百醜千拙草

何とかやっています

シンクロニシティ、時間と物質 - 3

2008-04-29 | Weblog
(続き)
というわけで、時間というものが何であるかがわかれば、世の中の多くの問題は解決するのではないかと私は思います。以前、カント哲学者の中島義道さんの「時間」についての一般向けの本を読んだことがあります。綿密な考察の結果は、時間には未来も現在もなく、あるのは過去だけであるというような結論だったと思います。哲学者が頭の中の思考によって何らかの論理的結論を得ようとするのと対照的に、宗教ではもっと直感的理解を重視します。論理思考には論理の起点となるものが必要ですが、それが正しいかどうか分からなければ、論理によって得られた結論はその論理の世界の中だけで成り立つだけで、別の起点をとった場合と必ずしも結論が一致はしません。哲学は科学と同じ論理ゲームであって、ものごとの真なる理解のために依るべき道ではないと私は思います。私たちが感覚的に知っている、「過去、未来、現在」というものは、時間が一方向に流れるという前提があって初めてなりたつ概念であって、私は、本当はそのような「時間」など本当はないのではないかとさえ思っています。禅匠、徳山が禅に目を開く前の金剛経の研究者であったころ、点心を売る茶店の婆さんに「金剛経の中に、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という言葉があるが、あなたの点じようとする心はどの心か」と問われて答えに窮したというエピソードがありますが、禅仏教の考えでは、時間というものはとらえようのないもの(無)で、よって心もとらえようがない(無心)と考えるのだと思います。時間や心や物質は常識的に私たちが考えているようなものではないことを理解せよと、禅仏教はさまざまな表現を用いて私たちに語りかけているようです。では、本当の時間や心や物質は、どんなものなのでしょうか。私たちは時間が一方向に流れ、物質には実体が伴うものであるという考えを経験的に正しいものと思っています。それでは、こうしたものが本質的に「空」であると断じる仏教は何を根拠にしているのでしょうか。根拠はおそらく客観的に与えられるのではなく、極めて個人的な経験に基づくのであろうと考えられます。残念ながら分かった人には分かるが自分で分からない人には理解のさせようがないといった類いのものなのでしょう。
 外見上の実体をもった物質が本質的に「空」であるということに関して、ソリトンのような例が喩えとなりうるかも知れません。水面には時にソリトンと呼ばれる孤立した波が何キロにも渡って走ることが知られています。水面に限らず、ソリトンは多くの物理現象で見られる非線形方程式に従う孤立波として観察されます。水面のソリトンでは波はあたかも一個体として存在するように見えますが、当然ながら水の局所的な盛り上がりに過ぎません。波でありながら粒子のような性質を持つというわけです(量子力学のシュレディンガーの猫で描かれているパラドックスのようです)アインシュタインは物質とエネルギーは湾曲する時空連続体のこぶや丘であると信じ、ソリトンを予言しました。水面に現れるソリトンが独立した個体のように見えながらも実は水が非線形的に形を結んだものに過ぎないように、この世の中に私たちが実在すると思い込んでいる物質とは、実は時空間上の局所的な盛り上がり、こぶ、にしか過ぎないのではないだろうかもとも考えられます。時間や心と同じようにソリトンは捕えて箱に入れておくことはできないのです。この比喩はちょうど、仏教などで見られる時間と物質に対する見方をよく表していると思います。時間も心もとらえようがないので、「無」といい「無心」というのですが、これは単純に存在しないという意味ではありません。ソリトンが独立した一個体のように見えるが、実は一個体としての実在はなく、ただの水の波にしか過ぎないのと同様に、時間や心が実感として感じることができても、それは本当は私たちが感じたような様式で存在するようなものではないのではないか、そんな時間と物質の直感的理解というものが宗教には見られます。
最後にもう一つ、杖についての長慶の言葉、

「杖が何であるかを知る時、その人の生涯の修行は終わる」

杖や時間や心や私たち自身が、無限の豊さをもつ普遍なる「もの」、水面のソリトンにおける水のような根源となるようなソースとでもいうようなもの、から生まれてきたことを感じ取れるように修行せよ、と言っているのだろうと私は解釈しています。
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シンクロニシティ、時間と物質 - 2

