先週末、家でぼんやりしていると、キリスト教系宗教団体の勧誘員の人がやってきました。モルモン教はこれまでも何度か訪問がありましたが、この団体は初めてでした。宗教をどう思うかと最初に聞いて来たので、宗教は人間をコントロールするために利用されてきた、と言ってみました。すると、それは本来の宗教の目的ではない、われわれが望むのは人類の平和的繁栄だ、というようなことを言いました。ま、その通りです。私は、人間の理解や限界を越えた「神さま」みたいなものは信じておく方が人は幸せになれると思っております。私も「神さま」みたいなものは信じております。しかし、それと、宗教団体に属して活動するというのは別ものです。私の「神さま」は、ごく個人的なもので、アイドルスターではないし、同好の志と集って神さまの話で盛り上がりたいという気持ちもありませんので、宗教団体に入って活動したいとか思ったことはありません。
その勧誘の人は、聖書には良い事が書いてあるからそれを広めたい、とか言うような話をして、例えば、イザヤ書のここには、武器を壊して農具に変える、というような記載がある、とその部分を開けて見せて、「われわれは世界の平和を強く願い、このように平和が実現することを信じており、その実現に向けてこうして活動をしている」というようなことを言ったのでした。その趣旨にはケチのつけようはありません。私も、この人々と同じように、人々が信頼しあって平和に暮らせる社会が実現すれば素晴らしいと思っております。ただ、歴史を振り返って、そして現在でも周囲を見渡してみると、そうやって目的を真っ直ぐに目指してやって、平和を達成することは難しいだろうと思わざるを得ません。というより、私は実はこの世の中はわざと住みにくくできていて、障害物競走のフィールドのように設定してあるのだろうと私は思っております。人間は、それぞれのやりかたでこの障害を乗り越えていくようにできているのだろうと思います。宗教を通じて人々の意識を向上させたい、というのも一法でであると思います。一方、もしもわざわざ障害物競走のフィールドのように世の中が設定されているのなら、いわば、障害物競走のフィールドをならしてトラック競技場に変えること良いことなのかとも思います。また、私は、悪がなければ善もないと思っていますし、戦争がなければ平和もないと思います。平和を実現しようとする努力は大切だと思いますが、それによって本当に平和が実現されることはないと思ってます。理想を目指して努力することは尊く、そういう活動から人は様々な事柄を学んで成長します。結局は社会的動物であっても、人間は個人としての成長のために、社会生活を営むのであろうと私は思います。人類全体の平和を願うことは自然なことですが、自分一人のことですらマトモに面倒をみることもしばしば難しいというのが現実でしょう。「汝の隣人を愛することは人類全体を愛するよりもしばしば困難である」とも言いますからね。
社会は人間同士の信頼によって成り立つものだと思います。隣人が自分に対していつ夜襲をかけてくるかもわからないという状況では、自分の身を守ることに多くのエネルギーを費やさざるを得ず、協同的で生産的な活動ができません。人間の善良性を信じることができることは大切なことだと思います。私も、基本的には信じております。しかし、武器を壊して農具に変えるためには、人類全員がその善良な志を共有しなければできません。残念ながら、世の中には、他人の信頼を逆手にとって利用しようとする人が少なからずおります。オバマがいくら北朝鮮やイランやインド、中国に核軍縮を呼びかけても、アメリカがまず相手を信頼して核を捨てなければ、核はなくなりません。しかし、お互いに信頼できるという状況のの中にいないわけですから、核軍縮は当面、むりでしょう。
信頼が社会の基本であっても、国同士の関係においては、各国の自己利益の追求が第一であって、そのためには他国を利用することもあるでしょう。外交とは、お互いの利益の最大化のための交渉に他ならないわけです。もし、他国をサポートすることが国益に寄与するとなればサポートするでしょうし、侵略して植民地にするのが国益だと思えばそうするでしょう。
アメリカが戦勝国にもかかわらず、戦後、露骨な植民地政策をとらず、日本を独立国のように扱って保護してきたのは、もちろんアメリカの国益にかなったからでしょう。当時は冷戦時代でしたし。そのためにアメリカは日本の政治家、官僚組織、マスコミを管理し、日本とアメリカは重要な同盟国であるというプロパガンダを国民に流し続けてきました。そのアメリカは、先のオバマのState of Union Speachでも見られるように、アジアとの外交に関して、中国、インド、韓国に触れましたが、日本に関しては全く触れもせず、日本がアメリカの国益にとってもはや語るに足らない国であるという認識を明らかにしました。
