百醜千拙草

何とかやっています

生命の選別の実態

2020-07-31 | Weblog
大西つねきさんの「れいわ」除籍事件に関連して、「生命の選別」発言について思うところを少し前に述べました。その後、まだ経緯ははっきりしませんけど、多分、この件に対するれいわの対応が引き金になったと思われますが、野原ヨシマサさんの離党宣言がありました。慰留しようとしたれいわ事務局長は、野原さんの話合いを公開で行たいという提案を拒否したため、もの別れに終わったようです。「れいわ」という政党の運営方法にどうも問題があるようです。

それはともかく、「生命の選別」について、付け加えたいことがあるので、ちょっとだけ。そもそも「生命の選別」という言葉自体が大問題ですが、もともとの問題は「リソース配分の優先順位の決定」というまさに政治の本質的役割の問題の一部としての議論であったのだろうと私は解釈しています。大西さんも言っていたようにこの場合のリソースというのはカネのことではなく、主に人的リソースのことを指しています。つまり、高齢化社会における介護者の不足問題をどうするか、という問題です。

「生命の選別」という物騒で挑発的な言葉を使ったもので、「生命の選別は許されない」とか「カネの節約のために老人や障害者の生きる権利を制限しようとしている」とか、「人間の生死を生産性で決めるのか」言って多くの人が批判するのを多く聞きます。もっともな反応だとは思いますが、論点が噛み合っていないせいで、論理的な議論にならずに感情的な批判合戦となっているように思います。しかしながら、仮にも政治家である以上は、聞き手、支持者の立場にたって、かれらの代表として人々の気持ちに寄り添って、言葉を選んで丁寧に発言するべきであり、誤解や拡大解釈を産むような挑発的発言はするべきではないと私は思うし、今回、多くの批判を生んだ責任は、大西さんにあるとは思います。とはいうものの、大西さんが具体的には言わなかった「生命の選別」の現状や近未来の予想を具体的な形で考えるということは重要だと思います。

現代日本で現在行われている「生命の選別」がどういったものか、その実態を国民全員が認識できるように包括的な情報を集めて公開するすることが重要ではないかと私は思います。生命の選別というとナチスのホロコーストのようなものを思い浮かべますけど、それほど劇的なものでないにせよ、生命の選別はどこの国でも日本でも昔からずっとあり、さまざまなコンテクストでそれは行われております。日本では生活保護を拒否されて餓死したという話も聞きますし、いじめや異常な勤務を強いられて自殺に追いやられた人もおります。生活苦で親子で心中という例も多くあります。これらは「生きたい」と思う人に、社会や個人が消極的、積極的に選別をかけた結果とも言えると思います。しかし、今回は、こうしたケースではなく、大西さんが取り上げた高齢者の終末医療の問題に絞りたいと思います。

高齢者で寿命が近づいてきた時、多くの人々は、多分、畳の上で家族に見守られて旅立ちたいと思うと思います。あるいは、眠っている間にそのまま去っていきたいと思うでしょう。逆に、高齢になっていろいろ疾病を併発して苦しんだ上、意識がなくなった後までも、人工呼吸器に繋がれて、身体中に管を刺されて、最後は肋骨が折れるまで心臓マッサージをされたい、と思う人は、まずいないのではないかと思います。

日本でも最近は増えていると思いますけど、欧米ではずいぶん前からDNR orderが回復する見込みのない患者さんの尊厳ある最後のために(ま、それだけが理由ではないでしょうが)システム化されており、終りが近いと考えられる患者さんの意識が途絶えたときに積極的な蘇生をしない選択ができるようになっています。あらかじめ、患者さんがどのように死にたいかを考え、意思表示をするということですね。ホスピスで最後を迎えようとする人もそうだと思います。

最近の病院の現状を私は知りませんけど、昔は病院での末期が近い患者さんに、選択権はほぼありませんでした。老人病院やホスピスなど、死亡が前提の施設を別にすると、医療機関は普通、死亡を避けるように治療すると思います。そして、人生の最後をどういうように迎えるべきかを具体的に考えぬまま、高齢者は様々な理由で、入院治療をうけることが多いのではないかと思います。そうしているうちに、退院できない患者さんは一定の率で出現します。よくなる見込みはないからこそ治療をやめるわけんはいかないそうした患者さんは、やがて認知障害や基礎疾患の悪化、意識障害などで、自分の意志さえ伝えらない状態にしばしば陥ります。つまり、本人が「生きたい」のか「死にたい」のかあるいはそのどちらでもないのか、だれも知る術がないという状態で、生還を目指した治療が続行されるという状態になります。結果、振り返ってみれば、死ぬ前の三週間の間に最も多くの医療のリソースが費やされるという状況が起こるのだと思います。

また病院側だけではなく、患者サイドからの要望で意識のないような重症高齢者の延命処置が行われることもあります。親族が、(様々な理由で)なんとか生きてほしいという希望が強い場合に、医学的にみて回復の可能性は極めて低くても、延命治療をやめるのは難しいでしょう。苦しみ抜いて意識消失に陥った患者さんのケースで、亡くなってしまうと年金収入が無くなって家族が困窮するから、どういう形でもいいから一日でも長く生かしてもらいたい、と言われたという悲しい話も聞いたことがあります。

患者さん本人の意志が示されていない場合に、容態が急変したという場合などに、こういうケースはしばしば起こり、一旦、延命治療を始めたら、その中止の判断は簡単にはできないので、患者さんを管につないだまま、輸液で浮腫でぶくぶくになって、褥瘡で皮膚がずるずるになって、薬にも反応しなくなるような状態まで、ひっぱってしまうということが起こります。しかし、それはおそらく、患者さん本人の望んでいた人生の最後ではないのではないでしょうか。もっとも、それは第三者には想像するしかありません。

そういったケースでは、実際には、経過などから、もう助かる見込みはないのではないかと医療側と家族側の見通しが自然に同期しはじめると、終末についての合意がなされ、「生命の終わり」が周囲の都合によって決められる場合が多いのではないでしょうか。いずれにしても、終末期医療に患者さんの積極的な意志が反映されることは、まだそう多くはないのではないかと思います。

