百醜千拙草

何とかやっています

風向きの変化を感じた党首対談

2009-05-29 | Weblog
民主党が鳩山新代表となってから、初めての自民党との党首会談が行われました。私は聞いていませんが、メディアの報道が五分五分と伝えていますから、実際は多分、八分二分ぐらいで民主党の圧勝だったのでしょう。最近、何かにつけ、しくこく民主党批判を繰り返してきた大手メディアの論調が、多少おとなしくなってきたように思います。多分、メディア側も自民党を見限ったのでしょう。選挙の後、与党となる民主党連合に乗り換えるべく、民主批判を自制しだしたような感じを受けます。メディアは信念もプライドもないのでしょうね。洞が峠の筒井順慶ですか。そう言えば、昔、「風見鶏」と言われた首相もいました。
また第三者委員会が西松献金事件について、小沢氏からヒアリングを行ったということが、会談中に明らかにされました。大久保秘書の異常な3ヶ月におよぶ拘束後の保釈を裁判所が決めたこともあり、風向きが完全に民主党側についた、とメディアも判断せざるを得なくなったのでしょう。第三者委員会は、おそらく、今回の検察の異常な逮捕、秘書の不当な拘束について、徹底的に検察を糾弾することになるでしょうし、この件で収賄罪などの有罪判決となるわけがありませんので、これらの第三者委員会の見解、裁判の無罪判決(まだ当分先となるでしょうが)が表に出たら、一気に検察批判、検察を使った国策捜査疑惑、さらに、国民の官僚政治への反感を呼んで、かなりの大差で政権交代が実現するものと思われます。
この党首会談で、アホウ氏は、大久保秘書が全て法に従って正しく処理したのに逮捕されたことについて、「本人がいくら正しいと思っていても間違っていた場合は逮捕されることは十分にある」と述べたそうで、この発言に対して、第三者委員会のメンバーでもある郷原教授は、この政治献金において「犯意のない過失によって逮捕される」というアホウ氏の見解は大幅に刑法の規定に反するものであり、首相が公で口にするとは信じられないと述べられています。しかも、この件に関しては、過失さえなかった可能性が高いわけですし。つまり、法治国家であるはずの日本で、首相自ら、国会という公の場の答弁で、法を無視する様な発言をして平然としている、という今の日本の異常な状況、またそれに全く触れようとさえしないメディアの腐敗度というものを嘆いておられるわけです。

残念ながら、政権交代したからといって、すぐに状況が改善するとは思えません。小泉政権時の負の遺産が随分残っていますから、それを少しずつ返していかねばなりません。少子化、経済の低迷、資本主義国家で最高の自殺率、世界最大の借金国と日本の現況と近未来は暗い材料に満ちています。状況の改善があるとすれば、十年単位の時間がかかるのではないかと思います。だからこそ、政権交代後の民主党にはしっかり腰を据えて、国民の声に誠実に対応し、様々な障碍に負けずに頑張ってもらいたいと思います。
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ピンクパンツの兵隊さん

2009-05-26 | Weblog
この月曜日はアメリカではMemorial Dayで、過去、戦争で犠牲になったアメリカ軍人を偲ぶための祝日で、各地でパレードが行われます。独立記念日もそうですが、パレードや儀式では、大砲が打ち鳴らされ、兵器を帯びた人々が行進します。私は、儀式であれ何であれ、兵器を気軽に持ち出す、このメンタリティーに拒否反応を感じてしまいます。我が家では、おもちゃであっても鉄砲や剣は禁止しています。私にとって、それらは不吉な意図に沿って作られた不吉なものだからです。老子も、「兵は不祥の器にして、君子の器にあらず」と言っています。やむを得ず、兵を扱わねばならないときは、不祥の器であることを十分意識して戒めよ、という教えですが、アメリカ人一般には、どうも、そうした感覚が大変希薄なようで、史上最低の大統領ブッシュの言動からも明らかなように、「戦争で敵を倒し、自国を守るのは正しいことである」とでも思っているようです。国益のために、国が戦争 を美化し、アメリカ国民を操作する必要があるのは分かりますが、私からすると、これは全く禍の種を自ら育てているのに他なりません。軍事クーデターは未だにあちこちで起こってきていますし。アメリカ人には、「国破れて、山河あり」という言葉は理解不能なのかもしれません。また、Memorial Dayが良くて、靖国参拝が問題であるというのは、主には戦勝国と敗戦国であるという立場の違いでしょうが、日本人の戦争そのものに対する嫌悪感もあるのではないでしょうか。

 さて先日、19歳のアフガニスタン駐在兵士、ザッカリー君は、寝込みを敵に襲われ、ピンクのパンツに赤の「I love NY」Tシャツ、突っ掛け履きのまま、戦闘に参加したところ、担当報道カメラマンに写真を撮られて、NYタイムズの一面に登場しました。

