すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

選書に未来が透けるか…

2024年12月31日 | 雑記帳
 年頭に書いた漢字一字は「真」だった。これは既に今年図書館の仕事を退くと決めていたことも頭にあったと思う。種田山頭火の言「新は必ずしも真ではあるまい。しかし真には常に新がある」から、心構えとして選んだ。しかし、振り返ると「真」に近づけたか、甚だ心許ない。ただ、「新」らしいことはやり遂げた。


 令和6年を表わす私の一字は「本」と言っていい。それは絵本の読み聞かせを継続していること以上に、自費出版として拙著を2冊も仕上げたからだ。今まで書き残してあった文章を読み返しながらの編集作業は楽しく、さらに差し上げた方々に会まで催してもらい、はずみで(笑)次の一冊にも取り組むことが出来た。


 何を今さらアナログな書籍を…という気もありつつ、やはり手にした時に、重みの感触が嬉しい。過分な評価や励ましも頂いた。このブログを含めて「書くこと」は当分継続していくだろう。全面的な新しさとは言えないが『羽後噺』というサイトも立ち上げ、少しずつ書き溜めている点も小さく自賛したいことだ。


 身体は間違いなく衰えるが、池田晶子が力強く語るところの「齢を重ねるごとに強くなる」感覚もあると信じたい。そのために刺激を求めることも大切。私の場合、その一つは読書に違いない。今年の最後はRe103『tupera tuperaのアイデアポケット』(ミシマ社)。「マイナスをプラスに」という提言は、身に沁みた。




 20世紀末から年間100冊以上読破を目指し、記録もしてきた。正直お座なりの感想が多くなってきた反省も強く、来年は量にこだわらずじっくり向き合いたい。と言いつつ、正月に読もうとまた7冊もネット注文してしまう。未読本と共に、この衝動性を最後に書き留めよう。選書は未来が透けて見えるかもしれない。


半月以上前に届いて、まだ開いていない本

 『日本文化における時間と空間』(加藤周一 岩波書店)

 
三日前、馴染み(笑)のネット書店に注文し、一昨日夜に届いた本。

 『うちの父が運転をやめません』(垣谷美雨 角川文庫)
 『旅人の表現術』(角幡唯介 集英社)
 『未来のだるまちゃんへ』(加古里子 文春文庫)
 『噺は生きている』(広瀬和生  ちくま文庫)
 『沈黙する知性』(内田樹・平川克美 夜間飛行)
 『学校がウソくさい』 (藤原和博 朝日新書)
 『自分の時間へ』(長田 弘  ちくま文庫)


あっ、一昨日もう一冊追加して、これから届く予定は…

 『しかもフタが無い』(ヨシタケシンスケ ちくま文庫)


 相変わらず、「広告の裏レベル」で書き散らしている当ブログへ訪問いただき、本当にありがとうございました。
 毎日休まずアップしていた頃と比べても、気まぐれ感が出てきている現在の方が、訪問者数がかなり増え少しびっくりです。
 いずれ、ペースを考えつつ、また駄弁を重ねていくつもりです。
 よろしかったらお付き合いください。

 どうぞよいお年をお迎えください。


 


今年初!の独り視聴者委員会

2024年12月30日 | 雑記帳
 思えば2020年頃から「独り視聴者委員会」と称し、結構テレビ番組のことを書き散らしてきた。しかし今年は一度も取り上げてないようだ。心に残るドラマなどが少なかったからか…そうかもしれない。正直に書けば一番多く観た?のは『相棒』シリーズ再放送。なんといっても昼寝の友、安心してこっくりできる。


 NHKの朝ドラ、大河は一応観ている。今年はそれほどのインパクトはなかった。『虎に翼』はまあまあで、『おむすび』は駄作だ。『光る君へ』はちょっと現代的過ぎた。ドラマはやはりTBS日曜劇場(翌週放送が情けない)が面白かった。やはりつくりが凝っている。これは、もはやブランド化しているような印象を持つ。


 他に印象深く残っているのは、『アンメット ある脳外科医の日記』(関西)、『新宿野戦病院』(フジ)、『季節のない街』(テレ東)『海のはじまり』(フジ)あたりかな。当然ながら偏っている。脚本がいいか、斬新さがあるか、役者がみせるか…そのどれかだ。振り返ると、展開のテンポがかなり大事なポイントになっている。



 見たかったけど見れなかった…悲しい。


 ノンフィクション系で最近良かったのはNHKBS『みんな あなたが好きだった プレーバック 長嶋茂雄の世紀』。これは同世代の男性であれば共感できるはずだ。50年前の10月14日に現役引退したシーンはよく放送されるが、あの時18歳だった自分は、自宅のコタツ!!に足を入れて涙を流した。甦ってくる昭和


