百醜千拙草

何とかやっています

コーンバーグの死去に因んで

2007-11-30 | 研究
ノーベル賞科学者、アーサーコーンバーグは、遺伝子工学の基礎となった種々の重要な発見をした近代DNA生化学の巨人でしたが、先月末に亡くなりました。その追悼文が、最近のCellにUC BerkeleyのRandy Schekmanにから寄せられています。彼は自分にとって最も重要なmentorとして、コーンバーグとそして少し先立って亡くなったDan Koshland(UC Berkeleyの生化学教授で、前Science誌のChief-Editor)を挙げています。コーンバーグの試験管の中でのDNAの合成、DNA polymeraseの発見 (この歴史的な発見を記述した論文はDNAをテンプレートとしてDNA PolymeraseがDNAを合成することを最初に示したのですが、当初、試験管で合成されたDNAが本当のDNAでないと最後まで疑ったJBCのエディターがアクセプトを拒否したそうです)を始めとする、遺伝子工学の先駆けとなった輝く業績は、ハードワークと基礎を大切にするコーンバーグスタイルの賜物であったと述べられています。最近のトランスレーショナルリサーチに重点を置く風潮を公然と非難し、基礎研究の重要性を喧伝したとあります。(応用研究ではなく)基礎研究が医学の実際的な発展に最も寄与してきているのは事実であって、基礎研究の進歩なしには医学は後退し魔術と同じレベルになってしまうと言ったそうです。私もトランスレーショナルが悪いとは言いませんが、限りある研究資金はまず必要な基礎研究の充足に使われるべきであると強く思います。基礎をおろそかにした応用とは砂上に楼閣を築くようなものです。
また、この追悼文では、ジムワトソンについて触れられています。(何かにつけ話題になる人ですね)ワトソンの「Double Helix」はゴシップ本であるとクリックも含む複数の人が批判しましたが、それとは別に、コーンバーグは、ワトソンが後進の若い研究者に「科学で成功するためには、素晴らしいアイデアが一つあればよいのだ」というような誤った印象を与えてしまったのではないかと危惧していたと書いてあります。基礎を重視し、ハードワークを信条としていたコーンバーグならではでしょう。確かにワトソン、クリックの二重螺旋構造は素晴らしいアイデアですが、ゼロから思いついたわけではなく、ロザリンドフランクリンやモーリスウィルキンスのDNA結晶解析のデータを知っていたからではないでしょうか。事実、クリックはロザリンドフランクリンを共著者にしようとしたそうですが、彼女の方が辞退し、彼女の論文は独立にBack-to-backで同号のNatureに掲載されることになったのでした。言ってみれば、ワトソンはおいしい所だけを盗んで、レビューもなしでNatureに論文が載り(エディターが、この論文のモデルが正しいのは自明であると言ってレビューなしでアクセプトしました。「自明」ならば科学の発見ではないのではないかと思うのですが)、そしてノーベル賞を貰い、ある意味、その一本だけで一生うまくやってきた訳ですから、確かに「よいアイデア一本で大成功できた」極めて稀な例で、arrogantになるのもわからないでもありません。フランクリンが癌で早世することがなければ、4人のノーベル賞は認められませんから、ワトソン、クリック、ウィルキンスが賞を貰う時期は誰かが死ぬまで遅れたはずで、ワトソンのトントン拍子も出だしでずっこけていたかも知れません。因に、コーンバーグの学者の血は受け継がれたようで、息子であるRoger Kornbergは2006年のノーベル化学賞を受けています。
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パロディー捏造論文

2007-11-27 | Weblog
ここ100年間での人口爆発と産業革命に起因する急激な地球環境の変化に対する人々の問題意識はここ数年ますます増大してきています。温暖化をはじめとする地球の環境の不可逆的な変化は、「人間の活動」が主たる原因であると考えられており、先進国では車や工場が主に化石燃料を燃焼させる事によって生じる二酸化炭素が、地球温暖化の主な原因であると信じられています。この100年間で大気中の二酸化炭素の量は約30%も増加したというデータがあります。植物は光合成によって空気中の二酸化炭素を光合成によって固形の有機化合物に変化させて空中の二酸化炭素を減らすことができますが、生命活動の維持にはこの有機炭素化合物を再び二酸化炭素と水へと還元することが必要となりますから、これらのアナボリズムとカタポリズムのバランスがうまくとれないと、空中の二酸化炭素量がすぐ上昇することになります。現在そうした二酸化炭素のシンクとなっているのが海底で、微生物により固化された二酸化炭素が海底深く沈んでいます。海の微生物の活動が空中の二酸化炭素の緩衝作用の大きな部分を担っているといってもよいと思います。ですから気球規模で海底微生物のバランスが崩れることは、地球温暖化にそうとうな影響を与えるであろうことは皆が危惧していることです。もちろん、人間の二酸化炭素をつくり出す様々な活動を抑制するというのが、諸悪の根源を断つための唯一の策なのですが、一旦、高エネルギー要求性の現代の便利なライフスタイルに慣れてしまった人類が、エネルギー活動を抑制するのは容易なことではありません。京都プロトコールは、二酸化炭素排出抑制に向けての最初の一歩だったのですが、プロトコールの目指した数字というのは、地球温暖化を食い止めるにはとても効果が期待できない程度の目標であった上に、アメリカなど地球温暖化を推進している産業国がそのプロトコールでさえ守ることができないと努力を放棄してしまいました。まもなく京都プロトコールが失効するにあたって、次世代の地球温暖化対策をどうするかで専門家は頭を悩ませています。地球温暖化は予測よりもずっと早いペースで進んでおり、遠くない将来、北極や南極の氷の融解による海面の上昇のため陸地の多くの場所が水没し、異常気候が惹起され、農作物に多大の影響を与え、食料危機を引き起こすであろうと予測されています。専門家は地球温暖化はすでに非常事態に突入していると考えており、京都プロトコール以上の厳しい目標を設定して遵守しない限り、地球は壊滅的打撃を受けることになると警告しています。
