内田有紀があまりに早く亡くなったが、夢の人物として登場しているのもコミカル。苦労話の展開にどう味つけしてくるか楽しみである。


 BS『美の壺』スペシャル版で「日本人と弁当」が取り上げられ、歴史的・風土的な考察が興味深かった。特にある親子の弁当にまつわるエピソードで締め括ったことも良かった。それは姉が絵アイデアを出し、父がそのイメージで作り、弟が食べるという流れ。何かほのぼのとした。

健康になる週間始まる

2018年10月27日 | 雑記帳
 FBでシェアされていたネット記事には目を惹かれた。「健康寿命には、運動よりも食事よりも〇〇が大事」。パッと思いついたのは、かつて読んだ石川善樹の本で、「人間関係」「友人の数」といったメンタルに関わるものだった。しかし、これが意外なことに「読書」の二文字であった。


 この調査は、ワンクリックアンケート(笑)とは違うビッグデータをもとにしたAI分析のようで信憑性は高いのだろう。どうして読書と健康が結びつくのか、にわかには思いつかない。トップに挙げられた山梨県は、運動実施率は全国最低という結果で、これも常識を覆しているようだ。



 記事では、専門家の推測として次の5つを挙げていた。

「図書館に行って本を探すことが運動になっている」
「知的な刺激を受けている」
「過去の記憶を呼び覚ますことにつながる」
「読書によって心が動き、それが行動につながる」
「そもそも、本を読むということは、それだけの活力があって、知的好奇心があるということ」


 一応、人並に読書はしているつもりだが、それが健康と結びついているのだろうか。確かに「知的な刺激」は当てはまる。「過去の記憶」も確かにあるが、読んでいる時が頻繁とは言えない気がする。下の二つは読書に限らないのではないか。そうすると冒頭の「本を探す」が面白い。


 山梨県は人口比における図書館設置率がトップだ。運動といっても探すための「歩く」だけではない気がする。つまり「見る」や「手にとる」「めくる」…文字に対するその動きが、全身にいい影響を与えると言ったら大げさか。このデータは追究しがいがある。今日から読書週間だ。

電球を速やかに交換する

2018年10月26日 | 読書
 今年の100冊目読了である。未読本が数冊書棚にあるが、なんとなく吉田篤弘にしようと決めていた。文庫の新刊本である。書名だけで読んだ気にさせられる。いい話に違いない。


2018読了100
『電球交換士の憂鬱』(吉田篤弘  徳間文庫)



 この小説は、電球交換士という「世界でただひとり」の肩書を持つ主人公が、交換の注文を受けた場所でめぐり合う人々や、足しげく通うバーの常連客との関わりのなかで話が進む。そこでは「電球」はただの電球ではなく、特別な存在である。電球の本質…つまり世界を明るく照らすことの意味を問いかけている。



 主人公は愛車コブラ・ブラザースに七つ道具を詰め込み、注文のあった場所へ駆けつけ、すみやかに交換し光を取り戻す。作業はもっぱら夜間。交換を依頼する場に登場する様々な人物は、いずれも怪しく面白い。バー「ボヌール」に集う常連客4人も個性的かつ個の物語を抱えていて、話の発端や結節を担っている。


 特にマチルダを名乗るゲイが恋した男性を、主人公が探しに出掛ける話は、異次元異空間に誘い込んでくれるような趣だ。その世界はいつも懐かしい。カレー屋、饅頭屋、銭湯、木製の電信柱…町並みは変わりづける。それは都市も地方も変わらない。様々なものが消えている。そして気づくのはだいぶ経ってからだ。


 「消滅の兆候と消滅の瞬間にわれわれは気づかない」日常の多くに当てはまる。主人公は自分を「不死身」と信じていたが、ある時からその考えが歪む。この世に永遠はない。常に電球は交換し続けなければならない。光と輝きを維持するために…。そしてそれは消滅と背中合わせだ。ゆえに憂鬱はいつまでも続くのだ。

子どもの声がうるさい6人へ

2018年10月25日 | 雑記帳
 町長のブログを読んでいたら、ある会で知事が講演し「『子どもの声がうるさいと感じる』というアンケートで、秋田県がワースト2位」と話した記事が載っていて、興味を持った。えっそうなの、秋田県人は子どもが嫌いなのか、だから少子化トップなの…と一瞬は頭に浮かぶが…。



 こうした類のランキングやアンケート結果は、眉唾ではないか。まず出典はどこなのか検索したら、どうやらあるネット上の「1クリックアンケート」の結果のようである。三年前のデータで総数1709であり、東京の票数が957だから、いったい秋田から何人クリックしたのか。


 一覧は探せなかったが、記述にある「青森8票(総数)」と「秋田85.7%(騒音と思う票)」から予想するに、総数は7、票数は6ではないか(倍の14、12もあり得るが)。その数で、しかもネット上のワンクリックに参加する層は偏っているだろう。たった6人の声が拡がったと言える。


 もちろんたった6人であってもデータに違いないから尊重すべきだろう。けれど問題はその使い方だ。こういう意識だから行政でいくら少子化対策をとってもなかなか進まないのだ、と「もし」根拠の一つに挙げるなら、ショーシ(笑止)千万である。騒音の意識調査からやり直せ。


 「子どもの声」を日常うるさく煩わしく思えることは誰しもあるだろう。しかし、それ以上に「子どもの声」は何ものにも替え難く、未来へつながる響きと想いをはせる姿勢が大切だ。自分もかつてはそうだったのだから…。何故そう感じるか、心の中を見つめ直すに絶好の問いだ。

