すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

振り向いた先の赤い実

2019年07月31日 | 雑記帳
 目まぐるしいひと月だった。公私ともにと言っていいだろう。小学校の国語授業を頼まれたこと、夏休みと同時に始まる子ども司書講座の準備と実施、さらに町の方々と一緒に進めているCM撮影も4回あった。私的にはなんといっても、二人目の孫が里帰りのために先日まで同居していて、連日の賑やかさが続いた。


 そんななかで自宅周辺に根をはったラズベリーの実が最盛期を迎え、4週間ほど毎朝(最盛期は朝夕)収穫した。途中2,3日体調を崩したときは代わってもらったが、今夏もなんとかやり抜いた。短時間ながら連日であり、重さにすると十数キロはいったようだ。ジャムやソースの赤い塊となって保冷庫でねむっている。


 他人が見たら思わず笑いたくなるほどの重装備で実を採る。顔に蚊などがまとわりつくのを防ぐため、ネットをかぶりながら腰をかがめ、手を伸ばす。葉っぱに隠れてしまうことも多いので、この幹は収穫したと思ってもふっと振り返ると、肩ごし数メートル先に赤い実がニコリと笑ったりして…。その繰り返しだ。


 すぐに採り直しに向かえるとき、ああまたやったかと落ち込むとき、両方あるが、これはその時の気分、体調にも左右される。そのような事態に陥らないことが一番であり、慎重さを備えればいいだけだが、それはもう自分には無理、というか神経の使い方として無駄な気がする。要は最後に辻褄を合わせることだ。


 「だましだまし」といい「最後に辻褄合わせ」といい、イイカゲンが身についたことか。ただ手を伸ばして採れるのなら、赤い実は逃さずいたい。もしそれが他者と関わりある事柄ならなおさらだろう。今月はずいぶん目がしょぼしょぼした。この先も赤い目薬指しながら、振り向いた先の赤い実を見逃さないようにしたい。

10年前の夏に書いていたこと

2019年07月30日 | 教育ノート
 昨日、思いつくままにブログアップした後に、ずいぶん前からそんなことを考えていたはずと、集約した冊子を開いてみた。
 学校報に載せた文章が目に入った。
 ちょうど10年前だった。
 結構な長文だった。お時間があったらおつきあいのほどを…。


 「子どもの時間を守る」・・2009.7.21・・・・

 ある教育関係企業が、小学生から高校生までの生活に関する諸調査を継続して行っています。
 昨年末の調査で、小学生(5,6年)の半分の子が「忙しい」「疲れやすい」と回答しているという結果が出たと報道されました。当然ながら中学、高校と進むにつれてその割合は高くなっています。小学生だけに限定しても、その数値は年々高くなっていることは想像できます。
 調査担当の専門家は「子どもの“大人化”が進んできた。大人に合わせるのではなく、生活リズムを守って子どもの時間をもっとつくってほしい」とコメントしたそうです。
         ◇
 「子どもの時間」という表現は、多くのことを考えさせられます。以前はことさらにそんなことを言わなくても、子どもは子ども、大人は大人という厳然とした境目があったように思います。それは時間もそうですし、場所や服装、食べ物に到るまで違いがはっきりしていました。個々の家庭によって細かい差があったとはいえ、大方が納得できる範囲で決まっていたと思います。
 ところが物質的に豊かさが増し、子どもも大人と同じ感覚で「消費」することが多くなっています。そうした傾向は、子どもの成長にとってはたしてプラスに働いているでしょうか。そうではない気がします。
         ◇
 子どもが発達、成長していくためには、その時その時に応じて必要なことがあります。それはけして大人と似たような生活をして身につくことではありません。身体を動かす、いろんな話をする、自分で考える、あれこれ試してみる等々、時にはぼやっとすることも大切な時間と言えるでしょう。
 つまり「子どもの時間」とは、子どもが人間として生きていくうえで大事なことを身につける時間という意味なのです。今それは「守る」「つくる」ことを意識しないと先細っていく心配があります。
         ◇
 具体的には大きく次の二つが大切と考えられます。       
 一つは「子どもの時刻を守る」つまり一日の生活の中で決められた時間に起きて、食べて、遊んで、寝る…ということをしっかり続けさせることです。大人の都合にあまり左右されずに、成長期にふさわしい一定のリズムある生活ができるようにすることです。
 もう一つは「子どもの自由な時間を守る」つまり、子どもだけで何かをしている時間、子ども同士の自由な遊び、一人での読書やもの作り、考え事などを保障してやることです(ゲームやテレビは消費社会に縛られているようで自由とは呼べない気がします)。

