百醜千拙草

何とかやっています

グローバルからローカル

2014-10-31 | Weblog
ちょっと精神的に疲れています。今年はグラントの応募のためにこの10ヶ月ほどはそれに集中してきて、今月の始めに二本目の応募を終えてようやく一息ついたところだったのですが、そこへ最初のグラントの良くない結果が帰ってきました。まるで、マラソンを走り終えたと思ったら、もう一度スタート地点まで歩け、とでも言われたような感じです。

しかし、ここでヘタリ込んで、座して死を待つというワケにもいかないので、今、自分に何ができるかを考えています。それで、次の〆切に、更にもう一本グラントを応募できる可能性があるかどうかを考え始めました。自信のあったネタはすでに使い切っています。別に興味深いデータがでているプロジェクトはあるのですが、ちょっと小粒です。それをもっと大きな意義ある話に拡げることができるかどうか考えています。

現在のグラントの採択率を考えると、グラントを当てるのは宝くじと変わらないという人がいます。しかし、ダメなグラントはどうやってもダメです。よいグラントを書いた上で、さらに採択されるかどうかにバクチ的運が関与するということなので、そのレベルのグラントが書けるかどうかが問題です。その辺を見切ろうとしているところです。このネタでそこそこ戦えるグラントが書ける確率は5割、その上で採択の確率は多分3割という感じではないかな、と思います。
というわけで、まだしばらく辛い日々がつづきそうですが、なんとかなるだろうと思って日々、目の前のことに集中しようとしています。

さて、昨日、アメリカFRBが量的緩和(QE)終了の決定。
米、量的緩和を終了 FRB決定 ゼロ金利は継続
 二〇〇八年のリーマン・ショックで悪化した米国景気を立て直すために六年間続けてきた量的緩和が終わることで、米国の金融政策は大きな節目を迎える。FRBは昨年十二月の段階で米国債などを月八百五十億ドル(九兆二千億円)規模で購入していたが、雇用状況の緩やかな回復を受け今年一月以降は縮小。月百五十億ドルまで減らしていた。

この決定が世界の経済にどういう影響を与えるかまだ不明ですが、日本の量的緩和とも相まって円安は加速するかも知れません。量的緩和を引き締めるとはいうもののFRBという銀行がドルを刷って、アメリカ政府に金を貸し続けており、その支払いに税金が使われるということには変わりありません。それにしても、FRBという一銀行がアメリカとドルを基軸通貨としている日本を含む貿易国の経済を自在に操ることができるというのは恐ろしいことです。非線形カオスシステムで「ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」という喩えのように、FRBの量的緩和終了の一言は、世界経済に大きな影響を与え、日本では、円安が進み、株価が暴落し、物価が上がるということを引き起こす可能性があります。このグローバル化というのは、力が集中する要での微細な動きが、世界全体に大きな影響を与え、社会の安定性を損ない、システムの恒常性維持のためのRobustnessを下げるという点で、危険な傾向だと思います。カオスシステムだからこそ、そのシステムの規模はできるだけ限定すべきだと私は思います。力を分散化し多極化すること、即ちグローバル化ではなくローカル化して、個人やコミュニティーのレベルでコントロールできる部分を増やしていくこと、そして、その小コニュニティー同士を揺るやかに繋いで、柔軟性の乏しいヒエラルキー構造に嵌め込むこれまでのやりかたをやめることこそ、豊かさと安定の道であろうと私は思うのですが、(多分、インターネット時代でテレビを見なくなった世代の人は、私と同じように思っていると思います)、現時点でヒエラルキーの頂点にいる連中が、その構造を維持するために必死になっているので、簡単に行きません。しかし、最終的にテレビがインターネットに取って代わられ、個人の情報の発信にマスコミが不要となっていくのと同じく、社会は多極化し、力は分散されていくだろうと思います。経済においては、最終的には、通貨管理を中央銀行に依存しないシステム、ビットコインでも地域通貨でも金本位制でもいいと思います、に置き換わって行くはずだと想像します。もしもこのFRBのQE終了宣言が世界大恐慌を引き起こしたら、それはドル崩壊を一気に加速させるでしょう。そうなれば、中央銀行発効の通貨に依存しないシステムを採用し出すコミュニティーは増えて行くはずです。もちろん政府は規制しようとするでしょうから、簡単には行かないでしょうが、世の中はそういう方向に向かうと私は確信しています。
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たかが研究

2014-10-28 | Weblog
グラントのスコアが出ましたが、予想外に悪くがっかりしました。結構、自信もあったし複数の経験の豊かな人にも見せて好評だったので困惑しています。グラントのレビューアの評価が自分の評価と乖離していたこと、つまり、グラントレビューアと私が同期していない、ということが問題だと思いました。グラントレビューアの方が「外れている」のならいいのですが、私の方が外れているのなら致命的です。いずれにせよ、この結果、もし今後の対処が何も奏効せず、最悪のコースをとれば、来年の秋ごろには活動停止せざるを得ないということになります。早速、ウチの二人に状況を説明し、最悪の場合に備えて、終盤にかかっている数本の論文を今年中に投稿すること、来年の二月には先のことの予想ができると思うので、そこまでは全力疾走して、そのときに方針を決めよう、という話をしました。

長い人生、思わぬことがおこります。一寸先は闇で、スリルに満ちています。大学院時代の指導者の先生が「人生は先が見えないから面白い」と言っていたのを思い出しました。ま、何とかなるでしょう。綱渡りは私の得意技です。ただ家族や研究室の人を放り出すわけにはいかないので、その辺の算段がちょっとストレスです。