十三夜の照らす心

2018年10月24日 | 雑記帳
 日曜日、がーまるちょばのステージが終わり外へ出たらもう4時半を過ぎていた。一日よく晴れ上がり、西日は山の陰へ隠れながら淡いオレンジに空を染めていた。自宅まで1時間弱、ゆっくり車を走らせていると、東に月が見えだし、翳り出した風景の中で明るさを増してゆく。


 「あれっ名月だっけ?」「でも満月じゃないよな」…天文や暦の基礎的な知識を持ち合わせていない夫婦の会話。「九月の名月の他に、もう一つあったはずだ」「なんだっけ、豆?栗?」…自宅にもどり、カレンダーを見ると「十三夜」。ああ、なるほど。満月でなくとも月を愛でる夜だ。



 それにしても改めて何故満月ではないのかと思う。少し検索すると、諸説ありながら、ふむふむな事柄が出てくる。「日本で最初の月見は十三夜だった」「十五夜は中国から伝えられた」「十三夜に曇りなし(陰暦九月の気候安定)」…いずれにしても、日本では月見は二度して完結する。


 古典を紐解けば、西行は『山家集』で詠っている。「雲きえし秋のなかばの空よりも 月は今宵ぞ名におへりける」つまり仲秋の名月よりも、十三夜の月の方が名月にふさわしいということだ。『徒然草』の「花はさかりに、月はくまなきをのみ賞するものかは」は有名だ。まさに十三夜。


 我が国には「未完」「不足」「余白」の美という文化が確かにある。完全無欠で非の打ち所がないものより、どこかに隙や傷や穴があった方が好まれるという例は数多い。それはある意味では満ち来ることへの願い、祈りに通ずるだろう。十三夜はありのままを受け入れる心を照らす。

エクセレントなサイレント

2018年10月23日 | 雑記帳
 これも一度は生で観ておきたい芸の一つだった。「がーまるちょば」。全国ツアーが大曲にやってくるので早々に予約し、2列目ほぼ中央という絶好のポジションで堪能した。パントマイムのパフォーマーとして知名度は高く、小学生から七十代?までたくさんの方が来場していた。



 映像でお馴染みの鉄板ネタのほかには、舞台でしか見られないストーリー仕立てなど、世界的な活躍も頷けるパフォーマンスだった。なにしろ一切「言葉」を使わずに2時間超をこなすわけだから、その工夫と技術はかなり洗練されている。見えないものを見させる圧倒的な力だ。


 人間の細かな動きを緻密に見つめ、再現する。老人が若い頃を思い出して演ずる入れ替わりの場面や、走って逃げる様子をスローで表現するところなど、ほおーっと会場からもため息がもれるようだった。そうした技能の確かさと共に、観客を惹きつける構成、仕掛けも見事だった。


 ライブではステージ上からよく観客に盛り上がりを要求することが見られる。ここでも冒頭からそういう動きがあったが、それが実に上手だ。言葉で指示できない分、自らの表現(声と動き)で見本を示し、分割、競争、評価、煽動等をうまく組み立てて、観客席を速攻で温めた。


 さらに観客参加を促すネタを取り入れる。ステージに上げるだけでなく、観客席に下りて仕掛けていくネタもあり恐れ入った。あるネタでの印象的な音フレーズを、最後の長編ネタに再び登場させるなど、くすぐり、繰り返す笑いが追求されている。まったく見事なコメディだった。

「チホちゃん」に叱られるぞ

2018年10月22日 | 雑記帳
 ワイドショーネタみたいに「沢田研二の公演ドタキャン」について思ったことを一言。散々に批判する者もいれば、気持ちはわかると擁護する者もいるようだ。それにしても、我々の世代にとっては輝く大スターのジュリーが…と暗鬱な気分になる。犯罪ではないにしても「晩節を汚している」と言っていいだろう。


 お笑い芸人がよく「客が一人の場所で演じた」などと過去の苦労話をすることがある。下積みのエピソードとして紹介するに相応しい話題と言えるだろう。それはきっと何人であれ「お客を喜ばす」ことが、芸能人としての一番根幹にあり、どんな形であれそれを全うしているからだ。それがブレない姿に感心する。


 ところが、人は成功して月日を重ねると往々にして、その基本を忘れる。会場に駆け付けた7000人全員の気持ちを知るべくもないが、一目見たい、歌を聴きたいと足を運んだ人たちは、その喜びを得ることができないままだった。沢田はおそらく、それを想像する前に他の要素(契約なり虚栄なり)を優先させている。


 そうした姿勢を続ける者が、心を打つ唄など歌えるものだろうか。大衆が「審美眼」を発揮すべき点はそこだ。むろん我が儘な芸術家が人の心を感動させることはよくあると歴史は語っている。しかし、それは極めて稀でレベルも違う。ネットでは様々な事情が仕方なきことのように語られるが、結局枝葉に過ぎない。


 「チホちゃんに叱られるぞ」が一発でわかった人はテレビ通である。「チコ」ではなく「チホ」。漢字で書くと「千帆ちゃんに叱られるぞ、ジュリー」である。『寺内貫太郎一家』で悠木千帆(樹木希林)が叫ぶあのシーンである。ジュリーの写真へ向かって「ボーッと生きてんじゃねえよ」と樹木希林に叱ってほしい。