すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

読書の晩秋、しぶとく残る

2024年11月22日 | 読書
 読み聞かせのための絵本を立て続けに購入し、プチマイブームになっている著者のRe82『夕暮れのマグノリア』(安東みきえ 講談社)を読んだ。女子中学生を主人公とした連作短編的な小説。「マグノリアって…」と表紙を見れば想像がつくようなことも見逃してしまう読者なので、平易なYAはちょうどいいのかもしれない。


 「世界は見えているものだけでできているんじゃない」というテーマ?に沿って物語は進む。今どきの現実にファンタジーを織り込みつつ、結構味わいのある展開だ。最終編の「夕暮れ時・たそがれ」について語りながら「異界」に触れる場面はドラマチックに感じ、想像する力を高める。平易といって侮れない。





 以前から気になっていた新書Re83『「利他」とは何か』(伊藤亜紗・編 集英社新書)を読了。編者を含めた5名がそれぞれ一章ずつ担当し、専門的な分野からアプローチしている。國分功一郎「中動態から考える利他」と磯崎憲一郎「作家、作品に先行する、小説の歴史」は難解だったが、最後にぼんやり輪郭が見えた。


 それは第一章で伊藤が記した「うつわ的利他」のイメージにつながる。「利己」と対照的に考えざるを得ない利他行動の本質を探るための手がかりになった。そこに連なる「利他は私たちのなかにない」「利他は行うのではなく、生まれる」という理解、感覚を頭の隅に置けば、自らの一挙一動の意味も明かされるだろう。

訃報は初雪の日に

2024年11月19日 | 雑記帳
 兵庫県知事再選から何を学べるだろう。情報社会の困難さと一言で片づけられるのか。マスメディア、SNSいずれにしても何かしら加工された情報であり発信者の主観を伴う判断、見解が述べられる。万人共通の「正しさ」など幻想と分かっているならば、極力、第一次情報以外の事に関心を持たなければいいのか。


 そんな暮らしに憧れはあっても、地縛と自縛の世界で生きている者としては、半径5メートルの幸せに貢献するためにも、まず思慮深くありたい。明快さはほしいが単純化しないように…喜びも哀しみも。今朝は芸能人同士の結婚が話題となったが、共に評価している俳優であり、持ち味がいい方向へ行くことを願う。





 同時にもたらされた詩人の訃報。その存在は大きかった。詩を読み始めた頃『二十億光年の孤独』を目にしているのは確かだし、詩集に限らず、対談集やエッセイ…今、身の周りその名前はいくつ散らばっていることか。つい昨日も『ココロのヒカリ』(文研出版)という絵本を手にし、近々読もうと決めたばかりだ。


 実は今回の蔵書整理で、『わらべうた』(集英社)シリーズ等を処分しようと箱詰めをしたばかりだが、もう一度取り出して改めて読むことにした。かつてLP盤で持っていた小室等『いま生きているということ』のCDまで注文した。合掌の意味を込め、かの詩人にもう一度真摯に触れる。冒頭の話題に返って一節を…。

 うその中にうそを探すな
 ほんとの中にうそを探せ
 ほんとの中にほんとを探すな
 うその中にほんとを探せ

   谷川俊太郎「うそとほんと」より 


読書の晩秋、信じること

2024年11月18日 | 読書
 Re80『絵本のまにまに』(長野ヒデ子 石風社)。去年の三月発刊のエッセイ集。ちょっと前に買って読みきれていなかったが、今回通読した。一昨年にお招きした頃に、最終校正をしていたのだろうか。親しく話した夕食の席を思い出しながら読んだ。八十路の方には失礼かもしれないが「純真さ」の印象は今も残る。


 一番熱く語られた「紙芝居」のことが、この本でも記されていて興味深い。自分でも演じた『くわず女房』の絵の描き方の部分では、プロ作家としての技術や思いを教えられる。簡単に読める、抜くのではなく、そこに深みを求めたいと思わされる。「演じ手にも心地いい声」…そのためには間違いなく「心」が問題だ。




 東京駅で財布を落とし、保管センターに取りに行った経験がある。大都会でよく見つかったものだと国民性に感謝した良き思い出だ。Re81『ゆめみの駅 遺失物係』(安東みきえ ポプラ文庫)は女子中学生が主人公で(文庫自体も読者層は中高生あたりだろうか)遺失物係を訪ねる話だが、落としたのは実は物ではなく…


