百醜千拙草

何とかやっています

大滝さんの逝去

2013-12-31 | Weblog
大滝詠一さんの突然の死去というニュース。解離性大動脈瘤の破裂だそうで、おそらく一瞬のことだったのでしょう。
私はファンというわけではありませんが、80年代の「A long vacation」の大ヒットはよく覚えています。気持ちのいい音楽ですね。静かな夏休みを思い出します。

そのころ、対談かなにかの記事で、大滝さんが自分の曲は「パクリ」なのだ、と言っていたような記憶があって、その対談相手が、どの曲のどの部分が誰からのパクリで、、、などとと当てて、どうだと自慢したら、大滝さんはアルバムには指摘した以上の30箇所ぐらいのパクリがあるが、とてもすべてはわかるまい、と言った、というようなのを思い出しました。(曖昧な記憶ですが)
当時、音楽はオリジナルであるべきだ、と思っていて、自分の曲は「パクリ」だと言った大滝さんの言葉に正直びっくりしたものです。しかし、今、研究職をしていると、私の研究の9割り以上はパクリではないか、とも思います。というより、音楽も研究も、ずっと連綿たる先人の努力の成果の積み重ねがあってこそ、今の自分の「オリジナル」なものがあるのだ、ということが理解できるようになったということです。

つまり、30箇所をパクって、それをオリジナルにできるということは、その何百倍もの努力を、先人の仕事に対する研究と解析に積み重ねなければできないことです。当時は、単に耳障りのよいポップスにしか聞こえませんでしたが、今わかるのは、耳障りのよいポップスという作品を作り上げるためには、そこには、おそらく凄い量の基礎的研究があったに違いないということです。もし、私が研究を続けてこなかったら、大滝さんの音楽の凄さも本当はよくわからなかったであろう、と思う今日です。むしろ、自分の音楽は「パクリ」だと言った言葉に、軽蔑さえ抱いたかも知れません。

急逝された今、別にファンであったわけでもないのに、なぜか親しみを禁じ得ません。

今、「カナリア諸島にて」を聞いています。
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年末大掃除小考

2013-12-31 | Weblog
年末です。年末と言えば、大掃除です。
私の実験室のベンチも雑然としています。進行中の実験が複数並んでいて、どれもなかなか区切りがつかないのでモノがふえていきます。しかし、ヘタに掃除をしたり片付けると、しばしば、大変なことがおこるので、一段落するまでガマンしています(実験やっている人ならよくわかると思います)。同様に、机の上も80%の面積が積み上げられた書類の山で占められていて、かろうじてコーヒーカップとコンピューターのキーボードを置くスペースが残っているのみです。いよいよ、片付けて掃除しないと、仕事ができなくなりそうな雰囲気です。

掃除が大切だということは若い時にはよく分かりませんでした。掃除は嫌いでした。しかし、偉い人ほど、掃除の大切さを強調するのですね。私も、掃除がなぜ大切で、掃除する人は幸運と幸福を引き寄せるのか、はっきりと理由がよくわかりません。でも、ある種の因果関係に基づく根拠がありそうです。

掃除に関連しますが、例えば、身だしなみです。バンカラやパンクといった反社会的メッセージを表現するためにわざわざ、汚い格好や奇抜な格好をする例もありますが、総じて身だしなみは良くしておく方が悪いよりもよりも幸運を招きやすいと考えられます。仕立ての良いそこそこ上等の服を着ると、その服を汚さないように、皺をつけないようにと注意するわけですね。そうすると、自然と姿勢がよくなります。服に見合ったように、ヒゲも剃り髪も整えるし歯も磨くというものです。姿勢がよく身だしなみの良い人は好感を与えます。人が近寄ってくる。そうすると、自然と人とのつき合い方もわかってきて、いつも笑顔で穏やかな人になる。そういう人はますます人に好かれて、幸運がやってくる、という好循環をもたらすのだろう、と思います。この好循環のスイッチを入れるのが、身だしなみであり掃除だということではないか、と思います。毎日、キレイにヒゲを剃り、髪の毛を整えるのは面倒臭いです。掃除するのも面倒くさい。だからこそこういうことは習慣付けないといけませんし、身だしなみや掃除することそのものに意味を見いだす必要があります。その面倒くさい日々の義務的な行為は、単に面倒くさい日々の義務的行為だと捉えてしまうと本当に面倒くさい義務的行為となってしまって、長続きしません。

