「ひとりの記憶 海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち」橋口譲二
1945年の敗戦とともに、「引き揚げ」が始まった。
しかし、現地にとどまる事を選んだ人たちがいる。
なぜ、引き揚げなかったのか?
戦後、現地でどのように生きてきたのか?
20年の歳月をかけて、世界各地で取材を行った作品。
テーマもいいが、その取材内容もいい。
著者が、ひとりひとりの心情を汲みとりながら話を聞いている。
ここまで聞いていいだろうか?そんな著者の心の揺れも伝わってくる文章だ。
おそらく、今年の(個人的)ノンフィクション部門№1、と思う。
P3
日本に戻らないことを決意したとしても、言語は勿論のこと文化や宗教の異なる国で、人々とどのようにして関係を築いてきたのだろうか?
P23
終戦になってすぐにシンガポールから逃げてきた日本軍の特殊部隊がスマトラに現れたこともあった。「奴らは大量のダイヤモンドやドル紙幣や兵器を持ってきてですね。言っちゃなんですが滅茶苦茶な連中でしたよ。戦争を止める気なんてなくてですね、あっちこっちで騒ぎを起こすもんだから、同じ日本人なんですが討伐命令が出たりしてゴチャゴチャしちゃったですね」
P48-49
すると井上さんは「我々日本の兵隊はですね、生きて虜囚の辱めを……」。途中で自分でも恥ずかしくなったのか、少し照れた感じでアハハと笑い言葉が切れた。アハハと笑う井上さんを見て、この人はいい人だと単純にそう思った。
P124
セーラー服を「敬服」と表現するところに、当時学校に通えた人の中にある責任と誇りみたいなものを感じた。それに「敬服」を着ている子どもの存在は、その家の民度の表れでもあった気がする。
八路軍に参加した日本人看護婦の話
(この話が一番印象に残った)
P152
「八路軍の中に入って、その後どうするのかとか、考えられないですよ。今日はこうして生きて、明日は、明後日ぐらいまでは考えるけど、遠い将来までは考えられない。生きられる道があるならそこに入ろう」と、切迫した状況で中村さんは決断をした。最後は勘だった。
P237
「楽園」の本当の正体はそこで生きる人達、島民にとっては実は残酷な存在なのかもしれない。確かにポナペは外の人間にとっては楽園にちがいないだろうが、この楽園には人が生きることの意味を簡単に消してしまう毒が含まれているような気がしてならない。「楽園」の持つもう一つの側面は刺激もなく、変化のない毎日のくり返しだということだからだ。
【おまけ】
橋口譲二さんは、写真家として有名な方。
さらに言うと、星野博美さんの師匠、である。
P323
元僕のアシスタントでいま作家の星野博美さんは、半分以上の取材に同行してサポートをしてくれた。
本作品では10人の物語が収録されている。実際は86人のテープ起こしをされている。
P324
「ひとりの記憶」に収めることが出来なかった70人余りの存在をどうするのかという課題が残っているが、ここから先はこれから生きる人たちに託したいと思います。
残りの人たちの「物語」が気になる。
橋口譲二さんが完成されるのがベストだが、次策として、星野博美さんが書いてくれたら嬉しい限りだ。
【ネット上の紹介】
日本に戻ってどうするのさ。インドネシア、台湾、サイパン、ポナペ、韓国、中国、ロシア、キューバ…太平洋戦争を機に海を渡り、戦後も帰国せずその地で生きることを選んだ日本人。終戦の混乱の中で、彼らの下した一つ一つの選択、一人一人の生き方とは?取材から執筆まで二十年の歳月をかけた、渾身の書下ろしノンフィクション。
[目次]
笠原晋(インドネシア)―「北スマトラの無人地帯で生きるつもりでした」
井上助良(インドネシア)―「頭がこんがらがっちゃってですね、希望が迷ってしまった」
下山文枝(台湾)―「こっちは故郷と同じ。ただ言葉が通じないだけ…」
平得栄三(台湾)―「魚がいればどこまででも行った。氷が見え始めたらその先には行かない」
米本登喜江(韓国)―「絶対に振り返らないで、前向きに生きて行こうと思ったんです」
中村京子(中国)―「八路軍のことは知らなかったけど、生きる道があるのなら入ろうと決めた」
金城善盛(サイパン)―「卒業したらニューギニアへ行って、パイナップルでも作ろうかと思っていた」
秋永正子(ポナペ)―「お父さんの生まれた国、非常に良かったと思いますよ」
佐藤弘(ロシア)―「年とって日本に戻ってどうするのさ。死ぬんならここで死んでしまえ、と僕はいうのさ」
原田茂作(キューバ)―「百姓は自分で出来る。可能性のある仕事だから働くだけ働いてやってきました」
生き抜いた人たち