 係に保管されているのは「拾得物語台帳」であり、係の人が見えない事務室から「おはなし」を捜してくれる。そして、これではないかと読んでくれる。月曜から日曜までの七日間、短い七つの話が語られる入れ子構造となっている。それぞれにファンタジー性があったり、寓話的であったり、読みごたえがあった。


 「あとがき」に記された作者の思いは、様々なモノ、コト、ヒトを失くしていく大人にも響く言葉となっている。そして、また誰かにも伝えたい。例えば…

 「失くした分だけ、生み出していけばいい。そう信じること。」

握りしめる刀を想う映画

2024年11月16日 | 雑記帳
 映画館へ行くのは、夏前に『碁盤斬り』を観に行って以来だ。その程度の頻度だから、今回は迷ってしまった。結構な話題作が並んでいる。「踊る~~」の室井慎次はTVの予告編で観た気になった(笑)。『八犬伝』は面白そうだし、『碁盤~』の白石和彌監督が撮った『十一人の賊軍』も惹かれるなあ…と思いつつ…


 選んだのは『侍タイムスリッパー』。自主映画のロケ隊が東映京都撮影所を使い撮った作品。昨年京都国際映画祭で取り上げられ、都会での単館上映から話題になり全国拡大開催になって…。なんと大曲イオンでやっているではないか。こういう機会を逃すと観られないだろうからと、朝の最初の回に入ることにした。




 確かに有名な俳優はいない。武士がタイムスリップするという設定や構想自体は以前にあったはずだ。しかし、なかなか物語の筋がよく、喜劇的側面を織り込ませながらも、主人公らの精神性が強く伝わってくるようだった。CGを使わなくとも派手なBGMでなくとも、いや使わないからこそ「映画」らしく思えた。


 タイムスリップできるとすれば…と幼い頃からよく夢想していたが、今はおそらく「過去」志向が強いかもしれない。「未来はとても怖くて…」という思考は、私達自身が作り上げてきたものにほかならない。どのような環境に置かれても生き抜くためには、やはり「侍」の精神か。握りしめる刀はあるかと心に問う。


小春日和に小春おばさん

2024年11月13日 | 雑記帳
 まさに小春日和の続くいい週となった。昨日は、午前中にほんの数か所だが冬囲い作業をしてからタイヤ交換を1台分終えた。自力で作業できるうちは、なんとかやりたいと思っている。一つの体力のバロメーターかなとも考える。まあ、何はともあれ天気がよいと、気持ちよくやれるものだ。今日も1台取りかかる。




 さて小春日和からの連想で、ふと井上陽水の歌った「小春おばさん」を思い出す。その曲イメージが温かい日和と通ずるからかと言えば、ずいぶん離れているが…。しかし、♪小春―おばさんー、会いにいくよ♪というサビのメロディは妙に耳の中で騒ぐ。あのアルバム『氷の世界』から半世紀が過ぎているというのに。


 youtubeで改めて聴いてみた。哀調を帯びたメロディ…、歌詞を改めてみてみると、陽水らしい独特の世界観を展開させているようだ。検索をすると、あるサイトにこんな記事が…「陽水作詞作曲の『小春おばさん』って怖いよね~」…ああ、確かに。リリーフランキーとみうらじゅんが言っている意味が頷ける。


 「絵本」で表現すれば、かなり不気味なタッチになるだろう。子どもが貸本屋のおばさんに引き寄せられていくような…。下手なギターをかき鳴らし唄っていた頃は思いもしなかったなあ。50年後の小春日和の日に頭をよぎるなんて。さあ、元気に作業するぞっ…と、近くの電柱の陰から誰かがこちらを窺っている(笑)

闘争心を持って逃走しても…

2024年11月11日 | 雑記帳
 ほぼ一年ぶりに野口芳宏先生にお会いし、お話を拝聴した。今回の内容は道徳。「思うようにならないこの世」と題された授業提案は、世の中に蔓延している、見せかけの優しさと思いやりに満ちたこども中心主義の教育を厳しく警告するものだった。まさしく、毎日営まれている実践、大人の言動が問われている。


 変化の激しい社会にどう対していくか。認識と行動で区分し粗く四つ考える。つまり「変化を良しとし進める」「変化を認めるが、是としない」「変化は認めないが、流れに任せる」「変化を認めず抗う」。多数は、中間項がより細分化され、具体的な姿になって現れるだろう。それを講座のテーマに照らし合わせてみる。


