百醜千拙草

何とかやっています

罪と罰

2020-08-31 | Weblog
ようやくアベが辞意を表明。この男がこの8年弱で破壊してきた日本、その負のレガシーを思うと頭がクラクラする思いです。しかし、道のり遠い日本の再生にむけて、アベの辞任は最初の第一歩にしか過ぎません。誰かが言っていましたが、アベを辞めさせたのではなく、アベが辞めたというところが残念です。病気を口実に止めるのは2回目ですけど、今回にしても、ただの検査でメインテナンスだと言った翌週にコレですから、ま、本当の理由は別にあるのでしょう。河井裁判でアベ事務所に捜査が及び自身も逮捕される可能性が高まったからだという推測もあります。本来なら、数回は逮捕されているべき人間であり、病気だからといって法の裁きから逃れるようなことがあってはならないと私は思います。

A級戦犯がのうのうと首相をやり、その孫がのうのうと国家を私物化して、国民生活を破壊し、売国政策を続けてきた、この連綿と続く不条理を総括し、国民に知らしめ、裁かれるべきものは裁かれてしかるべき罰を受けるという例を示さなければ、日本はいつまでたっても未開の国、民主主義後進国です。キッチリとけじめをつけないといけないと思います。モリカケ、サクラをはじめとして、死者まで出した数々のアベ個人の疑惑の解明を妨害してきたのは、行政はもとより司法まで人事権を握って手を突っ込み、電通を使ってメディアを統制し、政権の独裁を許す体制を着々と築いてきた自民党政権でした。政治家として無能で邪悪であったというだけではなく、個人として職位を利用し国家を私物化し行政とメディアを歪めたことは非常な大罪であり、それは法によって裁かれねばならないことです。辞任したからといってこれまで犯した数々の罪がチャラになるわけではない。きっちりと法にのっとって総括し、罪を犯したものは罰を受けさせねばならない、そうでなければ日本はいつまでたっても江戸時代でしょう。まずは河井裁判から。一億5千万の原資とアベ事務所のかかわりを法廷で明らかにしてもらいたい。それが河井氏にとって実刑判決を免れる一手のようです。そしてサクラにモリカケは司法の場でやり直してもらいたいと思います。証人もイタリアから帰ってきたそうですし。
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忘れてはいけない

2020-08-28 | Weblog
変わりない日々です。
研究申請書、なかなか困難です。予備データも完全に揃っていない段階なので、パシッとシャープにはいきません。かと言って焦点をぼかしてしまっては、門前払いでしょう。残りの時間でデータを集めて、どこまで具体的な分子やメカニズムにフォーカスできるかにかかってくると思います。

コロナがなかったら余裕とは言えずとも、見切り発車で申請書を書くというような効率も安全性にも悪い状況にならなかったのではないだろうかと思いますけど、思い起こせば、これまでも余裕をもって申請書が書けたことなど一度もない綱渡り人生でした。世界中の人が多かれ少なかられ、コロナでプロダクティビティを失っているわけですし、コロナで研究室閉鎖して二ヶ月目ぐらいで、絶望的な気分になっていたのだから、そこから復活しただけでもヨシです。

ツイッターを眺めていると、当初、あれほど盛んにツイートされていたコロナ関連の研究の話題がずいぶん少なくなりました。人間、何にでも慣れ、新規性を失った話題への興味は時間と共に急速に減衰していくのだなあと思います。これでは、のどもとを過ぎさったと思った時にしっぺ返しをうけることになりそうです。

例えば、今も大量の放射能を垂れ流している福島原発や仮設住宅などで生活している被害者の人々の話題もメディアで見ることは少なくなりました。状況が改善したわけでもなく、むしろ悪くなっているのにもかかわらずです。これでは数十年単位でかかる廃炉やその後の半永久的に残る大量の放射性廃棄物管理の問題に日本人がまともの取り組めるとは思えません。

