百醜千拙草

何とかやっています

ケネディ家の終わり、アホウ自民党の終わり

2009-08-28 | Weblog
テッドケネディー死去のニュース。一年ちょっと前に脳腫瘍が見つかり、かなりaggressiveな治療をしたことは聞いていました。つい先日、姉のユーニスシュライバー(身障者のためのスペシャルオリンピックを立ち上げました)が死去した際の葬儀にも顔を見せなかったので、体調が悪いのだな、とは思っていましたが、26日早朝、マサチュセッツ、ケープコッドの自宅で死去とのことで、驚きました。おそらく、アメリカ議会で、もっとも政治的影響力のあった人でした。自身も大統領予備選に出た事がありましたが、その時はジミーカーターに民主党候補のノミネーションで敗れました。もし、大統領になっていたら、おそらく、現在までのような影響力を持ち続けることはできなかったでしょうし、そうなっていたら、クリントン政権、オバマ政権の実現はなかったかも知れません。そう言う意味では大統領にならなくて良かったとも思えます。悲願のヘルスケアリフォームはオバマ政権で激しい抵抗にあっていますが、ついに、その実現をみることができませんでした。このテッドケネディーの死によって、五十年にわたってアメリカ政治に強い影響を与え続けて来たケネディー家は政治の世界から消えていくことになるのかも知れません。JFKの暗殺、ロバートケネディーの暗殺、JFK Jrの事故死、などなど、数々の不幸な出来事がケネディー家に起こって来た中で、テッドケネディーの死は比較的穏やかなものでした。アメリカ国民に最も愛された議員でもありました。

アメリカの政治や社会がオバマ民主党政権の実現によって、大きく変化しつつある中、日本でも、歴史的な政権交代を2日後に控え、一足先に慶賀に耐えぬ気持ちを抑えられない人々も多いと思います。今更、去り行く人の悪口を言っても、益ないことではありますが、先日の日経新聞の記事を読んでどうしても、もう一言、言っておきたくなりました。

 麻生太郎首相は25日、宮城県多賀城市で街頭演説し「政治はばくちじゃない。(民主党に)ちょっとやらせてみようか、というのは違う話だ。全く優先順位が分かっていない人が多すぎる」と、いら立ちを見せた。報道各社が衆院選情勢調査で自民党の劣勢を伝えていることが背景にあるとみられる。

本当のリーダー、例えば、一代でゼロから会社を作り上げたような人、自分の仕事に責任と誇りを持っている人であれば、絶対にこのような発言はしないでしょう。これは、まさに、ロクな苦労もせず、ただの僥倖で、地位を得た人間の言葉です。リーダーたる人がどのように民衆をまとめ、仕事をするのか、きっと知らないのでしょうね。「分かってないない人が多すぎる」こういうことを報道陣の前で平気で口にできること自体が、一番わかっていないのはアホウさん自身であることを証明しています。政治家で国民の意見を聞いて政策を決める、そういう立場の人が「わかっていない人」があたかも悪いようなもの言いをしたという時点で、この人は政治家としてもリーダーとしても失格です。リーダーは、分かっていない人に、分かってもらえるように、言葉を尽くし、誠意を尽くすのが、その仕事です。国民の人に仕えるためにそれだけの権力を任されているのだ、という意識が、このアホウさんの言葉にはありません。「分かっていない人が多い」のが本当であれば、それは、アホウさん自身の責任です。自分が国民の人に分かってもらえる努力をせず、漢字も勉強せず、言葉遣いや思いやりの心を持つ努力もせず、生活苦で多数の人が自殺していく中で「金もちに生まれたボクの苦しみを普通の人は分からないだろう」とふざけたことを言ったり、街頭演説では「下々の皆さん」と国民に呼びかけてみたり、いちいち上がればキリがありませんが、史上最低の大統領ブッシュをはるかに上回る史上最低の首相であるところをモロだしにして、国民の人に「アホウ自民党につける薬なし」愛想を尽かされたということが、バカ殿のアホウさんには、どうしてもわからないようです。つまり、リーダーであれば、当然のようにわきまえている謙虚な反省の心、今回の選挙の苦境は、100%自分の責任であるという、当たり前の反省の心がこの人にはないのです。小泉前首相は悪人であったかも知れませんが、少なくともリーダーの振る舞い方については知っていて、それを悪用しました。その後に続く3人は本当に出来が悪いです。前の二人は、リーダーが絶対やってはいけないやり方で政権を運営し、挙句に投げ出しました。この人たちが未だに議員でいられるのが、私は不思議でなりません。アホウ氏に至っては、普通の人間がやったら社会で生きていけないようなことを、毎日のようにやり続けて、支持率10%台にしました。「政治はばくちじゃない」と国民はもちろん思っています。だからこそアホウさんをすげ替えないと、自分たちはアホウ丸と一緒に沈没してしまうと考えているのです。
 最初から最後の最後まで、本当にどうしようもないアホウさんでした。さようなら。
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ちょっといい言葉(2)

2009-08-25 | Weblog
