百醜千拙草

何とかやっています

真面目にやるのがバカらしくなる時

2020-01-31 | Weblog
研究をして何か有意義なものを発見して人類の知の蓄積に貢献したい、と研究者は思っていると思います。研究者に限らず、多くの人々は、何らかの形で社会に貢献したいという気持ちを持っているでしょう。わざわざ自分の時間を費やして人の論文の査読をするのも、科学の世界を微力ながら支えようとする善意とお互い様意識ゆえではないかと思います。
しかし、世の中には自己利益の追求のために人の善意を利用するという人々も少なからずおります。

というわけで、私、さんざん、論文査読については文句を言ってきていますが、誰かがやらねばならない仕事であると思っているので、頼まれれば、原則的に引き受けることにしております。査読によって出版される論文がある一定の質を保ち、それが研究活動そのものの健全性を保つと思ってきました。ま、考えが甘いわけですが。

正直、科学論文はアカデミアのnon-profit organizationが中心になって出版されるべきだと思います。Natureなどの商業誌は、アカデミアで税金などの公的資金でサポートされている研究の原著論文は出版すべきではないのではないかと私は思います。

科学論文出版業界の矛盾や問題は散々、議論されてきていますけど、研究者が努力して作り出した価値である論文を研究者が無料でチェック(査読)し、論文を発表するために商業出版社に一本、何十万円という出版料を支払うばかりか、その成果を知るために研究者は出版社に講読料を払う、というシステムは、常識で考えると詐欺に近い。商業出版社は製品(論文)をカネを取って仕入れ、仕入れ先に無料でチェックさせた上で、カネを取って売る。とりわけ、最大の出版社、Elsevierの超高額な購読料は問題になっており、大学によっては購読を中止するところもふえています。Nature グループにしても次々に姉妹誌を作って、ブランド名で囲い込んだ上で、オンライン雑誌にもかかわらず通常の二倍近い掲載料をとるような雑誌を作る、全く金儲け主義としか思えません。

先日は珍しく、レビューの依頼が三本重なりました。2つは同じ雑誌で、これはアカデミアの研究者が論文出版の商業主義に反対して十年ほど前にできたもので、近年、評判を上げている雑誌です。この雑誌はちょっと変わったレビューシステムを採用していて、論文はまず数名のレビューアが独自に評価し、その後、エディターがモデュレーターとなってレビューア同士でオンライン ディスカッションを行い、全員の意見の合意をまとめて著者に返すということになっています。この過程でレビューア同士にはお互いのアイデンティティーが明らかになります。私もこの雑誌の趣旨には賛同するので、これは二本とも引き受けました。

三本目の依頼が問題でした。数ヶ月前、聞いたこともないElsevier系の雑誌からの依頼でレビューをした論文のリバイスでした。この論文はあまりに出来が悪かったので、うっすら覚えていました。それでも一応、真面目に読んで、5-6のコメントを書いた上でリジェクトするようにと返事したはずのものです。リバイスのレビュー依頼を見て、こんなものがリバイスになるはずがないと思って、念のために最初のレビューをみなおすと、なんとレビュアーが5人に増えていました。私を含む最初の2人、そして後から付け足したもう3人目は全員リジェクトが妥当としているのに、さらに後から付け加えられた二人がリバイスを推薦しており、彼らコメントをみると、たった一行。しかも、非常にあいまいなコメントです。明らかに出版論文を集めるのに苦労しているこの怪しい雑誌が、とにかく出版して掲載料を稼ぎたいので、サクラのレビューアを引っ張ってきて無理やりにリバイスのチャンスを与えたのが丸わかりです。つまり、これは、ピアレビューという体裁をつけるためのヤラセです。さすがに、私もムッとして、エディターに「冗談も大概にするように」とレビュー拒否のコメント欄に書きました。Elsevierとこの雑誌は金儲け(あるいは縁故主義)のために科学に携わる人間としての良心を失い、レビューアーの善意を踏みにじったと言えると思います。 

ま、多かれ少なかれ、この手の不正はあるのでしょうけど、これほどあからさまなものは初めてです。真面目にやるのがバカらしくなりますね。
(アベの「桜を見る会」のほどは酷くはないですが)



来週いっぱいは、暖かいところに出かけますので(一応仕事で)お休みする予定です。

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反論のススメ

2020-01-28 | Weblog
五年以上前から止めれずに続けていた小さなプロジェクト、面白い現象が見つかった当初は、ちょっと専門外であったこともあり、発展させられずに困っていました。そのままズルズルといろいろな事情があって進まず、また、数々の技術的な困難もあって、なかなか中心となる実験のデータがでなかったのですけど、それが昨年に出ました。残念ながら仮説は外れ、ガッカリ。もう一つだけ実験をやって撤退するかどうか決めようということで、最後の実験用のサンプルを調整したところでしたが、かなりオーバラップする論文がこの分子ではトップラボから最近出ていたのに気付きました。
このプロジェクトをやめるのに背中を押してもらったと思えばそうですけど、五年以上の歳月とそれなりの労力と金がゼロになる瞬間というのはイヤなものです。