喩えるなら、平和な牧場で草を食む平和な牧牛がいるとします。生まれてからずっと育って来たこの牧場で、エサを与えてくれて、冬の寒い時に納屋を与えてくれ、病気の時には看病してくれたのは、牧場主です。これまでの牧牛の生活は、懐かしいこの牧場での牧場主への信頼の上に成り立っていました。そして、この平和な牧場での生活が死ぬまで続くものと思っていたら、ある日突然、牧場主が場へ引いて行って、何が起こるのか分からないままに殺されて食肉に変えられてしまうわけです。
人間の善良性を思い込みで信じるところの危うさはここにあると思います。過去を振り返れば、人間の歴史は信頼するものを裏切り続けて来た記録に他なりません。日本が「平和ボケ」と言われるのはこのことでしょう。牧牛のように、アメリカの善意を信じて来た日本人は、アメリカの搾取を裏切りと思うかも知れませんが、いつかは殺して喰うために育てている牧牛同様、アメリカにとっては日本の肉を喰らうのは戦勝国の当然の権利であると思っているでしょう。立場をちょっと変えてみて見ればすぐわかることです。ここで、日本が他国の善良性を一方的に信じて、殺されてしまった場合、誰が悪いのでしょうか。私は、善良性を一方的に信じた方に問題があると思います。
私は、人間同士の信頼の上に成り立つ社会の中で他人の善意を信じて生きる方が、騙されるまいと疑心暗鬼になって日々の平穏をぶちこわすよりはましだと思っております。それで、ある日突然、牧場主が場へ引き立てて行っても、それは神さまの思し召しだと思う方を私は選びたいと思います。耐え難きを耐える「忍辱」こそが仏徒の選ぶべき道だそうですし。しかし、自分ではなく、もし自分の子供達が、利用されて殺されようとするならば、それは、絶対阻止しなければならない、と私は思うでしょう。
牧場主アメリカの庇護のもと、産業を発展させて、高度経済成長を成し遂げた日本ですが、アメリカは高度成長が止まって沈み行く日本をこれ以上保護してやっても得はないと判断したのでしょう、後は殺して喰うだけだと、官僚、マスコミ、空きカン一味を使って、場へ送ろうとしています。刈り取りの時だと思っているのでしょう。これは阻止しないといけません。なぜなら、それはわれわれ自身だけのためでなく将来の日本の子供たちのためだと私は思うからです。
これを陰謀論だから信じないとか、枯れススキを幽霊に見間違えているのだとか、確たる証拠がないのに疑ってはいけないとか、いう人もいることでしょう。それではやはり思考停止だと私は思います。私が、25歳の研究初心者よりも実験がうまいのは、経験によるものです。失敗の可能性を予期して、それをあらかじめ排除することができるので、失敗が少ないのです。まだ起こっていない失敗を過去の経験からあらかじめシミュレートすることで危険をさけるのは、人間の経験による知恵で、役立つものです。だから、そんな目に見えにくい知恵を、目に見えないからと理由で軽んじるような、例えば「原理主義者」のような人は、失敗を繰り返すことになるのです。
科学は、「方法的懐疑」という方法を手に入れて初めて成立しました。目に見えない真実や危険を知るために、目前ものの存在を方法的に疑うことの実際的な有用性は疑うべくもありません。マスコミ、官僚や空きカンどもが一方的に流してくるメッセージの目に見えない意味を、日本が、アメリカの敗戦国であり、世界最大の国外米軍基地を持ち、世界第二のアメリカ国債保持国であるというコンテクストにおいて考えれば、アメリカの日本に対する戦略は極めて明快であると私は思います。証拠がないからといって、マスコミやアメリカや空きカンの善意を信じ、こういう話を陰謀論として退けることは、頭を使わなくてよいのでラクですが、一方、ワザと危険察知能力を封じているわけで、より自滅を早めることになります。先を見通す力とは見えないものを察知できる能力です。だから、「神さまは見えないから信じない」と言うような人間の知性を私は高く評価しません。そういう人は見える人の見ているものが何なのか一生わからないでしょう。
