すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

本に寄り添って語るため

2025年02月27日 | 絵本
 明日は年度最後の小学生読み聞かせ。読みたい本はいくつかあるのだけれど、中学年という対象を考えて2冊をピックアップした。どちらも初めて語る。一つはマイブームの安東みきえで、昨年購入した本である。もう一つは、図書館で見つけた。県立図書館の巡回的なラインナップにあった内田麟太郎・作である。



 『メンドリと赤いてぶくろ』の絵は、アニメ風と言ってもよいだろう。ただ色彩は優しくはっきりして見やすい。舞台は現代だろうが、手編みの手袋であったり、鶏の声が朝を告げたりする設定は「昭和」だな…。中学年であっても鶏の雌雄についてちょっと前置きが必要だろう。鶏冠はどれほどの子が知っているか。

 メンドリの集団が声をあわせる台詞が面白く、物語に変化を与える。会話する相手が替わるので、その辺りの「間」に注意しなければならない。また場面転換も多く、主語の強調や言い回しに気を配る。新しい朝が来ると黙っていられないという気分は、今の子どもたちにもあるのかな。声を出す良さも感じてほしい。



 木彫りの彫刻で作ったイグアナとカモメの印象は強い。嵐の孤島で生まれ、たった一人で生きてきたイグアナは、ある日傷ついたカモメと知り合い…「ひとりぼっち」も「ともだち」の意味もわからないイグアナは、カモメと別れる日に…、坦々としたシンプルな文章表現が、存在感のある形象と絵とマッチしている。

 想像できるように、ゆったりとした語り口がベースになる。そしてカモメが去った日の夕暮れ、色調が大きく変化するページがクライマックスと言えるが、ここも抑えたままで読むことになるだろう。画のインパクトに浸らせたい。溜めて読む『ともだちのなまえ』。続くページは月夜であり、余韻が残る形になるか。

哲学を我が身に引き寄せる

2025年02月23日 | 読書
 学術書や専門書は必要もないし興味もないが、こうしたタイトルには惹かれ、思わず注文してしまう。結果ツマランかナカナカかは、半々ぐらいだろうか。この新書は後者だった。哲学のガイダンスではないけれど、名前ぐらいは知っている古今東西の哲学者や文豪、研究者等が登場する。著者なりの紹介が面白かった。



 引用の仕方で印象付けられたかもしれないが、哲学者とはまさに「言い切る人」だ。極端とも感じられる章句こそが哲学の肝と言っていいか。冒頭のデカルトはかく語る。「決断したら迷うな」。そこに到る根拠は「どうせ(道は)わからない」。そしてその先にはもちろん、失敗しても繰り返して進む決意が鎮座している。


 古代ギリシアのパルメニデスは「存在しないものについては考えるな」と言った。これがグローバル化の考え方につながっていると著者は示す。当然、死者に向ける姿勢と関わり、西洋の近代化が進められた。戦争、紛争はもとを辿ればそこに行き着くのか。しかし文明がいかに発達しても潰せないのは自然ではないか。


 レヴィ=ストロースと「未開社会」のことが書かれている箇所で、アイヌ社会が取り上げられかなり刺激的な文章に出会う。「(アイヌ社会は)文字の存在を知らなかったのではなく、持たないことを選択したのだ。持てば必ず社会と自然の均衡が崩れる。それを直覚し…」。文字に溺れている自分は、沈んでいくのか。


 「小出しの哲学」と題されポパーという学者が紹介される。「批判的合理主義の認識論を提唱」と辞書にある。具体的には、社会の「不具合をどう解消すべきか」は、全体でなく部分的に修正した方がいいという考えだ。真逆も必要であるが、今我が身に寄せれば、諸方に目を配り、部分修正に勤しむしかない。

如月雨水の頃、日録

2025年02月21日 | 雑記帳
2月16日(日)
 全国ニュースは盛んに「最強寒波」の様子を伝えているが、我が町周辺は比較的平穏である。明日の読み聞かせに向けてのチェック後、E先生の火葬へ向かう。若く生意気だった頃に同僚としてお世話になった。常に笑みを絶やさない方の遺影は当時のままのように感じた。久方ぶりに恩師に出会い、言葉を交わす。


2月17日(月)
 先月都合で行けなかったので、今年初の小学校読み聞かせとなる。5年生相手に、初物『せっかちなハチドリ』を語る。締め括りに谷川俊太郎の詩を一編読んだが、感想がそこに集中したのは複雑な気分だ。元同僚から頂き物、気を遣わせてしまった。自宅のHDDレコーダーが不調。使用頻度が高いので心配になる。