http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=104493189



マンガのような実話ですけど、この写真を見ると、普通はプッと吹き出してしまうと思います。戦場という生死の危険を伴った緊張の場所で、ピンクのパンツと突っ掛けで戦っているというアンバランスが可笑しいです。でも、昔の日本の武士だったら、切腹ものだったかも知れません。兵士たるもの、いつでも敵の襲撃に対応できるように、準備が出来ているべきで、ピンクのパンツと突っ掛けで戦場に出るとは何事か、という意見もあることは十分想像できます。十分準備できていない体制で戦場に出ることは、自らの身のみならず、味方を危険にさらし、任務の遂行を妨げる可能性があります。本来、軍隊の兵士は機械の部品であらねばなりません。軍というチームが勝利するためには、機械の部品としての機能が優先されなければならず、兵士の人間性は抑えられなければなりません。だから、私は軍隊と聞いただけで、嫌悪感を感じてしまいます。軍隊式の訓練を売り物にする私立中学校がありましたが、軍隊式訓練自体がとんでもない悪い教育であると、私は思います。国のために喜んで死んでいってくれる、自分の判断を停止できる、ロボットのような人間をつくる、そんな教育を戦前の日本は行っていました。そんな子供に洗脳的教育を行う(最近でも日本の社会科教科書の戦争美化の改ざん問題がありました)のは極悪犯罪であると私は思います。アメリカの軍隊でも、機械の部品となるトレーニングはもちろんされますが、入隊する人の動機は、主に金銭的なものであって、自動車工場に就職するのと感覚的には変わらないのだろうと思います。
  ピンクパンツの兵隊さんの写真、私も見て、にやにやしてしまいました。戦場であれ、兵士であれ、人間はやはり人間であり、そこには生活があって、飯を食ったら眠くなって、Tシャツ、パンツ一丁で寝る、いくら敵を殺傷することが求められていても、ハートマークのついた「I love NY」シャツを着てくつろぐ、兵士もそんな人間なのである、というメッセージを感じます。多くの人が、この写真を見て、つい笑ってしまうのは、機械の部品たるべき兵士の人間性が、そこに余りに鮮やかに現れているからではないでしょうか。
  私は人間第一主義で、反国家主義、反愛国主義なので、この際、アメリカ軍のユニフォームは全部、ピンク色にして、胸にはピースマークでももつけてもらったら、タリバーンの攻撃意欲もなえるのではないか、と思ったりするのですけど
 戦争をなんとか、戦争ごっこのレベルにできないものだろうか、と思います。

追記、リンク先の「Real Men Wear Pink Boxers」の解説で紹介されるザッカリー君のお母さんの談が、おかしいです。
「私は、いつも、ズボンをしっかり上げてなさいと言っていたのよ、子供たちにはWedgie*までしていたものよ、それでも、この子はいつもパンツ一丁でうろちょろしていたわ」
* WedgieについてはWikipedia をご参照ください。
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ゆるすということ

2009-05-22 | Weblog
前回、鳩山民主党新代表のスローガン、自立と共生、友愛、について、これらは即ち、Wayne Dyerが言う、Self-relianceとCompassionのことである、というようなことを述べました。Wayne Dyerはその著書の中で、この世に生まれてくる前に、自分の人生の使命として、人々に三つの重要なことを伝えることを選んだ、と書いています。(これは、催眠術を使って前世の記憶を探る方法を使ったのであろうと思います。この方法で本当に出生前の記憶が分かるのかどうか、私はもちろん知りません。しかし、大事なのは、それが彼の出生前の記憶かどうかという点ではなく、現在、彼がこれらことに強く意識的であるということであると思います)
その三つのことは、前回、触れた通り、

Self-reliance
Compassion
Forgiveness

です。人は自らの人生を自ら自身で生きなければならいということ、そして、自分の人生の全ての出来事、例えそれが不可抗力によるものと思われるようなものに対してさえも、自分で責任をもつことを学ぶことは、極めて大切であると思います。不運や困難に際して、他人や時代や状況を責めることで、問題に対峙することを避けようとするのではなく、困難や逆境から学ぶことができてはじめて、人は成長できるのだと思います。エリザベス キューブラー ロスも、人は逆境からしか学べないと言いました。
 そして、CompassionとForgiveness、これは感情の問題が入りますから、ちょっと難しくなります。まずは、Compassionを持てるだけの想像力、そして寛容力と包容力をまず身につけないと、Forgivenessには到達できません。難しいことですが、全ての人はこれらのことを学び、実践するために生きているのだ、と私も思います。
この本の中で、Compassionについて興味深いエピソードが紹介されています。チベットへ圧力を深める中国に対して、チベットの僧侶が「私は、危機に瀕しています」と言ったという話です。Dyerは、身体的、物理的な危機のことであると思い、物質的なものに執着心の乏しいチベットの僧侶がそのように言ったことに疑問を感じて、聞き返しました。それに対し、僧侶は「そうです。私は危機に瀕しています」と答え、そして、続けてこう言ったのでした。「中国へのCompassionを失うかもしれないという危機に私はあるのです」
 自らへ向かってくる敵に対してさえ、理解し、愛を注ごうとする気持ちを持ち、そして実践すること、それが人間に求められていることです。そして、これ以外に敵を友に変える手段はありません。しかし、感情の動物である人間が、自分に害を及ぼす者に対して、相手の立場に立って、その気持ちを理解し、思いやることはとても困難なことです。
 Forgivenessについて、この本には、自分の一人娘を殺された母親が葛藤の末、犯人を赦すという話も紹介されています。これを理解するのは、易しくありません。同様に「恩讐の彼方に」などの文学、あるいは宗教の教典などの寓話に、肉親を殺した相手を赦すというテーマが、昔から繰り返し、とり扱われてきました。それは、憎しみという感情が、人間にとって大変有害だからだと私は思います。パーリ教には憎しみはそれを忘れることによってしか消すことは出来ないとあります。人間、不条理に対して、憤りや怒りや憎しみを感じるのは安易です。そして、それが特定の人間の意思によってなされた場合には、誰でもその相手を憎む気持ちを持つでしょう。憎むのは簡単ですが、赦すことは困難です。しかし、「許さない」という選択をする場合を「許す」という選択をする場合に比べてみると、色々、悪いことが多いことに気付くでしょう。仮に、憎しみ抜いて、犯人を死刑にしたところで、殺された我が子は帰ってきませんし、多分、遺族は何の安らぎも得られません。せいぜい、この犯人が二度と犯罪を犯すことを防いだ、と自分を納得させるのが精一杯でしょう。正義のためとか、見せしめのためとか、復讐を正当化するための理由は、いろいろ、思いつきます。でもそれは、多くの場合、単なる言い訳にしか過ぎないのではないでしょうか。憎しみは憎むものを蝕みます。憎しみを持つものは、その憎しみのためにより不幸になっていきます。
 人は死んだら誰でも素晴らしい天国で幸せに暮らすのだそうです。この世が修行の場所なので、ある魂はわざわざ、悪人の人生や困難な人生を選ぶのだそうです。ですので、私は、事故や病気で死んでも、人に殺されて死んでも、死んだ後の魂は皆、この世での修行期間が終わって楽しくしているものと思っています。もしそうなら、殺された我が子はすでに天国で幸せになっているのに、遺族が「我が子を誰かに殺された」という恨みを持ち続けるのは、好ましいことではないのではないかと思うのです。憎しみ続けることを選ぶのも、赦すことを選ぶのも、実は自分が選択している、ということに人はしばしば、無自覚です。感情に流されずに自分の意志でより良い方を選ぶことができるように努力することは、幸せに生きる上で大切です。
 「選ぶ」ことについては、またの機会に書きたいと思います。
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誠実さと包容力の民主党新代表に期待

