百醜千拙草

何とかやっています

Let go of wake

2014-12-30 | Weblog
今年はいろいろな方にお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。
週末はちょっとのんびりして、Wayne Dyerの講演のビデオをYoutubeで見ました。その中で、なかなか示唆に富む喩え話がありました。

人生をモーターボートに乗っていることに喩えます。
ボートはどこかに向かって進んでいきます。後ろを振り返ってみると、ボートが進んできた軌跡に沿って波の筋 (Wake) がついているのが見えます。この波の軌跡はあたかもこのボートを後ろから押しているかのように見えます。
しかし、本当にボートを動かしているのはその波の筋ではなく、ボートのエンジンとプロペラです。
波の筋は間もなく消えて、ボートは現在の舵加減にしたがって進んで行きます。


グーグルしてみると、次のようなものを見つけました。

Dr. Wayne W. Dyer January 16, 2012
The past is a trail you leave behind, much like the wake of a speedboat. That is, it's a vanishing trail temporarily showing you where you were. The wake of a boat doesn't affect it's course--obviously it can't since it appears behind the boat. So consider this image when you exclaim that your past is the reason you aren't moving forward.

これまで生きてきた人生でいろいろなことがありました。楽しいことは少なく苦しいことは多いものです。今年も振り返ると、楽しいこともありましたが、つらいこともありました。しかし、そこに注意していてもボートは進みません。われわれのすべきことはボートの行く先の方を見ながらも、エンジンとプロペラの操作に注意を払うことであり、跡にできた波の筋を眺めることではないということでしょう。
あたり前の話のようですが、こうして喩え話にして聞くと、成る程と思うから不思議ですね。

今年、ディズニーのアニメの主題歌がヒットしました。どういうわけか、let it go、let go という言葉を、この年末になぜか、あちこちで私は目にしたり聞いたりしました。何かのサインかな?と思って、一体、自分は何を手放すように示されているのだろう、と考えてみました。年末のパーティーを「忘年会」といいます。昔の人の知恵なのでしょう。今年を忘れよ、つまり、過去を手放しなさい、と言っているのでしょう。正確には過去の出来ごとに付随した「感情」を忘れなさい、と言っているのだろうと思いました。人間の感情のうち、喜びや悲しみや怒りといった一時的な感情は比較的早く去って行きます。やっかいなのは、恨みや妬みや後悔といった非常に長期に持続するネガティブな感情です。そんなネガティブな感情に捕われないようにしなさい、過去にこだわらずに前を向きなさい、そういうことなのかな、と解釈しました。
水面についた波の跡を眺めてばかりでは、展開している新しい景色は楽しめません。
誰でもそのうち人生は終わるのですから、今とこれからに意識を向けて、今日が人生の始まりのつもりで生きたいものだと思いました。
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光の不在

2014-12-26 | Weblog
世の中はすっかりクリスマス休暇モードで、一月前に投稿した論文の返事も来ませんし、誰にメールを打っても、「来年まで御機嫌よう」みたいな自動返答しか返ってきません。その間、時間だけは着実に経ち、グラントの再申請と別の論文のことなどでこちらの気持ちは焦ります。これはイカンと、こちらも気持ちを切り替えて休暇モードにしつつ大掃除でもしてスッキリしようと考えております。

論文や欲しい情報は、今や図書館に行かなくてもオンラインでいくらでも手に入るので、情報過多となり、その都度、印刷して読みとばすので、紙類が一年も経てば大量に溜まります。購読している雑誌も溜まって行きます。まずもう二度と読まないとわかっていても、それらの雑誌を捨てるのは躊躇するものです。大抵、捨てた後に必要になったりするものですから。とはいいつつも、年末にサイエンスやネーチャーや学会誌を多少はまとめて、リサイクルに捨てる時は気持ちがいいものです。何事かを成し遂げたような気になります。

