すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

お正月のご褒美

2025年01月31日 | 絵本
 火曜日に地元のこども園へ行き、今月の読み聞かせは終了。事情があって小学校に行けなかったので、計4回だけとなった。まだ一月中であり同じプログラムでもいいかと思ったが、正月ネタを半分やめて変更した。図書館に行き、面白い一冊を見つけ試してみたかった。題名がいい!!『うちゅういちの たかいたかい』



 専門サイトに【書店員が選ぶ絵本新人賞2023特別賞】と挙げられていて、開いてみたら頷けた。「たかいたかい」がどこまでもエスカレートする、いわばナンセンスジャンルだが、その意外性は「夢」だ。もちろん「たかいたかい」が嫌いな子はおらず、目を丸くして聴いてくれた。帰って親にネダル子はきっといただろう。


 もう一つ大型絵本をと思い、個人的に好きな『うがいライオン』を読んだ。今さらながら、この文章には読点がなく、そして文末表現は最後にしか出てこないことを確かめる。つまり、初め観客に愛されたい?と思ったライオンの心の揺れを途切れなく表現していくことだ。ポイントは「ガオーッ」の箇所だけれどね。




 『ながいながいへびのはなし』と『ウィルとふゆのおきゃくさん』は、前回と同じように語った。これらも変化あり、意外性ありで子どもたちを飽きさせない。「あまり面白くて、涙がでちゃったよ」と嬉しい一言をかけてくれる男児もいた。こんなご褒美をいただき爺は超満足な気分で来月の準備に取り掛かっている。

生き様を多くの人に見せつけて

2025年01月29日 | 雑記帳
 森永卓郎氏が亡くなった。素人にもわかりやすい経済情報や独特の信念を伝え続けてくれた人だ。結構多く読んでいると思ったが、実際は単著ではなく雑誌記事などが多かったようだ。ブログ検索してみたら、20年前『児童心理』という教育雑誌に載った文章に触発されていたことが記されていた。本質は変わらない。

 教育者が一番やらなくてはいけないこと(2005.6.22)

 最後に、その考えに触れたのも雑誌だった。昨年12月のPRESIDENT誌の冒頭で医師との対談が掲載されている。末期がん患者であることはずいぶん前から公表していたが、改めて強固な考え方に感服した。殺到した仕事に応えて猛烈に原稿を書き、30日間徹夜を続けた精神力は、正直ちょっと想像がつかない。





 記事には「森永卓郎の『後悔しない生き方』」として次の三カ条が載っている。「①『たまたま』を受け入れる」「②限られた時間を全力で過ごす」「③やりたいことをやる」…実にシンプル。考えれば、死者は後悔できない訳だから、後悔する暇なく突き進めということだ。具体的には「切り替え」こそがキーワードだ。


 対談の最後に森永氏はこう語る。「私とその人たちとの違いは、残された人生のスパン(期間)です」。その人たちとは同齢程度の病気を患っていない者を指す。私も該当するだろう。しかし確たる人生のスパンなど誰にもわからない。物理的な違いなどどれほどのものか。生き様を多くの人に見せつけて氏は旅立った。

読書録3~その目線が決める

2025年01月27日 | 読書
 TVニュースで耳にした政治家の発言の違和感がどうしても拭えない。高校の授業料無償化がなった場合に「塾代に充てるなど高額の所得者に対して有利に働くのではないか」という箇所だ。教育の機会均等という点を念頭に置いているのかもしれない。しかしどのレベルの機会均等が肝心なのか。やはり目線は上だ。


 「塾に行くことは有利」…常識には違いないが「有利」の中味はやはり価値観・人生観を反映しているし、それは喧伝されている「多様化」と擦り合わせできていることか。「年収●●●円の壁」問題にしても、どうにも政策提案が小手先じみている。もはや小国の悲哀か。とそんなことを前置きに読書メモを書く。



 『コーヒーカップの耳』(今村欣史 朝日新聞出版)。「阪神沿線 喫茶店『輪』人情話」という副題の通りに、詩人である著者が夫婦で営む喫茶店で見聞きした話を、語った人の口調そのままに構成している。戦前から平成までの実に様々な物語…それらはいずれも、地べたからの目線で「己と人の世」を描いていた