2009-05-19 | Weblog
予想通り、鳩山氏が民主党代表に選ばれました。岡田氏の敗因について、表に出ている点として、1.消費税増税を明言していること、2.検察批判に否定的な見解を述べたこと、などが議論されています。確かにこれらの点は、1.消費税増税は政府機関の無駄遣いを徹底的に無くすまでは議論しないと言い、2.小沢氏公設秘書逮捕後すぐ、逮捕の妥当性について検察批判をおこなった、鳩山氏と対照をなすものです。これらは実は末端に現れたこの二人の覚悟というか見識の差ではないかと私は思います。二人とも政権交代を危急の目標としているのは同じです。しかし、この二人の言動から感じることは、鳩山氏からは、「政権交代を通じて官僚支配の国民搾取構造を壊し、民主主義に基づく国民主体の日本の社会を実現したい」という視点が感じ取られるのですが、岡田氏からは、「政権交代して自分が首相となる」ということがあたかも最終目的であるかのような印象を受けます。つまり政権交代という「手段」を越えて、「国民や日本の社会のために」よりよい政治を実現したいという思いが伝わってこないのです。それが、消費税増税、検察批判否定、として表に出ているというように感ぜられます。
 増税論は、国民のために破綻しつつある年金を支えるための財源がいる、そのためには、増税しかない、という理屈なのですが、それは結局、国民の老後のためといいながら、まずは国民から金を取ることをもって、それに当てるのですから、謂わば、余計なおせっかいです。しかも、消費税からの税収を年金に当てるのでは、消費する人としない人との間で不公平だとも思います。それなら、いっそうのこと、年金システムそのものを廃止してもらって、個人での引退資金積み立てを義務化し、それに税制優遇を与える方がましだと思います。「金がないと何もできない」というのは、金持ちの理屈です。これまで、天下りの官僚のために巨額の税金を使って箱物を作ったり、企業を脅かしたりして、働かない人に多額の金銭を支給してきているわけです。そういう不正な金の使用を止める、それが第一でしょう。でなければ、ざるに水を注ぐようなものです。働かないのにお金がもらえる元官僚がいるということは、働いているのにピンハネされている人がいるということです。ピンハネされているのは、そういう利権構造と無関係な一般国民です。官僚は、長年にわたって作り上げてきた国民の税金をピンハネするという構造を今後も維持したい、と望んでいるわけです。官僚にとって、増税は善であり、無駄遣い見直しは悪です。となれば、安易に増税を口にする岡田氏と、増税を考える前にまずは支出を見直すという鳩山氏を比べれば、どちらが政権交代後の官僚政治解体に真剣なのか、自明ではないでしょうか。また、自分の党の党首が理不尽で不当な検察の横暴とそれを煽り立てるマスコミを使って、失脚劇を仕組まれたのに、検察批判を自ら封じるような権力迎合主義的発現は、次にもし自分が党首となった場合に権力の不当介入を恐れての保身的な発言と聞こえます。勝負の前から腰が引けてます。そのような人に官僚政治と戦えるのかという不安が出るのもむべなるかな、と思います。「政権交代のために身を捨てる」と言える人と、権力を恐れて自党党首が検察の不当捜査を受けたのにも係わらず、それに抗議するどころか、迎合するような発言をする人では、覚悟や見識の差を歴然と感じざるを得ません。
 もう一つ、鳩山氏について感心したことを書き留めたいと思います。鳩山氏は、今回の代表就任にあたってのTVインタビューで、「自立と共生」、「友愛」という言葉を使っていました。TVに司会者は、これらの言葉が漠然としていて分からない、とコメントしていましたが、私に言わせれば、これらの言葉が理解できないようでは「大人として失格」であると思います。「自立」は、人間がまず覚えねばならないこと、「共生」は自立した人間の「友愛」によって可能となるものであると、私は思います。以前、書きかけて、続きをまだ書いていないエントリー、「なぜCompassionが必要か」という話で、私はWayne Dyer(老荘思想家)の話を紹介するつもりでした。彼は自分の使命を、人々に人間にとって重要な三つのことを教え、広めることであると言っています。その三つとは、Self-reliance、Compassion、Forgivenessです。私はこれに深く同意します。社会の基礎は人間一人一人です。その一人一人がこのような資質を身につけ、実践することが理想です。鳩山氏の「自立」と「友愛」は、まさに、この人間としてあるために、必要な資質、Self-relianceとCompassionを言っているのです。そうした言葉を政治のスローガンに使うという点に、私は鳩山氏の人間としての誠実さを感じました。また、人間的にも政治家としても、いま一歩足りない岡田氏に対しての言葉や処遇においても、鳩山氏の包容力が感じ取られて好ましく思いました。政治家であれ何であれ、誠実であり、心の底から信じていることを口にすることができ、その信念に沿って裏表なく行動できる人間が最も強いのです。今回の鳩山氏のインタビューを聞いて、私は、鳩山氏に思いがけず、頼もしさを感じたのでした。
 今回の代表選挙での鳩山氏の就任は、国民にとって、正しい選択です。しかし、鳩山氏で選挙に勝てるのか、という不安はまだ残ります。小沢氏がこの後、どう動くのか、やはり選挙の帰趨は小沢氏にかかっているように感じます。
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疑問残る小沢氏の代表辞任(2)