大西さんの「高齢者から逝っていただくのが自然」という物騒な言葉の意図は、こういった例における終末期医療のあり方に対する問題を念頭においた発言ではないかと想像します。「生きたい」という意志表示ができる人をリソースが足りないから死んでください、というのではなく、介護者などの人的リソースが限られてくるなかで、もはや自分の意志を表明できなくなった人々で回復困難と考えられる高齢者の医療をどこまで続けるべきか、は医療現場では、現実の問題だと思います。加えて、現在のコロナ爆発で、重症患者が病院のキャパシティを超えて搬入されてくることも起こるでしょう。その時に、助かる可能性がある急性期の患者さんに十分なリソースを割くことができないという状況はおこります。そういう状況を考えて、つい、「生命の選別」という言葉を使ってしまったのではないだろうか、と想像しています。

意志の表示ができなくなった末期の患者さん(高齢者であれ不治の病であれ)に、助からないことはわかっていても、医療ができることは数々あります。しばしば、それは、患者さんの苦痛を和らげて患者さんのQOLを上げるためではなく、別の理由、家族の人の希望を繋ぐだけのためであるとか、あるいは単に「他にできることがないから、できることをやっている」場合もあるでしょう。呼吸が止まっても、人工呼吸器がある、血圧が落ちても昇圧剤の持続点滴はできる。栄養は胃に穴を開けて、直接流し込めがよい。これらは一時的な危機を救うために開発された技術であり、形式上「生きている」という体裁を保つためにあるのではないですけど、それでもこういう治療は一旦始めてしまえば止めるのは難しい。結果、患者さんの苦痛を長引かせるだけに終わった上に、医療スタッフを疲弊させるだけのことをずるずるとやり続けてしまうということも多々あるのではないか、と想像します。こうした場合、おそらく本人も医療側も家族の誰も治療の継続を望んでいないと想像できるわけですけど、かといって本人の意識がないのだから本当のところはわからない。どうやって生きて死ぬかは非常に個人的な死生観に基づくでしょうし。

ただ、高齢者で助かる見込みもなく、本人の意思表示もできず、誰もが寿命だと思われる例に、多かれ少なかれ苦痛の持続しかもたらさないような医療を、限りある人的リソースをついやしてどこまでやるか、という現実的な「生命の終わりの決定」は、現在、恣意的に行われていると私は想像します。ならば、成り行き任せで現場の当事者に責任を押し付けるのではなく、政治がその責任を負うべきだという意見はもっともだと思います。それによってリソースの公平な配分も促進されるでしょうし、政治が責任を負うことで、患者さんの死を利用して医療者側からカネを強請るような犯罪の抑止にもなるでしょう。

つまり、この場合の「生命の選別」は「生きたい」と願う人を、その人の第三者が判断する価値によって選別し、その権利を侵害する、というようなことではもちろんないと思います。終末医療現場でありがちな状態、もはや延命治療に対する意志を表示できなくなり終末が近いと思われる状態になった高齢者に対して姑息的治療を延々と死ぬまで続けるような状態は、患者さん本人の苦痛を長引かせ、尊厳を損なう上に、医療リソースをムダに費やすことにつながっている、という主張だと思います。

とはいうものの、「生命の選別」という言葉は適切ではないと思うし、「尊厳ある生命の終わりの選択」とでも言うべきではなかったかと私は思います。(ま、それでも、際どい表現ではありますが。)

思いがけず、長くなったので、続きはあれば、また今度。
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歴史をつくる人

2020-07-28 | Weblog
週末の7/25は、Rosalind Franklin生誕100年記念日でした。Franklinは私が生まれる前に亡くなっていますし、DNA構造の解明でワトソン、クリック、ウィルキンスがノーベル賞を受賞したときも私はこの世に存在していませんでした。だから、私にとって、すべては伝説の世界であり、後年のクリックの分子生物への大きな功績ですら、教科書で知ったぐらいです。唯一リアルタイムで記憶があるのは、ヒトゲノムプロジェクトのときのワトソンぐらいです。そのワトソンも近年、人種差別発言でバッシングを受け評判を落としたのは残念です。

DNA double helixの発見が、その後の分子遺伝学の爆発的発展のきっかけであったのは間違いないと思います。DNAが二重鎖をつくる分子であるという性質から、蛋白質ではなく核酸が情報を伝える遺伝物質であると推論され、そしてそれが証明され、その後のセントラルドグマを始めとする遺伝の仕組み、遺伝子発現の仕組みの概念が確立されていきました。

その分子遺伝学という広大な川の流れの源泉となった発見に、もっとも大きな寄与をしたのは、思うに、フランクリンではないでしょうか。きっと、大勢の人も考えたことがあると思いますけど、フランクリンが若くして亡くなることがなければ、今の世の中はどうなっていただろう、という仮定の疑問は折々に、つい考えてしまいます。もしフランクリンがもしあのとき亡くならず長生きしていれば、ウィルキンスとクリックは2004年まで存命でしたから、あのノーベル賞は少なくとも1962年には与えられなかったのは間違いないでしょう。あるいは、もし、ノーベル賞委員会が故人にも賞を授与することにしていたら、提案に沿って、ノーベル医学賞をワトソン、クリックにノーベル化学賞をウィルキンスとフランクリンに分けて全員の功績を称えることになっていたかも知れません。いずれにしても、フランクリンの功績が広く認識されていれば、その影響は大きかったのではないかと思います。無論、マリー キューリーやバーバラ マッキントクというようなアイコニックな女性研究者のノーベル受賞者はおりますが、フランクリンは分子遺伝学という自然科学のもっとも大きな流れの源流にいた女性研究者ですし。

かりに、長生きした場合に、フランクリンが引き続いて大きく科学の発展に寄与したかどうかは知る術もありません。しかし、もし、あのノーベル賞があのタイミングで授与されていなかったら、分子生物学の発展もヒトゲノムプロジェクトも遅れていたかも知れません。また、ひょっとしたら、フランクリンは、女性科学研究者のアイコンとして、現在もアカデミアに根強くのこる性差別や人種差別の撤廃が進んでいたかも知れません。

フランクリンが生まれ、遺伝物質が何かさえわからない、という時代があって、折々にターンニングポイントとなるような発見がなされた結果、爆発的な分子遺伝学の進歩を遂げた現在まで、たった100年しか経っていないということを思うと感慨深いものがあります。人間一人の人生は短く、人はあっという間にこの世をさっていくのに、人類全体で同じ時間をかければ、壮大な知の集積、テクノロジーの進歩が実現されるのです。(必ずしもそれが人類や地球にとって良い結果を招いてきたわけではないですが。)

