百醜千拙草

何とかやっています

科学の価値は後ろ向きにしか評価されない

2007-12-28 | 研究
Science誌の今年の10大ブレークスルーのトップはヒトゲノムの多様性についてでしたが、第二位は、細胞のリプログラミングでした。勿論、iPS細胞の事がその中心にあるわけです。体細胞核移植で作られたヒツジやマウスやイヌやサルでの実験で、分化した状態にある細胞の核がリプログラムできるということがわかっていたわけですが、それが4つの遺伝子の強制発現で可能になるということを明らかにしたiPSの論文は、10年に一度の大ブレークスルーといってもよいと思います。同号のScienceに、例のウィスコンシン大学からのヒトiPSの報告が出ているのですが、実はもう一本、MITのRuddy Jaenischのグループがその論文の次のページに、マウスiPSをHox4Bで血球系に分化させて、鎌形赤血球症のマウスを治療できたという報告を出しています。今回は原理の確認という体の論文で、私の最も関心のある癌化の危険性については一切触れていませんでしたが、それは次回の報告のお楽しみということでしょう。Jaenischは細胞分化に伴って生じるepigeneticな変化について研究してきたMouse geneticistなのですが、彼のグループの身のこなしの早さには驚きます。ハワイ大学でYanagimachiグループがマウスのクローニングに成功した時も、いち早くその筆頭著者の若山さんを呼んで、マウスでの体細胞核移植の技術を導入して、今回と同じアイデアで、遺伝子病のマウスを治療するという論文を出していましたし、iPSの発表後、早速追試の論文を発表したのも彼のグループでした。それだけの人的、資金的、設備的な余裕としなやかさがあるわけで、うらやましい限りです。それにしてもマウスクローニングといい、iPSといい、Jaenischはこれらを発見した日本人にはさぞ感謝していることでしょう。
 iPSは生物学的に素晴らしい発見であると思うのですが、現在の、熱しやすく冷めやすい日本人がiPSを持ち上げる様子を見ていると、それに不安を感じる人は私だけではないと思います。iPSは素晴らしい発見だと思います。それは「ほ乳類での分化した細胞の可塑性」について「生物学的に」かつ遺伝子レベルで重要な知見が与えられたからだと私は思っています。しかし、世間では、ESのかわりに再生医療に応用できる可能性という「工学的価値」を一般人はより高く評価しているわけです。この点に関しては、実際に再生医療に応用できてはじめて価値が確定するわけで、例えばこの発見がノーベル賞になるかどうかはそこにかかっています。臨床応用なりなんらかの方法で非常に「役に立って」はじめて賞の対象として考慮されるということだと思います。生憎、現時点では、ノーベル賞になるのに必要なその条件を今後iPSが満たせるかという点においては、私はどちらかというと悲観的なのですが、技術、工学系科学の進歩というのは早いですから、まだまだわかりません。日本の政策サイドがiPSの将来性に投資することは必要なことだと思いますが、その煽り方というか、やり方がどうも先走り過ぎているような気がします。あたかも「研究費を集中投下して皆で頑張れば、臨床応用までは時間の問題だ、ここで外国に遅れをとってはイカン、国民一丸となってガンバレ!」というノリのように見えるのです。臨床応用まで時間の問題というよりは、まだまだ様々な新しい技術の開発が必要であり、現時点では、臨床に使えるかどうかは全く闇の中という状態であると私は思います。結局、資金には限りがありますから、過剰な期待と共に投資した場合、それが回収できないとなったら、政策サイドは手のひらを返したように新しいプロジェクトを探して、またお祭り騒ぎをやるのでしょう。プロジェクトを打ち上げた官僚はCVに書く項目が増えますが、その後始末や責任問題が問われるころには、当の言い出しっぺはとっくの昔に現場から立ち去っているのです。日本の科学政策を一言でいうならば、「無責任」という言葉がぴったりです。
 iPSの話を持ち出したのは、実は、科学発見の価値というのは後になってはじめて理解されるということを改めて言いたかったからでした。科学の世界では、アイデアそのものに殆ど何の価値もありません。アイデアをもとに、仮説を立てて検証して得られた「結果」、そしてその結果がどういうインパクトがあるかが殆ど全てと言ってもよいと思います。例えばiPSの場合、プロジェクトを始める前に研究費をこのアイデアで申請したとします。「ヒトESは倫理的、技術的な問題が多いので、体細胞をES様細胞へ変化させる方法を研究したいので研究費下さい」と言うとします。その方法として、「ESに出ている転写因子をいろいろウイルスを使って組み込んで、体細胞がES様になるかどうか調べてみる」と書くとします。このプロポーザルで研究費が下りるでしょうか?まず下りないであろうと予測できます。なぜなら、ESに出ている転写因子を発現させて、ES様になる可能性があるという、理論的または実証的証拠が欠けているからです。つまり、遺伝子のリプログラムができることはわかっているが、その機構については何もわかっていないわけで、何もわかっていないのに成功するはずはないだろうという理屈です。レビューアは、もしいろいろ遺伝子入れてみてES様にならなかったら、その研究からどれぐらい価値のある結論が得られるのかと聞いてくるでしょう。