2009-05-15 | Weblog
前回、小沢氏の辞任が政権交代に向けて、逆効果ではないかと書きました。その続きをもう少し。
 今回の小沢氏の辞任は、その本意がどうあれ、また、いくら「政治責任をとっての辞任ではない」と本人が言ったとしても、「何か代表職にふさわしくない、やましいことがあるから辞めたのだ」と短絡的に考えてしまう国民が多いのではないかと危惧します。それは、結局、長期的には、民主党党員への支持を落とすことにつながるのではないかと思うのです。
 後継者には、消去法で、鳩山氏が指名されると思われます。岡田氏では役不足と皆が思うでしょう。何と言っても前回の総選挙で惨敗を喫した時の代表ですから、岡田氏では「まずは選挙に勝つ」ための小沢氏辞任が無駄になるのではと危惧する人も多いでしょう。そのぼろぼろだった民主党を野党第一党に育て上げ、参院選まで制したのは小沢一郎であるというのが皆の認識であると思います。多くの人が指摘している通り、自民公民は民主党が怖いのではなく、小沢一郎が怖いのです。検察を含む官僚組織がもっとも恐れているのは小沢一郎個人であって、民主党ではないわけですから、もし次期民主党代表が小沢氏とは距離をおく岡田氏になってくれたら、与党、官僚は、とってもうれしい筈です。事実、マスコミはそういう線で世論誘導を始めています。  
 鳩山氏の問題は、小沢氏と近過ぎるということでしょうか。小沢一郎が辞めて、鳩山由紀夫が代表になったのでは、単にラベルを張り替えただけで内容は変わらないと一般国民は見るでしょう。小沢氏がやましいことがあるから辞めたのだと勘ぐる国民は、鳩山氏の代表就任をただの目くらましととる可能性があります。一方、真剣に政権交代と官僚政治の終焉を望むものは、小沢一郎に頑張ってもらわねばならないことを知っています。そのためには、鳩山代表という選択しかありません。万が一、岡田氏が代表となれば、次の選挙では民主党はむしろ、票を失う結果にもなりかねません。
 小沢氏辞任の意図は、民主党内で自己保身を第一にしか考えない腰抜け議員の不満を抑えて、党の結束を図るということだと思うのですが、やはり、私はそれは本末転倒ではないか、と感じざるを得ません。「国民のための政治を実現したい」という小沢氏の理想の実現に向けて、手段を選ばないのでは、それが仇になります。いくら抵抗が多くても遠回りに見えても、その理想に向かって、正しい手段を経て目的を達成しない限り、仮に目的に到達しても長続きしないと私は思うのです。
 小沢氏のロジックは、国民のための政治を実現したい、そのためには、官僚支配を終わらさねばならない、そのためには、自公政権の力を削ぎ、政権交代を果たさねばならない、そのためには、民主党の団結が不可欠である、そのためには、民主党内の長期的視野のない腰抜け議員と一部の国民の不満を抑えねばならない、そのためには、バッシングの標的になっている自分が代表を降りるしかない、ということなのでしょう。しかし、ここでは、政権交代という理想実現のための「手段」のために、「正義」が曲げられてしまっています。それがマズいと思います。そもそも民主党の腰抜け議員に道理を通すだけの根性がないのが悪いのですが、それを説得できないのだから代表としての力不足と小沢氏が考えるのも無理はありません。民主党支持者の間では、この代表辞任を、民主党をまとめるためにやむ無くとった手段として、比較的肯定的に意見を述べている人を見かけますが、私は、その意見に素直に同調できません。思うに、「手段」は既に「目的」の一部であって切り離すことのできないものです。正しいことを曲げて、目的を達成しても、それでは真に目的が達成されたとは私は思いません。検察、マスコミの横暴、それこそが、これまで多数の無実の人に罪をなすりつけ、民主主義を踏みつけ、無力な人を蹂躙してきた「悪」ではなかったのでしょうか。今回、小沢氏が、そうした「利権構造の手先に負けた」という印象を国民がもってしまうのは非常に良くないことであると思います。
 この民主党を纏めるための代表辞任を、「肉を切らせて骨を断つ」作戦であると肯定的に考えている人もいるようですが、政権交代は骨ではなく、それは手段に過ぎないわけで、肉を切らせたダメージは、仮に政権交代がかなったところで、その後の本当の目的である官僚政治解体へと進んでいく過程で、再び障害となって現れてくるでしょう。小沢氏を非難する人は、未だに、元自民党で田中角栄と金丸の弟子だと、過ぎ去った過去を引っ張り出してきて、不毛な議論をするのですから、今回の辞任、いくら本人が「政治的、刑事的責任」のための引責辞任ではないと主張したところで、後になれば、「秘書が不正献金疑惑で逮捕されたから辞任したのだ」と、非難されることになります。都合の良いところだけ取り出して、勝手な理屈を作って、世論誘導するのは、マスコミの得意芸です。
 私は、今でも、小沢氏の辞任は間違っていると思いますし、どんな奇手でもよいから、(例えば、鳩山氏が代表になった後、もう一度代表を譲り返すとか)辞任を撤回してもらいたいものだと思います。
目先の選挙に勝てなければ、官僚政治解体、議会制民主主義の導入という大きな目的に達することができないという気持ちは良くわかります。しかし、あせってはいけません。この目標は必ず達成できます。そのためには、正しいことを積み重ね、国民一人一人の支持を得る地道な活動をする以外に近道はないと私は思います。小沢氏の辞任は正しいことではない、私はそう思います。そして、小沢氏が正義を曲げてまでとったこの辞任という決断は、裏目にでそうな嫌な予感がするのです。
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疑問残る小沢氏の代表辞任

