百醜千拙草

何とかやっています

科学出版とカネ

2012-03-30 | Weblog

先週、〆切ありの仕事を3つ済ましてホッとしたら今週また3つ来ました。今日、別の〆切仕事をなんとか一つ済ませました。ちょっと嫌になって、現実逃避してこれ書いてます。論文やグラントレビューは必要不可欠なコミュニティーサービスで、私もできる限り貢献したいとは思いますが、やはり近年、その量が随分ふえていると思います。出版される論文数がドンドン増えているのですから、レビューが増えるのもあたり前です。エディターがレビューアの確保に苦労している様子が想像できます。また、仕事量が増えてレビューの質は総じて落ちてきている印象があります。私は多分、真面目にやっている方だと思いますけど、正直、手抜きの原稿を真面目に読むのは楽しくないです。ちょっと前、同僚がやってきて、レビューを引き受けた出来の悪い論文の文句を言うので、「出来の悪い論文には出来の悪いレビューで対抗せよ」とアドバイスしておきました。以前、Robert Fulgumのエッセイの中で、私は次のような言葉を覚え、実生活に役立てているというワケです。

"Anything not worth doing is worth not-doing well"  

この言葉はオリジナルはElias Schwartzのようですが、これは、もちろん、"Anything worth doing is worth doing well (やる価値のある事は正しくやる価値がある)"をもじったもので、私は実験をする時はこの言葉を噛み締めながらやっています。そして、程度の悪い論文のレビューをやらざるを得なくなった時は、最初の言葉を思い出すことにしています。

論文の出版には、書き手、読み手、エディター、レビューアと出版社がそれぞれ異なる思惑をもって関与しています。出版社としては究極的に雑誌が売れて持続的に収益が上がることが第一目的だし、書き手はとにかく出版すること、読み手は質のよい論文を読むこと、そういうポジティブな動機があります。しかるにエディター、レビューアは自主的なmotivationは高くないわけで、喩えるなら、必要不可欠なコミュニティーサービスに参加するボランティア、極端に言えば、ときどき回ってくる町内のドブ掃除当番のような感じでやっているのではないでしょうか。ドブが詰まると自分も含めて皆が困りますが、かと言って、進んでその掃除は引き受けたくないというのが本音ではないでしょうか。もちろん、ときどきドブ掃除で思わぬ拾いものをしたりすることもないわけではありませんが。

さて、3/16号のScienceでEMBOのdirector Maria Leptinが"Open Access - Pass the Buck"というEditorialを書いています。論文出版ビジネスについての話ですが、私が思っていることと大体一致するので、興味深く読みました。Pass the Buckは責任を転嫁するという文字通りの意味でタイトルをつけたのでしょうが、(出版費用)を負担する責任所在がオープンアクセスでは違うという話なのでしょうが、Bucks(ドル)ならば、出版費用に使われる主に税金からのカネを出版社に回しているという意味に意地悪く解釈することも可能でしょう。一部、意訳します。(括弧内は、コメント、補足)

 出版にはコストがかかります。Open Accessで著者が出版費用を負担する場合、論文一本あたりだいたい$1000 - $5000ぐらいの費用がかかります。(収益に対する)コストはおおまかには採択率に依存します。例えば、100本の投稿論文を評価して100本全部を出版して、一本あたり$1000の出版費用をとれば、(100本の論文プロセスあたり)10万ドルの収益ですが、採択率15%ぐらいのセレクティブなジャーナルであれば、1万5千ドルにしかなりません。採択率の低い(つまり、人気があって一般にレベルの高い)雑誌ほど、運営に苦労しており(PLoS Biologyのことでしょうか)、一方、何でも載せる雑誌は大量に論文を出版して、大きな利益を得ています (BMCのことでしょうか)。

オープンアクセスジャーナルは、部分的には、税金ベースの出版費用とアカデミアのレビューアーの無料奉仕を利用して、金儲けをする商業出版業界に対する反発が動機になっています。 かといって、オープンアクセスでもコストがかかるのは同じです。

一つのうまくいっているモデルでは、セレクティブでないジャーナルでカネを集めて、セレクティブなジャーナルに資金を回しています(PLoS One とPLoSの上位ジャーナルのことでしょうか)。

EMBOは4つの雑誌を発行しており、二つはオープンアクセスです。残りの二つをオープンアクセスにするのはオープンアクセス料金の支払いオプションの変更を待たねばなりません。論文出版経済システムの改革が必要だと思います。研究基金や政府はオープンアクセス雑誌の運営費用を(著者経由ではなく)直接、支援するようなことを考慮する必要があるかも知れません。

オープンアクセスのコスト問題は重要ですが、それが科学出版に関する私たちの考え方に影響を及ぼすべきではありません。科学出版の中心的原則は守られなければなりません。

 

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イカサマ商品訪問販売

2012-03-27 | Weblog

ちょっとゾッとするニュース。

大阪維新の会が次期衆院選に向けて候補者を養成する「維新政治塾」の開講式が24日、大阪市北区の大阪国際会議場であり、全国から応募した受講生約2000人が出席した。月2回開講し、5月下旬から6月上旬をめどに、リポートや面接により約800~1000人を「塾生」として選抜。街頭演説などを課して「候補者予備軍」を絞り込み、次期衆院選で約300人を擁立、200議席の獲得を目指す。

大阪市長になって何の仕事もしていないうちから、今度はいきなり国政で衆院200議席を目指すというこの人もこの人ですが、この「政治塾」とやらに2000人も応募したというのも何と言っていいのか。幕末のヒーロー気取りなのなら、司馬遼太郎の読み過ぎでしょう。

