百醜千拙草

何とかやっています

凡人の悩み

2014-06-27 | Weblog
なんとか今月末が〆切のグラント書き終わりました。今年始めぐらいから始めたので半年以上かかりました。最初の草稿の時に中心に置こうと思った主題がうまく発展せず、それを捨てる決心をするのに一月以上かかり、二稿目でも一つ大きなプロジェクトを落とす決心をするまで、また一月以上かかりました。そこから推敲を重ねて、方針が決まって最初の一ページが書けたのが二ヶ月前ぐらいです。随分絞り込んでフォーカスしたよいグラントになったと思います(通るかどうかは別問題ですけど)。ある程度ポジティブなデータもあるプロジェクトやアイデアは捨てるのが難しいですね。グラントは数人に見せて概ね好評だったので、まだちょっと〆切までには日がありますが、これで行くことにしました。

同時に次に出すグラントのことを考えはじめました。このグラントでやりたいと考えている二つのプロジェクトは前から決まっていたので、このグラントの方が話はストレートにまとまるだろう、と楽観していたのですが、最後のプロジェクト、つまり最初の二つのプロジェクトで得られたデータを上のレベルに引き上げるためのプロジェクトがヒラメキません。もうすでに一週間ほど、このことばかり考えていますが、なかなか方針が決まらず、苦しいです。思えば、今回出すグラントのときも最初の数ヶ月は、出口のない迷路に閉じ込められたみたいになってかなり追いつめられました。アイデアを出すために、文献を読みあさったり、人のグラントを読んでみたり、ぼけーとしてみたり、いろいろやってはいますが、光明が見えてきません。こういう時ほど、リラックスして地に足をつけないと、アイデアも降りてこないのだろうな、と思うのですが。

つい成功して活躍している人のグラントや論文を見てしまいました。これは、参考にならいどころか、気分的にはむしろ有害なような気がします。参考にならないのは彼らと私では前提が違うこと、そして有害なのは、人間ですからどうしてもつい他人と自分を比べてしまうということでしょう。

過去を振り返ってみても、私はトップクラスの人間であったためしはありません。頭の出来で区別すると、小学校から大学まで一貫して、私は「凡人クラス」の中を上下するだけでした。凡人クラスと天才/秀才クラスの間にはガラスの天井でもあるかのようです。下を見ればキリがないように上を見てもキリがない、そうは思っていても、実際問題として研究者として生きて行くのにグラントは必要で、グラントを取るためには、天才/秀才クラスの人間とも戦わないといけないのです。研究において彼らがなぜ私と違うクラスにいるのかと言えば、それは強力な武器を持っているからだろうと思います。武器とは、カネと人と技術と実績で、そういう武器があるから勝てるし、そして勝てばより強くなる、というポジティブフィードバックが働きます。そういう相手に、カネなし人なし技術ふつう実績は並の私が戦うには、彼ら以上のアイデアを出して、重要な研究上問題のアキレス腱となる部分を見つけ、力を高度に集中してそこに注ぎ込むしかありません。

私が研究はじめたころに、感銘を受けた論文があって、不思議な縁で今はその著者の人と研究上の交流があります。その論文は、細胞分化における転写因子の役割に関するパラダイムを打ち立てた分子生物学上の歴史的な論文だと私は思います。当時は分野が違ったので、その著者の論文をフォローすることもなく、随分たって、その人の研究上の興味が私の分野とオーバーラップするようになってから、その後の仕事の論文を読むになりました。この人の研究室は小規模で、発表論文数的には寡作な方ですが、一つ一つの論文の質が高く、大変厳密に実験が行われていることにいつも感心します。最近の野心あふれる若手であれば、おろそかにしがちな小さな細部までキッチリ押さえてあって、綿密なデータをもとに論文が書かれています。そしてその研究は地味な主題を扱っていながら、しっかりとしたインパクトがあります。こういうスタイルが私の目標です。しかし、やはりグラントを書く点ではあまり参考にはなりません。そういうスタイルで長年やっていけるのは、過去の実績に基づいたネームバリューがあることが大きいと思われるからです。「彼なら任せて安心だ」ということですね。ネームバリューはグラントが成功する上で大切です。グラントで最も大切なことは「なぜその研究がなされないといけないのか」という必要性に基づく大義です。二番目に大切なのは「誰がやるのか」だと思います。そして最後に、何をどうやるかという実験(プロジェクト)そのものがくるのですが、おそらく実験内容そのもの重要性は3割未満でしょう。私の場合、二番目に難がありますから、残りでカバーするしかありません。