つまり、このiPSの最初のプロジェクトは、ポジティブなデータがでればスゴいが、でるという保証は全くなく、でない可能性の方が高いと考えられる上に、出なかった場合、科学的に価値のある結論が得られないという、ハイリスクの実験なのです。私が思うに、この研究はダメで元々でこっそりやっていたら、驚いた事に当たってしまった、という感じだったのではないかと思います。アイデアとして体細胞を直接ESにするという考えは素晴らしい。しかし、それを実現するのにどうしたらよいのかという点については強い仮説あったはずはなく、ESの転写因子を過剰発現させるというアイデアは、他に手がないからやってみよういう感じだったのではないかと想像します。幸い、結果オーライで、研究は結果が全てですから、当たってしまえばこっちのものです。私はこの発見の価値は、再生医療への応用云々は別にしても、十分素晴らしいと思います。このハイリスク研究で当たらなかったらゼロだったのですから、当たった以上はこれだけの注目を浴びて悪い筈がありません。しかし、この発見がノーベル賞までいくかどうかは、まさに臨床応用できるかできないかという最終結果に依存しているわけで、臨床応用が困難であると結論された場合は、これだけの注目を浴びたからこそ、iPSは却って、「平成の徒花」的あつかいになってしまい、本来の発見の意義さえ過小評価されてしまう可能性があるのではと危惧します。今の日本のiPSの扱いを見ていると、iPSは、本来の研究成果の意義からはるかに離れた所で、Laymanの間で一人歩きしてしまっているように見えます。研究者は研究費が欲しいし、一般人は日本からの大発見はもっと持ち上げたいでしょうから、このiPS熱にわざわざ水を注すのは馬鹿のすることかも知れませんが、私は科学の大発見というものは、やはり「額面」で評価してもらいたいと思います。バブルの時に「成長株」に飛びついて大火傷を負ったのは、踊る阿呆ではなかったでしょうか?
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挫折と成功と骨密度測定機

2007-12-25 | Weblog
先週末、一年前から見たかったWill Smithの映画、「Pursuit of Happyness」をDVDで見ました。「Happyness」はサンフランシスコの中華街の託児所の壁の落書きに由来しています。売れない医療機器の個人セールスマンの主人公が、小さな子供を連れてホームレスまで身を落とします。フェラリーに乗った証券マンとの出会いがきっかけで、証券マンとなるべく、シェルターで生活しながら、証券会社のインターンをし、ついに20倍の関門を突破して正社員に採用されるという実話をもとにした映画です。Will Smithと子役の彼に実子の好演が光っています。私は日本人のせいか、この手の映画に弱いのです。幼い子供を連れ、将来の希望も見えず苦労と困難が連続する中、ぎりぎりの所で踏ん張っている主人公、売れない研究者生活が長い私にとっては自分のことのようです。ポスドク時代になかなか論文が出なかった時は、私も小さい子供を連れて路頭に迷う夢をしばしば見ました。将来の安定性いう点では現在も状況としては良くなっているわけではありませんが、そうした不安は不思議と感じることが少なくなりました。映画が教えてくれていること、また自分自身の経験で学んできたことは、「最後まであきらめない者が勝つ」ということだと思います。私は意志が強いわけではないのですが、かなりあきらめが悪い方です。意志は弱い方でしたが、あきらめが悪いので、強い意志を持たねばならない状況にしばしば追い込まれて、意志の方も多少鍛えられました。オスカーワイルドが「獄中記」の中で言ったように、人生の困難や苦難は、実は「啓示」であり天のはからいなのだろうと思います。自らの人生に与えられる困難を耐えて乗り越えること、それ以上に素晴らしいAchievementはないのでないかと思います。映画の中で、Will Smithが、アメリカ独立宣言の中の「幸福を追求する権利」を引いて、幸福は追求しても決して与えられないのかも知れないと苦労の中つぶやくのですが、最後の最後に正規社員採用を知らされて「幸福」を実感するにいたります。本当の幸福というものは、全身全霊をかけて求めて、はじめて与えられるものなのでしょう。
ところで、主人公は実はポータブルの骨密度測定機のセールスマンという設定なのですが、映画の舞台であった80年初頭には、おそらくそういう機械は存在していなかったのでは、と思ったのでした。90年代の私が大学院時代に、臨床義務の割当の一環として、骨密度の測定をやっていたのですが、当時の骨の密度の測定は、主にはSingle photon absorptiometry (SPA) というγ線の放射性同位元素を使ったもので、X線を使った現在主流となっているDEXAと呼ばれる骨密度測定機はようやく市場に出たか出なかったかという時代でした。放射性同位元素をポータブルの機械に入れて自分のアパートにおいておく事などできないでしょうし、半減期が来るごとに放射性同位元素は新しく入れ替える必要があるので、映画での機械はX線を使ったものである筈です。超音波を使う骨密度測定装置があることはあるのですが、それはDEXAよりももっと後にできたものなので、状況を考え合わせると、映画での設定ではポータブルのDEXAであろうと思われます。しかし、それでもそう考えるとこれは80年初頭にそういう機械が存在したとは考えにくいので、実際のモデルでは違うもののセールスマンであったのであろうと思います。このポータプル骨密度測定機は、この映画の中で、成功、失敗、希望、人生などのさまざまなものの象徴として扱われているのですが、どうして実際には存在もしなかったであろう「骨密度測定機」という設定にしたのか、ちょっと謎です。誰がこのアイデアを思いついたのでしょうか。映画のモチーフはありがちなのですが、Will Smithとその子供の演技が良かったこと、自分の身につまされる話であることから、個人的には、中々の映画だったと思います。