 自分と同齢の「行動人」の著書を手にして、もう半世紀近く経っている。しばらくご無沙汰していたが、知人の感想を見て注文したのが『学校がウソくさい』(藤原和博 朝日新書)。義務教育初の民間人校長となった頃に読んだ内容と、本質的に変わっていない。正直、何年同じことを言っているのか、という印象だ。
 
https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/e02b971ae94f55c5a05b9d74136edf87

https://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/0f6efef8af7b72561622b7520f86bd80

 しかしそれは、いかに学校が変わってないかということの証左でもある。もちろんここ20年、半分は現場にいて、変化した事象は数えきれないほどあった。ただ抜本的・構造的な改革が為されたかといえば、それはNOだ。逆説的であるが「教師自身の学び」を尊重しない学校、社会の目線が規制する壁は強固だ。

大寒の頃、時間を想う

2025年01月21日 | 雑記帳
 降雪は少なかったが、大寒の朝はずいぶんと冷えた。買い物に出かけようと車庫で車のエンジンをかけようとしたら、なんとバッテリーがあがっている。何年ぶりだろうか。まだ4年も経たない愛車だが、確かに昨年点検時ディーラーから劣化は指摘されていたのだ。乗車頻度もあるだろうし、少し甘くみていた。


 人間の心身も同様、動かしていなければ錆びつく。さて、学校での読み聞かせを始めて6年ほど経つが、自己都合で出向けなかった時は一度もなかった。昨日は複数の事情が重なり、断りの連絡をした。たった一度の機会に過ぎないが、ふと声を子どもたちに届けただろう時間は戻すことはできないのだと改めて気づく。



 自分にとって「親」と呼べる最後の人であった、妻の母が一昨日逝去した。若い頃から苦労を重ねた人生だ。しかしそれは、一家を守り歩み続けて、成し遂げたことの多き一生と呼んでいい。個人の時間はそこで終わったが、それは残された者たちへ様々な足跡をくっきり残し、実る樹を与えてくれた。感謝している。


 何十年ぶりかに岩波書店のハードカバーを読み出す。『日本文化における時間と空間』(加藤周一)。理解が追いつかないが、ゆっくりとページを開く。第一章では、日本文化における三つの異なる時間が示され、それらが共存していると下記のように結ばれる。今、一つの時間の終末を目にしながら、時は流れている。

 (略)始めなく終りない直線=歴史的時間、始めなく終りない円周上の循環=日常的時間、始めがあり終りがある人生の普遍的時間。そしてその三つの時間のどれもが、「今」に生きることの強調へ向うのである。

子どもの悪さに意味がある

2025年01月16日 | 雑記帳
 久しぶりにバスに乗り、傍にいた小学生の他愛のないおしゃべりに耳を傾けると、子どもというのは本質的に昔も今も変わっていないのでは…という気がした。「しりしりをしよっ」と二人の男の子が始めたのは、無限?しりとりだった。「リンゴ⇒ゴリラ⇒ラッパ」と定番があって次が「パセリ」。それが「リンゴ」と続く…


 これを何度も繰り返し、通常ルールに逆らいながらリズムよく言い合う面白さを楽しんでいるのだと思う。また2時間近い乗車は、窓から見える景色や通過する道筋に変化を求めないと、どうにも退屈だ。そこで多くの子が目をつけるのはトンネル。それはどの時代でも同じかもしれない。ある男の子はこう言った。


トンネルに入ったら出るまで、息を止めるんだよ」。隣や後ろの子と一緒に「せいーの」…「ふうっ」とやっている。国道107号には短いトンネルが続く区間があり、最後にやや長いものもあり、変化が楽しめる。さしずめ「闇が来たら息をひそめろ」という訓練のようだ。大袈裟に言えば、それは人間の本能だ。



 以前だったら騒々しくなれば、引率者は注意しただろうが、今はそこまでボリュームは上がらない。これも世相というものか。昔、子どもの頃はよく「ワシラするなよ」と言われたことを、先日のあるイベントで思い出した。ワシラは沢山経験した方がいい。成長して待ち受けているのは「ホントッコ」の世界だから…。


読書録2~こころが着る服

2025年01月13日 | 読書


 今シーズン一番の降雪だった10日金曜日、山間部にあるこども園へ。峠道は朝に除雪していても10時半頃にはまた結構な量が積もっていた。車体はフラれるし、道幅が狭く、白さが強くて視界が悪い。こうした道路は慣れているはずだが、やはり不安が出てくるお年頃か…だから、この本を読む視点は複雑だった。