グラントのネタとしては、重要な問題は扱っていると思うので、やるべき自明のプロジェクトはカバーしています。足りないのは、インパクトのある成果を出すために問題攻略の要となるアキレス腱を見つけ出すことと、そこに力を集中して叩き込むためのアイデアです。言うは易し、行うは難し。方針ははっきりしていても具体的なアイデアが出てこないころが、凡人の凡人たる所以です。強力な武器をもっている研究室なら、アキレス腱を探す必要もなく力任せにやれるでしょうから、力任せのグラントを書いても通るかも知れません。しかし、私が同じことを言っては、鼻先で笑われて門前払いされるのがオチです。

舞の海の相撲でも見直してみますかね。アイデアが浮かぶかも。
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叩きすぎ

2014-06-24 | Weblog
数日前の朝、目覚まし音がなかったのでアレっと思ったら、私のKindle Fire HDはフリーズしていました。
最初は、通勤時にパラパラと読むだけの論文を紙に印刷するのがイヤで、気軽に持ち歩ける7インチ タブレットを使いだしたのです。購読しているScienceも今年からオンライン版だけにしてタブレットで読むようにして、かさばる紙のかわりにこのタブレット一つポケットに入れて身軽な毎日、と期待したのですが。

7インチということもあって、論文を読むのは苦しいです。そもそも、タブレットではパラパラ斜め読みをするというようなことができません。タブレットでPDFの論文の読むのはズームとスクロールを忙しく繰り返さないといけないので、やはり面倒です。PMCではタブレットで読めるようなフォーマットにした論文もダウンロードできますが、余り役に立ちません。私の場合、論文は殆ど斜め読みですから、上から下に読むのではなく、大抵の場合、要旨を読んで、その後は図と結果のセクションを行ったり来たりして終わりです。イントロとディスカッションは余り読まないし、読む場合は引用文献をチェックするのが目的の場合が多いので、今度はそれらのセクションから文献セクションを行ったり来たりすることになります。とにかく、行ったり来たりしながら読むので、電子版ではそういう作業が大変不自由であるということを使ってみて初めて実感しました。それで、結局、論文は紙印刷に戻りました。

その一方で、Kindleを買ってから、ベッドに持ち込んで、寝ながらインターネットをするクセがついてしまい、自分でもこれは良くないな、と思っていたところでした。とくに良くないのは、ニュースや投稿サイトでJuicyな話をつい読んでしまうことです。週刊誌の記事よりも生々しいです。ネットならではで、その投稿記事に読者のコメントがついていきます。

そこで、私、つくづく思うのですが、何らかの過ちを犯した人の記事などでは、多くの読者の人は、徹底的に批判、非難するのですね。おそらく匿名性がそうさせるのでしょうが、私、正直、この「水に落ちた犬を皆で叩きまくる」かのような集団リンチ、極めて日本的風景なのでしょうが、何とかならんものかとイヤな気分になります。キリストなら、「お前たちの中で、罪を犯したことのないものから石を投げるがよい」とでも言うところでしょう。

過ちは犯すまいと思っていても、ちょっとしたことで道を踏み外すのが人間というもので、反省して罪を償うのなら、人は赦されるべきだと私は思います。「許さない」ことは怒りの一種であり、非難すること、石を投げつけること、憎しみを抱くことも同じです。「怒り」は猛毒であり、怒る人を蝕みます。
インターネットの投稿サイトの8割はこうした様々の種類の「怒り」に満ちており、酷いことをした人間に復讐した話とかが沢山あります。人間は「復讐」とか「仕返し」とかを考えるべきではありません。「復讐するは我にあり」で、それは神の仕事です。人を呪えば穴二つで、しかもしばしば、呪った方の穴の方が大きいのです。

水に落ちた犬を叩く、で下のニュースを思い出しました。

 STAP細胞論文問題で、理化学研究所の野依良治理事長は19日、STAP細胞が存在するかを確認する再現実験に小保方晴子ユニットリーダーが参加すべきだとの考えを示した。
 野依理事長は、自民党の会合で論文問題について説明した後、再現実験について「小保方さんがやらないと決着がつかない」と報道陣に話した。(2014/06/19-23:51)