随分前にレビューした論文のリバイスのレビューの依頼が着ました。レビューしたことをすっかり忘れていましたが、図表をみて思い出しました。最初の投稿から殆ど変わっていません。いくらパッとしないジャーナルでもこれではダメだなと思って、ふと、カバーレターを覗いてみると、投稿したのは責任著者の人ではなく、別の国の共著者の人でした。当初の責任著者の健康がすぐれないので、かわりに投稿したとあります。レビューアへの返答を見ると、二、三のコントロールのデータを要求したものに対しては、「コントロールの実験はやっているのだが、責任著者のコンピューターからデータを引き出すことができない」というような言い訳が書いてありました。こういう返答は初めてです。普通は、こういう言い訳は通らないというところなのでしょうが、そもそもパッとしないジャーナルに投稿されたパッとしない論文で、コントロールに関しては、一応、データはあるが責任著者の健康問題が理由で物理的に出せない、という事情なのです。リジェクトになるとこの論文はおそらくオクラ入りになる可能性が高いのではないか、と思われました。
 ウーム、どうしたものかな、と思いつつ、ふと所属学会からのいつものメールが着ていたので開けてパラパラと見ていたら、何と、この責任著者の人の訃報が出ていて驚きました。著者が死亡することと論文の中身は無関係ではありますが、私も「Compassion」の大切さを説くダライ ラマの言葉を信じている浪花節系日本人です。おそらく、殆ど読む人もないであろうと思われるこの論文で、著者が死亡してしまった以上、これ以上、論文が改善されることは望めないだろうし、コントロールのデータが出せないぐらいで、そこまで厳密にやることもなかろう、という気がしてきました。

杉浦日向子さんの漫画に、死ぬ前にコンニャクを井戸に落とした人の幽霊が毎日井戸を覗くという話がありました。人は死ぬとコンニャク一枚で冥土に渡れなかったりするらしいです。責任著者の人の訃報を聞いてこの話を思い出しました。この論文がリジェクトになった場合に、万が一、この人が成仏できなかったりしたら困るなあ、と思いました。所詮、サイエンスも人の業、死者の成仏を妨げてまで厳密さを追求するほどの価値はなかろう、と思いました。まだ、〆切まで数日あるので、どういうコメントをするか考えています。まさか、故人の冥福のためにアクセプトを推薦しますとは書けませんし。

ふと、夭折した大学時代の友人を思い出しました。大学院時代に研究に打ち込み過ぎて、アパートで一人、原因不明で亡くなってしまいました。過労死だったのかも知れません。亡くなってから一流紙に論文がでましたが、たかが研究に命を削るほどのことはないのに、と当時は思いました。(だから私は一流紙に無縁なのかもしれません)ポスドク時代にも同じように、一人でアパートで死んで行った友人がいました。彼らは幸せだったのかなあ、などと思いました。幸せであったと思いたいです。

「たかが研究」に限らず、世の中の殆どのものは「たかが」を前につけることができると思います。しかし、「たかが、、、されど、、、」といいつつ何かに一生懸命になることは尊いです。でもほどほどにすべきだと私は思います。博士号取得者の自殺/行方不明率というのは、そうでない人に比べて百倍以上も高いらしいです。何らかの理由で心も体も自ら削っていってしまうのです。一部は研究環境のストレスも理由になっているだろうと想像します。しかし、「たかが、、、」に振り回されて命を犠牲にしてしまってはいけません。
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Ask and thou shalt receive

2014-10-24 | Weblog
そろそろグラントの結果が発表になります。結構おもしろいデータが出てきているので、研究を継続するのにこのグラントは重要です。グラントの審査の結果で、研究方針も場合によっては私の転職も考えないていけません。いまさら心配したところで結果がかわるわけではないので心配するだけムダなのですが、それでも人間ですからどうしても気にはなります。

ただ、年を経るごとに確信するようになったことがあります。
私は無宗教ですので、「神」という言葉のかわりに「ユニバース」と平静は呼んでいますが、ユニバースは私に必要なものは必ず与えてくれるということです。人は、この不自由な世の中で経験を積んで、何かを学ぶために生きていると思います。人生は学校であるという言明ほど私にはしっくり来る喩えはありません。授業は退屈であったり、面白かったりします。休み時間やお昼の時間は総じて楽しいです。いじめたりいじめられたりします。勉強しないとテストの点が下がって、親に怒られたり、友達にバカにされたりします。学校を卒業してもわれわれの人生、死ぬまで学校で起こったと同じようなことが起こり続けます。幼稚園、小学校、中学校、高校から大学へと長年かけて、知識を学び人間として成熟していくのと同じく、退屈な授業やテストを数多く経て、人は成長していくのだろうと思います。われわれが学びに必要なものは学校が揃えてくれるのと同じく、人生においてわれわれに必要なものはユニバースが揃えてくれる、そんなことを年を経るに従って実感するようになりました。

この数年、グラントの資金に給料も研究も全てが依存するような環境で、グラントを失えば、職も収入もなくなり、論文を出せなければグラントも当たらない、という零細企業の自転車操業的生活で、プレッシャーを感じることが多かったです。(本当の零細企業経営はもっとシビアでしょうけれども)しかし、私に限らず、誰でも一寸先は闇です。しかし、一寸先は闇だからと言って夢を見ることを止めて歩むのを止めてしまっては、どこにも行けません。明日も陽は昇り、そしてあたかも広々とした道が将来の成功に向けて続いていると思って、今日一日を充実して過ごしていくべきだとあらためて思います。

