大西つねきさんの「れいわ」除籍事件に関連して、「生命の選別」発言について思うところを少し前に述べました。その後、まだ経緯ははっきりしませんけど、多分、この件に対するれいわの対応が引き金になったと思われますが、野原ヨシマサさんの離党宣言がありました。慰留しようとしたれいわ事務局長は、野原さんの話合いを公開で行たいという提案を拒否したため、もの別れに終わったようです。「れいわ」という政党の運営方法にどうも問題があるようです。
それはともかく、「生命の選別」について、付け加えたいことがあるので、ちょっとだけ。そもそも「生命の選別」という言葉自体が大問題ですが、もともとの問題は「リソース配分の優先順位の決定」というまさに政治の本質的役割の問題の一部としての議論であったのだろうと私は解釈しています。大西さんも言っていたようにこの場合のリソースというのはカネのことではなく、主に人的リソースのことを指しています。つまり、高齢化社会における介護者の不足問題をどうするか、という問題です。
「生命の選別」という物騒で挑発的な言葉を使ったもので、「生命の選別は許されない」とか「カネの節約のために老人や障害者の生きる権利を制限しようとしている」とか、「人間の生死を生産性で決めるのか」言って多くの人が批判するのを多く聞きます。もっともな反応だとは思いますが、論点が噛み合っていないせいで、論理的な議論にならずに感情的な批判合戦となっているように思います。しかしながら、仮にも政治家である以上は、聞き手、支持者の立場にたって、かれらの代表として人々の気持ちに寄り添って、言葉を選んで丁寧に発言するべきであり、誤解や拡大解釈を産むような挑発的発言はするべきではないと私は思うし、今回、多くの批判を生んだ責任は、大西さんにあるとは思います。とはいうものの、大西さんが具体的には言わなかった「生命の選別」の現状や近未来の予想を具体的な形で考えるということは重要だと思います。
現代日本で現在行われている「生命の選別」がどういったものか、その実態を国民全員が認識できるように包括的な情報を集めて公開するすることが重要ではないかと私は思います。生命の選別というとナチスのホロコーストのようなものを思い浮かべますけど、それほど劇的なものでないにせよ、生命の選別はどこの国でも日本でも昔からずっとあり、さまざまなコンテクストでそれは行われております。日本では生活保護を拒否されて餓死したという話も聞きますし、いじめや異常な勤務を強いられて自殺に追いやられた人もおります。生活苦で親子で心中という例も多くあります。これらは「生きたい」と思う人に、社会や個人が消極的、積極的に選別をかけた結果とも言えると思います。しかし、今回は、こうしたケースではなく、大西さんが取り上げた高齢者の終末医療の問題に絞りたいと思います。
高齢者で寿命が近づいてきた時、多くの人々は、多分、畳の上で家族に見守られて旅立ちたいと思うと思います。あるいは、眠っている間にそのまま去っていきたいと思うでしょう。逆に、高齢になっていろいろ疾病を併発して苦しんだ上、意識がなくなった後までも、人工呼吸器に繋がれて、身体中に管を刺されて、最後は肋骨が折れるまで心臓マッサージをされたい、と思う人は、まずいないのではないかと思います。
日本でも最近は増えていると思いますけど、欧米ではずいぶん前からDNR orderが回復する見込みのない患者さんの尊厳ある最後のために(ま、それだけが理由ではないでしょうが)システム化されており、終りが近いと考えられる患者さんの意識が途絶えたときに積極的な蘇生をしない選択ができるようになっています。あらかじめ、患者さんがどのように死にたいかを考え、意思表示をするということですね。ホスピスで最後を迎えようとする人もそうだと思います。
最近の病院の現状を私は知りませんけど、昔は病院での末期が近い患者さんに、選択権はほぼありませんでした。老人病院やホスピスなど、死亡が前提の施設を別にすると、医療機関は普通、死亡を避けるように治療すると思います。そして、人生の最後をどういうように迎えるべきかを具体的に考えぬまま、高齢者は様々な理由で、入院治療をうけることが多いのではないかと思います。そうしているうちに、退院できない患者さんは一定の率で出現します。よくなる見込みはないからこそ治療をやめるわけんはいかないそうした患者さんは、やがて認知障害や基礎疾患の悪化、意識障害などで、自分の意志さえ伝えらない状態にしばしば陥ります。つまり、本人が「生きたい」のか「死にたい」のかあるいはそのどちらでもないのか、だれも知る術がないという状態で、生還を目指した治療が続行されるという状態になります。結果、振り返ってみれば、死ぬ前の三週間の間に最も多くの医療のリソースが費やされるという状況が起こるのだと思います。