こうなりゃ、もう陰湿ないじめですな。「武士の情け」ちゅー言葉も昔の日本にはあったような気がするのですが。

あと東京都議会のセクハラヤジ事件。私、議会でヤジを飛ばすのが仕事だとでも思っている人間を擁護する気は全くないし、このような品性のカケラもないヤジを平気でとばすようなレベルの低い人間が都民代表であるというのは(アベが首相というのと同じく)都民、国民にとって極めて不幸なことだと思います。しかし、メディアとネットで徹底的に叩かれているのを見ると、本人にも頭を下げて謝罪したのですから、個人を叩きまくるのはもういいではないかとも思います。こういう議員やアベ氏やアホウ氏のような人間を代表に選んだ責任というのもありますし。
 とはいうものの、私もちょっと言わせてもらうと、謝罪会見で「配慮が足りなかった」と言ったのはいいとして、「早く結婚していただきたいという思いがあった」と言い訳したそうですが、この発言には呆れ果てました。「余計なお世話」です。この議員、驚いたことにすでに51歳とのこと。天命を知る年を過ぎても、こういうことはやってしまうのですね。興味半分で調べてみたら、この人過去にも色々やってます。海外視察報告書をウィキペディアから丸々コピペしたとか、魚釣島に無断上陸して警察沙汰になったとか、三つ子の魂なんとやらですかね。あかんわ、これでは。ちょっと叩きすぎでしょうか。
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意味のない意味のある偶然

2014-06-20 | Weblog
どうでもよい話ですが。

数日前、メルボルンの研究者の人が、旅の途中に講座に寄ってくれたので、話をする機会がありました。十数年前に一度、学会であって一度だけ一緒に晩飯を食べたことがあるというだけの関係です。そのころはまだ若くて美人の方だったと思いますが、今や、すっかりオバさん研究者としての貫禄がついています。
 たまたま、その日、今書いている小さな論文に関して、数年前にマウスを世話してくれた人(ニューヨークの人)に数年ぶりにメールを書いたら、そのマウスを作った当時のポスドクだった人は、いまはメルボルンに居て、しかも今日あったオバさん研究者の人と同じ施設にいることが分かりました(分野は違いますが)。メールするついでに、彼のウェッブサイトに行ってみると、なんと彼は私と同じ遺伝子を研究している(細胞が違いますが)ことが判明しましました。その遺伝子はそれほどメジャーな遺伝子ではありません。Pubmedの検索でも300余りのヒットです。(因みにもっとメジャーな遺伝子、例えばp53とかMycでは3万件弱ヒットします)その後のメールのやりとりで、彼の方もオバさん研究者をよく知っている由。世の中は狭いです。

彼と私が研究しているその遺伝子は、最近ヒトで機能喪失型と(恐らく)機能獲得型、両方の変異が見つかり、私の今回出そうとしているグラントはこれをネタにして書いています。重複変異は、これまで二家系で報告され、その内のアメリカの一例は報告者に連絡をとって共同研究することになりました。カナダの研究者が発表したもう一家系の方は、連絡をとってみたところ既に共同研究者がオーストラリアにいるという話だったので、しばらく前に、そのオーストラリアの共同研究者の人ととりあえず簡単に連絡をとるだけとったのですが、具体的な話は進展しないままになっていました。

それで、オバさん研究者の人と雑談していて、この別のオースオラリア人研究者のことをふと思い出したので、ひょっとして知っているかどうか聞いてみると、なんと別件で共同研究しているとの話。つまり、私が興味をもっているこの比較的マイナーな遺伝子を研究している人間が二人メルボルンに居て、一人は別の機関ながらオバさん研究者と共同研究をしており、もう一人はオバさん研究者と同じ施設であったということが、その日に判明したのでした。