フランクリン生誕100年を機に振り返り、歴史の厚みとそこに織り込まれた無数の人々の人生を思っては、ちょっとロマンティックな気持ちになったのでした。


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Schadenfreude

2020-07-24 | Weblog
どうでもいい話ですけど、自分の下品さを実感してしまった日。
先日、N紙をパラパラしていると、見知った顔写真があったので、何事かと思って見たら、この某南ヨーロッパ出身のP先生、同国の研究施設長をクビになったというゴシップ記事でした。P先生は初老の研究者で分野は違うのですけど、一流紙にバンバンと論文を発表し、数年前の、私も興味を持っていた分子について何本か論文を出していたので、知っていました。昨年出席した小さな学会では主催者の一人で、数年前にできた新たな組織のco-directorもつとめており、順風満帆に見えました。その当時はアメリカの研究機関の所属だったので、どうしてわざわざ研究環境の点で数段も劣る母国に帰ったのだろう、と思って記事を読んでみると、実はアメリカの研究機関を辞めざるを得なくなったからのようでした。

ゴシップ記事という点は、もうN紙も週刊文春も変わりません。このへんで、私は興味シンシンとなって、論文は流し読みするのに、この記事は腰をすえて読んでしまいました。

原因は、ポスドクへのセクハラでした。ある女性ポスドクにP先生、惚れちゃったらしいです。このポスドクによると2018年の終わりごろに、好きだと告白されて、メールや二人きりのミーティングを頻繁に行っては、愛を語られたそうで、それで、マトモに働けなくなり、その半年後に別の研究室に移らざるを得なくなったとのこと。結局、施設のセクハラ ポリシーに抵触するということで、この件が公になり、P先生のアメリカでの研究キャリアが終わることになったということらしいです。

情熱的なのはこの国の文化かも知れませんけど、元気だなあ、と感心する一方、仮にも地位も名前もある立場の、初老で前頭部面積拡大中のP先生が血迷って自分の子供の年代のポスドクに愛を語るというのは、正直、ちょっと気持ち悪いです。この女性ポスドクがキモいと言ったかどうか知りませんけど、度をこえた迷惑だったのは確かで、事件が公になった以上、施設にとってはいくら研究費をとってくるドル箱教授であっても、見て見ぬふりはできなかったということですね。

それで、P先生、母国の研究機関にポジションを得たまではよかったのですが、そのリクルートメントのプロセスが不透明であったことと、セクハラ事件が知れわたったために、施設内から反対デモが起こり、結局、ポジションの撤回となったという話でした。これからどうされるのでしょうか。もはや研究は引退するしかなさそうな感じですが。

ポスドクにのぼせて、セクハラでキャリアが終わり、そのせいか、これまでの一流紙の論文の内容にも疑義が多数指摘され、叩かれまくる水に落ちた犬、あるいは、天国から地獄へ落ちて、唯一ぶら下がったクモの糸がぶっちりと切れたというような惨状で、泣きつらに蜂とでもいう状況です。が、もとは身から出た錆、このゴシップ記事を、興味津津で読んでしまう私。ああ、これがシャーデン フロイデというやつか、と思いました。

私も下品かも知れませんが、こんな記事を載せるN紙も十分下品です。顔写真入りのフロントページでP先生を世界同時公開処刑にしたようなものですからね。ポスドクの権利を守ることは大切ですけど、その相手にも人権があります。科学誌とはいえ、メディアであり、大きなパワーを持っています。雑誌が、仮にセクハラポリシーに抵触したとは言え、顔写真入りで特定個人の「恥ずかしい話」を暴露し、天国から地獄への不幸の転落を晒して「断罪する」というのはやりすぎではのではないか、と私は思いました。ま、これも、購読者を増やしてインパクトファクターと広告費を上げるこの出版社の戦略の一部なのかも知れませんけど。
無論、私のような読者がいるからゴシップ記事はなくならないのわけですが、どうせなら、この際、Nature Gossipsとかいう姉妹紙でも作れば大ヒットするのではないでしょうか。
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「命の選別」発言について

2020-07-21 | Weblog
先週の大西つねきさんの記者会見をみて、ちょっと思うところを書いておきたいと思います。

これは、れいわ新撰組の大西さんが自身のYoutubeで、これからの高齢化社会で人的リソースが不足する中で、まちがいなく大問題となる介護医療問題を論じた中での話です。どう若い人々の人的リソースと高齢者医療介護ニーズのインバランスに対処すべきか、という話で、「高齢者の人からいってもらうのが自然」、「生命の選別は必要になり、それは政治がやるしかない」というような趣旨の発言をしたことが、炎上し、紆余曲折あって、れいわを除籍となったという事件です。

この事件がツイッターで流れてきた時、私も問題の動画を見て、「生命の選別」という言葉をはっきりと言ってしまったので、これが一人歩きするのは止むを得ないだろうと思いました。もちろん大西さんの真意は優生思想でもなんでもなく、圧倒的にニーズに見合わない限りあるリソースをどう配分するのか、という政治の話なのですが、言葉遣いが荒っぽかった。

そして、除籍後の大西さんの会見が先週末に行われ、たぶんそれに反応してツイートが流れてきました。例えば、池田さんの次のようなツイートがあり、私は珍しくreplyのツイートをしました。

しかし、これは池田先生の誤解だと思います。大西さんは「生命の選別」という言葉は使ったものの、「生命の価値」については一言も発言していないのです。「選別するということは価値にそって選別するに違いない」という思い込みがこのツイートの原因であろうと思います。スレッドを見ると私と同様にこの池田先生のツイートに反応した人もかなり多く、まさに「言葉が一人歩き」して収集がつかなくなった状況だな、と感じました。大西さんは「高齢者は価値が低いとか、障害者に価値が低い」とかいう話は一切しておらず、それどころか、価値というのは個人が判断するものだという趣旨の発言さえしています。つまり、池田先生の主張と同じです。
いずれにしても、一人歩きするような挑発的な言葉を十分な説明もなく使い、誤解を招いた大西さんに責任の一端があるのは間違いないです。しかし、その問いかけの本質はしごく真っ当なことで、この問題はみんなが真剣に考えないといけないことです。

会見での記者の質問をみていると、半分の記者は問題を理解しておらず、一人歩きした言葉の誤解の上でピントはずれの質問をしていましたが、数人の記者はコトの本質を理解して、非常によい質問をしていました。(残念なことに、大西さんのほうがこの記者のよい質問を十分に生かせずに真意をわかりやすく伝える機会を逸したように思えました)。質問では、楢山節考の話をきっかけにリソース配分の話に誘導しようとした記者の質問に、「楢山節考は読んでいない」と自ら話の腰をおり、助け舟の別の質問にも端的な回答をしなかったのが残念です。その質問は楢山節考に近いシチュエーションの喩え話で、「重症コロナ患者が二人いて呼吸器が必要だが、呼吸器は一台しかないとき、どうするか」という質問でした。

