百醜千拙草

何とかやっています

喰えないターキー

2015-11-27 | Weblog
この木曜日はアメリカは感謝祭です。感謝祭は、起源的にはイギリスから渡ってきた清教徒をアメリカ原住民が助けてくれて生き延びることができたことに感謝したことが由来となっているようです。しかし、現実は、その後の史実が示す通り、ヨーロッパからの移民による原住民の虐殺と略奪であったわけです。結果として、ヨーロッパ系移民がアメリカ大陸を乗っ取り、その結果として繁栄しました。アメリカは清教徒の入植から始まったキリスト教国家であり、清教徒はその名の示すとおり、排他的、差別的な傾向をもちます。現在もアメリカに根強く残る差別はその辺からきているのかもしれません。つい先日も、シカゴの白人警官が無実の黒人少年を蜂の巣にして殺した事件があり、大きなプロテストが起こりました。かつてアフリカ黒人を奴隷として、家畜同然に使っていたヨーロッパ人の傲慢さが残っているのでしょうか。

藤永茂さんはフランツ ファノンにの言葉を引いて、帝国主義に見られるような異常な残虐性や収奪への盲目の欲望を「ヨーロッパの心」と呼んでおられます。---コロンブス以来、西欧が自余の世界に加え続けた暴虐は全く桁外れの大きさです。それを産み出して来た、個人として、集団としての、人間の心を、私はファノンにならって、「ヨーロッパの心」と呼びたいと思うのです --- (良く生きる(VIVIR BIEN)から引用)

このヨーロッパの心はアメリカに引き継がれ、現在では、イスラエル建国以降とりわけひどくなった中東でのアメリカとNATOの悪行三昧(と言わせてもらいましょう)にその醜さが現れています。

きっこのブログ、アメリカもロシアもフランスもイギリスもみんなテロ国家では、中東で戦争の犠牲となっている一般市民のことが取り上げられていました。テロをダシにシリアを攻撃するNATO、アメリカ、もちろんその裏にいるイスラエルによって数十万という子供を含む一般市民が殺され、大勢の難民を生む結果となっています。フランスのテロの被害は大きく報道されるのに、その何千倍もの規模でなされているアメリカの中東での市民の虐殺の報道はわずかです。しかも、アメリカ、イスラエル、NATOのシリア侵攻の真の動機はスノーデンらの内部リークにもかかわらず、広く知られているとは言い難いです。ISIS (イスラム国)という過激派組織は、そもそもアメリカ、イギリスとイスラエルが作り、アサド政権を倒す目的でコッソリと支持してきたもので、そこにトルコが一枚、噛んでいます。ところがだんだんISISの制御が効かなくなってきて、そこでやむなくロシアが出てきてISISを制圧しようとしたということだと思います。つまり、ISISを本気でなんとかしようとしているのはシリアのアサド政権とロシアであり、ISISを口実の一つにシリアに介入してアサド政権を倒そうとしているアメリカ、イスラエル、トルコにとっては、建前上、ISISの制圧をしているフリをしているものの、ロシアがすんなりとISISを制圧してもらっては困るというのが本音なのでしょう。

アメリカでは、感謝祭にターキーを食べるわけですが、それに合わせたのように、トルコ(Turkey)が 、シリアでのテロ組織制圧に従事していたロシアの戦闘機を攻撃したというニュースがありました。「感謝祭ディナーはターキーを喰おう」とオバマと電話するプーチン、の風刺漫画が、早速、出回りました。

田中宇さんの記事「トルコの露軍機撃墜の背景」が配信されたので、一部転載。

、、、トルコが今回、露軍機を撃墜した真の理由は、シリア領内でトルコ政府(諜報機関)が支援してきたトルクメン人などの反アサド勢力(シリアの反政府勢力)を、露軍機が空爆して潰しかけていたからだった。トルコ側が露軍機に警告したのは「トルコの仲間(傀儡勢力)を爆撃するな」という意味だったので、空爆対象をテロ組織とみなす露軍機は、当然ながら、その警告を無視した。 、、、戦況がこのまま進むと、ISISやヌスラはトルコ国境沿いから排除され、トルコから支援を受けられなくなって弱体化し、退治されてしまう。トルコは、何としても国境の向こう側の傀儡地域(テロリストの巣窟)を守りたい。だから17秒間の領空侵犯を口実に露軍機を撃墜し、ロシアに警告した。 、、、トルコはシリア内戦で不利になり、かなり焦っている。 、、、ISISやアルカイダの創設・強化は米軍の功績が大きい。米国は、ISISやアルカイダを敵視するふりをして支援してきた。、、、だが、先日のパリのテロ以降、それまで米国のマッチポンプ的なテロ対策に同調していたフランスが本気でISISを退治する方に傾き、国際社会の全体が、ロシア主導のISIS退治に同調する傾向になっている。、、


