百醜千拙草

何とかやっています

研究費申請は誰のため?

2014-04-29 | Weblog
この数ヶ月、研究費申請用の研究計画をずっと推敲しています。現在3ページ目にようやく進みました。ここを越えると残りの十ページほどは比較的簡単な筈です。(研究申請書が書けることと、研究費が貰えるかどうかは別問題ですが)もっとも難しい最初のページは、見返してみると、保存しているものだけでも30近いバージョンがあるので、多分50回以上は書き直しています。一番最初のと比べると随分、絞り込まれてスッキリしたと思います。結局、三つのプロジェクトのうち、二つを捨てて一つに減らしました。半年前はこのプロジェクトよりも他の二つの方が個人的には興味があったし、データもあったので、最終的にこのプロジェクトに絞るという方針が決まるまで、随分時間がかかりました。しかし、第一ベージ目で、コレで行けそうだと心から感じることができなければ、後で苦労しますので、ここで思いっきり苦しんでおくのは価値があると思います。詰め将棋を解くのとちょっと似ていると思います。ヒラメキを一つ一つ検討して、最後までの手筋を読み切ってから進めます。

研究費申請書は過去に何度も書いて、何度か通り、何度も落とされているので、自分では、多少のコツは分かっているつもりでした。しかし、今回、いろいろ苦しんでいる中で、あらためてはっきりと認識できたことがありました。つまり、研究申請書は誰のためのものか、ということです。

研究者は、やりたい研究をするために、研究費を申請します。私も、最初の頃は、私の研究はいかに面白くて科学的意義があるか、という話をしてお金を貰おうとしていました。そのネタになった発見には私の思い入れも自負もあり、これだけ苦労して見つけた発見なのだから、それを発展させたい、そう思って申請書を書いていました。何ヶ月もかけて書いて、それなりの自信ももって提出したその申請書は、点数もつかずに落とされました。振り返って考えれば、不思議はありません。誰も、私の研究が如何に面白いか、などということには興味がなかったということです。なぜ、興味がないのか、それは面白い研究など世の中にゴマンとあるからです。そのゴマンとある研究の中で、研究費が与えられるかどうかは、面白い面白くないかではなく、社会が必要としているかいないかで決まります。あたり前のことです。しかし、その後、何年も、私はそのことをはっきりと理解していませんでした。研究者が面白いと思う研究を遂行することが最終的に社会に貢献する(と、歴史的事実から、私は信じていますが)とは、資金を出す方は考えていないのです。つまり、私の研究に、社会的ニーズがあって、研究の遂行に際して私が適切な人間である、という必然性が示されないと、研究費を出す方はウンとはいいません。極論すれば、研究費申請書は研究者自身のためではなく、社会のために書くのです。そういうことが今回はハッキリ認識できました。つまり、実際は研究者が面白いと思う研究を追求することが結局は最も社会に有益な価値を生み出すことなるにもかかわらず、研究申請書には、そのようにストレートに書いてはいけないのです。研究申請書を書く目的は、必ずしも書かれた研究を遂行するということではなく、まずは研究資金を得ること、そしてそれを最も有益な目的に利用するためだということです。

前回、貰えた中サイズの研究費は、メインの研究費が削減されため、切羽詰まって、ダメでもともとで書いたもので、出した時はかなり悲観的でした。これが貰えたのはマグレです。しかし、振り返って状況を客観的に分析すると、貰えたことに不思議はありません。そういう社会的ニーズがあって(私も社会的ニーズは認識していました)、加えて、研究費を出す機関が、リスクは高くても分野を拡げるような変った研究を求めていたところに、そうとは知らない私が、切羽詰まってダメでもともとと一発大風呂敷を拡げたら、たまたま当選してしまったということなのです。幸運な偶然が重なって、その結果として必然的に私の研究計画が採用されたのでした。私はその分野はズブの素人です。それで、研究費が貰えた時は(お金がなかったので)大変うれしかったのですが、同時に、大風呂敷であることも自覚はしていたので、中間報告会のことを思って、多少、暗い気分にもなりました。そして、実は、その中間報告会がこの水曜日にあります。この委員会を構成するそのスジの一流研究者の人々の前で、15分のプレゼンテーションをしなければなりません。もう大風呂敷でゴマカすことはできません。正直にデータを見せて、次の年度の資金サポートをかけて、彼らの審判を受けるしかありません。結局、大風呂敷はハンカチぐらいの規模になりましたが、多少、興味深い結果も出ているので、今回は、そのスジの偉い一流研究者の方々とサシで議論ができる貴重な機会だと捉えることにしたい、と前向きに考えています。、、、それにつけても、、、の欲しさよ。
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陰謀論者の矛盾

2014-04-25 | Weblog
民主党政権が潰されたぐらいのころから、私は、世の中の出来ごとに陰謀論的な見方をすることが多くなりました。しかし、最近、残りの余命も考えて、疑り深く他人の悪意を探って日々を暮らすよりは、人の善意を信じて、騙される時には騙されてやる方が長期的には得なのだろうと考えるようになりました。「Trust, but verify」と言いますね。信用した上で確認する、そこで止めておくわけです。私も普段は政府や役人の悪口を散々、言うわけです。確かに悪人はおります。しかし、そういう組織を作っている構成員全員が悪人であって、一般国民を搾取して年貢を搾り取ることばかり考えているというわけでは勿論ないわけで、おそらく大多数の人々は普通の人で、単に、喰っていくために組織のしきたりに従っているだけだったり、あるいは、それどころか善意で一杯の人も多くいるでしょう。政府が、役人が、東電が、とわれわれは組織に対して怒るわけですが、その構成員の一人一人からすれば、組織防衛というあたりまえの行動を取っているに過ぎないというぐらいの認識ではないだろうか、とも思ったりします。