どうもメルボルンの方では、この遺伝子に関しての研究は余り進んでいない様子で、その理由は資金的問題ではないかとのこと。オーストラリアでは政府のグラントの申請は年に一回に限られ、その成功率も15%ほどとのことですから、アメリカよりもひょっとしたら厳しいかも知れません。今はそのグラントの結果待ちなのだという話。6/6号のScienceのNewsのセクションでは、理研の例の論文の取り下げに著者が同意したというニュースの隣りに、オーストラリアのComonwealth Scientific and Industrial Research Organisation (CRISO)が、来年度の政府予算の発表に伴い、研究資金の不足により8つの研究施設を閉鎖することにしたというニュースが出ていました。オーストラリアの経済は結構、好調なのに、メディアは深刻な経済問題があるかのように報道し、結果、緊縮経済傾向ぎみにあるために研究資金も増えないということでした。メインストリーム メディアのオーナーは与党の保守政党を支持しており、保守政党が望むような世論をつくるために偏向報道しているのだ、というオバさん研究者の読み。どこの国でもある話ですな。

というわけで、縁薄いオーストラリアに関連した出来ごとが今週にたまたま重なりました。
意味的な繋がりのある事象が共時的に重なっておこるシンクロニシティという現象はよく知られておりますが、私はシンクロニシティそのものに意味があると感じたことがありません。大抵は、興味深い偶然がたまたま重なったというだけのことです。こういうことが起きたからと言って、共同研究が進むとか、オーストラリアに深い縁ができるとか、私の場合、そういうことは普通起こりません。退屈しのぎの話のネタ以外にシンクロニシティに何の意味があるのか、いまのところ私にはわかりません。
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変わらないもの

2014-06-17 | Weblog
どうでもいい個人的な話ですが。

先週末、講座にいた1人の臨床系教授が引退を決めて、その引退記念講演会とその後パーティーが教授宅でありました。私が講座に下っ端としてやってきて、三部門(臨床部門と二つの基礎部門)合同のプロジェクトに参加したとき、臨床チームを率いていた人です。基礎部門の一つは別の講座のグループで、そのリーダーは当時でさえかなりの高齢の大教授で、講座長こそ退いてはいましたが、現役研究者として研究グループを率いていました。この高齢の大教授と最後に口を聞いたのは多分、二年ほど前で、その時は、すでに現役を退いておられましたが、病院内のオフィス移って論文を読んだりする日々を送っておられました。当時、思いついたプロジェクトに関して、意見を聞きに行ったのです。そのとき関連したグラント申請書(これが通らなかったので現役引退を決意したのだそうです)のコピーをくれて、「研究費の申請にも協力するよ」と言ってくれました。あいにく、書いたグラントは通らず、プロジェクトは頓挫して、それでしばらく会うこともなくなっていましたが、相変わらずあの小さなオフィスにいるのだろう、と何となく思っていました。昨年末に、その元大教授の直属の部下だった人から、自宅を尋ねたが、まずまず元気そうだったという話も聞いていましたし。

引退記念バーティーの朝の会合で、その元大教授が介護施設に入院中であることを知りました。半年前から記憶力や理解力が低下して、本人もそれを自覚してイライラしていたのだそうです。検査で正常圧水頭症があるということでシャント。その後シャントからの感染で髄膜炎、いろいろあって、急激に認知症症状が悪化し、介護施設に入ったということでした。

私が知し合ったときには、別講座ということもあったでしょうし、講座長を退いた後ということもあって、「大教授」という感覚はなかったのですが、現役時代を知っている人々にとっては、「あの人」が他の認知症老人の人々と混じって介護施設で昔のこともよくわからなくなってしまっているという状況はかなりのショックだったようです。

私も話を聞いて驚いて、しばらく沈み込んでしまいました。15年前の共同ブロジェクトのリーダーのうち、一人は引退、一人は介護施設、という週末の朝でした。

振り返れば、今いる講座の最盛期は多分30-15年ぐらい前だったのだろうと思います。講座の隆盛を人の一生に例えれば、私が来た15年ぐらい前は実は講座が壮年期のピークで、おそらくそれから下り坂に入ろうかというぐらいのタイミングだったのでしょう。隆盛期を支えた人々が一人一人、去って行く中、資金難などで、若い世代も充実しない、そのような落魄の(というと言い過ぎかと思いますが)寂しさを感じることが多くなりました。そういう私も講座内の立場的には中堅なのでしょうが、明日をも知れぬ零細研究者に過ぎません。

般若心経でも唱えてみようかと思う日々です。
生まれれば死に、昇れば下り、栄えれば衰える、世に変わらないものはない、それだけが変わらない真理のようです。
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命よりカネ