2008-04-25 | Weblog
(続き)
シンクロニシティがなぜ起こるのかについては勿論わかりません。しかし、少なくとも唯物的因果論で全てを説明しようとする現代科学の態度に対する批判にはなりそうです。場とか気とか、そうした全体的な雰囲気からものごとを見ようとする東洋の考えと個別の物体の相互作用から世の中を理解しようとする西洋の還元主義的アプローチはある意味、排他的に対峙していることを知っておくことは、「正しい」世の中の理解にとって重要であろうと私は思います。シンクロニシティがなぜ起こるかということについて、別段知る必要はない(と私は思う)のですが、物事には原因と結果があって、結果は原因よりも時間的に後におこるという「時間の一方向性」に依存する「因果論」に対する私たちの盲目的な信仰をちょっと疑ってみれば、シンクロニシティというのは容易に説明がつきます。時間が一方向に流れているというのは我々の錯覚かも知れません。時間は空間とおなじように広がっているだけで流れてはいないのかも知れません。しばらく前、臨死体験者で、「死んでいる間に」キリストと神に会った人の話を書きましたが、彼女が神から知らされたところによると、「時間や物質が本当に存在する」と信じることを条件に人間はこの世に生まれてくることができるということですから、「時間」というものが本当は私たちが感じているように一方向性に流れて去っていくというような性質のものではないのかも知れません。そうであるのなら、シンクロニシティ(共時性)という概念そのものが、この世の中だけのいわば幻想である可能性もあると思います。時間や空間や物質がは本当は私たちが思う様な型で存在しているわけではないという考えは、仏教にも見られます。

大拙の本から、雲門の説法の一部を抜き出します。

ある時、雲門は大衆の前に杖を持ち上げて言った、
「教典によれば次のように言う。無知なものはこれを真実のものと思い、小乗の仏教者はそれは存在しないものとし、縁覚はこれを幻であるとみなす。菩薩はそのあるがままの実在を認めるが、それは本質的には空であると言う。
しかし、僧たちよ、おまえたちはこれを見る時、ただ杖と呼ぶが良い。思いのままに歩くも良し、また座るも良い。だが優柔不断ではいけない」
これは、私たちがシンクロニシティ的な出来事をどう扱えばよいかを示していると思います。目の前にある杖が、本当に存在するのか、その本質はなにか、哲学的には興味深い問いですが、それを知ること自体は大切ではない。シンクロニシティにしても、なぜそれが起こるかということを知ることそのものは二次的なことです。そういうものがあるということをまず認めること、そして、それを「ただの偶然」として対処するもありですし、その意味性を汲み取って人生の不思議に近づこうとするのもありです。また、上の説法での「杖」はいろいろなものに置き換えることが可能です。杖を時間に置き換えてみることもできると思います。 (続く)
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シンクロニシティ、時間と物質 - 1