政治の問題にしても、アベ政権の犯罪、モリカケ、サクラ、などなどなど、あれだけの証拠を積み重ねながら、アベを詰めれず、最長政権を許しています。昔のことと人々が興味を失ったからでしょう。それがこの政権の手口です。ほとぼりが冷めるまで、何かと理由をつけては、ノラリクラリと逃げていると、国民も興味を失って忘れる。さらに、昔のことを掘り返しても生産的でないとか言い出すような連中がワラワラとわいてくる始末です。結果、総括もケジメもなく流してしまうから、アベ政権のような史上最凶政権がのさばり、いつまで経っても日本は民主主義国家として成熟せず、戦後75年、ずっとアメリカの植民地として、沖縄に負担を押し付けて恥じない国となっています。多くの国民は、それを恥と思うどころか植民地であるという認識さえなく、沖縄の返還後も50年近くも、返還とは名目ばかりの状況に沖縄が置かれ続けているということさえ不思議に思っていないのではないでしょうか。

八月がくるたびに、戦争について語り続ける努力を払うのは、忘れてはならないことを、忘れやすい日本人に思い出させるためだと思います。過去を忘れ、記憶を改竄し、事実を隠蔽することで、整形美人の「美しい国」にしようとしているアベ。真に美しい国となるためには、真摯に反省し問題を直視して解決していく努力、過ちを起こさないように過去に学んだものを忘れない努力を重ね、内側から実力をつけていく必要があります。
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昔の知り合い

2020-08-25 | Weblog
先週末から、申請書書きを本格化しはじめました。書くにつれて、勉強不足だったところとか、新しいアイデアとかそれに必要な予備実験とかが出てくるので、それを並行してやりつつ、申請書を書き直しつつ、日々の他の諸事をこなしつつ、という感じで、忙しくしております。

週末、今は遠くにいる昔の知り合いに共同研究者として参加してくれないかと打診。快く引き受けてくれたのですが、二ヶ月先に別の施設に移ることになったので、ちょっと忙しくなるという話。今年の始めに会合で会った時は移動の話は出ていなかったので、きっとそのあとに決まったのだろうと思います。その移動先の施設には、別の昔の知り合いがその前にリクルートされていて、そのまた別の知り合いもそこに移ってきたところだと言われたので、誰かカネと力のある人が、その施設を分野の新しい研究センターにしようと人材を集めようとしているようです。その街には昔からのウチの分野の研究者はいることにはいますが、とてもカネや力やコネは持っているとは思えないので、きっと別の人がバックにいるのでしょう。

その後、別の昔の知り合いから、学生の学位審査の学外審査員をやってくれないかとのメール。二つ返事。そのあとで、その学生のやる気のなさを愚痴るメールもきました。学外審査員は、大学によって随分やりかたが違います。最初に引き受けた大学のは大変簡単で、学位論文を読んで学生の発表に出席してコメント。審査会も主査、副査と私の三人だけ。結果、学位論文の一部書き直しという判断だったので、その後、リバイスされた学位論文を見てサインしておしまいでした。最近やったのはもうちょっといろいろあり、公開審査では、学生の発表に先立ちイントロダクションの30分の講演をするように言われ、その後の口頭試問も30分かけてみっちり、審査後は学位授与パーティーの出席というフルコースでした。今回のは、学生の進捗具合をチェックする審査会の定期会合にも出ないといけないようです(遠いのでZoomですが)。旅費ぐらいしか出ないこの手の仕事も、私の今回の研究申請書が却下されて研究者廃業になったらやる機会もなくなるわけで、お呼びがかかるうちが花です。研究者廃業になってなくなる仕事でうれしいのは、論文レビューとかエディターの仕事ぐらいで、研究に関わる多くの活動が私は好きです。申請書書きでさえ楽しいと思える時もしばしばあります。

その後、別の知り合いからマウスのことでメール。数年前に会った時は田舎の大学で研究されていましたが、今は東京の大学に移ったとのこと。近くにくる機会があれば連絡してくれとの有難いお言葉。今の知事が辞めて、コロナがおさまったら立ち寄りたいと思います。アベももう終わりだろうし総選挙も近いとなると、条件次第ではサッサと知事を放り投げて国政復帰もあるでしょうから。