夏目漱石は、晩年の心境を「則天去私」と表しました。つまり真に偉大なる天(とここで呼ばれているようなもの)に対して「降参する」ということであると思います。以前、「降参する」ことについてちょっと述べましたが、この言葉は誤解を生みますね。むしろ、英語でSurrenderという方が意味がよく伝わるような気がします。「降参する」とは自我への執着を捨てるという意です。「御心のままに」ということです。このことは、別段、目新しいことでもなく、多くの古人が繰り返し、繰り返し強調してきたことです。例えば、仏陀は四聖諦(1人生は苦である、2苦はの執着心、煩悩、からおこる、3自己への執着心を滅すれば苦は消える、4そのために八の正しい行いを心がける)を説き、我執を去ることを最重要項目としています。人は皆、「いつか死ぬ」という死の宣告とともに、泣きながら、この世に生まれて来て、苦しみに満ちた人生を歩まねばならない、という事実を深く知るならば、四聖諦は自然と納得できることだと思います。
 人間、何十年と生きていると、苦諦、つまり、人生は苦である、ということには自然と共感できるのではないでしょうか。しかし、その苦を解決するために、「自己への執着心を捨てて、降参する」ことはなかなか容易ではありません。それには、自分よりもはるかに偉大なるものの存在(天とか神とか、いろいろ呼ばれますね)を認めることがどうしても必要になるからです。ここが実は難しいところではないかと思うのです。科学万能主義で教育を受けて来た現代人には、目に見えて、触れれるものが全てである、という強い刷り込みがあります。しかし、偉大な科学者は、科学というのは科学というルールの中での閉じたゲームにか過ぎないことを知っています。ですので、科学で説明できないことやものの存在に意識的です。しかし、科学になじみの薄い人は、「科学は万能である」、すなわち、科学のルール、あるいは科学ゲームというものが、世の中を支配する原則そのものと相等しいと錯覚することも多いものであると思います。科学的であるということは科学のルールに基づいた論理の進め方をするというだけのことであって、それ以上のものではないと思います。科学が進歩して成された最も重要な発見は「科学では解決できない問題が多くある」ということではないでしょうか。例えば、誰も「人生は苦である」という真理を科学的に証明できる人はいません。同様に、この精妙にできた宇宙の不思議に心打たれる経験をしたことのある人が、どうやって宇宙が出来たのか、どうして薔薇の花は咲くのか、蜘蛛はどういう理由で蜘蛛の巣の張り方を覚えるのか、ちょっと深く考えてみたならば、人智の及ばない偉大なる何かの存在を考えずにはいられなくなるでしょう。(そういう思いを持ったことがないなら、想像力にちょっと問題があると思います)
 「人生が苦である」ことの科学的証明ができない理由として、それは「科学の問題ではないからだ」という人がいます。この言葉が科学の限界を語っています。つまり科学とはその程度のものなのです。科学は科学が扱える問題だけを扱うので、そういう限定された問題については、科学的に解決できる(あるいは解決できると思っている)ということです。そうでない世の中の多くの問題に対しては、科学は最初から匙を投げているのだ、と言ってもよいかも知れません。科学が科学の世界で閉じているというのはそういう意味です。
 話がそれました。「天」の話でした。夏目漱石が晩年に「則天去私、天の意に沿い自我への執着から去る」そういう境地に達した、その理由を私は数年前に体感的に理解しました。それで、ちょっと思う所を書き留めておこうと思ったのす。
(続く)
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政権交代後のこと

2009-08-21 | Weblog
インターネットのニュース欄では、やはり今は、衆院選がトップの話題のようです。人々の期待通りにいけば、50年ぶりに政権交代が起こり、アメリカのような二大政党体制となって、日本の民主主義がスタートする、歴史的な選挙になるはずです。 田中眞紀子が「これからは二大政党の時代になる。自分の政策を実現していくために大きな党に属する必要がある」と言って、先日、民主党に入党し、新潟5区から民主党として出馬することになりました。民主党にとっては、更なる追い風となる出来事と思います。一方、自民党はかなりの大物も危ないということで、比例との二股をかけざるを得ず、このことも最終的に自民の議席減少に寄与するであろうと考えられます。私も、二大政党時代になって欲しいと思います。以前、私見を述べましたが、力の拮抗した政党が、お互いを牽制しあい、より良い国民のための政治を目指して競争しあい、そして政権交代を繰り返すことが、政官財の癒着構造を防ぎ、政府が国民のために働く社会を維持するために必要であると私は思います。
 今回の選挙で日本国民の政治への関心がここまで高まったのは、前回の衆院選以来の自民公民の度重なる失政に国民がキレたせいであろうと思います。だからこそ、この選挙は候補者の言葉通りの正直なものであって欲しいと私は願っています。自民党は、今回のキャンペーンに「責任力」とかいう意味不明の言葉を使いました。責任をとる力のことでしょうか?前代、前前代の党総裁の無責任極まりない政権丸投げ、相次いだ閣僚の不祥事、更迭、前回衆院選での公約違反の数々と、自民党は「責任」ある職務をまかせられない人々の集団であることを証明してきました。だから、この「責任力」とかいう言葉は「郵政民営化」と同様、実体不明の中身のない、口先だけのものです。ここ数年の自民党がやってきたことを知っている国民の殆どが、この言葉を聞いて鼻白んでしまうでしょう。間違いなく「責任力」というキャッチワードは自民党の意図と逆の方向に働くと考えられます。「反省しない人々」、それが国民が自民党に対して持っている印象であると思います。