2009-05-12 | Weblog
小沢一郎の民主党代表辞任のニュース、正直、がっくり来ました。本当に読めない人です。私、この辞任が、本人の意図とは逆に、政権交代を遠ざけるものとなってしまうのではないかと危惧しています。小沢一郎以外に、一体、誰を担ぎ出せば、民主党が勝てるのですか?思い浮かびません。これまでの国策捜査、偏向報道にもめげずに代表へ留まって来たのは、政権交代への執念ではなかったのでしょうか?このタイミングで代表辞任してしまったのでは、逆効果にしか思えません。日本が封建時代を脱し、近代国家へと脱皮するための最大のチャンスを迎えた最後の最後になって、小沢氏、このタイミングで代表辞任とは、「その説明責任を果たしてくれ!」という国民の叫びが聞こえてきそうです。次の代表についての質問に、小沢氏は、「辞めて行くものが、次の人について論ずべきではない」と答えたようですが、それこそ、無責任ではないですか。「選挙に勝って、政権交代をする」という目標を達成すると言っておきながら、自分がとりあえず辞める他にストラテジーを示せないのなら、国民はその辞任をどう納得すればよいと言うでしょう。少なくとも、グラント申請では、研究計画が成功しなかった場合に備えて、バックアッププランを検討していなければ、確実に落とされます。自分が代表を辞めれば、民主党が纏まると言うが、それは、私は逆だと思います。小沢一郎が民主党に合流して、この寄り合い部隊を纏め、野党第一党にまで育ててきたのではなかったのでしょうか。彼が居なければ、今の民主党は無かったし、その求心力ゆえに、逆に党内から反小沢派が出てくるわけで、最初から小沢一郎がいなければ、反小沢派など生まれるはずもありません。それを、勘違いしたのか、自分が表に立ちたくないことへの言い訳にしたいのか、「自分が辞めれば民主党が纏まり、選挙に勝てる」というのでは、本末転倒で、言い訳にしか聞こえません。前回の大連立にしても、彼は、国民の気持ちを真っすぐに真っ正面から受け止めようとする覚悟に欠ける所があると思います。悪い言葉で言えば、目的のために手段を選ばず、そんな所があります。それが残念です。表で真っ向勝負するより、裏に回って自由に動く方が彼もやり易いのはわかりますが、この政権交代がかかった正念場で、小沢一郎以上の人材のいない民主党なのに、最後まで覚悟を決めて突っ張れない、というのが悲しいです。
 昔、好きだった力士は安芸乃島でした。小柄でありながら、怪力の持ち主で、腰が重く、がっぷり組まれた不利な体勢から、その底力でひっくりかえして、しょっちゅう横綱を倒していたものでした。自分より格上のものには随分強いのですが、攻めが遅くて、逆に格下のものには弱いという弱点があり、総合結果ではどうしてもトップになれないというタイプでした。小沢氏も、安芸乃島タイプならちょっと悲しいです。政権交代を成し遂げるには、マスコミのバッシングや国策捜査などを蹴散らさねばなりません。民主党内の不満など張り手一発で吹き飛ばさねばなりません。ここでの攻めは、直線的で圧倒的でなければならないのです。最後の最後で変化球でボール球に手を出させようというようなセコい算段をしてはいかんのです。その辺のことをどこまで考えたのか、政権交代に命をかけると言うならば、本当に命をかけて、最後まで代表として信念を曲げず、表に立って、真っ向勝負を厭わずに戦って貰いたかった、と思います。「大連立」のときも、数日で撤回しました。もう一度、代表辞任を撤回してもらいたいと思います。
 ひょっとしたら、民主党の代表選挙で結局、適任者なし、ということになって、民主党内の支持を得て、再び代表への復帰というシナリオがあるのかも知れません。仮に、そういう筋書きがあったとしても、そんな小技で「雨ふって地固まる」をねらうような作戦を私は支持しません。ストレートに正直にぶつかって、正面から政権交代を成し遂げてもらいたいと思います。そうでなければ、国民は民主党を信用できません。政権交代は、官僚政治を廃し、マスコミと権力との癒着の上に築かれた利権構造を破壊し、在民主権を実現するためのものではないですか。戦いは既に始まっています。ここでマスコミの偏向報道、捏造記事、検察の国策捜査、に負けたという印象を与えたのでは、仮に政権交代が実現したところで、本当に官僚政治廃止が実現できるのか、という国民の疑念が残ってしまいます。政権交代は正面突破で行わねば意味がない、私はそう思うのですが。
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Compassionを持つ