この話、大学生時代に行った怪しいアルバイトの説明会を思い出させます。高額イカサマ教材を訪問販売で売るというバイトで、バイト代は出来高制、売れなかったらゼロ。売れたらかなり高額のコミッションですけど、このイカサマ会社は売れたらはるかに大きな利益を得る上に、売れなくてもバイト代を払わなくてすむので殆ど何のリスクもありません。説明会での担当者は、弁舌が立ちます。日本の教育問題から説き起こし、いかに彼らが開発したイカサマ教材が役立つのか、熱意を持って語ります。仕上げは、貧乏学生には眩しいシャンなお姉さんが「頑張って下さいね」と笑顔で送り出します。多分、説明会に来た2割ぐらいはダマされたのではないでしょうか。もちろん、教育云々はただの建前に過ぎず、イカサマ教材で金を集めたらサヨウナラという詐欺に過ぎないのですが、「一緒に教育を変えましょう」みたいなことを熱意を込めて語られると、お互いカネ目当てなのを忘れて、その気になってくるから恐いです。しかし、一番の問題はその建前に「誠意がない」ことです。本当の目的は金儲けですから。教材はただの道具、カネにならないことがはっきりしたらサッと教育の話は忘れて別の詐欺ビジネスに移るのです。

この維新の会政治塾のやり口はこのイカサマ会社がバイトを集めるのと似ています。集まってくる塾生は、自腹で授業料を払い、自前で選挙費用を捻出し、この地域政党の国政進出のために働くのです。もちろんうまくいけば、コミッションとして自身の議員の地位というものがありますが、この大阪市長の得るものははるかに大きいわけです。問題は「商品」の中身です。その中身が本当に優れているのならそれでも良いでしょう。しかし、この地域政党が目指していると建前上言っているもの(政策)を吟味していみれば、イカサマとは言いませんが、別段、何の目新しさもないばかりか、売国政策で格差を拡大させた「コイズミ、竹中」路線にむしろ近いです。私、もっとも気に入らないのは、この人の行動が、どうみても「日本の社会を良くしたい」という誠実な思いから起こったものではなく、自分自身が上に立ちたい、という小人的欲望に駆られているように見えることです。人間、誰にでもエゴはあります。しかし、政治家である以上、「国民の生活が第一」でなく、おのれのエゴが第一の人間は、風向き次第で国民を裏切ります。このあたりが、20年来、同じ主張を愚直に繰り返し、常に官僚組織の脅威であり続けている小沢氏との決定的な違いではないでしょうか。この人、霞ヶ関や永田町に頼らない国づくりを目指すとか言っていますが、仮にこの地域政党が国政に出て大勢力になった場合、この大阪市長は、おそらく一瞬で霞ヶ関側に寝返るでしょう。空きカンやドジョウが野党から与党になった瞬間、180度転換したのと同じです。官僚組織を改革して国民のための政治を行おうとするより、官僚に上げ膳据え膳で面倒見てもらう方がラクだからです。それが、自分のエゴが一番、国民は二の次、と本音で思っている人間の一番の利益だからです。

私が、非常に危機感を覚えるのは、この大阪市長、挑発や扇動の「策」だけは極めて巧みだからです。この人はいろんなレバレッジを使って自分のパワーをどんどん上げてきました。しかし、パワーというものは何かの目的を達成するための道具に過ぎないという観点に欠けているような気がします。あたかも、パワーそのものを指向してしているようです。だから、この人はナントカに刃物のように危険だと私は思うのです。集めたパワーを正しく使うだけの実力があるようには見えません。これでは、安全設備や制御装置が十分でない原子力発電所みたいなものです。一歩間違えれば、周囲を広汎に巻き込んで破滅するでしょう。

もう一つの危惧は、一般国民の判断です。これまで、イカサマ商品にうんざりしている国民は、この「維新の会」という新商品はひょっとしたらイカサマではないのではないかという期待があるでしょう。そして、維新の会は「霞ヶ関と永田町」を一まとめに批判して、その期待を煽ります。加えて、この政治塾とやらで集めたアルバイトを使って訪問販売させるという手口です。国民は「商品」の中身を真に吟味する成熟した目が必要です。とくに相手が政治家の場合、商品を見る目よりももっと大事なのは、それを売っている人間を見る目と言えると思います。

因みに少し前の「美味しんぼ日記」に、扇動者としてのこの人の危険性を的確に指摘されている記事がありましたのでリンクしておきます。

 

もう一つ、片腹痛い話。ドジョウがまたまた「消費税増税法案に不退転の決意で政治生命をかける」と言ったというニュース。体は重いが言葉は軽い。一寸のドジョウにも5分の魂があるのかも知れませんが、国民はドジョウの政治生命がどうなろうと知ったことではないのですよ。国民の税金で食わせてもらっているのだから、自分の命のことよりも、まず国民のことを考えて喋ったらどうなのでしょうか。そして、厚顔にも、

首相は24日の講演で「一番やりたいことは、先送りする政治との決別だ。一体改革は決断する政治の象徴的なテーマだ」と訴えた。

という話。「税金に群がるシロアリ官僚を退治し、や天下りや渡りを無くす!」エラそうに街角や国会で演説ぶっていたのは誰でしたっけ?そう国民と約束したおかげて与党になれて、タナボタとは言え、与党党首になれたのではないのですかね。その国民との約束はどこまで先送りするつもりですかね。このように厚顔無恥の噓つきドジョウの言うことです、不退転の覚悟だとか政治生命を賭けるとか言うのもどうせウソでしょう。大体、消費税増税法案は仮に提出できたとしても通るわけがないのだから、この際、政治生命はさっさと自ら絶ってもらって、もっとマトモな人に場所を開けたらどうですかね。この税金ドロボーが唯一国民のためにできることは、一日も早く自ら退くことだけでしょう。(その後、ふと思ったのですが、あるいは、この人、消費税増税しないと本当に殺されるのかも知れません。「命を賭ける」とか軽々しく何度も言うのは、ひょっとしたらSOS信号なのでしょうか。実際、在職中に不審死した総理は複数いますから)

 

ここまで書いて、自民党的政治のパンツを剥ぐというブログの 野田首相『命を懸けて!』は前代未聞の自爆テロ宣言」という記事を見つけました。以下抜き書き。

鳩山首相は「辺野古基地をやめる」という公約 で名誉ある殉死をした
野田首相は「消費税増税はしない」という公約を破る為 死ぬという
「自爆テロ」じゃないか!

自爆テロ宣言を 味方=民主党議員及び選挙で選んだ国民に向けて宣言する総理大臣
こんな狂った人間を総理にしておいて いや民主党代表でいいのか
いい加減にしろ! 世も末の末じゃないか!