その翌日には、また別の施設に移って行った別の知り合いが一年ぶりにやってきたので、久しぶりに無駄話。研究費がもらえたとのこと。

みんながステップアップしていっていますが、私は同じ場所でずっと綱渡り。でも、「ま、いいか」と、ビールを飲んでダラダラの休日。

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2020-08-21 | Weblog
なかなか、キーになる予備データが集まらなくて、研究費申請書が書けずにいました。そう言っていても、時間はどんどん経っていき、締め切りはどんどん近づいてくるので、できる部分から書き始めました。こうなるとしばらくこれに集中しないといけないので、ストレスが溜まっていきます。
予備実験を繰り返すうちに、アレ?ということも出てきて、プロジェクトの基幹そのもが揺らぐこともあるし、そうでなくても大小の方向転換を余儀なくさせられることはしょっちゅうあります。そうなると、全体のパッケージや売り方も変えていかないとならず、折角書いたものがほとんど書き直しになったり、ひどい場合はそのままオクラになったりします。私の場合、この書き物に最低、一ヶ月、そこから推敲と周辺の書類の準備に数週間、二ヶ月弱は最低かかるので、第一稿はあと一ヶ月ほどで書けていないとまずいのですけど、二、三の重要な予備実験の結果は、早くてもあと一ヶ月半はかかると思われるし、そのデータが使い物になるかどうかも分かりません。綱渡りです。

試験勉強と同じで、書き物はそれでもやり始めは、気分がいいのですけど、同じところを何度も書き直しているうちに、だんだん鬱っぽくなってきて、最後は、ぢっと手をみて、人生の意味を問う、みたいな状況になることもあります。
ま、正しい態度は、研究費申請書など、サラサラと書き飛ばして、時間が来たらさっさと家に帰って、楽しくビールでも飲んで、明日の心配は明日に回すことでしょうね。申請書が通る通らないは、他人の評価で決まるわけですから、コチラがコントロールできない部分の方が大きいわけで。

世の中、いい加減なところといい加減でないところが微妙に混じり合っていて、その境界線も定かでなかったりします。いい加減だと思っていい加減にやっていると厳密なところに当たって痛い目に会うこともあれば、厳密にやっていると、だれもそんなことは気にしていなくて、ひとりバカを見たりもすることもあります。その見極めは簡単ではなく、やっぱり、これは運だなと思うわけです。

運も実力のうちということで、能力の高い人は、運を引き寄せるとかいいますけど、能力が高いとか、あるいは努力できる才能とかも、何ともしがたい部分があって、やっぱり運かなあ、と思います。運というよくわからないもの、われわれがコントロールできないものによって、われわれの一生は支配されている、と考えれば、これは一種の宗教ですね。この「運」教は実利的な意味があると思います。成功するのもしないのも最後は運ですから。努力して結果がでないのは運。努力しないで結果がでるのも運。努力して結果がでるのも運。ただし、努力しないで結果が出ないのは運ではなく、自然の法則。そう考えておけば、気が楽です。とりあえず、できることはやって、後は、運の神様に任せます。
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今後のれいわ

2020-08-18 | Weblog
もう誰もあまり興味がないだろうと思うのですけど、先月にあった大西つねきさんの「生命の選別」発言からだんだんと「れいわ」という政党に問題があるらしいということがうかがえるような事件がポツリポツリ。先週、山本太郎が開いたYoutubeでの「おしゃべり会」、その内容に対するジャーナリストや有識者の人の反応、それから離党した野原善正さんのインタビュー映像などをみる機会があったので、なんとなく何が問題なのかがわかってきました。

大西問題がおきてから、例えば、下の田中龍作ジャーナルの一連の記事などから、党運営がブラックボックスになっていて、どうも「市民の党」との繋がりが問題らしいということが浮かんできました。田中氏はこれ以外にも「れいわ」に関して、複数の記事を書いていて、それは「れいわ」の将来の発展を願ってのコメントであることが記事から読み取れます。