思えば、二年前からこういうことがすでに2度ありました。2度とも、晴天の霹靂のように、こちらが有望なデータを出した瞬間を狙ったように、全く知らないところから論文が出て、二つのプロジェクトが強制終了しました。自分のアイデアが十分に斬新でなかった、行動が遅かった、と反省するしかありませんけど、やはり落ち込みますね。今回で3度めの正直といきたいです。

こういう時は、様々なネガティブな思いに苛まれ、自信を喪失し、過去を悔やみ、将来の不安に怯え、ますます気分が悪くなるわけですが、気分を悪くしたところで、何が解決するわけもありません。とはいうものの、メインプロジェクトはずっと不調、サイドプロジェクトは先を越されて次々に撤退、時間とカネはどんどんなくなっていき、有望なデータがでるどころか、実験さえつまらない理由で失敗るとなると、ちょっとなかなかパッとした気持ちにならないものです。

気分が悪くなるのを止めるのは、最終的には気分を悪くした原因のものを忘れるしかないわけですが、急性期の対処法としては、気分を悪くするような思考に反論するというのが有効なのだそうです。「五年の時間と労力と資金が無駄になった」という思いに対しては、「いやいや、そもそもこれはサイドプロジェクトでダメでもともとだったのだから想定内だ」とか、「結果には繋がらなくても、その過程で学んだことはあった」とか、いろいろと反論はできます。

結局、物事はなんでも解釈次第なので、悪い方に解釈しがちなクセを反論によって矯正していくということですね。これは、多分、気分を悪くしないという実際的な効果に加えて、物事を多角的に見る訓練にもなると思います。

(ところで、松岡修造は、実は、後天的な努力によってポジティブ人間に自己改造したらしいという話を聞きました。意志の力はすごいなあと、おもわず、笑ってしまいました)
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ステムセルの治験

2020-01-24 | Weblog
「桜を見る会」の野党ヒアリングはもう30回近くになるのですね。公開されている映像をみましたが、どこの幼稚園児かと思うような言い訳で、これほど引っ張っている、何と言う時間とカネの無駄。それで、野党が追求すると証拠が小出しに出てくるわけですが、その証拠がまた怪しいものだから、更に突っ込まれて、もう論理も完全に破綻し、そこにいる全員が嘘とゴマカシの答弁であるのをわかっていながらも、官僚側もいまさら認めるわけにはいかないので、どんどん言い訳が漫才のボケにちかい状況になり、日本版サタデーナイトライブのような様相を呈しています。半年、この連中はひっぱりました。結局、最初は1000人ぐらい(でもよくわからない、名簿は捨てたことにしたので)と言っていたのが、ようやく総理枠で9000人ほどがアベの選挙区その他から税金で招待されたことが明らかになり(というか、最初からわかっていたのに官僚も政権も認めなかっただけ)アベの公職選挙法違反が確定的となったのに検察はピクリとも動かない。 今の日本はそういう国です。

この話しだすとキリがないので、話題を変えたいのですけど、仕事の方も不調が続き、面白いと思う論文も最近はあまり見かけず、とくに書きたいことがありません。
そういえば、ステムセルに関係してちょっとやってみようと思った実験があり、10年前に東北大から出たMUSE細胞という細胞を調べていて、Paul Kneupflerのブログの数ヶ月前の記事を読みました。彼もこの細胞が日本で4つの病態に対して治験を開始したというニュースを聞いて書いたようですが、なかなか手厳しいですな。


この記事で、彼はMUSE細胞は信じていないと言っていますがその強い根拠は示していません。Webの読者投票ではMUSE細胞について、75%は懐疑的、16%は可能性はある、6%が存在を信じるとの結果です。
確かに、独立した施設からの報告が少ないこと、それから、Natureに掲載された論文を装ったMUSE細胞の広告記事が撤回されたこと、などちょっと不自然な点があります。治験を担当しているのは、三菱系のLife Science Instituteと会社のようで、治験に使う細胞はその会社が調整したものを使うということらしいですが、その細胞のドナーや調整過程については明らかにはできないようです。治験をするぐらいだから、細胞は実在し、製品化を目指しているのだろうとは思いますけど、どうでしょう。 世界的にMSCsを患者さんに投与することが批判をうけてきていますので、おそらく治験は厳密な監視下で行われるだろうと思うのですけど、どなたかこの細胞のについてご存知の方がいらっしゃったらコメントをいただけると嬉しいです。
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アカデミアの衰退