狂った総理大臣 に対峙するためには狂わなければ 勝負ができない
「きち**に刃物」と戦うには「市長に橋下」しかいない
こんな変な政治をマスコミが煽ったから原発も爆発した野田

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高等教育、研究とカネ

2012-03-23 | Weblog

 今週月曜日の話ですが、柳田先生のブログ記事と内田樹の研究室の記事を続けて読みました。二つとも教育、教育機関の話です。まずは内田樹の研究室の一部

今政治主導の教育崩壊が急速に進んでいます。それが僕たちの置かれた現状です。

市場原理主義的教育観というのは、要するに教育を全面的に市場原理に委ねれば、最高の成果が期待できるという考え方です。
学校は教育商品、教育サービスを売る売り手である。保護者や生徒は商品を買う消費者である。市場と同じく、消費者が選好する商品は生き残り、質の悪い商品は売れ残る。市場の淘汰にさらされることによって、教育現場には「いいもの」だけが残り、市場のニーズに応えられなかった学校や教員は市場から退場する。結果的に、もっとも良質な商品だけが適正価格で流通する。「マーケットの判断はつねに正しい」というのが市場原理主義者の言い分です。
学校教育がダメなのは、そこに競争原理、市場原理が働いていないからだという言い方がはやりだしたのは、この20年ぐらいです。

論旨は、教育の市場原理を取り入れれば教育成果が上がるという考え方が教育にはなじまないということですが、教育システムの内容がビジネス的思想に影響されているのみならず、高等教育そのものが教育ビジネスだという考え方が広まっていると思います。教育に限りません。これまで公的サービスと考えられてきた医療なども同じだと思います。そのような考え方が広まってどうなったのか、無惨なことになっていると私も思います。ビジネスは基本的に利潤の追求であり、コストを下げて売値を高くすることを指向します。「大学は学問の場であり研究と教育を通じて社会に貢献する」機関ではなく、学生や政府や企業からカネを集めてその関係者の生活をまかなう、場合によっては利潤を追求するための道具という側面が第一に出てきているように思います。

続いて、柳田先生のブログの一部

わたくしは自治体はもっともっと学術や教育が工場誘致よりずっとましなゼニの元になることを認識すべきだと思うのです。また大学や研究所はいまよりもっともっとサービス業的にならなければいけないのではないかとおもうのです。ともあれ人があつまることはゼニの元です。

たとえば滋賀県ですが、わたくしが住み始めた頃は、滋賀大という文系色の濃い地方国立大学一つしかなかったのに、いまは立命館、龍谷、滋賀医大、県立大、バイオ大、等等とと沢山増えました。理系が多いです。比良のほうにある成蹊スポーツ大学も体育大学でなくスポーツ関連大学ですので理系ですから、滋賀の大学は相当数が理系になり、かつての状況から一新されています。人口140万ですが、まだまだ増やしても問題ないと思われます。大学生の数、教育、学術関係の人口は飛躍的に増えているはずです。

学術、教育というのは、人が集まる、住む人が増えるのです。

そして、生まれる知識が有益、役に立つのならお金を出してさらに研究をしてもらおうという企業や自治体が増える。レベルの高い人達が増えればどんどん関係者が増える。

シンガポールの狙いはもちろんそこにあるわけです。

人が集まり人口が増え、お金を提供して新知識を生みだしてもらう、そしてそのような環境で勉強をしたり何らかの資格を得たい人達が増える。

つまり知識をてこにした、人々が従事するサービス業が本来の大学や研究所の役割でしょう。なにも世界トップレベルでなんかなくてもいいのです。長期的に人々が好んで集まってきて好んでお金が入ってきてそのお金がまわればいいのです。

 

研究や教育がサービス業であるというのはその通りだと思います。製造業や農業ではありませんから。だからこそ、サービス業でカネを回す、稼ぐということの危うさを、私は心配します。世界で一番、儲けている業種は金融業ではないかと思います。預かったカネを人に貸して利息をとる、あるいは株券や債券を取引して手数料を稼ぐという仕事で、これは極論すれば価値を生み出さない仕事です。価値を生み出さないということは、極端に言えば、無くてもやっていける業種ということだと思います。大学はサービス業かも知れませんが、それが学生や政府からカネを集める教育ビジネスで、彼らはお客さんなのだというように捉えてしまうならば、いずれそういう大学は成り立たなくなると思います。お客が満足しないビジネスは淘汰されてしまうし、お客である学生が求めるものと大学が与えることができるものはしばしば大きな乖離があるからです。

また、大学の存在価値に関して、もっとも直接的に利益を被っているのは学生ではなく、大学で働いている人間です。話は脱線しますが、過日、グラントレビューをしていた時、その研究の期待される貢献度を書く欄の第一番目に、このグラントが当たると研究スタッフの給料が支払える、と書かれてあって、苦笑いしてしまいました。これでは、セールスマンが「売れないとクビになって一家が路頭にまようのですよ。買ってください」というようなものです。カネを出す買い手の都合を考えていません。ま、正直なのかも知れませんが、そんなことを「研究のインパクト」の一番目に書いてはいけません。悪名高い日本の財務省でさえ、増税の説明は社会保障のためで、「財務省職員の天下り先をつくらないといけないから」とは言いません。

大学の存在意義が大学で働く人のメシの種だという本音はさておいて、大学の本来の存在価値とはなんでしょうか。思うに大学や研究所の存在価値は、お寺や教会のようなものではないでしょうか。サービス業であっても利潤追求のビジネスの道具であってはならないと思います。サービス業である以上、極端に言えば無くてもやっていけないことはありません。しかし、お寺や教会と同様、ないよりはあった方がよいと大勢の人は考えているのだろうと思います。昔はお寺や教会は、教育の場であり社交の場でした。大学も同様だと思います。大学は教育を売るというよりは、場を提供するという意味が大きいのだと思います。

柳田先生の意見に対して、多少異論があります。大学がふえれば人が集まってカネが回るというのは順番が逆ではないかと思います。まず、カネがないと大学はできないし、仮に大学ができてカネが回ったところで、最初の初期投資を回収するだけの経済効果が期待できるかと問えば、私は否定的に思います。