離党した野原氏の最近のインタビュー映像では、山本太郎に対する感謝を示しながらも、政党としての組織に問題があることを示唆した上で、山本太郎は最前線で切り込んでいくタイプで組織をまとめたりするのは得意ではないと思う、と語っていました。

組織としての問題、例えば、党の実務を担う人々が「市民の党」と関係している、党規約がなっていない、ブラックボックス、ボランティアを使い捨てにする、党に電話しても誰もでない、国政政党として組織がいい加減すぎる、などなど、内外から不満がでつつあります。

まずいことは、8/12 の山本太郎のビデオでもありました。
その中で、山本太郎は市民の党との繋がりを否定したのですが、これに対して山岸飛鳥さんが次のように書きました。

、、、
(山本太郎が)田中龍作ジャーナルを腐す口ぶりは、安倍晋三が朝日新聞を罵倒する口調と同じではないですか、、、、
沖永事務局長が「市民の党はもう実態がない」と言って見せますが、大嘘です。 H31年 市民の党の政治資金収支報告書には、沖永さんが134万円もの大金を市民の党に寄付したことが書かれています。
市民の党の収入は2600万円超、もちろん当時の代表は斎藤まさし(酒井剛)さんです。、、、
総会が非公開なのは、他党の総務会と同じだからだと、、、詭弁です。、、、こんな詭弁を考え、延々と資料を用意したのは、誰なのでしょうか。。。。政治のウソが何でダメなのかというと、引き返せなくなるから。最初はちょっとしたウソでも、それを上塗りするうちにモンスターになるからです。安倍晋三がその典型。もう救いがたい。しかし、私が政治家としてもっとも敬愛してきた山本太郎が、その魔のスパイラルに落ちていく様は見たくない。

私もこのビデオの一部をみましたけど、あれ?と思うことが複数回ありました。船後議員は、大西事件の時、大西さんの意見を優生思想だといい、大西さんに「おごり」があると断罪しましたが、このビデオでの山本太郎にも、私は「おごり」らしいものがあるのではないか、と危惧を抱かされるようなものを言葉の隅に感じたのです。都知事選惨敗後の会見でも、あれ?と思いました。大勢のボランティアの人の努力や募金があり、当時党員の野原さんも手弁当で沖縄から応援に駆けつけたのです。そして、惨敗を喫したのだから、ニヤニヤして「やっぱり負けた」というような発言をするのはいかがなものか。

昨年の参院選前に、山本太郎が一人で立ち上げたれいわ新選組は、既存政党に絶望していた人々の期待を受けて、旋風を巻き起こし「れいわ一揆」という映画にもなりました。そして、重度障害者を国会に送り込むという成果を成し遂げ、国会の中から国を変えて行こうとしました。残念ながら、その勢いはコロナで削がれ、都知事選に負けを承知で出て惨敗し、大西問題勃発とその対処のまずさで、野原氏の離党を招き、先週のビデオで一部の支持者からもサジを投げられつつある状況に陥っています。

そして、もっとも残念なことは、政党としての支持が伸びていないことでしょう。総理大臣を目指すなら、支持組織が必要です。党をしっかりさせるための党幹事長を代表とは別におくべきだし、それは経験のある現職議員が望ましいと思います。結局、それができないので、私の研究室のように技術員と経験の浅い人間を使いつつ自分一人で回さねばならない、ということになっているのでしょう。

現実には、こうして支持を失いつつある「れいわ」という政党で、山本太郎が一人で総理大臣になれるわけがないし、多分、政策に絡むこともできないだろう、と感じざるをえません。切り込み隊長としていい仕事をするのだが、誰もあとに続かないという最も悲しい状況に陥りつつあるような気がします。

閉塞感というのは、この辺からくるのでしょう。半数近くの人が支持する政治家はいないし、選挙にもいかないという状況はここから生まれていると思います。今後、野党が政権を取ることはまずありえないし、取ったところで、かつての民主党や社会党や八党連合政権のようなことになると思っている。これらを実現させた小沢一郎は、今また国民と立民の合流させて同じ手で最後の政権交代を考えている(無理ですが)。この状況を冷静に見れば、史上最悪のアベ政権が多少マシな政権に変わるためには、自民党の自浄作用に期待するしかないという結論になるでしょう。日本を心配する人はそのためにアベ批判をしています。