 にもかかわらず、未だに将来の地球よりも目先の問題にしか目が向かない人は多いわけで、地球温暖化対策の現在唯一の方法である脱産業化は、先進諸国での大多数の人々の生活に多大な影響があることは間違いなく、「人間の活動によって地球が温暖化している」という常識に反対しようとする人もいます。温暖化の抑制に向けての努力を小手先の技術でごまかそうと考える人も多く、それに対して、最近のNatureのコメント欄では、よく言われる喩えを用いて「タイタニック号の甲板の椅子を並べ替えているような場合ではない」と厳しく非難しています。
さて、地球温暖化に関して最近話題になっている、ある「論文」があります(ありました)。この The Journal of Geoclimatic Studiesという雑誌に掲載されたとする、「 Carbon dioxide production by benthic bacteria: the death of manmade global warming theory? 」というタイトルの「論文」は、空気中の二酸化炭素の上昇は、主に太平洋と大西洋の大陸棚の海底にすむ腐生真性細菌の増殖のせいであると述べてあります。海底微生物の活動が二酸化炭素濃度に影響を与えうるのは述べた通りですから、海底微生物のバランスが崩れると、急激な二酸化炭素の上昇がおこることは理屈上、考えられます。この論文は、アリゾナ大学のDaniel A. Kleinなる人物をはじめとするグループが執筆したことになっており、このジャーナルの出版局は、沖縄大学の気候学部でタナベヒロコなる人が責任者となっています。ところが、沖縄にある理系学部を持つ大学は琉球大学で、沖縄大学気候学部という学部はありませんし、調べてみるとアリゾナ大学にもDaniel Kleinなる教官はいないし、そもそも著者が属していたとされるDepartment of Climatologyという学部さえ存在しないということが分かり、この論文はでっちあげであることが明らかになりました。実はこのでっち上げ論文の意図は、「人間の活動」が地球温暖化の主原因であるという主張に反対している人々が、如何に科学的に無知であるかを証明するための実験であったと、自称、「本当の著者」のMark Coxなる人がScience誌にコンタクトしてきたそうです。そして実際に、このでっち上げ論文のニュースを掲載したイギリスのWeb siteを見て、いくつかの地球温暖化人災説に反対するWeb siteがこの論文を、(でっちあげであることを知らずに)取り上げたらしいです。(でっち上げであることがわかってから、消去されました)専門家によると、論文は一見あたかも本物のように見えるが、よく見ると基本的な内容に明らかな問題があるらしく、本当に反地球温暖化人災説者の人の知能テストであったのかも知れません。例えば、論文では、藻の繁殖によって、二酸化炭素を産出する細菌を餌とする Tetrarhynchia属の brachiopod molluscsに属する生物が減少したと述べられているのですが、実はbrachiopodとmolluscsは全く独立した動物門であるそうです。(最近の捏造科学論文の出来具合をみると、やる気ならば専門家にも分からないほどのウソをつくのは難しい事ではないのですから、わざと誤りを導入してあるようにも見えるそうです)
 「科学」という世の中を理解するための方法が唯一最上であるとは思いませんが、万人にとって科学よりも良いと思われる体系が現時点でない以上、科学的根拠をもって議論をすべきであるのは当然です。勿論、それを必ずしも信じる必要はありません。その科学的根拠というものが、実は結構危うい土台に立っているのだということを認識させられたのが、一連の論文捏造事件やこういったパロディー論文だと思います。ガリレオの時代の科学の常識と現代の常識は異なりますし、解釈するのは人間ですから、科学研究の結論が必ずしも一致するというものでもありません。しかし「悪法も法」の喩えのように、「科学的根拠をもって議論する」というルールで話し合いが行われる現代では、科学的でありさえすれば、良い科学も悪い科学も同様の価値を持ち得ます。それを悪用しようとするのは、それほど難しいことではないのです。今回の事件で私は、科学の危うさを再認識したような気になりました。
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私見、iPSの意義とその可能性

2007-11-23 | 研究
