百醜千拙草

何とかやっています

反グローバリゼーション主義 (+追記)

2010-06-29 | Weblog
先日の「内田樹の研究室」でユニクロ、日産、楽天が社内の公用語を英語にしているという話を知りました。 社内の公用語ということは、日常口語言語にも当てはまるのでしょうか?もしそうなら、日本人社員同士の日本国内の社内でも、「ハワユー」「ファイン、サンキュー、アンド ユー?」とかやっているのでしょうか?社員食堂とかで、お昼を注文するとき、食堂のおばちゃんに、「ヤキニク テーショク プリーズ」とか言うのでしょうか? ちょっとワイルドな想像をかき立てられます。発音悪いよ、とか食堂のおばちゃんに直されたりして。

多分、公用語は直接業務に関連しない口語言語は関係なくて、主に文書を英語にするということなのではないかと思うのですけど、興味があるので事情を知っておられる方がおられましたら教えてください。確かに、社内の文書を英語にするというのなら、わからないでもないな、と思います。海外との取引でピジン英語のメールを書くわけにはいきませんし。海外と取引するのに、英語の文章力が必須だ、と思うのは当然と思います。また、英語で文書を書くようにすれば、海外の日本語ができない人々とも共通の文書を共有できるわけですし、もちろん社員の英語力も上がると予想されます。だからと言って、日本の国内の会社で殆どの社員が日本人なのだったら、たとえ文書だけであったとしても、英語を公用語にすることを考えると、私は気持ち悪さの方が先に立ちます。会社が利益を出すという目的のみに沿って運営されていて、社員はその道具であり、その会社利益の最大化のために言語を英語にすることが有効なのでそうする、という理屈なら分かります。これは昔、WindowsとNECのOSが日本のパソコンに搭載されていた時代、結局、マイクロソフトのソフトを動かすのに不便だからということでNECが独自のOSから撤退した時のことを思い出させます。そして、NECのOSの技術は失われました。結局、グローバル市場で生き残るために自らのアイデンティティーを捨てざるを得なかったということです。私は、会社が会社利潤追求を究極の目的として、その目的に沿って、システム化されるべきだ、という考えが嫌いです。これは、会社は株主のものだ、という傲慢さと同じです。ここに欠如しているのは、会社というものは人間が作っている組織であり、他の人々にサービスや品物を提供するためにある、という意識ではないでしょうか。会社はサービスや品物を提供することによって社会に奉仕し、それに対して金を受け取るわけです。金をもうけるためにサービスや品物を売ると考えるのは、順番が逆転していると思います。だから順番として、会社は一に社会に奉仕するためにあり、二に社員のためにあり、そして三としてその出資者のためにある、そういう順番になっているのが理想だと思います。ならば、社内の公用語を英語にするという発想は、私には、一、二、を飛ばして三を優先しているように見えるのです。そして、これはグローバル市場で生き残るために自らのアイデンティティーを捨てる、健康のためなら死んでも良い、そういう考えが基本にあるのだろうと思うのです。

とここまで書いたところで、ユニクロの社内公用語英語化は、日本国内での非日本人社員の雇用増加と日本人社員雇用の減少に伴ったものであるという事情を知りました。日本国内で日本人雇用を減らして、外国人を雇う理由は海外でのビジネスに有利になるようにということらしいです。 海外のビジネスで収益を上げるために、日本企業が日本人の雇用を相対的に減少し、公用語を英語にし、自ら日本の企業でなくなろうとしている、そういうことのようです。

今はもう、日本が護送船団方式で、政府と大企業が一体となって、海外に物を売っていた時代(自民党政治がうまく働いていた時代)ではなくなりました。以前は、日本をもっと豊かにするには、外国に物を売らないといけないというのは事実でした。大正期の総合商社の鈴木商店の金子直吉は、「芸者と花札をやっている場合ではない」というのが口癖でした(お座敷を国内市場と見立てた場合の比喩です)。それは日本の企業を大きくして、日本での職を創出し、海外から富を流入させることで、一般国民にもプラスでした。現在では背景が違います。高度成長期は30年前に終わったにもかかわらず、同様の成長を演出しようとしたバブル経済がはじけて、事態は更に悪くなりました。その後の20年以上も日本は沈んだまま、右肩下がりです。大企業も苦しいのはわかりますが、それでも彼らは極端に不公平な税制優遇を受けています。大企業優遇政策は企業のオーナーを優遇する一方、その他の一般国民や社員、弱者に犠牲を強いているように思います。私は、下の「非国民通信」さんの消費税の仕組みの解説を読んで、消費税のしくみがいかに不公平なものかを知らされました。
去年、消費税は封印すると約束して政権をえた党で、しかも前内閣の副総理でありながら、タナボタで首相になるや否や速攻で消費税10%を口にした今度の首相は九月には消えてもらわないとダメだ、と確信しました。多分財務大臣のときに官僚のサボタージュで、質問の意味さえわからず、国会で立ち往生して赤っ恥をかいた時に、すっかり官僚に丸め込まれたのでしょう。この人も自分の頭で国民のために考えるということを止めてしまったようです。

私、前にも書いたのですけど、年間3万人以上が経済苦で自殺する国である日本の企業は、グローバル化ではなく、国内、地域へ目を向けて、社会に奉仕し、共存共栄することを考えて欲しいと思います。日本は縮小期に入っています。そういう時こそ友愛と思いやりを持ち、小スケールの共同体の中で小さく暮らす知恵を身につけていかねばなりません。日本の今後は大企業を優遇して、ものを外国に売って食料や原料を買うというスタイルから、外国とのビジネスに頼らずとも自給自足でやっていける自立性を獲得することに力を注ぐべきであろうと思うのです。

消費税を含む税制の不公平な大企業優遇処置については、「非国民通信」の解説を是非、読んでいただきたいと思います。

非国民通信:
しわ寄せはいつも末端に:
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/6fc42010b507fb53887f5cb036d36c97

ニラ茶でわかる消費税のからくり: http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/b1262d6748d72903da7ef6e356318f24

追記。

これをアップした直後、池田香代子ブログで、非国民通信さんの解釈に誤りがあるというという記事とそれに対するコメントが紹介されておりましたので追加します。

池田香代子ブログ:
【訂正】消費税のカラクリ、私にはお手上げです:http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51431784.html
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遺伝子学の時代と個の医療

2010-06-25 | Weblog
先日は、シカゴ大学で糖尿病の遺伝学的研究をしている人の話を聞く機会がありました。糖尿病の遺伝学というと、最近はすぐ、Genome-wide association study (GWAS) で大規模の患者の遺伝子多型と疾病との関連を調べる「例のやつ」かと思われるかも知れませんけど、彼のアプローチはその逆です。特殊な例の糖尿病にフォーカスして、単一遺伝子の変異を検出するというやり方です。きっかけになった例は生後すぐに糖尿病を発症した女児でした。主治医は一型糖尿病の診断でインスリン治療を開始して血糖コントロールを始めました。患者が6歳の時に、このシカゴ大の研究者の人は症例を知り、自己免疫が主な役割を果たす一型糖尿病としては発症が早すぎるので、遺伝子異常が原因であろうと考えて、調べたところ、インスリンを産生するベータ細胞のカリウムチャンネルの活性型異常があることを発見しました。
 インスリンの細胞外分泌にこのカリウムチャンネルを通じた膜電位の維持が重要なことは前から分かっていたことで、二型糖尿病の治療に使われるSU剤は、このカリウムチャンネルの制御蛋白のSUR1に結合することによって、インスリン分泌を促進します。それで、その6年間インスリン治療されていた子供に試しにSU剤を与えたところ、インスリンの分泌が認められ、2週間後にはインスリンが必要なくなり、インスリンポンプから離脱したという劇的な話でした。こういう例は、遺伝子変異でおこった異常に対して、既に何らかの薬があり、治療可能だったという幸運があったからおこった奇跡ですけど、それでも、この発見はこの患者さんを含む複数の患者さんの病気を著しく改善したという点で、基礎遺伝学が臨床にドラマティックに貢献したinspiringな話だと思います。多分、こういうラッキーな発見はごく稀にしか起こらないのでしょうけど、基礎研究の積み重ねによって、ラッキーな発見は増えていくのではないかと予想されます。
 この例は、一型、二型、というような症候的分類をしていた糖尿病に、遺伝的分類(あるいは、病因に基づいた分類)を(将来的に)導入していく必要をあらためて強調しています。もちろん、ゲノムワイドの遺伝子診断が簡単にはできるものではないので、遺伝子または病因分類を導入せよと言われたところで、現在の技術ではちょっと難しいのですけど。