学生やその親の立場からみれば、大学へ進学する動機のもっとも大きいものは、就職が有利になって、将来収入の高い職につける、というものではないでしょうか。よい大学へ入って卒業することは、子供やその親にとっては、投資であったわけです。然るに、少子化で一流大学を出ても職がないという時代になってきている現在、大学ならどこでもよい、という人はもはやいないでしょう。入試の競争率が1を切っている誰でも入れる大学が沢山あります。経営破綻した大学もあります。この状況で、大学を新設しても、そうとうカネを積んで環境を整えない限り、学生も一流の教官も集まらないというのが現実ではないでしょうか。バイオポリス構想で、一流研究者をカネでつってきたシンガポールの最近の事情は、私の知る限り、その投資回収を図り出してから、一流研究者は逃げ出しているという話です。金の切れ目が縁の切れ目というワケです。研究者はカネの後を追いかけますから、一時的にカネを落とせばよい研究環境をつくるのは簡単です。しかし、継続的なカネの流入なくして、それを維持するのは困難だと思います。例えば、ハーバードやMITが一流であり続ける理由は、カネが潤沢だからではありません。(もちろん、ハーバードは大金持ちですが、そのカネはハーバードの研究者には簡単には回っては来ません)むしろ逆に、優れた環境で研究したいという研究者がカネを持ってやってくるので一流であり続けるわけです。そういう環境は一朝一夕にできるものではないと思います。人から人に伝える伝統や学風、そいいうものに人は敬意を示すのではないでしょうか。そういう意味で、ハコを作れば人が集まって経済効果がでるというのは、そこにポジティブフィードバックを生み出すだけの基盤がなければ、一時的にはうまくいくかも知れませんが、長続きはしないだろうと私は思います。

経済が厳しくなって、大学進学が将来の職を保障するもので無くなった時、これまで、過大評価されてきた大学の意義は厳しく問われることになるのではないでしょうか。大学がサービス業で人を集めてカネを回すというのは高度成長期の話で、これからはカネがないのだから、大学で悠長に学問している場合ではないと考える人も増えるのではないのかと思います。

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特捜崩壊

2012-03-20 | Weblog

先週末、今週は何かと忙しく、世間のことに気をかけている時間がありません。新しい研究テーマを考えていて数ヶ月前からその下準備を始めました。かなり複雑なコンストラクトを組む計画を立てて、それに2ヶ月と見込んでいましたが、完全に過小評価していました。一つは、遺伝子配列などはpublic databaseの情報を使って20工程ぐらいのプロセスを計画したのに、重要なところにdatabaseの誤りが複数あったことが大きかったです。その誤りを発見するのに随分時間を費やした上に、そのせいでその後の計画を変更せざるを得なくなりました。その他にも、いろいろ小さなミスや思わぬ障碍が重なり、この3ヶ月ほど、殆どこれにかかりきりになっているのに、まだまだ終りが見えません。public databaseの情報が使えなかった一昔前なら逆にこのような失敗はしなかったでしょう。一方、遺伝子組み換え技術やデータベースやツールの進歩のおかげで、10年前だったら組むのは無理だったコンストラクトを組もうとしているのですから、そもそも簡単な作業ではなかったのだと思い直しました。あせらずコツコツやろうと思います。

とは言っても、コンストラクトを組んだり、マウスを作ったりするのは、あくまでツールの開発に過ぎず、本当の研究はその後から始まるわけで、コンストラクトを組むだけに3ヶ月も費やしていると、精神衛生上悪いです。しかし、そのあたり年だけはそれなりにとって、不安に対するコントロールはかなりできるようになったので、若い時のように破綻的になることはありません。理屈が通っていて、直感が「ウン」と言えば、それはやって正しいことのことが多いです。一方、いくら理屈が通っていても、なにかしっくり来ないような感覚を感じるときは、大抵なにか問題があります。

その点、日本の政府やマスコミがやっていることは、ことごとく理屈にもかなっていない上に感覚的にも全然ダメです。なぜ日本の政府やマスコミはこれほどまでにデタラメなのか、私は本当に理解できません。平気でウソをつき、ゴマカし、ペテンや裏切りを働き、その悪行がバレても、シラをきりとおし、己の誤りを決して認めず、義務があっても何の責任をとらないのはなぜなのか、全く理解に苦しみます。人間は皆、いつかは死んで裸になってあの世に行くのです。ウソとゴマカシとその場しのぎの無責任で、保身のために国民を犠牲にしながら日々を送って死んで行くであろうあの連中は、そんな人生でいいのでしょうか。例えば、ドジョウやフジイのじいさん、数年前と言うことが180度違いますが、そんな国民に対する裏切りを働いて「恥かしい」とは思わないのでしょうか。あるいは、彼らは、財務省に折伏され、増税教の信者となって教祖様の言う通りにすることが世のためだと心から信じているのでしょうか。ならば、彼らは余りに能力が不足していると言わざるを得ません。史上最低の無能総理と呼ばれるであろう空きカンは、お遍路をやれば後生は安心だとでも思っているのでしょうか。石川氏の裁判で、証拠を捏造した上、法廷でこれまたウソの言い訳をした田代検事、違法に無実の人間を陥れては、我が身可愛さに法廷でウソをつく、人生の終りに自分にやったことを振り返ったら安心して死んで行けるのですかね。これらの人々にかぎりませんけど、限られた残りの人生で、本当に誇りに思えるようなことを為して死にたいとは思わないのでしょうか。自分さえラクに生きて行ければそれでいいのでしょうかね。だとしたら昆虫以下ですね。

その捏造調書をでっち上げた田代検事、捏造には検察上層部からの指示があったらしいという話を、産経が伝えていました。ただの一検事が危険を犯して捏造調書を作るワケがないので当たり前の話ですが、地検特捜の組織的犯罪であるということを、三流軽薄新聞と揶揄される産経が伝えたというのが興味深いです。四流クズ新聞の朝日もちょっとは見習えばどうでしょか。三流に格上げしてもらえるかも知れません。このニュースに関して、山崎行太郎さんは次のように言っています。