それで、今回のSTAP騒動ですが、一段落して事件の全貌がわかってきたら、結局、何のことはない、実は、未熟な人がデータを誤って解釈し、興奮したシニアの人が、功名心と研究費につられて、ろくに確かめずに煽り立てた挙げ句に、筆頭著者の人は逃げ場を失って、ウソを塗り重ねたという、一般社会ではありがちな「つまらない話」であったというのが真相のようです。(もちろん、研究の世界では、捏造はFelonyです。事件の本質がつまらないという意味です)私は研究現場にいますので、この事件に登場した研究者の人の心理も事件の背景もだいたい分かります。

ところが、面白い事に、研究現場を知らない人や週刊誌は、あることないこと、憶測と妄想を交えて想像力豊かな話を作り上げるのですね。たとえば、まるでこの筆頭著者の人は正義の味方で、理研の利権構造を暴こうとして嵌められたのだとか、利権がノーベル賞並みの発見を独占しようとしているのだとか、断片的証拠の上にさまざまな仮説が乱れ飛んでいました。私も研究現場を知らなかったら、週刊誌やこの手の話に乗せられていたかも知れません。ただ、研究活動を通じて、現実が小説よりも奇であることは稀であり、殆どの現実は面白くない話である、ということを知っているので、様々な仮説について証拠を総合的に検討すると、結局はありがちな話であって多少の個人の思惑はあったとしても陰謀論的な面白い話ではなかった、というのが正直な感想です。

というわけで、真実(というものがあるとするのなら)それは、さまざまな情報から導き出される解釈のうち、陰謀論的立場と普通の素直な立場の間のどこかにふらふらしているものだろうとあらためて思いました。科学は、観察事実の素直な解釈を疑うことによって新たな解釈や事実を探ります。科学者が疑り深いのは職業病でしょう。しかし科学者の疑り深いのと、いわゆる陰謀論者の疑り深いのには差があると思います。後者は、事実に対して疑り深い一方で、陰謀の存在は無根拠に信じていたりすることが多いワケです。矛盾してます。同じ疑うのなら「陰謀が存在する」という仮説も疑っておくべきですね。

それで、行方不明になっているマレーシア航空の事件のことをちょっと考えました。余りに飛行機の行動が不可解で、(離陸後、交信を立ち、急旋回して逆方向に向かい、非常識な高度で飛行し、しかも6時間ぐらいは飛行して消えました)、飛行機に詳しくない私は、陰謀論的解釈に心ひかれたわけです。例によって、さまざまなウワサが飛んできました。飛行機には中国人技術者が数人乗っていてライバル会社(国)誘拐された説、アフガニスタンに不時着してロシアに拘束された説、ディエゴガルシアに着陸して、アメリカとイギリスの軍事基地内に取り込まれた説、機長がマレーシア政権に反対の立場であったので消された説、、、などなど。機体の残骸がオーストラリア沖で見つかったという報告後、全く進展がないのも陰謀論に拍車をかけました。ところが、たまたま、飛行機の専門家の人が書いたしばらく前の推測記事を読んで、成る程、と腑に落ちました。もちろん、この解釈が本当なのかどうかはわかりませんが、現時点でもっとも整合性のあるセオリーです。要は、火災事故であり、ハイジャックでも暗殺でも誘拐でもなかったということではないか、ということです。記事をリンクします。

MH370便に関する合理的な説

研究データでも、興味深いデータが出たら、まずは、もっとも面白くない解釈を消去する作業が必要です。この時点で9割ほどの大発見はつまらない話であったという結論に至り、がっかりします。(STAPも本来、この段階で消えているはずでした)同様に、この手の事件でも、面白そうな陰謀論的解釈に走る前に、面白くない解釈をじっくり検討すべきでした。それで、とくに専門外のことにはニュートラルな立場で眺めるようにしようと反省した次第です。
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研究者の才能

2014-04-22 | Weblog
柳田先生の数日前のエントリー「研究者になるための幼児教育」を読んで、子供をわざわざ研究者にしたい親などいるのだろうか、と思いました。

こんな前振りで書いてみたかったのは、子供を優れた研究者にしようなどという、研究者の親などはいるのだろうか、という疑問です。すごい早熟の才能ゆたかな学生さんがいて、父親母親が誰かと聞いてなるほどとうなずくようなケースは今の日本あるのだろうか、ということです。若い学生さんの世界コンテストなどはありませんから、ちょっと分かりませんが、若くてすごいのが若年教育で出るだろうかという設問です。
わたくしはずっと否定的でしたが、というか今もあまり肯定的ではないのですが、昔ほど自信をもって否定的ではありません。
上手にやれば幼児から研究者教育はできるのではないか、と感じだしています。

研究活動でメシが喰えるというのは、大変、幸運なことだと私は思うのですけど、その不安定さと収入面での問題が難点です。超一流研究者でなければ、研究していて、高給が貰えて職の安定を望む方が都合よすぎるとは思います。それは零細企業の社長がリムジンで出社してファーストクラスでビジネストリップに行くようなものです。ま、不安定で綱渡りだからこそ、必死でやるようにもなるという面もあります。