Geneticsの時代になって、臨床医学も随分変わって来たものだと感銘を受けます。Geneticsもメンデルのころの古典的遺伝学の概念から随分広がりました。かつては遺伝様式を調べて遺伝子疾患によるものかどうかを見極めるぐらいの所までが、遺伝学がせいぜい医学に寄与してきた部分でしょうけど、現在は、遺伝子をDNAのレベルで調べることが遺伝学の中心となっています。また、なにより、殆どの疾患の基礎には遺伝子または遺伝子発現の異常というものがある、という概念は大きなパラダイムの変換を来しました。現在、Geneticsという言葉は「遺伝学」ではなく「遺伝子学」と訳される時代だと思います。
 二十年前の臨床医学は、症候や画像その他の検査に基づいた診断学、とその診断に従っての治療や疾病管理というワクの中で行われていたように思います。これは、多分、現代でも実際診療においては、余り変わっていないと思います。しかし、分子生物学的研究法、特に遺伝子解析法の普及によって、臨床医でも多少のトレーニングがあれば、こうした基礎研究が明らかにして来た知見を解釈し、臨床応用できるようになってきて、少なくとも、臨床医の疾病へのアプローチの意識というか、精度が上がって来ただろうと想像されます。疾病を症候ではなく、病因から、それも分子、遺伝子のレベルの異常という観点から捉えようとするやり方は、おそらくこの二十年の間に主流になったもので、それだけでも、基礎医学研究の臨床への寄与の大きさに感じずにはいられません。

この人の話を聞いて、「長年、インスリン治療を受けて来た糖尿病の子供をSU剤で治療する」という話を十年前の一般病院の臨床医にしたら、どう思うだろうか、と想像せずにいられませんでした。きっと「バカなことを言うな」とでも言われたことでしょう。これは糖尿病という病態、病因のheterogeneityに余り意識的でない昔の臨床医であれば、当然の反応と思います。
 同じ糖尿病と言っても、「糖に対するインスリン作用の相対的不足」がおこるような病態であれば、様々な原因でおこり得ます。インスリン分泌の異常の場合もあれば、インスリン遺伝子そのものの異常でインスリンの合成障害を起したり、プロインスリンの高次構造異常による小胞体ストレスでインスリン産生細胞の機能不全を起こすような場合もあります。単一遺伝子の変異でおこる病態もあれば、複数遺伝子が関連する場合もあるでしょう。そう見ていけば、糖尿病は幅の広い病態であって、こういうcommon diseaseといわれる病気だからこそ、「個の医療」の対象にされるべきなのだなあ、と思わされます。

講演では、インスリンポンプから離脱して、副作用の低血糖発作に悩むこともなくなったこの子供の笑顔がスライドいっぱいに映し出されていて、こういうのが、医師の基礎研究者の喜びなのだなあ、思ったりもしたのでした。(もちろん、助けることができなかった患者さんの落胆した顔もその何十倍もの数を見たことでしょう)
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政治と金 (a.k.a. 純粋マスコミ批判)

2010-06-22 | Weblog
前回、研究と研究を支援する金の配分について書きました。研究に限らず、殆どの人間の活動には金が要ります。多くの人は金を得るために働きます。そして得た金でものやサービスを買うわけで、経済活動というものは、人間が社会で生きていく上で不可欠のものです。そして、事業、プロジェクト、研究、社会活動、どれ一つとって見ても、金なしには動きません。
政治活動もそうです。何らかの動機で日本の国なり地域を良くしたい、そのために政治に関りたいと思ったらどうするでしょうか。有権者の人に自分の実現したい理想を聞いてもらって、賛同者を得、選挙で代表に選んでもらわねばなりません。有権者の人に自分の志しを知ってもらうのに、ドブ板はもちろんでしょうけど、キャンペーンの冊子やポスターをつくったり、それを配布したりするためのスタッフをやとったり、ミーティングを開く会場を確保したりするのに、金なしではできません。政治活動に金がいるのは当たり前で、そのキャンペーンの有効性は集めた金の額できまります。アメリカでのオバマとクリントンが良い例です。どれだけ多く金が集めれるかが政治家の力を決めます。政治は人数で決まり、人は金で動きます。

ところが日本では、マスコミが政治家を叩く時に、決まったように、「政治と金」と錦旗をかざすかのように言います。それを見聞きするたびに、私はマスコミの装ったバカさかげんに反吐がでそうになります。「政治と金」の問題というのは、具体的にどのような問題なのか、そこの説明がありません。マスコミはわざと説明しないのです。この意味不明の言葉が、特定の政治家の攻撃に都合がよいからです。人が金で動く以上、金は政治の最も重要なツールでありかつ目的です。金は政治のアルファでありオメガであると言っても過言ではないでしょう。なのに、この「政治と金」というコンテクストでは、「金」は良くない金であり、それに関する政治は悪い、という含意があります。金は世の中を回すために必要なツールなのですから、金そのものに色がついているわけではありません。同様に政治そのものに良いも悪いもないのです。この「政治と金」という言い方には、本当は問題があるかどうかもよくわからないけど、「政治」と「金」という言葉を繋ぎ合わせると、なぜか怪しげな雰囲気が醸されるので、政治家の悪口を書くのに都合が良い、という論理的分析能力欠乏し無批判で思考停止したパブロフ犬的マスコミの悪意ある怠慢さとでもいうようなものを感ぜずにはおれません。

前政権での鳩山氏と小沢氏の「政治と金」の問題をとりあげてみましょう。鳩山氏は一般の献金が集まらないので、お母さんからお金を貰って自分の政治活動に使い、その金の出所を違えて報告した、ということでした。このどこに「政治と金」と眉をつり上げるような問題があるのでしょう。活動費が足りないから裕福な親に助けてもらったということで、申告上の問題があったのかも知れませんけど、ワイロとか汚職とかという話とはほど遠い、慎ましい話です。お金は親からのものでしかもそれに対して払う必要のない税金まで払ったということですから、鳩山氏もこの件でマスコミや検察や税務署に政治妨害を受けるのが余程、嫌だったのでしょう。小沢氏に至っては、小沢氏と秘書が主張してきたように、自分の政治団体の金で土地を現金で買った、というだけのことでした。検察が描いていた絵での建設会社からのワイロの可能性に至っては、さんざん強制捜査を入れた挙げ句に何の証拠も見つけることはできず、二度にわたって不起訴となり無罪が証明されたワケです。秘書の人は、報告書類の記載方法が誤っているという理由だけで起訴されました。しかも、その記載方法は法的には多分、何の問題もなかった可能性が高いのです。
 これらの話のどこに何の問題があると考えて、マスコミは「政治と金」の問題と言っているのでしょうか。そんなことよりも、自民党政権時代、多くの政治評論家が官房機密費という税金がソースの金から付け届けを貰って、自民党の宣伝を公共の電波を使って行った、という「マスコミと金」の方がよっぽど悪質でしょう。マスコミは、自分には耳の痛い問題は全くとりあげないくせに、自分たちに都合の悪い人間を(無批判に)批判して、社会に害をまき散らし、臆面もなく善人面をするのです。盗人猛々しいというか、片腹痛いというか。

日本はアメリカに植民地にされて過去65年間、巨額の金額を貢いできました。経済低調で最大の借金国である日本の将来を改善するには、理不尽にアメリカに押し売りされる米国債の購入を止め、基地を口実に巻き上げられている思いやり何とかという巨額の上納金を減らし、アメリカの基地を縮小していくことが大切だと思います。それをやろうとした前政権を、マスコミ、検察、野党がよってたかって潰してしまいました。理由は「政治と金」、それから戦後自民党はやろうとさえしなかった沖縄の基地問題の改善を試みたからだそうです。良い国にしようと頑張っている政権を同国の人間が、そんな、くだらないことをグダグダ言って潰すのを見ていると、本当に、「アホウにつける薬はない」と感ぜずにはおれません。結局、新しい民主党党首は「沖縄基地問題はどうにもならない(オレは基地のことは知らない)」「国民の生活よりも財源確保のために消費税は10%」と自民党と同じになってしまいました。折角の政権交代をマスコミがぶっ潰して、結局、国民よりも官僚とアメリカの利益を尊ぶ自民党政策に逆戻りしつつあります。