そもそも政治の本質とは、集めた税金の使い道を決めることであり、リソース配分の優先順位を決めることです。近い将来、深刻化する高齢者介護、医療の問題に直面して、限りある医療従事者、介護従事者という人的リソースが圧倒的に不足することは目に見えているのです。その時に限られたリソースの配分方法を責任を持って決めれるのは政治しかない、という主張だと思います。いま、日本は政治がまったく機能不全に陥っています。つまり、こうした重い問題を政治家は取り上げたくないので、放置し、結果、現場に全ての責任をおしつけ、自己責任だと、知らぬ顔をしているのが現状です。

この30年、日本は落ち目の一途を辿り、それは加速していき、超高齢化社会がすぐそこにやってきて、さらなる危機的状況を迎えようとしています。その時に、足りないリソースのしわ寄せを個人や民間に押しつけて、自己責任だというような無責任政府ではいけない、どうにもならない状況におかれて、困難な判断をせざる得ない場合には、政治が自らの責任においてやらなければならない、というのが大西さんの主張だと思います。

山本太郎氏も残念ながら大西さんの意図を理解しているとは思えないコメントを出しました。あるいは立場上、そう言わねばならなっかったということかも知れません。また、れいわの障害者議員、木村英子さんが自身のサイトで、大西さんの会見に先立ち、今回の件について、コメントを出しています。これを読んでみても、そもそも問題の認識が噛み合っていないのが明らかだと私は思います。木村さんは、こう書いています。

今回の件で、弱者に対する差別が明るみに出ましたが、私は、自らの掲げる理念である「共に学びあい、共に助けあい、共に互いを認めあい、共に差別をなくし、共に生きる」を実現し、「誰もが生きやすい社会」を作るために、これからも差別と向き合い続けて、政治を変えていきたいと思います。命の選別をするのが政治ではなく、命の選別をさせないことこそが、私が目指す政治です。

まず、第一に弱者に対する差別の主体は大西さんであるというような含意がありますけど、それは多分、認識違いでしょう。言葉をつくして相手の気持ちになるという点がおそらく大西さんには不足しており、それを「おごり」であるとか「差別」であると木村さんが感じたのだろうと想像します。しかし、大西さんの真意は、物理的に高齢者人口が激増して介護する若い世代が間に合わなくなる近い将来、「誰もが生きやすい社会」の実現は困難になり、どういう形であれ、「生命の選別は行われる」状況になる可能性が高い、という前提から始まっており、その場合に選別するとしたら政治が引き受けるしかない、という主張だと思います。つまり、木村さんやれいわが目指している理想の一歩先にある現実の議論をしようとしたのです。理想を語りそれを実現したいと言うのは簡単です。しかし、「生命の選別を許さない社会を目指す」と言いますけど、それを実現する具体的な方法はどうするのでしょう。厳密に考えた場合、もはや、高齢者介護医療の問題はカネで解決できるレベルではないです。れいわは消費税減税、反緊縮財政を手段と訴えていますが、結局、カネの話です。それでは、カネでどうにもならないレベルの問題を、どうやって解決する気ですか、という問いです。れいわの誰もその状況においての解決策を考えているとは思えません。

つまり、高齢少子化によって非常に厳しい未来があと10年以内に具現化する可能性が高いのですが、いわば「夢を売る」ことによって支持を集めねばならない政党である以上、「まもなく、とても厳しい時代がやってくるので、みなさん覚悟して準備してください」というようなキャンペーンはできないです。人というのは多かれ少なかれ希望を求めるもので、「れいわ」なら生命の選別のない社会になるだろう、と期待して、人は支持するわけですから。

そういう点で、いわばタブーのような話に、言葉不足のまま、大西さんは突っ込んでしまったように感じます。誤解をうむような言葉遣いに加えて、誰にも解決法をもっていない問題に触れてしまったことが、政党の構成員としては、まずかったとと思います。

また、大西さんに対する批判の一部は正当であると思います。れいわという政党としては、言葉が一人歩きしてしまった以上、いくら誤解であるとしても、大西さんを処分するしか収める手はなかったと思います。また、どうも大西さんも、例え誤解であっても、不注意な言葉づかいで人を傷つけたことを真摯に謝罪し、誤解を解くということを十分にしなかったようで、れいわのメンバーからも理解を得られなかったようなのは残念なことです。その点に関しては、ふなごさんが、大西さんにはおごりがあるのではないか、とコメントしたことは当たらずとも遠からずだと思います。聞き手の立場になって言葉を選ばす、挑発的な言葉を使った上に十分な説明を省いてしまった。それによって、自ら誤解を招き、言葉の一人歩きを許すような状況を作ってしまった、のは大西さんですし。

思うに、大西さんは、国民と同じレベルに立って彼らの感情的な支援を得る必要がある政治家よりは、社会や国のレベルで政策を考える参謀的役割が向いている人だと思います。私的には実現不可能な理想を語られるよりも、現実を見据えて理論に問題を議論する人の方が好きです。100人の困っている人を助けるリソースが50人分しかない、という状況でどうするか、理想とか根性とかで問題が奇跡的に解決するのは漫画だけです。しかし、政治家がそれを政党支持者に言ってしまっては、まずいのです。困難な中でも希望にすがって何かに期待して生きているのが人間であり、政治家は、そういう人々に寄り添って、希望をつなぐのもその仕事ですから。
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ロックダウン再び

2020-07-16 | Weblog
カリフォルニアの再ロックダウン。振り出しに戻ってしましました。

西側ヨーロッパやアメリカ、南アメリカのコロナの死亡者の率は100万人あたり、300-700人ぐらい、陽性確定者の率は2000人から1万人弱ぐらいのようですが、日本では死亡者の率は100万人あたり、8人弱、陽性確定者率は200人弱、と数十倍の差があります。日本でどうして死亡者や感染者の率が少ないのかはっきりわかりません。

検査をしないという理由だけでは説明が難しいような気がします。一つは過去の別のコロナウイルス感染によって交差免疫ができているという説があります。これは、CoV-2をエピトープにして抗体検査を健康な人を中心にランダムに行えば検証できるはずで、定性的な抗体測定キットもすでにあるわけで、誰かすでにやりはじめてはいるとは思いますが、そのデータを他国と比較するのは興味深いと思います。一方、死亡者の数を検査確定の患者数で割った数字は、ヨーロッパ諸国の一部で高いですが、日本とアメリカやブラジル、それから中国や韓国との間で差はありません。ということは、感染によって重症化して死亡する率は人種にあまり関係さそうです。

