Science誌の今年の10大ブレークスルーのトップはヒトゲノムの多様性についてでしたが、第二位は、細胞のリプログラミングでした。勿論、iPS細胞の事がその中心にあるわけです。体細胞核移植で作られたヒツジやマウスやイヌやサルでの実験で、分化した状態にある細胞の核がリプログラムできるということがわかっていたわけですが、それが4つの遺伝子の強制発現で可能になるということを明らかにしたiPSの論文は、10年に一度の大ブレークスルーといってもよいと思います。同号のScienceに、例のウィスコンシン大学からのヒトiPSの報告が出ているのですが、実はもう一本、MITのRuddy Jaenischのグループがその論文の次のページに、マウスiPSをHox4Bで血球系に分化させて、鎌形赤血球症のマウスを治療できたという報告を出しています。今回は原理の確認という体の論文で、私の最も関心のある癌化の危険性については一切触れていませんでしたが、それは次回の報告のお楽しみということでしょう。Jaenischは細胞分化に伴って生じるepigeneticな変化について研究してきたMouse geneticistなのですが、彼のグループの身のこなしの早さには驚きます。ハワイ大学でYanagimachiグループがマウスのクローニングに成功した時も、いち早くその筆頭著者の若山さんを呼んで、マウスでの体細胞核移植の技術を導入して、今回と同じアイデアで、遺伝子病のマウスを治療するという論文を出していましたし、iPSの発表後、早速追試の論文を発表したのも彼のグループでした。それだけの人的、資金的、設備的な余裕としなやかさがあるわけで、うらやましい限りです。それにしてもマウスクローニングといい、iPSといい、Jaenischはこれらを発見した日本人にはさぞ感謝していることでしょう。
iPSは生物学的に素晴らしい発見であると思うのですが、現在の、熱しやすく冷めやすい日本人がiPSを持ち上げる様子を見ていると、それに不安を感じる人は私だけではないと思います。iPSは素晴らしい発見だと思います。それは「ほ乳類での分化した細胞の可塑性」について「生物学的に」かつ遺伝子レベルで重要な知見が与えられたからだと私は思っています。しかし、世間では、ESのかわりに再生医療に応用できる可能性という「工学的価値」を一般人はより高く評価しているわけです。この点に関しては、実際に再生医療に応用できてはじめて価値が確定するわけで、例えばこの発見がノーベル賞になるかどうかはそこにかかっています。臨床応用なりなんらかの方法で非常に「役に立って」はじめて賞の対象として考慮されるということだと思います。生憎、現時点では、ノーベル賞になるのに必要なその条件を今後iPSが満たせるかという点においては、私はどちらかというと悲観的なのですが、技術、工学系科学の進歩というのは早いですから、まだまだわかりません。日本の政策サイドがiPSの将来性に投資することは必要なことだと思いますが、その煽り方というか、やり方がどうも先走り過ぎているような気がします。あたかも「研究費を集中投下して皆で頑張れば、臨床応用までは時間の問題だ、ここで外国に遅れをとってはイカン、国民一丸となってガンバレ!」というノリのように見えるのです。臨床応用まで時間の問題というよりは、まだまだ様々な新しい技術の開発が必要であり、現時点では、臨床に使えるかどうかは全く闇の中という状態であると私は思います。結局、資金には限りがありますから、過剰な期待と共に投資した場合、それが回収できないとなったら、政策サイドは手のひらを返したように新しいプロジェクトを探して、またお祭り騒ぎをやるのでしょう。プロジェクトを打ち上げた官僚はCVに書く項目が増えますが、その後始末や責任問題が問われるころには、当の言い出しっぺはとっくの昔に現場から立ち去っているのです。日本の科学政策を一言でいうならば、「無責任」という言葉がぴったりです。