2020-01-21 | Weblog
暗い話でナンですが、アカデミアは全世界的に死滅に向かっているのではないだろうか、という感じがします。
確かに、Twitterで流れてくるニュースは、毎日、新たな新発見が有名ジャーナルに発表されたという話題を目にするのですけど、その栄光の裏に積み重なった死体の山も想像できるわけで。
アカデミアに足りないのは、金と人と安定した生活、これはずっと昔からそうでしたけど、近年、一段と状況が悪くなっているような気がします。そもそも、研究など余裕がなければできませんし。

これは現代の資本主義がほぼ行き着くところまで来つつあるからではないのか、と思ったります。つまり、持てる一部のものが持たざる大多数のものを支配する社会、人間性でも知性でもなく、持っているカネの多寡で人が評価される社会にすでになりつつあります。持たざる一般人は、そのうち徹底的に管理されて、牧場の牛のように、マイナンバーを耳に刻印され、囲いの中に閉じ込められ、乳を搾られ、殺されて食われるようになるでしょう。そんな中で、日々のささやかな幸せを噛みしめて死ぬまで働け、と洗脳されていくのでしょう。そんな社会にどのような人間らしい営みが生まれるでしょうか。

アカデミアの学問も研究も、文学、音楽や芸術のように、人間に特有の活動で、それなしには人間社会が成り立たないものだと私は思います。しかし、今の社会では、カネは力であり、力は正義、カネにならないものは価値がない、そういう風潮がどんどんと強くなってきているように思います。

若い時に一生懸命テストのために勉強して一流大学を出た人の少なからずが将来の「安定した収入」のために官吏になりたがる、そんな社会には先がないと言わざるをえません。「モリカケ」「桜を見る会」で、隠蔽、改ざんをした官僚を見ると、気が滅入ります。アホ政権に生殺与奪を握られ、経済的安定(カネ)のために、人間としてのプライドを捨て、国民を裏切り、恥を晒す、子供騙しの情けない言い訳を聞いていると、この人たちは、何のために努力して一流大学を出て官僚になったのだろう、心の中では心底軽蔑しているであろうあの三代目のバカボンを守るためにこれほど情けない姿を全国に晒して、残りの短い人生をどうやって生きるつもりなのだろうか、を思わざるを得ません。

かつて、日本は資本主義的社会主義と呼ばれました。戦後の高度成長によって、企業は儲け、その富はそれなりに再配分されて、節税や投資目的で学問や芸術の分野もサポートされていました。ところが、戦後の高度成長が終わり、企業は安い外国に出ていき、利益をあげれなくなったところは、コストカットや人員整理、でしのぐようになりました。カネを使うのが怖くなり、いくら量的緩和をやってもそのカネは実社会に回らず、結果、株式市場のマネーゲームに使われてマーケットだけはバブル状。ま、これでは、人間性は豊かになるどころか損なわれないわけがないです。ジム ロジャースは近いうちに日本は、犯罪大国になるだろうと予言しました。世界でも類を見ない高齢少子化、世界でも類を見ない20年以上続く経済低迷、世界最大の原発事故、これだけでも日本が危機的状態になるのは間違いないのに、その梶とりをしているのが世界でも類を見ない無能でかつ邪悪な犯罪政府。

こんな国でアカデミアが育つわけがない。20年前は日本から出る科学論文は総じて質が高く、信頼できるものでした。当時の大学院生がどのように働いていたかを思えば、当然と思います。しかし、近年、私の分野では、日本からのパッとした論文を長らく見ていません。そのうち日本の科学も技術も廃れ果てるでしょう。

ただ、この傾向は日本だけではないと思います。中国はあと十年ぐらいは右肩上がりでしょうが、その後、経済発展の鈍化に伴って、頭打ちとなるでしょう。ヨーロッパではイギリスとドイツが科学研究を引っ張っていますが、EUから抜けたイギリスは人的、資金的な困難に見舞われるでしょうし、その他のヨーロッパ諸国はすでに科学レベルでトップクラスとは言い難いですし。世界最大の研究資金を投入しているアメリカでも、グラント一本あたりの研究資金の額は少なくとも30年は変わっていない一方で、競争の激化、研究コストの上昇、人的コストの上昇、加えて現場の状況と無関係に教科される種々の規制などで、優秀な若い世代はアカデミアでの研究キャリアを避けるようになってきています。一部の有名研究室を除けば、人的、経済的な環境は悪化する一方です。

アカデミアも含めて、建前上、資本主義原理が入るべきでないところが、資本主義原理で堂々と運営されるようになってきたことが原因でしょうけど、やはりこの社会体制が破綻するまでいかないと改善は望めないのでしょうね。