ということは、日本の場合、検査が不十分で感染の実体が過小評価されている可能性はかなりあるにせよ、オリンピックのために、感染を見て見ぬふりをし、対策は各病院に丸投げして基本的に放置したのに、中国や韓国のように徹底的な封じ込めをした国と「率」でいえば、あまりかわらない数字でとどまっているのは不思議なことです。

二つ目の可能性は、マスクの習慣が理由ではないかと思います。最近、話題になったアメリカの話では、コロナ陽性理容師がマスクをして作業したところ、顧客140名全員でコロナ陰性のままだったという例があります。マスクは思いの外、ウイルス感染予防に有効なのではないかと考えられ始めています。日本でのマスクと手洗いの習慣が空気や接触による感染を起こりにくくしているのではないかと想像できます。この辺の可能性の検討のために、健康な人の抗体を大規模に検査していくことが鍵だろうと思います。一方、韓国では、コロナでは集団免疫は成立しない可能性を示唆するデータが得られたというニュースを聞きました。つまり、抗体はできても短期で消失する可能性があるということで、抗体検査のデータについては慎重な解釈が必要になると思いますし、また集団免疫に頼れない可能性が高いということなると今後はかなり心配です。

あと、もう一つ不思議なのは、アメリカでは活動再開後、フロリダや南部、西海岸、南西部の州を中心に急激に感染が増えたわけですが、ヨーロッパであれほど猛威をふるったコロナなのに、再開後もリバウンドは明らかでないように見えることです。思うに、ヨーロッパでは第一波が激烈だったので集団免疫を獲得したという可能性よりも、ロックダウンを厳密に行ってウイルス封じ込めに成功したからという可能性が高いと思います。フランスなどでは外出するのに許可証が必要だったはずで、一時はかなり厳密な行動制限をしていました。

となると、アメリカやブラジルで必要なのは、完全なロックダウンでしょう。現在もロックダウンの解除に慎重な州では着実に新規感染者数は減っています。思うに、三ヶ月の厳密なロックダウンとその後半年ぐらいをかけて慎重な段階的解除を行えば、抑え込めるのではないでしょうか。多分、世界中で同時にこれをやれば終わりにできるような気がします。

これは日本でも言えることです。日本人はなぜかわからないが、コロナで死ぬ人や感染者が少ないから、ウィズ コロナでいこう、という放置政策はあまりにひどい。感染者は急激に増えているわけで、これまでのデータからは重症化する率はアメリカと変わらないのですから。
それに、コロナ対策を真剣に行わない国で、ウィズ コロナなどと言っている国に、外国人は来たがらないでしょう。特に死人が大量に出たヨーロッパやアメリカの観光客は仮に入国措置が緩和されたとしても来なくなる可能性が高いでしょう。オリンピックなどあり得ません。

徹底的に検査し、国家が国民生活の補償を行って、行動制限によって封じ込めることで、コロナ フリー安全国家として評判を得る方が長期的にもプラスでしょう。ま、無能の極みで、己の利益の増大と権力闘争に勝つことが政治だと思っているような与党政府ですから、大臣クラスが軒並みコロナに感染して死線をさまようようなことでもない限り変わらぬでしょうが。ま、このまま放置政策をとると、世界から拒絶され、苦境にあたって放置される目にあうでしょう。

RNAウイルスは変異性が高く、エイズ同様、有効なワクチンが開発できる可能性は低いと考えられていますし、抗ウイルス薬は副作用の問題がある、となれば、これからしばらく、引きこもることが、最善の解決策だろうと思います。ウィズ コロナ、すなわち放置政策を取った上に、オリンピック損失の穴埋めのために「Go To」キャンペーンで、ウイルスを撒き散らすようなことをすれば、将来に何千倍もの不利益となって返ってくることになります。政府与党は、そうなった場合でも、個人や旅行業者の不注意だと責任をなすりつければよいと思っているでしょうが。
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コロナ リバウンド

2020-07-14 | Weblog
東京ではコロナ感染者が急増しているようです。例によって、検査数が増えたせいだとか、オリンピックをやりたい連中は言っていますが、検査数あたりの陽性率が3月にくらべて5-6倍になっているのだから、詭弁を弄するのはやめて、現実を客観的に見て、さっさとオリンピックを中止にし、しかるべき方策をとってもらいたいものです。利権とか名誉とか地位にしか興味のない人々は、自分がコロナにかかって生死を彷徨うような経験をしないと理解しないのでしょうね。この状態で「Go To」キャンペーン、キチガイ沙汰です。さすがは世界最大の原発事故を起こしておきながら、誰も責任をとらず、原発事業を止めようともしない国です。

コロナに関しては、活動再開後に激しい揺れ戻しがくるということは、当初から予想されていたことで、アメリカでも活動再開した州、カリフォルニアとか南部の州とかではとんでもないことになっています。 今後どうなるのかということですが、ワクチンも抗ウイルス薬も実用化は少なくとも数年は無理でしょうから、活動再開によって広がったウイルスは当初をはるかに凌駕する規模となる可能性があり、唯一の対策は、再度の活動抑制ということになると思われます。

結果として、コロナは再び医療崩壊をもたらし、医療従事者は疲弊し、病院は赤字になって経営困難に陥る。追い詰められた人が情報ビジネスしかないとYoutuberになる。そして活動抑制の結果、どんどんと中小、零細企業から潰れていって、大量に職を失った人々が困窮することになると思われます。しかし、そんな状態でこれまでの社会が維持できるわけもなく、深刻な大不況になると、ここまでは間違いないと思います。

それで、その後どうなるかと想像してみるのですけど、前にも同じような話をしましたが、爆発的感染の再増加を見ると、このまま元どおりの社会に戻っていくとはとても思えません。特に死亡率が高いヨーロッパやアメリカで、コロナが急増した状態で、人道的見地から取る手は再度の都市封鎖しかないと思われます。

その状態で国家を維持していくためには、ベーシックインカムを導入せざるを得なくなると思います。最初にヨーロッパの国々でおそらく始まり、一部のアジアの国が追従し、最終的にはアメリカもそのあとに続くことになると思われます。その財源は根本的に金融システムそのものを変えることによって作り出さざるを得ないでしょう。(それが現代の金融資本主義の崩壊に繋がると予想されます)