2009-05-08 | Weblog
しばらく前、Compassionは人間がこの世にいる間に学び実践する重要項目の一つだということを書きました[卵の側に立つ(5)]が、4/24日号のScienceは、Stanford大で、Center for Compassion and Altruism Research and Education (CCARE)という研究センターが発足したことを伝えています。Altruismは日本語では利他主義と訳されていますが、動物界でも利他的行為が見られることが分かっており、これに関する研究は結構、さかんになされています。利他的行為が結局は種や個体の存続に有利に働くことがあって、利他的行為が変異と自然選択によって、動物界にもあるのだという、ダーウィニズム的解釈が、しばしばなされます。この記事の中でも、ダライラマの「人間の最も高貴な美徳は、われわれの同情心が、より暖かく広がって、感じとれる者すべてに行き渡るところから、偶然に生まれたようである」との一節に触れて、利他行為が偶然に生まれ、進化したものだという考えを元UCSFの心理学者、Paul Ekmanは肯定しています。 しかし、Compassionのこういう見方は、その一面しか見ていないと私は思います。また、Compassionという同胞を思いやる気持ちを表す概念と「利他主義」という言葉を並列して並べるのはいただけないと私は思います。
 利他主義に対して利己主義という言葉がすぐ浮かびます。つまり、利他主義には、自己と非自己の二元的見地に立っていて、「自分は他人ではない」という前提があると思います。一方、仏教などにおいては、Compassionは最終的には、自分も他人も同じ場所から生まれた兄弟姉妹であり、他我なく全ての生命が、より大きなSourceに属しているという感覚を以て、実践されるものと思います。適者生存、自然選択、という考えには、生は闘争であり、闘争に勝って生き延び、種を保存することが最重要事項である、という(私が思うに)非人間的考えが中心にあると思います。科学の仮説としてダーウィニズムは結構だと思いますが、それを科学の仮説ではなく、絶対的に真に信じる者はちょっと不幸なのではないかと私は思います。
 少なくとも、東洋での生の考え方は、二元論的、闘争論的なものはありません。またルネッサンスのように「人間は素晴らしい」と声高らかに宣言するようなものでもありません。仏陀は苦諦において、「人生は苦である」と言いました。それは、人は闘争に負ける運命にある、とかいずれ死なねばならないというような理由からではなく、人生は絶対的に「苦」であるということだと思います。そこから出発し、その「苦」をどう解釈し止揚するかを考えようということでしょう。決して、闘争に勝つから素晴らしく、負けるから苦しいのだ、というような相対的な考え方ではないと思います。そういう意味で、利他的、利己的と対で使われるような概念と、東洋における慈悲というような絶対的な概念とは、質的にもずいぶん違うものではないかと私は思うのです。
 Compassionを持つには、高い感受性と想像力が不可欠ですが、このCCAREがサポートした研究で、「Compassion-training protocol」というものが紹介されています。一般大学生を被験者に、週に二時間の瞑想の仕方を教え、6 - 8週間にわたって、人に対する同情心を養うトレーニングを行うというコースで、100人の学生を対象に検討した結果では、このトレーニングでCompassion度の上昇が見られたとのことで、Compassionは訓練によって養うことができるという結論のようです。面白い試みですけど、私は、このように形から入った場合に、そこだけに留まらないようことが大切であろうと思います。
 求道者、雪峰が、兄弟弟子の巌頭の一言で、悟りに至ったエピソードが「鰲山成道」という一節に残されています。 鰲山で雪に押し込められた時、巌頭の「 全てを胸中より湧き出させて、天地に覆いかぶさっていくようにせよ」とのアドバイスを受けて、雪峰は言下に大悟したとあります。Compassionはトレーニングで形は得られるかも知れません。それが西洋二元流のCompassionであるとすれば、東洋が考えるものはもっと根源的で、自らの胸中から出て世界に広がるようなものであろうと私は思います。二つに分かれる前に目をつける、無分別の分別、が東洋にやりかただからです。Altruismという言葉で示唆される自分と他人とが別個のものであるという認識上で他人の利を考えるよりも、自分も他人も同じところから出て来た同胞であるという認識から自然と生まれるCompassionを持ちたいものだと私は思います。  
 ところで、なぜ、Compassionがそれほど大切かというと、CompassionはForgivenessの基礎であるからです。それについては、また次回。
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縮小への転換を望む

