昔は良かったなあ、と思うことが多くなりました。
戦争も知らず、世間も知らず、金魚鉢の中の平和がずっと続くのが当然と思っていた子供のころ、十五や十六で人生が暗かった、という歌が理解できないほど、脳天気に暮らしていました。しかし、その金魚鉢の中の平和は失われつつあります。過去の成功法則、勉強してテストいい点を取っていい大学に入って医者か弁護士か公務員か大企業のサラリーマンになる、という路線ですね。安全路線、安心な人生の道筋をトレースするやり方が、通用しなくなってきました。嘆くべきなのか、あるいは喜ぶべきなのか、私はまだちょっとわかりません。
変化しないものはない、それだけが不変の法則なのは頭ではわかっていても、ジリジリと下り坂をずり落ちるような過去十数年を振り返ると、どこまで落ちるのかな、と不安に思わずにいれません。研究という職業は、社会と経済の安定があってはじめて成り立つような「贅沢」な職業ですから、社会が不安定化するのは、私、個人的に困ります。しかし、そもそも研究職が安定な職であったことはこれまでなかったわけですから、社会が安定であろうと不安定であろうと、どっちにしても不安定なものなのだと思えば、ナンてことはありません。ただ、私の場合、研究グラントが取れなくなったら失業ということなので、家族と自分の生活のために、別の職業を探さねばならず、そうなった時に、社会が不安定なのはやはり困ります。
平和で安定で快適な国に住みたいと思うのは誰も同じでしょう。そんな環境はそこに住む様々な役割の人々が協力して作りあげなければなりません。社会の秩序はどんなタイプの秩序であっても、そうしたエネルギーの流入を必要とするもので、中でも民主主義社会はもっともエネルギーの消費の激しいものだと思います。その秩序を維持するエネルギーが失われれば、エントロピーは増大し、マクロ社会はカオス化するであろうことは、予想がつきます。
今の日本は、民主党があれだけハデにずっこけ、フクシマ原発事故後の無責任極まりない政府や電力会社の対応を見せつけられ、検察や裁判所のデタラメな腐敗ぶりが明らかにされて、人々は政治や社会に対してエネルギーを使うのをますます避けるようになってきました。正直言って、腐りきっているこの国の統治システムで、国民ができることはその意見を聞いて実現してくれる政治家を選ぶことぐらいだったのに、誰が政治家になっても国民の意見は選挙前に聞くフリをするだけで、結局、政治家は、既得権者の利益になり一般国民の不利益になる政策しか実行しないわけです。
国民の政治、社会に対する関心が低下しているように見えるのは、日本の政治というものがプロレス以下の八百長にしか過ぎず、ウラでその八百長試合を仕切っているのが、官、産、米、だということが、この数年の間に、以前にも増して露わになってきたのが大きな理由でしょう。
政治や社会に何の興味のなかった大学生時代、選挙の度に創価学会の友人に投票を頼まれました。「選挙など、運動会のかけっこと同じで、ワッショイ、ワッショイ、赤勝て、白勝て、と応援するが、結局、どこが勝っても同じだ」と事情もわからずにノンポリの言い訳をしていましたが、結局、それは正しかったののでした。日本は官僚政治の国、昔から、お上が庶民を支配している国で、民主主義も選挙も形ばかりの「ごっこ」にすぎないのでした。
物騒ですが、私、日本もこの際、「革命」が必要なのではないかな、と思います。「革命」が成功したからといって、必ずしも社会が良くなる訳ではないですが、世界各地では、革命は時々おこって社会システムがひっくり返ります。革命と恋愛は若者の特権と言いますが、私よりも年上の大勢の人々も声を上げています。本当に見ていられないのですね。
ふと思い出して、子供の時に聞いた中島みゆきさんの「世情」を聞き直してみました。
当時、中島さんは三十半ばぐらいのはずですが、当時の若者は、今の大人よりもよっぽど世の中をよく知っていたのだろう、と思いました。
アベ氏や政府やマスコミがつきつづけるウソは、もはや「他愛ない」というレベルではありません。
ウソの包帯を剥がし続けて、最後に残る国家の真実は身も蓋もないものなのでしょう。国家とは、包帯で人形に覆われてはいるが中身のないミイラに過ぎないのかもしれません。
戦争も知らず、世間も知らず、金魚鉢の中の平和がずっと続くのが当然と思っていた子供のころ、十五や十六で人生が暗かった、という歌が理解できないほど、脳天気に暮らしていました。しかし、その金魚鉢の中の平和は失われつつあります。過去の成功法則、勉強してテストいい点を取っていい大学に入って医者か弁護士か公務員か大企業のサラリーマンになる、という路線ですね。安全路線、安心な人生の道筋をトレースするやり方が、通用しなくなってきました。嘆くべきなのか、あるいは喜ぶべきなのか、私はまだちょっとわかりません。
