大阪市長選で前大阪府知事が当選とのこと。喩えが悪いかも知れませんが郵政改革で熱狂支持を受けたコイズミを思い出させます。この新大阪市長、ハシズムとか呼ばれて強引な改革をやろうとしていることが多くの人のバッシングをうけているのは聞いていますし、つい先日の「内田樹の研究室」では、その教育に対する考えかたに痛烈な批判がされていました。改革に対する情熱があるのはわかりますが、挑発的で強引なやりかたや、教育システムに軍事的ともいえる規律を導入してシステムをトップダウンでコントロールしてやろうとする考え方は、私も気に入りません。「維新の会」とかいう団体で活動しているようですが、だいたい、明治維新は日本の外圧に対する敗北であって、その後、独立国として関税自主権を取り戻すのに非常な苦労をしたという歴史を鑑みれば、「維新の会」とかいうネーミングからしてちょっとズレているのではないか、と思わされます。
ニュースのリンクから、府知事時代のこの人と私学助成金削減に反対する高校生との3年前の討論を知りました。(「子どもが笑う」とは皆さんが笑うことではない)この高校生との対話で、この人の言ったことは基本的に間違っていないと私は思います。(ところで、この対話で出てくる「自己責任」という言葉が、しばしば、市場原理主義擁護というコノテーションをもって使われているのを私は愉快に思っておりません。私は「自己責任」は、自分の人生を豊かに生きる上で不可欠の考え方であると信じております。)
ただし、問題は話している相手です。相手は、義務教育期間中「先生や親や大人の言うことをまじめに聞いていれば良い」というロボット教育を叩き込まれてきた子供たちだということです。私が自己責任の話を理解できたのは、つらい大学院、ポスドク時代を何年も過ごしたあとの話で、小中学校で「先生や目上の人の言うことを聞け」とだけ教え込まれてきた子供が「自己責任」を理解できるはずがない、と思うのです。(できたら、よっぽどの大人です)その子供たちに(学校教育で教えてきたことと異なる)現実社会の本音を正面からぶつけたら、泣き出すのも無理はないと思います。弱い相手に対する思いやりというものが欠けているとの批判されるのもやむを得ないかも知れません。しかし、この知事の立場であれば、他にどう言えただろうか、とも思います。
大人の目からすれば、この高校生たちの言うことは甘えです。「学力が足りないので私立の高校にしか行けなかった」というのはちょっと情けない言い訳だと思います。「先生に(私立しか行けないと)言われたから(私立に行った)」というようなことを言っています。また、この子たちは「教育の権利」が保障されているのだから、カネを出せ、とも言っています。それに対して、「学校に行かなくても勉強はできる」と知事は答えます。つまり「本当に勉強したいという気持ちがあるのか?」と聞いているのでしょう。「勉強は学校に行かなくてもできる」というのは真実です。また「そんなに勉強したいのだったら、どうしてもっと頑張って公立に行かなかったのか?」という知事の質問は当然のものとも言えます。
私は、原則的に前知事の言うことは、もっともだと思います。高校生を対等な立場の相手として本音で語ったのも立派なものです。あの立場では、あれ以上の対応はできなかっただろうとも思います。しかし、その発言がかくも多くの人の反感を買い、この前知事が、子供、弱者に対する思いやりに欠ける、人間性に問題がある、という反応を起こすのは何に起因しているのか、と考えずに居れませんでした。相手は子供なのだから適当なことを言ってその場を誤摩化せば良かったのでしょうか。(日本政府は国民に対して、そういう態度をずっととってきましたが)府の税金からの収入ををどう配分するかが知事の究極の仕事です。税収に限りがあるのなら、優先順位をつけざるを得ません。それによって不利益を被る人々は必ず出てくるわけで、全員の願いを聞くわけにはいきません。知事はそのことを伝えたに過ぎないと思います。また「勉強は学校に行かなくてもできる」というのは、建設的なアドバイスであると私は思います。