2月18日(火)雨水
 読みきれなかった本も含めて「読書録」をアップする。その後、山間部のこども園へ。天気は良かったが峠のてっぺんで強風、その後吹雪と一変した。楽しく語りを終えて、別ルートで帰宅。午後から、宿題を終えた孫と一緒に昔のディズニー版アニメ『ライオンキング』を視聴した。それなりの良さが感じられる。


2月19日(水)
 BS「新日本風土記」を観る。「冬を食べる」がテーマで国の豊かさは土地に根ざすものだと改めて考えさせられる。Etaxを使って確定申告。年々使いやすくなっている。1時間ほどで終えた。来年以降は必要なくなるかな。夕食にリクエストした酒粕汁を頂く。久々に食べるこの味は、寒い時期ならの味わいがある。


2月20日(木)庚申
 今読んでいる新書で気になった「寺田寅彦随筆集」を注文をする。レコーダーの新品購入も検索しているが、まだ踏ん切りがつかない。壊れないうちに決めねば…。午後から馴染みの理髪店へ。偶然、高校の同級生と出逢う。半世紀を過ぎても「なかみ」は変わらず外側だけが著しく変化するだけなどという話をする。


「時」や「場」がひらくとき

2025年02月18日 | 読書


 人気作家の名前がずらりと並んだ表紙に惹かれて、久々に短編集を読む。これも風呂場読書に最適だ。共通項を知らず『時ひらく』という書名に惹かれ手にとったが、舞台として「三越百貨店」が設定されていた。三越の持つ歴史、伝統や言い伝えが素材になりえるのはやはり物語性か。田舎者には縁遠いけれど。


 伊坂幸太郎は仙台在住であり、そこの三越を取り上げていた。4年間暮らした身であり親近感がわいた。主要人物として「フジサキ」「エンドウ」という他の百貨店の名が登場させてウイットに富んでいる。そんなこともあり六篇の中では、その『Have a nice day!』と、阿川佐和子の『雨上がりに』を面白く読んだ。


 東野の『重命る』はガリレオシリーズ。トリックは見事ながら、短編では深まらない印象があり物足りなかった。ほとんど会話のみで進行する恩田陸の『アニバーサリー』は分かりづらかったなあ。書名に即せば「時」がひらかなかった。小説とは言うなれば「時」や「場」を目の前に現わすこと。読みとれなかった。


 その先入観を持って読んだわけではないが『灰の劇場』も、久方ぶりの途中退場となる。「1」と「0」が章の番号として繰り返し出てくる構成。ノンフィクションとフィクションがないまぜになっているような…。しかし本編に続いた「文庫版 あとがき」と巻末短編「灰の劇場 0 +-」は読みきった。興味深かった。


 そこには本編が読書誌の連載であり、書くきっかけとなったある新聞記事の詳しい情報を執筆後に知り、その偶然と符合に驚いたことが記されていた。小説家の中で育てられ、養われる観念とは、やはり特定の現実と重ねられるから、作品として結実する。独白調の文体についていけず断念したが、縁がないと諦めた。

二人の話を、二つ続けて語る

2025年02月17日 | 絵本
 一昨年からの小さなマイブームは安東みきえである。『ふゆのはなさいた』『星につたえて』この二つの絵本を皮切りにして、児童書(物語)を読み、他の絵本も買い求めてみた。『ヒワとゾウガメ』(絵・ミロコマチコ)は昨秋に取り上げた。昨春に発刊されたのは『せっかちなハチドリ』(絵・降矢なな 文溪堂)も素敵な話だ。



 ヒワとゾウガメという対照的な二人が一つの島で暮らしている。ヒワは「ゾウ」という未知の動物がいることを知り、探しに出かけてしまう。おしゃべりなヒワを煙たがっていたゾウガメは、いなくなってから初めてその存在の大きさに気づく。途中で挫折し帰ってきたヒワとのやりとりに、時を超えた永遠性を見る。


 寿命の長さは、数々の別れを意味していた。だから簡単に「ともだち」にならないほうがいいと思ったゾウガメが、考え直す最終場面はシンプルだが力強い。「ぼくが ひゃくねん、わすれずにいるから。」という言葉をじっくりと噛みしめたい。個性的な描写が続く。荒々しいタッチゆえに落ち着いた語り口がいいだろう。



 主として熱帯に住むハチドリはとても小さな鳥で、最小は全長5㎝ほどだという。飛行力が強く一秒間に50回以上の羽ばたきをする。それゆえ、たくさんの栄養が必要で昆虫を食べるほかに花の蜜を吸い続ける。いわば急ぎ足の一生に対比されて登場するのが、マイマイつまりカタツムリ。問われているのは「心」だ。


