内田樹の研究室、困難な成熟、文庫本のためのあとがき、を読みました。
ここ数年、常識が通じない人々と関わることがあり、特にこの一年は複数の人々とのトラブルに悩まされることになりました。それで、そもそも「常識」とは何なのか、みたいなこともいろいろ考えました。
私も長年、生きてきて、社会とのフィードバックの中で時には痛い目に合いながら、ある行動に対して、一定の幅の範囲内で予測される反応が返ってくるということを学んできたと思ってきました。こちらが社会に働きかけたり、社会からのインプットの反応したりすることを通じて、社会の構成員がなんとなく共有している行動様式や思考様式、つまり「常識」を知り、「矩を超えない」ようになることを学ぶこと、それが成熟することなのかな、と思っておりました。
しかし、優秀なはずの若い人々から、予想を裏切られるような反応が返ってくることが増えました。増えたと言っても絶対数は少ないので、まだ私の常識は大抵の場合、通用しています(と思います)。昔を振り返ると「常識」など、かなり流動的なものであるのは間違いないとも思うので、私の常識がそのうち皆の「非常識」になるのかも知れません。
社会的動物である人間が、お互いを思いやり、お互いが幸せに暮らせるような考え方や行動を身につけるということが人間としての「成熟」であるとすると、近年はその「成熟」することに価値を感じない人々が増えてきたのではないかと感じます。その典型例がアベやトランプですが、ま、その話はやめておきます。(というか、彼らやアベ婦人は、人間としての成熟とは何かということをマトモに考えたこともないのでしょうが)
思うに、即物的な資本主義の「金や権力を持っている奴が持たぬ者を支配する」思考が汎在化したために、人間としての成熟よりも、モノや金を沢山持つことの方が大事だというメッセージを社会が発している結果ではないだろうかと思います。いうまでもなく、この考え方は「非民主主義」です。
先のエントリーの中で、なるほどと思ったのは、
(引用)それはつまり「大人」を大人たらしめているのは、然るべき知識があったり、技能があったり、あれこれの算段が整ったりという実定的な資質のことではなくて、むしろおのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性を観察し、吟味し、記述することができる能力のことだということです。
という一節です。己を客観的に評価する能力、これは他人への思いやりを持つに不可欠な能力であると思います。自分を客観的に見れるということは、他人の立場に立って自分の行動を評価することができるということでしょう。ちなみに人格障害の人ができないのはコレらしいです。自分を客観的に評価することができない、自分の行動を他人がどう考えるか想像できない、心の発達の障害のためにそういうことを学ぶことができなかった人々です。何れにしても、他人の立場に立って己の行動を考える能力を欠いていることは、すなわち幼稚であるということでしょう。
さらに、別の一節では、社会の問題を挙げています。これは常識の通じない人々が増えているのは、社会の「常識」が変化しているからという私の仮説とほぼ合致します。つまり、私の常識は彼らにとっては非常識であり、「人間として成長し成熟していくこと」が生きていく上で最も重要な事であると思っている私の価値観とは異なる価値観を彼らが持っているのではないか、その理由は資本主義社会の「力の思想」ゆえではないか、という私の仮説です。
(引用)自分で自分の成熟を統御することはできません。自分が成熟するというのは「今の自分とは別の自分になること」ですから、「こういう人間になりたい」というふうに目標を設定して、それを達成するというかたちをとることがありえないのです(後に回顧すると、自分が設定した目標がいかに幼く、お門違いなものか思い知って赤面する・・・というのが「成熟した」ということなんですから)。
しかし、現代社会はそういうふうにオープンエンドな成熟への道を進むように若い人たちを促し、励ますような仕組みがありません。これはもうはっきり言い切ってしまいますけれど、「ありません」。今の社会の仕組みはどれも目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというものです。
陰謀論的になりますが、思うに、これは人間家畜化計画の一環ではないかと思います。一部の「選ばれた人々」のために、残りの人間を労働し奉仕する家畜(ゴイム)にするということです。ちょうど封建社会での「生かさぬよう、殺さぬよう」管理される「百姓」のようなもので、生きるため、あるいは金銭的成功のために必死になっているような人間は、他人を思いやったり、哲学的思索にふけったり、文化的活動を発展させたり、つまり人間らし生活をする余裕はなく、限りなく利己的な動物的本能に従って行動するようになると思われます。支配者にとっては、大衆を動物化しておくことは管理しやすいワケで、ゆえに社会の支配者層の発するその意志、「大衆に人間的成熟をさせない」ことが社会の常識となって浸透しつつあるのではないか、というのがそのメカニズムに関する私の陰謀論的仮説であります。
ならば、どうすれば良いのか、と問われると困るのですが、私は楽観的に思っています。株式市場のようなもので、上がれば下がり、下がればあがります。そして長期的な平均を見ると株価は上がって行くものです。戦後の高度成長期が日本にとっていわば、ブル マーケットで、そのために一億総中流、文化的な発展を享受してきました。60-80年代の日本のポップカルチャーは今だに先鋭的に見えますし、その他の知的活動、例えば、構造主義に始まる哲学ブーム、日米安保に端を発すると思われる政治思想や活動、も盛んでした。そう思うと、現代日本は、当時に比べて、より知的、文化的に後退していると言わざるを得ません。(「今どきの若い者」に対する偏見かもしれませんが)ま、メシが食えて寝るところがあってはじめて、学問や社会の矛盾に注意を向ける余裕もあるというものです。そういう意味で、今の下降していく日本には余裕がなくなってきたのは間違いないと思います。人間的成熟を云々する余裕がない。しかし、下がればいつかはまた上がります、そう思ってそう思っております。
