百醜千拙草

何とかやっています

信用できない

2023-08-29 | Weblog
ちょっと、愚痴です。今日は「ですます」で書けません。

何年も前からメルトダウンした原発に流れ込む地下水のために毎日90トンの放射能汚染水が出来続けている。汚染水は当面、仮置きのタンクに貯めてきて、その間に対処を考える予定であったが、そこはいつもの自民党であった。やってるフリしてやりすごし、問題を先送りして収束するのを待つ。先送りできない状況になったら、「責任を追求している場合ではない」と逆ギレしてちゃぶ台返しで、グダグダの寝技戦に持ち込む。汚染水問題が明らかとなった当初こそ、対処方法の議論がTVからも聞こえてきたが、アベ政権の半ばからは、議論さえしている様子もなく、もう何年も前から、問題を先送りしつづけて、破綻すれば、海洋放出が既定路線となっていた様子。自民党にとって、最優先事項は政権の安定であって、国民の生活や健康はもとより、国の繁栄や国防でさえどうでもいいと考えている。ましてコロナや原発問題は、それを解決したところで票にも結びつかず、手間ばかりかかる厄介な仕事としかみていないのだ。国民や世界にとって重要な問題は、自民党にとってはどうでもいい問題であり、やってもうまみのない仕事なのだ。そうした問題は先送りしつづけることが短期的にはもっとも簡単でコストが安いと彼らは考えている。アベが使い物にもならないマスク二枚でコロナをやり過ごそうとし、巨額の税金を中間業者に中抜きさせことに自民党という政党がどういう政党かがよく表れている。問題の先送りのためにウソを言うのも自民党だ。ウソによって先送りをし、ウソにウソを重ねて先送りしつづける。そして、ウソがばれたら開き直る。「汚染水に関して、地元の理解を得ずにはいかなる処分も行わない」とした政府の約束は、誰もが破られるであろうと予想した。その通りになった。追求されると厄介だと思ったキシダは、放出前には地元水産業者に会うことも説明することもせず、勝手に放出始めた。さすがに、その不誠実さを咎められたら、「政府の約束は守られてはいないかもしれないが、破られてもいない」という意味不明の東大官僚が書いたらしい詭弁を繰り出した。約束が守られていないのに破られていないという状況とはどういう状況なのか?特定の約束というのは守られていなければ破られているのだ。少なくとも「地元の理解を得ずにいかなる処分を行わない」という約束は完全に破られている。

海洋放出以外の手段を模索することもせず、思考停止したのは、脳の代わりにパンケーキが頭に詰まっていたからだろう。アベ友レイプ犯の逮捕をもみ消し、官房機密費をばら撒いてアベの子飼いに選挙買収させてアベの政敵を落選させた挙句にバレたら、それまで散々持ち上げていた実行犯の夫婦を揃って塀の中へぶち込んで尻尾切り。官房長官時代は、アベ家の生ごみバケツのフタと言われた男、ゴミバケツのフタとしての能力を買われて、総理になったが、流石に頭の中はパンケーキ、表舞台で通用する器量もなく、現職なのに総裁選にも出れずに匙を投げられた、そんな男が安易に決めた海洋放出。この男以上に無能で不誠実、頭の中はただの空洞としか思えないメガネをかけた動くカカシのような男がキシダ。バイデン、経団連、統一教会と、票と力のあるところには言われるがままに二つ返事だが、票にならない一般国民はもとより日本という国でさえどうでもいいらしい。国民不在、それどころか自分というものさえなく、命令のままに動くだけのカカシ ロボット。中国の水産物禁輸措置は「想定外だった」みたいな恥ずかしい答弁を平気で堂々とできるのは、無能ではなく無脳だからなのだろう。キシダは海洋放出は三十年続くと云う。その「三十年」には何の根拠もない。メルトダウンした核燃料を取り出す方法は12年経っても見つかっていないのだ。つまり汚染水は半永久的に流れ続けるのだ。そして、キシダはその三十年、政府が「責任をもつ」と言う。これほど無責任極まりない発言があるだろうか。アベが不祥事や問題が起こるたび「責任は私にある」と何十回となく言ったが一度も「責任をとった」ことがなかったのを思い出す。そもそもアベは国会で少なくとも108回以上、ウソをつきまくったと公式に認められたウソつきなのだ。それが自民党という政党である。キシダがウソつきでないはずがない。