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鮭と自然

2007-12-21 | Weblog
子供の頃は、近所に川があったり少し歩けば山があったりしたので、一年中出かけていってはムシを探したり、沢ガニを採ったりしていました。大人になったら自然の中で生活するというのが夢でしたが、なんだかんだで未だに実現できずにいます。しばらく前、子供のころ遊んだ山や川を訪れてみましたら、高速道路が通っていたり、住宅地になっていたりしていました。そうした開発以外にも、様々な様式で環境は変化(多くの場合、悪い方向に)していっていますが、近年、地球温暖化が目に見える形で人々の前に現れてきたためか、環境に関する人々の意識は高まってきていると思います。四季のある日本では、それぞれに風物詩がありますが、温暖化の影響は冬にもっとも現れてくるようです。雪国では積雪量が減ってきていますし、「御神渡り」で有名な諏訪湖は氷結しない年がでてきて、神様も通らなくました。
 さて、この季節はお正月に向けての商品が並びますが、私がお正月と聞いてなんとなく思い出すのは高橋由一の「鮭」の油絵です。実物は西宮の大谷美術館での展覧会で一度だけみたような記憶があります。なぜこの鮭がひもで吊るされただけの絵がこんなにも有名なのかわかりませんが、確かにこのようなモチーフは西洋の絵画には見られないものだろうし、言われてみると東洋のワビサビみたいなものを感じさせなくもないと思います。また冷静に考えると、私の中でこの鮭の絵とお正月が繋がるというのも不思議なのですが、寒い国で穫れる鮭というイメージが冬と繋がっているのかも知れません。塩鮭やスモークドサーモンは私も好物だったのですが、その野生の鮭が鮭養殖によって危機にさらされているという話が先週号のSceienceに出ていました。同号のSceinceでは、近年の環境問題に対する意識の高まりを反映してか、レビューを含めて18本の論文のうち、エコロジー関連の論文が4本もあります。そのうちの一本で、カナダのある特定の地域で寄生虫によって野生の鮭が激減しているということが報告されています。寄生虫による死亡が直接原因ではあるのですがですが、論文では鮭の養殖場がその寄生虫の繁殖場となっている、つまり人間の養殖活動が原因である、と結論しています。この寄生虫、Salmon liceは鮭の体表に取り付くのですが、取り付いた病変部が鮭の体液調節に影響をおよぼすそうです。この寄生虫は海水中に住んでいるので、海で生活する大人の鮭にはしばしば付いているらしいのですが、大人の鮭で致死的な影響を与えることは少ないそうです。しかし、鮭の稚魚にこの寄生虫がつくと場合によっては80%以上の確率で致死となるそうです。幸い、この寄生虫は川にはいないので川で育つ子供の鮭に寄生することはなかったのです。この論文の著者らはカナダ西海岸の同地域の川を調べて、河口付近に鮭の養殖場のある川を通るピンクサーモンの寄生虫の感染率が高く、その流域での野生のピンクサーモンが減少していっていることを発見したそうです。そのメカニズムとしての大人の鮭についた寄生虫が養殖場で繁殖し、その川を通る鮭の稚魚に取り付くのではないかと考察しています。つまり養殖所が病原寄生虫の繁殖所となっているわけです。これは人間社会での「院内感染」を思い起こさせます。老人病院では疥癬症が集団発生することがありますし、なんでもない手術で入院したら、病院で育まれた薬剤耐性菌に感染して死亡してしまった例などを見聞きします。病気を治したり、療養したりする施設が逆に病原菌の繁殖所となっていることは問題になっています。この鮭の場合、養殖によって鮭の生産を上げようとする行為が、野生の鮭の危機を招くことに繋がっているということです。論文では、この寄生虫のために現在の割合で鮭の稚魚が死んでいくと、8年後には養殖所のある川では野生の鮭の絶滅が危惧されると述べられています。もちろん相関関係をみたこの手の研究では、因果関係を厳密には結論できないので、この論文の結論に反対する人もいるようですが、問題は因果関係が証明できるまで待っていては、野生の鮭は絶滅してしまう可能性があるという、その減少度の急激さなのです。
 昔は自然は人間の力など及ばない程、偉大なものでした。最近のこうした話を聞いていると、人間の自然利用による環境変化の積み重ねによって、自然が自己治癒力を失ってしまうほどに脆弱化しているように感じてしまいます。私は「大人になったら」大自然の中で生活するという目標を、「無事に引退できたら」に目標変更しましたが、それまで自然の方が待ってくれるかどうか心配です。
