週末、オバマが広島を訪れ、被爆者と言葉を交わしました。確かに歴史的な出来事です。
一方で、これは、消費税増税延期と同様、アベ自民党が選挙用のネタの一つとして利用するためにセットアップしたものであり、オバマにしても、核軍縮がかつて演説したようにはうまく進んでいないので、その言い訳のためのパフォーマンスをしただけだ、という冷めた見方もあります。現実を見れば、核兵器廃絶という理想郷は遥か彼方、火星よりも遠くに見えます。
一般市民が大勢で生活する市街地への原爆を投下したという行いは、誰がどう言い訳しようと、これは悪魔の仕業です。アメリカ人の中には、戦争を終結させるためにやむを得ない行為であったと、原爆投下を正当化しようとする人々がいまだに大勢います。それは、今となっては、この悪魔の行いを正当化するための詭弁であることは、彼ら自身も薄々は分かっているのです。原爆の威力を示すだけならば、わざわざ市民が住む市街地へ落として、市民を大量殺人する必要などないわけですから。これは人体実験でもあったわけです。原爆でどれぐらいの人間を殺せるのか、原爆を落とした後はどうなるのか、人間を実験動物として使うために、戦争終結という大義名分を持って行った行為です。思うに、これはヨーロッパ帝国主義時代から連綿と受け継がれた残虐な「ヨーロッパの心」、すなわち、自分たちの人種以外の人間は、下等動物であり利用される存在であるというメンタリティーに根ざしたものだったでしょう。それが彼らの常識であり、戦争中の日本人は、彼らにとっては人間である以前に、危険な害獣だという認識だったのではないでしょうか。それは、逆に、日本が米英を「鬼畜」と呼び、自分の国が神の国であり、神風が吹くと信じていたのと同様であったのかもしれません。
それから70年余りが経ち、世界がインターネットで繋がっている今、当時の常識は現代の非常識となりました。人間は、人種、民族、国家、性といった属性を超えて等しく尊い存在です。いまでは、日本が世界のほかの国よりも優れた神の国だというような選民思想を持つのは、宗教集団といってもよいぐらいの日本会議の面々や、ほかに誇るものを持たない右翼活動家ぐらいでしょうか。現代では、世界は一つ、人類はみな兄弟で、一つの家の中に住むもの同士でお互いを殺し合い、お互いの場所を破壊しあうのは愚の骨頂であると大多数の世界の市民は考えているはずです。お互いを尊重して仲良く遊びましょう、世界中の幼稚園でそう教えているでしょう。
核を持ちたいという願いは、恐怖と欲望の表れだと思います。力によって支配されたくないという恐怖と力で支配したという欲望です。そのいわば動物的で本能的な自己保存欲を、個人から社会、国から世界というレベルへ昇華していくことが、人類としての進化ということだと思います。
オバマは政治的な縛りがありますから、原爆投下の悪魔性について自己批判することはできません。しかし、横に立っていたアベ氏はともかく、いくら第二次大戦を実際に知らないオバマと言っても、おそらく原爆投下のアンチヒューマニズムは十分理解していたであろうと思います。だからこそ、チョムスキーやオリバーストーンらが来日前にオバマに望んだ通り、オバマは被爆者と接し、言葉を交わすことをしたのだろうと思います。
核なき世界への道はまだまだ険しく遠いです。しかし、これを一つのきっかけとして核廃絶という最終目標へ続いていって欲しいと心から願います。
好奇心と探求心というのは人間を人間たるものにしているもので、物事の理屈を明らかにしたり技術を開発したりする行いそのものは止めようがありません。核分裂の連鎖反応でエネルギーを作り出すことを発見したり、ゲノムDNAを弄ったりする技術を見つけたりすることそのものは、その人間の人間らしい行いゆえだと思います。しかし、どんな理由があれ、それを利用して他人を傷つけようとすることは悪魔の行いです。
他人の痛みを理解し、他人の立場になって物事を考えることができる、「想像力」こそが最大の抑止力だと思います。