 『うちの父が運転をやめません』(垣谷美雨 角川文庫)。知り合いが寄稿していた読書記録にあり、興味が惹かれた。地方在住者にとって重要度が高いテーマだ。物語は50代の息子と80代に手が届く父親が対象であるが、免許返納に関わって描かれた事象や個々の思いは、この国の政治、社会課題と直結している。


 解説を書いた国際政治学者の言葉が鋭い。「決断せよ、50代。」内容はさておき、焦点が当てられた年代からズレてしまった自分が少し哀しい。とはいえ、何もできないわけではない。得た何かをいくらかは社会還元できるように暮らしたい。読書もその糧になると教えてくれるのは、『自分の時間へ』(長田弘 ちくま文庫)


 昨年秋に文庫されたエッセイ集。様々な今まで考えてみなかった事柄について、いつものように多くの教示を得る。前後は略するが、例えば「天職としての仕事という考え方」例えば「得たものはつねに、失ったものに比例している」…自分の来し方を思い、生き様を思い、何を今どう大切にすればいいかということ。


 「人が服を着るように、こころも服を着る。本はこころが着る服だ」という一節は深く染み入った。読むだけならいざ知らず、自分で本を書こうと思い立ち、形を成した者にとっては、どこか恥しいような気持になる。だからといって俯いてばかりでは気も晴れない。「読書という習慣」の力でこころを温かくしていこう。

年の「頭」の読み聞かせは…

2025年01月10日 | 絵本
 急な予定が入り、8日スタートとなったこども園読み聞かせ。今日まで3日間連続通うことになった。新年ということを意識したラインナップ。最初は「餅」をテーマにしたこの一冊。『おもちのきもち』(かがくいひろし 講談社)。とても好きな作家だが年長児向けはあまり数はない。今回は季節モノなので導入に最適だ。



 「お正月にお餅を食べた人はいるかな」と訊いても、全員の手は挙がらない。地域差がある印象だ。もっとも自分も今年はまだ…。少し餅つきのことに触れてから読み聞かせた。次は「今年はナニ年か、わかる?」と干支を出して、へびの話を2冊続ける。最初は「へびのくび」(織田道代・きくちちき フレーベル館)



 生物学的には蛇の首があるとは思えないが、「スカーフをまいて似合うところ」というオチはなかなか素敵である。短いがウイットに富んでいた。次は「ながいながいへびのはなし」(風木一人・高畠純 小峰書店)。これは、見開きを上下2段にして、一匹のヘビを上に「あたま」下に「しっぽ」を描く独特の画面構成だ。


 あまりに長いために何から何まで違う暮らしぶりの「あたま」と「しっぽ」。久しく合わずにいて急にどうしているか心配になり…という展開が、妙にファンタジーである。要するに二つの人格?が存在する形なわけだが、子どもたちも自然と話に入っていく。さて、やはり肝心なのは「頭」と「尾」だ。今、まさに年の頭。


 最後は「ウィルとふゆのおきゃくさん」(光村教育図書)。森の一軒家に住むウィルのところへ、次々と動物が訪ねてきて一緒にベッドに入る話だ。いわば有名な「てぶくろ」の変形バージョン。最後の大きな熊の登場がクライマックス。みんな共生できればいいのだけれど、現実は甘くない。だからこその絵本読みでもある。



読書録1 ~座布団20枚

2025年01月09日 | 読書


 元旦の読み始めは例年と違った。『残酷人生論』のことは一区切りついたように思ったのか、昨年末に買い貯めた中から『未来のだるまちゃんへ』(かこさとし 文春文庫)をまず選んでみた。2018年に92歳で没した偉大なる絵本作家、児童文学者のいわば自伝とも呼んでいい一冊だ。「迷い道人生」に学ぶべきことは多い。


 大正生まれの生き様を見る時、なんいっても「肚のすわり方」に圧倒される。学ぼうと思って学べるものではない。戦争体験がそれを支えていることには間違いなく、修羅場のくぐり方が決定づけるのかもしれない。「だるまちゃん」シリーズはその結晶であろう。重みを感じつつ、想像力を発揮して軽やかに読みたい。