2008-04-22 | Weblog
最近、十年前にRobert Hopckeが書いた「There are no accidents」という本を読みました。ユングのシンクロニシティ(意味のある共時性)の概念の紹介と、多くのそうした例を集めています。この類いの本は他にも多数出ているので、取り立てて珍しいことが紹介されていたわけでも、シンクロニシティそのものへの新しい解釈が提示されているわけでもありません。シンクロニシティの様々な例が、例えば写真集のような感じで、紹介、解説されています。東洋人にとってはシンクロニシティというのは、比較的抵抗少なく近寄れる概念だと思うのですが、因果論と唯物観に強く縛られている人には(例えば、ユングのかつての師であったフロイトのように)シンクロニシティという概念そのものに極めて強いアレルギーを示す人も多いようです。少なくとも近代科学の方法論とは相容れません。
 生物学についても現代主流の生命科学の基礎になっている概念は、1940年ごろに物理学者によって、(ある意味、恣意的に)選ばれた生命の特質に注目することによって発達してきたのではないかと私は思います。シュレディンガーが量子物理学から生物学へと転向したのは、「生物には非生物で発見されてきた物理法則以外の特有の法則があるのではないか」という疑問に答えるためでありました。彼やデルブリュックは生物の特性として、増殖性と遺伝性に着目し、物理学的なアプローチ(つまり、現象の背後にある法則性を見つけること)で生物学研究を進めていきます。その延長線上にあるのが、現代生命科学であると私は思います。70年程前に彼らが着目した増殖性と遺伝性という物理的観測可能な生物の特性に焦点をあわせた結果、その他の生物の特性は逆に切り捨てられてしまったように思えます。「生命とは何か」を理解するのは困難なことです。また、「生命とは何か」という問いに対する絶対的な答えは無いと思います。シュレディンガーは「What is life」という本の中で、物理学的立場から見た生命というものを定義しようとしたのでしょう。しかし、シュレディンガーやデルブリュックたちが規定した物理学的見地からの生命という枠に満足できずに、生命の本質を求めて、自己組織化、人工生命、オートポイエーシス、生物記号論、などなどいろいろな試みがなされてきました。「生命は意味を創出するもの」と定義した人がありましたが、意味を創出しそれを理解する活動は、私は、生命の中心にあるものであると思います。シンクロニシティはまさに意味性を扱っているわけで、現代科学が意味論を排除することでより客観的な生命の(物理的側面の)記述を試みてきた方法論とは、無論のこと相容れません。
 シンクロニシティの実例について、ユング自身の著作の中に多くの好例があります。一つは、論理的思考法に強く縛られた精神疾患の患者の治療中の出来事です。患者は診察室で前夜に見た金の黄金虫の夢をユングに告げていたのですが、ちょうどそのとき診察室の窓を何かが叩く音がして、ユングが見てみると、黄金虫が飛んできたというエピソードです。ユングはその黄金虫を患者に見せ、論理的思考からは「ただの偶然」としか言いようのないこの出来事の中にある意味性に患者の心を開かせることに成功します。もう一つユング自身の例をあげます。ユングがフロイトの無意識の個人的な解釈に満足できずに、集合的無意識ややがてシンクロニシティにたどり着く研究を進めた結果、フロイトとの間に確執が生まれてしまいます。あるときユングとフロイトが議論をしていたとき、ユングは強いフラストレーションと上腹部がつきあげられる様な感覚を感じます。その直後大きな爆発音が本棚の方から聞こえてきたそうです。ユングは、これが自分の内的なフラストレーションの爆発の外在化であると説明し、また再び同様の爆発音がおこるであろうと予言します。フロイトは、その物理的因果論にあわない説明を聞いて、そんな馬鹿なことがあるかと反論した所、二度目の爆発音がしたということです。この経験はフロイトをひどく驚かせたとあります。ウィルヘルムが集めた中国の話の中での「雨ふらせ(雨乞い術者)」の例も興味深いです。干ばつに見舞われたある中国の村で、雨ふらせが呼ばれます。雨ふらせは村に着くと、まっすぐに彼のための家に向かい、雨が降り出すまで何もせずそこにいただけでした。どうして雨を降らせたのかと聞かれて、雨降らしは、雨の降る降らないに因果関係など何もないと答えました。村に着いた時、村には不調和な状態がたちこめていて、自然の通常のプロセスがその筋書きにそってうごいていないのだということに彼は気がつきました。彼自身がこの不調に影響を受けてしまい、小屋に引きこもって自分を落ち着かせることに専念せざるを得なかったのだそうです。そうして、雨ふらせ自身の調和が取り戻された時に、(即ち、村の不調和が解消された時)雨は当然のように降ったということです。雨は降るのが自然であって、降るべき時には降るということなのです。ユングとフロイトの対決も、大きなコンテクストからみてみると、ユングが強いフラストレーションを感じた時に、彼らの内的状態に共鳴するような環境が周囲に整っていたと考えれば、そのタイミングで本棚がきしんだり、本が倒れたりして、音を発することがあっても不思議はないような気がします。忍術か何かのように、内的なエネルギーが外部に作用して超常現象を引き起こすというわけではなく、関連した事柄が同時に起こりやすくなるような「場」とでもいうべきものがあるのだと仮定すれば、シンクロニシティは説明しやすいと思います。一般の人はそんな「場」があるのなら見せてみろと言うわけですが、もちろん、これは進化論と同様に、世の中の現象が説明しやすくするための仮説ですから、その証明があるわけではありません。1884年にEdwin A. Abbottが書いた「Flatland」という高次元世界の存在を信じられない二次元人の話があります。二次元世界におこる様々な現象は、高次元の存在を仮定することによって整合的に説明できるという数学的寓話です。最近、また動画になってPrinceton University Pressから発売されています(Flatland: The movie. Seth Caplan et al)。この寓話がそのまま私たちの世界に適用できるとは思えませんが、少なくとも私たちが全てと思い込んでいる世界を含むようなより大きな宇宙が存在する可能性に目を向けさせてくれると思います。Flatlandについてはまたの機会に触れたいと思います。 (続く)
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行く人来る人