 それで、民主党を中心とした連合政権が発足するわけですが、私が恐れているのは、民主、自民の談合です。参院で与野党逆転となった時、民主が自民の法案に反対し、法案を阻止してきたので、国会空転、ねじれ国会と言われました。自民は与党に都合のよい法案の強行採決が難しくなって、それをあたかも民主党が国会機能を麻痺させているのだ、と非難しました。民主側から言えば、悪法案を阻止して、日本がますます悪い国になるのを阻止したということです。それで、衆院選後、民主党が与党となった場合に、野党勢力となる自民をどう扱おうとするか、ということを想像しています。民主党は、党の理想の政治を進めたいと思うでしょうし、今度は自民がそれに反対するというしばらく前と逆の状況が起こり得ると思うのですが、その時に、小沢さんは、ちょっと前みたいな「大連立」構想の誘惑を受けるのではないかとふと、思ったりするのです。私は日本の民主主義のために、大連立だけはやってはいかんと思います。第二次大戦への軍国主義を後押ししたのは、大政翼賛会でした。いくら政党の政策に共通のものが多くとも、敵対するより、共同でやる方がよいと思われても、二大政党が「談合」するようなことになれば、いざというときのブレーキが効かなくなくなります。「権力は必ず腐敗する」ものであることを考えると、民主と自民はその政策や方針がどれほど似ていようとも、あい交じらず、適当に仲が悪い、そんな関係を維持していくことが肝要であると思います。万が一、大連立がおこるようなことがあれば、今回の選挙は全くの茶番です。それを私はちょっと危惧しています。
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国家主義と靖国参拝

2009-08-18 | Weblog
先週末のロイターのインタビューで、自民党幹事長が民主党の経済政策をあらためて批判し、自民党の経済対策の効果を自画自賛しました。その話の内容を聞いて、私は、ちょっと違うんじゃないか、と思わざるを得ませんでした。
 その自民党の経済対策の効果というのが、日経平均株価の回復、GDPのプラス変換の見通し、なのだそうです。私にはナンセンスにしか聞こえません。なぜこれらが自民党の政策の成果であると言えるのでしょうか。株価が落ちて来た時に、自民党議員が私財を投げ打って株の買い支えでもしたのなら、そう言っても良いかも知れませんけど、そんなワケないでしょう。一体何をやって株価を回復させた、などと偉そうなことを言っているのでしょうか。そもそも、日本での金融危機を悪化させたのは、市場原理をどんどん煽って、一般国民の金を市場に注ぎ込ませて、アメリカ投資機関に日本の相場で儲けさせて来た自民党そのものではないのでしょうか?いわば、自分の責任で株価を落としておいたくせに、その後の株価の回復は自民党の政策のおかげだ、などという厚かましいことをどの口を開けば言えるのでしょう?これって、マッチポンブそのものだと思いますけど。それに、株価は市場で、売り手と買い手のやりとりで値が決まるというだけのものです。そこに政府が何をしたら株価を上げたとか言えるのか不思議でなりません。正規の株の売買以外に、政府の意図で株価を上げたり下げたりできるのなら、それは「証券法違反」でしょう。第二に、株価が市場で決められる実体のないものであって、会社の価値とは必ずしも関係はないということぐらい最近の国民は皆知っています。仮に、政府が何らかのことをして(何をしたのかわかりませんけど)株式市場で株価が上がったということと、国民の収入が上がるとか会社をクビにならずにすむとか、そういう国民目線レベルでの経済とどれほどの関係があるのか、と問いたいです。むしろ、会社の存続や利益のために 正社員をいつでも切れる派遣社員に入れ替え、人件費を節約してきたからこそ、会社は収益を上げることができて、株価の上昇につながったのではないのでしょうか。つまり、現在の大会社の株価の維持は、被雇用職にある多くの国民の生活の犠牲の上に成り立って来たと言い換えることさえ可能かも知れません。それが自民党の経済政策の効果ではないのですかね。また、経済の指標にGDPを使うのも同様に国民目線の経済という点からはナンセンスです。GDPが上がって喜ぶのは、税金があがる政府と官僚だけでしょう。GDPではなく、一般国民の収入の変化をもって、経済効果があった、なかった、という議論にしてもらわないと、株価とかGDPとかの実体のないものでいくら議論したところで、国民の賛意は得られません。私個人的には、株式市場など、消えてなくなった方が日本国民のためだと思います。会社の資金を集める場所としての利点はあるにせよ、一方では株式市場は博打場でもあるわけですから、株取引に限っていれば、単に金を客と胴元の間で移動させているだけで、なんら価値あるものを生み出さない不毛な場所です。そんな博打にうつつを抜かしてアブク銭を手に入れることばかり考えている人が増えるぐらいなら、その時間に額に汗して、畑でも耕している方が、十倍も生産的であると私は思います。