私は、研究者をやめろ、と親にいわれたことはありませんが、家族にはあります。もっと安定してカネになる仕事をしろ、ということです。研究者の現実を知っていれば、子供の健康と安定した生活を願う親であれば、やめろ、というでしょう。研究者になりたい、というのはレベルは違いますが、プロの歌手になりたい、とか映画俳優になりたい、とかアーティストになりたい、とかと近いと思います。確かに、音楽やスポーツは親が物心つかないうちから英才教育を始めないと一流になるのはムリかも知れません。しかし、そういったものは比較的明確な「才能」のあるなしが子供のころからはっきりしているものだと思います。才能のある子供に英才教育を施し、その結果も比較的簡単にわかります。

一方、将来、一流の研究者になる素質、才能、というのが子供の時にわかるのかといわれたら、難しいだろうと思います。そもそも、研究者の才能とは何なのでしょう。思うにそれは、一瞬のユーレイカ的瞬間のために、成功する保障もない作業をあきらめずに長年継続できるぐらい「バカ」でありながら、貧窮生活をものともせず、論理的思考ができて、向上心があり、自分の活動に社会的意義を見いだせるぐらいのそこそこの「頭の良さ」を併せ持っていること、ではないかなという気がします。そして、多分、もっとも大切なのは情熱であろうと思います。情熱は内から涌き出るもので、教育ではなんとかするのは難しいと私は思います。
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知り合いの論文のレビュー

2014-04-18 | Weblog
某有名雑誌から論文のレビューの依頼が、ありました。このレベルの雑誌が、私にレビューを直接依頼してくるワケがないので訝しがっていたら、案の定、依頼を受けたもっと偉い人が、私が投稿を考えているプロジェクトと内容的に近いものだったので、雑誌社に私に回すように言ったということでした。恐る恐る原稿を見てみましたが、フォーカスが違うのでオーバーラップはなさそうでホッとしました。某一流機関でラボを構えている中堅気鋭の人で、個人的な面識はありませんが、一、二度メールをやりとりしたことのある人です。私よりは頭も要領もよく、カネ(研究費)ももっていて、私より遥かに色男です。ポスドク時代に一流研究室から有名ジャーナルに数本出して、最後はCellで花火を打ち上げて、その後、一流機関に移った人ですが、我が身と比べるとアホらしくなるので、彼のような人は私とは違う世界に住んでいる種の違う生き物だと思うようにしています。
この論文は新たに6つの遺伝子変異マウスを作って、対象としている遺伝子群の発生とガン発生について研究したという内容で、多大なカネと労力と時間がかかっています。私のような零細ではとってもムリな研究です。確かにこういう研究でないと得られない貴重な知見が示されていますが、しかしその後の発展性があまり見えません。壮大な一話完結の映画のようです。そういう研究は、私は物理的にムリなので、寅さんシリーズみたいな研究を目指していますが、なかなか思う通りにはいかないのが世の中です。別の喩えで言うと、サリンジャーの短編小説のようなのが理想です。一つ一つは小粒でもピリリとしていて、複数の短編が大きな物語の一部を構成するような作品が作れたらいいなと思っております。

それとは別に、個人的に知っている人の研究室からのリバイスの論文レビューの依頼がありました。最初の原稿に余り感心しなかったので、ちょっと辛口の批評をしたのです。この人は私の分野では10年前のヒット以来、大物の一人で、私も個人的にいろいろ助けてもらったりしているので、義理があるのです。しかし、論文審査と義理人情は別問題です。このレベルの雑誌にコンスタントに論文が出ればいいなあ、と私も普段から思っている雑誌で、その論文は雑誌のレベルには届いていないと感じました。確かに多くのデータを取って、労力のかかった論文ですが、重要なのは、努力とデータの量ではなく、論文の結論の質でしょう。小役を積み重ねてはいますが、数え役満かといわれたら「届かない」と判断せざるを得ませんでした。それできっとあと二人のレビューアも辛口の採点をするだろうと思ったので、正直に書いたのですが、後の二人のレビューアーは意外なことに比較的好意的で、私、一人が悪者みたいになってしまいました。

リバイスの異常に熱のこもったレスポンスを読んでいると、まるで、目の前でこの人がしゃべっているような気になって、なんだかイヤな気がしてきました。実は、この論文のネタは、しばらく前に出版された別の知り合いの人の論文と内容が被っていて、私はその論文のレビューもしたのです。その原稿も、どう見ても出版を焦っているとしか思えない原稿だったので、知り合いのよしみとは言え、やはりちょっと辛口に批評をせざるを得ませんでした。リバイス後、アクセプト推薦をしたすぐ後ぐらいに、同じマウスが別のグループからScienceに出て(しかもそのScience論文の出来も良くなかった)、彼が焦っていた理由がわかり、悪いことしたな、と後悔した次第です。出版された後、素知らぬ顔で「論文読みましたよ、いい仕事ですねー」とゴマをすっておきました。誰かに「良い仕事ですねー」言われたら、その人はレビューであなたをいじめたクソヤローかも知れません。ご注意ください。
いずれにしても、知り合いの論文のレビューは、もうやりたくない気分です。(でも狭い世界ですからね、、、)
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ピリオド、チョン