 どうでもいい雑感を書いていたら、今月になってようやく観た映画『ラストマイル』が頭に浮かんだ。いかにもTV愛好者が好む内容、筋だった。しかし改めて流通業界の方々に頭を下げたくなる一作。そして世の中の「絡み」の複雑さは益々深くなると実感した。シンプルに暮らす日常設定をどこに置くべきか…。

つまりは、自分次第だと…

2024年12月29日 | 読書
 久しぶりの池谷本は新刊。Re101『生成AIと脳 この二つのコラボで人生が変わる』(池谷裕二 扶桑社新書)。本書に人々のAIに対する態度は5つに分類されるとある(今年9月のアンケート結果)。それによれば現在の自分は「5観察派: AIを活用しておらず、様子を窺っている」タイプだ。それゆえに手にした一冊だ。


 予想以上に進化していてビックリ!という高齢者にありがちな感想を持つ。著者の示す例や論理は納得のいいものが多く、例えば、特にAIによるカウンセリング、授業などは今まで信じていた常識を覆すものだった。つまり、「人間味」などという粗い情緒面に対する評価だ。「仕事をする側」の偏見の有無が刺激される。


 「第4章 生成AIが抱える10の問題」では危惧される点が明確に整理されている。総じて思うのは、人間は結局ラクにはならない。新しいテクノロジーで私達が暇になるかと考えれば、明らかなのは「自分の心身に上手く活用できるか」だけだ。それは車だって、ICTだって、AIだって何一つ変わらないではないか。



 これも久々の池田本。Re102『人生は愉快だ』(池田晶子 毎日新聞社)は三章構成で、書き下ろしの第一章は歴史的人物(哲学者、思想家、高僧)の一節を引用し、池田流に解説していく。全く理解不能だが「空海」の箇所で救われる。「意味を捉えるのは理知であるが、音を捉えるのは身体である」。私にとって池田は音だ。


 二章は人生相談?三章は日常生活エッセイ。どちらも月刊誌の連載だったらしい。ここは実に読みやすく。箴言が豊富だ。あえて一つに絞れば「人間は自分の中にないものを、他人の中に見ることはできない」…これは深い。他者を評価する言葉、悪口も誉め言葉も自分にあるからこそ、気付き口に出来るということ。

12月が妙に長く思うのは…

2024年12月28日 | 雑記帳
 今月は妙に長い気がする。日曜日スタートだからか…全然関係ないはずだが。最初の週は読み聞かせが2回、そして役員をしている団体の町民大会があり、気忙しかった。土曜日の午後、積雪が増えないうちにと思い、隣県の温泉へ出かけた。そしてそこで強烈な場面を目にする。三週間も経ったがまだ忘れられない。


 事件や事故の類ではない。実は夕食時に隣のテーブルについた親子に目が惹き付けられて、どうにも落ち着かなかった。おそらく20代の夫婦に、2、3歳頃の男児だろう。席に着き、最初に子どもの食事(お子様向け)を夫が世話して細かく砕いていた。それ自体今どき普通だろうが、母親はその様子に一瞥もしない


 その子は一言も喋らず、一人でスプーンやフォークを使い落ち着いた様子で食べ続けていた、それにも驚いたが、私たちが席を離れる40分ほどの間、父親は視線を何度か送ったが、母親が一度だけ小さな声をかけただけで、後は目もくれず坦々と料理を食べ続けていた姿に、唖然とした。ビールの味がしなかった(嘘)。




 もちろんその場では何も喋らないが、老夫婦二人は廊下にでるなり、今の様子を語り続けた。傍目から観れば非常に静かで迷惑の掛からない親子連れなのだろうが、とても微笑ましくは思えない現実…その話題は、翌日仙台に行って席数わずか8という小さな店に入っても、時々口をついて出るほどに忘れ難い事だった。


 子どもの社会への馴染み方が早いことに危惧を覚えているのだろうか。それも一つある。それ以上にコミュニケーションの少なさ、家庭とは違うやや非日常的場にあっても「個食・孤食」を、こうした親子連れの姿として目の当りにして驚いたのだ。いったい何のために食べているのだ、何のために一緒にいるのだ…

100冊目が問いかける

2024年12月26日 | 読書
 Re100『〈ひと〉の現象学』(鷲田清一 筑摩書房)。予想はある程度していたけど、難しい本を手にしてしまった。風呂場で読んだ(そんな類の本ではないが)けれど、何日ぐらいかかったのか。ざっと半月以上は確かだろう。正直に言えば、理解度1割ちょっとか。しかし、それだけでありながら印象深い記述は多い。




 第一章の「顔 存在の先触れ」は特にうぅむと唸ることが多かった。私たちは日常、他者の顔を真正面から凝視できないことに初めて気がついたように思う。「いわば盗み見するというかたちでしか、じっと見つめることができない」という事象は何を意味するのか。一体、何のために顔を見るのかという問いが始まる。