2009-05-05 | Weblog
ニュースによると、政府の試算だと、20 - 30年後には、年金の積立金は枯渇し、年金制度が崩壊するそうです。そのころに生きていたら、私も引退を考えているかも知れませんから、折角、払ったのに年金はほとんど貰えないということになるかも知れません。その可能性はかなり高いと思いますし、試算してみるまでもなく、アメリカの例などを考えても、日本の経済成長と生産人口の減少を考えると、お役所が運用する年金制度が崩壊しない方がおかしいと思うのが普通でしょう。401kのような個人運用による引退後資金の積み立てに税的優遇処置を与えることを考えているそうですが、これまでの杜撰な年金管理を考えると、引退後資金の税制優遇をさっさと導入して、年金制度を廃止してもらった方がよいような気がします。結局、今は国民全員、年金の積立義務があるわけですが、これは積み立てとは言えないと思います。私たちの年代が引退するころには、積立金は残っておらず、支払額もおそらく積み立てた額の数分の一ぐらいしかもらえない可能性があるわけですから、それなら、タンスに貯金しておく方がよっぽどましだと思います。
 私は日本の将来にはかなりの不安を持っています。戦後の日本は目覚ましい勢いで経済成長し、バブル崩壊直前には、世界第ニの経済大国となり、そして下り坂にかかりました。勢いにのって、拡大するのは簡単ですが、うまく縮小するのは難しいです。戦後の高度経済成長とその後のバブルの夏の間に、日本政府は冬への備えを怠っていたと思います。現在でも、日本をダウンサイズしようという意見が余り見られないのは、私には不思議に思えるのですが、そもそも、ダウンサイズをどういうように行うのがよいのか、誰もよいアイデアがないのでしょう。その点、イギリスやその他のヨーロッパ諸国のように隆盛と没落を経験した後に比較的落ち着いた社会を達成できた国々に学ぶものがあるのではないでしょうか。
 先日、クライスラーがついに破産しました。GM、フォードも時間の問題です。その敗因は、これらの大自動車産業が、日本やその他の外国の自動車メーカーとの厳しい競争の中において、うまくダウンサイズして、ニッチを確立することができなかったのが原因と思います。調子が良かった時にどんどん拡大して、巨大な生産、販売網を一旦作り上げてしまったら、それを自ら削減していくことが、心情的にも困難なのはよく分かります。しかし、収入が減って家のローンが払えなくなったら、正しい選択は、借金してまでもローンを払い続けることではなく、家を処分して少しでも負債額を減らし、体力の回復を図ることではないでしょうか。日本は経済成長の時代から、親方日の丸で、国民から金を巻き上げて、役人が浪費してきました。それでも、経済が上向きであった時には、社会はそれなりに回っていました。現在、生産人口が減少に向かい、老齢化し、貧困化が進む日本で、過去六十年に渡って国がやってきたようなことを続けることはできません。やらねばならない事は、うまく所帯を小さくして、体力回復を図ることでしょう。それには、まず社会的な弱者の救済を図り、社会をlow keyながらも安定したものにすること、再び一億総中流(あるいは中の下)というような社会構造を作ることではないかと思います。体力が落ち、格差が開いている状態で、大企業優遇によって雇用を拡大するという現在の政策は、かなりの危険を伴います。外国企業との競争は激しくなっていますから、体力も無いのに拡大路線を目指せば、どこかでコケます。経済活動を含めた社会全体の縮小化を目指し、日本の人口や社会にあった規模の安定した経済活動を目指す(ヨーロッパ諸国のように)のが、長期的にはよいと思うのです。
 年金制度が2-30年で破綻することが分かっているのなら、行き着く所まで行って破滅する前に、何とかしようとするのが、人間の智恵です。このままでは年金システムは、アメリカ自動車産業のように、自転車操業に陥り、結局、自滅する運命にあるのがよく分かっているのに、現状維持、自転車操業路線でしか思考しないのは何故でしょうか?(書いていて気付きましたが、自動車産業の自転車操業というのは悲しいものがありますね)
 そう言えば、関西人はどんなに住みにくくても関西から出たがらない、と脱関西した先輩が言ったのを覚えています。捕まえられて、喰われるのが分かっていながら、居心地のよいたこ壷からでられないたこに喩えて、「関西たこ壷主義」と呼んでいました。たこ壷主義は後ろ向き政策です。「Status quo」という言葉にはネガティブな含意があります。
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日米の科学政策における見識の差