 「神さまからプレゼントされた時間が、永遠とでもおもうの?」というハチドリの声は頷ける。しかし同時に「心」の存在を見えなくしてしまったら、時間そのものの意味は消えかかるだろう。ページごとの色調の明暗がくっきりしていて「人物」たちを惹き立てる。語りは声の高低・テンポの違いを工夫せねば…。

生の燃焼度を視る人

2025年02月15日 | 読書
 小学生の頃の漫画月刊誌といえば、「少年画報」「まんが王」それに「冒険王」が思い出される。ここで「冒険」という語が使われたのは、読者対象の心を強く揺さぶると考えられたからだろう。昭和30年代後半から40年代、広い意味で冒険は未来だったとも言える。そして今、限られた者の強烈な光を指している。



 読み応えのある一冊だった。対談と記事・解説のエッセイが集められていて、内容として重複する箇所も散見されるが、それでも著者たちの熱い思いが伝わってくる。角幡唯介の文章に惹かれ、昨年秋に古雑誌の記事に対する雑感を記したこともあった。今回、彼の活動のほぼ全貌を知ることができて、益々納得した。


 彼は「初めから文章や本を書くことを前提に探検や冒険に出かけている」とずばり記している。登山や極地探検等それ自体も「表現」であることに違いないが、その「行動」を書き手としても真摯に見つめるという…そう記せば格好はいいが、実際は「行為と表現のジレンマ」を乗り越える葛藤は想像を超えるだろう。


 全く縁のない「登山」。書籍などからなんとなく、目指す人は危険を伴う行為を乗り越えることによる「生の実感」が魅力だろうなと感じていた。表現の仕方は違うがそれに近いことも書かれている。しかし著者は登山ブームはもちろん、著名な探検家たちのアプローチについても、その行為の意義を徹底的に詰める


 それはいわば「生の燃焼度」を視ていると言ってもいい。予定調和化され、スポーツ化していく登山とは発想が違う。根本的には「自由」とは何かを問うているのだろう。文章だけで想像する世界だが、非常に魅力的に映る。この本に取り上げられた複数の書籍を買い求め読んでみようと思う。良き導き手に出逢えた。

無理せず、諦めず、偏らず

2025年02月13日 | 読書
 相変わらずの風呂場読書は新書か文庫に限る。何より軽いし、短時間でも一週間ぐらいで読了するのがいい。時に鋭い一節に考え込むこともあるにしろ、ゆったりと身体へ活字を流し込む時間は貴重だ。宗教や健康ジャンル、小説なら短編が多い。新しい知識、一歩先を行く知見…心開けば、染み入るものは必ずある。





 『「始末」~』は再読。4年前に読んでいてメモを残している。その時思ったことに加え、今回ぐっと考えさせられたのは「葬」だった。義母を最近逝去したこともあるし、たまたま見ていたTVでインタビューを受けた外国人が「なぜ日本人は亡くなった骨を大事にするのか」とその慣習を疑ったことが重なった。


 今の一般的な葬送の仕方は、極めて限定的と再認識する。この国の、平時の、経済優先の、現代社会に通用しているだけだ。人が人を弔うあり方に目が向くようになったのは、自分もまた「始末」のつけ方を深く考えるようになったからか。受け継いだのは何か、自分は何を伝えられるのか、葬を貫く芯はそこにある。



 『70歳までに~』の対象読者は中高年、まあ高くても60歳前後か。そこまであと一年少ししかない自分が読もうとする神経が、そもそも間違っているのではないか。そういう根性(笑)がサプリなどに手を出す安易さと結びつく。この新書で強調される「市販のサプリメントはほぼ効かず…」というパンチが心地よい。


 幼い頃、TVCMで「たんぱく質が足りないよ」というキャッチコピーがあった。現代も栄養過多に見えて、実は当てはまる者も多いようだ。様々な情報に振り回されてあたふたするけれど、結局、健康維持は栄養と運動が全てだ。それもごく自然に「無理せず」「諦めず」「偏らず」に尽きる。それが「始末」への道。

油断してたら大敵、怖い

2025年02月07日 | 雑記帳
 TVニュースの画面を見て、こんなに安堵したことは最近なかったなあ。データが一番でよく目立つ本県、(それは人口やら何やらの悲観的なものが圧倒的だが)これなら大歓迎だよお…。何しろ自分にとっての大敵が、例年に比べて唯一「非常に少ない」と出たのだから。でも理由は何か。いや、ともかくメデタイ。