悟りの前、木を切り、水を汲む。
悟りの後、木を切り、水を汲む。


という有名な詩がありますが、結局、木を切ったり水を汲んだりすること(家事)はしないといけないことだからとイヤイヤやるのと、家事をすることそのものに何らかの意義性を見つけて行うのとでは、ちょっと違うということですね。身だしなみを良くしたり、掃除をしたりすることは、最初はイヤイヤでも、とにかくやり続けている内にわかるようになるのでしょう。経を暗ずる門前の小僧があるとき突然、目を開くように、毎日、木を切り水を汲んでいる間に、幸せと幸運はそっと忍び寄ってきて、ふと姿を現したりするのではないでしょうか。

それで思い出しました。ミュージカル、チキチキバンバンの中の「You two」という歌の中の一節に次のようなところがあります。発明家の父親が、二人の子供がいるから人生に生き甲斐があるのだ、と歌います。

Life becomes a chore, unless you're living for someone to tend to be a friend to. I have You Two!


「人生が雑用 (chore)になってしまう」というのは恐ろしい表現です。家事(雑用)は英語ではHousehold chore(s)ですが、しかし家事をしているのも人生の一部ですから、家事が単なるchoreであるなら、人生も(少なくとも部分的に)choreということになってしまいます。

かつて、「内田樹の研究室」に掃除についての秀逸なエントリーがあり、私はその一部を強く覚えております。
お掃除するシシュフォスという文の中で、多くの示唆に富む考察がなされています。「シシュフォスの岩」を絶望的に無意味な仕事に苦しむ人間の喩えだと片付けるのは容易でしょうが、それではこの神話のエッセンスを全く逃してしまうことになります。

私が休みが欲しい主たる理由は「家事をしたい」からである。
私自身の「シシュフォスの運命」にまっすぐ向きあいたいからである。
私の敬愛する兄上は先般会社をリタイアされて、晴れて“ゴールデンパラシューター”として悠々自適の日々を送っておられるが、兄の次の夢は伊豆の山中に別荘を建てることだそうである。
海を望むガラス張り広い部屋にピアノとオーディセットと書棚と寝心地のよいソファを置いて暮らすそうである。
「毎日何するの?」と私が訊いたら、兄は当たり前のことを訊くねえお前は、というように訝しげな表情をしてこう答えた。
「掃除だよ」


この兄の言葉に、人はなぜ生きるのか、という哲学命題の最も端的な解答が示されている、と私は深く感銘したのでした。
増大するエントロピーという自然法則に「掃除」という勝ち目のない戦いを挑む、死ぬとわかっている人生を生きる、それが人間が人間たる所以でしょう。人は自らがシシュフォスであるとの自覚を得たときに人間になるのかも知れません。

「家事をする」ということは「私自身のシシュフォスの運命」にまっすぐ向きあう」ということだと内田さん自身が述べておられます。その解説としてカミュの言葉を引いてあります。

身体がきしむような労役によって岩を山頂に押し上げると、岩は再びもとの場所に転がり落ちる。シシュフォスは今やり終えた仕事を最初からやり直すためにゆっくり山を下りる。
「坂を下っている、このわずかな休息のときのシシュフォスが私を惹きつける。(・・・) 重く、しかし確かな足取りで、終わりを知らない苦役に向かって山を下る男の姿が見える。息継ぎのように、そして彼の不幸と同じように確実に回帰してくるこの時間は覚醒の時間でもある。山頂を離れ、ゆっくりと神々の巣穴に向けて下ってゆくこの一瞬一瞬において、彼は彼の運命に優越している。彼は彼の岩よりも強い。


掃除をするのは、いずれ死ぬ人生を生きる人がその運命を優越するためである、と言い換えても良いかも知れません。

しばらく前には、住民至上主義のエントリーに下のような言葉がありました。

心の掃除なしに社会の掃除はない。自分の家を掃除することは気づきを与える。
「何をすればいいですか?」「どうすればいいですか?」などと聞かれたら、
先ず、自分の内を掃除してください。気持ち良くなるまで徹底的に、一番汚いところを心を込めてやってください」と言ってやれば良い。
 汚れを取ればきたないところがなくなる。この当たり前に気づいていないだけだ。