これが事実ならば、小沢一郎が「有罪か無罪か」という問題より、佐久間某、吉田某等、当時の東京地検特捜部の上層部が「捜査報告書偽造」に関わっていたという問題こそ大問題だろう。こうなると、田代検事だけではなく佐久間、吉田等の逮捕にまで発展するだろう。ケネス・バークは、「スケープゴートを作ることに失敗した権力は、逆に権力それ自体がスケープゴートにならざるをえない・・・」と言ったが、まさにケネス・バーク理論どおりのことが、今、まさに起きようとしている。

そうならなければウソです。笠間検事総長は何をぐずぐずしているのでしょう。検察を助けたければ、小沢事件をでっち上げた連中を根こそぎ逮捕して、特捜を解体するしかないでしょうに。もう田代検事一人を生け贄にして終りにはできなくなっています。特捜そのものを生け贄にしないと行政、司法官僚組織が全滅することになるでしょう。(それはそれで結構ですけど)

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卑怯な言論弾圧

2012-03-16 | Weblog

昨日、グラントレビューの依頼が来ました。RCUK SSCとあって知らないところだなあ、と思っていたら、これはResearch council UK Shared Services Centre Limtedという会社でした。どうもこの会社はイギリス政府の複数の機関の研究グラントに関する事務作業を一括して行うために作られたもののようです。実際の依頼元はRCUKのうちの一つのBBSRC (Biotechnology and Biological Sciences Research Council) のようです。以前、引き受けた時はRCUKの中の別の機関のMRCから直接依頼があったように思うので、RCUK SSCで事務作業を一括処理するというやり方は比較的最近、行われるようになったのではないかと想像します。カネの出所はいっしょなのですから、独立運営されている研究機構であっても、その事務作業を一括処理するというのはいいアイデアだと思います。ムダも省けるでしょうし、この処理機関を独立した会社にしてしまうというのも面白いと思いました。年間、何万というグラント応募を包括的に評価するのは不可能です。しかし事務作業を一括管理すれば、類似のグラント応募はわかりやすくなるのかも知れませんし、より公平な審査に繋がるかも知れません。

 

さて、マスメディアの中では比較的マトモな新聞、中日新聞とその系列の東京新聞、消費税増税反対のスタンスを取っているようですが、昨年夏から、異常な国税庁の調査が入っているという話を知りました。週刊現代、永田町ディープスロートが報じています。

複数の同社関係者によると、今回の国税当局の徹底調査ぶりは異常で、同社記者らが取材相手との「打ち合わせ」や「取材懇談」に使った飲食費を経費処理した領収書を大量に漁り、社員同士で飲み食いしていた事例がないかなどをしらみつぶしに調べているという。

小沢氏の西松献金から陸山会と一連のでっち上げ事件を思い出させます。小沢氏に対しても国税庁が動いているという話を聞きました。陸山会事件裁判が無罪になったときに備えて、今度は、脱税容疑で縛ってやろうということでしょう。

また、2−3週間前も、東洋経済の編集長が痴漢で逮捕されるという事件がありました。本人は泥酔していて覚えていないというとニュースにありましたが、まず間違いなく嵌められたのでしょう。東洋経済は原発利権に対する批判特集記事を何度も出していて、この事件が起こった時も「東京電力、偽りの延命」という特集でした。この事件については多くのサイトが取り上げています(例えばこのブログ)。

痴漢でっち上げは、男女数人のグループで、狙った標的を痴漢を仕立て上げるのだそうで、被害者役、目撃者役、取り押さえる役と役割分担しているそうです。痴漢でっち上げはこれまでも植草事件など、言論封鎖のための常套手段です。言論人の痴漢は、まず言論弾圧のためのでっち上げと見てよいのではないでしょうか。この手口は余りに有名になったので、例えば、最近「原発崩壊」という記事を夕刊フジに書いている(反体制派?の)フリージャーナリストの上杉さんは、自衛のために、移動は基本的に車、新幹線に乗る時は両手に荷物を持って、外ではアルコールは飲まないようにしている、と言っていました。痴漢でっち上げの手口は、外でアルコールを飲んだ時に一服盛られて、意識もうろう状態になった状態で、電車に乗せ、前述のグループが頃合いを見計らって仕掛けるのだそうです。この東洋経済編集長の場合は誰と飲んでいたのかよくわかりませんが、泥酔していて覚えていない位なのですから、やはり盛られた可能性が高いような気がします。

 

もうひとつ気になったニュース。昨日のニュースでゴールドマンサックスの重役、Greg Smithが辞めたという話。会社の極端な金儲け主義がガマンできない、と言ったらしいですが、本音は、会社もかなり悪どいことをやっていたようですから、捜査が入って挙げられると思ったか、あるいはまもなく会社は潰れて、その責任を取らされたりするのが嫌だと考えたということではないのかな、と勘ぐっています。最近、この証券会社から大量に人が辞めているそうです。これ以上のインサイダー情報はないでしょう。間もなく第二のリーマンショックが来るのかもしれません。最近、アメリカ株式市場が比較的好調なのも怪しいです。上げておいてドカンと落とすつもりなのでしょう。

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恥知らず

2012-03-13 | Weblog

先週末は、検察役の指定弁護士が、陸山会の裁判で、論告求刑で3年の禁固刑を求刑したとのニュース。その論告の内容を見て、最初は久しぶりに怒りで頭に血がのぼり、その後、このようなふざけた論告を指定弁護士がした(させられた)という事実に、正直、日本という国はもう救いようのない劣悪なレベルにあるということを思い知らされたような気がして、どっと落込みました。この裁判、常識で考えたら、裁判していることという事実自体が悪い冗談です。しかし、裁判長が検察側の証拠をほとんど棄却したにもかかわらず、公判停止の判断を出さなかったということが、「有罪判決」を示唆しているような気がします。本当に暗黒国家ですね。

石川氏の有罪判決の際も、裁判長は、かなりの部分の検察側の証拠採用を却下し、無罪のつもりでやっていた様子が見えました。それが土壇場で、信じられないような屁理屈をならべて、証拠無しに推認につぐ推認を重ねて、有罪判決を出しました。つまり、最後の最後で、たぶん最高裁周辺の誰かに脅かされて、判決を変えさせられたということでしょう。