海洋放出を世界が反対するのは当然である。海は繋がっているのだ。三十年どころか、これから半永久的にメルトダウンした原発から放射能が海に垂れ流され続けることになる。しかもこの汚染水は他国の稼働ししている原発がコッソリ流している放射能ではなく、メルトダウンした原発からの60種類以上の核種を含む、放射能汚染水であって、それを海に流すのは世界初のことである。しかも、東電はこの処理水の中身を意図的にトリチウム水と言い換えて隠してきたのである。自民党政権の日本政府も国策企業である東電も信用できないことは、ジャーナリズムが機能してしている日本以外の国では常識だ。

ちょっと自らを他の国の立場においてみれば、史上最大の桁違いの原発事故を起こしたにもかかわらず、その対策に真摯に取り組まず、何百トンとある燃料は事故後十二年経っても全く取り出せておらず、政府の公式声明の半分はウソとゴマカシのような国が、メルトダウンした原発からの「処理水」を世界で初めて海に捨てることに不安を覚えないはずはないし、手段があるなら止めさせようとすることは小学生でも理解できるだろう。

利権がらみは即決だが、それ以外はやってるフリでしかできない自民党政府、国民の生活は無茶苦茶、海外からの批判は強まる一方。アベ政権になったあたりから思考力のある人々は警鐘を鳴らし続けている。こうして目先の利益ばかりを追い求め、ウソとゴマカシで塗り固めたような政府を持つ国が繁栄するわけがない。日本は没落し、貧乏になり、モラルが廃れて、犯罪が増えると十年以上も前から言われ続け、そして、今、その通りのことが起こって来ている。ウソをついて他人を騙すのは自分の利益のためなら当然のことだと人々は思い始めている。そんな社会で安心して暮らせるわけがない。頭が腐ると全てが腐る。

二、三、目についたツイートを
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パルティータ2 プロジェクト II

2023-08-22 | Weblog
パルティータ2 のシンフォニアの練習と並行して2曲目のアルマンドと3曲目のクーラントも練習し始めました。しかし、ちょっと練習を休むとあっという間に弾けなくなるものですね。

五年ほど前に某市市民病院から独立して新たにできた医療施設の院長をやっている先生は、20年前は同じ町内のご近所さんでしたが、当時はしばしばヨーロッパなどでのコンクールに出場するぐらいのピアノの腕前で、若い時はプロのピアニストを目指すか医者になるかで真剣に悩んだそうです。優れた頭脳をもち、ピアノはプロ級、上質で品のよい服を着こなし、エリートを絵に描いたような人でしたが、驕ったところは全くなく穏やかで、育ちの良さが滲み出ている、そんな完全無欠の先生でした。ご近所時代、私に話してくれたところによると、この先生がプロのピアニストに届かなかったのは、二度目についた先生があっていなくて、そこで伸び悩んだのだと分析されていました。研究でも他の分野でもそうですが、若者にとって指導者というのは計り知れぬ影響力をもっているようです。「三年勤め学ばんよりは三年師を選ぶべし」という古語もあれば、道元は「正師を得ざれば学ばざるにしかず」とも言いました。「良い師匠」を探すことの重要性を生意気ざかりの若いうちから理解するのは難しく、私が、自分を導いてくれる人の大切さを実感したのは、自分が若い人を指導しないといけなくなってからです。私も若い時に真面目に先生の言うことを聞いておけば良かったと反省するばかりですが、それでも、面白いことに自然と師の癖みたいなものを受け継ぐようで、ときどき自分の話し方が師に似ていると感じる時があります。また、逆に私の部下の口癖が私そっくりだと指摘されたこともありますから、人の振る舞いというのは感染性があるのでしょう。いずれにせよ、若い時によい師を探し、謙虚に教えを乞うことの重要さを強調しすぎることはないと思います。

私はピアノを人前で弾く予定もレコードにする予定もなければ、ましてコンクールに出るという目標もなく、単に、美しい曲を自分で弾けるようになったらいいな、と思って我流でやっているだけですけど、余裕ができたら先生についてレッスンに通いたいとも思っています。今は、練習しながら、曲を分析したり、この曲が書かれた時代のことなどを想像しながら、楽しんでおります。

さて、パルティータ2のアルマンドは名前の通り、ややゆっくり目のドイツ風舞曲ですが、この曲は後半のサビのアルペジオが美しいです。この部分の和音とその進行とメロディーの流れは緻密な計算の上に書かれているように感じます。和音のルートが4> 5/3>6/2>7/1..と小節の前半で一度ずつ下がり、後半で一度ずつ上がるように進行するように書かれています。左手はコードの基本音ですが、右手のアルぺジオに使われているテンションノートが効果的。弾くのはそう難しくありません。