結局、シリアで無実の人間が何十万と殺されて、大勢が難民化するのは、もとを正せば、醜い「ヨーロッパの心」ゆえであろうと思います。幼稚な力に頼った独善的な傲慢さだと思います。力を持つものが成熟して自制を覚え、弱いものをいたわる心をもつことでしか、中東の問題を解決できないだろうと私は思いますが、エルドアンやネタニヤフの顔を思い出すと、道のりは遠いな、という感じを否めません。
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危ないポエム

2015-11-24 | Weblog
増税だけして社会保障はホッタラかしだった「社会保障と税の一体改革」、経済成長は全然ダメなのに、刷りまくって円の価値だけ下げた「アベのリスク、三本の矢」、官僚や政治家が、こうしたキャッチコピーを使って、本質を隠し、メディアを通じて印象操作をすることが近年とくに目立ちます。「ポエム化」という現象の一つのようです。最近、東洋経済で、日本の「ポエム化」現象のナゾ、という特集がありました。

私が問題視しているのは、政治家や役人の言葉、官公庁のプレスリリースなど、説明すべき責任のある文章がポエム化していることなのです。本来、情報を運ばなければいけないのに、気分を運んでいる。つまりポエムですよ、、、官僚が官僚的でなくなろうとしたときは、官僚の責任を回避したときや官僚の職分をまっとうしていないときです。だから、官僚がポエムを言い始めたら、何かをごまかそうとしていますよ。私は、役所がカタカナ、英語、やまと言葉を使うときは危険だと思っています。


官僚コピーライターの書く欺瞞に満ちたキャッチコピー、聴くたびに気分が悪くなりますが、最近、聞いたのは「一億総活躍」というのがあります。早い話が、年寄りなどにも働かせて税金を払わせ、年金を抑え、福祉をもっと削りたい、ということのようです。(昔のアメリカのウーマンリブ運動みたいなものでしょうか)すなわち、もはや一億総中流という時代は終わって久しく、いよいよ一億総下流だということです。が、一億総下流というわけにもいかないので「総活躍」と言い換えたみたいです。そのうち一億総玉砕となるのも遠からずか、というイヤな気分になります。(冗談に聞こえません)

数年前の内田樹の著書の中で、「日本がどんな国になってほしいか」という問いに対して、ある学生が「そこそこの国」と回答したという話があったのを思い出しました。「そこそこ」というのは、他国との比較に基づいて自分の国のポジションをきめようとする自主性のなさ、基準を外に求める態度の表れだろうという解釈であったように思います。

一方、「そこそこ」という言葉には、ある種の肯定性を感じます。「そこそこで、良いじゃないか」みたいに、「そこそこ」という言葉には肯定的な言葉が続きます。「一番にならないと意味がない」みたいな血管が切れそうな緊張感がなく、ま、このへんで手をうっておきましょうか、というようなバランス感覚、極端を嫌い中庸を良しとする、東洋の民族性のような、何となく力の抜けた平和な響きがします。確かに何か外部ものと比べることで己を評価するからこそ「そこそこ」という言葉が出てくるのだろうと思いますが、そこに自己否定やアグレッシブな不愉快な感じはありません。

私、「そこそこ」の国で、みんなが「そこそこ」に生きていけるのであれば、それは理想だと思います。しかるに、勝ち組に入らなければ負け組だ、やらないとやられる、軍国化しないと侵略されて滅びる、そのような二極化に基づく「恐怖心」が、「そこそこ」をよしとする東洋の伝統(?)を破壊しているのだと私は思います。それは、やはり欧米の帝国主義の武力に屈することで始まった日本の近代化(西洋化)という歴史が影響していると思います。

明治期の「脱亜入欧」とか「和魂洋才」とかいう言葉の持つ卑屈さ、恥ずかしさ、気持ちの悪さと比べたら、「そこそこの国」は遥かに高等で平和的な理想像だと思います。それは、黒船がやってきて力づくで開国させられ、力の差を思い知らされた日本が、西洋の猿真似を始め、その西洋に対する劣等感を代償するために他のアジア諸国を差別的に見下した嫌らしさを感じさせます。日本は西洋化しアジア諸国から離れなければならない、そういう現状に対する否定と西洋諸国に対する劣等感とアジア諸国への差別意識が、なんとも下品で情けない。残念ながら、その当時すでに国際資本とつながっていた長州藩の系譜が文字通りに現在の日本政治に受け継がれてきているのだとアベ政権を見ていて実感させられます。

「そこそこの国」は、豊かとは言えないがとりあえず不自由なく生きては行けていけるラクな社会の国、そんな意味で学生さんは回答したのではないかと想像します。つまり、多分、大きな苦労をしなくても親に守ってもらえてそれなりに恵まれて生きてきた若者が、このままの生活が続いてくれるならまずまず満足だ、そんな気持ちで言ったのではないでしょうか。