 そこで第二章「こころ しるしの交換」に移ると面白い一節に合う。筆者はある小学校の出前授業で、子どもたちに心の存在を問うてから、こんなふうに誘いかける…「心は見える」よ。悲しみや怒りを他者の姿に見ようとする経験は「心にふれる」ことに他ならないという。それは「ふるまい」として可視化される。


 文楽や歌舞伎の動作や所作が「振り」+「舞い」によって「しるし」となっていることには納得した。突き詰めれば、魂と身体の関係とは、内部と外部、動かす主体と客体であるという常識的な考えを、疑ってみねばならない。私には自分の「こころ」は見えないように、「顔」もまた見ることができないではないか。


 多くの言葉に関して刺激を受けた。例えば「自由」。かつて憧れたその語は今、魅力的な響きを失ったが、結局「じぶんがじぶん自身をじぶんのものとして『所有』している」かという点が問われているのだ。とすれば意のままにできる「自由」の範囲を、まず近い所から取り戻さねばならない。さてそれは、顔かこころか。

物語が嗅覚を刺激する

2024年12月23日 | 読書
 久しぶりに小説を、と思って手に取ったのが、この名作Re98『蛍川・泥の河』(宮本 輝 新潮文庫)この作家には一度手を出したが、そんなに馴染みがあったわけではない。しかし、さすがにこの作品は心に染み入った。昭和30年代という時代。当時の大阪、北陸富山という舞台を、色濃くイメージさせてくれた。


 なんといってもニオイがする。それは匂いであり臭いだ。土地の自然環境だけでなく社会環境も景色となり、全体的に強く迫ってきた。現代とはかなりかけ離れた人間の機微を感じさせる。自分も少しだけ懐かしく思うのは、貧しさ、醜さそして意地のような部分が心底にかすかに残っているからではないかと考えた。




 ことし8冊目のドリアン著作本。Re99『あなたという国』(ドリアン助川 新潮社)。自身のバンドやニューヨーク滞在経験をもとに、劇的な展開のある一種の恋愛小説。なんといっても9.11という日付が登場する段階で予想できる筋はあるのだが、その背景として様々な国際、社会問題を包めながら構成された物語だ。


 「ドリアン」という名は、くさい詩を書くからというエピソードがもとになっているが、宮本輝作品を読んだ後に手にすると、明らかに無臭の感が否めない。いや異臭と言ってよい。ニューヨークのイメージが貧困な自分を棚上げしつつ、騒音や極端な明暗のフラッシュ、金属、コンクリートのクラッシュが頭の中に浮かぶ。

ほぉおと思って締めくくる

2024年12月21日 | 絵本
 今週は3日間こども園に通い、今年最後の読み聞かせの締め括りをした。4つの絵本を取り上げた。前半は『めをさませ』『うえきばちです』。短い本で、テンポよく攻めてみる。これらは、まず「テッパン」と言っていいほどウケる。「うえきばち」はこども園では初めてだけれど、反応は小学校とほとんど同じ。


 もちろん、絵の面白さが抜群なわけだが、大人になっても楽しめるのは「同音異義語」を使う工夫があるからで、その空想と馬鹿馬鹿しさが本当に楽しい。さて、後半はクリスマスを意識した2冊。いくつかサンタクロースが登場する話も考えたが、結局選んだのは次の本だった。最初は「ちいさな もみの木」


 しみじみとした味わいがある。年に一度の機会に読んでみたくなる本だ。「ちいさなもみの木」が大きく育ち、この後、毎年続くクリスマスにつながるような終末が印象的な一冊だ。もう一つは「きょうりゅうがすわっていた」。「小さな」ものから「大きな」ものへの転換、そして6歳児を特に意識して取り上げた。



 最初見つけた時、「矢吹申彦」の名前におっと思った。ニューミュージックマガジン世代の一人には、ただただ懐かしかった。意外性のある展開に、独独の「ノイズ」が入っている画が続く。それが昔の映画のようなファンタジーを感じさせてくれる。子ども向けなのは確かだが、かえって大人の方が「ほぉお」と思う顔になった。

三年ぶりのお猫さまたち

2024年12月20日 | 絵本
 今年最後の小学校での読み聞かせは4年生。何を選ぼうかと多少迷った。時期的なクリスマスものは学年としてどうかと思い、困った時の猫頼み(笑)ということで、この2つをピックアップした。『ねこはるすばん』(町田尚子)『のら猫のかみさま』(くすのきしげのり)、どちらもいい本で、前に取り上げたことがある。