2008-04-18 | 研究
MITのノーベル賞科学者、利根川進氏が日本の理研で研究室を立ち上げるという話を聞きました。二年前までMITのPicower Institute for Learning and memoryのディレクターを務めていたのですが、(おそらく)新規教官雇用にからむスキャンダルのために辞任しました。そのころ、MITでは教員の性差別、人種差別に関する複数のスキャンダルがありました。一つは黒人のJames Sherleyというステムセルの研究者がテニュアの申請を却下された事件で、彼は自分の業績とNIH資金の獲得(栄誉あるPioneer Awardを受けていました)から、テニュア申請が却下されるのは腑に落ちない、人種差別に違いないと主張し、ハンガーストライキを含む様々なキャンペーンを行いましたが、結局、MIT側は、あくまで業績の内容から判断したと突っぱね、結局、彼はボストン郊外にある小さな研究所に移らざるを得なくなりました。NIHのPioneer Awardの獲得というのは立派なもので、受賞者がその研究成果を発表するPioneer Award SymposiumがNIHで開かれるのですが、発表会の告知では、彼だけが所属機関が空欄になっているいう異常な状態でした。現代アメリカ構造言語学の重鎮、Noam Chomskyら複数のMITの教授もSherleyを支持しましたが、決定は覆ることはありませんでした。ちょうどその騒ぎがおさまりかけた頃、MITのジュニアのポジションに応募してきたAlla Karpovaという女性研究者がいて、ポジションがほぼオファーされるという段階まできていました。噂によると、利根川氏ともう一人が、十分な理由なく強硬に反対していたようで、利根川氏は、この候補者本人に、オファーを受けないようにという恐喝めいたメールを直接書いたとのことでした。利根川氏本人がどう言い訳したのか覚えていないのですが、ジュニアで希望に燃えてMITでがんぱろうとしている候補者に対して、将来の所属することになる研究所の所長が脅しめいたメールを書いたのですから、許されざる暴力だと思います。利根川氏の素行については、いろいろな噂を聞きますから、本人を知るものにとっては、またか、という程度なのかも知れません。しかし、このスキャンダルが各紙に大きく取り上げられた結果、どうもそれが所長の辞任に繋がったようです。ただしこの時もMITは何ら懲罰的処置を利根川氏に対して取る事はありませんでした。結局、Karpova はMITには就職せず、Janelia Farmと呼ばれるVirginiaにできた研究施設にポジションを得たようです。Janelia Farm Research Campus の名前は、多分まだあまり知られていないと思いますが、これは、あのHoward Hughes Medical Institute (HHMI)の新しいキャンパスです。HHMIはアメリカのprivate の医学、生物学研究財団としては、最大の機関で、HHMI 研究者に選ばれるというのは、中堅の研究者にとっては、非常な栄誉であると同時に莫大な研究費が十年にわたって約束されるという、皆がうらやむポジションです。そのHHMIが、選りすぐった精鋭研究者を集め、最先端の機器を投入して、Virginiaの田舎の山の中に造ったエリート研究所がJanelia Farmなのでした。HHMI研究員は通常、どこかの大学なり研究施設の所属している人が、各施設のノミネーションを経て、選考されるので、HHMI研究員となっても所属機関が変わるわけではありません。しかし、このJanelia FarmはHHMI直属の研究施設であって、いってみれば、タイガーマスクが修行したという「虎の穴」みたいなところです。田舎のど真ん中にある最高の研究施設で、頑張ってユニークな研究成果を出した後は、いずれは研究者の少なからずが普通の大学などの施設へ出て行くことを期待されています。そういう意味でも普通の大学とは随分違っています。そのJanelia Farm構想を指揮したのが、HHMIのプレジデントのノーベル賞科学者、Thomas Cechでした。彼は、自分の研究室のあるコロラド大学とHHMIのあるメリーランドを毎月往復しながら、8年間presidentを務めたのですが、今回、「普通の研究者に戻りたい」(と言ったかどうか知りませんが)、 もっと研究に没頭したいと、HHMI presidentの辞任を表明しました。彼のその「普通の研究者に戻りたい」願望が、どうも昨年、彼がHarvard総長就任の申し出を蹴った理由のようであります。
次期HHMIのpresidentは誰が務める事になるのでしょうか。Thomas Cechクラスの人材がそう簡単に見つかるとも思えません。私がHHMIのお世話になることはないでしょうから、誰が次期presidentになろうと、まあ人ごとではありますが、野次馬気分で経過を見守りたいと思います。
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死亡禁止令