年末は今年を振り返って、良かったことでも数えてみますかね。
まだ論文にはなっていませんが、今年はいろいろ面白い研究上の発見がありました。その多くが、ウチの研究室に縁あって遠くから来てくれた若い女性の医師研究者の人の成果です。一生懸命研究に取り組んで面白いデータを出し続けてくれるこの方には感謝に絶えません。安い給料しか出せず先の見通しも定かでない環境で(ま、結局、どうにかなるものですが)頑張ってくれているこの方に、是非とも何らかの形で報いたいと願っております。もう一人の人はあと数ヶ月で隣りの研究室に移ります。この三年ほどで二本の筆頭原著論文、もう一本を執筆中、二本のレビューと本の一章というまずまずの業績で移籍になるので、こちらの責任も多少果たせたかなと思います。彼女らが今年の学会で二人とも授賞口演演題に選ばれたのも大変うれしかったです。それから、私も密かにコソコソやっているプロジェクトもあと数ヶ月ぐらいで小さな話にまとまりそうです。
他に、いいことは、、、数え上げればきりがありません、、、。
悪かったこともいろいろありますが、それは終わったこととして忘れます。もう一歩進んで、悪かった中にも何か良い点を見つけようとすることが幸せの秘訣だと聞いたことがあります。

悪いといえば、アベ政権です。無理すれば見つけれないこともありませんが、アベ政権に良いことを見つけるのは困難です。しかし、私は、悪口を言うのはやめると決心したのでした。愚痴や悪口は最悪のエネルギーを持っているらしいですし。

最近、「悪」について大変興味深い考え方を聞いたので、書いておきたいと思います。世の中には「悪人」がおります。悪人、善人は相対的なものだと私は以前考えていましたが、しばらく前から絶対的な悪というものも’存在するのではないかと疑うようになりました。本当のところはわかりません。
どこかのサイトで知ったその言葉に「悪とは、光の不在である」とありました。出典をグーグルで調べてみたら、Gary Zukavという人の書いた「魂との対話」という本の中の一節のようです。そこには、こうありました。『悪は光の不在であり、光の不在によっては癒されない。もしあなたが、悪あるいは悪に手を染めた人間を憎んだとしたら、そのときあなたは、光の存在ではなく、その不在に手を貸したことになる。悪を憎んだところで悪はけっして消滅することがない。それどころか、それによって悪は強化されるのである。」
私はこの言葉に非常に感心し、私のこれまでのアベ政権への態度は間違っていたのではないかと反省しました。即ち、悪政は嫌い憎むことによって増強する可能性があるということです。神は「復讐はしてはならない」と教えましたし、「人を呪わば穴二つ」とも言います。いくら悪口に値する政権であっても悪口をいうことはトクにはならないようです。少なくとも、アベ政権の悪口を言っても自分に身には対して何もよいことはありません。むしろ、アベ政権を光の不在で闇の中をワケも分からず右往左往している気の毒な連中だと哀れんでやった方がわれわれの精神衛生にはよいかも知れません。

しかし、原発推進して国土を汚染しつづけ、辺野古を埋め立てて自然を破壊して在日米軍を恒久化して沖縄に苦痛を与え続け、消費税増税して役人の給料を上げる一方で、企業のリストラと非正規化雇用を促進しつつ、TPPで日本の農業と福祉を壊滅させ、あげくに軍隊を作ってアメリカの下働きとして遊び感覚で要らぬ戦争に首を突っ込む、そのような絶対悪を放置しておいてよいのかとも思います。

とにかく、自分にできる対処はして、悪は憎まず、心の平和をまず第一に考えるところから始めたいと思います。
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魔法の言葉

2014-12-23 | Weblog
あっと言う間に一週間が過ぎ、気がつけばもうクリスマスです。クリスチャンではないとはいうものの、もう何年もクリスマスらしいことをしたことはありません。
 この十年ほどを振り返ってみても、あっと言う間だったなあとしか思えません。十年前に出した論文も昨日のことのようです。しかし、毎日の繰り返しの日々でも少しずつ変わってきました。十数年前はルーチンの実験手技だったノーザン、サザン、今はPCRにとって変わられほとんどやることはなくなりました。十年前は、マウスを作るためのES細胞は自分で培養していましたが、今やマウスは買うものであって、わざわざ作るものではなくなってきました。その他の技術も様々に変化し、うちでは誰もテレビを見なくなり、電話のかわりにテキストするようになりました。テレビ放送もひょっとしたらラジオも新聞も本当にそのうちなくなるのではないでしょうか。