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DNAゴシップ

2007-12-18 | Weblog
数年前、ヒトゲノムプロジェクトで、とりあえずヒトのゲノムDNAの全配列が解読されたわけですが、そのDNAの提供者の中には、ジムワトソンとクレイグベンターがいました。ヒトゲノムプロジェクトはパブリックセクターはNIHのフランシスコリンズが指揮し、ゲノム情報は随時公開するというポリシーでやっていましたが、プライベートセクターでは、シークエンス男、クレイグベンターが遺伝子情報を売るビジネスとしてセレラを立ち上げ、両者しのぎを削る戦いとなりました。学者然としたコリンズとあくの強いベンターという対照的な両者でしたが、この二人を見ていると最澄と空海を思い浮かべてしまいます。しかし、ベンターがNIHを飛び出してから、セレラを始めとして数々のシークエンスプロジェクトを成功させていった旺盛な活力には目を見張るものがあります。彼の一見突拍子もないようなアイデアは、レトロスペクティブには、やはり時代を先取りしたものでした。例えば、数年前、サルガッソー海でヨットに載っている写真とともに、彼の新プロジェクトが、サルガッソー海に漂っている数々の微生物由来のDNAを大量シークエンスするというものであると紹介されたとき、正直、私はそんなことやって何の意味があるのか理解できませんでした。普通の感覚だと、いろんな生物種に由来するごったまぜのDNAの断片を片っ端からシークエンスしても解釈に困るであろう、サンプルはできるだけ純粋にしておく必要があるのではないかと思うところです。普通の生化学の研究室での常識とは全く逆です。ところが、この大量シークエンスデータをもとに、彼らは海の生態がどれほど多様であるか、何種類の生物種がいると見込まれるか、といったいわば外向きの問題を解決していったのでした。この発想の転換にはうなりました。ヒトゲノムプロジェクトでは5人という限られた供与者からのDNAをショットガンシークエンスで断片を読んでは繋ぎ合わせるという作業によって、全配列を決めていったわけで、ここでもし大勢のバリエーションのあるサンプルを使ってしまっては、シークエンスのアライメントで狂いが生じてしまいます。限られた比較的ピュアなサンプルであるからこそ、このシークエンスプロジェクトは成功したのです。サルガッソー海のプロジェクトでは、これとは全く逆の発想でした。一つの生物種を狭く深く知るためのシークエンスではなく、むしろ未知の生物も含む多数の生物を広く浅く知るためのシークエンスだったのです。このアイデアは医科学にも応用されはじめているようです。例えば口腔内の常在細菌の種類は非常に多いようですが、どういう細菌がどういう割合でいるのかということについて殆ど分かっていないらしいです。口から出してしまうと細菌がうまく増えないので、培養して調べるという方法が使いにくいらしいです。ベンターの大量シークエンスのアイデアを使って、口腔内のDNAを片っ端からシークエンスすることで、そういう口腔内細菌の種類や多様性の情報が得られる可能性があります。これは口腔内の数々の歯科疾患の原因の解明と治療法の開発に重要な情報となると考えられます。
 ところで、最近、そのベンターの遺伝子がさらに相同染色体別にシークエンスされて、某有名雑誌に載りました。彼の非常にプライベートな遺伝情報の多くが一般公開されたことになります。それで、ベンターのDNA配列を見て、MAOA遺伝子のポリモルフィズムがあることを発見した人がいて、そのポリモルフィズムが「反社会的行動」と関係があると指摘したのでした。ベンターの履歴とつきあわせてみると、ゴシップネタとしては面白い話です。それに対し、また別人がその解釈は逆ではないかと反論しています。この反論では、ベンターのような成功者なら、多少遺伝子配列から「反社会的傾向がある」と誤って公に口にしても、問題は少ないかも知れないが、公開されている個人情報をもとに、誤った解釈を広めた場合に大きな問題になる可能性があると警告しています。いずれにせよ、ベンターという有名人のゲノム配列をもとにした、本来芸能ニュースになるべきレベルの討論が科学誌でなされているということです。(実際のところ、有名科学雑誌のフロントページの半分以上はゴシップといってよいようなネタですが)もしこのDNA配列が無名または匿名の人であれば、何の議論も起こらなかったでしょう。ベンターのDNAである故にこうしたゴシップめいた議論に花が咲くのです。その記事は私もにやにやして読み飛ばしたのでしたが、そのあとすぐ、イギリスの新聞がジムワトソンのゲノム解析の話を報告していたことを知って、いよいよ可笑しくなってしまいまいた。やはり、有名人の欠点を見つけてやろうと思うのは人の性なのでしょうか。少し前、触れたように、ノーベル賞科学者ジムワトソンは、「アフリカ黒人の知能は遺伝的に悪い」という失言がもとになって、科学者引退に追い込まれてしまったのですが、そのイギリスの新聞によると、ワトソンの公開されているDNA情報を解析したところ、通常ヨーロッパ系白人には1%未満しか見られないアフリカ黒人由来の配列が16%も認められたということで、ワトソンの祖父母がアフリカ系黒人である可能性が高いと結論しているそうです。