2014-04-15 | Weblog
学会演題抄録の〆切で、字数制限のある抄録の手直しをしておりました。そこで、ショックな出来事がありました。抄録はスペースを含めて英文2500字という規定で、一つの演題が字数をそこそこオーバーしていたのです。別の人の書いたものの体裁を整えていたのですが、ピリオドの後にスペースが一個なのに気がつきました。「ピリオドのあとのスペースは二つ」と言ったら、彼女は、ピリオドの後のスペースはいつも一つで書いている、と言い出したのです。不思議に思って調べてみたら、驚いたことに、ピリオドの後のスペースは実は一つが正しいらしいということが分かり、私は存在を否定されるぐらいのショックを受けました。私は、英文を書き始めて以来ずっと、すべての論文、抄録、メール、ピリオドの後には必ず二つのスペースを入れてきたのです。ゲラの稿正でも、「ピリオドの後のスペースを減らして下さい」と言われたことも一度もないので、ピリオドの後にスペースが二つというのは、アプリオリな真理であると信じていました。

ところが、ピリオドの後にスペースを二つ置く習慣というのは、どうも手動タイプライターの時代の実用的習慣の名残りであるようで、電動タイプ、コンピューターの時代のタイピングには、むしろマッチしないのだそうです。ご存知でしたか?
つまり、手動タイプライターの場合は、フォントの形に無関係に一つの字が取るスペースは一定であり(Courierというフォントがそれです)、幅の狭い字、例えば「i」とか「l」も、幅のある字、例えば、「m」とか「w」も同じスペースが割当てられていました。なので、幅の狭い字が続いたりすると妙に、スカスカした感じになります。それで、そもそもスカスカしてスペースが多いので、区切りを分かりやすくして読みやすくするために、ピリオドの後にスペースを二つ置き出したというのが、スペース二つの歴史なのだそうです。言われてみると、確かにCourierで打たれた文は読みにく、何でかなと感じていましたが、そのスカスカのせいだったようです。

それで、私はどこで、ピリオドの後にスペースが二つという打ち方を習ったのだろう、と思い出そうとしてみました。インターネットがない時代に覚えているので、本とかマニュアルに違いありません。ふと、思い出したのが、昔、ウチにあったブラザーの手動タイプライターでした。そこに薄っぺらいマニュアルがついていたような気がします。キーボードの指使いなどはそれで覚えたような気がします。ひょっとしたら、それにスペース二つルールが書いてあったのかも知れません。だとすると、手動タイプライターに特有の打ち方を、私はずっとユニバーサルな法則と勘違いして英文を打ってきたということになります。

手動タイプライターを使ったことのない若い世代の人が、ピリオドの後はスペースが一個という「本来の」ルールを自然と身につけているのは、思えばあたり前のことなのでしょう。なにしろ、彼女らは物心ついた時にはインターネットにつながったパソコンがあるのは当然という環境で育っているのです。

ちょっと話はずれますが、論文もオンライン投稿の時代になっているのですから、それにあったスタイルを取り入れて行くべきだと思います。個人的には投稿原稿をダブルスペースにするのを止めてもらいたい、と思います。これこそ、手動タイプライターで紙に印刷して投稿していた時代の名残ではないでしょうか。シングルスペースだとさすがに読みにくいので、1.5スペースが適当だと思います。フォントのサイズも12ではなく11にして欲しいです。投稿された論文は大抵Pdfに変換されるわけですが、私は、大抵一旦、紙に印刷しています。ダブルスペースだと、論文によっては50ページ以上になります。それだけの紙を使って印刷した原稿の出来が悪いと、(細かい話ですが)紙代を損した気持ちになって、ますます評価が悪くなります。だいたい長い論文にロクなものはありません。とくにイントロやディスカッションが長いのは、大抵、出来が悪いです。出来が悪いので前置きや言い訳が長くなるのです。それはともかく、フォントを11にして1.5スペースにすれば、世界規模でみれば、かなりの紙の節約になると思うのですが、どうでしょう。それから、最近、紙に印刷しないで論文や原稿をタブレットなど読むことを試していますが、これは紙で読むよりも表示スペースが少なくなり、一ページ幅に書かれた文章は、それなりの大きさの字で読もうとすると、頻繁にスクロールとズームを併用して読まざるを得ません。これが、一ページを二段や三段に区切ってあると、一段分の幅だとスクロールなしで読めるのでかなりラクです。紙に印刷しないでタブレット端末で読むことを考えると、投稿原稿を二段に区切って、最終出版形態に近い状態で、FIgureも原稿内にembedして形態で投稿してもらえると、大変ラクだと思います。本文とFigureとFigure legendを行ったり来たりしながら読むのは、紙に印刷した状態でも苦痛です。一部のジャーナルは、最初の投稿はFigureとlegendを一体化したものを要求していますが、これは読む方からすると助かります。ジャーナル側も古い紙の時代の習慣で時代に沿っていないものは変えて行く努力をしてもらいたいと思います。

ピリオド後のスペースに関しては、どうもピリオドの後、チョンチョンといつも二回、スペースバーを押していた私の生活のリズムを変えないといけないのは間違いないようです。「ピリオド、チョンチョン」というリズムのある行為は、呼吸をするのと同じぐらい無意識にやっている行動で、吸った息を吐くのを忘れることがないように、ピリオドのあとのスペースバーは自然と二度押してしまうのです。こうやって何十年もやってきたのに、これからは、「ピリオド、チョンチョン」のかわりに「ピリオド、チョン」にして、「チョン」を一回ガマンしろ、ということなのです。
できるでしょうか?ガマンした「チョン」への欲求不満が無意識の深層に溜まっていって、後々、精神の不調となって現れるということはないでしょうか?ちょっと心配です。
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Let's move on