この一年、いろいろと精神的にも辛いことが多かったです。まだまだ問題は解決していませんが、ストレスには順応してきたような気がします。毎日、目の前にあるやるべき仕事を坦々とやって、少しずつ積み重ねて前進するしかありません。大切なことは続けることだと思います。"Showing up for life"(ビルゲイツ父)、毎日参加することが大切です。たとえ先行きがまったく見えなくてもムダな努力に見えても、やるべき仕事を良くやって、コツコツと正直に積み重ねていけば、どこかそれなりのところにたどり着くでしょう。"If you're going through hell, keep going" (チャーチル)です。そのうちに暗闇は晴れ視界は開けます。

それでも、先ゆきの不安というのは消し難いものです。そんな時、私は、太宰治の「生活」という詩を思い出します。

 よい仕事をしたあとで
 一杯のお茶をすする
 お茶のあぶくに
 きれいな私の顔が
 いくつもいくつも
 うつっているのさ

 どうにか、なる。

不安定で先の見えない生活の不安の中で、目の前の仕事を達成したという事実の中に小さな安心を感じる、そんな感じが伝わってきます。明日も分からぬ世の中を、自分の立っている場所を確かめながら、一歩、一歩、霧の中を歩くのです。目の前の小さなことの一つ一つに良い仕事をすることで地に足がついていることを知り、groundingすることができる。そしてまた一歩を進めていく、「生活」するとはそういうことなのでしょう。
「どうにかなる」という魔法の言葉、私も今年はよく口にしたような気がします。「どうにかなる」という真理を信じることで今日の安心があり、日々よい仕事をすることでそれを確認するということですね。
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再投稿論文を早く通すには?

2014-12-17 | Weblog
数日前、たまたまバスで一緒になった同業の人と初めて話をしました。別の機関で働いていますが、同じ街に住んでいます。お互い研究費に苦しんでおり、同病相哀れむかのような、それでも頑張りましょうみたいな、暗いのか明るいのかわからないような話になりました。
 誰でも研究者なら研究が好きでそのためにいろいろと苦しい思いもガマンしているわけですが、楽しい部分と苦しい部分のアンバランスがとくに最近は酷過ぎると思います。好きでもないグラント書きに忙殺されて研究は進まず、ようやく申請書を出しては落とされて、レビューアには批判されて傷ついて、それでも、やりたい研究とカーちゃんのためならエンヤコラ、貧乏研究者の頭に浮かぶヨイトマケの唄、、、、ちょっと大げさですけど研究者ならわかってくれるでしょう。

現在、二ヶ月半先の研究費申請の再提出に向けて、アイデアを練っておりますが、多少うっすらと光明が見えてきたような感じです。いくつかの再提出の条件のうちはっきりしている一つのことは、それまでに、あと1-2本の論文を出さないといけないことです。一本は数日前にまずまずの雑誌にアクセプトになり、ちょっとホットしました。この論文、リバイスの原稿を提出してから週末を挟んで4日でアクセプトの通知が来ました。私の記録では最速です。想像するに、レビューアのコメントに対するレスポンスとしてシングルスペースで7ページになったものを送りつけたので、きっとレビューアーは「真面目に読むのも面倒くさい、どうでもいいや」という気分になったのだと思います。多くの忙しい人にとっては、他人の論文レビューはわざわざ忙しい自分の時間を割いてやっているボランティア活動で、平日は忙しいので週末にまとめてやる雑用仕事であろうと思います。私だったら、この手の仕事は週末の始めにパッパッと片付けて、後はすっきり、のんびり楽しみたいと思いますから、きっと今回のレビューアの人々もおやつでも食べながらレスポンスだけザッと見て、パラパラと本文をチェックして、OK、ぐらいのノリでやっつけてしまったのでしょう。
 そう思うと、論文のリバイスでは、丁寧かつ不必要に長いレスポンスをして、週の後半に再投稿するのが早く論文を通すのに有効ではないか、とどうでもよいことを考えました。(なにしろ、一つ前の論文のリバイスでは、アクセプトの返事をもらうのに二ヶ月またされました)次もその手でやってみたいと思います。
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現実とその対処