また「政治はクリーンでないといかん」というようなことを言う人が大勢います。順番を間違えて欲しくないと思います。それは、政治家がちゃんとするべきことをまずやってからの話です。やるべき仕事もできないくせに、クリーンだけが取り柄みたいな政治家は、いない方がましです。(別に、三木前首相のことを言っているわけではありません)誰が言ったのか忘れましたが、「白猫であろうが黒猫であろうが、ネズミを捕る猫が良い猫なのだ」という言葉を聞いたことがあります。前政権は、ネズミを捕ろうとしました。すると、マスコミや野党が猫は白くないといかんと言いがかりをつけ、ネズミを捕る邪魔をして猫の方を追い出してしまったという情けない話です。おかげで、今度の新しい猫は、どうもネズミが怖くて最初から捕る気もないようです。それでも、支持率が高いというのは、支持率調査がデタラメなのか、そうでないとしたら、日本国民は自分たちがネズミにかじられ続けられても、猫の白さの方が大事だとでも思っているに違いありません。
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研究と金

2010-06-18 | Weblog
6/4号のScienceのEditorialは、新井賢一さんが日本の科学の現状について書いておられました。内容には別段、目新しいことはないのですけど、Top-downで進めるgoal-orientedな研究が重視されすぎていることが若い世代がこの業界の先行きに対する不安を起こしてきているというようなことがかいてあります。とくにアカデミアでの研究職の厳しい現状のため、若い人が留学したりして自分の研究の幅を広げる余裕がなくなって来ているとあります。
 私も常々思っている事ですけど、研究活動は多くの場合、Top-dwonよりも、個々の研究者の自発的なプロポーザルに任せる(Investigator-initiatedl)ほうが実りが多いと思います。また、最近の巨額の金を少数研究室に集中させるという政策について、私も何度も批判させてもらいましたのでこれ以上しませんけど、とりわけ工学ではない生命科学の分野ではこの手のTop-downの戦略が成功した試しはまずありません。なぜなら多くのブレイクスルーというものは誰も予測できないところから偶然に生まれるものだからです。過去を振り返ってみても、偉大な発見がTop-downに金を注入して意図的に生み出されて来たのかどうか考えてみると、そういう例はあったとしても極めて稀な例外でしょう。その誰も予想もつかないところから生まれるブレイクスルーを拾うためには、小額の資金を広く多くの人に与えるべきだと思います。

また、国が科学研究を支援する意義というものがもっと広く議論されてもよいと思います。私は100%同意はしませんが、主流の考え方は、国による科学研究支援は「投資」であるという見方であろうと思います。つまり、何らかのリターンを期待するということです。6/10号のNatureのNews Featureのセクションでは、「What science is really worth?」と題して、科学を投資として見た場合の正当性について、議論されています。 過去を振り返れば、科学の発見が応用され商業化され、巨額の経済活動(または非金銭的な利益)に結びついたという例に枚挙がありません。このNatureに示されている表では、過去の例の推定で科学研究の投資における年間のリターンは20-67%と見積もられていますので、これは相当率のよい投資であったと考えることも可能でしょう。ただし、実際は、コストとリターンを見積もることは容易ではありませんから、こういう計算にどれだけ意味があるのか疑問視もされています。また、過去のことをいくら研究しても将来のことを予測するのは難しいのですから、これからも科学研究が良い投資であるという保証はありません。

ところで、少し話が飛びますけど、経済の発展が阻害されるのは、自由競争による持てる者と持たざるものの格差が広がるからだという理屈があります。金は天下の回りものです。金が天下を回ることが経済の発展ということです。格差が広がると、金は金持ちに集中します。貧乏人には使いたくても金がありません。金持ちは少数派ですから、いくらバンバン使ったところで、その金が天下にどんどん回るには限度があります。天下に金を回すには、つまり、一般大衆ががある程度の使える金をまず持つ必要があります。だから、累進課税で、富を再配分する、そうすることで、まずは大衆の消費を刺激する。そして、高所得者は大抵、ビジネスオーナーですから、その消費によって間接的に彼らのビジネスも潤うとことになります。私はおおむねこの意見に賛成です。持っている人が持っていない人にまず金を回す、それを使ってもらう、人々に金を使ってもらうことで経済活動が活発化する、金持ち(ビジネスオーナー)はそれで金の流入が増える、という理屈ですね。ちょっと前の映画化された本で「Pay it forward」というのがありました。普通なんらかの利益を受けたらそれに対して対価を支払うわけですけど、Pay it forwardは、利益をを期待せずに、まず支払うわけです。 見返りを期待せずに善意をもって誰かを助ける、その善意の行為が広まってやがて自分にも帰ってくるという話だったと思います。「情けは人のためならず、巡り巡って己が身のため」ということわざを思い出しますね。世の中は繋がった環です。その環を回していくには、まず、自分から与えることが重要だということでしょう。ですので、経済の活性化の理想的な形は金持ちが金を見返りを期待せずにばらまくことではないか、と考えたりします。民主党の新党首となった人は消費税を上げて、もたざる一般人から更に金を取り上げて、財源にするといいますが、経済困難を主な理由に年間3万人以上が自殺する日本という国では、それはおそらく経済をますます悪くするであろうと私は想像します。消費税ではなく、所得税の累進課税の勾配を強くすることで財源を確保するべきだと思います。それが金持ちの人にも、回り回って利益になると納得してもらう訳にはいきませんでしょうか。

話を戻します。近年の日本の科学政策で見られるTop-downのビッグプロジェクトに資金を集中させたり、ワールドプレミア何とかみたいな箱もの状のものを作ったり、ということが、研究室格差を広げるのは自明ではないでしょうか。上記のような理屈で、研究室格差が広がることは少なくとも国内の研究の発展を阻害するだろうと、私は想像するのです。競争原理というのは実力のあるていど拮抗した複数のパーティーがあってはじめて成り立つと思います。モノポリーでは腐敗するだけです。(自民党が良い例です)金に苦しいときだからこそ、金はばらまいて小規模の研究室を多数支援し、国内の研究界の裾野を広げ、個々の研究者に余裕を持たせることが、将来的に日本の研究界の発展を考える上で重要なのだと思います。仮に資金を集中投下して何らかの成果が得られたとしても「将成って万骨枯る」では、その天下も長くはないでしょう。結局は、研究でもなんでも、人が最も貴重な財産なのですから、現在のような不安定な研究界で、若者が喰わんがために萎縮してしまうようでは、将来が思いやられます。
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幸せは歩いてこない

2010-06-15 | Weblog
若手研究者の中で、若者にもっと独立した研究のチャンスを与えて欲しい、という声があります。日本の研究環境では、なかなか若手が独立して研究するための資金やポジションがない、という不満はわかります。若手を育てるための充実したプログラムがもっと整備されるべきだと私も思います。学振などのトレーニンググラントはもう少し規模を大きくすべきだと思います。しかし、若手の人がその不満を同業の先輩やestablishした教授たちに向けるのはどうかと思います。私の理由は二点です。一つは、極端に言えば、研究者というものはプロのスポーツ選手、あるいは実業家のようなものだと私は思うからです。即ち、実力と結果が全ての競争の世界です。年齢や経験ではなく、実力と結果が評価されるべきであると私は思います。一方、プロのスポーツ選手や実業家と対するのがサラリーマンであると思います。どちらがよい悪いではなく、研究者、プロスポーツ、実業家という職業に、サラリーマンのメンタリティで臨むべきではない、ということです。逆もまた真なりです。プロスポーツ選手、実業家は、結果が全てです。結果を出して始めてナンボ、そのために彼らは努力するのは当然ですが、どう努力すれば成功するのか、そのゴールの達成にどういうストラテジーをとるのか、を考え、実行し、そして、その努力にもかかわらず結果が出なかったら、結果が出ないことに対して100%の責任を負います。一方、サラリーマンも努力はするでしょう。しかし、その責任の範囲は通常限られており、基本的に、彼らの仕事は会社に自分のサービスを売るという取引であり、彼らの過失により会社に損害を与えた場合のliabilityはあるでしょうけども、仮にそれで会社が潰れたとしても、結局はその人を雇って仕事をまかせた会社側の責任となります。独立して資金を自分で工面しないといけない研究者は零細企業のオーナー経営者のようなものだと思います。仮に、取引先が潰れたとか、円が暴落したとか、地震で全壊したとか、そんな自分のコントロールできないような理由があっても、会社が潰れたら、いかなる理由であっても自分が責任を負います。研究者の場合も若手でもシニアでも同じ、結果が全ての世界と思います。「ポジションや資金が与えられないから結果が出ない、結果がでないからポジションも資金もない」というフラストレーションはわかります。しかし、そういう世界に自ら踏み込んでしまったのですから、やはりそれは自分の責任でしょう。「知らなかった」とか「だまされた」というのは言い訳になりません。知らない方やだまされた方が悪いのです。結局、自分に起こる全ての事に責任を負うという覚悟がないと、プロスポーツ選手や実業家同様、研究者でもなかなか成功できないと思います。
 