2014-04-11 | Weblog
すでに泥沼愛憎劇と化したSTAP騒動、日本のメディアに良識を求める方が無理なのはわかっていますが、もういい加減、悪ノリするのは止めたらどないや、と言いたくなりますね。(私もゴシップ好きですから、人の事は言えませんが)消費税増税で国内需要は冷え込み、中小零細企業と一般国民の生活を直撃する中、ゴシップ記事は政権批判から注意をそらす格好の目くらましと、体制メディアが過剰に報道するのでしょう。現に体制メディアではない (?) 東京新聞は三文で淡々と記者会見の様子を伝えて終わり、実際、中身のない会見でした。一方、朝日とサンケイは天声人語と産経抄のコラムで批判、読売に至っては社説にまで取り上げて、水に落ちた犬を叩くかのごとくのはしゃぎよう、何とかならんのでしょうかね。日本で一番最初に自己批判すべきなのは体制メディアでしょう。

本人は、意地になっての不服申し立てで、論文撤回を拒否し「STAPは本当です」というのも(いまさら「ウソでした」というワケにもいかず)仕方がないのでしょう。若山さんが「論文にはミス(捏造でなければ)が多過ぎるので、撤回すべきであり、STAPが本当かどうかは関係ない」とコメントしたそうですが、まさにその通りです。最初に若山さんが撤回を提案したのは助け船、そこで、アッサリ論文を引っ込めれば、早い目に忘れてもらえた可能性もあったのに、不服申し立てで記者会見したというのでは、メディアにとっては格好のゴシップネタ、もうこれは自殺行為に近いです。この人、多分、論文出版のころは、本当にSTAPを信じていたのでしょう。思ったようなデータが出ないならデータを作ってしまえばよい、なぜならSTAPは本当なのだから、とでも思っていたのだろうと思います。世界中の研究者からバッシングを受けて、さすがにSTAPを信じていた根拠であるOct4の発現がリプログラミングとは関係なさそうだとなって、その妄信も揺らぎはじめたが、研究における「悪意」の解釈を取り違えた弁護士を雇ってしまい、徹底抗戦の体制を取ってしまった以上、もはや引くに引けず、挙げ句に玉砕覚悟の崖っぷちに立たされた、そんな感じでした。こう解釈すれば、確かに研究不正としては悪質ではありましたが、それは研究者としての未熟さゆえの暴走であり、本来、実験データを批判的に検討することによってそういった暴走を防ぐべきはずの指導者が、今回の場合、三者そろって逆に暴走を煽ってしまったところに悲劇の原因があったのだろうと思います。下のKnoepfler氏の「指導者はどこだ」という言葉が、この事件の本質の一端を突いていると思います。

純粋にステムセルに興味をもっている研究者の中では、STAPはすでにもう関心のない話になりつつあります。ただし、このメディアの悪ノリは、それなりに悪影響があるでしょう。この会見に際して、多分、大多数の研究者の気持ちを代弁していると思われるPaul Knoepfler氏のコメントから2 -3抜き書きします。

会見を見るのは痛々しかった。
しかし、科学者の立場からすると、このSTAP騒動はステムセル分野の研究に大変な悪影響があったと言わざるを得ない。
そして、この記者会見は、ステムセル研究にも、オボカタを含む関係者にも、何一ついい事をもたらさなかったと確信する。

正直、この会見のあと、STAPのことは信じる気持ちは以前にも増して少なくなった。会見を見ていて、何度も思った事は、「一体、指導者たちはどこにいるのだ?」ということだ。


悲劇だと思います。
とにかく、もうこの騒ぎは十分です。普通の研究者なら現時点ではSTAPに興味は失っているでしょう。STAPが第三者によって再現できるまでは、これ以上サイエンスとして興味深いことは何もないと思います。今回の事件、数年前に「リンのかわりにヒ素をDNAに取り込む細菌を発見した」というサイエンスの論文を出して、その直後から世界中の研究者にボコボコにされた研究者の人の末路を思い出させます。もう、そっとしておいてあげたらどうでしょう。忘れて、次、行きましょう。

ところで、福島第一の作業員不足が深刻なようです。試算によるとこれから廃炉までの30年間にのべ1800万人の作業員が必要なようで、これはまさに戦争です。これだけの人数を危険を伴う作業に駆り出すためには、強制的にやるしかなくなるのではないでしょうか。着々とアベ政権がやってきたのは、この国内の「核との戦争」に使う兵士を否応なく徴兵するための下地づくりであったのかも知れません。その戦争もいわば負け戦、廃炉という敗戦処理のために多大な国民の生命を強制的に危険に晒すことになるのかも知れません。なんとも虚しくも悲しいことです。
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情熱の研究者