2014-12-16 | Weblog
選挙はアベ政権の思惑通りとなってしまいました。これで更に4年を、恐怖の「男人形」に与えてしまいました。
一方、沖縄では自民候補は全滅。沖縄のように、切実な現実に晒されてきてイヤでも政治と向き合わねばならない人々であれば当然の反応でしょう。本土でも、アベ政権がやってきたことを見れば、普通に判断できる人間であれば自民党を支持するのはあり得ないと思うわけですが、思うに、民主党の大失敗を見た人が自民を支持したか、あるいは政治に絶望して棄権したのではないでしょうか。それが史上最低の投票率となり、政治の中身はどうあれ、昔から自民に入れているという理由で今回も自民に投票する田舎の基礎票の率を押上げたと思われます。

大学時代に、創価学会の友人と地方の田舎出身の自民党支持者の友人と三人で何故か選挙の話をしたことを思い出しました。私はノンポリながら、当時の大学自治会は(当然ながら)反体制で社会主義、共産主義支持であり、その影響かどちらかと言えばアンチ自民。創価学会の友人はいい人でしたが当然、支持政党は最初から決まっています。もう一人の自民党支持者は、「自民以外にはないだろう」(それだけ、自民は地方に経済的恩恵を与えてきたのだから)という「義理と人情」レベルで自民党を支持していました。きっとそういう人々が今でも選挙には必ず行って、そして自民党に投票するのだろうと思います。でも、今の自民党は昔の自民党とはすっかり変わってしまったのですよ。

ま、終わってしまったことは仕方がありません。しかし、アベが今後、秘密保護法で言論統制した上で、解釈改憲で自衛隊は米軍の手先となって、世界各国で自民党は侵略戦争に加担することになり、アジアの国際関係はますます険悪となり、極端な円安でインフレが加速する一方、所得は増えず、高齢化少子化にともなって福祉は削られて行くのに二年後には消費税増税が断行される、大変、住みにくい世の中になりそうだということは感じました。

幼稚さというのは、失敗や挫折を向上のための教訓として、未来に生かすことを知らず、過去にこだわることに表れます。先日の内田樹の研究室の考察の通り、アベ氏は戦後にアメリカに占領されて屈辱を味わったことはおそらく間接的に刷り込まれているだろうと思われます。ならば、恨みはアメリカに対して晴らすのがスジです。しかし、それはどうやってもできないから、自分よりも弱い者に対して虚勢を張って代償する、そういう態度に出ているように見えます。加えて、一般国民は自分よりも弱い者で、カネと国家権力で縛ればコントロールできるとでも考えているのでしょう。

今回の選挙に関して森監督の意見が興味深かったです。私も本音では、かなり共感します。
【総選挙2014】もう投票しなくていい

だからもう投票には行かなくていい。落ちるなら徹底して落ちたほうがいい。敗戦にしても原発事故にしても、この国は絶望が足りない。何度も同じことをくりかえしている。だからもっと絶望するために、史上最低の投票率で(それは要するに現状肯定の意思なのだから)、一党独裁を完成させてほしい。その主体は現政権ではない。この国の有権者だ。


またこの中で、アベ氏が10年以上前に、教育改革国民会議での発言などが引用されて、アベ政権の危うさを指摘しています。子供のうちから洗脳していまえ、ということでしょう。森さんの意見を上のリンクからご一読下さい。
この「愛国オヤジの酒場の戯れ言」が恥ずかしげもなく晒されている首相官邸の資料ページリンクします。

このような独りよがりで幼稚なことを言う人間が、あと四年好き放題する可能性がある、というのが週末の悲しい現実でした。これを前に、落ちる所まで落ちた方がいい、という意見になるのも理解できます。私も半分そう思います。しかし、選挙権のない未来の子供には罪はなく、実際にアベ政権の失政の苦難を味わうのは彼らです。彼らが徴兵されて殺し殺されるために利用され、破壊され、汚染された国土で草も口にできなくなる当事者です。
現時点で、われわれにできることは国家の暴走とその後の苦難に備えて、中央政府からできるだけ独立した力を蓄えることではないかと思います。