次のクーラント(Courante)は3拍子の「流れるような」リズムの舞曲です。短い曲で、簡単そうに見えるのに、リズムと右手と左手のコーディネーションがちょっと難しくてなかなかスムーズに弾けません。この時代の右手と左手が独立してメロディーを奏でるpolyphonyというスタイルは右手が主旋律で左手が伴奏という形の現在主流の曲を弾くのとは違った概念と技術が必要で、左右の手が独立して音を伸ばしたりする部分があるために、時に非常に不自然な指遣いが必要になります。またこの時代の曲の装飾音のショートトリルはAllemandeで聞かれる通り、一音上から始まるので近代曲のトリルより一音多く、これもやりづらいです。

Andras Schiffの演奏。Allemandeは4’21からCouranteは8’52から

また、フランスのクーラントとイタリアのコランテでは、曲のコンセプトが若干異なるようで、バッハはクーラントとコランテを区別して書いているようです。パルティータ2のこの曲はフランス風のクーラントで、リズムとメロディーが面白く、バッハの作曲の天才性に感動を覚える曲です。因みに、クーラントに続くのはサラバンド(あいにく上のSchiffの演奏では著作権の関係で省かれています)。これはゆっくりした荘厳さのある曲で、多分、技術的には最も簡単ですが、しみじみとした曲調が美しい。それに続くロンドと最後のカプリッチオを合わせた6曲でこの組曲は成り立っており、アルマンド(ドイツ風)、クーラント(フランス風)、サラバンド、ロンド(円舞曲)の4舞曲が最初のシンフォニアと最後のカプリッチオ(奇想曲)によって挟まっているという構成になっています。

私のこのプロジェクトのきっかけに一つとなった演奏がこちら。アルゲリッチがアンコール用に高速で演奏したカプリッチオ。通常スピードの3割増しぐらいでしょうか。音楽的にはどうかと思いますけど、アルゲリッチのカリスマを見せつけた演奏。上のSchiffの情緒纏綿なうねるような演奏とは随分違いますね。

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昔の知り合い

2023-08-15 | Weblog
前にも彼のことをとりあげたことがあると思いますけど、三十年来の知り合いからメール。彼と最初に知り合ったのは湯沢で開催された小さな研究会ででした。

わざわざ新幹線に乗って冬の湯沢まで行って小さな会に参加するのは、今頃になって少子化対策を学ぶという名目で夏のフランスに大挙して行くようなものと本質的に変わらない、と思われる方も多いでしょう。しかし、研究分野ではこうして日常を離れて自由に交流するリトリートと呼ばれる研究会は伝統的な行事であって、そこにソーシャルイベントが組み込まれるのも普通です。もっともよく知られているのはゴードン 研究カンファレンスで、二年に一度、夏休みで空っぽの大学の寮と講堂などを借りて行われ、会期中は寮に寝泊まりし、朝と夕方のセッションの間の自由時間は、参加者同士テニスをしたり雑談をしたり、夜のセッション後は飲み会になるというスタイルの小規模の分野に特化した会議が長年続いています。ゴードンは多少、実利的側面の強い会で、若いうちに研究で一発当てて、こうした会の演者に招かれて名前を売り、コネを作りにはげみ、「仲間の輪」に入れてもらえると、その互助会的活動によってその後の生き残りゲームを有利に戦えるのです。ピアが評価しあう世界ですから。日本でも若手、学生向けに「夏の学校」みたいなのが開かれています。

それはともかく、この湯沢の会は、もちろんゴードンのような権威は全くなく、そもそもウチの分野の東京ローカルのリトリートで、スキーと宴会がオプションの慰安旅行的な性質のものだったのですけど、ちょっとした政治的理由で、その時は関西からも数名が参加したのでした。下っ端同士ということで知り合った彼は、当時は今は無くなってしまった外資系製薬会社の研究者で、私は大学院生でした。その後、彼の人生は紆余曲折あって、大学に戻ったりアメリカに渡ったりしたあと、とある国立の研究所に落ち着き、部長を退官してから、縁あって、今は中国の企業で研究を継続中という経緯です。

