(続き)
というわけで、時間というものが何であるかがわかれば、世の中の多くの問題は解決するのではないかと私は思います。以前、カント哲学者の中島義道さんの「時間」についての一般向けの本を読んだことがあります。綿密な考察の結果は、時間には未来も現在もなく、あるのは過去だけであるというような結論だったと思います。哲学者が頭の中の思考によって何らかの論理的結論を得ようとするのと対照的に、宗教ではもっと直感的理解を重視します。論理思考には論理の起点となるものが必要ですが、それが正しいかどうか分からなければ、論理によって得られた結論はその論理の世界の中だけで成り立つだけで、別の起点をとった場合と必ずしも結論が一致はしません。哲学は科学と同じ論理ゲームであって、ものごとの真なる理解のために依るべき道ではないと私は思います。私たちが感覚的に知っている、「過去、未来、現在」というものは、時間が一方向に流れるという前提があって初めてなりたつ概念であって、私は、本当はそのような「時間」など本当はないのではないかとさえ思っています。禅匠、徳山が禅に目を開く前の金剛経の研究者であったころ、点心を売る茶店の婆さんに「金剛経の中に、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という言葉があるが、あなたの点じようとする心はどの心か」と問われて答えに窮したというエピソードがありますが、禅仏教の考えでは、時間というものはとらえようのないもの(無)で、よって心もとらえようがない(無心)と考えるのだと思います。時間や心や物質は常識的に私たちが考えているようなものではないことを理解せよと、禅仏教はさまざまな表現を用いて私たちに語りかけているようです。では、本当の時間や心や物質は、どんなものなのでしょうか。私たちは時間が一方向に流れ、物質には実体が伴うものであるという考えを経験的に正しいものと思っています。それでは、こうしたものが本質的に「空」であると断じる仏教は何を根拠にしているのでしょうか。根拠はおそらく客観的に与えられるのではなく、極めて個人的な経験に基づくのであろうと考えられます。残念ながら分かった人には分かるが自分で分からない人には理解のさせようがないといった類いのものなのでしょう。
外見上の実体をもった物質が本質的に「空」であるということに関して、ソリトンのような例が喩えとなりうるかも知れません。水面には時にソリトンと呼ばれる孤立した波が何キロにも渡って走ることが知られています。水面に限らず、ソリトンは多くの物理現象で見られる非線形方程式に従う孤立波として観察されます。水面のソリトンでは波はあたかも一個体として存在するように見えますが、当然ながら水の局所的な盛り上がりに過ぎません。波でありながら粒子のような性質を持つというわけです(量子力学のシュレディンガーの猫で描かれているパラドックスのようです)アインシュタインは物質とエネルギーは湾曲する時空連続体のこぶや丘であると信じ、ソリトンを予言しました。水面に現れるソリトンが独立した個体のように見えながらも実は水が非線形的に形を結んだものに過ぎないように、この世の中に私たちが実在すると思い込んでいる物質とは、実は時空間上の局所的な盛り上がり、こぶ、にしか過ぎないのではないだろうかもとも考えられます。時間や心と同じようにソリトンは捕えて箱に入れておくことはできないのです。この比喩はちょうど、仏教などで見られる時間と物質に対する見方をよく表していると思います。時間も心もとらえようがないので、「無」といい「無心」というのですが、これは単純に存在しないという意味ではありません。ソリトンが独立した一個体のように見えるが、実は一個体としての実在はなく、ただの水の波にしか過ぎないのと同様に、時間や心が実感として感じることができても、それは本当は私たちが感じたような様式で存在するようなものではないのではないか、そんな時間と物質の直感的理解というものが宗教には見られます。
最後にもう一つ、杖についての長慶の言葉、
「杖が何であるかを知る時、その人の生涯の修行は終わる」
杖や時間や心や私たち自身が、無限の豊さをもつ普遍なる「もの」、水面のソリトンにおける水のような根源となるようなソースとでもいうようなもの、から生まれてきたことを感じ取れるように修行せよ、と言っているのだろうと私は解釈しています。