若い人で自分の不運に対して原因を外に求めようとするのは、私は日本の教育システムが戦後高度成長期の時に、「よいサラリーマンを作る」ための教育をおこなってきたためにサラリーマン的メンタリティーが広がったからであろうと思います。与えられた課題を正確に迅速にこなす能力はサラリーマンにとっては重要な能力でしょうけど、実業家の仕事は、むしろ、課題を自ら探しあるいは作り出し、それにどう答えるべきかという戦略を考えることだと思います。しかるに、日本の学校教育では、答えのある問題の正解にすばやく到達する人間が高く評価され、問題そのものを考えだすトレニーニングは殆ど行われてきませんでした。学校では先生(社長)の言うことを聞き、規則を守れと一方的に言われるだけで、自分たちで先生を選んだり、規則を改善したりしようとすると強い抵抗にあいます。しかし、もはや高度成長期ではなく、東大を出て優秀なサラリーマン教育を受けたら、自動的に一流企業で終身雇用が与えられるという時代は過ぎました。

研究者のキャリアでは、最初はボスのプロジェクトを手伝って修行をするというサラリーマン的時期を経て、実力をつけて独立をし、企業経営者になります。そこで、大きなマインドセットの変化が求められるのだと私は思います。そして、周囲を見回してみると、独立して一定期間研究者をやっている人の多くは、既に学生やポスドクの時代から企業経営者の発想を持っていたように思います。彼らはポジションや資金はつかみ取るもので、与えられるものではないということを早くから知っていました。
 私自身も、この現実を受け入れるのに多少苦労しました。「小さいうちから受験勉強して大学に入って大学院まで出たのに満足できるようなポジションに就けない、何のためにあんなに頑張ったのか」と思う気持ちは私はよく分かります。しかし、それは実はその「何のために」の部分をおそらく十分に考えていなかったのではないのでしょうか。自分の進路を決めたのは自分であり、その時に十分、先のことを考えておくべきでした(とはいっても、私も大学院に行ったときは何も深く考えていませんでした、それで苦労しました)その辺の所に十分意識的である人はやはり早くに成功しています。

 もう一つ、同じ事を繰り返すようですけど、若手研究者の人が持つそのフラストレーションは外に向けるのではなく、自分に向けなければ事態は改善しないと思います。「若手のためのポジションや資金が乏しい」という事実に直面して、ポジションや資金をいつまでも握っているシニアの人が悪いと文句を言ったところで、状況は改善しません。(文句を言い続けたら次の世代ぐらいには状況が改善する可能性はないとは言えませんけど)それよりも、その現実をまず受け入れて、そういう世界でどう生き残り、自分の夢を実現していくか、という問題に集中した方が生産的であろうと私は思います。

というわけで、私は、天は自ら助くるものを助く、叩かなければ扉は開かれない、という聖書の言葉に同意するものです。同様に、幸せを実現するのは自分自身しかいないという意味で、幸せは歩いてこない、という言葉にも深く同意するのです。ならば、自ら、幸せの実現のために歩きましょう。一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる、千里の道も一歩から、文句を言わずにまず歩きましょう。
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研究者主権の科学政策を

2010-06-13 | Weblog
思いがけず柳田先生に紹介いただいたおかげで、先生のブログの読者の方々の研究費配分日本の研究制度の問題についての興味深いコメントを読ませていただく機会に恵まれました。
 今回、私は柳田先生の研究申請審査の顛末に、日本の官僚主義的、非民主主義的「暴力」の匂いを嗅いだ気がしたので、この話を取り上げさせていただきました。これは研究界だけの話ではなく、日本という国がまだまだ民主主義から遠く、国民には主権がない、という私にとっては憂うべき現状の一部分の表れではないのかと感ぜられました。それで、日本よりは少なくとも民主主義という点で国のシステムとして進んでいるアメリカと対比して、私見を述べさせていただいた次第です。

論文にせよ、研究費申請にせよ、やはり、ピアレビューで仲間うちでの評価をし合うわけですから、人間のやる事で嫉妬や妬み、好き嫌いもあります。厳密な公正さが審査に保たれるかといわれると、それは難しいだろうと思います。ですけど、私は、審査員はその良心とピアレビューの原則に忠実に職務を遂行する義務があると思います。つまり、審査は申請者の個人の信条や感情や好みを抜きに、厳密にメリットベースで議論されるべきだという建前に忠実でなければならないと考えます。この原則には反対される人は少ないだろうと想像します。

この件の場合、申請書もろくろく読んでいないと思われる審査員が審査の前から「犯罪的だ」と申請者本人に対して非難したということですから、この審査員は研究申請の内容と無関係に柳田先生が研究費を申請すること自体が良くないと考えているらしいわけです。とすると、その審査員はその申請を認める事は、(誰か知りませんけど、審査員本人も含めた誰かの)不利益になると思っていたと考えてよいのではないでしょうか。ならば、ここには直接的か間接的か分かりませんけど、利益相反があると見なしてよいと私は思います。利益相反のある場合に審査員を引き受けるのはやってはならぬことであると私は思います。もし、この方に別段、利益相反がなくとも、例えば、「定年を過ぎた研究者や複数の研究室を持つ研究者には研究資金を配分すべきでない」という個人的あるいは組織的な考えがあって、それに基づいて申請書を審査したとなれば、やはり、それはピアレビューの原則に反するもので、越権行為であると思います。

事情や証拠がはっきりしないので意見表明は保留すべきではないか、という意見もありました。一理ありますけど、この件に関しては、私は、むしろ、意見はどんどん言うべきだと思います。第一の理由は、審査員と申請者の力関係の不均衡があるからです。力の弱い(いわば審査員に裁かれる立場の)被審査側が不公平な審査を受けたと感じられたならば、そういう声を上げるのは被審査側の当然の権利であり義務でさえあろうと思います。審査過程に問題があると被審査側が思うのであれば、その問題はきっちり調査されるべきで、そして事実、問題があるとなれば、審査過程の方が改善されるべきであると思います。人が人を裁くのですから、裁く方ではなく、裁かれる方の権利が十分保たれることがまず優先されなければならない、と私は思います。
 第二に、私自身の考えでは(これは刑事事件ではありませんから推定無罪は当てはまらず)疑われるような行動をとって疑われた場合、悪いのは疑われる方だと思っております。これは、捏造論文の場合を考えてみていただけたらお分かりいただけると思います。論文が疑われた場合に疑いを晴らすのは論文著者の責任です。この件における審査員の人は、少なくとも、柳田先生の話からすると、(悪意を持って恣意的な審査を行った)という疑いが濃いわけで、その審査員の人には、疑いを晴らし説明を行う責任があると、私は思います。この話から、その審査員の行動が示唆する研究資金配分におけるcorruptionとでもいうようなものを感じて、私は強く警戒心をかき立てられました。疑わしい場合に「疑わしい」と声を上げていくことは大切だと思います。それが閉鎖的でいわゆるwatch dogのいない研究界の自浄作用に必要なのだと思います。ついでに、これも私の意見ですが、疑わしいと思いつつも放置して害を被った場合に、悪いのは何も言わなかった方だといます。