日本といえば、外圧でしか変わらない利権の国ですから、政府は最後まで棄民政策を続け、検査抑制と情報隠蔽し、コロナにかかった人間は不注意だ、自己責任、で放置するでしょう。そして、東京のコロナ感染が極端に深刻になって、外国から誰も人がこなくなり、WHOから危険国と認定されて、鎖国状態を余儀なくされ、困窮の極みに至るまで、政府は放置を続け、最終的にアメリカに脅されてようやく動き出すということになるだろうと予想されます。日本の場合は、そこから国民の生活が救われるまでは、まだまだ道が長いと想像されます。その間に国民が舐める辛酸はかなりのものとなると思います。

コロナが終息するのがいつになるのか全く予想できませんが、今回の活動抑制解除後の急激な感染上昇は、現在の弱肉強食の資本主義社会のシステムを変えていくのではないかと思います。
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金融システムの再構築

2020-07-10 | Weblog
6/25/20号のNature のフロントページ、近代の金融システムの問題と解決についての記事がありました。私は、環境破壊、戦争、人権問題、数多くの問題が金融資本主義に根ざしており、金融システムそのものに根本的問題があると考えているわけですが、識者の指摘するとおり、金融システムの問題の理解やその解決は困難は国単位であっても困難です。ましてグローバル化している経済のシステムをどう立て直すかを考えれば、より国際的、国家的なコントロールが必要であると思います。問題は、われわれ末端の個人はもちろんのこと、専門家でさえ、管理通貨制以降の金融システムの振る舞いについて十分理解していなさそうだということです。原発みたいなもので、とりあえずエネルギーを取り出すことはできるが、それが世界的規模に長期に渡ってどういう影響を及ぼすか専門家もよくわかっておらず、まして50年も前に作られたプラントが主で、必要な知識をもつ技術者も少なくなってきており、何かが起これば即お手上げになるような状態、現在の金融システムもそれに近いでしょう。 金融資本主義の世の中で市場原理主義の弊害は明らかです。パンデミックや環境破壊を引き起こし、人間性の喪失を加速し、地球と社会の将来を危機に晒します。

以下は、この記事のDeepLの翻訳です (強調と一部の訳の変更を加えています)。 強調部にあるように、過剰な信用創造が極端な不安定性を作り出していますが、麻薬中毒の人が禁断症状を抑えるために麻薬に手を出すのと同じで、そうやってカネを作り出さないと回らない。しかし、それは長期的に破滅的な結果を産む。それは皆がなんとなくわかっているのだけれども、おそらく、考えないようにしているのだろうと思います。

現在の世界的な金融・金融体制は、複合的な問題を抱えており、危機を頻発させている。最初は、これらの危機は世界経済の縁側にあったが、2007-09年には、その中核を占めるようになった。
 1971年以来、各国の経済は、そして私たちの生活は、この「システム」によって形成されてきた。その年、リチャード・ニクソン米大統領は、第二次世界大戦末期に構築されたブレトンウッズ国際金融システムを一方的に解体した。健全な代替案は構築されなかった。大部分が民営化され、今日の世界経済を支配しているのは、ほとんどが規制緩和され、その場しのぎの法的取り決めで構成されている。
 グローバルなつながりを推進する上での金融システムの役割は、情報や輸送技術の抜本的な革新、貿易とビジネスの統合の拡大、生活水準の向上など、多くの変化をもたらしてきた。しかし、このシステムは、より大きな脆弱性をもたらしてきた。グローバル経済の金融化は、長い供給ラインや国際的な輸送ネットワークに資金を供給することで病原体の伝播に一役買っている。これらの影響は政策立案者にはほとんど理解されておらず、主流の経済学者にはほとんど議論されていない。
 その代わりに、学者たちは国民国家を中心とした理論に夢中になっている。ほとんどの研究者は、主にミクロ経済学(個人、家計、企業の研究)と政府との関係に焦点を当てている。国境を越えた資本の流れ、グローバルな金融市場を監督し、形成する上での中央銀行の役割、グローバル・ガバナンスにおける米国連邦準備制度理事会の優位性などのマクロ経済学的な問題に取り組んでいる研究者は少なすぎる。
 また、世界の基軸通貨として悪評されることの多い米ドルの役割についても、十分に関心をもって研究されていない。投機筋が一国への投資から「飛び立ち」、保有している通貨を米ドルに交換すると、元の通貨が急落し、石油や医薬品などの輸入品のコストが上昇する。これは今に始まったことではない。各国は定期的にこのような国境を越えた資本の流れのスタンプに揺さぶられている。米ドルによって行使されている「法外な特権」が、このようなスタンプを加速させているのである。連邦準備制度理事会による行動は、この変動性のために、これらのショックを一時的に和らげることができるだけである。
 このような厳しい時代に国内経済を管理し、パンデミックから気候変動、生物多様性の崩壊に至るまで、将来の危機の影響を緩和するためには、金融のグローバル化に関する新たな研究が必要だ。最も重要な研究の中には、より管理の行き届いた新しい国際金融アーキテクチャの開発につながる研究が含まれます。
 安定性と持続可能性を確保するためのこのような変革の可能性は、学術的、公的な言説からはほとんど見られない。2007-09 年の世界金融危機後の「再考」は、単に既存のシステムの統合につながった。国際通貨基金(IMF)が 2020 年 4 月に発表した「世界金融安定化報告書」で説明しているように、の危機の後、米国連邦準備制度理事会は過剰な信用創造を制限するどころか、民間の信用市場が急速に拡大し、世界全体で 9 兆米ドルに達したため、見て見ぬふりをしたのである。2007-09 年の危機と同様に、中央銀行による緩い規制は借り手の信用力を低下させ、引受基準と投資家保護を弱めた。これらのリスクの高い信用市場  -ハイイールド(「ジャンク」)債、レバレッジド・ローン、民間債務-  は、連邦準備制度理事会による大規模な現金注入にもかかわらず、2020年4月初旬までストレスを示し続けた。刺激は、個人を救済する以上に、再び金融危機を救済した。
 北と南の社会が、このパンデミックと将来のパンデミックに取り組むために薬剤や機器を輸入するために必要な資金を動かす必要があるならば、金融システムのリフォームは不可欠である。まして、代替的で持続可能な交通機関、土地利用、エネルギーシステムに公的資源を投資することによって気候変動と戦うならば、金融改革はなおさら重要である。COVID-19の危機の間、民間市場は個人用保護具などの必需品をタイムリーに供給することができなかった。同様に、今回のパンデミックの前にも、市場は何百万人もの国民に手ごろな価格の医療、住宅、高等教育、そしてきちんとした高給取りの仕事を提供できなかったことを証明した。民間市場は、ますます危険を増す異常気象に直面している人々の安全を保証するのに適していない
 持続可能な地球の生態系が必要なのと同様に、重要な公共財である安定した持続可能な国際金融システムも必要だ。したがって、次の現実的な優先事項は、新しいアーキテクチャの設計において、国際的な協調と協力を確保することである。
 1944年にニューハンプシャー州のブレトンウッズで国際システムが最後に再構築されたとき、フランクリン・ルーズベルト米大統領は、資格のある経済学者だけを会議に招待した。銀行家や金融業者は排除された。専門家の選定は、英米の学界に狭く焦点を当てたものではなく、幅広い分野の専門家が選ばれた。ルーズベルトは、学者が多様な地理的地域や利害関係者の代表者であることを確認した。44人の代表団のうち32人は低所得国の出身者であった。政治学者のEric Helleinerが2014年に著した『Forgotten Foundations of Bretton Woods』の中で説明しているように、政策立案者は「包括的な『手続き的多国間主義』に深くコミットしていた」のである。それは、すべての国連と、中立を保っていた他の国に正式な声を与えたのであった。
 今、当時と同様に、私たちは、新しい手続き的多国間主義を育成するために、国際的で多元的な学術的・政治的リーダーシップを必要である。それが、各国がこのパンデミックに終止符を打つのを助け、気候破壊に取り組むことができる世界的な通貨システムを構築する唯一の方法なのだ。
 