 今回の選挙で、自民党は「景気」に焦点を絞っています。当然ですけど、国民の第一の関心は外交でも核武装でもエネルギー問題でも温暖化でもなく、「金」です。この不安定な社会で、どれだけ国民の生活が安定し豊かになるか、それなくしては、北朝鮮や憲法9条の話には進みません。自民党の「景気」は、大企業オーナーなどの金持ち層の経済のことであり、一般国民の日々の暮らしを成り立たせているレベルの金の話ではありません。だから、豊かさを株価やGDPで代表させようとしているのでしょうけど、国民は最早、このような小手先のゴマカシにはだまされないと思います。そんな話ではなく、多くが、被雇用者層または中小企業経営者である一般国民の収入と支出、そういうレベルの景気でなければ意味がないです。その点、民主党の子供手当て、消費税増税の据え置き、というのは、国民目線の政策と言えます。これまでのように、大企業優遇政策によって、二次的に国民の経済を潤わせる、トップダウンの経済政策は、動かなくなってきました。企業にそれだけの体力がなくなってきて、トップが利益をとったら、下まで回らない状況だからです。民主党が考えているように、ボトムアップの経済政策を国民は求めています。国民の生活を犠牲に大企業だけが生き残る様な「一将成りて万骨枯る」みたいな政策で、GDPや株価を維持できたからといって、意味ありません。これは、批判を受け続けてきた格差社会の更なる増進に過ぎず、権力の集中化、ひいては、日本のファシズムへの回帰へと続くものです。
 ついでに、自民党が目指している(と考えられる)国家主義について、先の靖国参拝も、密接に関係していると思いますので、私見を述べておきたいと思います。
 戦記念日の靖国神社の参拝について、戦争を経験した人や年配の人には、「国のために戦って死んだ人に敬意を示して参拝するのは当然のことである」といういう意見が多いようです。アメリカでもどこの国でも軍隊でお国のために戦った人のための祝日があり、戦没者慰霊の儀式を行っているのに、日本だけ、国の象徴である天皇が国のために死んだ人の霊に参拝することもできず、政治家が参拝する、しないで毎年論争になるというのはおかしい、というわけです。しかし、靖国参拝は、戦争で死んだ人の慰霊という以上のconnotationがある限り、私は公人の参拝は、現時点ではすべきではない、と思います。公人の靖国参拝で確実に起こることは、中国をはじめとするアジア諸国の感情を逆撫でし、日本軍国主義回帰への不安を掻き立てることです。表向きの目的と思われる「慰霊」についての効果は、私はわかりません。日本国内に向けては、自衛隊を軍隊化し、改憲、核武装を目指す現自民党政権にとっては、靖国参拝は国民にナショナリズムを植え付けるためのパフォーマンスなのでしょう。即ち、中国や朝鮮の反感をわざと買って、それによって引き起こされるであろう日本国民の反中、反韓の意識が高め、国民の間に軍国主義的意識が育つことを期待しているのかも知れません。一方、穿った見かたをする人は、首相が靖国参拝をする、しない、という判断はアメリカから下されており、靖国参拝は、日本とその他のアジア諸国との関係を、アメリカが思うようにコントロールするための道具であると考えている人もいるようです。すなわち、日中韓が余りに仲良くなり、アジア共同防衛組織をつくるようなことになって、日本が、日米安保を破棄するようなことになれば、アジアにおけるアメリカの立場が極めて弱くなるだけでなく、アメリカ防衛上の直接の脅威になる、このことをアメリカは恐れており、これを防ぐために、現在の日米安保という名のアジアにおけるアメリカ覇権構造を今後も維持したいと考えているアメリカが、靖国参拝をアジアの政治情勢のコントロールに利用しているのだ、という説です。この説が本当であれば、アメリカ追従政策だったこれまでの自民党にかわって民主党が政権をとり、公人の靖国参拝を全面禁止するようなことになれば、アメリカはどうでるのか、その辺は興味深いです。
 「国のために死んだ人の祀られている神社を国の象徴の天皇や国を治める政治家が堂々と参拝できないのはおかしい」と、特に軍国主義の時代を知る人は言うのもわからないではありません。しかし、私は、反国家主義ですし、戦争であれ何であれ、死んだ人は全員、天国へ行くものと信じておりますから、参拝は、そもそも参拝者自身のためのものであると思っています。また、近隣のアジアの人々が条件反射的に、靖国参拝と日本軍国主義を一本線で結んで、反日キャンペーンのプロパガンダに利用するという現状況で、あえて政治家が靖国参拝を行うのは「国益」に反することではないかとも思います。国家の品格とかプライドだのというような幻想を信じたい人は、公人もどうどうと参拝すべきだと思うでしょう。「国家のプライド」を保つことが「国益」だとでも信じているのなら、そう思う人の気持ちを私は変えることはもちろんできません。だからこそ、国民の間にも国際社会にもコンセンサスがない以上、靖国参拝を政治から切り離すことができないのならば、たとえ私人としてでも公人は参拝すべきでない、私はそう思います。今回、靖国参拝を見送ったアホウ首相は、「国家のために尊い命をささげた人たちを政争の具や選挙の騒ぎにするのは間違っている。もっと静かに祈る場所だ」と、珍しく正論を口にしました。本音はどうあれ、現首相がこういう正論を口にすることは、私は歓迎したいです。