当たり前の話ですけど、日本は建前上、法治国家で民主主義国家ですから(本当は違うようですけど)、研究者(国民)自らが、適正な研究費配分のシステムを作っていくべきだと思います。アメリカの話で悪いですが、NIHのStudy sectionでは、通常三人の審査員が一つのグラント申請を吟味し、その研究の長所と短所をまとめて独立して点数をつけます。さらにその吟味の妥当性はStudy section全員の前で議論されます。審査のプロセスを多くのStudy sectionのメンバーの研究者にオープンにしていくことで公平なシステムを保とうとしています。日本ではどうなのでしょうか。
 事情がはっきりしていない段階でアレコレ言うことは審査システムを脅かすという意見もありましたが、私はこれは逆であるべきだと思います。審査のプロセスに問題があると疑われるのであれば、その疑いを晴らし、審査が公平なものであることを示すのは、審査システムの方の責任だと思います。そうすることによって、現在の審査システムをもっとより良いものに変えていくのが筋であって、システムを守るために個々の研究者に犠牲がでるようでは本末転倒であると思います。(エルサレム賞受賞の時の村上春樹さんのスピーチでの「卵と壁」の喩えを思い出しますね。研究者である以上、たとえ卵(研究者)の方が間違っていたとしても私は卵の側に立ちます)

それで研究費配分のシステムがどうあるべきかという話ですけど、民主主義的に議論がなされて、研究費はメリットベースで配分する、と確認されるなら(私は基本的にそうあるべきだと思います。結局は、実力の世界ですから)その原則にそって審査はされるべきだと思います。あるいは、もしも、もっと社会主義的に一定額お金を実力に関係なくばらまきましょう、と決めるなら、その原則にそって研究費の配分がなされればよいし、 研究費申請の年齢や数の制限導入すべきだと決めるのなら、それはそれでもよいと思います。みんなで決めたルールですから。しかし、今回の話では、柳田先生側の申請には瑕疵はなかったと考えられるのにもかかわらず、不公平で原則を無視した審査がなされたと(少なくとも申請者が感じた)という点が問題であると私は思うのです。これは、法治に基づく民主主義国家の精神の根幹おびやかす問題に他ならないと思います。
どうでしょうか?
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亡国のモグラ叩き

2010-06-11 | Weblog
先日の柳田充弘先生のブログ (http://mitsuhiro.exblog.jp/)で 、京大の染色体の研究室を閉鎖することになったという話がありました。定年は過ぎていますし、沖縄には別の研究をする研究室があるので、もうそろそろ引退したらどうだ、というのが日本人の考え方かも知れませんけど、この話の顛末を読んで、私は暗い気分になりました。細胞周期、染色体分配の分子学的、遺伝子学的機構に関する非常に多くの貴重な知見がこの柳田研から発信され、文字通り、世界を牽引してきたわけです。世界に非常に尊敬されている数少ない日本人研究者であると言えます。そして多くの日本の教授と違って、定年を過ぎて一研究者の身分となってもその生産性が落ちてきたわけではありません。まだまだ世界の第一線に立っている人です。ブログを読むと、どうも研究資金申請の審査員の一人が、定年を過ぎて京大にも沖縄にも研究室を持っているのが「犯罪的」と考えているらしく、研究申請書もろくろく読まずに却下した、それで京大の研究室の資金が停止するということのようです。 
私は、この何十年も第一線に立ってこの分野へ多大なる貢献をしてきた数少ない日本人研究者に対し、年齢や複数の研究室を持っているという(サイエンスの中身以外の)理由で、生産的な研究室を閉鎖する方がよっぽど「犯罪的」であると思います。

アメリカでは、生産的な研究者が複数のグラントを持つことは当たり前のことです。現在の厳しい研究環境において、一本のグラントさえとることができずに研究者を廃業していかねばならない人々が多い現状で、一人が何本もグラントを持っていることを問題視することがないわけではありません(11本のNIHグラントを持つ人の話が紹介されていたのを読んだ事がありますが、さすがにその時は反感を持ちました。一人で11ものプロジェクトを遂行できるわけがありません)。しかし、良い研究をする人に資金が使われるべきだ(また良い研究ができなくなったらどんなにエラい人でも資金は与えられるべきではない)という原則を多くの研究者が支持しています。だから、定年を過ぎているとか、研究室を複数運営しているとか、という研究の中身と関係のない理由で、優れた研究室を閉鎖に追い込むというのは、(少なくともアメリカでは)言語道断です。
先日、偶然に知り合いのアメリカ人教授に会った時、つい最近、研究室を閉鎖したという話を聞かされました。たぶん80歳に近いと思います。私の研究分野では知っている中で二番目に高齢の現役研究者でした。有能なポスドクがしばらく前に研究室を去って、研究の遂行が困難になってきたこと、健康上の不安もあって、遂に引退を決意したそうです。しかし、NIHはつい最近まで、彼に資金援助をしてきたのです。実際、この数年でもかなり質の高い論文を出しています。実力があって、意義のある科学プロジェクトで、研究者にプロジェクトを遂行する力があると判断すればNIHは金を出します。その審査の基準は基本的にその一点につきます。

それに比べると、研究室を複数もっているから犯罪的だ、とか定年を過ぎても研究者をやっているのが許せないとか、そういう二次的なことにこだわる日本の体質というは、大局観に欠けるというか、根性が卑しいというか、なんと言いますか。そういうバカなことを言っているから日本から有能な研究者は逃げ出し、若手はやる気をなくすのでしょう。この「出る杭を打つ」態度が、日本の国を硬直した発展性のない場所にしているのだと私は思います。
翌日の柳田先生のブログでも柳田先生はかなりフラストレーションというか怒りを示されていましたが、まさに、このような不公平な審査、(審査員の権力で他人の研究をコントロールしようとするわけですから、国策審査とでも呼びますかね)が、日本の科学の発展、ひいては社会の発展を阻害し、官僚主義を跋扈させ、若者の希望の芽を摘んでいるのだと思います。

とりわけ、その「出る杭を打つ」モグラ叩き根性が、顕然しているのがマスコミです。その態度で日本亡国に導いていることに意識的であるとはとても思えません。短命に終わった鳩山政権を見ていると思います。マスコミには日本の最も恥ずべき気質が澱というかマグマのように溜まっていて、そのネガティブエネルギーが、日本のやる気を吸い取っていく、そんな気がします。新聞は取らない、テレビは見ない(ラジオはOKです、マスコミとは言えませんから)、そうして自衛しないと、日本人は知らない間にバカにされてしまい、皆で赤信号を一緒にわたっている間に大型トレーラーにひかれて、全員一緒に地獄行きです。
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Venterと人工生命

2010-06-08 | Weblog
先月、Craig Venterが、化学的に合成したDNAだけを使って微生物のゲノムを構築し、DNAを取り除いた別種の微生物に移植することによって、(半)人工的な生物を作り上げることに成功した、というニュースが発表されました。SicenceもNatureもこのニュースをフロントベージでとりあげましたし、日本でもかなりの反響を呼びました。一般向けの宣伝文句は、人工的に生命を作った、というような感じです。5/27日号のNatureでは、多くの科学者が「これは人工生命とは言えない」という反応を示したこと、同時の生物兵器への応用、生命倫理における問題などを議論しています。それにしても同一の号のNatureのフロントページにこの研究に関する記事が、Editorials, News, Opinionという3つのセクションで取り上げられているという異常な関心の高さには驚かされます。その「識者」の意見に何ら目新しいものはありません。そのニュースに対する感想をトチナイ先生もブログに書かれています(http://shinka3.exblog.jp/14426778/)。多くの生物研究者は多分、同様の意見でしょう。
 
この研究そのものに、厳密な意味で、どんな生物学的価値があるかと問えば、私はその価値は今のところ不明だといわざるを得ません。ゲノムDNAは確かに合成したものですけど、その他の細胞のコンポーネントは生物のものをそのまま借りているわけですし、合成したDNAの切り貼りも細胞由来の酵素や酵母を使った操作が不可欠であったわけですから、人工の生命を作ったというよりは、これまでの遺伝子操作をより大規模なスケールでやった、と解釈する方が近いと思います。技術的な面でのインパクトはあるものの、この研究そのものに関してはそれほど騒ぐ程のことではないのではないか、というのが私の感想でもあります。生物に遺伝子を加えたり引いたりして、その形質を変化させるという実験はずっと前からされていますから、パラダイム変換を来すような研究であるとは私は思いません。ただOpinionのセクションで生命倫理のArthur Caplanという人は、「人工的に生命を合成した」この仕事は、生命は物質だけからなるものではないとする「生気論」を否定するものだ、と評価しています。この結論は、多分、この人がVenterの実験の中身を十分には理解していないことから生じる前提の誤りから導き出されたように思います。生命の定義でさえ、厳密なコンセンサスはないと私は思っておりますから、このVenterの実験はそのような哲学的主題に回答を与えるようなものとはとても思えません。

