長らく生理学的な研究を行う必要から、モデル動物を作成してそれを解析するというスタイルでやってきましたが、当初から動物を使う実験には抵抗がありました。私に限らず、動物を実験に使ったり殺したりするのが好きな人はまずいないと思います。昨年のコロナの施設閉鎖の時、実験動物の間引きをせざるを得なくなり、そうしたが日々が続いた時に動物実験は自分にはもう無理だなとつくづく感じることになりました。
さまざまな理由で、人間は動物を殺し、実験に使ったり、色々に利用したり、食料にしたりするわけですけど、実験に関して言えば、例えば私が学生だったころと今では動物実験における倫理上の理由における規制はずいぶん厳しくなりました。実験の結構細かい手順を書面にして、倫理委員会での認可を受ける必要があります。動物を実験に使って最後は殺すことになるのを、必要悪と認める一方で、必要ない苦痛を動物に与えないようにするという動物福祉の理由だと思います。
しかし、例えが悪いかも知れませんけど、人間の世界でも、他の国を征服してその人々を殺したり奴隷にすることは比較的近年まで平然と行われてきました。現在ではヨーロッパ系人種が、アフリカ黒人を使役動物として扱うことも公然と差別を行うことも許されていません。同じく、20年前はアメリカの研究室で働く外国人ポスドクの権利は非常に限られたものでしたが、今は最低賃金やさまざまな権利が保障されるようになりました(これによって、研究室は外国人ポスドクを簡単に雇えなくなり、外国人からするとポスドクの機会が減って小規模研究室の運営が困難になっているわけですが。ちょうど、社員の最低賃金をあげると、穴埋めに誰かがクビなるのと同じ理屈です)それはともかく、こうした人間界の動きは、世界的な人権運動の高まりの結果でしょうけど、動物実験の規制強化も、生き物全体における(人間からみた)権利意識の拡大の一部だろうと思います。
人間も動物も他の生き物の命を犠牲にして、食料として自分の血肉に変えないと生きていけませんけど、だからと開き直って、生き物の生命を軽視するようでは(動物ではなく)人間としての精神の発達はないと思います。ダライ ラマが主張するように、人間は「思いやる心」を持つ能力があり、思いやりの心こそが幸福の源泉だと私も思います。思いやる心を自分や家族から外に拡げていけば、動物も植物も自然と含むことになります。
そんな人々の意識の高まりの結果、スイスでは、これまでにも何度か署名運動が行われて、動物実験の廃止が国レベルの議題に上り、国民投票が何度か施行されております。動物実験廃止が可決されたことはありませんが、投票の都度、3-4割弱のスイス国民が動物実験廃止に賛成してきており、来年の始めにも、また動物実験中止を問う国民投票が再度実施予定です。イギリスの生物学研究所、Sanger Instituteも(動物福祉が唯一の理由ではないようですが)来年、70人以上のスタッフが働く動物実験施設を全面的に閉鎖する予定です。こうした動物実験を減らし廃止していこうとする動きは、思うに、世界中に拡大していると思います。奴隷制が廃止され、人種隔離が廃止されたように、人間の差別意識はなくなることはなくても、制度としては理想に向けて変化していくでしょう。
昨年、私は動物実験は少なくとも自分はやめるべきだと感じました。マウス遺伝学を主な実験系にしていたので、動物を使わないということは研究活動を実質やめることになります。それでも、嫌な思いをして動物を使ってまで、研究を継続したいのかと自問すると、ノーでした。自分の研究にこれらの動物の命を奪うだけの価値はありません。というか、世の中の動物実験のほとんどはそれだけの価値はないと思うようになりました。基礎研究以外にも、人の病気の治療法の開発の実験などで無数の動物が殺されてきました。仮に人間の病気の治療法の開発に動物実験が不可欠だとしても、結局は人間の都合です。
仏教的にはその治療法を使うことも、下に述べるように殺生を犯していると解釈できますし、そう考えると、殺生をしない人間はだだの一人もいないと思います。仏教では「殺生」は最大の罪ですが、動植物を殺すことなく人は生きることはできませから、これは殺さざるを得ないときには、殺すことの意味を噛み締めるようにという教えであろうと思います。仏教でいう殺生は「自殺(自分で直接殺すこと)」「他殺(他人に殺してもらうこと)」「随喜同業(他人が殺すのを喜ぶこと)」でこれらは等しく殺生の罪です。美味しい刺身を食べて喜ぶ、というのも広い意味で三つ目の殺生の罪にあたります。ですので、子供が魚を釣って、お父さんに頼んで捌いてもらって、お母さんが食べたら、この一家全員が三つの殺生の罪を犯したということになります。
殺すことなく生きることができないのは人間の業でありますが、だからといって開き直るのではなく、その罪を自覚して自らを律することが大切なのだろうということだろうと思います。動物実験や法の規制も、結局は人間の身勝手な自己満足であるとも言えます。しかし、「殺す」ことなく生きることができない人間ではあるにせよ、人間にとってもっとも大切な「思いやりの心」を多少でも実践していくのはそれが無いよりははるかにましではなでしょうか。たとえそれが身勝手な自己満足に過ぎず、殺される側にとって何の意味もなくても、それでも「思いやる心」が無いよりはましではないかと思います。少なくとも「思いやる側」にとって益あることだと思います。思うに、殺生を減らしたくて、菜食にこだわり革製品を使わない人というのは、肉食の喜びや生活の不便さと引き換えにするだけの精神の益を得ているのだろうと思います。