ヒトの線維芽細胞に4つの遺伝子を導入して、ES細胞様に変化させることに成功したというニュースがアメリカの全国ネットのトップストーリーで紹介されました。もちろん、これは昨年、京大の山中グループがマウスで初めて体細胞からES様細胞(iPS)を直接作製することに成功したという報告の続編です。この衝撃のマウスiPS細胞の報告は、複数のステムセル研究でのトップラボが追試を行って確認されました。人々の期待はこれがヒトでも可能となり、将来のステムセルを使った再生医療への大きなブレークスルーになるのではないか、という点にありました。ヒトのステムセルを用いた研究が困難な日本と別にアメリカにも研究室を構えた山中グループもヒトiPSの作成を目指していましたし、当然のことながらヒトES細胞の研究で世界トップを走るウィスコンシン大学が、このiPS細胞を指を加えて見ているわけがありません。今回のヒトiPS細胞作成は、この山中グループとウィスコンシン大学のニグループが成功させたのですが、アメリカのニュースでは当然ながら「ウィスコンシン大学が成功した」ことに重点がおかれていて、山中グループは、日本のグループも成功したと触れたにとどまりました。山中グループがiPSの本家なのだから、もうちょっとクレジットあげてもいいのになあ、と心の中で思いました。ナショナルニュースのヘッドラインになったのは、もちろん主に一般人が期待している、ステムセルによる再生医療への実現が現実性を帯びてきたからです。iPSが実用化されると、ヒトの胎児を犠牲にして確立しなければならないESに比べて、倫理的問題や移植に関しておこるであろう拒絶の問題などの困難な問題が一気に解決する可能性があります。しかし、冷静に臨床応用がどれほど現実的か考えてみると、私は現時点では難しいのではないかと思わざるを得ません。技術的にそうしたiPS細胞を再分化させて、目的の細胞に変化させることも、これまでのESでの研究を見ていても現時点では容易ではないでしょう。レンチウイルスでゲノムに組み込まれてしまったこれら4つの遺伝子を何らかの方法で不活性化しないと、うまく分化しないかもしれません。そして、仮にそれがクリアできた場合でも、臨床応用にあたっての最大の懸念は「癌化」の可能性ではないかと思います。このことはヒトES研究者が(自分の研究を守るために?) iPSを攻撃するときに必ず口にすることです。実際、山中グループでは、癌遺伝子のmycを使っていますし、そうしてできたマウスiPSでキメラを作ると癌ができてきます。ウィスコンシン大学はmycを使っていませんから、ひょっとしたら癌化の問題は使う遺伝子群をうまくかえてやることで、クリアできるかもしれません。しかし、ESやiPSが持つ増殖能がステムセルであるための必須な機能なのであれば、増殖の問題、即ち癌化の問題は解決できないかもしれません。考えてみれば、生殖可能になるまで20年近くの年月が必要なヒトでは、癌は免疫についで最大の問題と言ってよいと思います。子孫を残し育て終えるまではそう簡単に癌で死ぬわけにはいきません。細胞レベルでの癌抑制のメカニズムを見てみると、ヒトやマウスの細胞は、相当な犠牲を払って、癌化抑制を行っています。私は個人的には、癌と老化とステムセルというのは、殆ど同じものを違った角度から見ているのだと考えています。細胞レベルでの老化というのは、癌化抑制のメカニズムに他なりません。そして個体レベルでの老化や癌というものは、ステムセルの老化そして癌化であると単純化することがおそらく可能であろうと思っています。癌化には、二つの重要な癌抑制系、Rb経路とp53経路の双方が抑制されることが必要であると考えられています。P53の抑制は多くの場合はp53遺伝子そのもののgeneticまたはepigeneticな変異によることになりますが、Rb経路に関しては、その上流の制御因子の異常でもRbの機能は影響を受けますから、ランダムに体細胞ゲノムに変異がおこるとすれば、Rb経路が障害される可能性はそれなりに高いと思われます。Rb経路は細胞が増殖し始める前の安全確認のための機構であり、p53は異常な増殖を止めるためのいわば非常ブレーキですから、単純にいえばいずれも細胞増殖を抑える機構です。そしてこうした癌抑制遺伝子の機能欠失をステムセルに導入してやると、ステムセルは明らかに正常のステムセルよりも、ハイパフォーマンスを示します。また個体レベルでも、例えばp53欠損の骨は骨の密度も骨形成も正常コントロールよりも良いです。これは、結局、細胞レベルでの「老化」、すなわち代謝活性を保持はしているが細胞増殖が永久に停止した状態、というものは、細胞障害性刺激(主にミトコンドリアでのエネルギー代謝の副産物としてできる活性酸素)がDNAや蛋白を傷害した時に、癌抑制系である主にP53系そしてRb系が活性化されて、癌化を防ごうとすることによっておこってくる、いわば「副作用」であるという考えを支持します。老化の細胞マーカーとして使われるINK4a/p16は加齢により発現が増えますが、これはRb系の癌抑制遺伝子です。p16ノックアウトマウスは複数の臓器で再生能力というか、老化による機能低下が抑えられるのですが、生後1年ぐらいから癌でバタバタと死んでいきます。つまり普通のマウスが老化で死んでいくころには、p16マウスは皆、癌で死に絶えているということなのです。このことからも、ステムセルの老化を抑制し再生能を高めるということは、癌化抑制という観点からはマイナスであると考えられます。自然は、「癌で死ぬよりは体の種々の臓器の機能が加齢で衰えていくほうがまし」という選択をしているというように思われます。さて、話をもとにもどして、iPSですが、こういう理由で、癌化の問題は、臨床応用に向けてのおそらく最大の障害であって、私の直感ではそれを乗り越えるのは易しくないと思われるのです。ある種の妥協は可能かもしれません。例えば、癌化した場合にいつでもiPS由来の細胞を殺せるように、薬剤誘導性の自殺遺伝子、例えばthymidine kinaseなど、を入れておくとかの安全対策を講じることで、限られた目的には使えるかもしれません。