このニュースが騒がれる理由は、やはりCraig Venterだからだと思います。例えてみれば、彼はある意味、生物科学界の小沢一郎的存在ではないかと思います。大勢の人が彼のアクの強い性格を嫌っていますが、彼の天才性というものは歴然としており、認めざるを得ないと思っていると思うのです。(私は別に小沢氏のアクが強いとは思っておりませんが、大勢の人が彼を嫌っていることは知っております)Venterのことは、このブログでも数年前に一度、触れていますが(DNAゴシップ 2007-12-18)、彼ほど、Maverickという言葉が似合う科学者はいないだろうと思います。ヒトゲノムプロジェクトで熾烈な競争を繰り広げた、かつてのNIHの同僚でありライバルのFrancis Collins (現NIHディレクター)と比較して、前回のブログでは、私は彼らを空海と最澄に例えていました。彼のアイデアや戦略は極めてシンプルで力強いです。それが広くアピールするのだと思います。NIH時代、発現している遺伝子をとりあえずシークエンスしてみよう、というアイデアでESTのプロジェクトを始めました。今でこそ、ESTのデータベースは広く受け入れられその有用性も認められていますが、当時は、そんなデタラメに何でもかんでもシークエンスすることに何の意味があるのか、という強いskepticismに合い、結局、VenterはNIHを去ることになります。その後も彼のやって来た事は、ヒトゲノムプロジェクトを始め数々のゲノムプロジェクトに代表されるように「ひたすらシークエンスする」ことでした。それをいろいろな生物学的コンテクストに応用して、意義のある知見を導き出す、手法的には超ワンパターンです。しかし、シークエンスの規模は通常の研究者がやる規模の何百倍という規模でやる、単純だが、普通のヒトならやる気にもならないようなことを、やってしまう、そのために金が必要なら、自らパーティーを開いて出資者を募り、ゲノムシークエンスアッセンブリーに必要なら世界最速のスーパーコンピューター(ヒトゲノムプロジェクトの時、Venterのセレラが世界最速のコンピューターを持っていました)を作る、その野心的な目的の達成のための強い意志と実行力には、感嘆の声を上げずにはおれません。ひたすらシークエンスするという技一本で、自らの道を切り開き、世界を驚かせて来たVenterは、冒険小説の主人公となりえる希有な科学者と言えるでしょう。

ところで、「人工生命」というコンピューターを使って、生命のアルゴリズムを探ろうとする分野が20年程前に大ブームになったのを覚えている人はいるでしょうか。私も、当時、興味を持って、「生物物理夏の学校」とかで、「人工生命」研究者の話を聞きにいったことがあります。当時、筑波大でこの分野で脚光を浴びていたグループの若手演者は、「人工生命をやっています」と初対面の人に自己紹介すると、生命保険会社勤務と勘違いされる、というような冗談で、当時、新興のこの研究分野を紹介していました。また、(当時の)人工生命研究は、60年代に流行ったサイバネティクスの再燃であると述べていたのを覚えています。その人工生命研究がバーチャルな世界から、技術の発達によって、現実の正解で行われるようになってきたのが、近年の「Synthetic Biology」と考える事もできます。そういう観点から、今回のVenterの仕事をみると、私のようなWet biologyの人間としてはそう騒ぐ程の仕事のように思えませんけど、人工生命研究という点からは、バーチャルから現実への最初の大きな一歩であった、と評価することもできるのではないかとも思います。今後はどう展開するのでしょうか。相手はVenterですから、期待もふくらみます。

ついでに、Natureのこの号のBusinessの欄では、世界で始めて一分子シークエンシングを商業化したMassachusettsの会社、Helicosが業績不振のため従業員の半分を解雇し、シークエンシング技術開発から撤退するとのニュースを伝えています。二年前に「進化するシークエンサー 2008-10-28」で、Helicosの一分子シークエンシングは技術的に中途半端で、苦しいだろうと書いたのですけど、図らずもその予測の通りとなりました。現在、いくつかの会社でHelicos方式よりもより高パフォーマンスの一分子シークエンシングの商業化に近づいていますが、一分子シークエンシング法が現行の二世代平行シークエンシングに比べて生物学研究上のメリットがそう明らかでない現状では、いずれも苦しい戦いとなりそうな気がします。
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もう1つの沖縄の闘い

2010-06-06 | Weblog
床屋政談はしばらく休むつもりですけど、沖縄の基地問題は単なる政治ゲームの問題ではありません。
 新しい管内閣については、基本的に選挙管理内閣で、選挙が終われば9月の代表選があるわけで、おそらく、その時点で民主党が参院過半数を占めることになれば、小沢氏が布陣を敷き直すことになるでしょうから、私にとっても大勢の国民にとっても期待するもしないもないことでしょう。マスコミは小沢派が閣僚からはずされていることを喜んで書いていますけど、それは、小沢氏の思う所でしょう。それは選挙には有利になりますから。選挙に勝てば、3年の小沢政権が確定します。その時点で管さんが使えないと小沢氏が判断すれば、おそらく自身が自ら出てくるのではないでしょうか。他に看板になる人はいません。

ところで、管さんが新首相と決まったところで、早くも、アメリカから電話。以下、毎日のニュースから。

菅直人首相は6日未明、首相官邸で米国のオバマ大統領と初めて電話で協議した。両氏は米軍普天間飛行場移設問題に関する日米共同声明の着実な履行で一致。大統領は菅氏の首相就任に祝意を述べた上で、普天間移設問題についても「日米合意をもとに対応していこう」と語った。菅氏は「しっかりと取り組んでいきたい」と応じた。
 協議は米側が申し入れ約15分間行われた。大統領は「平和と繁栄を推進する世界規模のパートナーシップを築きたい」と語った。

アメリカ側からわざわざ協議の申し入れ、「普天間での日米合意をひっくり返そうとしたら、鳩山の二の舞になるぞ」との脅しですね。最短9月までの暫定内閣なのはアメリカ側も知っているでしょうけど、とにかく電話して言質を取っておきたいと思ったのでしょう。それだけアメリカにとって日本の基地というものは、おいしく、既得権を失いたくないという気持ちが透けて見えます。

 管さんの真意は私わかりませんけど、私は小沢氏の書いた筋で芝居をしているのだろう、と思っています。旧民主と旧自由党というもともとのイデオロギー(?)の差や人間同士確執や嫉妬がないとは思いませんけど、大事のために何をなすべきかは心得ている人だろうと想像します。政治は数ですから本当にで小沢氏を敵に回したら、管さん9月で終わってしまいますから。管さんは「しっかり取り組んで行きたい」という、どうとでもとれる返事をしました。アメリカも期待はしていなかったでしょうけど、とりあえず釘をさしておこういうことですね。

池田香代子さんのブログから、5月の初頭にLA Timesに掲載されたChalmers Johnson氏による沖縄基地問題についての記事を下に転載したいと思います。是非とも、一読を乞いたいと思います。

池田香代子ブログ 「沖縄 チャルマーズ・ジョンソン氏の悲憤と慚愧」

http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51419788.html

LAタイムス

「もう1つの沖縄の闘い 
度重なる抗議にもかかわらず、米国は沖縄に新しい軍事基地建設計画の推進を強く要求している」

チャルマーズ・ジョンソン

2010年5月6日

米国は沖縄への軍事基地建設にまつわる紛争で同盟国日本との関係にダメージを与える寸前にある。沖縄県、この島には日本にあるすべての米軍基地の75%が集中している。ワシントンの連邦政府は生態系が繊細な地域に、もう1つの基地を建設することを求めている。沖縄県民は激しくそれに反対しており、先月も何万もの人々が基地反対のために集まった。東京の政府はその真ん中に挟まって、日本の首相がまさに米国の要求に屈服したように見える。