 思い通りにならないことにどう向かうか。それは「トーソー」の判断、かの『スマホ脳』にある「逃走か闘争か」となる。価値観の基底をそこに据えれば、私なら「闘争」を選びたい。しかし、その状況判断や場面打開の力をつけることこそ教育ではないか。結果それが逃走になっても目的地がなくなるわけではない。



 心に据える一つの芯で、世界や国の「騒動」を見据えることはできない。その必要もない。それより目の前の、身の周りの現実への処し方として、「強く、厳しくあれ」は片手から手離されない。そうでなければ、社会全体の緩みが自分を襲うことも防げない。思うようにならないから面白いと吹っ切る強さも欲しい。


 さて今回、久しぶりに山中伸之先生のお話を聴き、もう12年も前にお招きし研究会を開いたことを思い出した。このブログにもある程度のまとめをしている。

2012.8.12

2012.8.20

 もちろんその後も何度となくお会いしたが、今回は自ら会長を務める「実感道徳」の大会であり、メイン講座の「語り」が実に身に沁みた。参加者は多くなかったが、20代から60代までそれぞれの感受力や、瞬発的な話力が印象的な会だった。

絵本で、幸せと自由と

2024年11月07日 | 絵本
 先月末からこども園で読み聞かせていたのは、今の時期に合わせ『りんごがドスーン』。これはやや幼少児向けであろうが、大きなリンゴがドスーンと落ちてきて、みんながそれを食べて幸せになる、そして雨宿りまでするという、単純明快な「幸せ」のストーリーこそ、繰り返し話して聞かせたい本だという気がする。



 何かモノを持ち込んで生かしてみたい思った。今回は、少し大きめのリンゴを用意していく。一個しかないので「食べたあい」という声には応えられないが、「これは触ると幸せになるリンゴだよ」と言って、最後に全員にタッチさせた。家で食べる時でもちょっとだけ思い出してくれれば、こちらとしてはそれが幸せ。


 もう一つの大型絵本は『ゆうたはともだち』。「ゆうたくんちのいばりいぬ」というシリーズの初作品で発刊は1988年だ。これはビックブックにすると、犬の「おこり顔」に迫力がでる。短い言葉で伝えていく形だが、なんといっても視点人物(話者)が犬なので、それがユニークで子どもたちも惹き込まれるようだ。



 年中児学級では、冒頭「オマエって言っちゃあダメなんだよ」と指摘される。もちろん笑顔でスルーし進める。親しみやぶつかり合いのある関係の呼称は自由になる時があるよ。でも、どこかの国の選挙運動のように罵倒しあわなければ決着がつかないのは「自由」というのか。人を傷つける「幸せ」は悲しいだけだ。

読書の晩秋、あちこち

2024年11月06日 | 読書
 10月中に書いていたことをすっかり失念していた。
 まさに、人生の晩秋の面持ち。


 Re77『こんがり、パン』(津村記久子、穂村弘、他 河出文庫)。副題?として「おいしい文藝」と記されているように、パンをモチーフとした短編アンソロジー。重鎮の小説家からエッセイスト、思想家まで40名が並ぶ。「米」でも「酒」でもありそうな企画だ。「食」こそが、人間を描くにふさわしい行為ということか。


 当然ながら個人の食体験に基づいたエッセイが内容だ。しかし、心に残るのは別の観点もある。開高健の文章に久々に触れたがぐんと心に残る。曰く「経験には鮮烈と朦朧がほぼ等質、等量にある」。また米原万理の著した、ソ連がパン(主食)の扱いをきっかけに財政破綻し、崩壊した歴史は根本を突いていると感じた。





 一年前に『ふゆのはなさいた』という絵本を手にしてから、安東みきえマイブームが細く続いている。図書館から借りていたが、自分でも中古本の購入を始めた。絵本以外で2冊を読了する。Re78『まるまれアルマジロ!』(理論社)は5つの短編で、冒頭の一行が全て「卵があった」。なかなかテンポのいい寓話集だ。


 Re79『天のシーソー』(理論社)は2000年発刊で、椋鳩十児童文学賞を受賞している良質な連作小説集だ。心理、情景描写の巧みさが光る。人間や社会の弱い面を突いているが、そこに留まらず希望を見いだせる箇所を描くことで、主対象とする読者層に訴えるだろう。それは、大人にも大事なことだと気づかせる。