今後、山本太郎と「れいわ」がどうなるのか。困難な未来だと思います。なんとか立ち直って、次の衆院選で数議席を得られれば、将来の躍進の可能性も大きくなるでしょう。そのためには支持者が離れていくようなことをやめないといけません。党運営を透明化し、選挙ボランティアや支持者の人の声を反映させる。経済政策ブレインの失言の対処に際して、二転三転して離党を認めず除籍処分にするようなことをすれば人望を失います。「泣いて馬謖を切る」ならば、最初に党規約をしっかりさせて、誰もがそれに納得せざるを得ない形でやるべきでした。結果、山本以外で最大の得票を得た党員から不信を抱かれて離党されるような状況を招いてしまったわけです。

もはや山本太郎一人の党ではないので、優秀な助言者が必要だと思います。現在の小沢一郎との関係はわかりませんけど、小沢のようなアドバイザーが山本太郎には必要でしょう。真摯に批判に耳を傾けて、立ち直ってもらいたいと望んでいます。
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8:2の法則

2020-08-14 | Weblog
パリの空の下、セーヌのほとりの料理学校へと若者は夢を求めて去っていき、そして、別の人が今週から来てくれました。今回は、もう一人の技術員の人が最初のトレーニングと指導をしてくれるので、助かります。

私は、指導するとか、トレーニングするとか、教える、とかいうことが好きでないです。多分「学びたい人は教えなくても自ら学ぶし、学ばない人は何を教えても学ばない」経験からだと思います。指導によって学びのスウィッチが入る人もいますが、稀です。また、私の場合、教育やトレーニングは研究成果を出すための手段にすぎないというのもあると思います。

振り返れば、非常に幸運だったと思うのですが、随分前、最初に雇った技術員の人が大変優秀で、一を言えば十を知り、何も言わなくても必要だと思ったことは察して、先回りしてやってくれる人でした。一人増えただけで、戦力が三倍になったような感じで感動しました。その人が去ってから、複数の技術員や研究員の人が来てくれましたが、わかったことは、その最初の人が稀有な例外であったということでした。だいたい、一人増えれば、戦力は1.5倍程度になるのが平均で、ひどい場合は、一を5回ぐらい言っても0.2ぐらいしか理解してくれない人もいて、トレーニングばかりに時間をとられて、人数は増えたのに、戦力はマイナスになることさえもありました。

加えて、どうも人間というのは「ラクをして生きたい」という本能をもっているようです。通常状態では、8割の人は、同じ時間を使うのなら、何かを成し遂げようと努力するのではなく、必要最小限のことだけやってラクをして過ごそうとする傾向があるようです。何らかの目的があって集まっている職場であっても同じです。多くの人は言うだけでは行動しないもので、言って、説明して、やって見せて、やらせてみせてを、数回繰り返す必要がありますし、ようやく憶えてくれたと思っても、何も言わないと、できるだけ何もせずにすませようとするものだ、ということを実感しました。結果によって評価される世界なのに、結果を出すための努力を惜しむというのは、不思議なことだと思うのですが、長期的な大きな利益よりも短期的な小さな利益を優先するのも人間の本能なのでしょう。

8対2の法則というのがありますね。つまり、世の中は、2割の人が8割の仕事をしている、というかいうやつですけど、研究室でも当てはまると思います。客観的、長期的に見て、いわゆる「できる」人は2割かそれ未満ぐらいでしょう。それで、過去を振り返って、その2割に満たない優秀な人はどんなバックグランドだったかを考えてみると、非常に強い相関が明らかだったのが、卒業した学校のレベルと成績でした。