2008-04-15 | Weblog
フランス南西部の Sarpourenx村では、墓地が一杯になってしまったので、Lalanne村長が260名の住民に対し、緊急通告を出したというひと月ぐらい前のニュースを知りました。墓地に土地を持っていない者で、Sarpourenxに埋葬されたいと考えている者は、村内での死亡を禁止するという通告です。違反者は厳罰に処すとのことです。冗談だろうと思いましたが、いい線いってます。あるいは、これは半分真面目な通達であって、墓地のない人が死ぬと本当に処分に困るのかも知れません。死ぬ前にどこかに墓地を確保しろという住民への通知なのでしょう。違反してうっかり死んでしまった場合の厳罰というのがどういうものなのか想像するのが難しいです。死んでしまったものは地上の罰など何も怖くないでしょうし。罰金をとるのが市としてはベストでしょうが、罰金をとったところで死体の始末にはやはり困るはずです。その辺に遺棄するわけにもいかないでしょうし、生ゴミ扱いにするしかない様な気もしますが、しかし生ゴミとして死体を処理することが許されるのかという問題もあると思います。ドイツかどこかの解剖学者で、中国で死体を手に入れて、組織を樹脂で固めた人間の解剖標本を作り、各国で展示会をして回っている人がいましたが、そういった人に死体を引き取ってもらって、使ってもらうというのが良いかも知れません。
 私は死んでも墓に入りたいとも葬儀をしてもらいたいとも思いません。抜け殻となってしまえば、標本でも生ゴミでも有機肥料でも何らかの役に立つ死体になれば幸いであると思います。大輪寺東京別院の住職のブログを折々見ていますが、そこに書いているように、「死んで魂までもが墓に居れば、地獄界に居ることになる」のだと思います。死んで肉体が滅びれば、あの世にいくべきであって、墓地などをうろうろしていてはいけません。墓は単なる記念碑に過ぎないのですから。死んだら天国へ行くのが本当であって、墓や生前の住処にしがみついていたら魂は不幸になるだけなのです。
フランスの村長の「死亡禁止令」の通達、そのおおらかさが私は大好きです。「死」というものを毎日の生活の一部のように扱っているところがいいです。死んでも魂は不滅であると多くの人が考えていると思いますが、死というこの世での生活の終わりを迎えても、切れ目なく魂は生き続け、「ああ、墓地もないのにうっかり死んじゃったよ」と死者がため息をついている絵が頭に浮かびます。
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Walk, don't run