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楽しく生きる

2020-01-17 | Weblog
前回は、一歩進んで二歩下がる、と余裕でしたが、今日出たデータには打ちのめされました。一つは、ようやく一年越しの努力が実ったと思っていたものが、勘違いであったことが判明し、振り出しに戻りました。もう一つの三ヶ月の努力もどうやらやり直しの様相。やり直す前に総括して悪い部分を明らかにするという虚しい作業をやらねばなりません。
ちょっと長期のスランプというのは堪えますね。以前は、「止まない雨はない」と落ち込んだ人を励ます立場でしたが、なんと言っても人間は感情の動物ですからね
昔はすべてのことが困難だったなあと、そのころの苦労を懐かしく思い出します。
十年-二十年後に、今を振り返ったらどう思うだろうか、と考えてみました。一寸先は闇ですから、そのころは、もう生きていないかも知れません。そう思うと、これから死ぬまでは、楽しく生きることを優先すべきだなと新ためて思いました。
とは言うものの、「楽しく生きる」というのは難しいです。楽しく生きるために私は毎日苦労しているとも言えるわけですし。
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不安なキュウリ

2020-01-14 | Weblog
一歩進んで二歩下がるの日々で、ちょっと気分が落ち込んできたので、運動にいきました。運動する人は実感しているとおもいますけど、鬱気分に最もよく効くのは運動と睡眠です。とにかく重い足を引き摺ってでもジムに行って、30分ほど走るとかなりの効果が得られます。私もいやいやながら週に二回ほど行っています。習慣にしないとやらなくなるので、とにかく決めた日に、風呂のついでだと思って行っています。

行ったら、顔見知りの人が二人いて、新年の調子はどうだ、という話になったので、つい、あまりパッとしない、という話をすると、二人とも、こちらもご同様、それで運動に来たのだ、との返事。現代の弱肉強食の資本主義社会に生きる人々は、多かれ少なかれ、不安やうつ気分を抱えています。30分走って気分を上げてきました。

不安というのは気の持ちようです。生きている間は、何が起こっても、それに対してできる範囲で最善と思われる対処をすることしかわれわれにはできないのです。しかし、すでに何もできることがないようなことでも、先々に起こるかもしれない望ましくないことを想像しては、不安になるのが人間です。ま、生存本能なのでしょうけども、なまじ先のことを考えられるだけ、他の動物よりも厄介です。何もできることがないのに、思い悩み、不安を抱き、健康を害する、というのはバカバカしいことだとは、頭ではわかっていても、人間は感情の動物、理性は感情ほど強い力がないので、つい悩み、不安になります。
昔はトレッドミルで走っている人を見て、エネルギーの無駄遣いではないかと思っていましたけど、運動が不安の軽減に役立つならば、無駄に不安に苛まれて時間と健康を無駄するよりは、はるかにマシです。

というわけで、今回もいいネタがないので、この間見つけたものを貼り付けておきます。



(蛇足:キュウリはクールで落ち着いている様子を表すのに使われる喩えなので、"不安を抱えたキュウリ"という表現が撞着語法になっています。)
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枠の中の自由

2020-01-10 | Weblog
うまくいくべきところがうまくいかないことが最近多くて、多少困っております。低調なのに忙しい、インフレなのに不況、弱目に祟り目、ちゅーのですかね。時間におわれ、焦って、浮き足立っているのが悪いようです。

そういうわけで、他人のふんどしで相撲、今日は、最近みつけたチョムスキーの言葉を紹介します。
Chomsky Quotes というツイッターサイトの最初のページ、下のようにあります。

"The smart way to keep people passive and obedient is to strictly limit the spectrum of acceptable opinion, but allow very lively debate within that spectrum".

つまり、言論の自由を制限しつつ、一方で、自由に発言が許されるような部分を意図的につくることによって、統治者は人々をその枠内に囲い込んでしまう、ということでしょう。自由な討論によってガス抜きはするのだが、その自由というのは統治者によってすでに制限されており、人々は自由が制限されていることさえしばしば気づかない。

よくある例えに、象を飼育するのに、小さい時から鎖で動ける範囲を制限すると、鎖をはずしてもその範囲の外に出ようとしなくなる、という話がありますけど、日本の社会もそうですね。
日本ではとくに、「お上」の言うことに逆らってはいけないというような封建時代の文化を引きずっており、例えば、昔の警官などは態度の悪いのがおりました。建前上は日本も民主主義なので、彼らが持っている権力は国民から預けられたものに過ぎないのに、権力なり特権を握ってしまうと、一般国民より偉いとでも勘違いするのでしょう。特権を持たない一般人にも同じことが言えます。権力組織、政府のいうことには盲従する、連中がいくらおかしいことをやっていても、それは彼らの特権であって許されるとでも考えており、政府を批判するのはよくないことだと考えている人が少なからずいます。

ツイッターの議論を見ていると、チョムスキーのこの言葉が実感されますね。山本太郎が街頭演説の時に、「搾取されているもの同士が石を投げ合ってどうする」と言っていましたが、本当の敵は、制限された枠の外にいるのです。それが入れ子構造になっています。枠の中で小さな敵同士がいがみ合う。革マルと中核の内ゲバみたいなものですか。しかし、その枠の外に本来、対峙すべき相手がおり、その裏にさらに表に見える対象を操るものがいる。