ならば、国の理想としては「そこそこの国」は、おそらく、もっとも恵まれた形といえるでしょう。そんな生ぬるいことを言っていれば滅びてしまう、世間は厳しいのだ、という人もいることでしょう。ま、そう思う人が多いのは十分理解できます。事実、管理通貨制によって現代日本人は支配者層のカネの奴隷とされ、カネがなければ生きていけないという恐怖によってすでに支配されています。近代戦争のほとんどがカネ儲けのためのヤラセであり、恐怖を通じた人民の支配方法と私は思っていますが、それでも人が死ぬ場面を見せられ、テロの現場を繰り返し見せられれば、そのうち戦争巻き込まれるかもしれないという恐怖にとらわれるのはやむを得ない部分もあります。しかし、戦争やテロに巻き込まれる危険は、おそらく今日、交通事故で死ぬ確率よりもはるかに低いであろうと私は思います。ならば、私は、恐怖にとらわれることなく、「そこそこ」で毎日、幸せを感じて生きていく方がはるかに人間らしい生き方だと思います。どうせ誰もがそのうち死ぬことになるのですから。恐怖にとらわれて目尻にチカラこぶをいれて、一億総活躍だとか総玉砕だとか、と喚く連中に耳を貸すのは真っ平です。大体「一億総活躍」などと大声を上げる人間に限って、しっかりと退職金と天下り先を確保をして、老後は安穏と引退生活を計画しているものです。
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CRISPRマウス 体験記

2015-11-20 | Weblog
CRISPR/Cas9の技術はあっという間に広がって、様々な方面に応用され、我々のような末端研究者でも簡単に手が出せるようになりました。その簡便さは画期的技術であったTALENやZFNをわずか数年で過去のものにしてしまいました。マウスでESを使った遺伝子ターゲッティング技術も間もなくCRISPRに置き換えられて過去の話になりそうです。
今回、新たにヒト疾患でみつかった点突然変異のマウスモデルを作ることになり、CRISPR/Cas9でやろうということになりました。以下、その感想をメモ。

遺伝子操作のStrategyは、wild-type Cas9と合成一本鎖DNAのrepair templateを、マウスの受精卵に打ち込むというやり方をとることにしました。DNAの切断が起こる必要があるので、Cas9-nickaseと2つのガイドを使うspecificityの高い方法と、従来のwildtype Cas9とシングルガイドを使う方法で悩みましたが、特異性よりも効率を優先してWildtype Cas9/シングルガイドでやることにしました。オーソドックスに20塩基長のガイドRNAをつかいました。

(最近の研究で、Cas9は結構ランダムにDNAに結合はするのだが、ガイドの相補性とその長さがCas9の高次構造に影響を及ぼしてCas9の活性を決めているらしいということがわかりました。以前からガイドは短かめの方が特異性が高くなるという不思議な知見がありました。最近の論文ではガイドが14塩基以下になるとCas9は切断活性を失うということが報告されています。つまり、ガイドは単にCas9を目的地へと連れていくだけではなく、Cas9の活性そのものに影響するということで、これで、短いガイドの方が特異性が増すというという観察結果を説明できそうです)

DNA切断後のNon-homologous end joining (NHEJ)によるリペアはhomologous recombination (HR)によるDNAリペアよりもはるかに効率が良いので、Wildtype Cas9でDNA切断を起こさせると、多くはNHEJを通じたリペアのせいでindelの変異が起こります。今回のような望む変異をHRを通じて導入する場合は、HRが運良く起って目的とする変異が入った場合でも、その変異の入ったDNAをさらにCas9が再切断することがないように、通常はrepair templateにsilent mutationをいくつか入れて、HRが起こった後にガイドRNAが認識できないようにすることが行われます。しかし、われわれの場合、non-codingの領域の点突然変異だったので、silent mutationを入れるということができず、その変異の一塩基をガイド配列内にくるようにデザインするのが精一杯でした。PAM配列のしばりがあって、その変異箇所を含んで設計できた唯一のガイドのデザインはコンピューター予測ではあまり効率はよくなく、培養細胞でのテストでも、Cas9の切断効率は数割で、少なくともテストに使った細胞ではdeep sequencingしてみても、目的とする変異を導入することはできませんでした。
 
しかし、結局、他に有効なstrategyがないということで、無い金を振り絞って、一発勝負してみることになりました。金銭的に一発が限界、コケれば、たそがれのオケラ街道、吹き抜ける木枯らしが身にしみます。

リペアテンプレートは140塩基長、ちょうど中心部位に一塩基の変異を入れ、あとの配列は野生型配列です。Cas9 mRNAとリペアテンプレートは受精卵の細胞質内へ注入。
結果、61のマウスが生まれて、50頭が育ちました。PCRと制限酵素を使ったRFLPによる簡単なスクリーニングの結果、約一割のマウスに目的とする塩基置換がありました。培養細胞のテストと、リペアテンプレートに一塩基の変異しか入れることができなかったことから、効率はかなり悪いのではないかと予測していたので、この高い効率は意外でした。さらに数頭のFounder マウスからのゲノムを用い、変異部分を含む領域を一次スクリーニングよりもより大きな範囲をPCRで増幅し、クローン化した上で、シークエンスしてみました。多くで、目的とする変異だけの導入がありましたが、二頭では変異に加えて数塩基の欠失変異が同じalleleにさらに導入されており、これはおそらくHRが起ったあとにさらにCas9による再切断が起ってNHEJでリペアされたためであろうと想像されます。HRの効率がNHEJよりも悪いので予想されたことですが、対立alleleにはほとんどのマウスでindelを主とした変異が入っているようです。