2014-04-08 | Weblog
大学生、大学院生、ポスドクの人が各地から集まって行う小さな一日シンポジウムが週末にあり、審査員を頼まれました。当日、会場に行って、割り当てられた十ほどのポスター演題を見て、発表者と話をして、他の審査員の人と演題を審査し、優秀な発表に賞金を出すのです。大手製薬会社が数社スポンサーをしています。演題は約250、審査員は50名ほど。このシンポジウムは教育的目的が強く、審査員は割当のポスター演者と実際に質問をしたり議論をしたりしないといけないので、これだけの数の審査員が必要なのです。割当ての演題のうち、私の専門にかろじて近いのは一つだけで、あとはハエ遺伝学、ニューロサイエンス、細胞生物学、蛋白工学、癌生物学、代謝、発生生物学、いろいろです。私が直接、話をしないといけない五人をまず回ることにしましたが、ほとんどそれだけで与えられた二時間が終わってしまいました。専門外の話はいろいろ興味深く、アレコレ話をしている間に最初の二人で既に一時間が経ってしまったことに気づいたときには、すっかり、あせってしまいました。

全く専門外の研究を評価するのは、昔はストレスでしたが、今はすっかり慣れました。結局は、研究者が自分の専門分野の研究を専門外の人にもわかるように説明したり発表したりするのは、その研究者自身の責任なのです。私が分からないのは私が悪いのではなく、分かるように説明できない発表者が悪いのです。

前もって渡された要旨を読むと、良く書けているのは一割程度でだったので、研究レベルの内容もそれほど高くないのだろうと勝手に想像して軽い気持ちで行きましたが、結構、要旨からの予想は外れるものです。要旨がよく書けていて期待していた演題が、あれっという感じで肩すかしを喰ったり、要旨ではパッとしなかったのに実際に話をしてみると、大変よく考えられたよい研究であったりしました。何より、発表者は経験の浅い人々のはずなのに、その辺のシニアポスドクよりもはるかに効果的に研究成果を伝えれる人ばかりだったのは驚きでした。思うに、わざわざこのようなシンポジウムに演題を出すぐらいだからおそらくやる気のある優秀な人が自己選択されてきてはいるのでしょう。私が彼らの年のころは、彼らの足下にも及ばなかっただろう、と感じました。

研究資金が総じて乏しくなってきた最近はとくに、研究コニュニケーションの重要さが強調されています。折角の研究成果を、関心のある人に効果的に伝えることは大切です。一歩進んで、研究成果の価値を広く理解してもらう「マーケティング」の重要さは、グラントを書いたことのある人なら否応なく実感しているだろうと思います。

私も、昔は、論文や研究費申請を落とされたりしたときに、レビューアの的外れなコメントに、ムっとしたりしたものでした。当時は、レビューアに分かるように書かなかった自分が悪いとはなかなか思えず、レビューアへの不満を募らせたものでした。実のところは、研究成果の意義や意味を社会の他の人に理解してもらうことは、重要な研究活動の一部であり、それは研究者の義務でもあるのです。

人に自分の研究を理解してもらうことの重要さに対する理解が不十分であったために、非常に優秀な人が研究現場を去らざるを得なくなった例を私は身近に知っています。彼の研究の内容は深く注意深く細部まで詰めてあり、いつも感心したものですが、彼はどうもその意義を他の人の立場に立った上で理解してもらおうという姿勢に欠けていたのです。彼がNatureの論文を出した時はそこから発展する複数の研究ネタがあり、前途は明るく見えました。残念ながら、彼はその研究を、研究成果を受け取る側の立場から見直して、研究価値をマーケティングするということを重要だと思わなかったようで、逆にむしろ自分だけの孤立した世界で研究を極める方向に突き進んで行ってしまったように見えました。

結局は、研究も人間がする社会活動の一つだということです。即ち、何か他人に役に立つことを自分が出来てはじめて、他人も自分に何かしてくれる、という相互作用の上に成り立った活動なのです。研究をさせてもらうかわりに、自分が社会や他の人に何ができるのか、ということを常に意識していれば、研究者として必要なコミュニケーションは自然ととれるのではないかな、と思います。(ちょっとこれは、説教臭いですね)

今回のシンポジウムは、若いやる気のある人と話ができて大変、楽しかったです。自分のやっている研究に情熱をもって打ち込んでいて、その情熱が発表にも溢れ出ているようなエネルギーいっぱいの若者、輝いていました。私もあと、何年やれるかわかりませんけど、彼らに負けない情熱をもってやって行きたいという気持ちになりました。
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God don't like ugly

2014-04-04 | Weblog
エープリル フールに受け取った実験用イメージスキャナーを作っている会社からの広告メールが愉快だったので、紹介します。

WARNING: URGENT MESSAGE
APRIL 1, 2014
Global pixel manufacturers report that a pixel shortage has reached crisis proportions
Sensel Raster, of the International Pixel Coalition (IPC), blames an increase in demand from biotech imaging applications. "These fancy scientists think pixels grow on trees," laments Raster.
Learn more about this crisis.