またアジア人由来の配列も通常より多いらしく、ワトソンはアフリカ系黒人、白人、アジア人の混血である可能性があるということでした。人種が交じり合っている北米や南米では、先祖が黒人だろうと何人だろうと、大した問題ではないと思いますが、黒人蔑視的発言を繰り返していたワトソン自身の何割かが、その黒人由来だとすると皮肉です。いったい、ワトソンは、このニュースをどう聞いたのでしょうか。遺伝学者なら、「人類の共通の祖先はアフリカに始まり、現在の様々な人種に別れた」という説をおそらく支持しているであろうと思うのですが。同じ根から生まれても同じ枝では死ねないということでしょうか。遺伝学者ワトソンも自分の遺伝子情報を他人があれこれ探り回ってゴシップネタにされるというのは気分のよいものではないでしょうね。
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エコの問題

2007-12-14 | Weblog
Rachel Carsonの「沈黙の春」について、以前少し触れたことがありますが、この本は私が生まれる前に出版され、ベストセラーとなって世界22カ国語に翻訳された、合成化学薬品による環境破壊の告発書です。私は中学生の頃に日本語訳を読んだのですが、子供心に大きな恐怖を感じたことをよく覚えています。前の週末に図書館に立ち寄った際、Rachel Carsonを特集したテレビ番組の記録がDVD化されているのに気がつき、借りて見てみたのでした。ボストンの教育系テレビ局PBSのAmerican experienceというシリーズの中で1993年に放映されたもので、メリルストリープがナレーションを担当しています。第二次世界大戦中、多数の兵士がチフスなどの感染症により死亡し、その対策として病原菌を媒介するシラミなどの昆虫駆除のため、合成化学薬品であるDDTなどが開発され、除虫に著効をあげました。まもなくDDTは一般市民の生活や農業にも使用されるようになり、アメリカ国家を上げて大量の合成除虫薬が散布されました。当時、DDTが除虫に有効であるのは分かっていましたが、なぜ有効であるのか、環境にどんな影響があるのかなどについては、ほとんど何も分かっていないまま、この化学薬品が大量にばら撒かれたのでした。エコロジストのCarsonが、DDTの空中散布の後に野生鳥の生息地で大量の鳥類が変死しているのを見つけ、丹念な調査の後、合成化学薬品が原因であると確信するに至り、本を書く決心をします。Carsonはそれ以前の2-3の著作で自然の作家としての地位を得ていたのでしたが、出版にはさまざまな妨害が入り、ちょうどCarson自身も乳がんをはじめとする病との闘病中であったため、ずいぶんの苦労があったようです。最終的に本は出版され、2週間で大ベストセラーとなりました。化学者や薬品業界は大挙してCarsonの本や説を弾圧にかかりましたが、一般アメリカ人を巻き込んでの運動が、当時のケネディー政府を動かし合成化学薬品の使用制限を勝ち取ることになりました。Carsonはエコロジストであるというだけでなく、筆一本で社会を動かした女性という社会的アイコンとなり、スヌーピーの漫画にもルーシーの理想の女性として現れています。残念ながらCarsonは「沈黙の春」の出版の2年後に亡くなってしまいました。ですから私が本を読んだのは、出版後20年近くたってからで、農薬などの化学薬品の恐怖が社会から薄らいできたころであったのだろうと思います。私も農薬の恐ろしさなど知らないころでしたので、なおさらこの本を読んで恐怖を覚えたのだろうと思います。
 それでは、現在、50年前と比べて、化学薬品やその他のものによる人間の環境破壊は減少してきているでしょうか。私はそうは思えません。はっきりと目に見えるような破壊は確かに少なくなってきているかもしれません。野生の生物が大量に死んだとか、昔クリーブランドであったみたいに、可燃性の化学薬品を川に垂れ流し続けた結果、川が火事になったとか、そういう派手な話は聞かなくなりました。しかし現実に毎日毎日、数種という生物種が絶滅していっている状況は、刻々と「沈黙の春」の到来に向けて進んでいっているようです。生理活性を持つ合成化学品の開発、応用は製薬業界ではますます盛んです。それらの薬品の環境に対する長期にわたる影響は誰も知りません。 「自然は人間のために利用するもの」という態度が、環境破壊を生んできたのは間違いないと思います。しかし、ここで指している「人間」とは人類一般ではなく、限られた人々、自然破壊に繋がる産業で潤う人々とそれを享受する人々に限られており、その他の人にとってそうした産業活動は全くの悪影響しかありません。外部不経済の典型的な例でしょう。人間の起こしてきた地球温暖化や環境汚染で、多くの生物種が日々絶滅していくなか、いずれそれは人間に返ってくるものだろうと思います。ですから、理屈上、人間がまずすべきことは、自らの愚かさを反省してその行動を改めることであって、自分たちの欲が引き起こしてきた問題を解決するために、さらに問題を引き起こす様な小手先の手段を弄することではないと思います。
