今年もあと数日。総じて今年は辛いことの多い年でした。実は昨日も自己愛(疑い)の人が関わった投稿中の論文のデータが怪しいことに気がついて、すっかり頭を抱えてしまいました。これは一旦、取り下げてEditorと交渉するしかありません。やはり、自己愛ゆえか、その巨大なエゴからの成功へのプレッシャーのせいで怪しいデータでも自分の仮説に都合がよければ使ってしまうのでしょう。このcovert Narcissistタイプの自己愛(疑い)の人に色々と悩まされて、つくづく思いました。この手の人間は原発と同じです。成功へのモチベーションが高いので働くときは一生懸命やりますが、興味がなくなれば一切働かなくなるし、暴走しだすとメルトダウン並みのダメージを起こします。結局、平均するとパフォーマンスも悪く、そして暴走した時のダメージは大きすぎます。やはり、なるべく関わり合いにならないに越したことはありません。しかしcovert typeは本当にその本性がわからないのですよ。ちょっとおかしいな、と思っているうちに被害が積み重なっていくのです。ま、大きな被害と言っても、私の場合は、論文の後始末と一年半の時間のムダで済んでいますから、人が死んだSTAP細胞事件とは比べものにならないレベルだと自らを慰めています。
そんな一年でしたが、良いこともありました。新しい若い人と仕事を始めましたし、自己愛の人々とはほぼ縁が切れつつあります。普通の人と仕事ができるのがこんなに楽だとは思いませんでした。それに、アベの保身のために何ヶ月もの間、冷暖房も窓もない4畳の独房に不当勾留されて精神的拷問を受けている籠池氏夫妻やその家族のことを考えれば、私の辛さなど知れたものです。
辛いことにばかり注意を向けていると良いことにも気がつかなくなります。また、禍福は糾える縄のごとしで、今年の辛く嫌な経験も実は将来の幸福のために必要なものであるのかも知れません。というわけで、物事の良い面を見る能力、時間軸や視点を変えて物事を良い方向に解釈できる能力は、幸せに生きるためのコツであると信じています。また、そのために簡単なのは「感謝の実践」であろうと思います。
幸せに生きるコツに関して、またまた「夢」についての話を目にしたので。
小林正観さんの心に響く言葉より…
生れてからずっと目が見えいない人は、「1秒でもいい、いや0.1秒でもいいから、親の顔を見てみたい」「結婚した相手の顔を見てみたい」「子どもの顔を見てみたい」と思いながら生きているそうです。
私たちは、0.1秒どころか、生まれてこのかた目が見えないことなどないにもかかわらず、目が見えるということに対して、感謝することなどまずありません。
それどころか、「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれをよこせ」「これをよこせ」と現状に対して不満ばかり口にしています。
私たちは小さい頃から、足りないものをリストアップして、それを手にいれなければ幸せになれないと教え込まれています。そのように洗脳されているのです。
それを、「夢と希望に満ちあふれた生活」といいます。
それに対して、私は「夢と希望もない生活」を送っています。
夢も希望もない代わりに、悩みも苦しみも煩悩(ぼんのう)もありません。
私は酒もタバコも麻雀も、娯楽といわれるものは何もしませんし、休みもほとんどありません。
「何が楽しくて生きているのですか?」とときどき尋ねられることがありますが、「ただ幸せをかみしめて」生きている。「自分がいかに恵まれているか」「自分がいかに幸せか」「自分がいかにありがたい状況に生きているか」ということに気づいたら、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の「五戒」など口から出てきません。
願いがかなったら、望んだものが手に入ったら感謝する、というのは、本当の感謝ではありません。何も要求することなく、不平不満を言うこともなく、いま目の前にあるものをありがたく味わう。それこそが、本当の「感謝」なのです。
人は、自分がいかに幸せな状況のなかで生きているかに気がつきません。、、、、、神さまに「幸せというものを見せてください」と言うと、神さまは「わかりました」と言って、災難や事故というものを起こして、私たちを釣り上げてくれます。
かぜをひいて、丸1日何も食べられなかったら、かぜが治ったときに食べた1杯のおかゆがとてつもなくおいしく感じられるでしょう。、、、、、その体験があったからおかゆのおいしさ(幸せ)を味わうことができたのです。
私たちが「幸せ」を感じるためには、その前には一般的に「つらい、苦しい、大変」といわれる状況が起こるようです。そういう構造になっている。そのことに気づいたら、私たちはつらいこと、苦しいこと、大変なことに遭遇したときも、一喜一憂せずに、平静な心でいられるかもしれません。 (『人生は4つの「おつきあい」』サンマーク出版)
生れてからずっと目が見えいない人は、「1秒でもいい、いや0.1秒でもいいから、親の顔を見てみたい」「結婚した相手の顔を見てみたい」「子どもの顔を見てみたい」と思いながら生きているそうです。
私たちは、0.1秒どころか、生まれてこのかた目が見えないことなどないにもかかわらず、目が見えるということに対して、感謝することなどまずありません。
それどころか、「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれをよこせ」「これをよこせ」と現状に対して不満ばかり口にしています。
私たちは小さい頃から、足りないものをリストアップして、それを手にいれなければ幸せになれないと教え込まれています。そのように洗脳されているのです。
それを、「夢と希望に満ちあふれた生活」といいます。
それに対して、私は「夢と希望もない生活」を送っています。
夢も希望もない代わりに、悩みも苦しみも煩悩(ぼんのう)もありません。
私は酒もタバコも麻雀も、娯楽といわれるものは何もしませんし、休みもほとんどありません。
「何が楽しくて生きているのですか?」とときどき尋ねられることがありますが、「ただ幸せをかみしめて」生きている。「自分がいかに恵まれているか」「自分がいかに幸せか」「自分がいかにありがたい状況に生きているか」ということに気づいたら、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の「五戒」など口から出てきません。
願いがかなったら、望んだものが手に入ったら感謝する、というのは、本当の感謝ではありません。何も要求することなく、不平不満を言うこともなく、いま目の前にあるものをありがたく味わう。それこそが、本当の「感謝」なのです。
人は、自分がいかに幸せな状況のなかで生きているかに気がつきません。、、、、、神さまに「幸せというものを見せてください」と言うと、神さまは「わかりました」と言って、災難や事故というものを起こして、私たちを釣り上げてくれます。
かぜをひいて、丸1日何も食べられなかったら、かぜが治ったときに食べた1杯のおかゆがとてつもなくおいしく感じられるでしょう。、、、、、その体験があったからおかゆのおいしさ(幸せ)を味わうことができたのです。
私たちが「幸せ」を感じるためには、その前には一般的に「つらい、苦しい、大変」といわれる状況が起こるようです。そういう構造になっている。そのことに気づいたら、私たちはつらいこと、苦しいこと、大変なことに遭遇したときも、一喜一憂せずに、平静な心でいられるかもしれません。 (『人生は4つの「おつきあい」』サンマーク出版)
一つしかない現実ですから良い、悪いと判断したところで意味ありません。その判断を保留して、ただ現実を味わい、夢も希望もない、幸せに満ちた生活が送れるようになりたいものです。
みなさまも 良いお年を。