小田嶋作品を読むのは、これで3冊目。
今まで読んだのは、次のとおり。
「その「正義」があぶない。」小田嶋隆
「地雷を踏む勇気 人生のとるにたらない警句」小田嶋隆
2冊とも、良かったので、さらに本作品を読んだ。
いくつか文章を紹介する。
大阪市が市の職員に実施したアンケートについて
P14
「思想調査によって異分子を排除するメリットと、組織のメンバー全員に踏み絵を踏ませることによって生じるデメリット(自立志向の放棄、疑心暗鬼)を天秤にかけて、それでも異分子を排除したいと考えるリーダーはパラノイアですよ」
「命令に疑問を持たない部下だけでできている組織は自壊する」
「忠誠心の低いメンバーを排除すれば強い組織ができると思うのは早計で、実際には逆サイドに走る選手のいないサッカーチームみたいなどうにもならないものが出現する。そういうチームは行進には向いていても試合では決して勝てない」
P18
別の言い方をするなら、民主政治というのは、効率や効果よりも、手続きの正しさを重視する課程のことで、この迂遠さこそが、われわれが歴史から学んだ安全弁なのである。
(中略)
独裁をめぐる議論は、「効果」と「正当性」の対立であるという意味では、体罰の論争と大変に良く似ている。
P22
ヒトラーにも悪気はなかったはずだ。彼は、自分の生まれ故郷を彼が「邪悪」であると信じている対象から守ろうとしただけなのだと思う。
もちろん、橋下市長にも悪意はない。彼は、心から大阪を良くしようとしているのだと思う。
だからこそ、やっかいなのだ。
P27
民主主義は、元来、まどろっこしいものだ。
デモクラシーは、意思決定のプロセスに多様な民意を反映させるべく、徐々に洗練を加えてきたシステムで、そうである以上、原理的に、効率やスピードよりも、慎重さと安全に重心を置いているからだ。
P31
民主主義は、そもそも「豊かさ」の結果であって、原因ではない。つまり、民主主義は豊かさをもたらすわけではないのだ。それがもたらすのは、まどろっこしい公正さと、非効率な安全と、一種官僚的なセーフティーネットで、言い方を変えるなら、市民社会に公正さと安全をもたらすためには、相応の時間と忍耐が必要だということになる。
P126-127
最終的な脱原発をもう少し早い時期に設定する場合、以下の3点について、はっきりとした回答を示す必要がある。
1.いつの時点で、脱原発をはたすのか。
2.1を踏まえて、休眠中の原発を、どんなふうに評価(ABCなり、10点法なりで等級をつけるのか、あるいは安全な順に頭から番号を振ってやる)するのか。
3.2の評価に沿って、どの原子炉を廃炉にし、どの原子炉をどれだけの期間再稼働させるのか。
ようするに「停める時期と順番を決めましょう」ということだ。
あとは代替エネルギーの状況などを見ながら、早めたり遅くしたり調整していけばいい。
ところが、こんな簡単なことさえ、国は約束していない。
(中略)
野田さんは、原発の将来について、明確な考えを表明していない。
大飯の3号炉と4号炉について「私の責任で」再稼働する旨を明言しているだけだ。
この調子で、個別対応されたら、なすすべがない。
P235
逆に、結婚を入社になぞらえることは、愛情という貴重なフィクションを踏みにじっている。結婚に打算が不要だとは言わないが、男女の出会いは取り引きではない。最終的に、打算であるのだとしても、結婚においては、当事者が事前に利害を明らかにしないことが取り引きの前提になっている。別の言い方をするなら、結婚は、与えた者と受け取った者が共に利益を得る愛情という架空の通貨を想定しないと成立しない交渉で、その意味で経済学の枠組みを超えた出来事なのである。
P252
ともあれ、うちの国の伝統では、男は、子供から直接おっさんになっていた。少なくとも江戸以来の庶民の伝統ではずっとそういうことになっている。私自身、その系譜に属している。
それが、明治時代に漱石や鴎外みたいな人たちが西洋の文学や哲学を取り入れる時に、「青年」という概念も一緒に導入した。恋に悩み人生の意味を模索し、真実を求めて煩悶しながら成長する存在としての青年。それを、当時の高等遊民として作品の中に具現化した三四郎あたりに重ねあわせたわけだ。
が、実際のところ、男が「青年」として生きる状況は、旧家のおぼっちゃまの帝大生に許された特権みたいなもので、青年は日本の伝統的な社会に矛盾なく組み入れられるピースではなかった。結局、その実態は、舶来の音楽や南蛮渡来の絵画や鹿鳴館のダンスと同様、かなりの度合いで輸入品だったということ(おそらく)なのである。
現在明治と同じ意味での高等遊民は絶滅した。
現在の学生さんは、「青年」であるという特権から見放されたところに住んでいる。
彼らは、子供のままでいることを選んで窮屈なモラトリアムの中で暮らすか、おっさんになる決意を固めて社会に出る道を選ぶかの、いずれかを選択しなければならない。
P255
おっさんは、組織に属している。だから、「わが社」(ないしは「わが省」「わが党」)ということを軸にものを考える。で、おっさん本人は、自分のこの考え方を「社会的」な視点であるというふうに自覚していたりする。
おばさんは、組織に依らない。だから、自分の目でモノを見て、自分のアタマで考える。
おっさんは、おばさんの考えを認めない。周囲(テレビや週刊誌)に流されているだけだと思っている。自分こそがより強力に周囲(組織のアイデンティティ)に流されているにもかかわらず、だ。なんということだろう。
また、おっさんは、常に「勝ち負け」と「多数決」を意識している。いずれの意見がマジョリティであり、どちらの立場が勝ち組であるのかということについて、おっさんは不断の観察を続行しており、いつもその観察結果を意識した地点から決断をしている。
しかも、本人の自覚としては、自分のそうした決断の仕方を「政治的」な成熟の結果であると考えていたりする。
おばさんは、自分の好き嫌いを重視する。イヤなものはイヤ。好きなものは好き。党派性やクラスタでものを考えることはしない。
こうして比べてみると「衆愚」(←付和雷同型で、自分の意見を持っていない人々)は、むしろおっさんであることがはっきりする。
【ネット上の紹介】
どんとこい、炎上!ノイズだらけの言論メディアを一刀両断。維新も再稼働も受けて立つ!孤高のコラムニストの真骨頂エッセイ。
[目次]1 わが心は維新にあらず(煽情に賭けるハシズム;人事管理に市場を挟むことの是非について ほか);2 大津波はわが魂に及び(風が吹けばOK?;怠慢有理 無理は無理 ほか);3 わが炎上の日々(メディア総占拠の夜;ノイズを泳ぐ金魚 ほか);4 若者たちをよろしく(電車の中で働く羊たちの話;進化としての逸脱 ほか)