ま、あたりまえなのですけど、よい大学でよい成績を修めるためには、それなりの頭脳に加えて、努力を継続できる自己修練ができ、自分を客観視する能力をもち、大きな視点から各仕事の意味を把握し、効率的に作業をこなすことが要求されます。そうした能力をもつ人が研究現場でも優秀なのは当然です。また、こうした人は、その他の多くの人が目先のインセンティブで動くのに対し、状況を異なった視点から見て複数の意味付けができます。普通の人は、「一生懸命やっても給料に反映されないなら一生懸命やるだけ損だから、最小限のことをやって、あとはスマートフォンでも眺めていよう」という条件反射的な行動をとりますが、「できる人」は、仕事を多角的見て、それぞれの観点から意義を見つけ出し、何らかのプラスの成果を得る努力をします。そういう人は当然、仕事の質も量もスピードもよくなるし、本人の知識と技術も向上するし、自然と上司や周囲の人々に評価されるようになって、より大きな飛躍のチャンスを与えられるでしょう。そういう人が、よい学校に行ってよい成績を収めているのは当たり前だと思います。また逆の場合もたいがいは当てはまるようです。

私の立場からいうと、そんな優秀な人は、やはり一流の研究室に行ってしまうし、仮に来てくれても、すぐにステップアップで上のポジションに移っていってしまうので、結局、そこそこの私のところにはそこそこの人しかこないということになります。これが研究室格差のメカニズムなのでしょう。

今のところ、新しい人は優秀そうで、今のところ学びへの意欲を感じるので期待しています。
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夏のKora

2020-08-11 | Weblog
起こってしまったことは、「ま、いいか」で済ますようになってから、ストレスは減りました。意識してやっているわけではなく、年のせいで、何かと邪魔臭くなり、将来への大志も野心も感じなくなったせいですけど。

兵庫篠山にデカンショ節という有名な民謡があります。デカンショの語源は定かではなく、「出稼ぎ」が訛ったものとか、デカルト、カント、ショーペンハウエルの頭を取った哲学小唄だとか、諸説あるようです。おそらく、季節労働者の生活などを唄ったのだと思いますけど、その歌詞で、「デカンショ、デカンショで半年暮らす、あとの半年は寝て暮らす」というのがあり、私の「ま、いいか」生活となんとなく共鳴します。一生懸命働いても結果につながらないのはいつものことです。そんなときには、「ま、いいか」と寝て過ごし、次の機会を待とう、今生がダメなら来世があるさ、ということで、週末はダラダラしていました。

天気のよい昼下がり、オリーブの塩漬けをツマミに冷えたビールを一杯。日の高いうちから飲むビールはGuilty Pleasure効果もあって、ダラダラの週末には最高です。ソファに寝転がってBGMを漁っていたら、いいのが見つかりました。

Sona Jobarteh は西アフリカ、ガンビアのKora奏者兼歌手です。Koraというのは西アフリカの琴の一種で、巨大なシタールのような形をしていますが、非常に美しい透明感のある音がします。これは西アフリカでは一子相伝で男子に奏法が伝えられる伝統的楽器らしいですが、Sonaはその伝統的Kora演奏家の家系に生まれ、女性として初めてKora奏者を継承したそうです。西アフリカの音楽は、30数年ぐらい前にセネガル出身のユッスー ンドールが広く、ヨーロッパや日本に広めましたが、Koraは彼のバンド、スーパー エトワールで効果的に使われていました。(ガンビアはセネガルに接する小国です)

Koraの爽やかな音色と、アフロビートのパーカッション。夏の昼下がりの冷えたビールにぴったりです。

Sona Jobarteh and Band - Gambia




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まあ、いいか

2020-08-07 | Weblog
いろいろ仕事の行き詰まりとか資金問題とか人間関係とか健康問題とか悩みは尽きぬ日々であります。しかし、一日一日着実に、ゴールの日に近づいているという事実は最終的に残される希望だと思って、前向きにやっています。

振り返れば、若い時に望んでいたものの多くは手に入らないまま、この年まできたわけですが、幸いなことに、もはやそうしたものには興味がなくなってしまいました。もうちょっとすればやりたいことをする自由も手に入るだろうとと思っているわけですが、じっと考えてみると、はて、やりたいこととはなんだろう、若い時にはいろいろあったはずなのに、という気分になります。(今の生活でまずまず満足しているからかも知れません)