2008-04-11 | 音楽
前回、生命科学研究では、真っすぐに結果を目指しても到達できることは稀であるという事実をもっと認識しようというScience誌のChief Editor、Bruce Albertsの提言についてふれました。4/4号では、Albertsは更に、がん研究に対しても同様の批判を展開し、応用ばかりを考えずにもっと基礎の理解を進めねばならないと述べています。トップダウン式のストラテジーが機能しない生物学研究では、一歩一歩、自分の立っている基盤に少しずつ積み重ねていくことでしか進歩はないと、私も思います。「急がば回れ」という言葉には、長期的目標への到達という含意がありますが、臨床応用を目指したプロジェクトの場合には、しばしば、最終目標と現在での知識や技術の間に何ステップあるかわからないし、そもそも各ステップを無事クリアできるかどうかもわからないという状態であるので、結果を目指して一直線に研究を進めようとするのがそもそも無理なのだと私も思います。適切な喩えではないかも知れませんが、これは最近大規模な臨床試験で無惨な敗北を喫したAIDSワクチンにも当てはまることかも知れません。
 ところで、「急がば回れ」ということわざで思い出したのは、エレキの神様、ベンチャーズの曲でした。この曲の原題は、「Walk, don't run」で、今調べてみると、この曲は1960年にリリースされUS ヒットチャートNo.2を記録しています。本国アメリカではとっくの昔に忘れ去られたグループかと思いますが、日本ではエレキブームの立役者として、またいくつかの日本の歌謡曲の作曲者として未だに人気があると思います。欧陽菲菲の日本デビュー曲「雨の御堂筋」はベンチャーズの作曲によるものだそうです(3カ国共同プロジェクトですね)。私が中学生のころ、初めて手に入れたエレキギターを見て、母親は「テケテケ」は嫌いだと言いました。当時でも、すでにベンチャーズは過去の人、テケテケという言葉は知っていても、ベンチャーズ以外にテケテケをやるようなグループはいなかったわけですし、私は本物のテケテケを聞いた事はありませんでした。当時の軽音楽部は、ハードロックやヘビメタが流行っていて、フェンダーストラタキャスター(のコピー)にリッチーブラックモアモデルの妙に分厚いピックを使うのが流行でした。リッチーブラックモアがテケテケやったのでは冗談です。「ダイヤモンドヘッド」のイントロに使われている、ピックで弦をこすってキュッキュというような音を出す妙なベンチャーズ特有のギターテクニックもありました。今知りましたが、テケテケにはちゃんとした正式名称があって、chromatic run 奏法というのだそうです。ですので、それからしばらくして、本物のテケテケを聞いた時は、新鮮な感動がありました。モズライトギターと真空管アンプの組み合わせが創り出す妙に安っぽい音色のテケテケを初めて聞いた時は「おお、これが、あの、テケテケか!」という幻のオオクワガタを発見したかのような思いにとらわれました。もちろん、その後、毎日テケテケを練習したのはいうまでもありません。確かにベンチャーズサウンドの味わい深い安っぽさは日本の歌謡曲にぴったりです。Deep Purpleが歌謡曲をつくっても売れないでしょう。そのベンチャーズが、なんと、今年になってロックの殿堂入りを果たしました。ロックの殿堂は、オハイオ、クリーブランドの唯一の観光資源だそうですが、その授賞式では、「Walk, don't run」が演奏されたのだそうです。ベンチャーズファンの科学政策関連の人には現在の医科学研究政策に対する警笛と真摯に受け止めて欲しいと思います。因に、マドンナを含む5組(名)の2008年ロックの殿堂受賞者の中で、ベンチャーズはもっとも早いデビューでした(マドンナが1歳の時に結成されています)。おめでとう、ベンチャーズ。
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急がば回れ