どう考えた所で、一寸先が闇であることにはかわりはありません。希望にあふれて勢いよくドアを開けて一歩を踏み出したら崖に落ちるのかも知れません。しかし一歩先は崖かも知れないと思って恐る恐る歩いてもやっぱり同じように崖から落ちるかも知れないのです。どうせ崖から落ちるなら、明るく笑って落ちていきたいです。人間はいつかこの世から去る日がやってきますから、死ぬ間際まで笑って楽しく過ごしたいものです。同じように人生は今日で終わるかも知れないからこそ、明日への希望を胸に今日一日を充実して生きるべきだと思います。そして、幸い、明日が訪れて新しい今日が始まるのならば、与えられた今日に感謝して、さらに力強くもう一歩を踏み出していかねばならないのだと思います。

学校と同じく、人生でも授業に必要なものは与えられるようになっているようです。もし必要なものが見当たらないなら「ユニバース」という先生にお願いすれば先生が持ってきてくれます。それが「求めよ、さらば与えられん」ということらしいです。(ただし、授業に必要でないものは求めても与えらるとは限りません)

いずれにしても必要なものが与えられないことはない思って、心静かに今日のことに集中したいと思います。
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本能と理性のコンフリクト

2014-10-21 | Weblog
先日、読んだ話。この三つの話には、共通点があると思います。いずれも、解決は困難な問題であり、その理由が、長期的な繁栄よりも目先の利益、社会全体よりも自分の利益を何より優先するという動物的本能によるものであるからです。

続壺齋閑話から

クローニー・キャピタリズム (Crony capitalism)とは、文字通りに受けとれば、縁故がものをいうような不透明な資本主義ということになるが、ここでは、競争を排除して独占的な利益を追求するような経済活動を指している。日本の原子力村はクローニー・キャピタリズムの重要な特徴をそなえている。政府と密接な関係で結ばれている。様々な規制を通じて利害が守られている。彼らが受け取る利益に対して、彼らが社会に還元する貢献が少ない。もっと率直に言えば、利益は自分たちの仲間で分配して、損害は社会のツケに回す。福島原発の事故で起きた事態がその典型的な例だ。

ネットの書き込みから。
夏休みに海外にボランティアに行った。比較的十分な設備が整ってる地域だと聞いた。
現地では農作業や井戸の整備などをすると聞いていたのだけど、現実は違った。
現地の人たちはユニセフやNPOの手厚い支援を受けて、食器から食べ物を自分の口に運ぶ機械と化していた。
金属製の汲み上げ機があるはずの井戸は解体され、金物屋に売りさばかれたらしい (完成した翌日に)。
子どもたちは学校に通ってるのかと思いきや、小さい子たちは昼寝か遊んでる。
大人たちは配給所を撤退させまいと農地を荒らしたり、農機具の破壊に勤しんでいる現実。
こんな人たちに支援する人の気がしれない。
 
東京新聞から
意欲や能力はあるのに、お金がないばかりに大学を中退する。そんな憂き目に遭う若者が多い。教育格差は貧富の差を広げ、世代を超えて連鎖する。高等教育の無償化をもっと真剣に考えるべきだ。
 文部科学省調査では、二〇一二年度の大学や短大などの中途退学者は七万九千人。このうち20%は経済的な理由だった。
 問題なのは、国の奨学金だ。貸与型のみで、返済不要の給付型がない。しかも、無利子より有利子の貸出枠の方が大きく、大学進学を諦めたり、卒業後の返済に行き詰まったりする若者が大勢いる。
 多くの先進国では大学授業料が無償だったり、公的な給付型奨学金が出たりする。
 目先の経済成長にとらわれ、次世代への投資を怠っては未来は開けない。高等教育の無償化は、教育基本法や子どもの貧困対策法の要請であるだけでなく、国際人権規約に基づく国際公約でもある。

将来の国の存続と繁栄よりも、目先のカネ。国民全体の利益を上げて税収を上げるのではなく、国民生活を犠牲にしてでも増税によって一時的に税収を上げようとする態度。将来の日本よりも今の自分の生活。人間の理性と知恵よりも動物的本能に従う人々が「国家」という人間特有の組織を率いている現実。

国を率いるのに不適格といえば、アベ政権です。アベ政権が歴史の事実とその国際的解釈を無理矢理にねじ曲げて、日本近代史ロンダリングして「美しい国」に整形手術して劣等感を払拭したいとでも思っているようですが、それに関して国際社会が示している批判を紹介するに二つのブログ記事を読みました。

テッサ・モリス=スズキ教授の語る安倍政権と慰安婦問題 (内田樹の研究室)

安倍首相とその支持者たちがそのような否定を行う一方で、これまで「慰安婦」に関する歴史を伝えようとしてきた日本の記者、歴史学者、出版者その他のひとびとがいま右翼グループからの激しい攻撃にさらされている。
 朝日新聞は、この問題に関して比較的バランスのとれた報道を行おうとしてきた機関であるが、競争関係にある右翼の報道機関や有力政治家たちによって激しく非難されてしまっている。、、、最近、安倍首相も菅官房長官もともに、「日本の国際的名誉を損なった」として朝日新聞を断罪した。、、、、大半の有力マスメディアが沈黙を強いられてしまっている。今もなお日本政府による強制連行否定を批判的にとりあげていたり、強制連行されたことを証言している元「慰安婦」の記事を掲載していたりするのは、せいぜい一、ニ社の勇気ある小規模な新聞だけだ。、、、、 しかし日本が、女性に対する過去の重大な暴力を否定しているあいだは、またその歴史について語る自国民たちを攻撃し抑圧しているあいだは、この主導的役割を果たせはしまい。