2009-05-01 | Weblog
4月27日にオバマがアメリカ科学アカデミーでスピーチをしました。 1921年、相対性理論で既に有名であったアインシュタインが、初めてアメリカでの学会に来たとき、皆のスピーチが余りに長かったので、「『永遠』についての新しい理論を思いついた」と言った、という冗談からオバマのスピーチが始まりました。 続いて、リンカーンがアメリカの隆盛を望んで、科学アカデミー創設をしたことに触れ、今日の困難な時期での科学研究活動は贅沢である、という考えに反対すると述べ、科学がこの国の繁栄、安全、健康、環境について、今日ほど重要である時はない、と続けました。 過去四半世紀の間に物理科学への資金率は半減し、学力が低下してきている現状に触れて、その回復に向けて、基礎科学および応用技術研究を真摯に支援すること、そして、フランクリンルーズベルトの科学アドバイザーであったVannevar Bushの言葉を引いて、「基礎科学研究は科学の資本である」と述べました。基礎科学研究から、どのような応用技術が生まれるかは、誰も分からないが、歴史をみてみると、太陽電池を作ったのは光電気の基礎研究であったし、CATスキャンを作ったのも基礎物理研究であったし、GPSサテライトの計算はアインシュタインが1世紀も前に書き付けた方程式に基づいている、と例をあげ、基礎科学研究への投資の重要性を強調しました。
 もちろん、このこのオバマの演説の骨子は、科学アドバイザーの意見に基づいているのだと思いますが、基礎研究が重要であるとする現政権の科学政策は、これまでのトランスレーショナル研究重視、応用研究重視に対しての反省を組み入れたものとなっていると思います。
  対して、日本はどうかというと、国の科学研究へのアプローチは、金を集中投下すれば何かでるだろう、というレベルのドンブリ政策で、科学の進歩がどのようになされてきたかかという歴史的認識が欠けているのではないかと私は思います。それを象徴するかのような某バイオテクノロジー雑誌記者のピントはずれのこの意見。

 文部科学省は日本学術審議会に3000億円の資金を拠出、基金を今回の補正予算で創設いたします。この内、2700億円で1テーマ、5年間で平均総額90億円の科学研究を30件支援します。これくらいの金額があれば、わが国でも世界をリードする科学研究のメッカを作れます。但し、従来の大型プロジェクトのように、皆で分けて小分けに資金を投入するのでは、無駄遣いに終わることは明白です。

  一人の天才に90億円委ねるべきです。

 但し、天才といっても条件があります。健全な常識を持ち、チームをマネージメ ントできることです。しかも、明確な次の科学技術に関するビジョンを持つていることも必須条件です。しかも、5年間、嫉妬の渦にも平然とプロジェクトを進める鉄の意志も必要です。

この方には、これまでの科学のブレークスルーが天才にお金を集めて達成された実例というものをまず検討してから、意見を述べてもらいたいものです。私はただの一例も思い浮かびません。それに科学研究での「天才」とは、どんな人間なのか、分かっているのでしょうか?研究での天才など凡人と紙一重の差もありません。仮に本当に天才などというものがいたとしても、それが簡単にわかるのなら誰も苦労しないし、最初から研究費申請などの審査など必要ないでしょう。何のために科学研究のdiversityが維持される必要があるかという根本的な理解が欠けているように思います。正直、オバマの科学アドバイザーとの見識との差にがっくりきます。
 と、ここまで書いた所で、柳田先生がこの研究資金について書いているのを読みました。

 わたくしは、研究投資や研究費分配における「重点」ということばが、研究にとっての非常にわるい環境作りを助長してきたとおもっています。わたくしの研究などはその恩恵を受けたような面があることは事実ですが、単に激しい研究費獲得の生存競争で生きぬいてきた。その時の、選択が重点かそうでないか、ということだったのです。荒廃するのは当然でしょうか。 いま3000億円とか言うお金がまたまた超重点的に研究費として正規予算で配られるようですが、どうでしょうか。栄養の集中的やり過ぎは、樹木を枯れさせるのにたいへん役立つし、その周辺で放置された他の樹木は立ち枯れて行くのかもしれません。 若者たちも、重点研究領域に吸い寄せられて、そこで過剰栄養になるので、そこが重点を終わっても、どこにいっても通用しない心身になってしまうのかもしれません。  教育では最近、ゆとりというのが目の敵にされてていますが、研究面では「重点」という言葉で、たくさんのかけがえのない研究分野が死滅に向かっているような気がします。

まさにその通りだと思います。研究においては、天才だから発見できるのではなく、発見できたから天才であると、後になってから周囲がラベルを貼るのです。そういうすでに「当てた人」に重点的に金を回して、その他の次の大発見を当てようと努力している「これから当てるかも知れない人」をおろそかにするならば、大発見が生まれるチャンスをわざわざ潰すようなものです。

現在アメリカではNIHの年間予算の1/3にあたる巨額の資金が、経済刺激の一環として、医学生物学研究に投入されようとしています。この是非はともかく、その資金は集中投下されるのではなく、各NIH機関を通じて、研究界に広くバラまかれます。NIHは以前から、一点集中ではなく、小口の研究者主導の研究を多く支援する方が、圧倒的に効果的であることを知っているのです。

 最後にオバマのスピーチの最後に引用された、ケネディーの言葉を書き留めておきます。ケネディーの演説に見られるオプティミズムと力強さは、かつて世界をリードしてきた古き良きアメリカを思い出させます。ケネディーは45年前の科学アカデミーでのスピーチでこう言いました。
「困難は、つまり、私たちの救済であるかも知れません」
困難があるからこそ、人は努力し、進歩します。
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