私は、これまでアメリカがしてきたこと、空きカン内閣の異常な豹変ぶり、WikiLeaksの文書、異常なマスコミの論調、などなど、ちょっと調べてみれば、アメリカとその手下の空きカン一味、官僚、マスコミの謀略は、目に見えないとか証拠がないとかいうレベルでは既になく、はっきりと目に見えていると思います。アメリカや官僚や空きカンの善意を盲目的に信じている人もわずかにいるかもしれませんが、思考停止して、連中を信じて身ぐるみ剥がされる危険を冒すよりも、この連中が日本を搾取しようとする危険を考えて行動するする方が益が多い、私の実験研究者としての経験はそう教えています。方法的懐疑による科学研究では、一方的に信頼して裏切られるのは信頼する方に責任があります。昔の友人が「信じるものは騙される」のだ、と教えてくれました。
さて、先日のオバマのState of Unionの演説では、共和党員と民主党員が左右に分かれずに入り交じって座るという席の配置に変え、党間の対立を乗り越えての団結を意図したようです。しかし、相変わらず、共和党の「小さな政府」、「緊縮財政」への要望はオバマのプランに不満なようで、オバマのヘルスケア改革をひっくり返すと言っています。オバマも下院で共和党に半数を握られたねじれ議会の中で、精一杯の妥協をしようとはしているようです。この演説の中で、印象的だったのは、「民主主義」を必要以上にオバマが讃え、それを世界に広げることがアメリカの仕事だ、というような話をしたことでした。イラク戦争の時も、最初、ブッシュは大量破壊兵器があると言いがかりをつけて、侵攻し、そんなものは無かったと明らかになったとたん、(西松事件の大久保被告のように)訴因変更して、今度はイラクの独裁者フセインを倒して「イラクに民主主義を確立」しなければならないと戦争を正当化しました。「民主主義」というのはアメリカにとって、これまでも他国の内政干渉や軍事侵攻のための口実であったわけで、オバマがこの演説で「民主主義」を口にしたことのウラを勘ぐってしまいました。多分、オバマはねじれ議会を乗り切るために、党派を越えて民主主義にのっとって建設的な議会運営をすることを訴えたかったのでしょう、後ろに座っていたバイデンと、新しい下院の議長、共和党のベーナーにも媚びを売っていました。しかし、一方で、再び、「民主主義」を錦旗に、戦争を画策しているのではないか、そんな気にもさせられました。アメリカ経済の復活ために戦争はいつも有効でした。中国がいるので北朝鮮という線はないかも知れませんが、チュニジアの市民革命で火がついたアラブ世界での反政府運動などを利用して「民主主義」をダシに戦争をしたい、と思っているかも知れません。
「宗教」と同様、「民主主義」も、人をコントロールするために利用されてきました。私は「民主主義」はとりあえずは、最善の政治形態であると思っていますが、宗教同様、この言葉やシステムを悪用しようとする人間は後を断ちません。
その勧誘の人は、聖書には良い事が書いてあるからそれを広めたい、とか言うような話をして、例えば、イザヤ書のここには、武器を壊して農具に変える、というような記載がある、とその部分を開けて見せて、「われわれは世界の平和を強く願い、このように平和が実現することを信じており、その実現に向けてこうして活動をしている」というようなことを言ったのでした。その趣旨にはケチのつけようはありません。私も、この人々と同じように、人々が信頼しあって平和に暮らせる社会が実現すれば素晴らしいと思っております。ただ、歴史を振り返って、そして現在でも周囲を見渡してみると、そうやって目的を真っ直ぐに目指してやって、平和を達成することは難しいだろうと思わざるを得ません。というより、私は実はこの世の中はわざと住みにくくできていて、障害物競走のフィールドのように設定してあるのだろうと私は思っております。人間は、それぞれのやりかたでこの障害を乗り越えていくようにできているのだろうと思います。宗教を通じて人々の意識を向上させたい、というのも一法でであると思います。一方、もしもわざわざ障害物競走のフィールドのように世の中が設定されているのなら、いわば、障害物競走のフィールドをならしてトラック競技場に変えること良いことなのかとも思います。また、私は、悪がなければ善もないと思っていますし、戦争がなければ平和もないと思います。平和を実現しようとする努力は大切だと思いますが、それによって本当に平和が実現されることはないと思ってます。理想を目指して努力することは尊く、そういう活動から人は様々な事柄を学んで成長します。結局は社会的動物であっても、人間は個人としての成長のために、社会生活を営むのであろうと私は思います。人類全体の平和を願うことは自然なことですが、自分一人のことですらマトモに面倒をみることもしばしば難しいというのが現実でしょう。「汝の隣人を愛することは人類全体を愛するよりもしばしば困難である」とも言いますからね。