世界中に恥とバカを晒し続けて、日本の評価を落とし続け、日本の国際的名誉を損なっているのが誰かは国際社会はよく知っています。知らぬは当人ばかりなり(?)です。

イギリスの新聞「Times」がNHKの内部文書を暴露!日本政府がNHKに南京大虐殺や慰安婦などへの言及禁止を指示していた (真実を捜すブログ)
イギリスの新聞紙「Times」がNHKの内部文書を暴露しました。Timesが暴露した文章によると、NHKは安倍政権から南京大虐殺や慰安婦問題などへの言及を禁止されていたとのことです。安倍政権側はNHKに強く日本の保守的な民族主義と政府の立場を反映するように命令し、NHKもそれに従っていたと報じられています。
Timesは「イギリスでは話題になっている情報も取り上げられない」と述べ、安倍政権とNHKが癒着していることの問題性を指摘しました。

安部首相が政権を取ってから真っ先にやったことがNHKへの脅しだったので、今回の件も予想通りだと言えます。そして、この内部文章のお陰で、日本政府が南京大虐殺や慰安婦問題などを誤魔化そうとしていることが改めて分かりました。前に外務省がホームページの慰安婦関連の記述を削除するということがありましたが、これも政府の方針と何か関係がありそうです


外務省は慰安婦関連のウェッブサイトをこっそり削除しました。「村山談話」をなかったものにしようとしているのです。そのお粗末過ぎる姑息さには「情けない」としかいいようがないです。
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大学の意義

2014-10-17 | Weblog
子供の大学進学に備えて、ちょっと早いですが、希望する大学のうちの一つの学校案内会に行ってきました。
私が大学生の時は、一旦、会社などへと就職すると定年までの過酷な労働の日々が待っているので、大学はその就職までの数年をモラトリアムの身分で遊んで過ごすための遊園地だと思われていました。確かに日本の場合は、終身雇用時代から企業は難関大学に合格することができる受験勉強を頑張れる人間を採用して、社員教育は社内で独自に行うシステムを採用していましたから、競争に打ち勝って有名大学に合格することは重視されても、大学での教育そのものはあてにしていない場合が殆どであっただろうと思います。だから大学は遊園地で良かったし、就職後に備えて学生は思う存分遊んでもらう必要があったのでしょう。勿論、その一方で、上昇志向の強い学生は、大学での成績にも細心の注意を払い、一流企業に入って出世街道を歩むために一生懸命勉強していました。
 私と言えば、大学の試験は通れば良いというレベルで試験前しか勉強しなかったので、大学の勉強が面白いと思えるようになったのは、最後の1 -2年ぐらいです。今から思えば、もっと早くから真面目にやっておくべきだったと後悔しています。ま、もう手遅れです。現在は病院付属の研究所にいるので、学生との接点は殆どありません。いろんな大学には足は踏み入れますが、授業を聞く訳でも学生さんと交流するわけでないので、今回、新入生むけの学校案内で、知らない大学の構内をウロウロしたのは、新鮮な経験でした。訪問者用の建物があり、そこには巨大なタッチスクリーンが設置されていて、大学の宣伝をしています。最初に大きな階段式の講堂で大学の宣伝ビデオを見て、担当の人(学生)との質疑応答があり、その後、小グループに別れて、構内のいろいろな施設を見学して回る二時間コースです。私が行った地方国立大の事務受付は、半分崩壊しつつあった木造のみずぼらしい建物にありました。それと比べると雲泥の差があります。
 大学は遊園地、という言葉の意味がわかるような気がしました。人が社会に貢献して、よりよい世界を作って行くために、創造力を鍛え、物事に熱中し、他の色々な人々と交流する経験を積むことはとても大切だと思います。そうした技術を学び、物事を俯瞰的に眺めて考えることは、忙しい毎日のルーティンの中では難しいです。大学はキャンパスという遊園地で、学生はその空間の中で、様々な刺激的で面白いことに遭遇するチャンスを与えられるわけです。Robert Fulghum のエッセイで、「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」というのがありますが、人は、このような「生きるための毎日の活動」を離れた場所で時間を過ごすことを通じて、大切なものを学び、創造力を育むのだろうと思いました。大学はそのような「遊園地」的な場所でなければならないのでしょう。そう考えると、この大学、マトモに払えば年間500万円ほどの授業料と寮費がかかりますが、実はそれだけの値段に値するサービスを提供しているとも思えます。ディズニーランドに正規料金で毎日通えば、年間、同じ位の費用はかかるでしょうし。