掃除の一番の効用を忘れるところでした。汚れを取ると汚いところがなくなるのです。それは、家の掃除でも、心の掃除でも同じということです。
心を美しくしたければ、掃除をしよう、ということですね。

良いお年を。
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今日のニュース

2013-12-27 | Weblog
国家の法律遵守の義務と人間としての良心との葛藤に悩んだスノーデンからのメッセージ。
私は、「悪法も法」だとは思いますが、良心とのconflictが起きたのであれば、人間としての良心の方を優先すべきだと思います。法は人間が作ったものに過ぎませんが、良心は神が人間に与えたものです。どちらが重要かは自明だと思います。

【ロンドン=伊東和貴】米英による極秘の情報収集活動を暴露した米中央情報局(CIA)のスノーデン元職員が、英テレビ局チャンネル4のインタビューに応じ、国家による監視活動の中止を訴えた。「クリスマスのメッセージ」として25日に放映された。
 同局がウェブサイトで公表した映像によると、スノーデン氏は、現代の監視社会は、英作家ジョージ・オーウェルが近未来小説「1984年」で描いた内容とは「比較にならないほど(高度だ)」と指摘。「現代に生まれた子どもは、プライバシーの意味を全く分からずに育ってしまうだろう」と警鐘を鳴らした。
 その上で、「私たちが力を合わせれば、国家に大量監視をやめさせることができる。国民の考えていることを本当に知りたければ、スパイ行為ではなく、国民に尋ねればいいということを政府に思い起こさせることができる」と述べた。


CIA内部の人間が「1984」の世界よりも高度な管理社会だ、と言うのですから、恐ろしいです。GoogleやiPhoneは個人情報を集めています。国はインターネット利用者で「危険思想」をもつ人間はすっかり把握しています。影響力のあるブログでの発言は危険だとわかっているので、反体制ブログは「秘密保護法」の参院通過をもって、閉鎖して地下に潜り出したのです。皮肉な見方をすれば、ブログやSNSなどは反体制危険分子をあぶり出すために与えたエサだと言えなくもないです。悲しいのは、大勢の国民が、すでにガチガチに管理されているにもかかわらず、自由があると思い込んでいることでしょう。牧場の牛の耳に番号札がついているように、国民総背番号制にしてその行動を逐一監視され、一頭一頭(一人一人)管理されて、牧場に都合の悪いものは取り除かれ、都合の良いものはやがてわずかな見返りと引き換えに搾り取られるのです。われわれのほとんどはすでに「太った(あるいは悲しいかな、やせた)ブタ」にされていて、そのうち殺されて喰われてしまうのです(と言うと言い過ぎでしょうか?)いずれにせよ、実際の世の中は、民主主義とはほど遠い世界なので、われわれの自由など鳥かごの中にしかないと言っても過言ではないでしょう。試しに「明日から一ヶ月休んで自分探しの旅に出ます」とでも会社に言って実行してみれば、われわれに自由など本当にないことがわかるのではないでしょうか。速攻でクビとなって、自分を探し出したころには、社会に自分の居所はなくなり、生活の糧を稼ぐ手段を失っているでしょう。カネがなければ生きて行けない社会ですから、みんなカネに縛られているのです。一方で、そのカネをタダ同然の紙に印刷している人間がいるのです。

安倍首相:靖国神社に参拝 中韓が猛烈に反発、米「失望」
首相は午前11時半ごろ、首相官邸から公用車で靖国神社に向かった。玉串料3万円を私費で支払い、玄関ホールにあたる到着殿で「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳。本殿前には首相名で花も添えられた。現職の首相による靖国神社参拝は2006年8月15日の当時の小泉純一郎首相以来、7年4カ月ぶりとなる。