2008-04-08 | 研究
3/28日号のScience誌のEditorialで、新しくChief Editorとなった生化学者、Bruce Albertsが「Shortcuts to Medical Progress?」というタイトルで、最近のTranslational Research偏重傾向を批判しています。「私たちは二点間の最短距離は直線であると教えられてきたが、医学研究の進歩においては、これが正しくないことは繰り返し示されていている」と書き出し、その理由については、生物についてわかっていることが余りに限られているからであると述べています。多くの科学政策に携わっている当事者が、科学研究の成果を臨床応用していく上で必要な知識が多く欠如していることを理解していない(ように見える)とあります。(応用研究ではなく)基礎研究が臨床応用につながる科学発見の牽引力であると述べ、例として最近ノーベル賞となったRNAiが線虫の研究で発見され、現在その技術を使った医薬品の開発が多くのバイオテク、製薬会社で進行中であることをあげています。このことは、昨年亡くなったノーベル賞科学者のアーサーコーンバーグも繰り返し述べており、基礎研究こそが医学の進歩に最も貢献してきているという歴史上の事実を指摘してます。企業などでは多くの分野で精力的に応用研究やtranslational researchが遂行されているが、基礎研究に金を出せるのは政府やごく限られた財団のみであることを指摘し、臨床的に有用な技術、発見を促進するには、公的研究資金は、臨床応用研究ではなく、基礎研究に投資すべきであるということを、広く一般に理解してもらう必要があると結論しています。
私にとっては、この当たり前の事実を、一般の人はともかく、どうして科学政策を決定する人々が軽視するのかわかりかねます。基礎研究の重要性という歴史的事実を単に知らないのか、あるいは知っているが一般国民の臨床応用への強い希望があるので、それにしたがって政策を決めているのか、いずれにせよ、より良い科学政策を施行するという観点からは、賢くないです。前回のムネオカさんの研究のように、長年基礎研究の観点で研究してきたテーマから臨床応用の可能性が出てきて、応用研究へと発展していくならともかく、政府が基礎研究に回す資金を削ってまでtranslational researchに金を回すのは本末転倒も甚だしいと私は思います。アメリカNIHは、国民の健康増進を最終目標に研究資金を供給する機関ですから、人の健康や病気と絡んだ議論が必要なのはわかります。資金が乏しくなってきている現在、だからといって、人の健康や病気に直接関係した研究を優先しようとするのは、最終的には、国民の健康増進という目的の達成には、全く逆効果であることを関係者はあらためて認識すべきであると思います。日本においては、もう一層の困難があると思います。科学政策に携わる政治家官僚が、科学について無知であるというだけでなく、更にアメリカのマネをしておればよいだろうという無責任主義があるからです。失敗しても、お手本のアメリカが失敗したのだからしょうがなかったと責任転嫁をするわけです。そのアメリカがこうして失敗を重ねているのを見ながらも、同じ失敗を重ねて行ってしかも反省する所がないのですから、救いようがないです。
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四肢再生

2008-04-04 | 研究
ケン ムネオカさんはルイジアナ、チューレーン大学の分子細胞生物学の教授です。私がはじめてムネオカさんの仕事を知ったのは、十年ぐらい前にFGFの四肢のパタニングへの役割を調べた論文をたまたま読んだことによるのですが、その論文では妊娠中期のマウス胎児の足の指の隙間にFGFをしみ込ませたビーズを手術で挟み込み、子宮に戻して発生を観察するという極めて繊細な職人芸が披露されていました。体長僅か数ミリの胎児のマイクロンレベルの足の指に子宮内手術を施すというワザにスゴいものを感じさせます。私はこの手の職人芸にいつも惹かれてしまいます。普通の人にはまねのできないプロの切れ味みたいなものを感じてしまうのです。しかしそれ以来、分野が違う事もあってムネオカさんの仕事をフォローすることもなく月日が流れたのですが、たまたま先日、一般向けの科学誌、Scientific Americanにムネオカさんが寄稿されているのを目にしました。現在の研究の大きなテーマの一つは哺乳類での四肢の再生の研究ということらしいです。サンショウウオなどでは手足が切断されても、二ヶ月ぐらいで再生されます。人間ではそうはいきません。しかし詳しくみていくと、人間でもあるていどの再生は認められますし(たとえば胎児の指の再生など)、失われた四肢を再生するというのは、十分現実味のある話のようです。サンショウウオの足の再生時にはBlastemaと呼ばれる未分化な細胞が切断端に増殖してきて、発生時と同様の分化プロセスを経て、再生を誘導します。サンショウウオではBlastemaを誘導するにはいくつかの条件を満たすことが必要で、一つは神経が切断されることです。この神経の切断がBlastema細胞を誘導する因子を出すらしいです。第二に必要なものは、繊維芽細胞、そして傷ついた上皮です。人間でも、指先であれば、切断後の再生例というのは多数報告されています。主に子供ですが大人でも報告があります。しかし、よく実際の医療現場でやるように、指先を切断してしまった場合に皮膚を縫合してしまうと再生はおこらなくなってしまいます。これはサンショウウオの実験でもわかっていて、皮膚を縫合して傷口を閉じてしまうことでBlastemaの誘導が阻害されるかららしいです。同様に、マウスでも指先の再生はおこるらしいのですが、サンショウウオとかと比べると再生上皮が傷口をカバーしていく速度は非常に遅いそうです。マウスにもこの過程でBlastema様の細胞が出現することがわかっています。またヒトの場合、サンショウウオと違って、真皮の繊維芽細胞は傷を受けた場合に多くの繊維を産生し傷跡を残しますが、この繊維の組織への蓄積が再生という点でも、組織機能の保持という点でも良くないことがわかっていますので、繊維の産生をうまく抑制することが鍵である可能性があります。いろいろ困難な問題はありますが、こうしてサンショウウオとヒトまたはマウスとの違いを明らかにしていって、再生過程を操作する方法を開発していけば、いつかはヒトでの四肢の再生というのは可能になるかもしれません。
ところで、この研究はアメリカ防衛省から資金援助を受けているようです。防衛省は兵士の健康増進、戦争時の傷害の予防、治療などを目的にした医学生物学研究に資金援助をしています。 私は「translational research」という言葉や概念が大嫌いなのですが、今回のムネオカさんの研究は、基礎研究としても非常に興味深いし、臨床応用の可能性という点でも夢のある話だと思いました。しっかりとした基礎研究がまずあって、その上で自然と臨床応用への道が浮かび上がってくるようなtranslational researchであれば、Win-winだと思うのですが、残念ながら、多くのtranslational researchというのは研究費が目当ての即席プロジェクトのように見えます。それでは基礎研究としても応用研究としても使いものにはなりません。
ともあれ、今後のムネオカさんの研究に期待したいと思います。
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記録と再生