iPSの話を持ち出したのは、実は、科学発見の価値というのは後になってはじめて理解されるということを改めて言いたかったからでした。科学の世界では、アイデアそのものに殆ど何の価値もありません。アイデアをもとに、仮説を立てて検証して得られた「結果」、そしてその結果がどういうインパクトがあるかが殆ど全てと言ってもよいと思います。例えばiPSの場合、プロジェクトを始める前に研究費をこのアイデアで申請したとします。「ヒトESは倫理的、技術的な問題が多いので、体細胞をES様細胞へ変化させる方法を研究したいので研究費下さい」と言うとします。その方法として、「ESに出ている転写因子をいろいろウイルスを使って組み込んで、体細胞がES様になるかどうか調べてみる」と書くとします。このプロポーザルで研究費が下りるでしょうか?まず下りないであろうと予測できます。なぜなら、ESに出ている転写因子を発現させて、ES様になる可能性があるという、理論的または実証的証拠が欠けているからです。つまり、遺伝子のリプログラムができることはわかっているが、その機構については何もわかっていないわけで、何もわかっていないのに成功するはずはないだろうという理屈です。レビューアは、もしいろいろ遺伝子入れてみてES様にならなかったら、その研究からどれぐらい価値のある結論が得られるのかと聞いてくるでしょう。つまり、このiPSの最初のプロジェクトは、ポジティブなデータがでればスゴいが、でるという保証は全くなく、でない可能性の方が高いと考えられる上に、出なかった場合、科学的に価値のある結論が得られないという、ハイリスクの実験なのです。私が思うに、この研究はダメで元々でこっそりやっていたら、驚いた事に当たってしまった、という感じだったのではないかと思います。アイデアとして体細胞を直接ESにするという考えは素晴らしい。しかし、それを実現するのにどうしたらよいのかという点については強い仮説あったはずはなく、ESの転写因子を過剰発現させるというアイデアは、他に手がないからやってみよういう感じだったのではないかと想像します。幸い、結果オーライで、研究は結果が全てですから、当たってしまえばこっちのものです。私はこの発見の価値は、再生医療への応用云々は別にしても、十分素晴らしいと思います。このハイリスク研究で当たらなかったらゼロだったのですから、当たった以上はこれだけの注目を浴びて悪い筈がありません。しかし、この発見がノーベル賞までいくかどうかは、まさに臨床応用できるかできないかという最終結果に依存しているわけで、臨床応用が困難であると結論された場合は、これだけの注目を浴びたからこそ、iPSは却って、「平成の徒花」的あつかいになってしまい、本来の発見の意義さえ過小評価されてしまう可能性があるのではと危惧します。今の日本のiPSの扱いを見ていると、iPSは、本来の研究成果の意義からはるかに離れた所で、Laymanの間で一人歩きしてしまっているように見えます。研究者は研究費が欲しいし、一般人は日本からの大発見はもっと持ち上げたいでしょうから、このiPS熱にわざわざ水を注すのは馬鹿のすることかも知れませんが、私は科学の大発見というものは、やはり「額面」で評価してもらいたいと思います。バブルの時に「成長株」に飛びついて大火傷を負ったのは、踊る阿呆ではなかったでしょうか?