                    
 夏休みが始まります。言うまでもなく時間はたくさんあります。
 このひと月ほどの期間の一人一人の「子どもの時間」がどんなふうであればいいのか、ご家庭によって考え方もあることでしょう。
 しかし、計画した生活の時刻はしっかり守ること、子どもだけの時間を保障すること、この二つはどうか少し心に留めておいていただければと思います。実際のところ、それらは以前よりずっと難しくなってきているわけで、安全面一つとっても大人の側の工夫や配慮が欠かせなくなってきています。
 それでも「駄目なことは駄目ときっぱり言う」「任せられることは思い切って任せる」という、ごく普通のことを徹底することが、子どもたちが夏休みを充実した時間にするための大きな枠であることには違いありません。
 目に見えない時間の中で、静かに力が蓄えられていくはずです。
         ◇

誰が子どもを疲れさせるか

2019年07月29日 | 雑記帳
 過日、地元の学校を訪れた時、教室へ向かおうとした時に廊下で出会った子が「オツカレサマデス」と声をかけてくれた。見知った顔の一年生であり、おそらくは大人の声かけの真似をしたのだと思い、顔がほころんだ。ただ、よく考えるとこの現象?は単純に笑えない、そんな気持ちが残る。ある意味では伝染だ。


 そういえば、今は母親となった我が娘たちが、友達と会ったときに「オツカレー」などと言っていると聞いたのは高校生の頃だったろうか。その時もいやはやと感じた。十数年前だったから、それ以前から蔓延していたのだろう。小中学生も昔から忙しかったはずだが、その質が徐々に変化していったようにも思える。

 
 最近、今年小学校へ入学させたばかりの方から、夏休みのことを尋ねられた。長期休みに入って何もしていないように見える子が不安だという。忙しく働く親世代が共通して抱く思いなのかもしれない。これは一種の同化なのだろうか。活発にあれこれ働きかけ、何か生産的なことをしていなければ無駄と感じてしまう。


 そんなふうに子どもを追い詰めていくのは、大人だ。大人自身が疲れているから、その原因を振り返ってみればいいことなのに、あたかもその気分を子どもにも要求しているようだ。単純に過干渉と言っていいのかもしれない。放任を社会が許さなくなって、調節加減に困難を生ずるから、縛りや強制が多くなる。


 小椋佳の名曲で布施明が唄った『シクラメンのかほり』に、♪疲れを知らない子どものように…♪という一節がある。これは子ども全体への形容だったと思うが、今だとほんの一部の子どもにしか該当しなくなったか。子どもの時間感覚は大人のそれより、ずっと長い。「オツカレ」の子ども時代が長いのは、苦しい。

違う味わいを楽しむ

2019年07月28日 | 雑記帳
 勤めている図書館の事業の一つに「子ども司書養成講座」というものがあり、全6コマのうちに半分ほどを担当することになった。参加者は十数名程度であるし、昔とったナントカで活動すること自体は楽しみだった。オリエンテーションでの自己紹介も、実際に館内から図書を選ばせ、紹介に入れ込む形で行った。


 日程2日目の午後は「本を使ったアクティビティ」と称して、もはや懐かしい「読書へのアニマシオン」を取り上げることにした。しかし数多く揃えていた参考書籍は3年前に全部譲ってしまっていた。ただ、導入として「ダウトをさがせ!」は必須だし、話を並べ替える「前か後か」も取り組みやすいと考えていた。