社会は人間同士の信頼によって成り立つものだと思います。隣人が自分に対していつ夜襲をかけてくるかもわからないという状況では、自分の身を守ることに多くのエネルギーを費やさざるを得ず、協同的で生産的な活動ができません。人間の善良性を信じることができることは大切なことだと思います。私も、基本的には信じております。しかし、武器を壊して農具に変えるためには、人類全員がその善良な志を共有しなければできません。残念ながら、世の中には、他人の信頼を逆手にとって利用しようとする人が少なからずおります。オバマがいくら北朝鮮やイランやインド、中国に核軍縮を呼びかけても、アメリカがまず相手を信頼して核を捨てなければ、核はなくなりません。しかし、お互いに信頼できるという状況のの中にいないわけですから、核軍縮は当面、むりでしょう。
信頼が社会の基本であっても、国同士の関係においては、各国の自己利益の追求が第一であって、そのためには他国を利用することもあるでしょう。外交とは、お互いの利益の最大化のための交渉に他ならないわけです。もし、他国をサポートすることが国益に寄与するとなればサポートするでしょうし、侵略して植民地にするのが国益だと思えばそうするでしょう。
アメリカが戦勝国にもかかわらず、戦後、露骨な植民地政策をとらず、日本を独立国のように扱って保護してきたのは、もちろんアメリカの国益にかなったからでしょう。当時は冷戦時代でしたし。そのためにアメリカは日本の政治家、官僚組織、マスコミを管理し、日本とアメリカは重要な同盟国であるというプロパガンダを国民に流し続けてきました。そのアメリカは、先のオバマのState of Union Speachでも見られるように、アジアとの外交に関して、中国、インド、韓国に触れましたが、日本に関しては全く触れもせず、日本がアメリカの国益にとってもはや語るに足らない国であるという認識を明らかにしました。
喩えるなら、平和な牧場で草を食む平和な牧牛がいるとします。生まれてからずっと育って来たこの牧場で、エサを与えてくれて、冬の寒い時に納屋を与えてくれ、病気の時には看病してくれたのは、牧場主です。これまでの牧牛の生活は、懐かしいこの牧場での牧場主への信頼の上に成り立っていました。そして、この平和な牧場での生活が死ぬまで続くものと思っていたら、ある日突然、牧場主が場へ引いて行って、何が起こるのか分からないままに殺されて食肉に変えられてしまうわけです。
人間の善良性を思い込みで信じるところの危うさはここにあると思います。過去を振り返れば、人間の歴史は信頼するものを裏切り続けて来た記録に他なりません。日本が「平和ボケ」と言われるのはこのことでしょう。牧牛のように、アメリカの善意を信じて来た日本人は、アメリカの搾取を裏切りと思うかも知れませんが、いつかは殺して喰うために育てている牧牛同様、アメリカにとっては日本の肉を喰らうのは戦勝国の当然の権利であると思っているでしょう。立場をちょっと変えてみて見ればすぐわかることです。ここで、日本が他国の善良性を一方的に信じて、殺されてしまった場合、誰が悪いのでしょうか。私は、善良性を一方的に信じた方に問題があると思います。
私は、人間同士の信頼の上に成り立つ社会の中で他人の善意を信じて生きる方が、騙されるまいと疑心暗鬼になって日々の平穏をぶちこわすよりはましだと思っております。それで、ある日突然、牧場主が場へ引き立てて行っても、それは神さまの思し召しだと思う方を私は選びたいと思います。耐え難きを耐える「忍辱」こそが仏徒の選ぶべき道だそうですし。しかし、自分ではなく、もし自分の子供達が、利用されて殺されようとするならば、それは、絶対阻止しなければならない、と私は思うでしょう。
牧場主アメリカの庇護のもと、産業を発展させて、高度経済成長を成し遂げた日本ですが、アメリカは高度成長が止まって沈み行く日本をこれ以上保護してやっても得はないと判断したのでしょう、後は殺して喰うだけだと、官僚、マスコミ、空きカン一味を使って、場へ送ろうとしています。刈り取りの時だと思っているのでしょう。これは阻止しないといけません。なぜなら、それはわれわれ自身だけのためでなく将来の日本の子供たちのためだと私は思うからです。