また病院側だけではなく、患者サイドからの要望で意識のないような重症高齢者の延命処置が行われることもあります。親族が、(様々な理由で)なんとか生きてほしいという希望が強い場合に、医学的にみて回復の可能性は極めて低くても、延命治療をやめるのは難しいでしょう。苦しみ抜いて意識消失に陥った患者さんのケースで、亡くなってしまうと年金収入が無くなって家族が困窮するから、どういう形でもいいから一日でも長く生かしてもらいたい、と言われたという悲しい話も聞いたことがあります。
患者さん本人の意志が示されていない場合に、容態が急変したという場合などに、こういうケースはしばしば起こり、一旦、延命治療を始めたら、その中止の判断は簡単にはできないので、患者さんを管につないだまま、輸液で浮腫でぶくぶくになって、褥瘡で皮膚がずるずるになって、薬にも反応しなくなるような状態まで、ひっぱってしまうということが起こります。しかし、それはおそらく、患者さん本人の望んでいた人生の最後ではないのではないでしょうか。もっとも、それは第三者には想像するしかありません。
そういったケースでは、実際には、経過などから、もう助かる見込みはないのではないかと医療側と家族側の見通しが自然に同期しはじめると、終末についての合意がなされ、「生命の終わり」が周囲の都合によって決められる場合が多いのではないでしょうか。いずれにしても、終末期医療に患者さんの積極的な意志が反映されることは、まだそう多くはないのではないかと思います。
大西さんの「高齢者から逝っていただくのが自然」という物騒な言葉の意図は、こういった例における終末期医療のあり方に対する問題を念頭においた発言ではないかと想像します。「生きたい」という意志表示ができる人をリソースが足りないから死んでください、というのではなく、介護者などの人的リソースが限られてくるなかで、もはや自分の意志を表明できなくなった人々で回復困難と考えられる高齢者の医療をどこまで続けるべきか、は医療現場では、現実の問題だと思います。加えて、現在のコロナ爆発で、重症患者が病院のキャパシティを超えて搬入されてくることも起こるでしょう。その時に、助かる可能性がある急性期の患者さんに十分なリソースを割くことができないという状況はおこります。そういう状況を考えて、つい、「生命の選別」という言葉を使ってしまったのではないだろうか、と想像しています。
意志の表示ができなくなった末期の患者さん(高齢者であれ不治の病であれ)に、助からないことはわかっていても、医療ができることは数々あります。しばしば、それは、患者さんの苦痛を和らげて患者さんのQOLを上げるためではなく、別の理由、家族の人の希望を繋ぐだけのためであるとか、あるいは単に「他にできることがないから、できることをやっている」場合もあるでしょう。呼吸が止まっても、人工呼吸器がある、血圧が落ちても昇圧剤の持続点滴はできる。栄養は胃に穴を開けて、直接流し込めがよい。これらは一時的な危機を救うために開発された技術であり、形式上「生きている」という体裁を保つためにあるのではないですけど、それでもこういう治療は一旦始めてしまえば止めるのは難しい。結果、患者さんの苦痛を長引かせるだけに終わった上に、医療スタッフを疲弊させるだけのことをずるずるとやり続けてしまうということも多々あるのではないか、と想像します。こうした場合、おそらく本人も医療側も家族の誰も治療の継続を望んでいないと想像できるわけですけど、かといって本人の意識がないのだから本当のところはわからない。どうやって生きて死ぬかは非常に個人的な死生観に基づくでしょうし。
ただ、高齢者で助かる見込みもなく、本人の意思表示もできず、誰もが寿命だと思われる例に、多かれ少なかれ苦痛の持続しかもたらさないような医療を、限りある人的リソースをついやしてどこまでやるか、という現実的な「生命の終わりの決定」は、現在、恣意的に行われていると私は想像します。ならば、成り行き任せで現場の当事者に責任を押し付けるのではなく、政治がその責任を負うべきだという意見はもっともだと思います。それによってリソースの公平な配分も促進されるでしょうし、政治が責任を負うことで、患者さんの死を利用して医療者側からカネを強請るような犯罪の抑止にもなるでしょう。
つまり、この場合の「生命の選別」は「生きたい」と願う人を、その人の第三者が判断する価値によって選別し、その権利を侵害する、というようなことではもちろんないと思います。終末医療現場でありがちな状態、もはや延命治療に対する意志を表示できなくなり終末が近いと思われる状態になった高齢者に対して姑息的治療を延々と死ぬまで続けるような状態は、患者さん本人の苦痛を長引かせ、尊厳を損なう上に、医療リソースをムダに費やすことにつながっている、という主張だと思います。
とはいうものの、「生命の選別」という言葉は適切ではないと思うし、「尊厳ある生命の終わりの選択」とでも言うべきではなかったかと私は思います。(ま、それでも、際どい表現ではありますが。)
思いがけず、長くなったので、続きはあれば、また今度。