やる気のある人間は、どんな環境からも学び成長するでしょうから、私は大学に行くことがそれほど重要だとは思いません。しかし、私にとって、大学での数年というのは、資格をとるのに必要であったという実利的な理由以上に、大変有意義なものであった(当時は、よくわからなかったのですが)と思います。子供にもそういう機会を与えてやりたいとは思います。しかし年間500万円はとても払えませんから、なんとか奨学金を集めてもらうなり、別の安価な大学を考えるなりしてもらわなければなりません。(本人次第ですね)大学側も優秀でやる気のある学生を集めたいので、優秀であれば様々な方法で支援が受けれます。逆に言えば、奨学金が取れないような学生に対しては、大学側は授業料を払えるのなら来てもよいという態度なのだと思います。結果、優秀であればあるほどよい教育が安く受けられる一方、そうでない学生は高い授業料を払わされる上に教育の質も劣るということになるのでしょう。
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原発関係ニュース

2014-10-14 | Weblog
東京新聞から。
週のはじめに考える “大転換”の風が吹く
ドイツでは、再生可能エネルギーが急速に普及しています。かといって、電力が足りなくなることはなく、ものづくりも好調です。風は誰が吹かすのか。
 今年ドイツでは、電力消費量に占める再生可能エネルギーの割合が、28・5%になりました。
 二〇〇〇年には3%しかなかった風力や太陽光の電力が、25・1%の褐炭火力を抜いて電源別第一位の座に就いたのです。
 日本では、せいぜい2%程度しか、太陽や風の力を活用していません。ドイツでは、なぜ増えていくのでしょうか。

日本の原発利権と政府官僚の怠慢のせいでしょうね。Status quo至上、事なかれ主義の日本。ドイツでできることが日本でできないとは情けないことです。しかし、一方で一般の人々は立ち上がりつつあります。

原発説明会 手続きで終わらせるな
原子力規制委員会は先月十日、川内原発が3・11後の新たな原発規制基準に「適合」しているとの審査結果を公表した。
 その二日後、政府は周辺自治体の避難計画などを了承し、「安全性の確保が確認された」という内容の文書を、原発が立地する鹿児島県と薩摩川内市だけに交付した。説明会には、県外からの参加が認められていない。しかし、原発被害が県境をたやすく越えて、より広範に及ぶと、福島の事故は教えてくれた。
 審査結果公表直後の意見公募には「形だけ」との批判も多い。

再稼働あり、というあらかじめ決まった結論に向けての型づくり、住民、国民をバカにしています。そもそも日本に必要も無い原発がここまで林立しているのは、原子力を売りたかったアメリカと、それを利用してビジネス拡大を狙った読売のポダムの不純な動機ゆえです。

正力松太郎はなぜ日本に原発を持ち込んだのか
「原発の父」と呼ばれる正力松太郎は、独占的な通信網欲しさから原発を日本に持ち込み、田中角栄は利権目的で原発を利用した。こうして日本の原発は、その本来の目的とは乖離した、いわば不純な動機によって増殖を続け、そしていつしかそれは誰も止めることができないものとなっていた。

そして、必要も無い原発が50基も林立し、まるで体中に爆弾を巻き付けた自爆テロリストのような国になってしまったのです。根は深いです。

これ笑えます。でもこれが今の日本の政権の頭のレベルなのです。
小渕経産相、原発コストに対し矛盾の答弁

 小渕優子経済産業大臣は、8日の参議院予算委員会で、原発事業の優遇措置を検討する考えを示した。小渕大臣は「原発のコストに関しては、福島以降の試算では8.9円で、他のものより割安だ」と述べた。
これに対し、「安いのならば優遇措置は必要なく、自由競争すべきではないか?」と問われると、「平均したコストは安かったが、想定外の廃炉があった場合は多額の費用がかかり事業継続は困難になる」として、優遇措置が必要との認識を示し、事故が発生したときの対応を含めれば原発のコストが割高になることを認めた形となった。
また、小渕大臣が「可能な限り原発依存度を低減する」と述べたことに対して、「現在は原発稼働はゼロだが、どの基準に対して原発依存度を低減させるのか?」との質問に回答することができないなど、原発政策への認識不足を露呈している。


突然、経産省の大臣に任命され、勉強もしてないのに、原発の事を答えることなんて無理だよね(ハッピー氏)と同情的(?)な意見もありますが「急な任命で勉強してませんからマトモに答えられません」などというような言い訳が通るわけがないと思うのですが、、、

福島事故放出セシウム 東京湾河口 残る汚染
 東京電力福島第一原発事故から三年七カ月が過ぎ、東京湾の放射能汚染はどうなっているのか。本紙は九月、独協医科大の木村真三准教授(放射線衛生学)の協力を得て、海底の土や水を調べた。沖合の汚染は低かったが、河口周辺ではかなり高い汚染が広く残っていることが確認された。
 今回の調査で、原発から二百キロ以上離れた東京湾でも、河口周辺は要注意の汚染レベルにあることが判明した。

今のところ、魚の汚染はそれほどでもないようですけど、福島原発事故の収束が見えない現在、将来、「江戸前寿司」は、幻の食べ物になってしまうかもしれません。
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9条のノーベル平和賞

2014-10-10 | Weblog
まもなく発表されるノーベル平和賞で憲法九条が授賞するかも知れないという話。

柳田先生は、なってもらっては困る、欺瞞になる、と言っておられるようです。多分、独立国として、自衛、軍備の権利は当然と考えられているのでしょう。

軍国化して戦争したいアベ政権にとってもうれしくはないでしょう。日刊ゲンダイの記事だと、

ノーベル賞の発表が6日からはじまった。本当に日本の「憲法9条」がノーベル平和賞を受賞するのか。もし受賞すれば、安倍首相の「改憲」のもくろみは吹っ飛ぶことになる。
しかし、「改憲」を訴える安倍首相は、「みっともない憲法ですよ」と吐き捨てるほど平和憲法を毛嫌いしている。いま日本政府は、受賞しないように働きかけている、という怪情報も流れているが、もし憲法9条が受賞したら、安倍首相は授賞式に出席するのか、どんなスピーチをするのか。