玉串料を私費で払ったのなら、肩書きも一国民ぐらいにすればよいのに、その辺がボンボンなのでしょうな。
岩下俊三おじさん、曰く、

我が国の宰相が靖国神社に参拝したことは、白痴の行動を分析しろというのに等しいから僕にはなんの意見もない。分かりません、、、というだけである。否定とか肯定とか評価するのは常人の場合であって、正常な知識と人格が失われた人について語れるのは精神科医であってジャーナリズムの仕事ではない。

成る程。

靖国はアジア緊張の一つの要にあります。極端に言えば、核ミサイルのボタンのようなものです。扱い方を知らない人間が迂闊に触っては取り返しのつかないことになります。いくら計算能力に問題があるアベ氏でもそれぐらいのことはわかっているはずで、自分自身の意志でやったとは思えません。もしも、自分の意志でやったのだとしたら、それこそ、われわれは幼稚園児が操縦する飛行機に載せられているようなものです。しかし、誰が本当に操縦しているのにしても、嵐の中に向けて飛行していることには違いがありません。悲しい事に、その幼稚園児を国の頭に据えたのは日本国民だと外国は考えています。日本は建前上、民主主義国家ですから。

東大の論文不正問題、51論文に不正で、東大は研究費返還も考慮との話。

 分子生物学の権威として知られる東京大学の元教授らが論文をねつ造していた問題で、不正のあった論文が51本に上ることが東大の調査で分かりました。


ちょっと身近すぎて話題にしにくいですが、51論文に不正、といっても、その全てがでっちあげではなく、おそらく8割のデータは信頼できるものだろうと思います。昨今の論文出版の競争の激化で、超一流ジャーナルは「きれいなストーリー」を強く要求するようになりました。そのストーリーを完結するために、ちょっと脚色を加えたというのが、殆どの論文不正の本質でしょう。なかには、東京地検特捜部のように、なんのデータのないのに、ストーリーをまず作って、ターゲットを落とすために証拠を捏造するような、同情の余地がゼロの場合もありますが、この東大のケースはそういうものではないと思います。だからこそ、つい「出来ごころ」で51本もの論文に不正が及んだのではないでしょうか。私は、もちろん、不正は容認するものではないですが、論文出版で皆苦しんでいますから、不正をやった人の気持ちは分からないではありません。ただ、8割のデータはおそらく問題ないのに、一部の不正のために、論文のデータ全体の信用を失ってしまって撤回されてしまうことが残念だと思うだけです。
 ニュースではこの東大教授が大変な悪者のようにかかれていますが、不正に関しては直接、手を下したり、指示したりということではなさそうです。内部に多少詳しい人によると、この教授はコンピューター音痴で、不正論文での「画像加工」をするような単純なコンピューター技術でさえなかったという話ですから。おそらく、無言のプレッシャーを「忖度」した院生が軽い気持ちでやってしまったのだろうと思います。ホテルのレストランの食材偽装のような感覚だったのでしょうね。
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クリスマスの歌、 Google Trend

2013-12-24 | Weblog
クリスマスが近づいてきました。
キリスト教のクリスマスを祝い、神式で神社で初詣に行き、仏式で死んで行く、無節操な日本人、その軽々しさは悪くないです。どうせなら、ハヌカもクワンザも一緒にやって、ラマダンで断食しつつ、七面鳥の丸焼きを食べながら酔っぱらうというのはどうでしょう。商業化したクリスマスは、宗教的行事ではなく、ただの年末の宴会やデートのための口実に過ぎない、と本音では思いながら、とりあえず、教会に行って賛美歌やキャロルも聞いてみるという日本人の軽さは(政府の役人と政治家は除く)美徳だと私は思っております。そういう私も、アメリカや資本主義の悪口を言いながら、アメリカンポップスを聞き、引退資金の積み立てに投資信託を使っていますし、歌舞伎十八番の長唄の後にオベラのアリアをかけていますし、コーヒー飲みながら煎餅を食べ、暖炉の前にこたつを置いています。

