「昭和二十年夏、子供たちが見た戦争」梯久美子
著者は、平成23年、未曾有の震災が日本を襲ったとき、次のようなことを感じたそうだ。
P315-316
きっと子供たちは忘れないだろう。分析したり、言葉で表現したりすることがいまはできなくても、目にした光景は、心の深いところに焼きついて、消えないに違いない。
そんなことを考えたのは、去年から今年にかけて、本書に登場する10人にインタビューしたからだ。いずれも戦争の時代を子供として生きた人たちで、太平洋戦争が始まったときの年齢は、5歳から10歳である。
本書では、10人の著名な方にインタビューが行われている。
相当な下準備をして、臨まれたと思う。
少し、文章を紹介する。
P117、辻村寿三郎さん
三次に移った辻村さん母子は、父が残してくれた畑で麦やジャガイモを育てていた。8月6日の朝も2人で畑に出ていたが、ふと見ると、広島市の方角の空が真っ黒になっている。
「何だろう、あれ」「広島の方だよね」
(中略)
昼ごろになって、焼けただれた人たちが三次の町に押し寄せてきた。
P119、辻村寿三郎さん
原爆ドームのところに水の出る水道があって、そこに孤児になった子供たちが寄り集まっているらしい、という話を耳にしたのは、夕暮れになるころでした。
行ってみたら、みっちゃんが、ふっと出てきたんです。お兄ちゃんと一緒に。そのときの姿を、20年近く経ってから人形にしたのね。それが、あなたがテレビで見たというあの人形です。ええ、みっちゃんが猫を抱いていて。
あの猫はね、冷たかった。死んでる猫だったのよ。みっちゃんもお兄ちゃんも、その後、1年くらいで死んでしまった。
そうです、あの人形は私の原点。まだ30歳になるかならないかのころに作った、ごく初期の作品です。
P230-231、山田洋次さん・・・当時信じられていた「本土決戦」についてのコメント
日本全土に米軍が上陸してくるということは、もう負けということじゃないですか。ましてみんな死んでしまったら当然負けです。それなのに、そうなるまで戦うと真面目に考えている矛盾・・・・・・。
僕は、あのときの日本、そしてあのときの自分を思い出すたびに、いまの時代でも、日本人のほとんど全員が間違えて信じていることがあるんじゃないかという気がして仕方がないんです。だって、あのころの、馬鹿げた政策を推進した日本の政治家たちと、全く人種が違うほど優秀な人たちが戦後の政治を担ってきたとは思えないから。
P295、五木寛之さん
国民の「民」という字は、もともとは目に針を刺すという意味があるんだそうです。物事が見えない、判断できない状態に置かれている者ということですね。そう考えると「民主主義」というのは、実はあまりいい言葉ではないのかもしれません。
P310-311、五木寛之さん
引き揚げてきて内地に上陸すると、女の人たちは「婦人調査部」というところで身体検査をうけなければなりませんでした。レイプされて性病にかかっていないか、妊娠してしないかなどを調べるんです。
敗戦後の混乱の中で暴行を受け、妊娠してしまった人は――これを「不法妊娠」と言ったんですが――トラックで福岡の郊外にある施設に連れて行かれ、堕胎手術を受けさせられたそうです。
当時その仕事にたずさわった日赤の婦長さんという人に話を聞いたことがあります。麻酔なしの手術だったそうですが、泣き声をあげる人は1人もいなかったとおっしゃっていました。それを聞いて、何ともいえない気持ちになりましたね。
当時、人工中絶手術は法律で認められていませんでした。医師法違反に問われる危険を承知で、引き揚げ者のために献身的に働いた医師たちがいたんです。
五木寛之さんは、壮絶な引き揚げ体験をされている。
・・・次の言葉は、とても重い、と感じる。(P312)
引き揚げのことを題材に作品を書くことを僕はしてこなかったんですが、おそらくこれからもしないと思います。
10人すべての方の話を紹介したいけど無理。
実際に読んでみて、文庫本で出てるから。
PS
先日、児童虐待の本を紹介した。
国家による、「児童虐待」、ってのもある・・・「戦争」が、それだと思う。
【ネット上の紹介】
最前線に慰問に行った子がいた。38度線を命からがら逃げのびた子がいた。闇市で働いた子がいた。疎開したり、軍国少年だったり、満洲にいたり…。そしてみんな終戦の時、普通の子供だった。そんな彼らの目に、大人たちは、戦争は、日本の未来はどのように映ったのか。10人の著名人が語った10の戦争、10の戦後、大宅壮一ノンフィクション賞受賞の作家が綴った、あの戦争の証言を聞くシリーズ、第3弾。
[目次]
私は疎開してみたかったのね。違うところに行ったら、違う世界が見えるんじゃないか。別の運命があるんじゃないか。そう思ったの。(角野栄子)
そうしたらね、入ってきたんですよ。ジープを先頭に。ついこの前まで、鬼畜米英と思っていたんだけど、目の前で見ると、やっぱり輝いて見えてしまう。(児玉清)
僕は、いい時代に育ったと思っているんです。敗戦直後の、ものすごく自由で解放された雰囲気。誰もが貧しかったけれど、活気があった(舘野泉)
原爆ドームに行ってみたら、ふっと出てきたんです。ええ、みっちゃんが猫を抱いていて。あの猫はね、冷たかった。死んでる猫だったのよ。(辻村寿三郎)
あのころは女学生も来て、僕の見ている前で打っていた。僕、聞いたんですよ。「なんでヒロポン打つの」って。そしたら「痩せたいから」。(梁石日)
出征した担任教師が戦死。これからまだまだ、いろいろなことが起こるにちがいないと思いました。とにかく憂鬱でした、世界が。(福原義春)
ええ、私にはわかっていました。この人たちはもうすぐ死んでいくんだって。一度飛び立ったら還ってきてはいけないということも。(中村メイコ)
終戦後の大連ではコックリさんが大流行しました。大の大人が「コックリさん、コックリさん、私たちはいつ帰れますでしょうか」とやる。(山田洋次)
僕はたぶんあのとき、心底怖かったんだと思います。もしかしたら僕があの浮浪児になっていたかもしれない。何かが間違ったら、あの少年は僕だったかもしれない、と。(倉本聰)
少なくとも兵士は銃を持って戦場に出た。でも一般の市民は、誰も守ってくれない無法状態の中に丸腰のまま放り出されたのです。(五木寛之)