ここ数年、常識が通じない人々と関わることがあり、特にこの一年は複数の人々とのトラブルに悩まされることになりました。それで、そもそも「常識」とは何なのか、みたいなこともいろいろ考えました。
私も長年、生きてきて、社会とのフィードバックの中で時には痛い目に合いながら、ある行動に対して、一定の幅の範囲内で予測される反応が返ってくるということを学んできたと思ってきました。こちらが社会に働きかけたり、社会からのインプットの反応したりすることを通じて、社会の構成員がなんとなく共有している行動様式や思考様式、つまり「常識」を知り、「矩を超えない」ようになることを学ぶこと、それが成熟することなのかな、と思っておりました。
しかし、優秀なはずの若い人々から、予想を裏切られるような反応が返ってくることが増えました。増えたと言っても絶対数は少ないので、まだ私の常識は大抵の場合、通用しています(と思います)。昔を振り返ると「常識」など、かなり流動的なものであるのは間違いないとも思うので、私の常識がそのうち皆の「非常識」になるのかも知れません。
社会的動物である人間が、お互いを思いやり、お互いが幸せに暮らせるような考え方や行動を身につけるということが人間としての「成熟」であるとすると、近年はその「成熟」することに価値を感じない人々が増えてきたのではないかと感じます。その典型例がアベやトランプですが、ま、その話はやめておきます。(というか、彼らやアベ婦人は、人間としての成熟とは何かということをマトモに考えたこともないのでしょうが)
思うに、即物的な資本主義の「金や権力を持っている奴が持たぬ者を支配する」思考が汎在化したために、人間としての成熟よりも、モノや金を沢山持つことの方が大事だというメッセージを社会が発している結果ではないだろうかと思います。いうまでもなく、この考え方は「非民主主義」です。
先のエントリーの中で、なるほどと思ったのは、
(引用)それはつまり「大人」を大人たらしめているのは、然るべき知識があったり、技能があったり、あれこれの算段が整ったりという実定的な資質のことではなくて、むしろおのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性を観察し、吟味し、記述することができる能力のことだということです。
という一節です。己を客観的に評価する能力、これは他人への思いやりを持つに不可欠な能力であると思います。自分を客観的に見れるということは、他人の立場に立って自分の行動を評価することができるということでしょう。ちなみに人格障害の人ができないのはコレらしいです。自分を客観的に評価することができない、自分の行動を他人がどう考えるか想像できない、心の発達の障害のためにそういうことを学ぶことができなかった人々です。何れにしても、他人の立場に立って己の行動を考える能力を欠いていることは、すなわち幼稚であるということでしょう。
さらに、別の一節では、社会の問題を挙げています。これは常識の通じない人々が増えているのは、社会の「常識」が変化しているからという私の仮説とほぼ合致します。つまり、私の常識は彼らにとっては非常識であり、「人間として成長し成熟していくこと」が生きていく上で最も重要な事であると思っている私の価値観とは異なる価値観を彼らが持っているのではないか、その理由は資本主義社会の「力の思想」ゆえではないか、という私の仮説です。
(引用)自分で自分の成熟を統御することはできません。自分が成熟するというのは「今の自分とは別の自分になること」ですから、「こういう人間になりたい」というふうに目標を設定して、それを達成するというかたちをとることがありえないのです(後に回顧すると、自分が設定した目標がいかに幼く、お門違いなものか思い知って赤面する・・・というのが「成熟した」ということなんですから)。
しかし、現代社会はそういうふうにオープンエンドな成熟への道を進むように若い人たちを促し、励ますような仕組みがありません。これはもうはっきり言い切ってしまいますけれど、「ありません」。今の社会の仕組みはどれも目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというものです。
陰謀論的になりますが、思うに、これは人間家畜化計画の一環ではないかと思います。一部の「選ばれた人々」のために、残りの人間を労働し奉仕する家畜(ゴイム)にするということです。ちょうど封建社会での「生かさぬよう、殺さぬよう」管理される「百姓」のようなもので、生きるため、あるいは金銭的成功のために必死になっているような人間は、他人を思いやったり、哲学的思索にふけったり、文化的活動を発展させたり、つまり人間らし生活をする余裕はなく、限りなく利己的な動物的本能に従って行動するようになると思われます。支配者にとっては、大衆を動物化しておくことは管理しやすいワケで、ゆえに社会の支配者層の発するその意志、「大衆に人間的成熟をさせない」ことが社会の常識となって浸透しつつあるのではないか、というのがそのメカニズムに関する私の陰謀論的仮説であります。
ならば、どうすれば良いのか、と問われると困るのですが、私は楽観的に思っています。株式市場のようなもので、上がれば下がり、下がればあがります。そして長期的な平均を見ると株価は上がって行くものです。戦後の高度成長期が日本にとっていわば、ブル マーケットで、そのために一億総中流、文化的な発展を享受してきました。60-80年代の日本のポップカルチャーは今だに先鋭的に見えますし、その他の知的活動、例えば、構造主義に始まる哲学ブーム、日米安保に端を発すると思われる政治思想や活動、も盛んでした。そう思うと、現代日本は、当時に比べて、より知的、文化的に後退していると言わざるを得ません。(「今どきの若い者」に対する偏見かもしれませんが)ま、メシが食えて寝るところがあってはじめて、学問や社会の矛盾に注意を向ける余裕もあるというものです。そういう意味で、今の下降していく日本には余裕がなくなってきたのは間違いないと思います。人間的成熟を云々する余裕がない。しかし、下がればいつかはまた上がります、そう思ってそう思っております。