と希望的に書いてあります。しかし思うに、ノーベル平和賞ぐらいで、この連中の曲がった性根がなんともなるようなものではありません。原発が爆発して甚大な被害を地域住民に与えても、事実上の放置、棄民をする一方で、原発輸出、再稼働をごり押しする連中です。沖縄で数えきれないぐらいの米軍による犯罪や訓練に関わる迷惑行為が起ころうとも、基地利権を手放したくなくて辺野古の珊瑚礁を埋め立ててでも沖縄米軍の恒久化をしようとしている欲に目のくらんだ愚か者の集まりなのです。ノーベル賞ぐらいで態度が改まるわけがありません。

そもそも、軍備する意味は何なのでしょう。アベ政権も右翼の方々も「防衛」のためだと言うわけですが、だいたい、日本がいくら軍国化を進めた所で、敵国(?)が本気で日本を攻めてやろうとするのならば、五十数基の原発が林立する日本は、防衛などしようがないと私は思います。つまり、私が思うに、防衛はどうやったところで、単なる「防衛ゴッコ」に過ぎない。本音は、堂々と戦争ビジネスで金儲けしたいということでしょう。防衛は国民の命や財産を守るためではなく、一部の戦争ビジネスマンが一般国民の命と財産を使って金儲けをするための単なる口実であろうと私は思います。

日本の再軍備化に賛成する一般の人々には「国の誇り」みたいな心情的なものがあるのだろうと私は思います。そこで「国」とは一体、何なのか、というあたりの議論をしてもよいような気がします。われわれは、「国」がそこに住む人間の利益を守るための「民主的な」共同体、機関であると何となく思っており、外国は彼らの利益を求めて、日本にあるわれわれの財産を侵しにくる場合があると思っています。確かに、物理的に国同士の交流が限られていた時代、帝国主義の時代はそうでしょう。しかし、現在はどうでしょうか。国同士は経済的結びつきが強くなり、戦争した方がはるかに損を被る場合の方が多いのです。戦争をして得をするのは、戦争ビジネスをやって火事場泥棒を働く一部の連中だけであり、国際企業の経済によるパワーが強大になっている現在、日本と戦争して、得をすると考えている「外国」はまずないでしょう。

加えて、この国の支配者層(政府官僚)は、大多数の国民を税金を巻あげ、放射能の危険に晒し、挙げ句に徴兵して戦争してカネ儲けを企む(と思われる)ような連中です。そもそも、日本の国の重要な政策は、民意を代表するとされている国会の議論を通じて民主的に決められてるのではなく、官僚と日米地位協定という戦後日本がアメリカの植民地であることを確認する条約に基づく委員会、日米合同委員会での合意によって決められます。即ち、日本は民主主義国家でもなければ、独立国でもなく、日本政府は国民を守るためではなく、国民を管理し利用するために存在しているということです。この現状をみれば「独立国の誇り」などというものは、全くの幻想にしか過ぎないと私は思います。

それでも戦後の自民党は日本が植民地であるという事実を目の前に突きつけられてたせいでしょう、今の首相に比べたらはるかにしたたかで賢かったと思います。むしろアメリカの属国として、名を捨て、実を取ってきた歴史があります。名を捨てることによって、世界第二位の経済大国に発展し、その間、平和と豊かさを実現し、国民総中流という高い教育と安全を享受してきました。逆に、身を捨てて名をとろうとしていれば、多分、本当に一億総玉砕でどちらも取れなかったでしょう。アベが、靖国に参拝しておいて「国連の常任理事国になりたい」とかいうのを聞くと私はとても恥ずかしくなります。戦後史を本当に理解していれば、そういうことは少しずつ、地道に実績を積み重ね、慎重な交渉を根気よく続けていくことでしか実現できるはずがないのは明らかです。国連は第二次大戦の戦勝国が作った組織、そこで日本が常任理事国になれないのはあたり前です。国際社会が日本は敗戦国であり、アメリカの属国であると認識しているからに他なりません。にもかかわらず、靖国参拝し、戦勝国の機関である国連の常任理事国の神経を逆撫でしておいて、常任国にしてくれ、というのは、いったいどういう神経なのか、と向こうは思っていることでしょう。本音のところ国連は日本がまた戦争を起こしたりしないように管理する組織ですから。
 本当に独立国として認めてもらいたいのであれば、地道な努力を続けて、まずは日米地位協定を改定しないと話になりません。日米がお互いの得になるような落としどころを見つけて立場の弱い日本の方から下手に出てじりじりと交渉していくしかありません。国連総会でのアベを見た諸外国は呆れ果てたでしょう。ひょっとしたら本人はなぜオバマからこれほど冷たくされるのかさえ分かっていないのかも知れません。

しかし、最大の問題は、アベというような勘違い男ではありません。日本の支配者層は、在日米軍を口実にした利権と現状を、「独立国の誇り」みたいな喰えないものとの交換に手放したい気はさらさら無いない、つまり彼らは「国を売って」彼らの利益にしてきたし、これからもそうし続けたいと考えているということでしょう。

