もっとも非生産的活動の一つと思われる動物実験プロトコル書きしています。これほど楽しくない作業はなかなかないだろうと思います。我々のような遺伝学的実験で種々の動物の交配を多く含む実験だと、交配の結果得られるであろうと考えられる動物の数や種類をいちいち計算し、そこから逆算して必要な動物の数、性別などを割り出す作業が必要になります。交配が激しく関わる実験ですから、実際に実験が始まれば、最初の一ヶ月で、すでに、計画とは大きくずれてしまう可能性が高いようなシロモノなのに、実験委員会がもっとも注意しているのは、動物の数と苦痛の有無、ですから、一の単位まで動物の数を計算しないといけません。そもそも、交配実験を念頭において審査されているわけではないのが問題なのだろうと思います。この規制社会は生きずらいです。思わぬところから規制パンチが飛んできて、実験プロトコルだの、遺伝子実験許可、化学物質衛生プロトコル、実験倫理トレーニングだのが毎月にようにやってきて、すべて強要です。規制に違反したら研究させないと高圧的に脅かしてきます。論文やグラントを書いてはレビューアに批判され、ピントはずれのコメントにも、知に働けば角が立ち「おっしゃる通りでございます」と卑屈になる。とかくピアレビューの世の中は生きにくいです。田舎に住んで自給自足で誰にも批判されずに密かに生活したいという気持ちになります。
そんなこともあって、最近、これからさらに発展を目指すべきか、来たるべき人生の終焉に備えてスピードを落とすべきか、という方針の選択に揺れております。そもそもスピードなど最初から出ていないのだから、もっと頑張るべきだと思う一方、頑張って来たけれでもこのスピードしか出せていない上に、体力、知力の衰えを嫌でも実感することが多くなってきて、この調子でいってもジリ貧となる可能性も高い、それならば、安らかな晩年を過ごせるように方向転換を考えるべきなのかなと気弱になったりするわけです。
振り返れば、研究キャリアをビジネスという観点から見て、その長期安定を戦略的に図るということを私はしてきませんでした。研究活動のようなチマチマした地味な活動は、とにかく当たりが出るまでは、一生懸命やるしかないのだろうと思っていました。ところが、成功している研究者の人々を見ると、彼らのキャリアプランは大学に入った時には既に始まっており、強い目的意識をもって戦略的計画に基づいて、10年先を見ながらマイルストーンを建てて、日々を送っているようです。目標のない船は何処にも行かない、と言われるように、10年先のことなど考えたこともなかった私が、彼らと随分、差を開けられているのは然るべきとも言えます。それで、若いころはそれに焦りを感じることも多かったです。しかし、自分が、彼らのように計画的に自分の人生を自分の描いた型にはめていくように生きている様子というのが、私にはなかなか想像できないのです。
客観的に見れば、二流の零細研究者ですが、これまではそれなりに幸せに生きてきたと思います。今になって思えば、好きな研究をしながらまずまず幸せに生きてきたこと以上の幸運はないと思います。そのおかげて、いまだに毎日、ちょっとだけでも実験台に座って、実験の結果に一喜一憂するという贅沢を味わっております。一方、偉くなってしまった人々は、自分で実験することもなくなり、グラントのSF小説を書いたり、論文のレトリックを工夫したり、雑用に追い回されたり、研究室の人間関係を調整したりと、研究とはあまり関係ない様々な事柄に毎日が埋め尽くされているようです。どちらが幸せに思うかは人それぞれでしょうね。
人間の最大の欲求はその存在価値を認められることだそうです。であれば、重要なポジションについて、たくさんのハイインパクト論文を出し、講演に招待してもらい、学会会長を務めたい、という願望はなるほどと思います。しかし、それは研究そのものが与えてくれる喜びとは無関係なものです。人はそのように「他人」からのrecognitionをもって、存在価値を確認する以上に、自分が自分自身を認めてやることの方が価値があるのではないかな、と最近、思うようになりました。
それで、私は人生の先行きも知れているし、現状をまずまず肯定的に受け入れてもいるし、とりあえず今日のゴハンと寝る場所は確保できているという幸せな状態にあるからよいのですが、私より一回り下の世代の人々の苦労を見ると本当に気の毒です。いまや、研究者、アカデミックキャリアというものが、まっとうなキャリアオプションと思えなくなってきました。大学院を出て学問を研鑽しても、その後は、テニュアトラックに入るのも大変です。うまくテニュアトラックポジションが得られても、テニュアに届かず、中高齢になってからハシゴを外されたら、その後にまともな選択肢は少ない、そんな中で、研究の世界に足を踏み入れて苦労を積み重ねれば積み重ねるだけ他のキャリアオプションは減っていくように見えます。研究者で生き残るためには、なんらかの意義のある結果を出しつづけて、勝ち越していかないといけないわけですが、若い世代の中にはその土俵に登るためのチャンスでさえ与えられない人も少ないないように思います。