この見えないけどいるかもしれない裏のメカニズムを仮定し検討していくことは大切だと思います。見えないものは単純に信じない、のでは思考停止です。見えているものから見えないものを発見していくのが科学であり、単なる陰謀論も同じく思考停止でしょう。

われわれが無意識の内に囚われている枠というのは何か、それは誰が作ったものなのか、その辺はちょっとは考えてみる価値があるのではないでしょうか。
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ツイッターの功罪

2020-01-07 | Weblog
情報収集のために最近ツイッターを使い出しました。確かに効率よく最新の情報が自動的に集まり大変便利と喜んでいたのですが、すでに副作用が出始めています。新しい情報を求めて、つい空き時間ができると見てしまい、気が散り、大事なことがおろそかになったりします。

ネット時代の前には「活字中毒」という人々がいました。とにかく、何か読んでいないといられない人々で、本、新聞、そういったものがない時は電車の中吊り広告や商品に貼り付けてある細かい注意書きまで、隅々まで読んでしまう人々です。多分、彼らは現在では、姿を変えて電車の中でいつも携帯電話を眺めている人になっているのでしょう。今では活字以外の情報も多いですから「情報中毒」ですね。

思うに、情報をインプットしてそれに反応するという作業は、ビデオゲームをやっているのと同じような快感を得られるのではないでしょうか。また、自分自身で何かを作り出していくという時間と集中力が必要な作業に比べると、何かに反応するというのはより簡単ですから、本やブログを書くという情報発信に比べたら、ツイッターの敷居は大変低いです。

しかるに、これまで感じたことは、ツイッターに流れてくる情報の95%以上は知らなくても良い、あるいは知らない方が良い情報で、私にとってはこれらは、時間という空間を占拠するいわば、情報のゴミです。ところが、情報は新しいというだけで一瞬の価値があり、そのゴミを自動的に排除することができません。加えて、近年、私の脳の情報処理能力が低下しつつあり、そもそも大量の情報を受けた場合に、情報を取捨選択し、有用なものを記憶し無用のものを忘れるという作業が昔の半分ぐらいのレベルでしかできなくなっています。最近は、平気で重要なことを忘れる様になりました。これは脳の物理的な劣化に加え、情報量のインプットがネット時代になって飛躍的に増加したせいもあるだろうと思います。私の脳はすでに低下した処理スペースをつまり情報のゴミに占拠されているという状態になっているのではないかと思います。ただでさえ物覚えが悪くなっているのを自覚していますから、本来すべきことは情報をカットし、重要なことだけにフォーカスすることであることはわかっていはいるのですが。

ツイッターで大量の情報が流れむのに加え、マズイなあと思うのは、ついツイートに反応してしまうことです。例えば本、新聞などの長い記事を読んだ場合だと、それについてじっくり考えたり、思うところをまとめたり、それを文章にするという過程は、時間と集中力を要するもので、自然と「深く考える」必要がありました。ツイッターの場合はまさに脊髄反射的「反応」です。何かに対して深く考えずに反応する、それによって、しばしば、その元の情報以上のゴミ情報が増えていきます。結局、私も、ツイートに反応ことで、情報のゴミを増していることに加えて、チリも積もれば山、のような時間を浪費やしていることになります。

ただ、現在のように日本の政治が腐敗し、トランプのようなキチガイが、無人爆撃機で他国の要人を攻撃したあげくに、52人のアメリカ人犠牲者に因んで、イランの52箇所を攻撃するなどと、どうどうたるクソぶりをさらし、アベのような空っぽの操り人形がそのキチガイに盲目的に追随する状況は、すでに緊急事態です。ビデオゲーム並みの反射神経で危険を察知し対処することが求められます。ツイッターで人々が思うところを自由に発言し、情報を共有することは、安全保障の点では望ましいと思います。トランプやアベや腐敗した政府を強く批判するのは民主主義国家の国民としての義務であると思います。(日本では、メディアがその役割を放棄してますからね。)
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アベを操るもの、トランプを操るもの、第三次世界大戦の預言

2020-01-04 | Weblog
下半分は、ちょうど、トランプによるイランNo.2の殺害のニュースが入る直前に書いた原稿で、アメリカによる自民党政権を通じた日本支配について意識的であるべきだという趣旨です。このイラン事件で、ちょっと、そういう悠長なことを言っている余裕はないかもしれないと思ったので、二、三、付け足して、とりあえず、上げておきます。

