「三十三間堂外伝 平田弘史士道劇画傑作選」1
急に、平田弘史士作品を読みたくなって取り寄せた。
民主主義が煮詰まった現在、封建主義を振り返りたくなる。
時代小説を読むと、悪い時代じゃなかったような気もする。
でも、実際どうだったんだろう?
三十三間堂で弓を射る…これは強弓+テクニックの大変な技量が必要
現在のサラリーマン社会を見ていると、封建時代と変わらないような気もする。
企業トップも、戦国時代好きで封建的なオヤジが多いし。
【おまけ】
「風にもまけず、粗茶一服」の文章を紹介する。
三十三間堂は、平清盛が後白河法皇のために建てた。内陣に並ぶ柱と柱の間が三十三あることからそう呼ばれている。柱の間隔は二間ほどだから、つまりずいぶんと細長いお堂であり、なぜかくも長いのかと言えば、そこに千体もの観音像を並べるからだ。
(中略)
ところで、千体千手観音に比べれば知名度はかなり下がるかもしれないが、三十三間堂と聞いて次に人々の脳裏に浮かぶのは、おそらく<通し矢>伝説だろう。
二間おきに柱が立っているということは、本堂の全長は約百二十メートルということになる。この軒下で、江戸時代、弓の名手達が端から端まで一昼夜に何本射通せるか矢数を競った。
今、一般的に弓道の試合は二十八メートル先に的を置いて競うから、百二十メートルといえばその約四倍にあたる。それほど遠くへ矢を飛ばすには、弓を上に向けて矢の滞空時間を延ばすにしくはない。ところが、軒下ではこれができない。水平に遠くまで飛ばすには強弓を使うよりない。弱い弓でまっすぐ射ても矢はすぐに落ちてしまうからだ。百二十メートルに及ぶ軒の下で矢数を競うということは、言うまでもなく破天荒な腕力勝負であった。次々に剛の者が登場し、百単位の勝負から、またたく間にエスカレートして千本単になった。三十三間堂で今も見ることのできる額には、星野勘左衞門という紀州藩士が八千本を射通したことが記されており、さらにその後すぐに紀州の和佐大八郎が八千百三十三本を記録した。
八千本というのは通すのに成功した数であって、彼らが放った矢はもっと多い。星野にしても和佐にしても一万本以上の矢を射ており、通らなかった矢の多くは軒や庇に突き刺さった。三十三間堂の軒は、だから今も疵だらけなのだ。爾来この場所は弓道家にとって特別な空間となっている。
↑ これは私が現地に行って撮った写真。
この距離を1本だけでも射るのは至難でしょう。
一昼夜に八千本射るって事は、とんでもない速射である。
【リンク】
三十三間堂(蓮華王院本堂)
【ネット上の紹介】
親を殺され、財産を失い、そして己の命までも…。藩の名誉のため、己の意地のために全てを賭ける侍たちの凄絶な生き様。読む者の心を揺さぶらずにはおかない傑作時代劇を4話収録。収録作品:首代引受人<実>/三十三間堂外伝/歪/弑逆の武人