 残しておいた石川晋さんの本に、わずかに関連ページがあり、「前か後か」を五味太郎の絵本2冊を使うこととした。「さる・るるる」のシリーズである。2冊の混合に気づくかどうかもポイントで、参加した子供たちはそれなりに関わりを持ちながら、ワイワイと順番に並べることが出来た。楽しいひと時になった。


 もう一つと考え、図書館内にたった一冊あった関係書籍(有元秀文氏の著書)から「俳句」を選んでみた。ここで扱っているのは種田山頭火である。かつて結構な頻度で、俳句の一部を隠して当てさせることをしてきたが、山頭火はやってないなあ。後半部を自由に想像させる展開だが、自由律・無季は意外にやりやすい。


 そうして、出てきた傑作?以下の通り。(原句)とは違う味わいが楽しい。

 ここまで来てこの木にはばまれる 
 (ここまで来てこの木にもたれる)

 草の青さよはだしで横切る
 (草の青さよはだしでもどる)

 分け入っても分け入っても出た先じごく
 (分け入っても分け入っても青い山)

 砂がほこほこ旅はとぼとぼ
 (砂はほこほこ旅はさみしい)

非正規生物としての生き方

2019年07月27日 | 読書
 もう少し『生物学的文明論』(本川達雄 新潮新書)の感想を続ける。


 恒温動物と変温動物との使うエネルギーの差についても考えさせられた。人間が、自分の身体をそして生活を維持するためにいかにエネルギーを使わなくてはいけないか。単純には「便利さ」のためと言い換えられるのだが、結局はサイズがだんだん大きくなり、その便利さの維持のために忙しく働きまわっている


 第八章「生物の時間と絶対時間」以降は、本当に読み応えがあった。名著『ゾウの時間 ネズミの時間』にもあるように、動物が一生に打つ心臓の拍数15億回。エネルギーの量は30億ジュール。それを使う物理的な時間が寿命とされる。ゾウは約70年、ネズミは3年程度だ。そしてヒトの場合は約41年である。


 老いの兆候が出始めるのは平均40歳程度と考えると頷けないこともない。平均寿命が延びているのは、人類史的にはごく最近(ここ数十年)なのだから、著者が言う「還暦を過ぎた人間は、技術の作りだした『人工生命体』なんです」には説得力を感じる。生物としての正規の部分は過ぎているという自覚が必要だ。


 生物としての正規の部分とは、つまり「生殖行為」のこと。職場で口にしたらセクハラと指摘されるだろうが、著者はあっけらかんと「生物は、子供を産んでなんぼ、というものです」という。そして「私」とはこの体だけでなく、「子供という私を作り、次に孫という私を作り…」と個体を超えた広がりを強調する。


 寿命が伸びた人間の身の処し方について、著者の結論はひどく真っ当なことだ。「広い意味での生殖活動」として「次世代のために働くこと」に老後の意味をみつけたいと語る。生物としてエネルギーの使い方を間違えず、便利さに支配された価値観からほんの少しずつでも脱け出す…そんな生き方を示すことに尽きる。

四角にできない人間の独白

2019年07月26日 | 教育ノート
『生物学的文明論』(本川達雄 新潮新書)を読んだ後にふと思い出したこと。

 著者が記した「巷に四角がのさばり過ぎている気がします」とまったく同じ感覚を抱いたことがあったと思い出した。
 あれは十数年前、ある実践家の研究授業を参観にいったとき、歯痛に悩まされた夜、そして親しい方の突然の訃報に驚いた朝。こんなやるせない文章を残していたことだ。