変化しないものはない、それだけが不変の法則なのは頭ではわかっていても、ジリジリと下り坂をずり落ちるような過去十数年を振り返ると、どこまで落ちるのかな、と不安に思わずにいれません。研究という職業は、社会と経済の安定があってはじめて成り立つような「贅沢」な職業ですから、社会が不安定化するのは、私、個人的に困ります。しかし、そもそも研究職が安定な職であったことはこれまでなかったわけですから、社会が安定であろうと不安定であろうと、どっちにしても不安定なものなのだと思えば、ナンてことはありません。ただ、私の場合、研究グラントが取れなくなったら失業ということなので、家族と自分の生活のために、別の職業を探さねばならず、そうなった時に、社会が不安定なのはやはり困ります。
平和で安定で快適な国に住みたいと思うのは誰も同じでしょう。そんな環境はそこに住む様々な役割の人々が協力して作りあげなければなりません。社会の秩序はどんなタイプの秩序であっても、そうしたエネルギーの流入を必要とするもので、中でも民主主義社会はもっともエネルギーの消費の激しいものだと思います。その秩序を維持するエネルギーが失われれば、エントロピーは増大し、マクロ社会はカオス化するであろうことは、予想がつきます。
今の日本は、民主党があれだけハデにずっこけ、フクシマ原発事故後の無責任極まりない政府や電力会社の対応を見せつけられ、検察や裁判所のデタラメな腐敗ぶりが明らかにされて、人々は政治や社会に対してエネルギーを使うのをますます避けるようになってきました。正直言って、腐りきっているこの国の統治システムで、国民ができることはその意見を聞いて実現してくれる政治家を選ぶことぐらいだったのに、誰が政治家になっても国民の意見は選挙前に聞くフリをするだけで、結局、政治家は、既得権者の利益になり一般国民の不利益になる政策しか実行しないわけです。
国民の政治、社会に対する関心が低下しているように見えるのは、日本の政治というものがプロレス以下の八百長にしか過ぎず、ウラでその八百長試合を仕切っているのが、官、産、米、だということが、この数年の間に、以前にも増して露わになってきたのが大きな理由でしょう。
政治や社会に何の興味のなかった大学生時代、選挙の度に創価学会の友人に投票を頼まれました。「選挙など、運動会のかけっこと同じで、ワッショイ、ワッショイ、赤勝て、白勝て、と応援するが、結局、どこが勝っても同じだ」と事情もわからずにノンポリの言い訳をしていましたが、結局、それは正しかったののでした。日本は官僚政治の国、昔から、お上が庶民を支配している国で、民主主義も選挙も形ばかりの「ごっこ」にすぎないのでした。
物騒ですが、私、日本もこの際、「革命」が必要なのではないかな、と思います。「革命」が成功したからといって、必ずしも社会が良くなる訳ではないですが、世界各地では、革命は時々おこって社会システムがひっくり返ります。革命と恋愛は若者の特権と言いますが、私よりも年上の大勢の人々も声を上げています。本当に見ていられないのですね。
ふと思い出して、子供の時に聞いた中島みゆきさんの「世情」を聞き直してみました。
世の中はいつも臆病な猫だから
他愛のないウソをいつもついている
包帯のようなウソを見破ることで学者は世間をみたような気になる
シュプレヒコールの波、通りすぎていく、変らない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変らない夢を見たがる者と戦うため
他愛のないウソをいつもついている
包帯のようなウソを見破ることで学者は世間をみたような気になる
シュプレヒコールの波、通りすぎていく、変らない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変らない夢を見たがる者と戦うため
当時、中島さんは三十半ばぐらいのはずですが、当時の若者は、今の大人よりもよっぽど世の中をよく知っていたのだろう、と思いました。
アベ氏や政府やマスコミがつきつづけるウソは、もはや「他愛ない」というレベルではありません。
ウソの包帯を剥がし続けて、最後に残る国家の真実は身も蓋もないものなのでしょう。国家とは、包帯で人形に覆われてはいるが中身のないミイラに過ぎないのかもしれません。