これを陰謀論だから信じないとか、枯れススキを幽霊に見間違えているのだとか、確たる証拠がないのに疑ってはいけないとか、いう人もいることでしょう。それではやはり思考停止だと私は思います。私が、25歳の研究初心者よりも実験がうまいのは、経験によるものです。失敗の可能性を予期して、それをあらかじめ排除することができるので、失敗が少ないのです。まだ起こっていない失敗を過去の経験からあらかじめシミュレートすることで危険をさけるのは、人間の経験による知恵で、役立つものです。だから、そんな目に見えにくい知恵を、目に見えないからと理由で軽んじるような、例えば「原理主義者」のような人は、失敗を繰り返すことになるのです。
科学は、「方法的懐疑」という方法を手に入れて初めて成立しました。目に見えない真実や危険を知るために、目前ものの存在を方法的に疑うことの実際的な有用性は疑うべくもありません。マスコミ、官僚や空きカンどもが一方的に流してくるメッセージの目に見えない意味を、日本が、アメリカの敗戦国であり、世界最大の国外米軍基地を持ち、世界第二のアメリカ国債保持国であるというコンテクストにおいて考えれば、アメリカの日本に対する戦略は極めて明快であると私は思います。証拠がないからといって、マスコミやアメリカや空きカンの善意を信じ、こういう話を陰謀論として退けることは、頭を使わなくてよいのでラクですが、一方、ワザと危険察知能力を封じているわけで、より自滅を早めることになります。先を見通す力とは見えないものを察知できる能力です。だから、「神さまは見えないから信じない」と言うような人間の知性を私は高く評価しません。そういう人は見える人の見ているものが何なのか一生わからないでしょう。
私は、これまでアメリカがしてきたこと、空きカン内閣の異常な豹変ぶり、WikiLeaksの文書、異常なマスコミの論調、などなど、ちょっと調べてみれば、アメリカとその手下の空きカン一味、官僚、マスコミの謀略は、目に見えないとか証拠がないとかいうレベルでは既になく、はっきりと目に見えていると思います。アメリカや官僚や空きカンの善意を盲目的に信じている人もわずかにいるかもしれませんが、思考停止して、連中を信じて身ぐるみ剥がされる危険を冒すよりも、この連中が日本を搾取しようとする危険を考えて行動するする方が益が多い、私の実験研究者としての経験はそう教えています。方法的懐疑による科学研究では、一方的に信頼して裏切られるのは信頼する方に責任があります。昔の友人が「信じるものは騙される」のだ、と教えてくれました。
さて、先日のオバマのState of Unionの演説では、共和党員と民主党員が左右に分かれずに入り交じって座るという席の配置に変え、党間の対立を乗り越えての団結を意図したようです。しかし、相変わらず、共和党の「小さな政府」、「緊縮財政」への要望はオバマのプランに不満なようで、オバマのヘルスケア改革をひっくり返すと言っています。オバマも下院で共和党に半数を握られたねじれ議会の中で、精一杯の妥協をしようとはしているようです。この演説の中で、印象的だったのは、「民主主義」を必要以上にオバマが讃え、それを世界に広げることがアメリカの仕事だ、というような話をしたことでした。イラク戦争の時も、最初、ブッシュは大量破壊兵器があると言いがかりをつけて、侵攻し、そんなものは無かったと明らかになったとたん、(西松事件の大久保被告のように)訴因変更して、今度はイラクの独裁者フセインを倒して「イラクに民主主義を確立」しなければならないと戦争を正当化しました。「民主主義」というのはアメリカにとって、これまでも他国の内政干渉や軍事侵攻のための口実であったわけで、オバマがこの演説で「民主主義」を口にしたことのウラを勘ぐってしまいました。多分、オバマはねじれ議会を乗り切るために、党派を越えて民主主義にのっとって建設的な議会運営をすることを訴えたかったのでしょう、後ろに座っていたバイデンと、新しい下院の議長、共和党のベーナーにも媚びを売っていました。しかし、一方で、再び、「民主主義」を錦旗に、戦争を画策しているのではないか、そんな気にもさせられました。アメリカ経済の復活ために戦争はいつも有効でした。中国がいるので北朝鮮という線はないかも知れませんが、チュニジアの市民革命で火がついたアラブ世界での反政府運動などを利用して「民主主義」をダシに戦争をしたい、と思っているかも知れません。
「宗教」と同様、「民主主義」も、人をコントロールするために利用されてきました。私は「民主主義」はとりあえずは、最善の政治形態であると思っていますが、宗教同様、この言葉やシステムを悪用しようとする人間は後を断ちません。