世界のピクセル製造会社はピクセル不足が危機的状況に達したと報告している。国際ピクセル協会(IPC)のセンセル ラスター氏は、バイオテクノロジーイメージング応用への需要の増加に責任があると言う。「あのファンシーな科学者どもはピクセルは木にでもなるとでも思っているのだろう」

(因みに、Sensel - Blend of sensor and cell or sensor and element, by analogy to pixel; Raster graphics - graphical techniques using arrays of pixel valuesということです)

エープリル フールと言えば、もう一つ。香港大学のKen Leeの研究室で、細胞に圧をかけるストレスでOct4とNanogの発現が増加したというデータを4/1にWebで紹介しているのを見ました。これを受けて、中国メディアはもとより、LAタイムス、Nature blogなどのメディアが、「STAPに希望」という記事を配信。彼らは最初に理研の方法では成功しないことを確認し(そのデータを)Natureに論文を投稿したがリジェクトされ、その後、STAP作成方法をハーバードのプロトコールに変えたということらしいです。「ステムセル研究者、研究不正で有罪」というNatureの記事によると、Kenneth Leeは、理研の実験方法にできるだけ忠実に、4回やってみたが、STAP細胞は再現できなかったそうです。「理研が一年かけてSTAP細胞を作るべきか」との問いに、「それが理にかなっている、しかし、彼女の方法ではダメだ」と答えた)という話。

それで圧をかけるやり方にしたら、Oct4とNanogが上がったといデータを示したわけですが、さらにその後、ウェッブ上でKeio大のSrav Gopa氏が次のような指摘。

Dr. Lee - あなたの図では、死にかけの細胞だけがOct4を弱く発現しているだけのようです。、、

これに対して、Ken Lee氏は下のようなメッセージを残して立ち去りました。多分、Oct4とNanog上昇のデータがSTAPを再現したものではないと確信したのでしょう。

Kenneth Ka-Ho Lee · The Chinese University of Hong Kong
個人的には、STAP細胞は存在するとは思っていないし、これ以上の実験は労力とカネのムダだろう。
私のデータの場合、Oct4とNanogが10倍増えた位では(リプログラミングには)十分ではない。iPSの場合のように少なくとも百倍に増える必要がある。Sox2に至っては二倍しか増えなかった。私はこれ以上このページでブログはしない。自分の興味のある研究に戻りたい)

エープリルフールに行われた理研のSTAP論文調査報告会見も、ちょっと酷いなあ、と思いました。
日本語でどういうべきか、英語だと、Ugly という言葉がピッタリです。理研の発表と、それに対する筆頭著者の人の反応のことです。
理研は、この筆頭著者の人に全てを被せて、シッポを切り、組織とシニア研究者を守ろうとしているのが見え見えでした。筆頭著者の人は(もとは身から出た錆ながら)ピンクの壁紙のフェイク実験室に割烹着を着せられて、理研の利権、政治利用に使われた自分も被害者だ、しくじった以上は一蓮托生だろう、どうして自分だけが全ての責任を被せられて抹殺されないといけないのか、と怒り心頭の様子。本人は、捏造ではなく、悪意のないミスだと言っているそうです。それでは、今回の理研の調査項目に含まれていない、TCR再構成のデータの矛盾、若山さんに渡した細胞がすり替わっていたこと、ゲルバンドのコピべ、さらに過去の複数の論文での不正の証拠と疑惑の数々は、どう説明するのでしょう?全部、悪意のないミスで押し通すのでしょうか?
TBS Newsによると、STAP細胞の存在を検証する再現実験について「できると信じたい」と述べているそうです。微妙な表現ですね。STAP細胞は我がごとながら、確信しているわけではないような感じです。

もう一人のちょっと困った人、ハーバードの共著者の人は「STAP細胞の存在自体を否定する決定的な証拠がない以上、論文撤回に応じるべきではない」という科学者とは思えない、ぶっとんだ発言をしたそうです。「存在を否定する証拠がなければOK」なら、何でもアリです。だいたい、どうやって、誰も再現できず現物がない状態で「ない」ものの存在を否定するのか教えてもらいたいです。「論文は存在する証拠がしっかりしていないとダメ」なのであり、その証拠が捏造であった証拠が上がってきているのですから、不正論文は撤回されないといけません。撤回して、それでも存在する証拠が示せるのであれば、もう一度、マトモな証拠を示して投稿しなおせばよいだけのことです。またこの人は「香港の大学が、我々の示した手順で多能性細胞の再現に期待が持てる結果を得たとの報告を聞き、喜んでいる」「時がたてば、科学が答えを証明してくれる」と改めて自信を示したそうですが、その香港チームが上のように、STAPが存在するとは信じていない、これ以上は労力と時間のムダだ、と言って立ち去ったのですから、すくなくとも、STAP細胞が「存在することを証明できない」証拠は、今の所、もう十分と言えるでしょう。

それにしても、理研のやりかたは稚拙過ぎます。こういう発表をするのなら、しっかりと筆頭者の人に根回しして、落としどころを決めてからやらないと、本人不在の欠席裁判、しかも、ほとんど一人に罪をなすり付けて、もっと責任の大きいシニアの人は実質お咎めなし。これでは泥沼にならない方がおかしいです。痴話ゲンカのレベルになってきました。弁護士が入っていますから、長引くかも知れません。こういうと弁護士の人に悪いですけど、こういうケースの場合、裁判になって相手方から大金がとれるというワケではないでしょうから、弁護士の収入源は基本的にクライアントの相談/弁護料ということでしょう。揉め事は長引けば長引くほど、弁護士の収入が増えます。理研は組織を守るために一人を生け贄にすることに決めたのですからこれ以上引くことはないでしょう。最悪、筆頭著者の人が何を訴えようとも、ノラリクラリとかわしている間に、著者側は弁護士を雇い続ける財力が尽きて揉め事は自然消滅するだろうとでも踏んでいるのでしょうね。理研にとっては消してしまいたい黒い過去、そういうことなのでしょう。

しかし、不正論文をネタに使って、資金調達をしたセルシード関係の共著者の人々の責任はどうなるのでしょうか。こちらもUglyになりそうです。この一件、理研にしてもセルシードにしても「子供のずるさ」を利用しようとした「大人の汚さ」を感じて、イヤーな感じです。