 うろ覚えですが、昔の中国のお坊さんの古霊についてのエピソードを思い出しました。古霊は冬に暖をとるために仏像を焼いたという話で知られています。その人であったかその弟子であったか忘れましたが(前に仏像を焼いたというのに)今度は仏前にお供えを置いているのを見た人が、その意図を尋ねました。その答えにいわく、
「供養したければいくらでも供養すればよい。いくら供養しても供養し尽くされるものではない。また、いくら焼いても焼き尽くされるものではない」
 供養は仏像を拝むこととは関係はなく、戦没者の慰霊は、神社に参拝することとは関係はない、と私は思います。どうしても戦没者に対して何かしたい、と思うなら、こっそり、誰も見ないところでやればよいのです。わざわざ、政治家が集まって一斉に靖国に参拝する、そのパフォーマンスの益、不益について長年議論になっているのですから、やくざの葬式みたいにゾロゾロ大挙して行くのではなく、どうしても行きたいのなら誰も見てない時に変装でもして、こっそり行く、というのが国民の代表たる政権政治家としてのディーセンシーというものではないかと私は思うのです。(もちろん、靖国参拝はパフォーマンスですから、そこまでして行くというような政治家がいるはずもありませんが)

後記。
仏像を焼いた禅師の話の出典に当たりました。仏像を焼いたのは、古霊ではなく、丹霞天然でした。羅漢の供養をしていて、上記の答えをしたのは、丹霞の弟子、翠微無学でした。仏像を焼いて暖を取ったエピソードは、丹霞焼仏という公案になっているらしく、次のような話であったことが紹介されていました。
 丹霞は寒い日に木仏を焼いて暖を取ったが、それを他人から譏られたため、その人に「焼いて、木仏から舎利を取る」といった。しかし、その相手は、「木仏から舎利が取れるはずもない」というので、丹霞は、「それならば私を責める理由は無かろう」と答えた。
 偶像崇拝に対する批判ですね。
似た様な公案、南泉斬猫を思い出します。
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ビルマの問題は地球の問題

2009-08-14 | Weblog
約二年弱前、ビルマの政府がその軍事力で、民主化運動を暴力的に制圧しようとした時の話を書きました(僧侶に向けられた銃)。そんな恐怖政治を行う軍事政権下のビルマで、スーチーさんは、民主化運動のアイコンです。彼女が14年という期間、軟禁下におかれ、軍事政府から目の敵とされてきましたが、今回、軟禁期間の終了を目前にして、許可なくアメリカ人と会ったという罪で有罪となり、さらに軟禁刑の決定が下されました。
 この手の政治的意図での不当裁判は、日本でもありますが(最近では、政治言論で政府批判を続けていた植草教授を狙っての犯罪のでっちあげ、その上告棄却がありました。また、その他多くの警察と司法がグルになっての冤罪は後を絶ちません)、今回のビルマの事件も余りに意図があからさまなので、諸外国の強烈な非難を浴びています。
 状況的には、別にスーチーさんが意図的にアメリカ人と会おうとしたのではなく、自宅横の池を泳いで来たアメリカ人を保護したのを咎められたということです。そもそも、軟禁監視下にあるはずなのに、アメリカ人が池を泳いでやってきてスーチーさんに会えるということ自体が怪し過ぎます。このアメリカ人も禁固7年の判決を受けたそうですが、どこまで本当なのか怪しいものです。あるいはスーチーさんの犯罪をでっちあげるためにビルマ政府に雇われたのかも知れません。
 こうして、北朝鮮と同じように、国際社会から非難を浴びて、どんどん孤立していくビルマ政府は、どんな長期的展望を持っているのでしょうか。権力側の人間の利益さえ確保できれば、誰が何を言おうと、ビルマの国民がどうなろうと、知った事ではない、そして稼げるうちに稼げるだけ稼いで、ヤバくなったらトンズラしよう、そう思っているとしか考えられません。(書いていて、過去数代の自民党総裁の顔が浮かびました)また、有識者によると、中国がビルマ沖の天然ガスや石油を欲しがっているので、中国はビルマ軍事政府側に立ってくれるという計算があるそうです。その間にビルマは北朝鮮の協力で核技術の開発を秘密裏に行っているという話もあり、ビルマ政府はこれまで同様、軍事力を頼んで、諸外国を牽制し、ビルマ国民をコントロールしようとしているようです。北朝鮮がオウム真理教団とすれば、ビルマはまるで暴力団ですね。
 世界の国々が民主主義に向かって少しずつ進歩して、人類の幸福を実現しようとしてきました。民主主義はおそらく、現時点では、最適の政治形態でしょう。民主主義の後にもっとよい政治形態が現れるかもしれませんが、それには、まずは民主主義を実現する必要があると思われます。自己利益のために、そのような大きな視点を持てないビルマ軍事政府は、困り者です。サダムフセインがどのようにして殺されたか、覚えていないのでしょうか?あるいは、アメリカはブッシュからオバマに替わったし、ビルマの石油資源にアメリカが手を出すわけでもないから、外国が内政干渉してくる可能性はない、とタカをくくっているのでしょうか?