基礎研究の立場からは、ヒトiPSよりは最初のマウスiPSのほうがはるかにインパクトが高いと思います。もちろんヒトESはマウスESとは培養条件や性質が随分違いますし、ヒトiPSとマウスiPSでもいろいろ異なるでしょうから、マウスをそのままヒトに移したら自動的にできたというものではないでしょう。私はマウスiPSの論文には非常に感心しました。なぜなら、これは従来の細胞分化という現象に関して皆が持っていたパラダイムを大幅に変換したからです。ターミナルに分化した細胞にたかだか4つの遺伝子を導入するだけで、低効率ながらも未分化な状態へ戻すことができるという発見は、分化に関しておこってくると思われる主にエピジェネティックな変化というものが、転写因子の導入だけで「消去」または「上書き」可能であるという驚くべき細胞の可塑性を示唆しています。(ただし、低効率ですから、あるいは極少数、体細胞に交じっている本来脱分化可能な、または未分化状態を維持しているような特殊な細胞だけに効いているという可能性も否定できないのではとは思います)とはいえ、この発見が今後の細胞分化研究に及ぼしていく影響は非常に大きいと思うのです。この観点からもステムセル研究におけるマウスiPSの報告はドリーのクローニングと並ぶ10年に一つの大発見であろうと思います。更に、今後、もしこのヒトiPSが安全に臨床応用された場合には(上に述べたように、ちょっとこれは難しいのではと現時点では私は思っているのですが)、ノーベル賞は間違いないでしょう。
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仕切り直し

2007-11-20 | Weblog
久しぶりに日曜日は仕事のことを考えずに過ごしました。仕事が好調の時は、週末も働きたいと思うのですが、先週末にここ2ヶ月ばかりやっていたウイルス実験がどうも根本的な誤りがあって動いていないということが判明し、すっかりめげてしまいました。「まさか、そんなことは起こるわけがない」というような所でいつもやられてしまうのが、私の弱点なのです。ウイルスをいじり出したのは、マウスだと締め切りに間に合わないからという必然性のない理由で、これまで組み替えウイルスを作ったことも無く、in vitroでの実験も余り得意ではなかったのに、つい手を出してしまったのでした。アデノとレトロの組み換えウイルスを作るところまではそれほど苦労はなかったのですが、肝心の遺伝子(今回は蛋白ではなく、microRNAを発現させようとしていました)が、感染後もどういうわけか目的のものが期待したレベル程発現しないということがはっきりしたのでした。コンストラクトから組みなおしとなりそうで、ちょっとがっくりしています。コンストラクトのレベルで明らかな誤りはないようなので、それが発現しないなどとは「まさかおこるまい」と思っていたのが甘かったのでした。それに加えて、感染そのものや感染時に使う薬剤などによる非特異的な反応にさんざん悩まされていて、そこに注意が向いてしまっていて、足元をすくわれた感があります。研究は一人でやっていると、どうしても穴がでてきます。なかなか客観的に実験を見直して、正しい判断を適切に行っていくことが難しいと思います。そのために遠回りしてしまうのですね。最近はそうした穴を少なくするため、multiple choice の判断に迷った時は、できる限り全部やる方針にしています。以前は、判断に迷った時は、無理に判断しないでリストにして目のつくところに張っておくことにしていました。これを私は「エポケーリスト」と呼んでいて、これは良いアイデアだと思っていたのですが、放っておくとどんどんエポケーが増えていって、結局、目の付く所に張っておきながら、意識下では、その存在を全く無視してしまうということがおこることに気がつきました。そしてそのリストを意識的に眺めてみると、結局、判断を保留したものは、いつまでたっても保留状態のままで何一つ解決しておらず、そのリストから消せるものは、自分の興味が失せたものだけであることがわかり、これを実践するのは止めました。「判断は誤っていてもしないよりはした方がよい」というのが、いつでも誤りは正すことができる研究で私が学んだ教訓です。
というわけで、日曜日は仕切りなおしのために意図的に休むことにしました。ちょうど子供のサッカートーナメントがありました。普段はタウンリーグでプレーしているのですが、最近インタータウンに移ったコーチの厚意で特別に今回のトーナメントメンバーに入れてもらい、幸運にも2ゴールを決めて、本人は鼻高々、見ていた私たちに、自慢できてうれしかったようです。寒かったですが、楽しくすごせてよかったです。また今週から頭の痛い実験のトラブルシュートに戻ります。
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感動を生む根性もの研究

2007-11-16 | 研究