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東京都知事選のこと

2020-07-07 | Weblog
ま、ちょっと触れないわけにはいかないなあ、という気持ちで。半分は予想されたことではありましたが、この一方的な結果にはがっかりしました。過去4年の公約達成率事実上ゼロ、最近ではオリンピックとカネを優先してコロナ対策は後手にまわり、現在東京のコロナ患者数は急上昇中、都議会で追求された学歴詐称問題には答弁拒否、そういう人に投票するというのはどういう心理なのか、ふつうは理解不能です。今後4年で何をするのかという具体的な訴えもなく、東京大改革2.0とか意味不明のスローガン、そもそも一期目の1.0さえ失敗しているのに。

一方で、山本太郎や宇都宮氏の政策を聞けば、普通は彼らに投票しようと思うでしょう。例えば山本氏が知事になって、公約実現すれば、即、手元に東京都から10万円のヒモのついていないカネが届き、事業主は数百万円の補助が受けられ、授業料の支払いで困窮する学生は学校を辞めなくて済みます。一方、小池氏が引き続き知事をやれば、オリンピックのために都民の税金は、オリンピック利権のTV、電通、などの企業に流れ、都民の生活向上はあとまわし、コロナ対策はこれまでを見てもわかるように、患者と医療機関は見捨てられ、多くの都民を感染の危機に晒し続けることになると思われます。10万円くれる人と10万円を電通に回す人、休業補償を出すという人と自己責任でお願いしますという人、普通は前者を選びませんか?

にもかかわらず、六割が小池支持。それでもわざわざ投票所まで足を運んで投票した人が小池支持をしたということは、思うに、多くの人が「理性をもって判断しなかった」のではないか思います。今回、公には政党の支持を受けていないことになっていますが、実際は自民の幹事長が言ったように、自民と公明党が現職支持です。創価学会の信仰心を利用している公明党は無論のこと、いまでも地方に行けば、中身はどうあれ、「自民党」だからという理由だけで、投票する自民党信者の人々は大勢おります。彼らの教育レベルが低いわけではないです。これは高度成長期からバブルの終焉まで、自民党政権下で生活がグングンとよくなった世代からの「自民党信仰」が受け継がれきた上に、民主党政権や社会党政権での悪印象で野党はダメだという思いがあるのだと思います。だだ、小泉政権以降、現政権に至るまで自民党の劣化は凄まじく、「親の代から自民党」の人々の心にある自民党はすでに幻想にしか過ぎないと指摘しておきましょう。そもそも自民党があまりにひどいので政権交代がおこったのです。ただ、小沢、鳩山を排除した民主党がひどかった、ということだと思います。その民主党の残骸が野党の中心では野党候補に票を投じるのもためらうでしょう。

話をもどして、つまり、今回の東京都知事選で現職に投票した人は、そうした公明党や自民党の看板の下で商売している現職に投票しただけであって、彼らにとっては都知事の公約も学歴詐称問題も過去の実績も二の次であったということでしょう。小池氏はそれを利用し、選挙活動はほとんど行わず、他の候補者との討論もなし、オリンピック利権にありつきたいメディアもそれに加担し、都知事選がなるべく話題にならないようにしてきました。つまり、対立候補はテレビ出演の機会を全く与えられなかったのに、現職知事は毎日、テレビでコロナやってるフリを十分アピールできたということです。コロナの非常下にあることを利用して、コロナのまだ最中に選挙をもってくることで、圧倒的に有利な選挙をほぼ、不戦勝のような形で制したのです。そして、直接討論などで追求されるとボロがでる、しかし、逆にボロさえ出さなければ、自公の組織票で自動的に当選するという読みが最初からあり、それで表にでて政策論争することを徹底的に避けたということです。しかも自公の組織票で勝つことが最初からわかっていたので、開票すぐにNHKが当確を出す手際のよさ。

こうした個人の意志ではなく組織によって投票行動を決められている人々に支持される現職に対抗するには、自分の頭で理性をもって考えることのできる人々に投票所に足を運んでもらっうことしかありません。残念ながら、そうはなりませんでした。最低に近い投票率は、多くの都民が政治によって何かが変わるとは思えないと考えている証拠でしょう。人々の政治不信こそ与党や自公の組織票に支えられる小池氏の狙いです。