人口、14億の中国は医療、製薬のマーケットも巨大で、罹患率が高く有効な治療に乏しい病気の治療につながる研究、つまり金になる研究、に人が群がっております。それで、彼も営利企業の一員として、長年のテーマとは別に変形性関節症の基礎研究を始めたようで、とある実験手法について意見を聞きたい、とのことで連絡をくれたのでした。この実験手法については、私も十年ぐらい前に似たアイデアを思いついてやり始めたことがありましたが、最初の実験がうまくいかなかった後、資金と人材の不足で継続を断念したことがあって、そのあたりの経験を伝えました。

思うに、連絡の本当の目的は、やがて訪れる老後の不安などに関して、同病あい憐れむの心情で、愚痴を聞いてもらいたかったことのようでした。私より数年、年上の彼は奥さんとの二人暮らし、定年の早い研究所で、定年の十年前ぐらい前から、学会などで顔を合わせる度、今後の仕事と人生の不安について語り合う仲でした。

子育てとかローンの返済とか親のこととか、人生の義務的なことにある程度の見通しが立ってきたら、今度は残りの時間をどこでどう過ごし、どう死んでいくかといういうことを考えねばならなくなります。彼も私もそろそろその時期です。

今、私が日々、していることは、仕事も含めて「やらないといけない」ことは何もありません。仕事をしている以上、仕事上の義務はありますけど、嫌なら辞める自由もあります。若い時のように、残りの人生の全てを賭けてでもやりたいといういうようなものはもう持ち合わせていません。だからこそ、今の仕事を楽しく勤められているのだろうと思います。おそらく彼もそうでしょう。

これまでは、やらねばならないことをこなすのに精一杯でしたから、突然、自由を目の前に置かれても、どう扱っていいのか戸惑ってしまうのが小市民。いまさら大きなビジョンも持てないので、一日一善の心がけで日を過ごし、目の前の些末時に一喜一憂し、やがて誰かの世話になって、そっとこの世を去っていく、そういう老後がいいと思う一方、体の動くうちにもう少し意味のあることをしたいという気持ちもあります。

しばらく前の映画でありましたが、私もBucket listでもを作ってみようかと思っているところです。
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フランス観光旅行と国立博物館

2023-08-08 | Weblog
暑過ぎて、家では、ずっとクーラーをかけた小部屋に閉じこもった日々が続いております。平日は職場で涼みながら暇つぶしができるのでいいのですが、週末は下手をすると、最小限の買い物のための外出以外は、ずっとその小部屋におります。

インターネットのなかった子供時代は、雨の日も日照りの日も週末に外に出ないことはなかったです。小部屋に一日閉じこもっていなければならないとしたら、気が狂っていたでしょう。今は平気です。がまん強くなりましたし、そもそも今はインターネットがあり、Youtubeとツイッターで無限に暇が潰れます。

ツイッターというのは、一営利企業が運営するサービスとはいえ、社会の人々が世界中で利用している情報共有の場でありますから、新聞や報道TVと同じく、社会の公器であります。そうした側面に意識が及ばず、単に自分の力を誇示し、金儲けをするツールだと考えてでもいるような態度のエゴイストにツイッターを弄り回されたくない、というのが利用者の自然な思いです。例えば、愛着のある自分の母校が金儲け主義の理事長によって、突然、「安倍晋三記念小学校」みたいな名前に変わったら、学生時代の思い出まで汚されたような気になりませんか?

ツイッターは情報のdisseminationのツールとして、そして研究や学問の分野においてはその研究成果の社会的インパクトを示す指数としてツイート数が使われるぐらいに、広く、多目的に使われております。したがって、いくらツイッターのオーナーが嫌な奴でも、長年のユーザーにとって、ツイッターを止めるという選択をするのは困難です。かと言って、ツイッターを開ける度にあの醜い"X"のロゴを見るのも不愉快です。それで、同様の思いを持つ方が開発してくださったのでしょう、Twitter Logo ChangerというExtention を見つけ、早速、ブラウザーに導入しました。"X"を自動的にあの青い鳥に変換してくれます。これで、ツイッターを開く時のストレスが減りました。

さて、残念ながら、ツイッターから流れてくるニュースにあまり喜ばしいものはありません。いよいよ、日本も落ちぶれて昔のアジアの二流国か、と思わせる話題ばかり。日本の民間の努力は今でも素晴らしいが、政府がとことんクソです。頑張っている人に報いるのではなく、頑張っている人を使えなくなるまで搾り切って捨てるという態度。将来の発展や持続可能性や未来の国の形など全く念頭になく、今だけ、金だけ、自分だけしかない自民党政権。