 併行して読んでいたのが『噺は生きている 「古典落語」進化論』(広瀬和生 ちくま文庫)。落語評論家の著者が、有名な5つの噺をその成り立ち、落語家ごとの特徴などかなり綿密に分析している。初級ファンであるが、いずれの噺も何度か聴いた。しかし、ここで噺家という仕事に関して認識を新たにしたことがある。


 演者による噺の違いは、今まで「脚本」「演出」だと解釈していた。それは間違いではないが、それ以前に「解釈」「判断」があり、そして演出する「自己の表現技能」を生かすトータル性によって成り立つ。さらに時代性があり、やはり初級者としては「現代性」に惹きつけられる。それを、簡単に「好み」と言うが…。


 ちくま文庫にこんな本が…『しかもフタが無い』(ヨシタケシンスケ)。これは著者が絵本作家になる10年前に刊行された、なんと「アイデアスケッチ」集である。今につながる妄想の数々が並んでいる。なんとなく分析的に見てしまう自分には及びつかない真実への希求。文句なく、座布団20枚あげたい一節があった。


 「神サマに言われたくない言葉」
  ・・・何度もチャンスをあげたでしょう?


タクミとシクミを引き寄せる

2025年01月04日 | 雑記帳
 元日に放送された政治経済の番組を観ていて印象深い一言があった。「タクミからシクミへ」…日本の会社の経営者となった外国人が「成長」に関わって述べたフレーズである。なるほどと思いつつあれっという気がした。一人や少数に頼らず組織全体を機能させ…個別対応ではなくシステムを作って…昔からそんなことを自分は…


 子どもたちを教える時、構成や法則を重視しながら自らの技術が「科学」的に通用する姿を求めたし、に憧れも抱いた。しかし、それが大きな問題を孕むと気づいたのはいつ頃だろうか。もちろん「仕組み」は重要なことだし、組織を整えていく役職を長く務めたし努めもした。ただ、ともすればその過程で見失うことは多い





 仕組みを整えることに目がいくと、力を注ぐ方向が肝心な点からずれていく。細かい仕組みを作れば作るほど、人はそこに縛られていく。「巧み」と括れはしないが、個の願いに沿った対応や工夫などを表出することで、場が生き生きとするのではないか。…だから、そういう仕組みづくりを!!と考えても、実現は意外と困難だ。


 粗く「個と全体」を想えば、どうしても矛盾が生ずるだろう。現実に個の尊重、多様性が今を表わすキーワードでも、時代の潮流はその裏で固定的な仕組みの世の中に向かっていると言ってもよくないか。…ずいぶん大きな話になってしまったなあ。自分のような齢、境遇の者が今後どう暮らすかに引き寄せたかったのに…。



 タクミ(そう呼べる力も技もないが)に生きるか、シクミ(取り巻く環境や状況の力)に委ねるか。かっこよくタクミだ!!と言いたい。世の中のきまりには従うが、目の前の人、物事に対するとき、交わしたいのは相互のタクミなのだ。シクミに縛られるのではなく、利用して上手に使うという心構えを持たねばならない。

元日の弁、「何」をつくる

2025年01月01日 | 雑記帳
 録画していた年末番組を観ていたら、秋田に県外から移住してきた方が「秋田は何もない、と言わないこと。言霊になる」と真っ当なことを語っていた。それは本県だけでなく過疎の地方であれば言いがちなことだ。つい口にしがちなその文章は、「何」とは何かと問われた時に、価値観があぶり出されることになる。


 「何もないけど、何でもある」という逆手をとる言い方もよくされるが、通ずるものがある。しかしどんな国の奥地の映像を見てもスマホを使う人の姿が映し出される世界を、どう把握すればいいのか。AIが解決してくれる問題の範囲は拡大していくかもしれないが、結局行くのも引くのも、一人一人に委ねられる。





 教職最後の年、次年度から統合する学校の教育目標の案を作成してきた。「つくる」というシンプルな語に込めた意味はいくつかあった。しかし芯の部分には「つくりだす人になってほしい」という願いを置いた。第一次産業から始まる人間の営みは、第何次になろうがそこに集約される。自分は「何」をつくるのか


 アウトドアと縁遠い生活者が口幅ったい物言いをするが、自然とどれだけ接点を持てるかは、かなり本質的なことだと思う。農作業や除雪も含めて、努めて肌に刻むことは必ず何かをつくり出す。そして「子どもは自然」という論を頼れば、絵本読みを続ける自分も「つくる」一員だと考えられる。今年も頑張ろう。