最近、残りの人生の時間のことを考えることが多くなりました。以前なら皆、それなりに出世して退職金と年金を貰って、土いじりでもしながら余生を過ごすという設計でした。今は、世界中で死ぬまで一生働き続けないと満足に生きて行くこともできなくなってきています。これだけテクノロジーが進歩して、食料やその他の生活必需品を生産するのが低コストになっているのに、それらを「カネ」を介して手に入れなければならないというシステムのせいで、貧困層は喰うものもないのに、隣りの金持ちはグルメで贅沢三昧をするというようなことが起きています。一般国民の困窮の一方で、公務員や政治家の報酬は上がっています。「人民は弱し、官吏は強し」露骨になってきました。官吏に支配されないシステム、カネの奴隷にされないシステムを共同体単位で作って行く必要があるのではないでしょうか。
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Procrastinating procrastination - Little Waltz

2014-12-12 | Weblog
やらねばならないがやりたくない仕事が少し溜まっています。そういう仕事を先延ばしにすることは大抵よくない結果を生みますから、とにかく始めてしまうのがいいのは良くわかっているのですが、私もしばしば、やるべき仕事にとりかかる前に、メールをチェックしたり、どうでもよい雑用をやってみたりして時間を消費することがよくあります。(これを書いている今もそうです)一方で、物事には流れというものがあり、自然な流れに乗って、物事を進めることが最終的に良い結果につながるのも事実です。その流れをいかにうまく見つけるか、あるいは一歩進んで積極的に流れを作りだすか、というのが技術なのでしょう。

人生は死ぬときまでのヒマつぶし、ともいいますから、別に、頑張って何かを成し遂げたところで「それはそれ」、ぼんやり日々を送って一生を過ごすのも一局、と思います。何か夢中になれることに一生懸命になる方が、素人はヒマをうまくつぶせるように私は思いますが、もっと修行のできた人ならそんなものさえ必要ないのでしょう。いずれにしても、ヒマつぶしなのだから楽しくヒマつぶししたいものです。やるべき仕事をやらずにぐずぐずすることが、ストレスになって楽しくなくなるのであれば、ぐずぐずせずしてはいかんですね。ぐずぐずすることを先延ばしにしてみたらどうか、という思考実験をしてみました。二重否定みたいになって、やれるような気になってきました。

なかなか仕事にとりかかれない間に、それ用のBGMをYoutubeで漁ってみました。私が若い頃にジャズを好きになるきっかけになった曲を見つけました。New York Jazz Quartett が1975年に東京公演をした時のライブ版レコードにあるロン カーター作曲の「Littel Waltz」です。
 この曲は、ジャズにしてはワルツでメインがフルートというちょっと変わった曲です。レコードもとっくの昔に手放してしまっていて長らく聞いてなかったのですが、当時は何が良かったのかなあ、と思いながら聞き返してみました。あらためてしみじみと良い演奏だなあと思いました。四人の対話の様子が暖かい感じで伝わってきます。フランク ウェスとピアノのローランド ハナのソロが自然体でいいです。また、そこに絡むリズムセクションの合いの手が素晴らしい。ロン カーターのところどころにコブシを利かせるベースライン、ドラムの控えめながらも細かい気配りのサポート、まるで四人でリビングルームのテーブルを囲んで、昔話をしているかのような暖かい雰囲気がででいます。
時は過ぎ、ローランドハナは故人となってすでに十数年、フランクウェスは去年に91歳で亡くなりました(マイルスより年上)。ドラムのベン ライリーは81歳、ロン カーターも喜寿を迎えました。
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読書感想

2014-12-09 | Weblog
週末、久しぶりに数冊の本を借りてきて読みました。そのうちの一冊は、大津秀一さんという若手の終末医療の専門家の方が5年ほど前に書いたもので、亡くなった患者さんとのエピソードが綴られていました。