原爆投下当日の広島を体験させてくれる映像。
一方で、これは、消費税増税延期と同様、アベ自民党が選挙用のネタの一つとして利用するためにセットアップしたものであり、オバマにしても、核軍縮がかつて演説したようにはうまく進んでいないので、その言い訳のためのパフォーマンスをしただけだ、という冷めた見方もあります。現実を見れば、核兵器廃絶という理想郷は遥か彼方、火星よりも遠くに見えます。
一般市民が大勢で生活する市街地への原爆を投下したという行いは、誰がどう言い訳しようと、これは悪魔の仕業です。アメリカ人の中には、戦争を終結させるためにやむを得ない行為であったと、原爆投下を正当化しようとする人々がいまだに大勢います。それは、今となっては、この悪魔の行いを正当化するための詭弁であることは、彼ら自身も薄々は分かっているのです。原爆の威力を示すだけならば、わざわざ市民が住む市街地へ落として、市民を大量殺人する必要などないわけですから。これは人体実験でもあったわけです。原爆でどれぐらいの人間を殺せるのか、原爆を落とした後はどうなるのか、人間を実験動物として使うために、戦争終結という大義名分を持って行った行為です。思うに、これはヨーロッパ帝国主義時代から連綿と受け継がれた残虐な「ヨーロッパの心」、すなわち、自分たちの人種以外の人間は、下等動物であり利用される存在であるというメンタリティーに根ざしたものだったでしょう。それが彼らの常識であり、戦争中の日本人は、彼らにとっては人間である以前に、危険な害獣だという認識だったのではないでしょうか。それは、逆に、日本が米英を「鬼畜」と呼び、自分の国が神の国であり、神風が吹くと信じていたのと同様であったのかもしれません。
それから70年余りが経ち、世界がインターネットで繋がっている今、当時の常識は現代の非常識となりました。人間は、人種、民族、国家、性といった属性を超えて等しく尊い存在です。いまでは、日本が世界のほかの国よりも優れた神の国だというような選民思想を持つのは、宗教集団といってもよいぐらいの日本会議の面々や、ほかに誇るものを持たない右翼活動家ぐらいでしょうか。現代では、世界は一つ、人類はみな兄弟で、一つの家の中に住むもの同士でお互いを殺し合い、お互いの場所を破壊しあうのは愚の骨頂であると大多数の世界の市民は考えているはずです。お互いを尊重して仲良く遊びましょう、世界中の幼稚園でそう教えているでしょう。
核を持ちたいという願いは、恐怖と欲望の表れだと思います。力によって支配されたくないという恐怖と力で支配したという欲望です。そのいわば動物的で本能的な自己保存欲を、個人から社会、国から世界というレベルへ昇華していくことが、人類としての進化ということだと思います。
オバマは政治的な縛りがありますから、原爆投下の悪魔性について自己批判することはできません。しかし、横に立っていたアベ氏はともかく、いくら第二次大戦を実際に知らないオバマと言っても、おそらく原爆投下のアンチヒューマニズムは十分理解していたであろうと思います。だからこそ、チョムスキーやオリバーストーンらが来日前にオバマに望んだ通り、オバマは被爆者と接し、言葉を交わすことをしたのだろうと思います。
核なき世界への道はまだまだ険しく遠いです。しかし、これを一つのきっかけとして核廃絶という最終目標へ続いていって欲しいと心から願います。
好奇心と探求心というのは人間を人間たるものにしているもので、物事の理屈を明らかにしたり技術を開発したりする行いそのものは止めようがありません。核分裂の連鎖反応でエネルギーを作り出すことを発見したり、ゲノムDNAを弄ったりする技術を見つけたりすることそのものは、その人間の人間らしい行いゆえだと思います。しかし、どんな理由があれ、それを利用して他人を傷つけようとすることは悪魔の行いです。
他人の痛みを理解し、他人の立場になって物事を考えることができる、「想像力」こそが最大の抑止力だと思います。
原爆投下当日の広島を体験させてくれる映像。