トランプの暴挙で、世論は激動しています。その後のトランプのヘドが出そうなツイートに対する反応をみると、半数はトランプの暴挙を強く批判し、第三次世界大戦につながる可能性が高いことを懸念している人、そして、残りの半分は、悲しいことに、この愚かな行為の意味もわからずに、トランプが悪いやつをやっつけた、と「いいね」する無邪気なアメリカ人でした。(日本でも、アベを支持する一般人がいまだに何割かいるわけですから、ヨソの国のことは言えませんが。)トランプ同様、こうしたナイーブな人々がイラク侵攻を支持し、トランプを支持し、先のことも考えずに戦争を煽るのです。

二手先以上は考えられず、性格異常に加えて、痴呆の発症まで疑われたトランプは、今回の行動が長期的に世界にどんな影響を及ぼすことになるかなど、十分に考えてはいなかったに違いない。何しろ、政治でも教育でも、全てものもは取引であって、短期的な損得でしか物事を考えることのできない醜悪な俗物です。あの小学生レベルのツイートをみる限り、考えなしに勢いでやってしまい、しかも反省すらしていないようです。この行動は議会も通していないのです。

イランの国民性を考えると、これで、ただではすむわけがない、という感じがヒシヒシとします。それでこの件について、いくつかリツートとコメントをしました。その時に、5年ほど前に亡くなった牧師の小石泉さんが、聖書を預言の書として解読するという仕事をされていたのを思い出して、ツイートにリンクを張った後、もう一度、記事を読み直してみました。(「荒野の声」の「これから起こること」という三つの記事です) その中で、WW3はアメリカのイランへの攻撃に端を発し、ロシアとアメリカ間での核戦争で、北米とロシアと中東が荒廃するという部分は覚えていたのですけど、それがいつ起こるのかは覚えていませんでした。記事によると、こうあります。

、、、こうしてこの戦争を収束する過程で一人のヒーローが産み出されるだろう。それはイギリスのウイリアム王子かも知れないし、別の人かもしれない。ただし、その人物はもう生まれていることは確かだ。彼は「シオンの長老」によって養育され保護され推薦されて出てくる。、、、それこそ聖書に預言されている“獣”アンチクライストである。
(黙示録13:1~5)、、、、また、この人物による世界統治は聖書によれば3年半なのだが、それが3年半なのか準備期間を含めて7年なのか読みきれない。、、、

つまり、聖書を預言の書として解釈すると、アメリカのイラン攻撃をきっかけにして世界大戦が起こり、核戦争によってアメリカとロシア、中東は短時間の内に壊滅的打撃を受けることになる。その後、(おそらく戦争の被害が少なかった)ヨーロッパからアンチクリストが出て世界を治めるようになる、という話です。そして、そのアンチクリストはすでに生まれており、聖書の記述からイギリスのウィリアム王子ではないか、と推測されています。
 この聖書が本当に預言の書であって、解釈が正しいとすると、この第三次世界大戦は遠い未来のことではなく、我々が生きているこの時代に起こることです。今回のアメリカのイランNo.2の殺害は、すでにトランプがイランとの核開発合意を一方的に反故にした後に行われたもので、イランの反米感情はすでに高まっており、一触即発状態であると多くの人が認識していると思います。だからWW3の可能性は極めてリアルに、ツイッターなどで議論されました。そして、私も小石さんの記事を思い出し、(預言通りであれば)アメリカのイラン攻撃に端を発するWW3が我々が生きている遠くない未来に起こるだろう、ということを確認したのです。
 ま、この辺、預言とか占いとか、科学的でないから馬鹿らしいと一蹴することもできますけど、今回のトランプの行動は、論理的に考えてもイランはもとより、ロシアにもかなりのマイナスのインパクトがあったでしょう。イスラエルとイランの対立、ロシアと西側のパワーバランスを考えると、トランプの様な男が大統領をやっているアメリカがイランにちょっかいを出すのは極めて危険なことだと思います。預言が今回の事件を指しているのではないことを祈るばかりです。

いずれにせよ、トランプはその愚かさと巨大なエゴゆえに極めて危険な人間だと思います。大統領には今回の様に裁量の高い権限が与えられています。核ボタンのスイッチを押すこともできる。
そして、日本においてはアメリカの命令に絶対服従するというパブロフ犬のアベは、与えられた権力を適切に扱う能力を欠いているという点で、やはり極めて危険です。

ところで、この事件の前に書いたものは下の通りで、今回のIR事件で、中国資本から資金を受け取った議員が軒並みやられているのに、アメリカカジノ業界からの件は全くスルーされているという鳩山さんのツイートの反応したものです。

そもそも2018年の大災害が起こった直後、しかも災害地に張り付いていないといけないはずの国交相大臣が、災害対策の審議ではなく、バクチ解禁法案の担当となって、ロクな審議もなくこのおかしい点ばかりのバクチ法案を無理やり強行採決で成立させたました。それは、期限をきられて誰かに命令された以外に考えられないと思います。