この方の文章力には感心しました。自然な文章を淡々と綴りながら、力強いメッセージが浮かび上がります。ノンフィクションのもつ力でしょうか。

私も、多少の経験を通じて、人は死んだら彼岸に渡る、死ぬとはcross overする(だけ)のことなのだと確信するようになりました。本当の意味で物質的な意味でわれわれが考えている「死」というものはないのと思っております。しかし、人それぞれです。死に直面した人が感じる不安は想像でしかわかりません。初めてバンジージャンプしたり、スカイダイビングで飛行機から飛び降りたりする時のような感じに近いのではないだろうか、と想像するぐらいです。もちろん、何百人を看取った医者であっても、その本人自身が「死」を経験したことがないのだから、いくら終末医療の専門家であっても「死」がどうにょうなものかは本当には分からないことです。

思うに、人の一生が、多かれ少なかれ、みな同じように、生まれて食べて寝て働いてというのを繰り返しているだけのように見えながら個人の視点からすれば大変多様なものであると同様に、死に行く人にとっての死や生の終わりは、われわれが思うよりもずっと多様なのだろうと想像します。

終末医療であれ、普通の医療であれ、施療者が技術的な意味でできることは限られています。死ぬ人を生き返らせることはできないし、大抵の重篤な病気に対して現代医学は無力です。多くの治る病気は医者がいなくても治るし、治らない病気はいくら手を尽くしても治りません。最終的に施療者ができることは、おそらく「寄り添うこと」ぐらいなのでしょう。それは、医学校やその後の研修で身につける医師としての知識や技術とは別のところにあります。そして、「寄り添うこと」も容易なことではありません。
そんなことを思いました。
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いつかは終わる

2014-12-05 | Weblog
イスラエルも内閣解散、総選挙だそうです。近年のイスラエルのシオニスト政権、暴走していると私は感じていました。まさに日本と同じです。パレスティナ、周辺のアラブ、イスラム圏に対する強硬的で攻撃的な態度はいただけません。
ニュースによると、3月に総選挙という算段ですが、解散発表にともない、二人の中道派の閣僚を解任したそうです。ネタニヤフ首相は、「両氏が政権内で『反乱を起こそうとしている』と指摘、「強固で安定した政府を(選挙で)作る必要がある」と訴えた」そうです。
強烈ですな。
そもそも「反乱」という言葉をどういう意味で使ったのでしょうか。ヘブライ語からの翻訳でしょうから、本当に「反乱」という意味の言葉を使ったのかどうかしりませんけど、「反乱」とは、誰に対する反乱なのでしょうか。連立政権にもかかわらず、首相の属する党の意見に従わないものは「反乱」とラベルを貼って排除する、邪魔者を消して独裁政権にする、こういう強引で一方的なやりかたが、日本のアベ政権と妙にダブります。
パレスティナのマリキ外相は、総選挙後のイスラエル政権は「より右派で過激な」構成になるだろうとの見通しを示した、そうです。
二年の任期を残しながら、独裁政権を作るために、解散選挙で邪魔者を消す、というイスラエルのシオニスト政権と、消費税増税施行時に確実に自民党が政権を取れるようにするために「大儀なき解散」をするアベ内閣。共通しているのは、「驕り」と「恐れ」ですかね。驕れるものは久しからず、「まだ」は「もう」なりです。いずれ来る権力終わりへの恐怖が、こういう行動を取らせるのでしょう。「恐れ」に突き動かされる行動は、必ず、過ちを生みます。
上がれば落ち、生まれれば死に、栄えれば滅びるのはこの世の真実、今度の選挙ではわかりませんが、アベ氏らの勢力がもう長くないことははっきりしています。始まりがあればいつかは終わります。
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末期の資本主義