問題は、むしろ、この子たちがこれまで、受けて来た教育だと思うのです。この子たちは、自分たちには教育を受ける権利がある、権利が保障されているものは「自動的に」与えられるべきだ、と思っているようです。それで「学力が足りないので、先生に言われて私立に行った」というような言い訳が出てくるのではないでしょうか。自分に学力がないのは、環境のせいであったり、先生のせいであったりするのだから、彼らが自分の教育に責任をとるべきだ、なぜなら、教育を受ける権利があるからだ、という理屈のように聞こえます。そう主張するのは自由ですが、その主張を買ってくれる人がいるかどうかも考慮しておくべきでしょう。結局は、他の誰でもない自分自身の教育の問題なのですから。かれらの理屈は、「上」のいうことを真面目に聞いて命令通りに動く優秀なロボット労働者を量産する、という高度成長期の目的に沿った教育成果に他ならないのではないか、と私は思います。「自己責任」という当たり前の原則についてわざと学校が教育してこなかったのは、そういう「自立」した国民は、教師にとって、企業にとって、そして国家にとって扱いづらいからだ、と思います。管理する側からすれば、大人しく従順で与えられた仕事を文句を言わずにソツなくこなす人間が望ましいわけす。管理側は、「オレの言うことを聞け、その代わりに何かあったらオレが責任をとる(実際はとらないわけですが)」、そう言って、高度成長期に役立つサラリーマンを量産してきたのだろうと思います。これは「教育」そのものの問題というよりは教育システムの背骨に埋め込まれた政治的意図が起こして来た問題ではないのか、と思います。教育の本当の目的は、自分の頭で考え最適の判断ができる「自立した人間」を生み出すことであるべきだ、と私は思っています。しかし、税金を使って行う教育は、国家にとって(建前上は、その構成人員である国民にとって)子供を教育することが有益になるようにデザインされているわけで、優秀なロボットが欲しかった時代の教育はそのような政治的、社会的目的に沿ってなされていたのでしょう。その観点からは、日本の義務教育のシステムは、むしろ自己責任や自立を放棄し、長いものに巻かれて、いつでも替えがきく社会の一歯車として、受動的に生きなさい、と暗に教えて来たのではないか、と思います。そういう人間は使う側から見れば便利です。戦争になれば黙って戦場に行くでしょう。
この前府知事が高校生に対して、いわば「自立」を促している一方で、同じ人間が、大阪の教育条例を変えて管理しにくい教師を締め付けようとしているという、分裂した(と私には見える)言動に、私は警戒感を持ちます。自立、自己責任の大切さを教えるのは悪いことではないと思いますが、府知事なり市長という権力を持った側が、その権力の行使の利便のための言い訳にこれらの言葉を使うのであれば剣呑です。
さて、この高校生たちですが、府知事に直訴したという行動は立派だと思います。彼ら自身が問題を自分で解決しようと行動を起こしました。その行動に「自立」、「自己責任」の意識の芽生えが見られます。そして、この討論の後、高校生たちは、生徒同士で、「勉強せなあかん。悔しいからな、勉強していろんなことしらなきゃあかん」と語り合ったとあります。その本意は正確にはわかりかねますが、この前知事との対話がこの子供たちに、知ることに対する動機を喚起したらしいとは察せられます。この経験は彼らのとって大きなプラスであっただろうと思います。
行き過ぎた弱肉強食の市場原理主義が日本の社会の格差と貧困を生み出して来たのはそうだろうと思います。競争でギスギスした社会よりも共に支え合う「共生」の社会を、というスローガンをよく聞きます。私も賛成です。しかし、「共生」の前に「自立」という言葉がついています。「自立と共生」です。自立していない人間が他人を助けることはできません。そして、助けられた方は自立を学んで別の人を助ける側に回らねばなりません。共生における助け合いは、自立した人々によるreciprocalなものでなければ長続きしないと思います。
ところで、この選挙で、大阪はどうなるのか、私は正直、政治主導でガンガン変える、と考えているこの人に対して不安な気持ちを持っています。大きな作用は大きな反作用と対であり、権力の集中は腐敗を産むのです。大衆が熱狂的に支持したヒトラー独裁は不幸な結果に終わりました。自民が圧勝したコイズミ改革は売国を促進し国を荒廃させました。改革に対する人々の期待が強く、強いリーダーシップを望むときほど、皮肉なことに強いリーダーシップは腐敗した独裁制へと速やかに転換し、より悪い結果を産んできました。そうならなければいいですが。