 とりわけ、スーチーさんの軟禁に関して、何年も前からビルマ政府の非難を続けてきた、近隣の東南アジア諸国で形成するASEANの失望は大きいです。大国中国がその経済力と国力を増しつつある状況で、東南アジア諸国は団結する必要があります。なのに利己的なビルマ政府が、大きな視点からものを見る事ができずに、皆の足を引っ張っている、そんな状況のように思います。
 学習院での講演で、人間第一主義/ヒューマニズムのことを、夏目漱石は、国家主義と対比させて「私の個人主義」と呼びましたが、ビルマ政府のやっていることは国家主義でさえなく、ただの利己主義であります。(また、ここ数代の自民党総裁の人々の顔が浮かびました)世界は過去の過ちから学んで、ヒューマニズムの実現という方向へと進化してきました。ビルマ政府が世界や歴史から学ぼうとせず、スーチーさんをはじめとするその国民を武力でコントロールし続けていることは、世界の我々も含む地球市民への挑戦でもあります。地球は一つであり、地球に住む住人は、地球を全員にとって住み易い場所へと改善していくプロジェクトの共同参加者でもあります。だから誰であれ、地球に住んでいる人間である以上、ビルマ軍事政府の横暴を見過ごすべきではないと私は思うのです。
 Avaaz.org ビルマの市民運動サポート
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芸能人摘発、裏の意図?

2009-08-11 | Weblog
芸能人の覚せい剤などの違法薬品使用の話は今にはじまったことではないですけど、それを取り締まる側の恣意的な態度は納得できないものがあります。今回の事件も別の目的に利用されたのではないかという感じが日増しに強くなります。
 数ヶ月前に夜中の公園で裸になってハイになっていた人の場合は、(警察は何らかの証拠を掴んだのでしょう)朝一でガサ入れまでしたのに、いきなり捜査中止命令が出て、単なる「酔っぱらい」と処理されました。それを思うと、今回の「清純派女優」の場合は、なぜ、もう少し穏便に処理されなかったのかと思わざるを得ません。この人の場合も、犯罪容疑者として逮捕されるだけでも、多くの方面に多大な影響があるのは間違いないわけですし。夫が逮捕された後、奥さんの方の捜査には、「止めとけ」という圧力があったようには見えません。むしろ、私には、警察側は最初から意図的にこの人を狙って大きなスキャンダルにしようとしたようにさえ思えます。
 もちろん、今回は、小沢秘書献金問題と違って、覚せい剤所持及び使用というれっきとした犯罪ですから、法を犯した方が悪いのは間違いないのです。しかし、その他の大勢も同じような違法薬物を使用しているであろうのに、まるでこの人だけ狙い撃ちしたかのように私には見えます。芸能人の少なからずが違法の薬を常用しているだろうと思いますから、警察側は取り締まる気になれば、いつでもできるはずです。それなのに、これまで泳がせておいたくせに、なぜ今になって摘発する気になったのか、それがひっかかります。そもそも、覚せい剤を本当に根絶したいなら、利用者ではなく、それを流している元を断つべきであると思います。メディアは、何故か(?)その当然の正論については触れません。きっと、それは諸般の事情でできないのでしょう。薬を資金源としている暴力団などと国家権力の間で、きっと談合みたいなものがあるのでしょう。
 清純派女優の違法薬物使用となれば、スキャンダル性が大きいです。覚せい剤使用で人生を棒に振った有名人ということで、一般人の関心を引くのは間違いないでしょう。このネタで新聞や週刊誌は一週間以上は引っ張れるでしょう。この人に限らず、芸能関係のスキャンダルが、この総選挙前になって、急に増えて来たのは、偶然ではないのではないか、と私は思います。芸能スキャンダルをニュースのトップに持って来させたいと思う「誰か」が、「ちょっと、誰か適当なのを挙げてくれ」という命令でもだしたのではないか、と私は想像しています。薬関係で挙げるのがもっとも簡単だから、今回の清純派女優と夫は、警察は最初から目をつけていて、捕まえる機会を狙っていたのではないか、そう勘ぐっています。噂では何年も薬をやっていたそうですから、もっと前に捕まえる気があれば捕まえていたはずです。しかし、この総選挙を数週間後に控えた今になって捕まえたということに、私は「意図」を感じます。
 第二次世界大戦前のアメリカは、経済の低迷で溜まって来た国民の政府への不満をそらすために、日本との貿易条件を無理に悪化させて、日本を開戦へと追い込み、国家緊急体勢を演出することで、国民の注意を国外に向けることに成功したのだそうです。現在の日本と言えば、国民の社会に対する不満は鬱積しています。そして今回の総選挙は、55年体制以来、自民党が戦後ほぼずっと政権を保持してきた日本の異常な政治システムの崩壊という、歴史的な出来事になるはずです。ここまで支持率の落ちた自民党(および官僚)は、なんとか選挙を自民党に有利にしようと、国民の選挙への関心をそらせて、少しでも投票率を下げることを考えているに違いありません。自民党への不満の高い一般国民の選挙に対する関心が低ければ低いほど、自民党および固定票のある公明党は有利となります。そう考えると、芸能スキャンダルは、政治から国民の注意をそらすという目的にはうってつけではないでしょうか。テレビや新聞から政治の話が少なくなればなるほど、自民党はうれしいはずです。なので、芸能スキャンダルがこの自民党(または自民党に政権政党でありつづけて欲しいと願っているはずの官僚)の陰謀であるというのは、結構、ありえるのではないか、と私は思っています。それが正しければ、警察は、これまでマークしてきた芸能人や有名人を小出しに逮捕していって、総選挙までの間、テレビと新聞の芸能、社会欄を継続的に賑わせて、政治欄への注目を下げるように画策するのではないか、と私は想像します。