地球上に張り巡らされた海外の米軍基地群、第二次大戦後その数は130カ国で700カ所にも上るが、私たちが沖縄で作った悲しい歴史は他の地域で見ることはほとんど出来ない。

1945 年当時、日本は当然ながら敗戦した敵国の一つであり、どこに、どのように基地を配置するかについての発言権はなかった。日本の主な島では、我々は単に日本軍の基地を接収した。けれども沖縄は日本が1879年に併合するまで独立した王国であり、日本人にとってこの島は今も米国とプエルトリコのような関係として捉えられている。沖縄本島は太平洋戦争最後の大きな戦闘で破壊され、米国は欲しいと思った土地をブルドーザーでならしたり、住民から奪ったりし、また人々をボリビアに強制移住させた。

沖縄の米軍基地は1950年から1953までは朝鮮戦争を戦うために使われ、1973年までの1960年代では、ベトナム戦争のために使われた。単にそれらは兵站補給処と飛行場の役割を果たしただけではなく、基地は兵士が休養と余暇を楽しんだ場所でもあり、バーなどのサブカルチャー、売春婦や人種差別主義を生み出した。いくつかの基地の周辺では黒人兵士と白人兵士の間で命に関わるような争いが絶えず、それぞれを相手に営業する地区が別々にできていたほどだった。

日本の占領は1952年の講和条約で終わったが、沖縄は1972まで米軍の植民地のままであった。20年間、沖縄県民は日本からも米国からもパスポートを与えられず、公民権も無い、本質的に国籍がない人々だった。日本が沖縄に主権を取り戻した後でさえ、米軍は基地内の管轄権や沖縄の空の管制権について、支配下に置いたままだった。

1972年以来、沖縄県民が自らの未来について主張することは拒絶されてきたが、これには日本政府とアメリカ軍が共謀していた。しかしこれもゆっくりと変化をしてきた。たとえば1995年、2人の海兵隊員と一人の水兵が12歳の少女を誘拐し、レイプしたことで告発された後に基地に反対する大規模なデモが行われた。米国は1996年に、宜野湾市の町の真ん中にある普天間基地について、日本が別の場所に代替基地を建設することを条件に土地所有者への返還合意に達した。

それは名護オプションとして1996年に成立した(しかしこの米日協定は2006年まで公式なものにはならなかった)。名護市は沖縄本島の北東部にある小さい漁業の町で、ここには珊瑚礁が広がり、フロリダのマナティーに似た海棲哺乳類で絶滅危惧種に指定されているジュゴンの生息地だ。要求通り巨大な米海兵隊基地を建設するためには、サンゴ礁をつぶし、杭を打つか埋立てをして滑走路を建設しなければならないだろう。環境保護活動家は以前からずっと反対運動をしており、 2010年の始めに名護市民が選挙で選んだ市長は、いかなる基地建設も町には認めないことを公約して立候補していた。

鳩山由紀夫、 2009年に日本の首相となった彼は、普天間海兵隊飛行場と海兵隊員を完全に沖縄から撤去するよう米国に求めることを公約して選挙に勝利している。しかし、火曜日に彼は沖縄を訪問して深々と頭を下げて謝罪したものの、住民に対しては我慢してくれと頼んだに等しい。

私は鳩山のふるまいが極めて臆病で、そして卑劣であると思うが、しかし私はこの深く屈辱的な行き詰まりに日本を押しやってきた米国政府の、このうえなく傲慢きわまりない態度が残念でならない。米国は軍事基地により帝国を維持することに取りつかれているが、私たちには維持する財政的余裕すらなく、多くのいわゆる「受け入れ国」も、もはや望んでいない。私は強く提案する。米国が放漫な態度を改め、米国に普天間海兵隊員を帰国させ基地を移転し(私の住んでいる近所のキャンプ・ペンデルトンのようなところに)、そして65年もの間、忍耐を強いられてきた沖縄県民に感謝することを。(了)


チャルマース・ジョンソンの著作には「ブローバック(日本語題名 アメリカ帝国への報復 集英社)」や近々出版予定となっている「帝国の解体:アメリカの最後の最上の希望」などがある。

記事へのリンクについて
チャルマーズ・ジョンソン氏による本稿初出は、2010年5月6日のロス・アンジェルス・タイムズ紙の掲載です。リンク先が無効になっている可能性があります。

http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-johnson-20100506,0,4706050.story

http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-johnson-20100506,0,187650,print.story

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笛吹けど踊らず

2010-06-04 | Weblog
やっぱり、脅されたのだろう、その圧力に負けてしまったのだろう、と感じます。鳩山氏、お金持ちだし、家族もいるわけで、「もっとラクで安全な人生があるでしょう、あなた以外は誰も現状を変えたいなんて思っている人はいないんですよ」とか、言われたのではないですかね。多分、辺野古案に戻ってきたあたりで。5月に入ってから、目が宙を泳いでいましたから。
 それにしても、ここまで一気に崩れるとは思いませんでした。内閣発足時から普天間問題がこの内閣の帰趨に影響を与えるだろうとは思っていましたが、国には他にも重要な問題も山積みだったわけで、この問題で連立解消、首相と幹事長の辞任という結末にまで至るとは思っていませんでした。さぞや、敵はほくそ笑んでいるでしょう。悔しいです。

前回、中学生のころの制服反対の話を書いたのですけど、その時、私は子供ながら強い無力感を感ぜずにはおれませんでした。制服からの解放を喜ばない人はいないと単純に思っていたせいでしょう。普天間問題も日米安保の問題でアメリカの植民地で良いのかという問題であったはずです。アメリカの植民地から独立することを望む日本人は多いはずだと鳩山氏も思っていたのではないでしょうか。鳩山氏も立場上、「日本はアメリカの植民地であった、非核三原則は口先だけだった、国民の皆さん、それではいかんのではないか」と問いかけることはできなかったのでしょう。沖縄の人々の思いを十分に本土の人々に共有してもらうこともできませんでした。努力をしていたのは分かります。しかし、国民の多くは、先の基地負担での知事の反応に見られるように、基地問題など他人事で、自分たちさえ良ければそれでよい、沖縄がずっと米軍基地を引き受けて来たのだから、これからもやってもらえればよいのだ、と思っているのではないでしょうか。アメリカ様に逆らって、また原爆でも落とされたらどうしてくれるのか、日本のプライドとか品格とか友愛とかという前に、自分たちが喰っていけてナンボ、自分たちの生活のためには沖縄の犠牲はやむを得ない、と考えているのが本音だと思います。マスコミの洗脳の成果もあるでしょう。それが民意だと言われ、民主党の役立たずの閣僚どもに手足を縛られていては、やる気も萎えるもの仕方がないとは思います。国のことを考えて、良くしようと思って一生懸命やってきたのに、マスコミ、検察、党内の反逆分子と足を引っぱるものばかり、国民は無関心、となれば、アホらしいと思わない方がおかしいとも思えます。

しかし、どうせ最後なら筋を通して欲しかった。「言挙げせぬ」のが日本人の美徳かと思う人もいるかも知れませんが、約束を守れなかったのですから、言い訳ではなく「説明」はしっかりする、それが最低限の責任というものだと私は思います。鳩山さん、説明なしで言い訳ばかりに聞こえます。「自分が身を引くのが国益だ」とか言われて、後は知りませんと見放されたのでは沖縄は納得できません。
 社民党は少なくとも筋を通して連立離脱しました。少なくとも参院選で改選組の福島党首にしてみれば、他の選択はありませんし、それを曲げては社民党の存在意義もないと思います。(村山氏の轍を踏まずに済みました)
 鳩山氏もここまで来てしまった以上、毒を喰らわば皿までと、参院選での負けを待ってから、「民意」という言葉を捨て台詞に、辞めれば良かったのではないかと思います。ただ、選挙用の辞任なので、小沢氏は鳩山氏を替えれば、参院選に勝ち目はあると考えたのでしょう。そう言われれば、鳩山氏、いくら続投したくても辞めざるを得ません。民主党にとって、管さんは選挙にはプラスかも知れませんけど、小沢氏が幹事長を辞任した後で、管さん以外は素人衆の民主党では、これまでよりもパワーダウンするように思います。しかも、反小沢派が管さんにすりよって小沢氏の影響力を削ごうとしているらしいですから、小沢氏、ここで無役となって、地下にもぐって検察の追求をかわし、政界再編を企てているのではないでしょうか。想像するに、やはり現在の民主党メンバーでは役不足の感を強くしたのではないかとも思うのです。笛吹けど踊らず、普天間問題に関して、民主党の閣僚と多くの本土の国民を見るとつい口をついて出ます。小沢氏が実現したい民主主義、二大政党制、その理想を語ってもついてくる議員も国民も少ない、民主党は管さんを除いては経験不足。政治は単なる権力闘争ゲームというレベルでマスコミは宣伝しますし、多くの国民もそれにのせられています。