2014-06-13 | Weblog
XXにつける薬はないというのは本当です。考えることと言えば晩ご飯のメニューのことぐらい、xxxと腸の弱い操り人形がウツロな眼をして舵を取る日本丸。氷山に向かってまっしぐら、でも本人は氷山にぶち当たっても、氷山の方が沈没するとでも思っている様子。われわれは、万が一に備えて逃げる準備はしておきましょう。沈没となったら、真っ先に逃げ出すのがこのロボット船長です。

この男人形を操っているのが経団連や利権官僚なのでしょう。低迷する日本経済、このままではジリ貧だ、カネのためには戦争するしかない、その戦争で一時的にカネを儲けるためなら、国が潰れるのも、原発を攻撃されて国土が放射能まみれになるのも、国民が大勢死ぬのもやむを得ない、もしもそうなっても、海外移住して自分たちだけは助かるだろう、とでも思っているのでしょうな。

その手先になって、戦争への道筋をつけようとxxxは弱いくせに命令には忠実なロボット船長、集団的自衛権行使容認に向けて、散々、詭弁を弄し、顰蹙と失笑を買いましたが、国を滅ぼし国民の命を危険にさらそうとしてきているのですから、いくらxxxが弱いからといっても、鷹揚に笑い飛ばしている場合ではありません。

先の国会での江崎孝さんの国会質問の様子について、天木直人さんの記事

安倍首相が集団的自衛権行使容認を今国会で閣議決定すると決断し、誰もそれを止められない中で、そして、それが強行されようとする直前の国会でこの質問が行われた意義は大きい。
私がここで取り上げるのは次の二つの決定的に重要なポイントだ。
一つは、集団的自衛権の行使を容認することは、その定義上、同盟国(米国)の戦争に血を流す覚悟で参加する事であるにもかかわらず、安倍首相は、戦争はしない、その使用は限定的にすると繰り返す。
これは大いなる矛盾であって、安倍の腰抜けぶり、とんまぶりを白日の下にさらすものだ。
戦争が始まれば限定的も何もない。敵があるから戦争は止められない。覚悟はあるのか、という事だけど、安倍にはそんな覚悟はもちろんない。じいちゃん、ばあちゃんを助けるために集団的自衛権行使が必要だと今でも繰り返している。

もう一つは、今の日米同盟関係が、米国に一方的に守ってもらっている片務性の高いのであるからこれを是正すると安倍首相は繰り返すが、自衛隊に血を流させてまで米国の戦争に参加して晴れて双方性、対等的になるのだから、基地の撤廃を求めないと、対等どころか逆に日本がとられっぱなしになる。
この際、安倍首相はそれを米国に求めないのか。


この男は理屈を理解して自分の頭で考える能力のない男人形のロボット船長で、何を言ってもムダなのでしょう。

それから、私、この記事を読んで、久しぶりに頭に血が昇りました。

東京新聞から
三原則変更で積極輸出へ 武器国際展示会に13社

十六日からパリで開かれる世界最大規模の武器の国際展示会に参加する日本企業の詳細が本紙の調べで明らかになった。日本からは十三社が参加し、三菱重工業は開発中の装輪装甲車の模型を初披露。気象レーダーなど民間技術を紹介し、軍事転用の可能性を探る企業もある。武器の国際展示会参加は各社初めて。政府が防衛装備移転三原則で武器輸出を原則認めたことを受け、日本企業は紛争を助長する恐れのある武器輸出への一歩を踏み出すことになる。
 従来の武器輸出三原則による禁輸政策の下、国際展示会への出品も控えてきた日本企業だが、政府が武器輸出を原則認めたことで参加を決めた。これまでは輸出が認められていなかった製品なども出品し、世界展開への足がかりにしていく方針だ。


この恥ずべき企業の中で主な会社は、三菱、川崎重工、日立、富士通、東芝、NECです。

三菱が装甲車や戦車のエンジン、川崎重工や日立は自衛隊用の車両などを展示する以外は、直接、殺人用の武器などを出展するわけではありません。しかし、攻撃用、防御用、探索用など製品の用途は別にしても、これらの会社は、戦争で使われることを想定した道具を武器展示会に出品するのですから、戦争で金儲けをしようとしていることに違いはありません。武器展示会に出品した製品を使って、戦争で使われたら、意図的に戦争に加担してカネ儲けをした、ということになります。そのあたりをこの企業のトップはどう考えいるのでしょうか。カネさえ儲かって製品が売れたらそれでいいとでも思っているのでしょうね。日本人がエコノミック アニマルと呼ばれていた時代を覚えていますが、社会への貢献よりも、カネ儲けがとりあえず前に出る企業というのは、本当に見苦しいです。アベは人間の頭がないという意味では単なるアニマルでしょうが、人間の頭を持ちながら、カネのためなら人間の良心にフタをできる連中の方がより嫌悪感を覚えますね。
しかも、この連中が信じている命よりも大切なカネは物質的にはタダの紙切れに過ぎず、その中身というのは幻想にしか過ぎないのです。遠からず起こる世界大恐慌でわれわれをそのことを再確認することになるでしょう。