多分、小沢氏の裁判長も、現時点では「公判は維持しろ」という誰かの指令に沿ってやっている、もしくはその意図を「忖度」してやっていると考えられます。ならば、最後の最後で、またもやどんでん返しの「有罪判決」を出してくる可能性がかなり高いと思わざるを得ません。

角栄、金丸が嵌められたのを見てきている小沢氏は「有罪判決」が出ることは折り込みずみでしょう。「何も悪いことはしていない、お天道様が見ている」と言う小沢氏ですが、だからと言って、卑怯な手を使って自分を抹殺しようとしてくる相手に、堂々と突っ立って、その攻撃をモロに受けるというのはどうなのか、と思います。国家権力を使って個人を抹殺しようとしている相手に打ち勝つには、多数の国民が真実を知り、その支持を得るしか手がありません。残念ながら、日本国民の日本の統治システムに対する事実認識は、まだまだ極めてrudimentaryと言わざるを得ないのではないかと思います。小沢氏は徹底抗戦するつもりでしょうから、今回、有罪判決が出たところで、すぐには政治活動の制限にはならないでしょう。むしろ、裁判が長引いて、マスコミのウソが流れれば流れるほど、この国の恥部は広く晒されることになり、長期的にはプラスに働くのかも知れません。ただ、私は、このでっち上げ裁判にかかわっている少なからぬ「日本の恥」どもが、いつまで経っても「恥知らず」なのが、情けないのです。

「国家の品格」という本が数年前にヒットしました。個人としての日本人に関しては、他の国に比べて、思いやり深い善良な人間が多いだろうと思っています。品格のある立派な人も少なからず知っています。しかし、組織としての日本としては、極めて未熟で下劣だと言わざるを得ません。おそらく民主主義からもっとも遠いところにある国の一つでしょう。日本の組織は自己保存能を持つ良くも悪くも「力」であると思います。日本ではしばしば、組織から離れた個人は非常に弱い立場に置かれるからだろうと思います。私もかつては、病院や医局という組織に属していましたので、その自己保存能の強さは良くわかります。例えば、患者の利益と医療側の利益が相反するような状態に置かれた時、たとえ個人として立派な医師であったとしても、たとえそれがピタゴラスの誓いや一般倫理に反しようとも、多くの場合、医師は医療側の利益を優先するように行動するのではないでしょうか。日本の組織の自己保存能はそれほど強いものです。私が組織を離れた理由の一つはそういうのが嫌だったせいもあります。同様に体育会体質というのも私には鳥肌ものです。

日本が成熟した民主主義を手に入れるためには、私は、もっと個人主義であらねばならないと思います。夏目漱石の「私の個人主義」にあるような個人主義のことです。以下、抜き書き。

この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟ったのです。今までは全く他人本位で、根のないうきぐさのように、そこいらをでたらめに漂っていたから、駄目であったという事にようやく気がついたのです。

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。

これと同じような意味で、今申し上げた権力というものを吟味してみると、権力とは先刻お話した自分の個性を他人の頭の上に無理矢理に圧しつける道具なのです。道具だと断然云い切ってわるければ、そんな道具に使い得る利器なのです。
 権力に次ぐものは金力です。これもあなたがたは貧民よりも余計に所有しておられるに相違ない。この金力を同じくそうした意味から眺めると、これは個性を拡張するために、他人の上に誘惑の道具として使用し得る至極重宝なものになるのです。
 してみると権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し被せるとか、または他人をその方面に誘き寄せるとかいう点において、大変便宜な道具だと云わなければなりません。こういう力があるから、偉いようでいて、その実非常に危険なのです。

そして、個人の権利を尊重するためには、個人が自らにもっと責任を持つ必要があると思います。

近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符徴に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、他人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。我々は他が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害し得る地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。元来をいうなら、義務の附着しておらない権力というものが世の中にあろうはずがないのです。

自分の人生に責任を持つと同時に他人の権利を尊重するということが本来の「自己責任」です。自分の人生の責任を組織に面倒を見てもらおうと思っているような者に限って、組織の外の個人の権利は蹂躙して恥じないのです。そう思います。

もう少し、漱石の言葉を続けます。

いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の憂うれいが少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなってしかるべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すよりほかに仕方がないのです。今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。したがっていつどんな事が起ってくるかも知れない。そういう意味から見て吾々は国家の事を考えていなければならんのです。

もう一つご注意までに申し上げておきたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくらやかましくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘あまんじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きをおく方が、私にはどうしても当然のように思われます。

つまり、国という組織はそもそも君子ではあり得ない低級なものであり、その組織に個人が縛られるようでは本末転倒だということでは無いでしょうか。自己に責任をもつ自立した個人の集合が国家となるべきであり、国家という組織が個人を使うのではないということだと思います。

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歴史のウソ

2012-03-09 | Weblog

スーパーチューズデーが過ぎ、現在、アメリカ大統領選の共和党候補では、ロムニーとサントーラムがどうもトップ2となっています。ロムニーもモルモンでサントーラムのような保守というわけでもないので、共和党の主な支持ベースとなっている人々の票を集められず、金にまかせたキャンペーンでなんとかトップを維持しているという状態です。この二人のどちらかが最終的に指名されるのでしょうが、どちらが共和党候補になったところで、オバマには勝てないでしょうから、私はすっかりこのレース、興味が冷めてしまいました。

 数日前、アメリカ共和党議員、ウォルタージョーンズが、新聞のインタビューで「ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺、ホロコーストは、実際に全く起こっておらず、そのような出来事は世紀の大嘘である」と述べて、論議を醸しました。そして、イタリアの新聞、レププリカも、フランス人作家ロベール フォーリソンが「ホロコーストは現実のものではない」という論説を掲載しました。ユダヤ人強制収容所があったことや、ユダヤ弾圧があったことは事実のように思いますが、ホロコーストが本当にあったのかどうか、私は判断する術を持ちません。世界の情報が新聞やテレビだけに依存していた二十年ほど前までは、うまくついたウソなら世界中を騙すことも可能だったでしょう。日本でも「南京大虐殺」はでっちあげだと言って、中国の反発を買った市長がいました。ホロコーストが現実にあったのかどうか、南京大虐殺が本当にあったのか、本当に人類は月に行ったのか、確たる証拠はなさそうに思います。ただ、ホロコーストや南京大虐殺や人類の月面到達は、殆どの人々の頭の中では、本当にあったことと認識されているので、その「ドグマ」に異議を唱えると、すでに人々の感情的な抵抗にあうレベルに達しているということは言えるでしょう。ちょうど「9-11は本当はイスラム系テロリストの犯行ではなく、アメリカの自作自演ではないのか」とアメリカ人に問いかけるようなものです。ホロコーストがウソだとして、誰がそのウソを何のために仕組んだのか、その連中は今、どういう立場にいて何を目指しているのか、ちょっと考えておく価値はあると思います。そして、何十年も経ってから「ホロコーストはウソだ」と主張する人々が現れ始めたということが示唆することは何か、興味深いです。私はアメリカ、ヨーロッパ経済を牛耳ってきた連中の力が弱まってきたしるしではないのかと想像したりしています。