鳩山氏、言葉が軽いと言われます。かつて、政治漫談家、田中眞紀子師匠から「多弁にして空疎」と評された元祖七奉行の一人だった首相を思い出しますが、確かに鳩山氏、あのしゃべりはいただけません。それで辞任に際して、鳩山氏「政治とカネ」が問題だというような要らぬコメントまで付け加える始末。これは、小沢氏に辞めさせられた恨み節なのでしょうか。善人なのは間違いないのでしょうけど、この辞任にいたる経過を見るとやはり、鳩山氏、首相としては、いろいろな面で未熟であったと言わざるを得ません。私、友愛は大切だし、そういう理想論的な正論を掲げて、真っ直ぐに突き進んでもらいたいと期待しておりましたが、ことの顛末を振り返るに、ちょっと力強さが足りませんでした。ヒョイヒョイと揺さぶられてイナされたら、自ら重心をくずしてしまった、そんな印象を受けます。丹田に力を込めて、軸足を踏ん張った上で、正攻法でじっくり攻める、そのためには内閣の布陣を完全にし、戦う相手を良く研究し、勝算を計算してから宣戦布告をすべきでした。敵を知り己を知り自信を持って事に挑むことができなければ、何事も成りません。振り返れば、鳩山氏、敵も見方も十分に解かっていたように思えません。今更、鳩山氏の玉砕を悔いても仕方ありませんが、参院選への影響が第一の理由とは言え、直接には普天間問題で退陣とはちょっと情けない、そう思います。
 私もショックが大きいので、しばらく床屋政談は休みたいと思います。
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自分の頭で考えよう

2010-06-01 | Weblog
中学生のころ、学校の制服廃止を学級会の議題に上げたことがありました。私は制服が大嫌いでしたし、私の周囲の知っている生徒も制服には文句を言ってました。それで、制服廃止を訴えれば、きっと賛成多数になって一気に運動が進むに違いないと思ったのです。それで学級会で手を挙げて、「なぜ着たくもない服を毎日着ないといけないのか納得できない」という辺から期待を込めて説き起こしたのでした。意外なことに、クラスメートの反応は悪く、誰も賛同の声を上げません。それどころか、制服賛成者がいて「制服があるから、毎日、着ていく服を心配する必要がないのだ」みたいなことを朗々と反論され、私は正直、がっくりしてしまいました。最後の方で数人が制服反対論に賛成してくれましたが、最後の評決では、予想とは逆に、制服賛成論者が多数となり、私の制服廃止への期待は惨めに潰えました。なにより驚いたのは、その制服賛成論者の「制服があるから着ていく服を心配する必要がない」という理屈でした。自分の着る服ぐらい自分で決めるのは当然だし、服の心配をしたくないならその辺の着れるものを適当に着ればよいではないか、と当時の私は思ったものでした。

今、振り返ると、こういう思考こそが、日本人が江戸時代から延々と叩き込まれてきた教育の成果なのではないかと思うのです。「自分の服のことを心配したくない」という心理は何なのか、「面倒だ」と思うことよりも、人と違う服を着て目立ちたくない、人と違うように思われたくない、そんな心理があるのではないのかと想像するのです。誰か(学校や先生)が自分たちのすべきことを決めてくれて、それにそって生きていくのがラクだと思っているのではないか、そう感じるのです。

昔から日本では、将軍や天皇が、国民のすべき事を指示してくれて、国民はそれに沿って生活するものだ、という考えを日本の支配者層は刷り込んで来たのです。そうして思うように国民をコントロールしようとしてきました。5人組とか隣組とかいうとんでもない制度も、日本人の人と違ったことをすると罰せられる、出る杭は打たれる、という脅迫観念の醸成に役立って来たことでしょう。

そして第二次大戦後はアメリカでした。GHQが日本国憲法を決め、戦争放棄を決め、危険分子除去のために東京地検特捜を作りました。アメリカの決めたアメリカに都合の良い制度を、これまでの「お上」には絶対服従の日本人気質を利用して、日本の政府に埋め込んだのです。戦後の日本の首相はアメリカCIAエージェントだと言われています。読売の正力さんもそうらしいです。東京地検特捜はGHQが作ったものです。つまり、政治家、司法行使(検察)、マスコミと、戦後の日本の権力は、全部アメリカにコントロールされてきたわけです。

角栄がアメリカからの独立を目指して日中国交正常化を果たした結果、ロッキードで嵌められました。その後もアメリカの手先であった清和会系の政治家は、いくら汚職をしようとも全く手つかずで安泰、一方、角栄の流れを組む経世会系は、角栄を始めとして、竹下登はリクルート、金丸は佐川急便事件、橋本龍太郎は日本歯科連盟ヤミ献金疑惑、大平、小渕は首相任期中の不審死(暗殺疑い)、と露骨に特捜に上げられて失脚したり、命を失ったりしています。一方、清和会は皆、安泰。そして、この数年、特捜に散々やられているのは、角栄の弟子、小沢氏です。新聞の論調を見ていますと、「お上(アメリカとその手先の日本の権力組織)」に逆らうから痛い目にあうのだ、という本音が丸見えです。こういう「出る杭は打たれる」、「お上は絶対」という洗脳メッセージを、未だに毎日、毎日、マスコミが国民に流しているのですから、国民の方も、「自分の周囲さえ良ければそれでよい、自分たちは、お上(アメリカ)の決めた通りに家畜のように生きて行けばよいのだ」と国家レベルの話には思考停止に陥るのも無理ありません。

日本経済が良かったうちは、身の回りのことだけを考えていても問題ありませんでした。経済成長が止まって30年たち、少子化高齢化が進んできていた上に、小泉、竹中が更にトドメをさして日本経済を荒廃させてしまった現在、「お上」に言う事を、唯々諾々と聞いていたらどうなるか、自明だと思います。アメリカが牧場主として、日本が乳牛だと見てみます。日本の高齢化少子化に伴う経済低迷などで、もうミルクが出ないとなれば、窮した牧場主はあとは餌もやらずに見殺しにするだけではないでしょうか。それが、日本をほとんど素通りして中国へ行ったクリントンの行動に表れています。日本が基地を提供して、年間600億とも言われる上納金を収め、郵便貯金でアメリカの国債を買える可能性のあるうちは、日本は利用価値があると思っているでしょう。その後、搾り取るだけ取った後は、アメリカはさっくりと極東の軍事基地を縮小し、中国とは平和外交、食い詰めた日本がそのころになって暴れ出したら、逆に、テロ国家と勝手に宣言して、安全保障条約はどこへやら、中国と一緒になって攻撃してくることでしょう。

日本人は自分の頭で国のことを考えねばなりません。誰かに自分のことを考えてもらったり指し図してもらったりしていては、自分の生活は守れません。昔の戦場で、処刑する捕虜に自分自身の墓を掘らせて、殺した後そこに埋めるという話がありますが、日本人が今、マスコミの洗脳にあってさせられていることは、まさに自らの墓穴を掘っていることに他なりません。

その隷属関係から逃れる唯一の方法は、国家が再軍備したり核武装したりという物質的なものではなく、国民全員の意志だと思います。国民全員が日米安保に代表される日本の植民地支配構造にノーと言うこと、日本国民が自らの意志でアメリカ独立を願い、マスコミの洗脳や国家権力を使った脅しに屈しない、という意志を表明することだと私は思います。

しかし、中学校のころの制服廃止に対するクラスメートの反応を思い出すと、私、これは容易な事ではないだろうなあ、と思わずにはおれません。あれから随分経っていますが、「アメリカの植民地から独立したいか」と聞いて、「したい」と即答する人間は3割に満たないだろう、と想像します。日本がアメリカの植民地であるという自覚でさえない人が5割以上はいることでしょう。悲しいことです。
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