 私は、この手の権力を使って人を利用しようとする陰謀(本当かどうかはわかりませんけど)には、吐き気がします。いずれにせよ、これで、キャリアと人生を一緒に棒に振ってしまった、この女優さんは、いくら自業自得といっても、ちょっと気の毒です。もっと気の毒なのは、子供でしょう。10歳の子供が両親の犯罪をどう思うか、心に残るであろう傷を考えると、痛々しいです。
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マニフェストを研究申請書として見てみると

2009-08-07 | Weblog
間もなく総選挙で、自民党の地滑り的大敗が予想されているわけですが、しばらく前に民主、自民から、マニフェストが発表されました。正式なものは選挙公示後ということらしいですが、ざっと目を通してみました。研究の世界に喩えてみれば、政党のマニフェストは研究費申請書みたいなものだと思います。レビューアたる国民がそれを見て、どちらに政権を任せるのかを判断するというアイデアです。マニフェストを研究申請書として見てみると、自民、民主のどちらのマニフェストがより良いかは、非常にはっきりしています。
 研究費申請にあたっては、その研究の意義、研究のゴールを達成するための方法と成功の見込み、予想される結果と解釈、失敗したときのバックアッププランが議論されていいて、なおかつ、成功する可能性が高く、その意義が高いと評価されないと、通りません。これらの基準をもって、自民党のマニフェストを見ると、全く酷いものです。政策の意義、そのゴールへの達成方法、その効果、いずれの項目をみてもよく練られているという感じが全くありません。殆ど、小学生が「将来はプロのサッカー選手になりたいです」と言っているのと同じレベルに見えます。どうやって、プロサッカー選手になるのか、そのためにどういうことをしていくのか、その成功の見込みはどれほどか、サッカー選手になれなかったらどうするのか、そういった具体的な道筋をじっくり考えた跡が自民党のマニフェストには全く見えません。その点、民主党のマニフェストの方がはるかに出来がよいと思います。数字を使って、かなり具体的に書いてありますから、まだ説得力があります。つまり、少なくとも自民党よりはしっかり考えた跡が見てとれると思います。例えば、自民党は安心の項目の中に、税制改革をすると書いてありますが、これで消費税が上がって、一般庶民の生活はより苦しくなるのをどうするのか、その増税がなぜ「安心」なのか、この「意義」についての議論をすっとばしています。また、年金記録問題は来年度末を目処に解決、と書いてありますが、2代前の首相が、「責任をもって解決します」と散々言っておきながら、殆ど何もしない間に政権を丸投げした、という過去の事実をどう考えているのか、何を根拠に来年末までに解決できると考えているのか、全くわかりません。国民はこれをみて、また出来もしないことを臆面もなく言っている、と思うでしょう。研究申請書では、できもしないことを欲張って書くと、現実把握能力を疑われて、マイナス点がつきます。「活力」の項目では、来年度後半には、年率2%の経済成長実現、と書いてあります。一体、どうやってこの数字を実現するつもりですかね。全くわかりません。例えば、私が自営業を営んでいて、過去数年、私のマヌケぶりのせいで収入が減少してきたとします。不満たらたらの奥さんの歓心を買うために「来年には収入を10%上げます」とでも言ったとしたら、奥さんはどう考えるでしょうか?「どうやって?」と聞き返されるでしょう。過去数年の間に日本経済の悪化を放置してきた(どころか、経済悪化に一役買って来た)政権政党が、今度は経済成長を実現する、と言っているわけで、「そういうことを言う前に、まず過去の自らの振る舞いを反省し、きっちり総括、自己批判するのが先だろう」と普通の人は思うでしょう。そもそも、経済の未来が読めたら、誰も苦労しません。まして、政府が経済対策としてできることなど、減税と規制緩和ぐらいしかないでしょう。できもしないことを言って欲しくないし、数年後にはそのツケが倍になって却ってくるような目先だけの政策を考えているのなら、そんな政策はしない方がマシと私は思います。アホウさんは「政策を見て欲しい」と言っているようですが、このマニフェストのどこを見たら、ライバル政党ではなく、自民党を支持したいと思えるのか、教えてもらいたいと思います。
 NIHの研究計画では、議論するに価しない研究申請書は足切りされます。今回の自民党のマニフェストを研究計画書としてみれば、計画書の体裁さえなしておらず、足切り間違いなしというレベルだと思います。
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ホワイトハウスのビール(2)

2009-08-04 | Weblog