先日、激しいバッシングを受けた、38人の自民党女性議員による「研修」という名目で行った豪華フランス慰安旅行。税金原資の党費などを使い、往復数百万円のファーストクラス飛行機に乗り、一泊六万のスイートに泊まり、観光名所で記念撮影した写真をSNSに流せる神経がもう人間ではないです。加えて子連れで行った議員は日本大使館の職員の子守りまでさせたという話。日本人が貧乏になってファーストクラスどころか旅行に行く余裕もない人々が多いという現実を国民の代表であるはずの議員が理解せず、そうした人の神経を逆撫ですることにも無頓着。公私混同、権力の私物化をしても、役得ぐらいにしか思っていない自民党。呆れるというより、やっぱり自民党だなあと納得。

確かにファーストクラスに乗る人がいないと、航空機会社の経営も成り立たたないし、エコノミークラスの料金を低く設定することもできないのは事実ですから、私は飛行機に乗る時はエコノミーの10倍の料金を払ってファーストクラスやビジネスに乗ってくれている人に心の中で感謝しながら自分の狭い席に座っています。しかし、そのファーストクラスの乗客のチケットに自分が払った税金が使われているとなれば話は別でしょう。議員でありながら貴族さながらの振る舞いで、国民目線を失ってしまっては話になりません。

それから、がっくりくるニュースの一つが国立博物館が資金不足でクラウドファンディングという話題。この施設、「国立」ですよ、国立。国が運営の責任者。なのに、クラウドファンディングで資金調達。切羽詰まってクラウドファンディングという選択をした博物館も問題ですが、何より国立の博物館でありながら、国がしっかり予算をつけないで、現場に問題を丸投げしているというところに救いがないです。

さすがは、国が保護するべき子供の貧困対策を何もせず、見るに見かねた人々が善意で子ども食堂を運営せざるをえないような状況を放置している政府です。その子供食堂にアホづら下げて出向いて行ってカレーおいしかったです、と呑気な写真をあげたどこかの党首もいました。政府がやったことは新聞広告を出して、「あなたにもできることがあります、子ども食堂に協力してください」というお願い。無能な政府のおかげで、見るに見かねて、身銭と労力を割いて善意でやっている人々の神経をこれ以上に逆撫でする政府がいるでしょうか?誰が子供の貧困問題の責任者だと思っているのでしょう?そういえば、首相でありながら、この惨状を放置した上で、まずは「自助、共助、公助だ」と言い捨てた人もいました。この男は、まともに答弁もできないので、現職首相だったのに総裁選に出ることさえもできず降ろされてたのでした。政治家としての業績は選挙買収犯の手助けとアベ友のレイプ犯の逮捕もみ消しぐらいですか。

とにかく、自民党政権に日本人の常識は通じません。人間同士の関係は、普通はレシプロカルなもので、思いやりには思いやり、憎しみには憎しみで返ってくるものです。しかるに、自民党政権というのは、「今だけ、金だけ、自分だけ」の組織です。下手にでればどこまでもつけ上がり、弱いものは助けるのではなくいじめ、我慢をすれば更に我慢を強いる、権力を託されているということに謙虚な思慮深さを全く持ち合わせず、その権力を私的な利得に利用することしか考えていない、まるで宿主の養分を吸い取る寄生虫のような連中だと言って間違いないでしょう。ならば権力をもった寄生虫にわれわれはどう対処すべきでしょう?選挙という虫下しはあるのですけど。
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今日の聖書 レビ記

2023-08-01 | Weblog
旧約聖書を順番にボチボチとよみ始めてようやく1/7ぐらいまできました。信仰はないので、記載されている内容を深く考えながら読んでいるわけでも何かを学ぼうとして読んでいるわけでもなく、素人が小説を読むようにカジュアルに読んでいます。科学論文だと、分野が違えば読んで研究論文の内容を正しく理解するのは容易ではありませんから、中東の文化に疎く信仰もない私が、聖書を読んで、その内容を信仰に基づいて毎日聖書を読んでいるような人々と同様なレベルで理解するのは無理だろうと思われます。しかし、正しく内容を理解しないと意味がない科学論文と異なり、聖書に関しては、研究家、信仰者、素人がいろいろな読み方をしても、間違った読み方というものはないのではないだろうかと想像します。書き手でさえ意図しなかった意味を読み手が発見するということもありますし。