総じて、mouse zygoteでのCRISPR/Cas9の効率は培養細胞に比べて、はるかに高効率なようです。スクリーニングで気づいたことは、Mouse zygoteでは、Cas9によって、しばしばかなり大きなinsetion/deletion mutationも誘導されるらしいということで、DNA切断後のNHEJではせいぜい数塩基のindelがおこるだけだろうと思い込んでいた私は、驚きました。リペアテンプレートでのHRの効率も思ったよりもはるかに良かったです。高効率であることの裏返しは意図しない変異が誘導されてしまう危険性を示唆しているとも思います。事実、PCRとシークエンスの結果から、数百塩基にわたるdeletion変異の誘導、50塩基ほどのinsertion、塩基置換に加えて数塩基のdeletionが同一alleleに認められた例、数十塩基の小さな領域のinversion変異などが認められました。培養細胞のテストではせいぜい1-5塩基のindelがおこるだけだったので、mouse zygoteでのこの様々な種類の変異が起ったことは意外でした。このような多様な変異が同時におこることが、この方法でマウスゲノムに変異を入れる場合に、問題になるかもしれません。少なくとも、変異導入locus周辺は、広い範囲で余計な変異がないかを確かめておく必要がありそうです。

変異はおそらく、DNA修復のプロセスがzygoteではよりsloppyである(らしい)ことが原因で起こっていると思われます。ZygoteでのDNA修復は、正確にリペアすることよりもいい加減でもいいから早く直すということが優先されているようです。つまり、種々雑多な変異が導入されるのはzygote intrinsicな問題で、CRISPR/Cas9の特異性の問題ではないように思います。その点からは、Cas9-nickase/double guide RNAや短いguide RNAを使って特異性を上げたところで、このような多種の変異の導入に関しては、改善はされないだろうと想像されます。なんらかの薬剤などでzyogoteでのDNA修復過程でのfidilityを上げつつHRの効率を維持するというような工夫が可能かも知れません。

しかし、いくらES細胞を通じた従来のマウス遺伝子操作法がより正確で確実だと言っても、CRISPR/Cas9の利便性はその多少の欠点を補って余りあります。conditional alleleにしたり、大きなinsertionを入れたりという操作では、CRIPR/Cas9では、まだ効率や予定外の変異の導入などの欠点が問題でしょうし、またヘテロやホモのノックアウトでlethalになってしまう場合も問題になってくると思いますが、non-lethalな小さな突然変異を入れるというような目的では、CRIPR/Cas9は第一選択と思います。また、複数の変異を複数の遺伝子に同時に導入する場合などもCRISPR/Cas9は優れていると思います。
もうESには戻れないなあと感じました。
コメント (3)
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法の破壊者 (2)

2015-11-17 | Weblog
アベ政権の憲法破壊はとどまるところを知りません。
現代の日本で、沖縄県民の「人権」が国家の暴力によって蹂躙され続けていること、すなわちアベ政権が立憲主義、民主主義を破壊し続けていること、を内地の日本国民は十分理解しておかねばなりません。アベ政権の都合次第で、沖縄で起こっているようなことが、いつ我が身に起こるかも知れない、という洞察力が必要です。この政権は、つける薬もなく死ななければ治らないレベルの病に罹っていることは、誰の目にも明らかでしょうが。

先週末の東京新聞社説から。
辺野古座り込み 沖縄の人権はどこへ

米軍新基地建設が強行される名護市辺野古で建設に反対する人々の座り込みが続く。派遣された警視庁機動隊らが強制排除を行う中でけが人や逮捕者が出ている。沖縄の人権はどこにあるのか。
 米軍キャンプ・シュワブの工事用ゲート前には早朝から市民が集まってくる。お年寄りが多い。非暴力の行動であることを確認しあうとアスファルトの地面に寝て、隣の人と腕を組む。
 午前七時前、シュワブの中に待機していた機動隊が一斉に正門から出てきて市民を取り囲んだ。ある人は数人の機動隊に抱えられ、ある人は両腕をつかまれて引きずられる。滑り止め付きの軍手をはめた隊員につかまれた腕には摩擦のために青あざが残る。五百人の市民が集まった十一日には排除された際に転び、頭を打つなどした二人が救急搬送された。
 強制排除には沖縄県警の要請を受けた警視庁機動隊百五十人が加わる。要人警護やサミット開催でもなく、沖縄に出動することに県民の中には反感も募る。ゲート沿いでは装甲車と鉄柵で囲った中にごぼう抜きにされた人が閉じこめられる。檻(おり)のような場所に丸腰の人を一時的でも拘束するのは行き過ぎではないか。
 前知事による辺野古埋め立て承認を取り消した翁長雄志知事と、政府との溝は決定的だ。政府は知事に決定を取り消せと是正指示をし、これを拒否した翁長氏に対し知事の権限を奪う代執行を進めるため福岡高裁に提訴する。
 県側も国地方係争処理委員会に審査を申し立て、決裂すれば国を提訴する。政府はこのような法廷闘争に足を踏み入れるのを止め、新基地計画を白紙に戻すべきだ。
 国土の1%に満たない沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中する。普天間飛行場の返還は負担軽減策の象徴とされる。閉鎖や日本側への返還が急務なのは当然だが、基地を同じ県内に移しても負担軽減にならない。
 沖縄県民は四度の選挙を通して新基地建設に「ノー」を示した。にもかかわらず、政府は「辺野古移設が唯一の解決策」と繰り返し、建設を強行する。
 人々が体を張って座り込むのは沖縄に対する差別的な扱いに怒り、工事を少しでも遅らせるには声を上げるほかないからである。
 沖縄の基地問題は日本全体の問題である。政府だけでなく、本土に住む私たちこそが考えるべき問題ではないか。非暴力の抗議は、あらためてそう訴えている。