先日、黒人ハーバード教授をケンブリッジ警察が感情的になって不当に逮捕したため、人種問題の含みを受けて、全国的な議論となった事件について書きました。この件に関して、オバマが警察の批判をして、警察の反感を買ったため、オバマは事態の収拾を図るため、当事者のゲイツ教授とクローリー巡査をホワイトハウスに招き、副大統領のバイデンも含めた4人で、ローズガーデンと呼ばれる一角のピクニックテーブルで、先の木曜の夕方、ビールを飲みました。この会は社会の注目を浴びて、ビールサミットと世間では呼ばれたようですが、オバマは、正式な議題はなし、一日の終わりに男同士でビールを飲みながら話しをする気軽な会だ、と説明し、報道陣をほぼシャットアウトした状態でビールの会は行われました。事態収拾のための演出ですから、ここで、人種問題や警察の体質について、議論を戦わそうというわけではなく、世の中には色んな人々がいるから、お互いに、尊重し合い、話を聞いて理解しようとする「思いやりの態度」が必要だということを示すのが目的なわけです。お互いの意見が一致しなくても、仲良くやっていけることは、他民族社会では重要なことです。彼らも「意見が一致しない」という点においては意見が一致したと述べました。意見が違っても、お互いを尊重することは大切です。オバマはこの事件に関する一連の世間の反応を見て、世間がこの事件にこれほど興味を持っているということに興味を引かれると言いました。
 このビールの会で、オバマはBud light、ゲイツ教授はSamuel Adams light、クローリー巡査はBlue Moon、バイデンはノンアルコールビールを飲んだとのことです。Samuel Adamsはもとはゲイツ教授の地元、ボストンの地ビールですが、人気を博して、全国的に飲まれるようになりました。風味豊なコクのあるビールです。Blue Moonはおそらく、クアーズが作っているアメリカ産のベルギー風ビールで、フルーティーな風味が人気の濾過していない生ビールのことだと思います。この明るい色の濁ったビールは、オレンジの皮を入れて風味を足して飲むのが「通」のようですが、(コロナビールにライムを入れるようなものですね。もっともメキシコ人は何にでもライムジュースを足しますが)そのまま飲んでも、爽やかでおいしい(クアーズが親会社にしては)よいビールだと思います。一方、オバマの飲んだBud lightは、これ以上、まずいビールは余りないだろうと思われるほど、まずいと思います。もうちょっとお金を足せば、アメリカにはおいしいビールがいっぱいあるのに、なぜバドワイザーとかミラーとかクアーズとかのまずいビールをアメリカ人は飲み続けるのか、私には理解できません。私はアルコールを去年から止めていますし、長らくバドワイザーを飲んでいませんので、ひょっとしたら最近、多少おいしくなったという可能性が全く無いとは言えません。オバマも本当はおいしいビールが飲みたいと思っていても、庶民の立場に立っていることをアピールするために、あえて、バドワイザーを飲んでいるのかも知れません。そうなら、きっと、車もGMやひょっとしたらフォードとかを運転しているに違いありません。ここで、事情通の友人は、バドワイザーは大統領選で戦ったジョンマッケーンの奥さんの実家がオーナーなので、オバマはマッケーンと共和党に気を使っているのだ、という説を出しました。大統領ともなれば、ビールひとつ飲むにしても、いろいろ、気遣いが大変そうです。
 ゲイツ教授とクローリー巡査は、「今度は一緒に昼飯でも」という友好的な話に発展したそうですが、もう一つの後日談として、この騒動の発端となった、ゲイツ教授宅のそばに住んでいて、警察に通報したその隣人に、ゲイツ教授が、花とcardを贈ったということを聞きました。自分を騒動に巻き込んだこのおっちょこちょいの隣人に対して「感謝のしるし」を贈ったこという行為の意図は興味深いです。嫌な出来事は、すべて、学びの機会であります。そんな嫌な出来事から、何か有益なことを学ばない限り、同じような嫌な出来事が繰り返し起こることになります。ゲイツ氏は、頭が冷えてから、自分の行いを客観的に見直して、自分の中にある誤りに気がついたのでしょう。その誤りを気付かせてくれた事件の発端者に、謙虚に感謝の念を示したのであろう、と私は想像します。他人の誤りを見つけて、糾弾するのは易しく、自分の誤りに気がついて、改めるのは難しいことです。
 中国禅仏教の祖、六祖慧能が、その弟子、神会との問答の中で「先生はものが見えますか」と問われて、「見えもし、見えもせぬ」と答えたというエピソードを思い出します。これを説明して「見えるというのは、自分の過ちをいつも見つめているという意味であり、見えないというのは、他人の過ちを見ないという意味である」と言いました。逮捕当時は、ゲイツ教授とケンブリッジ警察は、感情的になって、相手の過ちしか目に入っていなかった、ということなのだと思います。その後のニュースからゲイツ教授は自らの過ちを自覚して糧としようとしていることが読み取れますが、ケンブリッジ警察側の様子は分かりません。ものわかりの早さには、個人差がありますし、まして警察官は権力組織にいるわけで、自らの過ちに気付いて改めるのは易しいことではないということは想像できますが、自分の誤りに気がついてそれを直そうとするのは、警察官であるからこそ、余計に必要な態度であろうと思います。
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