 合成化学薬品の無謀な大量使用は、自然を愛する一人のエコロジストの地道な小さな活動がきっかけで止めることができました。近年では、アルゴアらの活躍や科学雑誌を通じた環境問題や温暖化の啓蒙活動は、少しずつ人々の意識を変えつつあるように思いますが、環境破壊が抑えられて環境が改善する方向に向かうまでには、まだまだ長い年月が必要だろうと思います。クリスマスシーズンで、ツリーのための生木が大量に売り買いされているのを目にしますが、こうして使い捨てられる木が大量のゴミになって燃やされることも問題視されてきています。おそらく、生木を売り買いする人に環境破壊の意識は殆どなく、昔からやっていることを続けているだけだと思っていると思います。残念ながら、地球環境の急激な変化は、人々の意識が自然と変化していくのを待ってくれません。人間がプロアクティブに自らの意識を変えなければならないように思います。それには即効薬はありません。地球の住人の一人一人が、環境破壊への危機感と環境の改善のためへの意識を持つように、地道な努力をすることしか解決策はありません。小さな個人の力でも時にはとても大きな成果をあげることができるのだと、Carsonの話は教えてくれているのだと思います。
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繰り返す過ち、危険な人間の浅知恵

2007-12-11 | 研究
海洋の表面は窒素、燐といった栄養素が豊富なのにも関わらず、植物性プランクトンがいないというのは長い間の海洋生物学の謎でした。1990年代前半に 実は「鉄」がlimiting factorであったことが示され、海に鉄を散布すると 藻類 が急激に海洋表面に増殖することがわかりました。以来、この実験は複数のグループが繰り返しているのですが、2004年にドイツのグループの実験では、こうして繁殖した藻類がその後どうなるのかを検討したところ、繁殖してそして死んでいった緑藻は、相当なスピードで海底へ沈んでいくことが分かりました。このことが重要な意味をもっているのは、地球温暖化対策に使える可能性があるからです。以前にも触れたように、海底は炭素のシンクとなっています。地球温暖化のもっとも大きな因子は空中の二酸化炭素ですから、その二酸化炭素を固化して海底奥深く沈めてしまえれば、大気中の二酸化炭素を減らすことができます。植物性プランクトンは光合成を行い、二酸化炭素を糖類に同化することで体内に取り込み、酸素を放出しますので、プランクトン体内に取り込まれた炭素がそのまま死骸と共に海深く沈んでくれれば、大気中の炭素を海底へと移動させることができるはずです。
この一連の「鉄による藻類の肥沃化実験」は、地球温暖化対策への希望を示す一方、当然ながら多くの人は、大量の鉄を海洋に散布して微生物をコントロールしようとするやり方が、海のエコシステムを乱し、予測不可能な災害を引き起こすのではないかと危惧しています。2004年の実験だけでも3トンの鉄を10000平方キロメートルの海洋領域に渡って散布したのですから、地球の大気中の二酸化炭素濃度を減少させるだけの規模で、海洋鉄散布を行うことになれば、その鉄の量というのは半端なものではないでしょう。また生物学的には、藻類の増殖は食物連鎖などを通じてその他多数の海洋生物に影響を与えるでしょうから、生物活動を通じて排出が増加するであろうメタンガスや一酸化窒素などの温暖化の原因となるガスが、総合的にどの程度変動するかについては分かりません。また、どこの海に鉄を撒くかも問題のようです。栄養素があっても他の条件が悪くて植物性プランクトンが増殖しないような場所では余り意味がありません。そういう理由で南方の暖かい海が最初の目標となっているようではありますが、一方、冷たく日照時間が少ない場所では、対流の関係でいったん散布された栄養素が、海表面にリサイクルされてくるので、長期的にはよいのではという意見もあるようです。また、炭素を海底に沈める上で、500m以上深いところへ沈めることが大切らしいです。これは100年線(100-year horizon)と呼ばれているらしく、ここまで深いと海水は100年間は海表面の海水とは接触しないそうです。ですから、この藻類の増殖を使った方法がうまく機能するためには、藻の死骸をすばやく海底奥深く沈めてしまう必要があります。植物性プランクトンをせっかく増やしても、それが海表面近くで、食物連鎖に入ってしまうと、せっかく、同化した炭素が動物性生物に捕食されることで、異化されて二酸化炭素に戻ってしまうということなのです。
いずれにせよ、この方法はアイデアとしては面白いと思いますが、実用化されるまでには、数々の問題を明かにしていく必要があることは間違いなさそうです。地球規模で環境操作する「海洋工学」ですから、予期しない災害が起きてしまえば取り返しがつかない事態になり得ます。
私は、学問として海洋生物が鉄を必要とすることやその他の栄養物がどのようにエコシステムに影響するかということが明らかになっていくということは素晴らしいことだと思います。そうした知識は私たちが世界を見る見方を増やし、我々の世界観を拡げ、我々の精神活動を豊かにしてくれます。学問の文化的価値という点において私は一片の疑いもありません。しかしながら、その知識を利用して、地球規模で他の生物を操作して環境を自らの有利な状態に変えてやろうとするような思い上がった欲は自らを滅ぼすものに他ならないと思います。純粋に学問のレベルで楽しんでいるうちはよいと思うのですが、何かに役立てようと考え出すと、人間の浅知恵でやることですから、いつものように悪い事と良い事が半々でおこるに違いありません。近代医学の発展を見ていてもそう思います。新しい治療が開発されたら、必ず新しい副作用があって、収支をみてみるといつもトントンかむしろ悪いことの方が多いのです。人間が足る事を知っていた産業革命前を理想視する人々がいるのも頷けます。思えば、温暖化も公害も数々の医源性疾患も、人間が自然を利用してやろうと浅知恵を出したためにおこった身から出た錆びです。人間というものは近視的で反省しない生き物だなあと思います。もう少し謙虚にならねばいけません。