最近のNatureに濱田博司先生のグループの論文が出ていて、フロントページでカバーされているのを見ました。心血管の発生において、最初は左右対称に血管が発達するのですが、発生が進むにつれて右側の血管は退縮し、最後は左側由来の大動脈一本となります。論文はこの大血管の非対称性が生じてくる過程でどれぐらいが遺伝的プログラムによってに決まり、どれぐらいが非遺伝的なもの(今回は血行動態)に影響されるかという疑問に答えようとしたものです。最初どこの研究室から出たものか知らずにフロントページでの記事を読んでいたら、血行動態を人為的に変化させるために胎生11日のマウスの左側の血管を結索するという実験をしたと書いてあったので、びっくりして論文を見てみると濱田先生のグループだったのでした。胎生11日のマウスの胎児はおそらく全長は6-7 mmといったところでしょうから、心臓の大きさはおそらく0.5mm未満、結索した血管は、それを見つけるだけでも非常に大変なほど小さいと思います。論文の写真をみると、確かに極細の糸を使って結索されていますので、これは余程、手先の器用な人が練習を繰り返して行った実験ではないかと想像します。普通ならマウスの11日の胎児に手術をするなどという発想さえ出て来ないと思います。こういう実験を見ると私は単純に「感動」してしまいます。
 これまで、濱田先生の話を直接聞いたのは、2-3回だろうと思います。最初に聞いたのはleftyをクローニングした頃ですから、15年ほどは前だろうと思います。左右非対称がおこってくるメカニズムをマウスで研究するというのが濱田先生の主なテーマで、leftyは発生初期に左側のみに発現している遺伝子としてsubtraction hybridizationでクローニングされました。当時、私もsubtraction hybridization やdifferential hybridizationでのクローニングをやっていたので、この手の仕事で当たりを引くのがどれほど困難かはわかっていたつもりでした。この手法は1987年に筋肉への分化を促進する遺伝子のMyoDのクローニングで一躍有名になり、私もそれに乗せられてやっていたのでした。クローニングに限らず、当たりを引かない限り論文になりませんから、論文にはどれぐらいはずれを引いたのかは書いてありません。私は百個余りを拾って苦労してスクリーニングして全部はずれたときに「やってられない」という気分になったことがあります。当時はマイクロアレイもreal time PCRもない時代ですから、スクリーニングはサザンとノザンでやり、シークエンスは一つ一つ放射性同位元素とシクエネースを使ってゲルを流し一週間かかって500塩基読めるかどうかという時代でした。(現在、MPSSで一晩で一億塩基を読むとかという話からすると旧石器時代のようです)とにかく、subtraction hybridizationなどによるクローニングというのは、「当てもん」みたいなものだったのです。濱田先生のleftyのクローニングの話を聞いたのは先生が阪大に移られた頃で、セミナーではsubtraction hybridizationで数千個のクローンをスクリーニングしたとさらりと述べられ、「左により多く出ている遺伝子で、まず拾えていないクローンはないです」と断言されたのを聞いて、私はぶっ飛びました。私に限らず、この手のクローニングの仕事はfishingと言われて、「当てもん」仕事であると皆思っていたと思います。つまり、いくつあるかわからない 沢山の遺伝子の中からたまたまエサに喰いついた魚をつり上げるような実験なのです。ですからこの手の実験では水面下にどのような魚がどれだけいるとか、目的としている魚が何割いるとか、そうした情報は余り得られないのが通常です。そもそも目的でない魚はどうでもよいという実験なのです。にも関わらず「拾えてないクローンはない」と言えるということは、水面下の魚の情報についてどうでもよい魚も含めて、かなり正確に把握できているということを示しているのだと思います。それだけの情報をクローニング実験から得るには、相当数の数の実験をやったということなのです。こうしたエピソードに限らず、濱田先生の研究には、「感動」を呼ぶものがあります。数年前のNatureの論文にも私は感動しました。胎児期に左右非対称が最初にヘンゼン節でおこってくるときのメカニズムは、一方向性に旋回運動する繊毛がミクロの水流をつくり出し、未同定のモルフォジェンを左側に押し流すからだと考えられていました。これは例えばKartagener症候群のような内蔵左右逆転を起こす疾患で繊毛機能の異常があるなどの主に遺伝的証拠によって支えられていた仮説でした。この「ミクロ水流説」を直接証明しようとしたのがそのNatureの論文で、胎生初期のマウスの胎児を小さな水流発生装置に固定して、人工的にミクロの水流をかく乱することで、正常の左右非対称の発達が阻害されることを示したのでした。アイデアは誰でも多かれ少なかれおもいつくものだと思います。でも実際にヘンゼン節のミクロの水流をどうやって操作すればよいかという問題に当たった時に、「常識的に」そんな実験ができるわけがないとあきらめてしまうのだろうと思うのです。普通の人なら、数ミリしかない小さなマウスの胎児を生きたまま固定し、人工的に水流を与えることなど、不可能だと思ってしまうでしょう。しかし、そこはクローニング実験で「拾い残しはない」と断言できるような濱田先生ですから、文字通りに、小さなマウス胎児を人工水流装置に固定してヘンゼン節のミクロ水流を操作するという実験を成功させてしまったのでした。今回のマウスの血管結索実験にしても、大人のマウスやラットなら皆やっていることで、実験そのものは思いつく人は多数あったのではないかと思います。しかし、相手は体長数ミリの胎児のマウスであって、普通の人はそんなマウスの胎児の血管を外科的に操作することなどにできるわけがないと考えていると思います。そんな皆が考えている「常識」など知ったことかと、真っすぐに疑問に挑戦して研究成果を出してしまうところが、「巨人の星」とかの根性ものを見て育った私たちの世代に感動を与えるのかも知れません。次の作品ではどのような感動を与えてくれるか、楽しみです。