2014-12-02 | Weblog
金曜の夜遅くに、余り点数が良くなかった研究費申請の評価表の詳細が出ました。月曜の5時が〆切の補助資金への応募にこれが必要だったのですが、今回なかなか出なくて諦めかけていたのです。金曜深夜に出たようで、土曜の朝に気がつき、申請をどうするか、週末にでしたがメールしたり電話したりして、結局、出せるのなら出そうということになり、申請書を書き始めました。全部で5ページ。評価の詳細を読んでどう対応するかを作文して提出しないといけません。研究申請書の評価を見ると、一人のレビューアには大変好評でしたが、あとの二人はあまり好意的とはいえません。かなりインパクトのある未発表データを申請書に入れたら、「重要なデータはもう出ているのだから研究費をサポートする必要はない」みたいなコメントがあって、萎えました。かといって、このデータを入れないと、「研究アのリスクが高過ぎる」と言われるのはわかっているので、入れないわけにはいきません。また、研究の新規性については、コンセプトが新しいことを相当強調したのに、その辺はほとんど評価されず、新しいマウスを作っていないとか解析方法が陳腐だとかのテクニカルな目新しさがないことを批判されました。コンセプトの新しさを売ることは技術の新しさを売るよりも難しいのはわかっていましたが、これほどとは思いませんでした。次は、最近のホットな研究技術を潜り込ませるしかないです。今回の補助資金への応募を出した後に、本格的にどう対応するかを考えねばなりません。
それで、週末と月曜日の午前中はその補助資金の申請書書きにに忙殺され、今ようやくメドがついてホッとしています。通るという保障はありませんが、先立つものがなければ先に進めませんから、やれることをやるまでです。

先立つものを得るために、研究者も普通の大勢の人も苦労します。しかるに、近年では、格差が広がり、一部の人は必要以上に富み、その他大勢は貧困に沈む、という資本主義の本来の姿があらわになってきました。生産と消費の増大が継続しているうちは、それでも一億総中流というのが可能でした。しかし、カネのために、必要もないのに、生産し消費しつづけることには無理があります。とくに、最近の日本では、第三次産業、つまり本来、絶対に必要不可欠ではないような仕事、が経済の主流になってきています。朝から晩まで必死に働いて、ビデオゲームなど遊びの道具を作ったり、インターネットコンテンツを作ったり、マネーゲーム(博打)をしたりしたりしています。それも余裕があって文化を育んだりヒマつぶしのためにやるというのではなく、仕事がないとカネが手に入らないので、必要もない仕事をわざわざ作ってやっている、という本末転倒状態なのです。資本主義ではカネは力であり、それゆえに人はカネにしばられしまうわけです。最も必要のないものと言えば「戦争」でしょう。近代の戦争は、戦争に使う物資の消費と生産を増やし、カネをもうけるために行われてきました。その本場のアメリカでさえ、それももはや限界にきつつあります。戦争放棄している日本においては、戦争で景気をよくするというのは最初からオプションにありません。そんなわけで、管理通貨制による資本主義は、早晩、成り立たなくなるだろうと私は思っているのですが、最近、ちょっと前の内田樹の研究室のエントリー、「資本主義末期の国民国家のかたち」を読みました。タイトルを見て、この人も現在「資本主義の末期」であると認識しているのだなあ、と思いました。かなり長文の本文は、ほとんどが、対米従属の中で国益を追求しようとした戦後日本の話であり、それが、時間を経て、現在の官僚やアベ政権のような近視化、幼稚化したリーダーシップへと世代交代するにつれ、その考え方どんどん誤解され矮小化してきたという話が主です。資本主義に直接言及した部分は少ないのですが、多分、短期的利益のために自分が住む国を売り、国の将来を潰し、同胞と自らの子孫に犠牲を強いるというところまで、行き着いてしまったことをもって、「末期的」と言っておられるのだろうと思います。健全な資本主義、そんなものがあるかどうか知りませんが、カネが力であり、カネで人を支配するシステムが資本主義と呼ぶのであれば、現在のそれは、本来の主体である国や人間の健全性を無視した非常に病的なレベルに達していると私も思います。いわば悪性化し進行した腫瘍のようなもので、その点から見れば末期です。放置すれば国を滅ぼし人を滅ぼし、そして自らを滅ぼすことになるだろうと私も想像します。現在の政権は、短期的にそのシステムから利益を得る一部の人の利益のために、その進行を早めようとしてきました。このタイミングでの解散は4年の政権延長を果たして、その間での消費税増税を確実にするためです。末期資本主義という病態を破滅ではなく、よりダメージの少ない状態でコントロールしていくためには、現政権にさらなる4年の権力を与えてはならないと私は思います。
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