ラジオから「Merry Christmas, Darling」が流れてきて、拒食症でカレン カーペンターが亡くなって、もう何年経つのかな、とふと思いました(ちょうど20年でした)。子供のときに買ったカーペンターズの「スーパースター」のドーナッツ版のB面がこの曲でした。子供の時に素直に信じていた豊かで自由な国のアメリカ、陽気で、スケールが大きく、日本海に雪が舞うこともなく、寒さをこらえてセーターを編んだりする必要もない、一年中晴天のカリフォルニア。そんなアメリカの豊かで明るい幸せな人々の生活の中で、でもクリスマスに恋人がいなくて少し寂しい、、、。毎日、生きるためにあくせくしている我が身からすれば関係ない世界ですが、夢多き子供の時にはこのカーペンターズの曲を聞いて、多少は切ない憧れを覚えたものでした。カレン カーペンターのアルトの染み通るような声はやはりユニークです。日本公演のときに日本語で「Sing」を「シング、うたおー、しあわーせがくるように、、、」と歌っていたのを見た時も素直に好感を持ちました。


ついでに、単に私の好きなクラッシックなクリスマスの歌。「O Holy Night」。
リベラの美しいボーイズ ソプラノで。長調から短調にそしてまた長調へと転調していく和音進行が美しいです。


ところで、最近、「Space of ishtarist」というブログで、Google Trendを使って、フクシマ第一事故後の健康被害を間接的に示唆するデータを解析しているのを知りました。Google Trendという機能は知りませんでしたが、検索語の頻度から世界や各地での人々の関心、動向を探るという機能です。これによると、放射線障害の可能性がある症状を示す言葉の検索頻度がフクシマ原発事故以後、増加している傾向が見られます。理論編とデータ編に分けて、この解析の意義と欠点などについて議論されており、大変興味深いです。
 私も早速、Google Trendに行ってみました。なぜか、検索windowに自動的に「Bitcoin」という単語が現れたので、そのまま検索してみました。驚きました。「Bitcoin」の検索頻度がここ3ヶ月で急激に上昇しています。何故か本場であるはずの日本では関心は低いようですが、これは、早ければ来年始めというウワサの次の金融ショックの到来を予想するものなのかも知れません。インチキ資本主義がいよいよ崩壊するかもしれないと人々が思い出しているのかも知れません。
 また、これで医学生物学研究の流行もわかるかも知れません。最近、ゲノム編集技術につかわれるCrispr/Casシステムを使ったクロマチン解析の方法を考えているのですが、試しにCas9で検索してみると、この二年で検索頻度が急激に増加しています(驚くようなことではないですが)。研究費申請書のストラテジーの構築にもGoogle Trendは有用なのではないかと思った次第です。
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恐怖に怯える人はつけこまれる

2013-12-20 | Weblog
気の滅入る話ですいません。
余り愉快な話題ではないし、私は北朝鮮の内政には興味はないので、政治の話をするつもりもないのです。でも、社会治安がどうとか、政治の安定がどうとか、なんだかんだきれいごとの建前を並べても、結局は、おのれの権力欲とか金銭欲とか、そういう下世話なレベルの醜い欲から出ているのです。そういう人間の根本的な欲を煽ったり、恐怖を掻き立てたりして、人は他人をコントロールし、利益を得ようとするのです。権力を持っているものは権力を失うのが恐いし、カネを持っているものはカネを失うのが恐い。そうやっていつもびくびくしているから、いいように利用されるわけです。

先日、叔父を処刑した北朝鮮の若殿、哀れとしか言いようが無いです。殺した方と殺された方の両方です。この前世紀がかった恐怖政治で守ろうとしたものに、私は何の価値も認めません。単なる権力闘争ですから。そんな下らないもののために、小さな肉片になるまで銃を射ちまくって自分の肉親を殺す必要はありません。
若殿も英才教育を施して先代がわざわざ後継者に指名したのに、いまや恐怖におびえるタダの小僧というところでしょうか。カネと権力の中毒にされてしまったのですね。こういう心の中毒は精神科の対象でしょう。本当に哀れなものです。

日本ではふつうここまで露骨にやりませんが、国家権力を使って政敵を奸計をもって抹殺するというようなことは日常茶飯事ですから、ま、五十歩百歩です。同様に醜いことに違いはありません。
哀れな裸の大将は日本にもいますが、自分の哀れさをわかっているのかどうか。

とここまで書いたら、裸の大将ではなく、餃子の王将の社長が殺されたというニュース。私は、食のユニクロを目指す、とか言ったということしか知りませんが、それを本気で言っていたのなら恨む人もいたのではないかと思いました。