 調べてみたら、どちらもおよそ3年前。『ねこはるすばん』は楽しい妄想が軽快なテンポで語られる。絵本の楽しさがつまっているような一冊だ。ある学校のPTA時に親子で聴いてもらったことも印象深い。語りは、出だしはゆるく「なんだ?」と思わせておき、徐々に明るくしていくパターン。終末をアドリブで締める。




 『のら猫のかみさま』…これは物語として大好きな一つだ。かつて別ブログで紹介していた。その時に対象は年中児から大丈夫と考えていたが、やはり小学校中学年以上がいいだろう。時間も13分以上かかる。この作品では、かなり朗読的な意識が強くなる。ドラマ性を伝えたいとプレッシャーを少しかけてみた。


 PPT化した大型モニターにじいっと見入ってくれた。(ただしこのモニターは画面に5,6㎝の縦筋が入っていてワラエタ)。感想が言いやすいのは前者だと思うが、後者も含めてほぼ全員が何かしら言葉を述べてくれた。時間が過ぎたので付け足さなかったが、教えたかった語がある。「恩送り」である。まさに自分の心境(笑)。

それは、幸せな出会わせ方

2024年12月16日 | 雑記帳
 『野口芳宏 一日一言』(野口塾文庫)には、こう記されている。

 9月29日 <詩を虫食い(□の空欄)にして扱うことに関して>
 虫食いは完全なる回答が明らかになっていないと、学力形成にはならない。『これ以外に正解はない』という時に虫食いを指導に位置付けることができるが、そうでない場合は単なる当てずっぽうとなる。



 伏字を使うとクイズ的面白さになり、どういう学力を形成するのかが曖昧になりがち…という意味で心しなければいけない警句である。私の「詩の伏字クッキング」という実践及び提案を改めてみると、当時その危険性に対する意識はどうだったろうか。指導のメリットを挙げ、授業づくりのパターンも例示していた。


 先行実践(青木幹勇氏)から「理解することと密接な関係にある」「詩を読みながら、詩を作るという、学習をする」という考えをもとに、パターンとして「①伏字を予告する②伏字に気づかせる③展開法(巻き物)法」を用意し、予想から始まる授業展開を細分化している。読解に留まらず表現(作文)へ視野を広げていた。





 学力形成を十分に意識したではないか…と言いつつ、何より「楽しさ」が勝っていたと正直に言わざるを得ない。そう、自分自身が学んだ野口先生の「うとてとこ」も、俳句を扱った虫食いの模擬授業もいまだに楽しく心に残っている。その経験は詩や句をまるごと味わえた、つまり「読む醍醐味」が感じられたからだ。


 忘れられない講座がある。90年代半ば、2月の仙台だったと思う。野口先生が板書された俳句には、伏せられた字があった。「わが胸に住む人(    )冬の梅」。この予想は、まさにイメージを結ぶ作業だった。明らかになったとき納得感が「生徒」を包んでいた。詩歌との出会わせ方の有効な手法であることは間違いない。

一言から、己の存在を確かめる

2024年12月15日 | 読書
 編者である照井孝司先生よりご恵送いただいた。Re97『野口芳宏 一日一言』(野口芳宏・著 野口塾文庫)。「教育箴言集」と銘打たれ、365項目にわたって人生観、教育観から始まり、国語科指導のポイントまでが並べられている。致知出版社の一日一言シリーズと同形式といってよい。野口語録のエッセンスである。



 編者が野口先生に学んだ足跡でもある。長きにわたり真摯な姿勢を続けてこられたからこその労作と思う。私も講座や著書に触れ、何度も同じ言葉を聞いてきたつもりではあるが、半端な根性ゆえに受けとめる深さは到底叶わない。一見ランダムのように並べられたと感じる箇所にも、明確な流れの意図を汲み取れる。


 「向上的変容の連続的保障」…4月の扉にあるその言葉は、授業の本質として常に心に留めていた。そこはぶれずに歩んできたが、振り返ってみると「向上」をどのような姿と捉えるかという価値観の幅の広がり、拡張する多様性に揺さぶられ続けた。それは昨今の学校教育のあり方に直結する。手離されない芯は何か。


 自らの向上的変容を問う時にも、時々読み返すことは有効なはずだ。それは前半の人生観や教育観の部分だけでなく、国語指導にあっても日常の「言語行動」を考えるうえで大いなるヒントとなる。11/30言葉を発する「第一の意味」が記されている。それは「己の存在感、実在感の確認」。今まさに自分がしていること。


 さて、9/29に<詩を虫食い(□の空欄)にして扱うことに関して>とあり、その指導の位置付けに関して厳しい指摘が載っている。思い出したのは、かつて「詩の伏字クッキング」と題して、研修会を開き講座を受け持った経験だ。拙い実践だったが今でも自慢(笑)の一つ。冊子を紐解くと日付は91年11月30日とあった
(明日の雑記帳へつづく)