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研究者の生活

2007-11-13 | 研究
この間、どうして自分の人生は苦しいことが多いのかと周囲の人の生活を見ながら思っていました。私の周囲には、週に5日働いて、週末は家族と楽しんで、年に1-2回は長期の休みをとってゆったりし、それなりの家に住んで、仕事以外の趣味も持っている、そんな人が沢山います。私と言えば、仕事以外の趣味に費やす時間も、週末に家族で楽しむ時間も余りないし、経済的にも苦しいし、将来というか、二年後でさえ、この仕事をずっと続けていける保証は全く無いという状況で、自分は良いとしても家族に対しては気の毒に感じます。それでも、研究者の標準からすると、中流なのだと思います。しかし、社会に出て給料を貰うようになってからの自分のやってきたことを考えると、私はこれまで、殆ど「誰かのために」働いた事がないということに気づきました。社会の経済活動の基本は、誰か、つまり雇い主とか、お客さんとかにサービスを提供し、そのかわりに金銭を受け取る交換だと思います。英語ではそうして得る金銭をcompensationと言いますから、多くの場合、給料は自分の時間なり労働を「誰かのために」犠牲にすることに対する埋め合わせであると考えられていると思います。しかるに、研究者は、企業なり誰かに使われている場合は除いて、基本的には、特定の「誰かのために」働いているわけではなく、強いて言えば、「科学の発展とひょっとしたらそれで将来得する誰か」という不特定のいるかどうかわからない相手のため、そして自分自身のために働いていると言ってよいのではと思います。そういう観点からすると、自分が受け取っている金銭がcompensationと言われると違和感を感じるのも不思議ではありません。大学教官であれば、学生を教育することに対するcompensationが支払われるのは当然だと思いますし、医者兼研究者であれば、患者さんを診療するという行為に対してcompensationがあって然るべきです。しかし私は大学教官とは言え、教育義務はほとんどゼロですし、診療行為もしていませんから、現在私が受け取っている金銭を、compensationという概念からはとても正当化できないのです。振り返ってみれば、研修医時代は、診療行為に対する報酬を受け取ってはいましたが、やはり自分が医師としての技術を身につけていくトレーニング期間であったので、「患者さんのために」というよりはやはり自分のために働いていました。大学院時代の病院のアルバイトは、病院の業務を補助するという面も確かにありましたが、それは授業料と生活費を供給してくれたもので、ここでも誰かのために働いたという気持ちはありません。研究者となってからはますます「誰かのために」働くという意識が無くなりました。指導者のプロジェクトで給料をもらって働く場合は、もちろんその人のために働いているわけですが、論文になった場合のクレジットは山分けするわけですし、自分のプロジェクトで働いている場合は、自分以外の誰のためにも働いているという気持ちは持てません。それでも、何らかの面白い発見をして、コミュニティーの人の役に立てばよいとは考えてはいますが、別段その人たちから頼まれて、研究しているわけではありませんし、自分が面白いと思っていることをやっているだけです。もちろん、税金が給料のソースですから、研究者が研究を通じて社会に貢献してくれることを納税者やその研究資金を配分する政府基金は期待しているわけですが、役に立つ研究をしろと言われてそんなものができるぐらいなら苦労はないわけで、結局は、いろいろ考えていろんなことをいろいろやってみるなかからごく稀に実際に役立つものが産まれてくることもあるというのが実際です。ですから、研究者の中でおそらく社会や納税者にサービスしているという意識を持ってやっている人は極めて少ないと思います。(殆どの研究者が役に立つ研究をしたいとは考えていると思います。そんな中で、実際に、自分の日々の仕事が社会の役に立っていて、納税者にサービスしているのだと思える研究者は極めて少数であろうと思います。本気でそう思っているのなら勘違いしているのだろうと私は思います。)以前にも言ったかもしれませんが、とある有名科学者の言の如く、「研究も性行為も通常は欲求により追求され、結果を常に期待するものではないが、ときたま良いものが産まれることがある」、研究とはそのような性質のものだと思います。そう考えると、研究者は、画家とか音楽家とか小説家と似ています。彼らも好きなことを一生懸命することで、良い作品を生み、人々に楽しみを与えて、社会に貢献しているのです。彼らの多くが不安定な生活と引き換えにその活動を維持しているのを考えると、研究者も同じ様であっても不思議はないです。新発見をするためにいろいろ工夫して努力するのは、ピアニストが毎日何時間も練習するのと同じではないかと思います。論文は芸術作品みたいなものだと私は常々考えています。(いずれにおいても良いものは人に感動を与えますし、また盗作したり、でっちあげたりするのが、いずれにおいても最も悪い事です)
と、芸術家を気取ってみても、喰っていくのが先決ですから、この調子でどこまでいけるのか不安にかられない日はありません。周りの普通に会社で働いている人々を見ていると、自分がまともでない人のように思えてくることもあります。でもきっと私の性格では会社勤めすると、鬱になってしまいそうですから、これで良かったのかも知れません。与えられた機会の中で最善を尽くすのみと割り切って毎日なんとかやってます。