削るところがないので、全文を紹介しました。アベ政権と国家の無法ぶりには、怒りで震えますね。弱いものいじめです。国家が県民の民意に背いて、県知事を訴えるとは、どこまで腐っているのか、この国は。これはアベ政権の沖縄に対する戦争です。「戦争とはまず政府がその国民に対して始めるものだ」という言葉を思い出させます。第二次大戦中にアメリカ政府が日系アメリカ人を強制収容所の隔離したことを思い出させます。

一方で、数の暴力と国家権力を後ろ盾にこれだけのデタラメをやるくせに、アベ氏は野党や国民の追求からはコソコソと逃げ回っています。英語ではCowardというのでしたっけ。同じく、東京新聞、筆洗いから、

ボクサーにとって殴られることは商売上避けられぬ痛みであろう。中には殴られるのを極端に嫌う選手もいる。、、、▼ボクシングならばそれでも構わぬ。、、、されど、相手からパンチをもらいたくないと逃げる政府と自民党にはどうも中っ腹になる。野党が求めている臨時国会の年内召集を見送ることを決めたという。リング上で逃げるどころか、リングにも上がらぬ▼、、、▼件(くだん)のボクサー。ある試合で戦意喪失と見なされ、TKO負けとなった▼来年の参院選という大試合での国民レフェリーの心証はこれでだいぶ悪くなったろう。結党六十年。その怖さを知らぬ自民党ではあるまいに。


もう一つ、田中宇さんの記事から。アメリカFRBは長年にわたる0金利政策をやめて、金利を上げるという計画がありました。当初9月予定でしたが、経済が悪く、延期されました。アメリカの不況は全く改善している様子はありません。FRBの金利の上昇は、ますます経済活動を鈍化させてしまうことが明らかなので、おそらく当分0金利は続くであろうと思われます。その失速するアメリカ経済の影響をモロに受けるのが日本です。

11月5日に日銀(金融広報中央委員会)が発表した「家計の金融行動に関する世論調査」によると、日本の全世帯の48%が、金融資産を持たない一人世帯だ。昨年の39%から急増している。、、、日本は、世界でもっとも急速に貧富格差が拡大している国になっている。、、、今の安倍政権は、こうした大失策を加速する傾向にあり、QEや消費増税が格差増大と貧困層の窮乏拡大を引き起こしている、、、長期的に見て、日本の大半の人々の生活は今後ますます悪化する。その一つの要因は、いずれ起きる金融財政の崩壊だ。日銀が昨秋から続けているQE(円を大量発行して日本国債などを買い支える策)は、経済テコ入れ策と喧伝されているが、金融界の金あまり現象を加速し米国の金融システムを延命させ、日米で株や債券の高騰を引き起こす。それ自体が貧富格差を増大させるが、それ以上に危険なのは、金融機関や日銀自身の破綻を招きかねない点だ。、、、日銀は巨額のQEを1年続けたが、建前上の目的であるデフレ終息(による景気回復)が実現していない。、、、だが日銀はすでに新規発行の日本国債を全量買っている。日本は社債市場が小さく、日銀がQEを拡大したくても買う債券がない。日銀は、QEを拡大することも、やめることもできない(株は買い増せる?)。米国の株や債券のバブル再崩壊が起きるまで今のままのQEを続け、その後の破綻を甘受するしかない


暗い中にも明るい話題を探すのが最近は得意になってきたはずなのに、この数日、ちょっと思いつきません。
こんな言葉を見つけました。とりあえずお祈りしてみたいと思います。

Prayer is sitting in the silence until it silences us, choosing gratitude until we are grateful, praising God until we ourselves are a constant act of praise. (FR. RICHARD ROHR, OFM)
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法の破壊者