なぜ、無能の極みの犯罪政権、アベ政権がここまで存続できるのか、4年前の都知事選はともかく4年やらせて成果がゼロの現職知事がなぜ圧倒的な得票で再選できるのか、欧米の民主主義国家の人々からしたら理解できないでしょう。日本は個人の理性的判断が投票行動につながる近代民主主義国家ではなく、民主主義的手続きを踏みつつも内情は組織票、つまり全体主義によって動いている国だということを示していると思います。日本の無能なリーダー達は、日本人は自分の頭で考えて判断し行動するという民主主義国家での成熟した構成員が増えないように、一億総白痴化政策を長年続けてきました。TVやメディアの質は年々下がり続け、教養番組や教育的番組は姿を消し、刹那的な娯楽の追求に終始しています。人々の関心は、目の前の、カネ、モノ、地位。カネを稼ぐ人が勝ち組、あとは負け組、負けるのは自己責任、この動物的弱肉強食を是とする「新自由主義」を強烈に進めることで、一部の持てるものが政治やシステムをコントロールし、残りの大多数の庶民をカネとシステムで奴隷化してきました。「中年、独身、派遣社員、コロナの雇い止めやリストラで無職になりました」という人々たちの生の情報がネットには溢れています。日本はまさに奴隷制の国といえるでしょう。自己責任論が日本人とあまりに親和性が高いので、奴隷的生活を余儀なくされている大勢の人々が、自分のふがいなさが原因だとさえ思わされています。そうでない人は在日外国人のせいにして鬱憤ばらしをしようとする人もいます。民主主義国家の外国なら、選挙によって政権が交代するはずです。日本ではあきらめて投票にさえ行きません。

結局、アベ政権や小池都政が支持されるということは、それが組織票ゆえであるにしても、平均的な国民や都民はアベなみ、小池なみのレベルであることです。国民や都民が十分成熟した判断能力を持ち、個人の責任で行動できるのなら、彼らがいまのポジションにいるはずがない、と私は思います。小池再選を聞いて、がっかりしたのは、小池都政がまだ続くということではなく、端的に言えば、日本の民主主義の未熟さです。どんなにデタラメをやろうとも組織がバックについていれば再選される、そのことが一票に思いを託す人々の無力感を増大させ、政治的無関心を引き起こしているのだろうと思います。そのこと自体が敵の思うつぼなのですが。



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遺書を書く

2020-07-03 | Weblog
二十歳台から、時折やってくる頭痛発作に悩まされていました。頭痛そのものも大概苦しいのですけど、全身症状が酷く、嘔吐、悪寒などが約丸一日続き、その間は何もできません。ひどい時はまる二日続いたこともあり、その間、食事はおろか、水さえ飲めません。私が声帯を痛めたのは、頭痛に伴う嘔吐の後遺症です。前触れなくやってくる頭痛にその度につらい思いをしたのですけど、なぜか数年前からひどい頭痛発作はなくなりました。

しばらく頭痛から開放されて喜んでいたのですけど、この間は胸痛が起こりました。全身症状は頭痛の時とまったく同じです。その時は、明け方に胸の痛みで目が覚めて、ちょっと焦りました。母は喫煙者で心筋梗塞一歩手前で治療しましたし、昔の知り合いの人は夜間の突然の胸痛が解離性大動脈瘤からの心タンポナーデで若くして突然死しました。その他にも原因不明で若くして突然死した知り合いや友人が数人います。

これはヤバいかもと思ったのですが、胸の痛みも非定型的だし、吐き気もひどいので、そのままうずくまっていることにして、ほぼ丸一日、ベッドの中で寝ていました。翌日ぐらいに胸痛も吐き気もなくなり、ようやく回復傾向となりました。それで、思いついたのが、遺書を書くことでした。というのは、一年に一度、万が一のために遺書を書いている人がいるという話をちょっと前に聞いたからです。私はなんとなく70台前半で死ぬのではないかな、と漠然とした感覚を持っているのですけど、何の根拠もありません。私の父も血管系の病気で発症してから1日で亡くなっていますし、親戚にもピンピンしていたのに末期がんが見つかって三ヶ月で亡くなった人もおります。つまり、人間、明日のことはわからないということです。

財産といえば引退後の積立と家ぐらい、うまく在職中に死亡できれば、それなりの金になるので、子供が独り立ちするまでは、大丈夫だろう、と思い、とりあえず資産のことを書きました。金目のものといえば、他にはありません。あとは、死んだ後の処置。火葬の時に焼き切れば骨の跡ものこらないぐらいにできるそうなので、葬式も墓も遺骨もなしにしてくれるように、その費用はわずかなヘソクリを当ててくれるようにと書きました。それで業務連絡はおしまいです。ま、理想の人生とはほど遠かったけれども、私よりもはるかに恵まれない人はもっと大勢いますから、自分は幸せな方だろうと思います。それから、家族に対する感謝の言葉というのが遺書につきものということで、何か書こうとおもいましたけど、結局、月並みなことしかかけませんでした。永遠の別れなのだから、悪い後味を残すようなことを書くわけにはいかないし、かといって、「元気があればなんでもできる、死ぬこと以外はかすり傷」みたいなハイテンションなのも違う(そもそも、死んでいく人からの別れの言葉ですしね)、そう思うと、ふと、亡くなった杉浦日向子さんの漫画の最後のシーンで船頭が「よーそろー(宜しく候)」といいながら一人船を漕ぎながら去っていくシーンが思い浮かびました。イメージ的にはぴったりでしたが、「宜しく候」では時代がかっていると思ったので、結局、もうちょっと近代的に「ごきげんよう」と結びました。

幸いなことに、まだ生きておりますし、遺書も今年分は書き終えたのでホッとしております。とりあえず、病院を受診することにはしました。しかし、人間、いつ死ぬかわからないというのは、私のような高感受性型人間には辛いです。深刻な病気になったときや死んだ時にどうするか、プランAから始まって、思考が止まらなくなるのですね。死んだ時は死んだとき、あとは野となれ山桜、と思える人は羨ましいです。

父は事業主で、借金をして設備投資したあとに、突然死に近い形で亡くなったので、母は、その後金銭的もいろいろ苦労しました。保険屋相手に裁判もすることになったし、その間の費用や生活や子供達の教育、大変なストレスだっただろうと思います。設備投資のために融資を受けた銀行は、金を貸すときには揉み手でにこにことしていたのに、父の死亡を聞いた後、一瞬にして態度が豹変し、さっさと家を売って借金を返せ、とヤクザのような態度で脅されたそうです。その後、別の銀行がから返済資金が工面できた時は、融資先の担当者に現金を叩きつけてやったと言っていました。現金の顔をみた瞬間、態度がまた変わったそうで、余計に腹がったったそうです。人間というのは結局そんなものなのです。それで、私は、基本的に借金をしないことを心がけてこれまで来ました。借金は人間の自由を縛るし、貧乏は心を削る、そういう世の中ですから。とは言いつつ、まだ多少の家と車のローンはあります。子供の学費も残っていますが、この辺はなんとかなると思っているので、これを機会にそろそろ、残りの人生、やりたいように生きて行こうかなあと思ったりしている次第です。

遺書を書くのは精神衛生にもいいと思います。ただ、死ぬ前に見つかってしまうと、いろいろトラブルのもとになるかも知れませんが。
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