どれほど、内情を知っていたのか私は知りませんが、独立国大和によれば、

ご店主(現社長)サン が 銃殺された。
何時か? やられるだろうと 予測をしていた。
その社長さんに限らず だいたい ブッ殺される者は 皆 同じパターンの人間なのさ!
ボクに複数名のヒットマンさん を 送った 6階建ての堅牢な建物を造った敵も 同じ。
そのカネの使い方に問題がアル。
短期間で 大金が手元に転がり込んだ者が カネが余れば 何をしたくなるか? 
、、、
短期間で 銭を稼げば 様々な弊害が出てくる。
ここで、ご自身が 自分自身の力で 資産を築いたか? ・・・ ・・・ 最大の能力が問われる。
言わば 資産家になる為の 最初の登竜門。

悪い例を言えば、
地域の政党に多額の献金をし、警察関係の天下りにも アブク銭を寄付し 慈善団体や財団法人を
造って そこで自分が会長になって ””世の中に君臨してやろう!”” なんて甘い考えを持っている 
ナラ ・・ そこに 黒い蜜を吸いに ”実力ある裏者” が やって来る!

自分自身で そういう環境下に持っていけば だいたい 政治資金規正法でパクられるか?
事業で多額の投資の果てに 事業がパンク するか?
強欲なカネの使い方で 身内が離反する か、 最悪は 闇で消される。


とのことです。

そういえば、何の同情も湧きませんが、東京都知事も辞職、みっともないですね。「実力のある裏者」にはめられたのでしょう。もちろん、裏金を受け取る方が悪いのは言うまでもありませんが。検察は、前の総理大臣経験者を狙っていて、その足がかりだという話。検察もみっともないですが。

もう十分ですね、やめておきましょう。彼らの問題は彼らにしか解決できませんから。
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アルゲリッチのパルティータ

2013-12-17 | Weblog
週末は、久しぶりに偏頭痛の発作で全く動けず寝込んでしまいました。久しぶりにゆっくり本を読んだり、雑用をしたり、考え事をしたりしようと楽しみにしていたのに、何もできませんでした。ずっと脂っこいものや肉類を食べない食事にしてから、比較的調子が良かったのですが、どうも気を抜いて、揚げ菓子やナッツを食べ過ぎた上に、ちょっと激しい肉体労働をしたのが原因のようです。ようやく8割り方立ち直りましたが、まだ頭がぼーっとしています。

このところ音楽がらみの話題が続いているので、どうでもよい話ですが。
単純作業や書き物のBGMにバッハのピアノ(鍵盤)曲をかけていましたが、これも以前のオペラと同じで、だんだんと聞き入ってしまって、作業に身が入らないようになってしまい、音楽をかけて作業をするのをやめざるを得なくなりました。
 学生のころから音楽をかけながら試験勉強をしたりしていましたし(当時はジャズ)音楽に聞き入ってしまって作業に集中できなくなることはなかったので、不思議なことです。年をとるとマルチタスクできなくなるのかも知れません。ある曲が気に入ると、ついそれをかけてしまうし、そうするとますます聞き入ってしまうようになるという悪循環が繰り返されるようになるようです。