 「箱だらけの人生」・・ 06/06/2005・・

 久しぶりに出向いた東京で、泊ったホテルの3階レストランはJR板橋駅のホームに面していた。

 ホームへ数分おきにすべりこむ電車、その中にすきまなく詰め込まれている人間一人ひとりの視線は、それぞれがばらばらの向きをしていて…

 繰り返されるこの風景を眺めていると、暮らしって箱だらけだよなあと思う。

 立ち並ぶ高層マンションやアパート群、その箱へ帰っていく人もいるし、そこで目覚め、そこで食べ、そこで眠る。

 小さな箱へ向かってしゃべり続ける人、箱に映る画面に一心不乱の人、箱を介して誰かとつながっているような気持ちになる。


 どうしてまあこんなに四角張ったものが好きなんだろうと、つい思ってしまう。
 身体も、心もきっちり四角にできない人間が、作り出した最高の形なんだろうか。


 翌朝、そんな都会の駅で知人の訃報が、小さな箱の中から聞こえてきた。

 ぼんやりと箱に乗って、箱の並ぶ風景を見ていたら、そうか、あの無頼な人も最後は箱か、と泣きたい気持ちになってきた。

・・・・・

生き物としてこの世を見る

2019年07月25日 | 読書
 著者には有名な『ゾウの時間 ネズミの時間』という新書があり読んだ記憶がある。感想を残しているはずとブログ内検索をかけたら、なんと2011年3月11日の記事だった。たぶん、前日の人間ドックの折に読了したことを、その日の朝書いたのだと思う。そうだったか。この新書の脱稿もその時期だったようだ。


2019読了74
『生物学的文明論』(本川達雄 新潮新書)



 「数学的・物理学的発想が、この便利で豊かな社会をつくり、同時に環境問題などの大問題を生み出している」というスタンスを持つ著者が「生物学的発想をすれば、解決の糸口がつかめるのではないか」と、自らの研究を基に現代文明や人間の生き方に迫っている。文句なしの良書。凝り固まった頭が揺さぶられる。


 サンゴ礁を皮切りに生物多様性と生態系、生物と水との関係が語られる。サンゴが動物であることさえ認識していない自分には、少し難解な部分もあった。ただ改めて納得したのは、生態系は単なる算数とは違うという事実。科学は「世界を単純化して眺める」が、生き物はそうではない。そこに困難が生じているのだ。


 深く頷けるのは「生物は円柱形」であるという論。そして「生きているとは水っぽい」こと。つまり円柱形に水が詰まっているイメージ、人間とて当然当てはまるだろう。そして人工物は四角いし、硬い。「人工物と生物の設計思想の違い」がこれだけ明らかでありながら、「環境にやさしい」という美辞は繰り返される。


 形のことを考えて思い出したことが二つあった。一つは、今の家を築てるときエントランスを円形状にしたいと希望を伝え設計したことだ。建築家も賛成してくれて今の姿になったが、この様相を見たある方から「何か宗教でも」と言われたこと。もちろん大昔からある形状だが、一般的とはいえないのだと悟った。
(つづく)

山頭火が見えてさみしい

2019年07月24日 | 読書
 先週の俳句学習とはまったく関わりないのだが、今週は訳あって種田山頭火の本を見ている。そういえば自分には、何年かごとに尾崎放哉やら山頭火などを読む時がくるようだ。香川県小豆島にある、放哉の晩年過ごした家を訪ねたのは夏休みだったなあ、何年前だったかなあとぼんやり思い出している。探したら…。


 それはともかく山頭火。別に詳しいわけではない。知っているのは「分け入っても~」と、「うしろすがたの~」「どうしやうもない~」程度だ。こうした自由律の句は訳がわからん、なんのこっちゃと捨ててしまえばそれまでだが、少し真面目に向き合えば、想像を働かす楽しさは、また定型句と一味違って楽しい


 投げ出した足へとんぼとまろうとする

 いかにも山頭火らしい。自分がだらしなくだらりと投げ出した足にも、ひと時の慰安を求めてトンボが停まろうとしている。役立ち感と程遠い行為、そういう生き方であっても、何かの支えになることもある、ヨカッタネいやドウシヨウモネエナアというところだろうか。毛むくじゃらの汚れた足が見えてくる。


 まっすぐな道でさみしい

 「まっすぐ」を「さみしい」ととらえる感性とは何か。一つの見方を示せば、見通せるゆえのさみしさはわかる気がする。安心感はあるにしても次に目にする景色への期待が微塵もなければ、やはり人はさみしい。だが「わかれてきた道がまっすぐ」という句もあると知る。これは「もう分かれられない」さみしさか。


 ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

 不眠症に患う自分には、ふくろうに耳を傾ける余裕がうらやましい。ふくろうという動物が本当に眠い生き物かよくわからないので、詠んだ気持ちの芯は共感か、はたまた孤独感か。「ねむる」行為の価値づけも少し気になる。「わたし」は果たして眠ろうとしているのか…。ふくろうのように目を丸くする顔が見える。

夏休みを楽しんでほしい人

2019年07月23日 | 雑記帳
 小学生から数えると、勤め上げるまで54年間を「学校」で過ごしたことになる。ということは54回夏休みがあったことになる。まあ大学は数えられないだろうからちょうど50回か。子どもの立場と教員の立場では当然違うはずにしても、心から「ああ、夏休みが始まる。嬉しい」と思ったのは何度あったろうか。


 たぶん小学生の頃は無邪気にそう思えたはずだ。いくら宿題があったとしても、そんなのは屁の河童(笑)。毎日のラジオ体操とプールやもろもろが楽しかった印象は残っている。昭和の子どもにとっての夏休みは、もはや物語のような懐メロソングのような世界の中のなかで、脈々と今も息づいている。完全無欠の夏だ。


 中高校生になると若干趣は異なる。もちろん部活動や補習等があったにしても、解放感は強かったと記憶している。ただ間抜けな思い出を書けば、高2の夏、部活動の朝練習の帰りにバイク事故を起こし入院し、修学旅行も行けなかったことを考えると、浮かれてその結果アンダーな文化に染まった契機はそこにある。


 教職についた昭和後期はまだ教員に「自宅研修」が認められていた。けれど実際に「研修」という印鑑を出勤簿に押した経験が何回あるかと言えば、数えるくらいだ。20代教師の少ない時代、いつぞやの夏季休業では4回キャンプに引率をした記憶がある。休みの解放感を覚えつつ、忙しさを喜ぶ体力もあったのだ。


 平成に入り休み中の勤務もだいぶ変わった。しかし子どもと離れる期間が醸しだす心の余裕は必須だ。担任で目いっぱいな時期はなおさら。辛い年度(笑)の一息感は格別だ。「働き方改革」にはトータルに業務を捉えていない不備が目立つが、やはり長期休みは職員に貴重であり、配慮はしかるべきである。楽しんでほしい。

玉治郎の居ない場所だが

2019年07月22日 | 雑記帳
 横綱同士の力のこもった千秋楽で幕を閉じた名古屋場所。休場で大関陥落の貴景勝、先場所優勝の朝乃山は今一つと残念ではあったが、それ以外の新風が巻き起こった場所とも言える。ただ大好きな行司(笑)木村玉治郎が病休で、一抹の寂しさを覚えた土俵だった。


 大関4力士の休場の場所ということは珍しいはずだが、これだけ頻繁に上位陣が休場を重ねているので、なんだか慣れっこになり重大事に感じられない。この傾向は明らかにマズイので、何故こんな状態が続くのか、もう少し抜本的な取り組みを求めたい。


 それはきっと時間のかかる、大相撲そのものあり方に迫る問題かもしれない。ここ数年いわゆる小兵力士の活躍が目立つことを重ねれば、体重を支える骨格や筋肉量等データを駆使したトレーニング重視が普及すべきだ。自ずと身体づくり、怪我防止につながる。


 石浦や宇良が登場したとき以上に、刺激を与え続けている炎鵬。個人的に新十両時のインタビューで、解説の舞の海が「土俵は丸い」と語ったことに「ほお」と上げた声が印象深い。縦横無尽に動き回り巨漢力士を倒す姿に日本人が喝采をしないわけがない。


 そんなふうに思うと、相撲とはやはり興行という要素が強くて、たとえば歌舞伎のような型こそ大事だ。だから仕切りや四股などに個性が出ていいし、照強の大量の塩まきなども観客の目には嬉しい。贔屓の遠藤も地味ではあったが、見応え十分で満足した。