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悪代官と越後屋

2007-11-09 | Weblog
昔、政商という言葉がありました。明治時代の三菱財閥とか、政治家を使って経済活動を有利にする企業とか事業者とかのことですが、今は余り聞かなくなりました。私利私欲のために政治家を利用するという場合を指すことが多いですが、必ずしも自分の企業のためというわけではなく、より高い理想を実現するために政治家に働きかける場合もありました。例えば、大正期の神戸の鈴木商店の場合は、アメリカが日本への鉄の輸出を差し止めた時、日本の工業立国を目指していた鈴木商店番頭の金子直吉は、積極的に政治家に働きかけ、最後には自らアメリカ大使と交渉し、鉄の供給を受けるかわりに、それを用いて造った船舶の多くをアメリカに専売するという船鉄交換を申し出て、アメリカの鉄輸出の差し止めを撤回させました。無論、これは鈴木商店のみならず、日本の工業界にとって大きな成果でした。直吉自身はどうも自分自身や(あるいは鈴木商店の)利益のためというよりは、むしろ日本のためと本気で考えていたような節もあります。
しかし、一般に政商というと悪代官と越後屋が小判を敷き詰めた菓子折りを前にして、「お前も悪じゃのう、ひひひひ」とインビな笑いを漏らしている像が目に浮かんできます。政商という言葉が無くなったからといって、そうした者がいなくなったわけではないのは勿論でしょう。そのことを改めて知らされたのが、今回の小沢一郎と福田首相の密室会談とその後の辞任さわぎでした。読売新聞の渡邊会長と自民の森元首相が今回の連立構想の脚本を書いていたという話が明らかになり、この不可思議な小沢一郎の辞任騒ぎとその翻意がなんとなく理解できたような気がしました。以前からマスコミの持つ力は大きいです。ペンは剣よりも強しですから、マスコミが社会の木鐸であれば理想なのですが、残念な事にその強大な力は多くの場合は、誰かに都合の良いプロパガンダを流すために歪んで使われています。今回の事件はまさに典型的な例でしょう。渡邊会長自ら、自民-民主連立にむけての社説を自社の新聞に書き、さらに裏では元首相と相談して、福田、小沢の密室会談を演出し、自民党の政権維持、即ち経団連の利益を維持しようと画策したというのですから呆れます。マスコミにいて報道を生業とする大企業の長であるなら、できるだけ中立で清廉な態度であって欲しいものです。それが特定の政党と強く絡み付いていて、自ら政治にクビをつっこんで社会を操ろうとしているというのは、特にマスコミが社会に大きな影響力を持っている以上、非常に汚らしく映ります。そう言えば、鈴木商店崩壊のきっかけになったのも、大阪朝日新聞が悪意あるガセネタをばらまいたからでした。そうしたことが原因で多数の人が被害を被ってもマスコミは全く無責任なのです。人ごとだと思っているのです。無責任な記事を出版して社会を混乱させた場合に、責任をとったマスコミの人というのを見た事がありません。
悪代官の森元首相と越後屋(経団連)の番頭(?)渡邊会長という図、醜悪です。これを機会に、小沢一郎にはもうちょっとクリーンな政治を推進してもらいたいと思います。(少なくとも自民党よりは経団連との癒着はなさそうですし)
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脳を掻いた話

2007-11-06 | Weblog
しばらく前のScience誌に、掻痒が原因となった驚くべき症例が紹介されています。本人の写真とCTの写真が載っているので、嘘だろうとは思いませんが、信じ難い話です。
様々な理由による慢性の掻痒症は非常によく見られる病態で、2006のLanset infectious Diseasesの研究によると、世界中で約3億人が疥癬症に悩まされているそうです。3000万人のアメリカ人が、湿疹などの炎症性皮膚疾患による慢性掻痒症を持っており、透析患者の42%に掻痒症があるそうです。おそらく人類の十人に一人以上は慢性のかゆみの症状を多少なりとも持っているのではないかと推定されます。
さて、その信じがたい症例というのは、当時38歳の女性で、帯状疱疹の発作が始まりでした。抗ウイルス薬で帯状疱疹による痛みは警戒したのですが、その後に絶え間ないかゆみが残ったそうです。私も扁平苔癬が出ると掻かずには我慢できない強いかゆみが出るので、絶え間ないかゆみがどれほど辛いか理解できます。彼女は掻いてはいけないとは理性では十分理解しており掻かない最大限の努力をしたのですが、かゆみに耐えきれず、顔面と頭部の帯状疱疹痕を13か月に渡って、掻き続けたらしいです。帯状疱疹による神経損傷のため、彼女はどうもかゆみはわかっても痛みはわからなかったようで、掻いて掻いて掻きつづけた挙げ句に、皮膚を破り、頭蓋骨を掻き破り、前頭葉まで掻いて損傷させてしまったということでした。どうやったら頭蓋骨を掻き破れるのかちょっと理解困難です。物理的にこの固い組織を掻き破るには指とか爪とかではとても無理でしょうから何か固いものを使ってひたすら掻き続けたのでしょうか。不謹慎ながら菊池寛の「恩讐の彼方に」を思い出してしまいました。因に、掲載されているCT写真では右前頭部にかなり大きな骨の欠損があり、脳には、前頭葉から側頭葉にかけて、欠損部の後方の頭蓋骨の沿ったレンズ型の低シグナルの領域があります。Mass effectは ないようで、この部分はどうも脳細胞が死んでしまって、液体状のもので置換されたみたいに見えます。想像するに、物理的な掻爬力のみによって頭蓋骨に穴があいたとは考え難いので、掻爬による慢性刺激により炎症が惹起され、炎症性サイトカインを通じた破骨細胞活性化による骨吸収が亢進したことが主な原因ではないかと私は考えているのですが、それにしても救急室で頭の傷から脳組織が出ているのを見た救急担当の人はびっくりしたでしょうね。いずれにせよ、一年余りの間、掻き続けることは頭蓋骨さえ貫通させる威力があると思うと、継続は力なりとか雨だれ石を穿つとかいう格言を思い出させます。