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エゴの問題

2007-12-07 | Weblog
ネブラスカ州オマハのショッピングモールで19歳の男性が銃を乱射し、8人が殺されたという先日のニュースを聞いて、今年のヴァージニアテックでの同様の事件やコロンバイン事件を思い出しました。いずれも犯人の追いつめられた精神状態が原因となっているようです。アメリカ中西部のネブラスカと聞いて、何か特別なものを思い浮かべることができる人は少ないと思います。オマハは、「オマハの託宣」のアメリカ第二位の金持ち、ウォレンバフェットが住んでいる所で、バークシャーハサウェイの株主集会が行われますから、ハサウェイの株主なら毎年オマハに詣でて、バフェットの託宣を聞くことを楽しみにしている人は多いと思います。一般人にとっては、バフェットが住んでいる場所としてオマハは有名かもしれませんが、ではオマハは何州にあるかといわれてもわからないアメリカ人は少なくないと思います。多分、ネブラスカというのは、一般的にはその程度の認識だと思います。そのような田舎の州のおそらく大変保守的な社会環境というのは、この19歳の傷つきやすい年頃の男性にも良くなかったのではないかと思います。ニュースは、犯人を典型的な「負け犬」として描き出そうとしているように見えます。実家を追い出され、マクドナルドの店員をクビになって、ガールフレンドに捨てられた男。19歳だったら、これで自分への自信を失ってしまわない方がおかしいです。しかし、小さな子供の目の前で、何の関係もない母親を撃ち殺した犯人の行為に怒りを覚えないものはいないし、いくら犯人が精神的に追いつめられていたからといって、その行為が正当化されることはありません。この犯人の行為が、直接の被害者やその家族はもちろん、大勢の現場に居合わせた人々、その関係者などに与えた深く暗い影響は、大変大きいものであろうと想像します。ヴァージニアテックでの事件もそうですが、犯人は犯行に際してのメッセージを残しています。ヴァージニアテックの犯人は、自分自身を録画したビデオテープを残していますし、今回の犯人は「(今回の無差別殺人で)自分は有名になる」と書き残しています。つまり、他人の命や自らの命を犠牲にしてでも、自分の存在が誰かから認められることの方がはるかに重要であったということなのだと思います。この破滅的なエゴ充足欲は理解できないではありません。エゴの充足は人間の生存理由の筆頭項目でしょうから。これらの犯人は通常の生活から自尊心を確立することができなかったのでしょう。今回の犯人が、かつてのコロンバイン事件やつい何ヶ月か前のヴァージニアテックの事件を知らないはずはないと思います。犯人はモールで銃を乱射すればどういう結末になるか、全て正確に知っていた上で、犯行を行った筈です。大きな全国ニュースになることも、無関係の人を殺すということも、自分が死なねばならないことも、全部知っていて、それでも自分のエゴを一瞬でも満たす事を選択したということなのだと思います。ある意味、冷静な計画性に基づいた犯行なのですから、テロリストの自殺爆弾と同じです。ヴァージニアテックの乱射事件のときにも感じたのですが、こういう事件は防ぎようがないと思うのです。犯人は全てわかっていて計画性を持ってやっているのですから、犯人の精神状態をなんとか安定させる以外の予防策はない思います。アメリカの個人主義的社会は、個人と社会との繋がりが希薄であって(最近の日本もそうですが)ちょっとした事で、個人は容易に孤立してしまいます。苦しい時に、自分以外に個人をサポートできるのは家族とか友人とかの特別な人しかいません。個人がそうしたサポートを持っているかどうかを制度としての社会が包括的に確認する方法はありませんし、従来それは小さなコミュニティーのレベルで日常のコミュニケーションを通じてやっていたことでした。おそらく、現在社会システムができる精一杯のことは、せいぜい、武器へのアクセスを難しくするとか、警備体制を整えるとかの表面的なことぐらいでしょう。それでは事件の規模を多少小さくはできても、根本的解決には繋がらないと思います。根本的解決法は「ない」といってよいのですから、悲しいことに、今後もこうした事件は引き続いておこってくるのでしょう。
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メルク訴訟の和解金額に思う

2007-12-04 | Weblog