話がずれました。

私は、9条がノーベル平和賞をもらうことには意義があると思います。世界の人々の9割は、多分「民主主義」は現在の政治形態の オプションの中では最適解であると考えていて、彼らの意思の総和が社会の形態を決めるべきだと思っているでしょう。勿論、支配者層はこういう考え方はしません。支配する側は、9割以上の一般人は、一部の支配者層によって支配され、搾取されるべき階層だと見なしているであろうと思います。

憲法9条がうたう非戦の誓いは、戦争が絶対悪であるが故に、絶対的に「正しい」ことだと私は考えているのです。絶対的に正しいことは最後にはprevailします。そういう考え方が9割の人々に広まること(たとえ、9条がアメリカ進駐軍からの日本の再軍備化を防ぐための方便として押し付けられたという事実を鑑みても)は私は好ましいと思います。その普通の9割の人々が平和の善と戦争の悪を心に刻むことによって、恐怖で人々を牧場の羊のように支配しようとする支配者層の目論みを頓挫させることにつながると私は望んでいます。
ノーベル平和賞はそうした「平和の尊さ」を広めるにの多少は役立つのではないか、と思うのです。
9条の経緯が欺瞞であっても良いではないですか。腹に一物を持って悪人が言う言葉でも正しいことはあります。

それに、だいたい独立国でもないのに「独立国の誇り」みたいな口車に乗せられて、戦争ビジネスのコマに使われて戦場に駆り出される必要もないでしょう。
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職業研究者の資質

2014-10-07 | Weblog
ようやく研究費申請書、提出しました。この二ヶ月ほどはこれに掛かりっきりになっており、二ヶ月前までは別の研究費申請書に掛かりっきりで、その準備は今年の一月から始めたので、この9ヶ月ほど、研究費申請のことばかり考えていました。とりあえず提出して一段落。この申請書もイヤになるぐらい推敲を繰り返しましたが、通るか通らないかはまた別問題です。通らなければゼロです。ま、なんとかなるでしょう。今月の末には前回に出したものの結果がわかるので、その結果次第でまた書きものの日々が続くことになるかもしれません。これも、なんとかなるだろうと楽観的にしています。できるだけのことはやったと思うので、それでも足りないのなら今の私にはどうしようもありませんし。その間に書かねばならない論文をコツコツと進めたいと思います。とはいうものの、いまいちモチベーションが湧かず、論文を数行書いては、集中力が切れて、どうでもよい雑用をしたり、このブログを書いてみたり、しようがないので、ダラダラと牛の歩みのように進めています。やはりリアルタイムで実験をしながらデータを見るのと、それらを論文のためにまとめるのとでは、ワクワク感が違います。しかし、ヒットやホームランにならないような研究でも着実に論文にしていくのは大切なことだと私は最近思うようになりました。

とはいうものの、何というか、ちょっと気が抜けたのか、体の奥からやる気が噴き出してこない感じです。こういう時はちょっと気分転換しようと思って、久しぶりに図書館に行ったら、何と、病院付属の図書館が閉館していました。雑誌がオンラインに移行してから、文献を探しに図書館に行くことはすっかりなくなり、月に一、二回、教科書を見に行ったり、安楽椅子で考え事をするために行ったりする程度でしたが、図書館で勉強したりする利用者はそれなりにいたので、まさか図書館そのものが物理的に閉館になるとは思いませんでした。今はバーチャル図書館が残っており、コンピューターから図書館のサイトを通じて文献にアクセスするようになっています。それにしても寂しいことです。

寂しいと言えば、ウチの講座も人が減る一方です。グラントを持っている人はよりよい条件の職場へ移るし、グラントがキープできない人は辞めざるを得ません。多分、最盛期の2/3ほどの規模に落ちたのではないかと思います。先の学会では、昔の旧友に会いました。十年ほど前まで、同じ講座にいたのですが、やはり資金切れで別の遠方の施設に移り、そこに数年いてからまた別の施設に移りました。話を聞くと、かなり努力して研究費を取ろうとしたがかなわず、結局、契約更新ができず、次の行き場もまだ見つかっていないという話。これまでの彼の苦難を考えると気の毒です。彼は根はいい人間なのですが、しかし、独立研究者として、ちょっと足りない部分があるのです。それは科学者としての能力の問題というよりは、むしろ世間の渡り方の問題だと私は思います。私は、世間の渡り方に関して講釈できるような立場では全くありませんが、これまで、Nature、Scienceクラスの論文も書き、それなりの業績もあり、頭も切れ、本人も研究が好きなのに、研究現場から去らねばならなくなった人を、何人か見てきました。一方、余り頭も切れるようではないし、一流雑誌の論文など一本もないのに、なぜか長年、研究を続けている人も見てきました。これらの人々を一歩下がってながめると、研究現場に残っている人には多少の共通点があるようです。

われわれのレベルで(もっとハイプロファイルの研究者は別です)研究現場に長期に残っている人は、総じて、明るく、楽観的、親切、寛容、不満を言わない、という研究能力とはあまり関係なさそうな人間としの美徳を持つ人が多いです。一方、残れなかった人は、頑固、寛容性に乏しい、視野が狭い、独善的で傲慢、秘密主義、素直でない、己の不運を他人のせいにする、の欠点があるように思います。結局は研究費をとれるかどうかで研究者のキャリアは決まるのに、不思議だなあと思います。あまり良い理由が思い浮かびませんが、研究費申請書を書く上で、こうした人間としての美徳がプラスに働くのではないか、と私は想像しています。学会で会った旧友の場合は、自分と回りの状況を客観的に解析して与えられた環境の中でベストの結果を追求していく、という点に多少の不足があったのではないかと私は思いました。ま、岡目八目ですから、私も偉そうなことは言えません。他人の目から自分を眺めるというのは難しいものです。