同様のことが、「イランが核兵器を開発しようとしている」というイスラエルの主張にも言えるでしょう。イスラエルの強硬な態度は、ちょっと異常なものを感じます。何の証拠も無いのです。これは、「フセインが大量破壊兵器を隠している」と言いがかりをつけて、アメリカがイラクへ侵攻し、破壊兵器など何もみつからなかったら、急に「イラクは民主主義でない」と理由を変えて、フセインを殺したブッシュのやり方を思い出させます。イランを第二のイラクにしたいと、ブッシュの黒幕だった連中は浅はかにも考えているのでしょう。イランに侵攻するその口実として「イラン核武装」を声だかに叫んでいる、そのように聞こえます。果たして、オバマはこの筋書きに乗るのかどうか、幸い、今年の11月の大統領選を控えていますから、少なくとも、再選まではイラン侵攻は引き延ばしたいと思っているでしょう。クリントンも「イランの核開発は軍事目的ではない」と言ったというニュースもありましたから、余計、イスラエルの「イランが核兵器を開発しようとしている」という主張が不自然に聞こえます。いずれにせよ、アメリカ抜きでイスラエルはイランを攻撃できませんし、そのアメリカはイラン侵攻におよび腰になっているというのは、とりあえず世界平和のためにはよいことだと思います。これもアメリカの黒幕といわれる一部のユダヤ人の力の衰えを示しているのではないかと思います。

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4号機の危機、イランの核、プーチン

2012-03-06 | Weblog

先週の週間朝日で、広瀬隆さんが福島原発4号機の危険について警告されています。4号機の使用済み燃料保管プールは、人が十分に作業ができない状況にあることもあって、むき出しになっていて、10-15年運転期間相当のウラン プルトニウムの燃料が入っているということで、この冷却に問題が起こった場合、「昨年とは桁違いの放射能が放出される」ということです。そうなったらどうするのか。今でさえ、放射能が強くて十分作業ができない状態なわけですから、多分、本当にお手上げで、日本の半分は人が住めない土地になるということでしょう。その未知の惨状が誰も実感を伴って予測できないので、もう一度福島に地震が来て、4号機に異変が起きた場合のことを誰も考えないようにしているのでしょう。しかし、放射性物質の半減期を考えると、人間がいつか死ぬといういうのと同じぐらい、4号機の事故は確実におこることのように思えます。広瀬さんは「逃げる用意をして下さい」と警告されていますが、いったい、どこに逃げればよいのか。地球は一つで、その表面は水や空気でどこも繋がっているのですから、4号機がやられたら日本でなくても安全なところはないのではないでしょうか。

イランラジオの先日のニュースでは、フランスの調査機関が会見し、福島の放射能汚染レベルは長期間に渡って残ると見解を発表したという話もありました。イランラジオでのニュース報道は多分、日本やアメリカのニュースよりはよっぽど真実に近いでしょう。イランの核開発に対して、イスラエルやアメリカが非難を続けていますが、例えば「イランに圧力をかけるアメリカのシオニストロビー」という記事は、多分、アメリカで一般には絶対報道されないような情報でしょう。興味深いので、一部、転載します。

シオニスト政権イスラエルの高官が、ここ数日イランに対する好戦的な発言を拡大しており、「制裁がイランの核開発を停止させることに失敗したなら、イランの核施設を攻撃する」と脅迫しました。(中略)

こうした中、これ以前、アメリカ軍統合参謀本部のデンプシー議長が、今年2月1日に、イスラエルのネタニヤフ首相とバラク戦争大臣と電撃会談を行い、「オバマ政権はイランへのいかなる攻撃にも反対しており、アメリカを中東での新たな戦争に引き込もうとするイスラエルの圧力に屈することはない」と語りました。(中略)

明らかなことは、アメリカの大統領選挙での勝利は、シオニストロビーや彼らの候補者への支持と奇妙に結びついているということです。このため、アメリカの選挙で勝つのは、イスラエルとどれだけ強く結びついているかにかかっているのです。(中略)

アメリカとその同盟国は、イスラエルと共に、イランを平和的核開発からの逸脱、核兵器への獲得に向けた努力で非難し、こうした主張を一方的な制裁、国際的な制裁を行使するための口実として、さらには軍事攻撃への脅迫として利用しています。しかしながら、明らかなことは、イラン政府が警告を発しているように、このような対イランの措置は、断固とした回答を受け、中東を越えた地域に戦争を押し広げる可能性があるということなのです。

多分、この記事にあることは、知っている人は知っているはずです。しかし、アメリカ一般人はアメリカのユダヤ人がどんな力を持っていて、何を目指しているかは知らされていないし、ニュースは絶対このような情報は流しません。イスラムとテロを結びつけ、それを口実に中東へ侵攻したブッシュのウラにいた黒幕もこういう連中ということです。


ロシア大統領選でプーチンが再び大統領に選出されました。圧勝と本人は言っていますが、本当はどうなのか。プーチンが大統領になったことでロシア国内の緊張はむしろ高まって行くような気がします。一方、プーチンが「強いロシア」を文字通り目指した場合に、ロシアはイスラエル-イランの核をめぐる対立にどのように関与してくるのか興味深いです。再び東西が対立して冷戦状態へと向かうのか、イスラエル-イランの対立は、そのきっかけになりそうな気もします。