これだけに限りません。自衛隊の海外派遣、憲法を曲解しスジを曲げてでも強行するのは誰のためでしょう。それから、アベの権力の私物化。ここまで徹底的なデタラメで、文書改竄、虚偽答弁、倫理とか常識とかを保身のためにぶち壊す、なぜ、そんなことが平気でできるのか。
一般には、この異常な事態は、アベが内閣人事局を作って官僚支配をするようになったからだ、という話になっているわけです。確かにアベが諸悪の根元のように見えますけど、そもそも、これほど、凡庸で、知性と性格に欠陥があり、虚言癖がある上に、独自の大きな派閥を持っているわけでもない人間が、なぜ、このような強権を手に入れられたのか、その異常さを考えれば、「神輿は軽くてパーがいい」という言葉を思い出さずにおれません。
つまり、アベが神輿なら、その神輿をコントロールする本体は別におり、おそらく噂の通り、横田周辺からでも神輿の担ぎ手に指令が飛んでいる、と考えるのが自然でしょう。

前々から、アベ政権(自民党政権)の政策は、いわゆるジャパンハンドラーズによる「日本への提言」、アーミテージ、ナイ報告書、そのままをトレースしていると言われており、山本太郎が国会でもこれを取り上げたことがあります。第四次アーミテージ、ナイ報告書は約一年ちょっと前に発表されています。そして、集団的自衛権、武器輸出三原則の撤廃などを含む第三次報告書までのアメリカの要求はアベ政権でほとんどが遂行されました。第四次報告書では中国の台頭を強く警戒したものになっています。内容を見ますと、日米貿易協定(アメリカのTPP離脱にともない、世紀の不平等条約たる日米FTAが強行採決されました。それが今年から執行されます。自民党がTPP反対から急に推進になったのはアメリカに言われたからのようです)、日米軍事協調(すなわち自衛隊を米軍の下請けとして海外で戦争に参加させよという提言。記憶に新しいとおり、審議もなく、先日、閣議決定しましたね。これはおそらくアメリカの対イラン戦に自衛隊を使うことへの準備でしょう)、アメリカ軍需産業との防衛技術、武器の共同研究を含むテクノロジ開発推進、などが強調されています。
この報告書を出しているCSISというシンクタンクとアベや小泉は深い関係にあるのは周知の事実です。そしてこのシンクタンクは政治的には共和党、民主党を含む超党派で、アメリカの利益のために運営されてます。

つまり、いわゆるジャパンハンドラーズとよばれる人々の提言という「命令」をこれまでアベは忠実に遂行してきました。思うに、その見返りにアベは国内では好き勝手をしても、警察組織、検察、特捜から守られるという特権を与えられてきたのではないかと思います。だから、ヤクザを使って選挙妨害しようと、税金をトモダチや支持者に回そうと、提灯記事を書く記者の犯罪をもみ消そうと、ヤクザを雇って選挙妨害しようと、平気なのです。自分は逮捕されることはないと思っているのでしょう(ご主人様から見放されない限り)。あれだけ桜の会で自分が主犯で槍玉にあげられ、国会で炎上しているのに、呑気にゴルフしてヘラヘラしているのは、アメリカの要求を丸呑みし続ける限り、特捜は絶対に自分に手を出さないと思っているからでしょう。
自民党の総裁にもかつては自分の首と引き換えにハンドラーズの売国命令に抵抗した福田康夫みたいな人もいたのですけどね。

ジャパンハンドラーズは政治的には一枚岩ではなく、むしろ考えなしのトランプを嫌っている人も多いようです。アベにはそのへんの区別がついていないのではないでしょうか、アメリカ大統領の意向イコールCSISの意向だとでも思っているのではないでしょうか。だから、トランプに言われたことも無条件で飲む。今回のIRはトランプの大支持者である、ラスベガスカジノヤクザが日本を草刈り場にするために、トランプを通じてアベにやらせたことであり、CSISは無関係でしょう。しかし、アベは日本の庶民の金をバクチで吸い上げてラスベガスヤクザに回すのがアメリカの意向と考え、そこに手を伸ばしてきた中国ヤクザを潰そうとした。それが今回の逮捕劇の真相ではないでしょうか。アメリカが中国を強く警戒している中で、アメリカヤクザのためのIRなのに、カジノに参入したい中国企業から金を受け取った与党議員、彼らもちょっと頭を使えば、それがかなりマズいことであるのはすぐわかると思うのですけどね。

想像するに、CSISもちょっとアベのバカさ加減にサジを投げつつあるのではないかな、と思います。提言の中には対中国を考えて、日韓米の連帯を強めることが書かれてあったのに、アベは慰安婦問題その他で韓国と敵対する姿勢を見せました。トランプ支持者のカジノ利権などどうでもいいことを無理に強行採決しました。そして、どうせ逮捕されることはないから役得だと思って好き勝手に税金や法律を私物化し、それも愚かにも証拠丸出し、全てが稚拙であったものだから、さすがに国民に「人柄が信用できない」と言われ支持率が低下してきました。アメリカの傀儡政権である自民党の政権を維持したいCSISも、もう変えるしかないと思い出したに違いないと思います。アベの代わりが見つかったら、多分、今年にアベは辞めさせられることになるのではないか、と思います。多分、最初は、小泉ジュニアを、アベの代わりにすることを考えていたでしょうが、もうここまで中身がスカスカなのが露見してしまうと、無理でしょうね。