よい研究計画書を書くのは、論文を書くのとは別の技術が必要です。科学性や論理性という研究者の基本能力に加えて、読者の心理を読んだセールス技術が必要かつ重要になってきます。人の気持ちがわかること、他人の身になって考えることができること、そいいうことが自然とできる人はおそらく、読みやすく、好感のもてる研究申請書を書けるのではないでしょうか。

加えて、成功する人は、誰からでも学ぼうとし、結果を出すことにフォーカスし、そのためには自分のエゴを簡単にコントロールすることができる強い自己節制力を持つ傾向があると思います。私の講座にも10歳ほど年下の人がいますが、この人がまさに成功する人を絵に描いたような人です。素直で寛容、楽観的で行動的、向上心があり、大きな目標の達成のためにエゴをコントロールできる節制力、そういう性質が、学びを容易にし、人から好かれて、チャンスを拡げていくのであろうと思います。

私も、なるべくそういう人になるべく心がけてはいますが、なにかにつけ、未熟さを思い知らされる日々です。
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日本政府というもの

2014-10-03 | Weblog
前回、さんざん悪口を垂れ流してしまい、反省しております。いくら真実であっても、悪口に含まれるようなネガティブなエネルギーは毒気がありますから、悪口は極力言わないように、もっとニュートラルな表現にしないといけませんでした。
 首相が「バカ殿」とか、まるで「バカ殿」をバカにしたような表現はすべきでは無かった、大人げなかったと反省しました。大人気のある人とは、国に騙され、放射能まみれになって身近な人が死んでいっても、戦争で無実の人間が何万人も殺されても、消費税を増税して貧困層が窮して餓死したり首を吊ったりしても、「人生いろいろ」とでもうそぶいて動じない人のことを言うのかも知れません。ま、ともかく、私も残りの人生、いろいろやらねばならないこともありますし、時間も限られていることですから、悪口で毒気を垂れ流しながら不条理に怒る部分と、人の善意を信じてお花畑で楽しく過ごす部分とうまくバランスをとってやって行きたいと思います。

などと平和モードになっていたら、頭に血の昇るニュース。

「陸山会事件」というデッチあげ事件で起訴された小沢氏の当時の秘書、石川元議員の控訴を最高裁が棄却。小沢氏は「秘書の問題も私の問題も全て政治的意図を持った国策捜査の結果だ。検察の主張を裁判所が認めたことは大変残念であり、日本の司法制度に汚点を残す」と述べ、司法当局を批判した。(日本の司法に汚点=小沢氏)その一方で、石川氏の取り調べで虚偽調書をでっち上げた検事の方は確たる証拠にもかかわらず、不起訴、検察審議会でも不起訴相当というイカサマ劇場。

一市民さんTさんらの地道な調査によると、そもそも最高裁そのものがこの政治事件の黒幕であった可能性が極めて高いのです。(一市民が斬る最高裁の罠)この事件の全容を知れば、石川さんが問われた罪の内容に、あきれかえるでしょう。これは全くヤクザのイチャモン、何の犯罪事実もない所にでっち上げられた「火の無い所に立てた煙」です。政権交代がかかった選挙直前に当時の野党第一党、党首失脚を狙った露骨な謀略、政治的な意図のもと国家権力を悪用した恥ずべき「国策捜査」事件でした。

日本の司法は結局、官僚ですから、独立した権力ではありません。国家権力をもつ三権は独立して牽制しあうのではなく、お互いの利益のために連立して、力のないものを貪り、己の都合のよいように無実の人間を陥れ、立憲主義、法治国家という建前も平気で踏みにじって恥じぬヤクザ組織(というとヤクザに悪いですが)だと私は思います。

そして、秘密保護法という「言論統制」制度を12月10日から施行する方針という話。憲法なんぞ、ナンのその、まさにバカ政権が数にモノを言わせて、やりたい放題。これで、国策捜査はもっとやりやすくなり、言論封鎖するにしても、痴漢のでっち上げ、練炭自殺偽装などという面倒くさいことをする必要もなくなるということでしょう。気に入らないことを言うヤツは「秘密保護法違反で、逮捕して刑務所にぶち込む、でも逮捕の理由はヒ、ミ、ツ」ですからね。そして逮捕、起訴されれば、警察も検察も裁判所も邪魔者を消したい権力者もみな同じ穴のムジナですから、全くの無実であっても、あっという間に有罪判決はでっち上げられてしまうのです。日本政府はそういう機関だちゅーことです。

田中良紹さんの記事から。
臨時国会召集日に安倍総理が自民党の両院議員総会で「正面から堂々と論戦したい」と発言したのを聞いて驚いた。この政権はこれまで一度も正面から堂々と論戦を行った事がないからである。
 最大の事例は集団的自衛権の行使容認を閣議決定しながら、立法作業を先送りし、来年の通常国会の終盤でほんのちょっと議論して決めてしまうスケジュールを描いている事だ。憲法の基本にかかわる問題を「正面から堂々と議論」しない姿勢がこれほど明らかな例はない。こんな事例は世界でも日本だけではないか。


日本の政府というのはこういうものだということです。
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