少なくとも私は、今後、これらの会社の製品は一切、買いません。
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多様性の喪失とCanalization

2014-06-10 | Weblog
どうでもいい話ですが。

週末、テレビを久しぶりに点けたら、フレンチオープンの決勝をやっていました。テニスをしなくなってから、すっかりプロテニスには疎くなっていましたが、決勝のナダールとジョコビッチは知っています。多くのテニスファンの人もそうだと思いますが、私はネットプレーヤーの方が好きです。今年からフェデラーのコーチをやっているエドバーグが現役のころのネットプレーは美しかったですね。当時、レンドルが、薄い握りの威力の無いエドバーグのフォアハンドをさして、「フォアのグラウンドストロークもまともに打てない」と批判していましたが、そういうレンドルは、「ガツン、ガツンとボールを機械のように打ち続ける、まるで役所の役人が判子を押すかのようなテニス」と一部のアンチファンからは言われていました。とにかく、当時は少数とは言え、まだまだプロのネットプレーヤーはいて、ネットプレーヤー対ストローカーの試合は見ていて楽しかったです。いろんなスタイルのプレーヤーがいました。エドバーグのようにグラウンドストロークに威力がなくてもネットでカバーする人、マイケルチャンのように低身長を足の早さと長ラケでカバーする人、女子でさえ、ナブラチロワのようにネットプレーを主体にする人が居ました。しかし、残念ながら、今はラケットの性能の向上によって、ネットプレーヤーではなかなか勝てなくなってしまいました。選手は背が高くて、そこそこ早いサーブを打てて、何より強く正確なグラウンドストロークと体力が必須であり、しかも殆どそれらの優劣だけで試合が決まるかのようになりました。

今回のフレンチオープンも、あの暑苦しい赤土の上で、ベースラインからボールをひたすら打ち合うという暑苦しい試合展開。ジョコビッチがたまにやるドロップショットでネットに出てくる事はありましたが、サーブからボレーへの美しい昔ながらの動きはなし。試合を見ていて、ふと、二十年ぐらい前のフレンチオープンを思い出しました。たしか、決勝がアガシ対クーリエ。二人とも、ベースラインからバコバコと打ちまくる素人が見ていると余り面白くない試合でした。アガシはボールを打つタイミングが早く、時に驚くようなショットを出すので、それでも見ていて面白いと思うこともありましたが、クーリエはとにかくミスせずにハードヒットを繰り返すというレンドルタイプで、私はどうも好きになれませんでした。

その当時、生物学研究では、分子生物的実験法が汎用化してきたころで、ネコも杓子も遺伝子組み換え実験、分子クローニングをするという時代でした。ゲノムシークエンス情報も限られており、遺伝子クローニングや遺伝子組み換え技術の汎用化は、いわば、巨大な暗闇の洞窟の中を手探りで進んでいる研究者に与えられた懐中電灯のようなものでした。その分、研究者の方もその灯りを頼りに、様々工夫をしながら、新しいものを見つけて行くという、わくわく感のあった時代でもありました。それ以後の急激な研究技術やインフラの進歩は驚くべきものがあります。しかし、そのせいで逆に研究のスタイルはますます画一化し、違いはスケールと対象物の差、というような感じになってきたような気がします(少なくとも、表面的には)。やることは最初からだいたい決まっているのです。

プロテニスからネットプレーヤーが消えて、どれだけ正確に早いストロークを打ち続けることができるか、という機械のように画一化されたスタイルの選手だけが残る、というのは、見ている側からするとあまり面白くありません。同様に、最近の論文を見ても、ヒトの細胞で包括的タンパク質発現プロファイルをしたとか、ある細胞のゲノムを全部アノテートしたとか、いう研究を見ると、「ふーん、すごいね」というぐらいの感想しか湧いてきません。マススペックやChIP-seqをひたすらを大規模にやりまくっただけではないか(こっちは、カネも人力もないからできないけど、、、)とつい思ってしまいます。もちろん、そうして得られたデータが価値があることはわかります。ただ、そういう研究は、横から見ていて、「面白い」と思えないです。