因みに、アメリカの黒人社会では、己の利益のために仲間を利用するだけして見返りを与えない行為を非難する言葉があります。

God don't like ugly   

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研究費申請と面接試験

2014-04-01 | Weblog
この一ヶ月ぐらい、次の研究費申請書の第一ページ目の推敲を延々と繰り返しています。もう何十回書き直したかわかりませんが、まだまだ最終稿にはほど遠いです。この最初の一ページは量的には申請書の研究計画部分の1割にも満たないのですが、重要さでは申請書の九割以上を占めます。つまり、一ページ目がダメだったら、その後をいくら頑張っても、まず挽回のしようがありません。映画で言えば予告編です。予告編で興味をつかみ損ねたら、忙しいお客さん(審査員)はその映画をわざわざ見に映画館にはやってきません。

この1ページでやるべきことは、私の研究分野におけるユニークでかつ重要な問題を指摘し、その解決が如何に重要かを審査員に理解してもらい、そして問題の具体的な解決方法を提案した上で、解決するのに最適の人間が私であることを押し付けがましくないように主張することです。

大変、難しいです。しかも字数制限がありますから、限られた時間(スペース)でのセールストークをしないといけません。学生時代に訪問販売のアルバイトを試しに一日やったことがありますが、そのときにセールスの難しさを実感しました。何より商品が良くないとダメです。しかし、「良いものなら売れるか」と言われるとそういうものではありません。商品はあくまでお客さんのニーズに合うことが第一で、そのニーズに加えて高品質であることが大切です。商品は良くても売れないものはいっぱいあります。かつてあまりに優秀で故障知らずで長持ちする冷蔵庫を作ってしまったために、誰も買い替えず、結局、商品が売れなくなって倒産した冷蔵庫製造会社の話を聞いたことがあります。この会社の場合、顧客の冷蔵庫を買い替えるというニーズを開拓できなかったということではないでしょうか。例えば、従来の冷蔵庫の問題なりを指摘し、それを解決するような新たな商品を提供できていれば、この会社もあるいは残っていたかも知れません。研究も結局そういうもので、よい研究、しっかりした研究をするのは当然ですけど、研究費を頂くためには、加えて資金を提供する人々や社会のニーズを満たしている必要があります。

また、当然ならが、研究費申請の第一の目的は資金を得ることであり、その研究計画を実行することはまた別の問題です。資金を得るために通りそうな研究計画、研究費申請をして、その後にその資金を最も活用できるような研究に使うのです。最初はこの考え方を聞いた時は、それでは詐欺ではないのかと思いましたが、結局の所、どんな優秀な人間が立てた研究計画でもそれが期待通りに進むことはまずありませんし、長期的な研究の利益を考えると、資金のもとになっている研究計画に拘泥しない方が結果的にはプラスになることが多いのです。そういう理由で、研究費申請に際して、申請者も審査員も本音と建前を使い分けているのだと思います。

これは言ってみれば、入社試験の面接に似たところがあります。入社試験の面接で、面接官が質問するのは、候補者が会社の役に立つ人材かどうかを判断するために質問しています。例えば、「どうしてわが社で働きたいのですか」という質問は、質問に対する模範解答を知っているか、答え方、言葉の選び方などの常識を備えているか、そういう点を判断するための質問であり、質問者の会社や仕事に対する意見を知りたい訳ではないのです。面接試験はだから応募者(自分自身)を会社のニーズに応えるべき人材として売り込むセールス活動ですね。そこそこ優秀であること(商品のクオリティー)は最低条件として必要ですが、加えて会社のニーズを満たすかどうかが重要な採用のポイントになるでしょう。

研究申請書も同じだと思います。申請者が本当は何の研究をしたいのかは二の次です。審査員は、申請者がその分野でのニーズを把握しているか、それに応えるためのよいアイデアを出す能力があるか、意義のある研究を遂行するだけの能力があるか、を判断しています。端的に言えば、質問者に資金を提供することが研究界や社会にとってプラスになるかどうかを知りたいのです。それを満たしていれば(最終的に行われる研究の内容はどうあれ)お金を有意義に使えるだろうと推測して、OKを出すのです。

そういう理由があるので、入社試験の面接での質問の回答と同じように、研究申請書にも書き方というものがあります。申請書においては、それらのポイントをできるだけ多くクリアしていく必要があります。私は、自信を持って書いた研究計画が全く評価されずに落とされた経験、それから人の研究計画を審査する経験を通じて、研究費申請の書き方を多少、理解できるようになりました。以来、出す前に審査員がどういう反応をするか、大体わかるようになり、少なくともボロクソに言われて落とされる経験は減りました。私の場合、痛い目に合わないと重要な事は理解できないのですね。取り返しがつかなくなるまでに痛い目にあっておいてよかったです。

というわけで、研究申請書を書くことは研究そのものとは独立したセールス活動であり、何らかの楽しみをその活動そのものに見つけられないとやってられません。書く事で何か新しいアイデアを得たり、考え方がより鮮明になっていったりすることはしばしばあり、それらは研究計画書を書く大きなメリットです。加えて、書くことそのものも楽しめないと辛いです。私は、この最初の一ページの限られたスペースで押さえるべきポイントをいくつクリアできるかを自己採点しながら、得点が上がっていくのを楽しみにしながらやっています。
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