2015-11-13 | Weblog
やらねばならないこととやりたいことが重なり、ちょっと忙しくなってきました。久々に遺伝子変異マウスを作る実験をやることになって、CRISPR/Cas9でやってみました。資金の乏しい中の一発勝負でしたが、私は、崖っ淵での一発勝負にはかなり強いのです。それでできたマウスのスクリーニングもはじまり、忙しくしています。CRISPR/Cas9のふるまいは、培養細胞とマウスの受精卵でかなり差があるような気がします。その話はまた次回にでも。とにかく、実験で忙しいのは嬉しいです。前進しているような気がします。

手抜きで悪いですが、「続 壺 齋 閑 話」の最近の記事を紹介します。

法の破壊者が法の支配を云々する異様さ」から。

ミャンマーで、アウン・サン・スー・チー女史率いる野党が大勝し、ミャンマーでも民主的な政権が誕生する可能性が言われる中で、日本の安倍政権も、ミャンマーに民主主義や法の支配が進むことを期待する、などと言表している。これは、日頃アメリカへの気配りに遺漏なきを期している安倍政権が、アメリカの言い分を鸚鵡返しにしているのだと忖度されるが、言うに事欠くとはこういうことを言うのだろう。というのも、安倍政権による法の軽視と言うか、法の破壊ぶりは、目にあまるというほかはないからだ。

安倍政権が、集団的自衛権の解釈変更を踏まえて、圧倒的多数の憲法学者が違憲だといっている安保関連法制をゴリオシ成立させたのは記憶に新しいが、その後も、憲法の保障する地方自治の本旨を踏みにじって、辺野古移転に絡んで沖縄に戦争もどきのことを仕掛ける始末。更には、TPPなどの重要課題を審議するために臨時国会の開催を求めて野党が憲法53条に基づく要求をしたにかかわらず、やる気がないからという理由で応じようとしない。これは明らかに憲法に違反する暴挙である。

このように、安倍政権の行動ぶりは、憲法軽視と言うか、憲法を無視した暴走と言うほかはなく、法の破壊者と言っても過言ではない。その法の破壊者が、他国の憲政に対して、民主主義とか法の支配というような言葉を、臆面もなく吐いているのは、異様と言うほかはない。

安倍政権は他国の政権に注文を付ける前に、まず自らを反省し、民主主義や法の支配を尊重する姿勢を、率先して示すべきだろう。たとえ外交辞令とはいえ、言っていることがやっていることと一致しないようでは、国際社会の嘲笑をかうばかりである。


止まない雨はありません。安倍政権も間もなく消えていきます。雨上がりには爽やかな青空が広がると信じたいです。
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天才と凡人

2015-11-10 | Weblog
ピアニスト、Martha ArgerichがRoyal Philharmonic Society ゴールドメダルを受賞したというニュース。ブラームス、ラフマニノフ、ルービンシュタインらが受賞したという由緒ある賞だそうです。

私は、クラッシックピアノのファンというわけではないですが、Youtubeのおかげで、いろいろ節操なく聞くようになりました。バッハを好んで聴き始めたのはいつごろからなのかよく覚えておりません。若手の多くのピアニストはやはりロマン派の技巧的な曲を好むようで、若手でバッハを弾く人は少ないです。

バッハの曲を物色しているときに、アルゲリッチのパルティータ2番の演奏をみつけ、これを聴いて、私もこの曲を練習してみようと思ったのでした。バッハのファンからすれば、いろいろ意見もあるでしょうが、一言で言えば、アルゲリッチは天才なのでしょう。この手の天才タイプの人は何でも好き嫌いなく、パラパラと弾いてしまうのでしょう。スキーで言えばダウンヒル用の板でモーグルをするようなものではないでしょうか。

パルティータの中で二番は最も人気のある曲で、アルゲリッチがメインのピアノ協奏曲の後のアンコールで、最後の楽章のカプリッチオ(奇想曲)を弾いているのを見たことがあります。カプリッチオはスピード感があって派手目だからウケがよいのでしょう。

それはともかく、バッハ弾きでもないアルゲリッチが天才的パルティータを弾くのをみて、バイエルの1年目でドロップアウトした私も挑戦してみたいという気分になりました。それから一年半ばかり経ちました。週末にボツボツ練習しただけですが、人間というのは不思議な生き物で、何かをチマチマとやっているとちょっとずつでも上達していくのです。私は、音符を読むことはできたので、自己流でちょっとずつやっていたら、一年かけて全然ダメのレベルから多少は弾けるというレベルなってきたのです。とは言っても、人に聞かせれるレベルではありません。パルティータの二番は6つの部分からなる組曲で、序章のシンフォニアと最後のカプリッチョの間に、アルマンド、クーラント、サラバンド、とロンドの4つの舞曲が挟まれています。技術的に難しいのは最初のシンフォニアの後半と最後のカプリッチオで、弾くだけならば、残りの4つはそれほどでもないように見えます。