研究が面白いと思えなくなるのは私にとっては重大事です。そうなれば私は研究をやめなければなりません。プロテニスは、私が面白いと思えるようなスタイルのプレーが消えて行ってしまい、見ていても面白いと思えなくって、自然と見なくなってしました。ひょっとしたら研究もそうかもしれません。これまでは、自然とやりたいことが目の前に表れ、それらをやる意義も社会が認めてくれたので続いてきました。これからもそうであって欲しいと思いますが、先のことはわかりません。研究の方法論的な部分が画一化していて、誰がやっても同じになってしまったら、「私が」研究をする意味は何なのだろうかと疑問に思うでしょう。人間、皆、それぞれにユニークな「Niche」を見つけて生きていくものだと思います。もしも、私のNicheが、研究法の画一化によって、ブルドーザーで地ならしされるように潰されてしまうのであれば、研究は別に自分がやる必要はない、と私は思うだろうと思います。
(ところで本論とは関係ないですが、どうしてステムセル研究者はNicheをニッシュと発音するのでしょう?この辺に私は彼らの微妙なarroganceを感じてしまうのですが、それは私の僻みでしょうか)

プロテニスが、今後また(私にとって)面白くなるか、に関しては私は悲観的です。研究世界の将来も残念ながら、これから二極化が進み(つまり、カネの潤沢な大手研究室が大量データ取得型研究をひたすらやって、弱小研究室がそれらのデータの一部を各々のシステムで小規模にフォローする)、そして少なくとも研究スタイルという意味で、多様性は失われていくのではないか、と思います。行き着く所までいって、煮詰まってしまうまではこの傾向が進むような気がします。それはそれで仕方のないことですが、寂しい気はしますね。
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国民の生活が第一

2014-06-06 | Weblog
相変わらず原発推進記事でタイトルを見るだけで吐き気がする「読売」に対して、何故か、最近、反原発色を強くする「朝日」。何があったのでしょう?原発ムラからの広告依頼が無くなったのでしょうか?あるいは改心して多少はマトモにやろうとしているのか、はたまた、一般国民の95%が反対する原発ですから、ガス抜きのためのポーズでしょうか。

しばらく前の大飯原発再稼働を認めないという判決を出した福井地裁の判断に対し、読売、日経、といった経団連の提灯もち新聞が軒並み、批判したのに対し、われらが東京新聞(中日新聞)が判決擁護記事を出したのは当然として、朝日と毎日も同様の論調であったのは、興味深いです。

各社の論調を解析した記事がサンケイのウェブ版に出ていましたのでリンクします。サンケイの意図は何なのでしょうかね。原発推進派はドロ舟だと流石にわかってきたのでしょうか。

関西電力大飯原発3、4号機の再稼働差し止めを命じた福井地裁の判決は産経、読売、日経の3紙が、百パーセントの安全を求めるのは「非現実的」などと厳しく批判したのに対し、朝日、毎日、東京の3紙が、国民の命を守る判決だと称賛し、評価が真っ二つに分かれた。

何の事故がなくても、何十万年と放射能を出し続ける危険な核廃棄物を量産していく危険な原発で、しかも、一旦、事故がおこったら、事故を収束させる手段もなくて、現に、福島ではお手上げになっているような未熟な技術であるのに、百パーセントの安全を求めるのは「非現実的」なのだそうです。何パーセントならいいと読売は思っているのですかね?そして、いつものように感情的で独断的な社説、「不合理な推論が導く否定判決」ちゅーのは、読売の社説子の脳みそのレベルでは理解できないと言っているのでしょうか?国民の95%は、判決は、明快で当然の論理に従っていると考えているだろうと思いますけどね。

 ■大飯原発判決をめぐる主な社説
東京  国民の命を守る判決だ    (22日付)
朝日  判決「無視」は許されぬ   (22日付)
毎日  なし崩し再稼働に警告    (22日付)