2008-04-01 | Weblog
1877年にエジソンが歌ったメリーさんのヒツジが世界最初の人声の録音と再生ということになっています。しかし、最近のBBCニュースによると、実は世界最古の録音はフランスのド マンタビルが発明した音声記録方法、Phonautography(音のサインとでも訳すのでしょうか)によってエジソンの録音再生よりも17年前の1860年に録音されたもののようです。日本でも「月の光」と知られているフランスの民謡、「Au Clair de la Lune」が女性の声によって約十秒間の記録されているそうです。このPhonautographyは、原理的にはエジソンの発明と同じです。声の振動をとらえて、煤を塗り付けた紙に記録針で記録するという方法でした。この発明がエジソン以上に有名にならなかったのは、発明装置の名前からも想像できるように、これは記録を目的としたもので再生することは考えられていなかったからのようです。実際この録音は記録はされましたが再生されたことはなかったのでした。ところが、最近この紙に記された煤の傷をデジタル画像にして解析し、現代の技術で音をシミュレートすることに成功したのだそうです。(http://www.firstsounds.org/sounds/1860-Scott-Au-Clair-de-la-Lune.mp3) 聞いてみると、確かに月の光のように聞こえますが、ハローウィーンの雰囲気も醸し出されています。150年前の人の声かと思うと大変感慨深いです。まるでエジプトのミイラが動き出したのを見るようです。再生の一つの問題は、録音時に手で記録紙を移動させて記録されているので、その移動スピードがどうも一定ではなく、そのために記録と同じスピードで再生することが困難であることだそうです。昔のレコードや録音テープをいろいろな速度で再生して遊んだことがある人なら、記録スピードと再生スピードが異なれば音の高低や質が容易に変化してしまうことは理解できるでしょうし、だから録音スピードが不明でしかも一定していないこの記録を忠実に再現するのが困難なことは想像できます。そう言えば昔、「およげ、たいやきくん」が大ヒットした時、「たいやきくん」のカセット版は、レコード盤よりも十秒近く短くなっていて、テープをケチるために(?)微妙に早送りされて録音されていたことが発覚して、大問題になったことがありました。音楽記録再生がデジタルになった現在、アナログ記録時代にしかあり得なかったこんな事件もなつかしい気持ちで思い出すのみです。今、知りましたが、「およげ、たいやきくん」は日本で最も売れたシングル曲として最新版のギネスブックにも載っているそうです。(それにしても、たいやきという日本的お菓子が大海を泳ぐという素晴らしい発想の美は、日本人以外は誰も理解できないでしょうね)
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