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NCAT, BiO

2012-03-02 | Weblog

アメリカNIHは、ディレクター、フランシス コリンズの長年の理想、基礎と臨床を繋ぐ研究の発展、に向けて、昨年の12月に、正式にNational Center for Advancing Translational Science (NCAT)を発足させました。しばらく前、そのNCATの一部門、preclinical medicineのディレクターの話を聞く機会がありました。

Translational Medicineという考え方やアプローチに対して、私は偏見を持っていました。多分、アカデミアの多くの人もそうでしょう。これまで、臨床応用されてきた基礎科学の成果は、多くの場合、臨床応用を意図してなされた研究ではなかったこと、臨床応用を目指した基礎研究は莫大なコストをかけて製薬会社が進めてきたにもかかわらず、新薬の開発、製品化は年々、難しくなってきていること、など、複数の理由から、税金ベースの限られた研究資金を使ってアカデミアがTranslational Researchを意図的に進めようとする動きに対して、懐疑的な人の方が多いのではないかと思います。

コリンズ自身は医師ですし、ヒトゲノムプロジェクト以外はヒトの早老症の遺伝子解析など臨床に関連した仕事をしていますから、基礎生物学研究と臨床を繋ぎたいという動機があるのはよくわかります。私自身は、Translational Researchに対しては、大勢の人々と同様、多少ネガティブな偏見を持っていましたが、実際にそうした研究の中で、生物学的にも臨床応用という面からも優れた研究が地道になされてきたことを知るにつれて、結局は税金ベースで究極的には人類の健康増進に貢献するという建前でやっている研究ですから、その建前に誠実に十分科学的に行われる研究はもっと支援されるべきだと思うようになりました。ただ、製薬会社が莫大な研究費をかけて遂行しているような研究と競争するような形になるのなら、その意義は少ないだろうと思います。アカデミアに勝ち目はありません。マーケットが小さすぎるとか、開発リスクが大きすぎるとかの理由で製薬会社が手を出さないような分野などのnischeを埋める形で発展するのが理想ではないかと思います。

しかし、鳴りもの入りのNCATのデビューですが、この経済危機で金が余っているわけもなく、NCATの資金は前のNational Center for Reserach Reseouses (NCRR)という小さなセンターを解体して調達したもので、そのバジェットも小さく、またNCRRでサポートされてきた研究もあるわけで、必ずしも、皆が手放しでNCATを喜んでいるわけでもなさそうです。この動きはNCATの成功によってjustifyされるでしょうが、NCATが何らかのTangibleな結果を出せるかどうか、私は余り楽観的ではありません。

 

話題転換。発生生物学系の研究をしている人にとっては、Developmentという雑誌は専門分野の雑誌としては、かつてはトップの雑誌でした。残念ながら、Developmental Cellが出来てから、「Cell」ブランドのせいか、あっという間にハイインパクト論文を取られて、雑誌のステータスは低下し続けていますが、それでも、この分野の研究者の中では十分、respectされている雑誌です。イギリスの雑誌というのもあるでしょうが、結論のハデさよりも科学論文としてしっかりしたデータに基づいた信頼できる研究かどうかというあたりが見られるからかも知れません。この雑誌を発行している「The Company of Biologists」はDevelomentを頂点にして、複数の雑誌を出版していますが、数ヶ月前に、オンライン雑誌、BiO (Biology Open)を始めました。フライヤーが来ていたのでチラと見ると、論文の投稿に「Transfer Option」というものがあります。つまり、Developmentなどの出版社の雑誌に論文がリジェクトされた場合に、クリック一つでそのまま、BiOに再投稿できる、というオプションで、これはPLoSが、PLoS Oneという受け皿を作って、上位PLoS雑誌に落とされた論文を拾ううまいビジネスを展開しているのと同じ方法です。Developmentの採択率は20%ほどでしょうから、これまでだと、ここで落とされた80%の論文は別の雑誌へ投稿されて、結局、レビューやエディトリアルプロセスの段階での労力は返ってこなかったわけです。多分、出版社の思惑は、このオンライン雑誌で、Developmentからこぼれた質の高い論文を拾いたいということだと思います。すでに、BMCなどがオンライン雑誌発行ビジネスで大成功していますから、オンライン雑誌が金になるのは間違いないです。ただ、このように露骨に金儲けが見えると、ちょっと反発もうむのではないか思います。

 

もう一つ、政治欄で目についたこと。次の衆院選に備えて、自民党がマニフェストの骨格となる「党の基本姿勢」を発表したというニュース。誰が名付けたのか、「谷垣ドクトリン」というそうで、笑ってしまいました。「防衛」という口実で他国への先制攻撃を正当化しようとした悪名高い「ブッシュ ドクトリン」を思い出させます。大体、「ドクトリン」などという名前のついたものにロクなものはありません。それはともかく、その「党の基本姿勢」9項目の第一が、「国民に誠実に真実を語り、勇気を持って決断する政治」なのだそうです。つまり「これから、ウソはつきません」ということです。これには、笑うべきか、情けなくて泣くべきか、迷ってしまいました。そんな3歳児でも言えることを言う前に、国民にウソをついてきたのはなぜなのか、そのウソをなくすにはどうするのか、という反省が全くありません。それなしに「ウソをつきません」という言葉を、国民が信用するとでも思っているのでしょうか。この辺のこの総裁の認識のズレというか、わかっていなさ加減を見ていると、自民党の復権はあり得ないと確信されます。この話、MGMミュージカルで最も長いタイトルの歌というのを思い出させます。Fred Astaireの映画の中の「How Could You Believe Me When I Said I Love You When You Know I've Been A Liar All My Life(オレが生まれてこのかた、ずっとウソつきなのを知っているくせに、どうしてお前は『愛してるよ』と言った時のオレは信じられたのか)」という曲です。(アステアの踊り、カッコいいですね)自民党の場合、「ウソをつかない」というのも多分ウソになる可能性が高いでしょう。それにしても「ウソをつかない」という小学校で習うようなことを、マニフェストに上げねばならないほど、この国の政治は幼稚で未熟なのですね。それで、「ウソをつきません」というのが「ドクトリン」なのだそうです。情けなくて、これ以上、言うべき言葉がありません。

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