しかし、アベのできの悪さと長期政権のおかげで、日本の政治の異常さが露わになってきているのですから、この際、もうちょっと、徹底的に異常さを晒し続けて、問題の所在の根元をあぶりだす方が長期的には良いのではないかと思い始めています。

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型どおり

2020-01-03 | Weblog
明けましておめでとうございます。
無事に新年を迎えられて(めでたいと言うほどではないですけど)良かったと思います。

挨拶の文句は心がこもっていなくても、型どおりにしておくものですね。なんとなく型どおりの挨拶だけなのもつまらぬので、一言、「1年後も、こうしてご挨拶できることを祈っております」と付け加えたら、何か具合でも悪いのかと変な心配をかけてしまいました。

型どおりといえば、昔の大学病院の教授回診を思い出します。この権威主義的なセレモニーは、今から思うと、研修医以外のほとんどの関係者はバカバカしいと思っていただろうな、と想像するわけですが、イワシの頭も信心から、多少のプラシーボ効果も確かにありました。

当時の教授は、患者さんの病気が何であれ、聴診器を前後に4箇所ずつ当て、お腹をなぜて、背中をぽんぽんした後、なぜか最後に「よろしく、どうぞー」と言うのでした。最初は、それを聞くたび、一体何が「よろしく」で、何を「どうぞー」しているのか、と不審に思ったものでした。また、この言葉は患者さんに向けて発せられているように見えるのに、どうも患者さんとは微妙に視線があっていませんでした。

この「よろしく、どうぞー」を最初に聞いた時は、そのまま何のフォローもなく、次の患者さんに移ったので、きっと、全部言うのも時間がかかるから、あとは担当医に聞いて下さいね、ウインク、ウインク、てな感じで、長いコメントを省略したものだ、と解釈していたのですが、これが毎週、繰り返されるうちに、この言葉には、全く何の意味もないのだ、ということがわかりました。つまり、こんにちは、こんばんは、お大事に、なんかと同じような調子で、この東京出身の教授は「よろしく、どうぞー」と言っていたのです。これは関東ではよく使われる挨拶なのでしょうか?

聴診器を当ててお腹をなぜて背中をぽんぽんして「よろしく、どうぞー」というのは、問題に際して、アベが「私の責任において真摯に対処する」と言うのと同じで、その行為や言葉が本来、意味しているものは、すでに失われており、行為や発言そのものが目的と化しています。

患者さんも、「よろしく、どうぞー」に意味がないことは2巡目ぐらいでほぼ理解していただろうと想像します。しかし、教授回診で教授が発する言葉だから、それをありがたく押し頂いて頭を下げるものだと、型どおりに反応していたのでしょう。きっと「ハッパフミフミ」とか「ヘイヘイホー」と言われても、黙って頭を下げたことだろうと思います。

そう思うと、世の中の「型どおり」の物事がバカらしくなってきます。若い頃は、一旦、バカらしいと思うと、もうダメでした。通夜に言って「この度はご愁傷様です」というのが言えなくなったこともあります。遺族の人の悲しみを考えると、型通りの挨拶をするのが悪いような気がしたのです。その時は、正直に「何と言ってよいか、、、」と言葉をつまらせたら、察してもらえました。

しかし、年をとってきてから、許容性が増えたのか、邪魔くさくなったのか、型どおりのものに、いちいち反感を覚えることも減り、平和になりました。型どおりはラクです。頭を使う必要もなく、機械的にやれば良い。それで、世の中はそれなりに回っています。(それでも、許せないのは政府の答弁ですが。型通りのふざけた答弁がウソまみれですからね。)

それはともかく、型から外れるのはエネルギーがいりますし、出る釘は打たれる社会ですから、最近は、「よろしく、どうぞー」と言い続けた教授の気持ちが多少はわかるようになってきました。きっと、周りの人間同様、本人もバカらしいなあ、と思っていたことでしょう。ひょっとしたら、「お大事に」という型どおりの挨拶をするのがイヤでちょっとひねって、「よろしく、どうぞー」だったのかもしれません。何れにしてもバカらしいことに違いはないです。けれども、誰も、教授回診が型はずれであることを望まない以上、型通りにやるのが世の中をスムーズに回すにはベストだ、という極めて日本的思考がこのセレモニーを成り立たせていたのでしょう。

それでは、みなさま、今年も、よろしく、どうぞー。
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