しばらく前に、メルクがCox2 inhibitor、Vioxxの薬害訴訟で、最終的に27,000件の訴訟に対して合計$48.5億ドルで和解に至ったというニュースを聞きました。ニュースはメルク側および原告側双方にとって良い結果となったとありましたが、まあそうかなと思います。関節炎治療薬VioxxはCelebrexと並んで、胃腸障害のない鎮痛剤として、年間25億ドルの売り上げのあった薬で、3年前に販売中止するまでの5年間、市場に出ていました。Vioxx服用患者のなかに心血管障害や脳血管障害を起こすものが出てきて、薬剤は販売中止に追い込まれ、最終的に訴訟に発展してしまいました。まずかったのは、メルク側がこうした血管障害による死亡例を知っておきながら、約半年間にその発表を見送ったということでした。半年で1.25億ドルですからまず大金です。そうしたメルクの不誠実な態度も追い風となって、三万件近い訴訟の口火を切った最初の個別訴訟は、原告への2億ドル余りの補償(結局はテキサスの法律により2千万ドル程へ減額)という判決となり、メルク関係者には大きなショックを与えました。その後の個別訴訟では、5原告の勝訴に対し、メルクの11勝という展開になり、因果関係の証明が困難なこともあって、原告側も裁判に勝つのは容易ではないことがはっきりしてきました。結局、双方歩み寄って、この金額となったようです。それにしても思うのは、今やトップ製薬会社の中では規模的にはそれほど大きいわけではないメルクが、48億ドルという金を出せる経済体力で、製薬会社というのは金持ちなのだなとあらためて感心してしまいました。これが、ロッシュやノバルティスだったら、どれぐらい金持ちなのだろうと思ってしまいました。アメリカ一の金持ちのビルゲイツの総資産額が600億ドル余り、第二位のWarren Buffetが500億ドル余りと思いますから、今回の補償額はバフェットの総資産額の約一割の金額です。またアメリカNIHの年間予算は、290億ドル弱といったところでしょうから、今回のメルクの和解額は、そのNIH予算の15%強に当たります。アメリカ全国の大学などの生命科学系の研究機関の大多数が、研究費と給料をNIHにたよっているわけですから、メルク一社がポンと出せる(?)補償金から想像するに、民間の製薬会社やベンチャーでは、大学の研究室とは桁違いの研究費が投入されているのだろうと思います。十年前の 痩せ薬、Fen-Phenの薬害訴訟では、Wyethは210億ドルの補償を負ったらしいですから、今回のメルクの和解額というのは、少なくて済んだ方なのだろうと思います。
製薬会社ももちろん、良い薬を作って、患者の役に立ち、自社も経済的に潤うことを考えてやっているのでしょうが、こういった予期しなかった副作用がでてしまい、訴訟に発展してしまうと、患者側、会社側、双方にとって不幸なことになります。弁護士一人が笑っているようです。こういう訴訟で弁護士に支払われる金銭というのは、私にはどうも「ムダ」のように映ってしまいます。研究者としての立場からは、Vioxxの研究、開発に関わった人の無念さを感じずにはおられません。新しい薬を開発し、社会の役に立つというのは、製薬研究者の夢だと思うのですが、結局、苦労して世の中に出した薬がむしろ害となり、患者さんにも会社にもマイナスになって、市場から撤回されてしまうというのは、研究者としては断腸の思いでしょう。再び、企業の研究規模に話を戻しますと、ちょうどVioxxが問題となりかけたころ、メルクはボストンに新しい研究施設をオープンするところでした。物価、地価の高いボストンのメディカルエリアにわざわざ研究施設を造るということは、世界トップクラスの研究者を引き込んで、基礎研究に相当な投資をしようとしているということです。基礎研究からは一円の収入もまず見込めませんから、その研究成果の一部が何十年か先に臨床応用されて収入に繋がるまで、お金は出て行く一方です。メルクの2006年度の収入支出を見てみると、226億ドルの収入で、純利益は44億ドル、研究開発の年間コストは47億ドルと計上されています。メルク一社でNIH総予算の15%の研究費が投入されているというのは、改めてスゴいなあーと思ってしまいます。バランスシートを見てみると、メルクの総資産、445億ドルのうちLiquidな資産は150億ドル程度で、総負債額は270億ドルですから、実は、会社が今後も200億ドルの年間収入を維持していかなければ、現在の規模のメルクを維持できないということだと思います。薬の独占販売期間が過ぎるとその薬による収入はGenericsのために急激に落ちるでしょうから、その収入額を維持するためには、コンスタントにある程度ヒットする新薬を市場に出していくことが求められています。そう考えると、製薬業界とはリスクの高いハイテク産業です。製薬会社の多くが、リスクの高い自社での研究開発を止めて、研究開発はベンチャーにアウトソースし、そのライセンスを買い上げるという方策をとっているのも無理はないです。そうそう新しい薬が発明できるわけがないのです。そんな中で、メルクのボストンでの新研究施設オープンという積極策は、自立した製薬会社で居続けるために、製薬業界のハイリスクハイリターンという性格と大会社の安定維持という相反する目的を両立するための唯一の策というようにも映ります。それにしても、こういう製薬会社のトップというのはストレス溜まるでしょうね。結局は、結果のみで判断されるわけですから。、、、私は人の心配をしている場合ではありませんでした。
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