それでも「まあ、いいか」と思えるようになったことは年をとることの効用ですね。体力の衰えはもうどうしようもありません。多くのことが面倒くさくなりつつあります。それでも、「まあ、いいか」と淡々とやれるようになりました。若い時は様々なものに対する願望とかもあり、その分、焦りとか不満とかも多くありました。夢とか目標とかもありました。今から思えば、若いというのはなかなか大変です。

先日、約二年間、技術員として働いてくれた若者が、研究や医学ではなく別の道に進む決心を固めたと話にきました。パン作りが趣味なのは知っていたので(因みに20台男性)、異国の料理学校に一年半、留学してパティシエの道を目指すのだ、と言われても、驚きはなかったです。料理と実験は似たところがあって、普通、実験ができる人は料理もうまいです。全体のプロセスをみながら、要点を押さえつつ、段取りして各手順をこなすことができる人、問題が起きた時に、その原因をすばやく突き止めて、すぐに解決法が思い浮かぶ人、それでいて、小さなことを邪魔臭いと思わずに丁寧にできる人、はどんどん上達していきます。彼の場合は、仕事が安定しており、退屈なルーティンな仕事でもキッチリできるので、パティシエは向いていると思います。

夢を求めて体一つで国を飛び出せる若者は眩しいです。私も若い時は、ヤマハに入ってピアノ職人になるとか、船医になって世界中を回るとか、保健所に勤めながら小説を書くとか、そこそこ具体的な夢がありましたが、結局、小学生の時の卒業文集に書いた漠然とした将来の夢に沿った人生になっています。

若い時に、もうちょっと頑張って冒険していたらよかったかなあ、とも思いますけど、今となっては、「まあ、いいか」で、後悔することもなくなりました。後悔があるとしたら、過去の人間関係ですね。もっと親切にしておけばよかったとか、身勝手な振る舞いをしたとか、素直でなかったとか、大昔ことでいまさらどうしようもないし、多分、相手はすっかり忘れてしまったようなことでしょうけど、時折、思い出しては後悔します。
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セロトニン的幸福

2020-08-04 | Weblog
「幸福」のメカニズムをReductionism的、物質的観点から分類すると、セロトニン的幸福、オキシトシン的幸福、ドーパミン的幸福に分けられる、という話を聞きました。なるいほど、こういう分類は実際的でいいと思いました。

もはや、私は、ドーパミン的幸福ともオキシトシン的幸福とは縁遠くなりましたが、セロトニン的幸福というのは感じることができます。そのために朝は早い目に起きて、人が少ないうちに朝日を浴びながら一駅分歩く、というのをやっております。電車を降りると、地下鉄の出口から青空が見えます。青空を見上げるとホッとするのはなぜだろう、と昔から思っていましたが、それがセロトニン的幸福なのだと言われると、納得しますね。

宗教などで感じる喜び、法悦、というのはどうなのでしょう。私は経験したことがないのでわかりませんが、例えば、三昧に入った状態というのは、喜びの状態なのであろうと想像します。宗教の実践はしていない私も、宗教音楽などに触れると宗教的幸福というのが何となく想像できるような気がします。グレゴリア聖歌とかを聞いた時に感じるものはセロトニン的幸福に近いような気がしますし、一方、声明とかゴスペルなどを聞いて感じる一体感は、オキシトシン的かなと思います。実際には多かれ少なかれ複数の幸福がブレンドされているのかも知れません。

随分前、"The Pursuit of Happyness"という映画がありました。映画の中で、このスペリングの意味は明らかには語られていませんが、一説だと、「幸福」の文字の中にある"Y"は"You"のことであり、自己の努力によって達成された幸福をさしているそうです。ならば、映画のメインテーマ的にはドーパミン的幸福の追求、そして、この映画の重要な一部である親子愛はオキシトシン的幸福ということでしょう。ならば、続編があるとしたら、セロトニン的幸福の追求がテーマになるだろうと思います。そして、「幸福」の中に、"I"も"You"もない幸福こそがセロトニン的なのではないだろうかなどと考えている次第です。
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