さて、旧約での最大の見せ場となっているのは、ヘブライ人のエジプト脱出とシナイ山で神がモーゼに戒めを与えるという一連のエピソードではないかと思います。そのエジプト脱出の顛末を描いた「出エジプト記」に続く章が「レビ記」であって、ここには神がシナイ山でモーゼに語った戒めが非常に細かく記載されています。

様々な事柄に対して、神は事細かに規律や戒めを一方的に取り決めて、モーゼに命令したわけですが、これらの事柄をいちいち覚えて実行するのは不可能なレベルの細かさです。これは神の言葉として書かれていますが、本当は聖書を書いた誰かが神に言わせた言葉であります。その「誰か」とは、思うに、いわば、昔の中東の社会を構成する歴史的空間的人々の集合体からなるメタ人格ではなかったでしょうか。そのメタ人格が聖書を書くにあたって、神に細かく戒めを言わせた意図は何だったのでしょうか?ま、これは、聖書の成り立ち関する私の推測(仮説)による前提に過ぎませんから、実は本当に「神」が存在して、シナイ山でモーゼにこれらのことを語ったのかも知れません。世間には聖書に書いてあることを歴史的事実と信じ、創世記の記載と矛盾する「進化論」を公立校で教えることに反対する人々もおります。

さて、ユダヤ系社会ではいろいろと多くの戒律や決まり事があって、現在でもそれらは伝統的に守られているものも多いです。代表的な例の一つは日々の食品でしょう。ユダヤ教の実践者はKosher foodsと呼ばれる、一定の儀式的な決まりを守って製造または調理される食品を食べることになっています。これらは、ユダヤ人の住むところでは普通のスーパーでも明示されて広く売られており、例えば、kosher meatの場合、反芻動物の体の前半分のみから取った肉のみがkosherであって、それ以外の動物やそれ以外の部位はkosherではありません。動物はshochetと呼ばれる資格をもった者によって一頭ずつ個別に殺され、別の資格者によって検査される必要があり、調理の前には血は綺麗に洗い流されねばなりません。また肉と乳製品は同時に調理したり食べたりしてはならず、それらを調理する調理具もkosherでなければならず、それらは厳密に区別されなければならないとあります。

昔の知り合いのイスラエル人によると、kosher foodsの製造、調理に手順が指定されているのは、昔の中東で生活する人々が、食中毒などの疾病を予防するための生活の知恵であったとのことです。それに強制性を持たせるために、信仰を利用し神からの戒めという形をとっているのだという話。確かに事細かく、いろんな事例において規則が定められているのは、具体的な実益を意図していると解釈するのが自然なのでしょう。

例えばレビ記に次のような言葉があります。
「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。もし人がその十分の一を贖おうとする時は、それにその五分の一を加えなければならない。」

想像するに、これは食料危機などに備えるための備蓄確保のための手段ではないかと思われます。また、利息をつけて返すことを義務付けることで安易に備蓄に手をつけることへの抑制的効果を期待しているのではないかと想像されます。

この言葉に続く下のような言葉はどうでしょう?
「牛または羊の十分の一については、すべて僕者のつえの下を10番目に通るものは、主に聖なるものである。その良い悪い問うてはならない。またそれを取り替えてはならない。もし取り替えたならば、それとその取り替えたものとは共に聖なる物となるであろう。それをあがないうことはできない。」

想像するに、これはおそらく維持する家畜のコロニーの多様性を担保しようとするためのルールではないでしょうか。良い悪いを問わずにランダムに一部を残すことによって、人為的なセレクションによっておこるgenetic driftを抑制し、遺伝的疾患などによる疾病の出現を抑制しようと意図したものではないかと考えられます。

このように考えるとと聖書の時代は、人々が長期的視野に立ってよりサステイナブルな社会を守っていくために、信仰と宗教を通じて規制を実践させる高度に計算されたシステムを持っていたのではないか、と感心させられます。とすると、シナイ山でモーゼが受け取った戒律とは、人類が自然の中で破滅することなく生きのびていく方法を生物学的な経験的知識に則って示したものであると解釈できます。

その表現の裏に意図されている目的を考えれば、モーゼが与えられた神の戒めとは倫理的、宗教的な規律を示したものではなく、もっと現実的で生物学的な実益を意図したものであると解釈するのがしっくりきます。これまで「物語」として聖書を読んできましたが、むしろ実用書としての意味を考えながら読む方が理解が進むのではと思い始めたところです。
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