 因にこの症例は、9月に第四回、国際掻痒研究ワークショップで発表されたそうです。
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Avoid White Bigots: Lessons never Learned

2007-11-02 | Weblog
先々週のノーベル賞科学者、ジムワトソンの失言が話題になっています。「アフリカの将来が暗いのは、われわれの社会政策が、彼ら(アフリカ人)の知能レベルが我々と同等であるという事実に基づいているからでであるが、実際のところの調査ではその事実というのは必ずしも正しくない」と語ったらしいです。ワトソンは昔からこの手の人種差別的、男女差別的発言を何度かやっている問題児なのですが、コールドスプリングハーバーは、今回の事件を重くみて、ワトソンを停職処分に処す予定とのことです。そもそもこの発言は新作の本のイギリスでのツアーの直前のインタビューでなされたもので、このためツアーは急遽キャンセルとなりました。新作のタイトルは「Avoid Boring People: And Other Lessons from a Life in Science 」で、各章には、(自分が?学んだ)マナーを中心に構成されているようです。今回の失言事件の直前にNatureに発表されたHuntington Willardによるこの本の書評は、「Honest Jim talks manners」と題されています。クリックが「科学の歴史をゴシップにした」と非難したワトソンの以前の本、「The Double Helix」は、当初は「Honest Jim」というタイトルになる予定であったことから、こういうタイトルになったのでしょう。「マナーを語る」と評された本の出版記念ツアーが、とんでもない失言のために中止になったのですからちょっと恥ずかしい話です。この書評には、ちょっと面白いことが書いてあります。ワトソンはハーバードの科学研究には非常に批判的であったのですが、前ハーバード学長のサマーズに対しては同情の念を寄せていたとあります。サマーズは数年前の「ハーバードで女性教授が少ないのは女性と男性で遺伝的に違うからではないか(つまり、女は生まれつき頭が良くないとの意)」という大失言がもとになって、ハーバード学長を蹴り落とされました。因みにハーバードの現学長はDrew Faustという女性です。ついでに自然科学ではハーバード以上の名門、MITの現学長もSusan Hockfieldという女性です。要するに、サマーズは男と女の頭の構造は遺伝的に違い、だから頭のできも違うのだと考えており、ワトソンもその説を信じているということなのです。私も男と女では持っている遺伝子のセットがそもそも違うのだから違いがあってもおかしくないと思いますが、サマーズにしろワトソンにしろ、「違う」ということを「善し悪し」や「優劣」と直接つなげる様な発言をするから問題になるのだと思います。彼らが「違う」ことと「優劣」を並べて発言するとマズいことになるとわかってない筈がありません。にも関わらずやってしまうのは、心の中では、「男は女よりも賢い」とか、「白人は黒人よりも頭がよい」とかいうことを本当に信じているからに他ならないと思います。私もしばらく前まで、日本人が一番賢いと信じていましたが、バカな日本人や賢い白人やその他のアジア人に多数会った経験から、人種や性別による差よりも個人差の方が遥かに大きいことを学びました。ともあれ、「マナーを語り、自然科学から学んだレッスン」について書かれたこの本の著者が、このような馬鹿げた失言をするというのは「何だかなー」というか、「三つ子の魂百まで」(因にワトソンは79歳だそうです)という感じです。ひょっとしたら人種偏見者や差別者は、遺伝的要因で決まるのかも知れません。アメリカの自然科学界でこれほどまでに力を持っていた人が、人間的には尊敬できない人種、性差別者であるとしたら悲しい限りです。 アメリカ科学者連合の会長、ヘンリーケリーは、「ワトソンは、最悪の方法で、私たち科学者を失望させてくれた」と強い調子で非難しています。現代生命科学でのアイコンともいえる科学者が、科学的根拠のないしかも悪意のある偏見を公の場で口にしたのですから、遺伝学および近代生命科学に対する世間の信頼を損なったと思われてもしかたありません。若くしてノーベル賞を貰ってしまい、祭り上げられてしまったので、人間として成熟するヒマがなかったのかも知れません。79歳の老人が書く本のタイトルが「Avoid boring people」であるというあたりからして、この人の精神年齢も計り知れようというものですが。新著の最終章には、是非とも今回のバッシングで彼が学んだ(かもしれない)レッスンを追加してもらいたいものです。
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