しかし、一方で、こういう社会のシステムは、私は所詮、「ままごと遊び」だと思うのです。それなりに長い人生生きて行くのに、人々は、社会の中でなんらかの役割を必要とするのです。それで、アカデミックキャリアゲームや会社に入って出世ゲームや、国会ごっこや、霞が関遊び、などをして死ぬまでのヒマをつぶすのです。私の研究もそんなゲームだと思っています。でもそれに家族の生活とかがかかってしまうので、ゲームであることを忘れてしまうのでしょう。ま、命のかかったゲームほど興奮するものですが、それがストレスになってしまうようなら、人間の活動はなんでも結局は、死ぬまでの暇つぶしのゲームにすぎないのだと、醒めた目で見るのも有用かと思います。
そんなこともあって、最近、これからさらに発展を目指すべきか、来たるべき人生の終焉に備えてスピードを落とすべきか、という方針の選択に揺れております。そもそもスピードなど最初から出ていないのだから、もっと頑張るべきだと思う一方、頑張って来たけれでもこのスピードしか出せていない上に、体力、知力の衰えを嫌でも実感することが多くなってきて、この調子でいってもジリ貧となる可能性も高い、それならば、安らかな晩年を過ごせるように方向転換を考えるべきなのかなと気弱になったりするわけです。
振り返れば、研究キャリアをビジネスという観点から見て、その長期安定を戦略的に図るということを私はしてきませんでした。研究活動のようなチマチマした地味な活動は、とにかく当たりが出るまでは、一生懸命やるしかないのだろうと思っていました。ところが、成功している研究者の人々を見ると、彼らのキャリアプランは大学に入った時には既に始まっており、強い目的意識をもって戦略的計画に基づいて、10年先を見ながらマイルストーンを建てて、日々を送っているようです。目標のない船は何処にも行かない、と言われるように、10年先のことなど考えたこともなかった私が、彼らと随分、差を開けられているのは然るべきとも言えます。それで、若いころはそれに焦りを感じることも多かったです。しかし、自分が、彼らのように計画的に自分の人生を自分の描いた型にはめていくように生きている様子というのが、私にはなかなか想像できないのです。
客観的に見れば、二流の零細研究者ですが、これまではそれなりに幸せに生きてきたと思います。今になって思えば、好きな研究をしながらまずまず幸せに生きてきたこと以上の幸運はないと思います。そのおかげて、いまだに毎日、ちょっとだけでも実験台に座って、実験の結果に一喜一憂するという贅沢を味わっております。一方、偉くなってしまった人々は、自分で実験することもなくなり、グラントのSF小説を書いたり、論文のレトリックを工夫したり、雑用に追い回されたり、研究室の人間関係を調整したりと、研究とはあまり関係ない様々な事柄に毎日が埋め尽くされているようです。どちらが幸せに思うかは人それぞれでしょうね。
人間の最大の欲求はその存在価値を認められることだそうです。であれば、重要なポジションについて、たくさんのハイインパクト論文を出し、講演に招待してもらい、学会会長を務めたい、という願望はなるほどと思います。しかし、それは研究そのものが与えてくれる喜びとは無関係なものです。人はそのように「他人」からのrecognitionをもって、存在価値を確認する以上に、自分が自分自身を認めてやることの方が価値があるのではないかな、と最近、思うようになりました。
それで、私は人生の先行きも知れているし、現状をまずまず肯定的に受け入れてもいるし、とりあえず今日のゴハンと寝る場所は確保できているという幸せな状態にあるからよいのですが、私より一回り下の世代の人々の苦労を見ると本当に気の毒です。いまや、研究者、アカデミックキャリアというものが、まっとうなキャリアオプションと思えなくなってきました。大学院を出て学問を研鑽しても、その後は、テニュアトラックに入るのも大変です。うまくテニュアトラックポジションが得られても、テニュアに届かず、中高齢になってからハシゴを外されたら、その後にまともな選択肢は少ない、そんな中で、研究の世界に足を踏み入れて苦労を積み重ねれば積み重ねるだけ他のキャリアオプションは減っていくように見えます。研究者で生き残るためには、なんらかの意義のある結果を出しつづけて、勝ち越していかないといけないわけですが、若い世代の中にはその土俵に登るためのチャンスでさえ与えられない人も少ないないように思います。
しかし、一方で、こういう社会のシステムは、私は所詮、「ままごと遊び」だと思うのです。それなりに長い人生生きて行くのに、人々は、社会の中でなんらかの役割を必要とするのです。それで、アカデミックキャリアゲームや会社に入って出世ゲームや、国会ごっこや、霞が関遊び、などをして死ぬまでのヒマをつぶすのです。私の研究もそんなゲームだと思っています。でもそれに家族の生活とかがかかってしまうので、ゲームであることを忘れてしまうのでしょう。ま、命のかかったゲームほど興奮するものですが、それがストレスになってしまうようなら、人間の活動はなんでも結局は、死ぬまでの暇つぶしのゲームにすぎないのだと、醒めた目で見るのも有用かと思います。