というわけで、時間というものが何であるかがわかれば、世の中の多くの問題は解決するのではないかと私は思います。以前、カント哲学者の中島義道さんの「時間」についての一般向けの本を読んだことがあります。綿密な考察の結果は、時間には未来も現在もなく、あるのは過去だけであるというような結論だったと思います。哲学者が頭の中の思考によって何らかの論理的結論を得ようとするのと対照的に、宗教ではもっと直感的理解を重視します。論理思考には論理の起点となるものが必要ですが、それが正しいかどうか分からなければ、論理によって得られた結論はその論理の世界の中だけで成り立つだけで、別の起点をとった場合と必ずしも結論が一致はしません。哲学は科学と同じ論理ゲームであって、ものごとの真なる理解のために依るべき道ではないと私は思います。私たちが感覚的に知っている、「過去、未来、現在」というものは、時間が一方向に流れるという前提があって初めてなりたつ概念であって、私は、本当はそのような「時間」など本当はないのではないかとさえ思っています。禅匠、徳山が禅に目を開く前の金剛経の研究者であったころ、点心を売る茶店の婆さんに「金剛経の中に、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という言葉があるが、あなたの点じようとする心はどの心か」と問われて答えに窮したというエピソードがありますが、禅仏教の考えでは、時間というものはとらえようのないもの(無)で、よって心もとらえようがない(無心)と考えるのだと思います。時間や心や物質は常識的に私たちが考えているようなものではないことを理解せよと、禅仏教はさまざまな表現を用いて私たちに語りかけているようです。では、本当の時間や心や物質は、どんなものなのでしょうか。私たちは時間が一方向に流れ、物質には実体が伴うものであるという考えを経験的に正しいものと思っています。それでは、こうしたものが本質的に「空」であると断じる仏教は何を根拠にしているのでしょうか。根拠はおそらく客観的に与えられるのではなく、極めて個人的な経験に基づくのであろうと考えられます。残念ながら分かった人には分かるが自分で分からない人には理解のさせようがないといった類いのものなのでしょう。
外見上の実体をもった物質が本質的に「空」であるということに関して、ソリトンのような例が喩えとなりうるかも知れません。水面には時にソリトンと呼ばれる孤立した波が何キロにも渡って走ることが知られています。水面に限らず、ソリトンは多くの物理現象で見られる非線形方程式に従う孤立波として観察されます。水面のソリトンでは波はあたかも一個体として存在するように見えますが、当然ながら水の局所的な盛り上がりに過ぎません。波でありながら粒子のような性質を持つというわけです(量子力学のシュレディンガーの猫で描かれているパラドックスのようです)アインシュタインは物質とエネルギーは湾曲する時空連続体のこぶや丘であると信じ、ソリトンを予言しました。水面に現れるソリトンが独立した個体のように見えながらも実は水が非線形的に形を結んだものに過ぎないように、この世の中に私たちが実在すると思い込んでいる物質とは、実は時空間上の局所的な盛り上がり、こぶ、にしか過ぎないのではないだろうかもとも考えられます。時間や心と同じようにソリトンは捕えて箱に入れておくことはできないのです。この比喩はちょうど、仏教などで見られる時間と物質に対する見方をよく表していると思います。時間も心もとらえようがないので、「無」といい「無心」というのですが、これは単純に存在しないという意味ではありません。ソリトンが独立した一個体のように見えるが、実は一個体としての実在はなく、ただの水の波にしか過ぎないのと同様に、時間や心が実感として感じることができても、それは本当は私たちが感じたような様式で存在するようなものではないのではないか、そんな時間と物質の直感的理解というものが宗教には見られます。
最後にもう一つ、杖についての長慶の言葉、
「杖が何であるかを知る時、その人の生涯の修行は終わる」
杖や時間や心や私たち自身が、無限の豊さをもつ普遍なる「もの」、水面のソリトンにおける水のような根源となるようなソースとでもいうようなもの、から生まれてきたことを感じ取れるように修行せよ、と言っているのだろうと私は解釈しています。