読売  不合理な推論が導く否定判決 (22日付)
産経  非科学、非現実的判決だ (5月23日付)
日経  大飯差し止め判決への疑問  (23日付)


読売は発行部数が20万部、落ちたそうです。いまや、ファミリーレストランなどで、無料配布されているというウワサも聞きましたが、ゴミを作る上に資源のムダです。読売が新聞発行するのに使う電力を節約したら原発はホントに要らないのではないですかね。

それはともかく、メディアは、読者あってのメディアであることを再認識してもらいたいと思います。読者がいるから広告が取れるのであり、読者を失えば、一般企業が広告を出さなくなるのは当然のこと、おそらく政府広報の広告もなくなるでしょう。

同様に、政府官僚も国民の生活が第一であることを認識してもらいたい。税収を上げるには国民の生活を豊かにすることが第一でしょう。生活必需品にもかかる消費税を上げたら一時的には増収になるかも知れませんが、結局、その他の消費は低迷し、経済活動は低下し、税収は低下するでしょう(橋本内閣の時の歴史的事実です)。そのうち、国民がみんな生活保護を申請するような社会になったら、政府や官僚は誰から年貢を巻き上げるつもりなのでしょうか。
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虚しい作業

2014-06-02 | Weblog
もう、半年足らずで、忘却の彼方へと消え去ろうとしている理研のSTAP事件でしたが、細々と毎日新聞が、実験動物計画書と実験内容の間に矛盾があることがわかったとかいう、調査内容に関するニュースを出してました。

ちょうど今、動物実験プロトコールの修正をしようと、書いていますが、動物実験プロトコールを書くことほど、砂を噛むような虚しい作業はないと、やる度につくづく思います。生命科学で、実験に動物を使う以上、動物の扱いは慎重に行われるべきですから、動物実験に規制があるのは当然であると思います。しかし、この作業は本当に気が滅入ります。数年間にも渡る動物実験の詳細を延々と書いて、使う動物の数を勘定して、実験を計画して認可を貰うわけですが、実際は、計画通りに実験するというのはムリです。実験動物ですから原因不明で病気になったり、死んだりします。遺伝子変異動物を使う実験では、交配によって変異動物を何匹つくる、という計画を作った所で、何匹そういう動物ができるかどうかは動物任せですから、計画通りに動物が得られるワケでもありません。それでも、あたかも数年先まですべてお見通しで、全て考えた通りに事が進むかのように計画書を書いて、まだ生まれもしていない動物の数を計算しないといけません。大変、時間を喰う上に、科学の成果に何らつながるものではなく、実際は計画書の通りには進まないことがわかっている、空想上の作文をするわけですが、この作業をしていて、一日が終わったりすると、とても情けない気分になってきます。しかし、思うに、この計画書を読む方はもっと虚しいでしょう。読む方も同じ研究者ですから、わかっているのです。しかし、レビューして会議で認可するかどうかを決めないといけないので、読む方も全く面白くない空想計画書をイヤイヤ読むわけです。気の毒です。

そういうわけで、動物実験は規制に従って行われるべきではあるが、実際には、厳密に実験計画書の通りに規制すれば、違反しない実験計画は一つもない、ということになります。そもそも、制度を作る方が現実を無視して作った規制であるのでルールの方がおかしいのです。道路の制限速度のようなものです。あるいは、政治資金規正法みたいなものです。ルールが現実に即して正しく作られていないわけですが、それでもルールである以上、それに従う義務がある、そこに実際的な問題が出てきます。

つまり、悪意のある人間が悪法を悪用すれば、警察のネズミ取りや検察の政治事件のように、標的の人間を恣意的に糾弾して追い込んだりすることが可能になります。実験プロトコールを調べて、現実の実験との間に差がでるのは、本当は仕方がないことです。動物実験をしている人間なら誰でも知っていることです。その辺の問題があるのは承知で、しかしよい代案がないので、やむを得ず、現行のルールを踏襲しているというのが現実でしょう。

しかし、こうした問題のある規制制度は、本来、放っておくべきではないと思います。政治資金規正法もそうですが、どうとでも解釈できるようないい加減な法律は、悪意を持つ人間にとっては、これとない攻撃のための道具になりますから。

そんなことをSTAPの動物実験計画書のニュースを見て思いました。ただし、STAPの場合は動物実験計画書違反を問われているわけではなく、単に、マトモに実験していないことの証拠であったのでしょう。
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