iPSは生物学的に素晴らしい発見であると思うのですが、現在の、熱しやすく冷めやすい日本人がiPSを持ち上げる様子を見ていると、それに不安を感じる人は私だけではないと思います。iPSは素晴らしい発見だと思います。それは「ほ乳類での分化した細胞の可塑性」について「生物学的に」かつ遺伝子レベルで重要な知見が与えられたからだと私は思っています。しかし、世間では、ESのかわりに再生医療に応用できる可能性という「工学的価値」を一般人はより高く評価しているわけです。この点に関しては、実際に再生医療に応用できてはじめて価値が確定するわけで、例えばこの発見がノーベル賞になるかどうかはそこにかかっています。臨床応用なりなんらかの方法で非常に「役に立って」はじめて賞の対象として考慮されるということだと思います。生憎、現時点では、ノーベル賞になるのに必要なその条件を今後iPSが満たせるかという点においては、私はどちらかというと悲観的なのですが、技術、工学系科学の進歩というのは早いですから、まだまだわかりません。日本の政策サイドがiPSの将来性に投資することは必要なことだと思いますが、その煽り方というか、やり方がどうも先走り過ぎているような気がします。あたかも「研究費を集中投下して皆で頑張れば、臨床応用までは時間の問題だ、ここで外国に遅れをとってはイカン、国民一丸となってガンバレ!」というノリのように見えるのです。臨床応用まで時間の問題というよりは、まだまだ様々な新しい技術の開発が必要であり、現時点では、臨床に使えるかどうかは全く闇の中という状態であると私は思います。結局、資金には限りがありますから、過剰な期待と共に投資した場合、それが回収できないとなったら、政策サイドは手のひらを返したように新しいプロジェクトを探して、またお祭り騒ぎをやるのでしょう。プロジェクトを打ち上げた官僚はCVに書く項目が増えますが、その後始末や責任問題が問われるころには、当の言い出しっぺはとっくの昔に現場から立ち去っているのです。日本の科学政策を一言でいうならば、「無責任」という言葉がぴったりです。
iPSの話を持ち出したのは、実は、科学発見の価値というのは後になってはじめて理解されるということを改めて言いたかったからでした。科学の世界では、アイデアそのものに殆ど何の価値もありません。アイデアをもとに、仮説を立てて検証して得られた「結果」、そしてその結果がどういうインパクトがあるかが殆ど全てと言ってもよいと思います。例えばiPSの場合、プロジェクトを始める前に研究費をこのアイデアで申請したとします。「ヒトESは倫理的、技術的な問題が多いので、体細胞をES様細胞へ変化させる方法を研究したいので研究費下さい」と言うとします。その方法として、「ESに出ている転写因子をいろいろウイルスを使って組み込んで、体細胞がES様になるかどうか調べてみる」と書くとします。このプロポーザルで研究費が下りるでしょうか?まず下りないであろうと予測できます。なぜなら、ESに出ている転写因子を発現させて、ES様になる可能性があるという、理論的または実証的証拠が欠けているからです。つまり、遺伝子のリプログラムができることはわかっているが、その機構については何もわかっていないわけで、何もわかっていないのに成功するはずはないだろうという理屈です。レビューアは、もしいろいろ遺伝子入れてみてES様にならなかったら、その研究からどれぐらい価値のある結論が得られるのかと聞いてくるでしょう。つまり、このiPSの最初のプロジェクトは、ポジティブなデータがでればスゴいが、でるという保証は全くなく、でない可能性の方が高いと考えられる上に、出なかった場合、科学的に価値のある結論が得られないという、ハイリスクの実験なのです。私が思うに、この研究はダメで元々でこっそりやっていたら、驚いた事に当たってしまった、という感じだったのではないかと思います。アイデアとして体細胞を直接ESにするという考えは素晴らしい。しかし、それを実現するのにどうしたらよいのかという点については強い仮説あったはずはなく、ESの転写因子を過剰発現させるというアイデアは、他に手がないからやってみよういう感じだったのではないかと想像します。幸い、結果オーライで、研究は結果が全てですから、当たってしまえばこっちのものです。私はこの発見の価値は、再生医療への応用云々は別にしても、十分素晴らしいと思います。このハイリスク研究で当たらなかったらゼロだったのですから、当たった以上はこれだけの注目を浴びて悪い筈がありません。しかし、この発見がノーベル賞までいくかどうかは、まさに臨床応用できるかできないかという最終結果に依存しているわけで、臨床応用が困難であると結論された場合は、これだけの注目を浴びたからこそ、iPSは却って、「平成の徒花」的あつかいになってしまい、本来の発見の意義さえ過小評価されてしまう可能性があるのではと危惧します。今の日本のiPSの扱いを見ていると、iPSは、本来の研究成果の意義からはるかに離れた所で、Laymanの間で一人歩きしてしまっているように見えます。研究者は研究費が欲しいし、一般人は日本からの大発見はもっと持ち上げたいでしょうから、このiPS熱にわざわざ水を注すのは馬鹿のすることかも知れませんが、私は科学の大発見というものは、やはり「額面」で評価してもらいたいと思います。バブルの時に「成長株」に飛びついて大火傷を負ったのは、踊る阿呆ではなかったでしょうか?