それで、最初に簡単なサラバンド、次にアルマンドをやりました。二声の対位法なので、初級レベルだと思いますが、なにしろバイエルでドロップアウトした私ですから、右手と左手が別々のメロディーを弾くというのがなかなか出来ず、この二つで数ヶ月かかりました。さらに数ヶ月でシンフォニアとカプリッチオを除く4つがなんとか弾けるようになり、ひょっとしたら、死ぬまでに全曲弾けるようになるという目標が叶うのではないかと思い始めました。シンフォニアに行くか、それともカプリッチオに行くかと悩んだ末、カプリッチオをやってみることにしました。アルゲリッチのYouTubeでの演奏では、ロンドの最後の盛り上がりからそのまま、スピードを上げてカプリッチオへ高速で突入していく辺りが快感を呼びます。見ていて、これは私には無理だと思いました。最初の数小節を弾いてみて、これはやっぱり絶対無理だと思いました。それでも、とりあえずさいしょの4小節をやってみようとそればかり練習していたら、不思議なものです。ちょっとずつ弾けるようになりました。これには我ながら驚きました。絶対無理のレベルからひょっとしたら、ぐらいになってきました。結局、数ヶ月かけて、ゆっくりならば音をなぞれるぐらいのレベルになりました。アルゲリッチのスピードの5倍は遅いスピードです。それからスピードをすこしずつ上げてきて、今では2倍遅いぐらいまできました。でもここからが無理です。これ以上のスピードになると、必ず間違えます。プロは私よりも2倍は早いスピードで弾いて間違えず、かつ感動を与えるような表現力を観客の前で示すのですから、大したものです。

研究においてはどうだろうか、と考えてみました。私はどうみても凡人です。凡人ながらそれでも研究をやってこれているのは、たまたま、自分の小さな居場所を発見することができて、そこで大海の荒波にさらわれることがなく、チマチマと続けることができたからです。たまに、全く関係のないホットな分野のセミナーやシンポジウムに出て、大海の荒波を感じると、そのことを痛感します。世の中にはマトモに立ち向かえば全く勝負にならないような「天才」がごろごろしているのだということを実感させられます。残念ですが、そんな天才とマトモにぶつかっては勝負になりません。しかし、それでも絶対無理と最初は思ったようなことでも、ちょっとずつやっていると、少しずつ成果がでて、そうしている間にそれなりに論文になったりしたりしています。

凡人が天才の真似をしても、うまくいきません。凡人の戦い方やゴールがあると思っております。私がアルゲリッチやグールドのように弾くのはこれは絶対に無理です。でもヘタはヘタなりの楽しみを見つけて日々楽しく生きることが、私のゴールです。研究という点でも第一のゴールはそこにあります。そして、第二に自分のフィールドでそれなりの貢献をしていくということだと考えております。この両方が、ある程度達成できていれれば、続けていくことができるように思います。
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寝技

2015-11-06 | Weblog
3連発のエディトリアル リジェクションの後、ようやく、そこそこの雑誌に論文が引っかかりました。4ページにわたるレビューアからのコメントで、ちょっとリバイスは大変そうですが、なんとかなりそうです。なんとかなるというのは、私の得意技に持ち込めそうだというだけのことで、レビューアの批判に完璧に回答できるという意味ではありません。

自慢ではないですが、私は「寝技」に持ち込むのが得意なのです。この辺が地を這う地味な研究者たる所以です。リジェクトさえ食らわなければ、かなりチャンスはあります。もちろん、レビューアの批判に対して100点満点の回答ができればベストですが、そこそこのジャーナルでは結構、無理難題を言ってきますから、それに完璧に答えるのは不可能です。

しかし、レビューアの批判に完璧に回答することは、ここでのゴールではなく、ゴールは、論文を通すことです。すなわち、レビューアにアクセプトボタンを押せることであり、ゆえに、レビューアをそのような気持ちにようにさせる駆け引きの技術、心理的テクニックが有用となってきます。つまり、リバイスでのボトムラインは、レビューアがリジェクトする強い理由を書けないレベルまでにじり寄って「まあ、仕方がないからアクセプトにしてやるか」という気持ちにさせることです(と思います)。

そこで、コメントの行間を読み、各レビューアの立ち位置と心理を推測しつつ、間合いを測って、相手の最低限の要求を見切った上で、そのラインよりあと一歩、余分に踏み込んだ辺りを目標にして、リバイスの戦略を立てます。

長年の経験で、このようなセールス活動は、上達してきました。レビューアも人間です。相手の良心、罪悪感、同情心、恐怖感、それぞれを微妙に刺激しつつ、じりじりと自分の陣地を広げていくのです。例えるならば、飛び込みセールス。ドアを開けてもらえることができたならば、さりげなくドアにつま先を入れてから、自然と相手がとにかくノーと言えない状況へと持って行くわけです。話が終わるころには、体全体が玄関の中に入ってしまっていながら、相手はそれに気がつかないという状況が理想です。

こう書くと、私がとんでもなくイヤらしいゲス男のように聞こえますけど、普通の社会生活を送っている人なら誰でも、こういった心理的マニピュレーションを意識的、無意識的に行っていると思います。私は論文やグラントを書いたりレビューしたりする経験を経て、レビュープロセスにおける心理的側面を意識的に客観視して評価することが多少できるようになったというだけのことです。