 と気分良くいたら、何だかくしゃみが出る。鼻水も…。それに目の端が若干痒いような。えーーっ、まだ立春になったばかり。TVでは「最強寒波」がどうのこうの言っているし、酷い降雪はないけど十分に寒いよ…いや、振り返れば30年以上のベテラン花粉症患者。そう言えば風雪のある日は要注意なのだった。


 かつて同病相憐れむ同僚と、一月中に「来てますかね」「来てるね」という会話を交わしたこともある。気象庁発表は平均値に過ぎないだろうし、様々な条件によって違うのは当然だ。とにかくこの重大案件はマイブログのネタとして非常に多い「祝20周年…祝じゃないだろっ」と十年以上前にも書き散らしている。


 今週は既にこども園を二つ訪問した。まだ二つ残しているし、小学校も二校ある。読み聞かせ時に症状が出ないことを祈る。いや十分に警戒して備えるしかない。逆療法(笑)で花粉症の絵本とかないものかと検索してみたら…こんな一冊が…。残念ながら紙版ではなくデジタルだ。それにしても、怖そうな本である。


「今=ここ」に留まらず

2025年02月06日 | 読書


 日本人の見通しの甘さや、同じ過ちを繰り返す国民性、さらには「空気」に支配される風潮について書かれている本を何冊も読んできた。なぜそうなのかを著した部分はあったかもしれないが、あまり覚えていない。『日本文化における時間と空間』はまさにその答に迫ったものだ。難解だったが、興味深く向き合った。


 「日本では人々が『今=ここ』に生きているようにみえる」。そうした「世界観」を持つに至った、日本文化の歴史を「時間」と「空間」の両面から解説している。「過去は水に流す」「明日は明日の風が吹く」の慣用句に頷いてしまう精神性もそのなかで作り上げられ、私たちの多くは、視角90度程度で生きている。


 中国や韓国外交で繰り返される戦争保障問題や、現在戦争が行われている地域に関して、一通りの歴史や原因は分かっていても、真底から理解していない訳もそういうことかと納得した。さらに問題なのは「今=ここ」が「大勢順応主義」と結びついていることだ。私たちは、そうした伝統的文化の中で生きてきた。


 『沈黙する知性』は二人の対談集。冒頭に内田氏が語る「まず同意する」対話の作法には、まず同意した。問題なのはその後であり、そこから他者との接点を語りながら、複眼的に新たなものを作り上げることこそ「知性」ではないか…そんなふうに捉えた。ありえたかもしれない世界」への想像力を忘れないことだ。


 『日本文化~』と絡ませた時、この国の大きな失敗はやはり太平洋戦争終結の遅さにある。「今=ここ」しか見えなかった指導者たちの理性のなさは、犠牲者を莫大に増やし、見る風景を大きく変えてしまった。80年が経ち唖然とするだけでなく、水に流したものを、明日の風を、もっと自力で想像し、歩みたい。

冷静に「負けてたまるか」と

2025年02月04日 | 雑記帳
 米国野球殿堂入りに関わるイチローへのインタビューは興味深かった。大リーグ活躍以前から、様々なコトバで注目されたのは周知の通り。心に残るフレーズは多いが、今回「これから野球を始める選手やプロになったばかりの選手にアドバイスをするとしたら」の返答こそ、イチローのイチローたる所以ではないか。

「才能ある人たちもたくさんいます。僕なんかもうとても比較にならないぐらい才能にあふれた人がいっぱいいます。でもそれを生かすも殺すも自分自身だということです。自分の能力を生かす能力はまた別にあるということは知っておいてほしい。才能があるのになかなかそれを生かせない人はいっぱいいます。」

一日早い今年の立春。無事に口に出来るこの幸せよ。

 「自分の能力を生かす能力」に傑出していた存在がイチローと言えるだろう。それを単に「努力」と言い換えてもいいか。明らかに物足りない。「緻密な努力」…うーん、まだ届かない。緻密の内容が問題だ。「自己の資源を分析し、最大限に活用させた計画を達成するための、持続的で緻密な努力」、まあこれならいいか。


 そう考えてみると、「能力開花能力」育成のためのポイントは明らかだ。まずは自分を知ること。好き嫌い、強み弱みなどの客観視が求められる。計画化や持続的な努力はごく普通にも思われるが、前段階における意志の持ち方によって大きく差が出てくるはず。結局、精神の基盤として何を持ち続けていられるのか。


 「負けてたまるか」の塊だろう。勝敗の対象は他者に向けられるのではなく自身の中で決着する。自己との対峙をどこまでも止めない精神…イチローは現役後半時に、ある記者から「健在なり」と声をかけられ不快感を示した。その語が一面で持つ、衰えが前提のニュアンスにどこまでも抗う強い主観があったからだ。