とはいうものの、勝負は水物。まれに、原理主義者で頑ななこだわりを持っていて、心理戦が効かないレビューアがおります。そういうレビューアがに当たってアクセプトを拒否すれば、商業雑誌のエディターとしては、それをオーバー ルールできないでしょうから、その場合は、あきらめるより仕方がありません。

本音では、寝技で「この辺で、どうかお許しください」とすがるよりは、大技の一本勝ちで「どんなもんだ」とでも言ってみたい、と実は思っております。
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羊頭狗肉

2015-11-03 | Weblog
われわれが小学校で習ってきた日本の政治形態であるはずの「立憲主義、民主主義」とは何だろう。と思うことが多くなりました。

商品サンプルを見て頼んでみたら、現物はまったく別物だった、という話はよくあります。写真を見て会ってみたら別人だったということもあります。論文を信じてやってみたら、全く再現できなかった、というのはかなり高い確率で起こります。

立憲主義、民主主義とは、そんな商品サンプルや見合い用の写真や論文に使われているベストデータのように、あたかも現実に存在するかのように見えるが実は限りなく錯覚に近いものかもしれません。

日本が主権在民の立憲主義に基づく国家と信じたいのは、立憲民主主義という商品を買いたい客である一般国民であり、それを売る政府や官僚、アメリカ、その他の税金利権団体にとっては、できるだけクレームのでないレベルで低コストに抑えたいと思っているのでしょう。実際は、立憲民主主義というのは、比較的低いリスクで大勢の一般人から税金を集めるために生み出されたセールスキャッチに過ぎず、理想の社会形態を追求しようとして出てきたアイデアではないのではないか、とさえ勘ぐりたくなる昨今です。

アベ政権というのは、例えてみれば、ポッタクリバーと同じように行動しているように思います。長期的繁栄を考えれば、ボッタクリ バーは割にあいません。客は二度とやってこないし、悪評判は立つ、警察には目をつけられ、場合によっては仕返しされる。そんな大きなリスクがあるにもかかわらず、ボッタクリ バーが存在するのは、目先のことばかりで、先のことが考えらえないような人がいるからでしょう。

アベ政権は「選挙で選ばれた」とか「国会で審議をつくした」とか、あたかも体裁だけは、民主主義的手続きを踏んだ政権であることをアピールしながらも、やっていることは国民、沖縄県民の意思を無視した非民主主義、独裁政権です。表には、飲み放題、XXXポッキリとかの看板を出しておきながら、店内に入ったが最後、おつまみ一皿を十万円で売りつけるようなことをするのです。そして、アベ氏本人は、自分がやらされていることの善悪を実はわかっていないか、あるいは正しいとさえ信じてるのではないかとも思うのです。その辺が、この政権の救いのないところではないかと私は常々感じています。

先週末の東京新聞の社説

辺野古着工 民主主義に背く強行だ

 沖縄県名護市辺野古で米軍基地の新設工事が始まった。海兵隊拠点の国外・県外移設を求める県民の民意を顧みない安倍政権の暴走だ。安全保障のみならず日本の民主主義の在り方をも問うている。、、、国土面積の1%にも満たない沖縄県には今も在日米軍専用施設の約74%が集中する。事故や騒音、米兵による犯罪に加え、米軍の戦争に加担しているという心理的圧迫など、基地集中による重い負担を、県民は強いられている。、、、しかし、安倍政権は選挙で示された県民の民意をも顧みず、「抑止力」を掲げて、県内移設に向けた手続きや工事をやみくもに進める。法令の乱用であり、民主主義への逆行にほかならない。、、、県内移設に反対する県民を押しのけて工事を強行するだけなら、もはや政治の名には値しない。


同じく東京新聞のコラムから。http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015110102000159.html

 掃除当番は面倒なものです。誰も進んでやりたくない仕事です。でも、毎日、誰かが引き受けなければなりません。そこで、こんな提案がありました。「誰か一人にやってもらおう」そうして、「誰か」にA君が指名されてしまいました。来る日も、来る日もA君が一人で掃除当番を引き受けるという案です。
 みんなで多数決をした結果、「A君が毎日、一人で掃除当番をする」という案が過半数になってしまいました。、、、さて、こんな投票は許されることなのでしょうか。こんな多数決は有効なのでしょうか。
「A君に毎日、掃除当番をさせる」という多数決の結論は、「多数の横暴」そのものです。立憲主義憲法では、それを許しません。立憲主義は暴走しかねない権力に対する鎖であると同時に、民意さえ絶対視しない考え方です。いかなる絶対主義も排するわけです。民意もまた正しくないことがあるからです。ナチス・ドイツのときが典型例でしょう。


小学生でも理解できるようにと、弁護士の伊藤真さんが書いた憲法の絵本「あなたこそ たからもの」にある話だそうです。
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