ここしばらくは、主にバッハのパルティータの二番をかけることが多く、私のiTuneには、グレン グールド、マキシム バーナードという若手の人、それからマーサ アルゲリッチの三人の演奏をYoutubeから拾ってきたものが入っています。Youtubeにはこの曲を20人のピアニストで聞きくらべるという6時間に及ぶビデオがアップされていて、私も聞き始めましたが、さすがにゲップがでそうになりました。それにしても同じ曲なのに、こうも違って演奏されるというのは面白いです。私のiTuneのマーサ アルゲリッチの演奏は5年ほど前のものライブのようで、この三人の演奏の中では最も気に入っています。マキシム バーナードという若手カナダ人ピアニストは知りませんでしたが、この演奏は結構良いと思います。音がキレイです。男の人ですが、なんとなく女性的な感じがします。グールドも勿論いいです。一つ一つの音がしっかりと太く、それがきれいに揃う硬派の演奏ですが、時々混じるうなり声が私はあまり好きではないです。(キース ジャレットがうなるのはOKです)マーサ アルゲリッチのこの曲の演奏は、最初に聞いた時からハマりました。力強く正確でキレのある打鍵と、女性的な繊細さが同居して、深みがあり、かつ私のような素人にもわかりやすい演奏がされていると感じます。聞けば聞くほど、うまいなあ、と思います。バッハの時代にはピアノは無かったでしょうから、ピアノの表現力を生かしたアルゲリッチの演奏を聞いたら、バッハもきっと感動したことでしょう。
 パルティータの二番は、6 部からなる組曲ですが、アルマンドとサラバンドの舞曲が比較的ゆっくりした静かで落ち着いた曲調、シンフォニアの後半、クーラント、ロンドが比較的テンポの早い曲調で、そして力強く盛り上がって行くカプリッチオの最後の見せ場へと続いて行きます。アルゲリッチはそもそも「早弾き」で、早いテンポでシャキシャキと弾くスタイルの人のようですが、この曲では、早いテンポの楽章はもちろん素晴らしいですが、アルマンドやサラバンドでの静かな美しさも素晴らしい。この人はパルティータは二番しか弾かないようですが、他のも聞いてみたいです。



そういえば、雁屋哲さんのしばらく前のブログはノルウェーのパイプオルガンとハーモニカの演奏家についてのエントリーでした。その中で、「音楽の内容と信仰心は別物である。私はBachの「ロ短調ミサ曲」と、モーツアルトの「レクイエム」、そしてフォーレの「ミサ曲」の前には頭を垂れてしまう。」と述べられています。
バッハの鍵盤曲に加えて、その「ロ短調ミサ曲」も私のローテーションに入っています。これもつい聞き込んでしまいます。二時間近い曲ですから、うっかり聞きこんでしまうと大変です。ちょっと書き物のBGMには向きません。最初のコーラスの8小節で、もう、ひざまずきたい気持ちになります。

それにしても、バッハの曲というのは、聞けば聞くほど、その緻密な音の使い方に感心しますね。

どうでもよい話でした。

ところで、最近、秘密保護法案が可決されたせいか、フクシマ原発の情報があまり入ってきません。増え続ける汚染水問題が無くなる訳がないし、使用済み核燃料の取り出し作業のその後も聞こえてきません。ある日突然、トンでもないニュースがドッカーンとやってきそうな気がします。政府もギリギリまで情報を隠し通すつもりでしょうから、本当にどうしようもない状態になるまで、国民は知らされないのだろうと思います。

フクシマ第一、いったい、どうしたのでせうね。ええ、あの3年前の東北大震災の時に、核爆発をおこした原発のことですよ。

という感じになりつつありますね。
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一流の研究室の一流の学生

2013-12-13 | Weblog
ジム ホール氏死去とのニュース。83歳。多分、もっとも有名なジャズ ギタリストではなかったでしょうか。若い時は、ハードバップのリズムで管楽器の小グループのジャズが好きだったので、ジャズギターというのは余り聞きませんでした。ギターとオーセンティックなジャズは個人的には相性が悪いと思いますけど、バラードやボサノバ風のラテンジャズにはいいと思います。ジムホールは、フリー化(?)する前のエラ フィッツジェラルドの伴奏で最初に有名になったようです。Youtubeにビル エバンスとの競演がありました。こういうジャズも悪くありません。


さて、昨日、とある一流研究室の大学院生の人から、研究のことでアドバイスが欲しいというメールを貰って、話をする機会がありました。私は普段、大学院生の人の交流はほとんどありません。
 やってきたのは中国系のさわやかな青年で、少し話しただけで、彼が極めて優秀であることがよくわかりました。よく勉強しているし、最新のテクノロジーや動向にも詳しいし、自分の研究系の強みや弱点も理解しています。
 彼の年代のころの私はどうだったろうか、と思わずにいれませんでした。彼の年のころの私なら彼の足下にも及ばなかったでしょう。正直、ちょっと落ち込みました。今、対等に話をできるのは、私の方が経験が多いからで、この調子だと数年以内には、すっかり追い越されてしまうのではないかな、と思いました。そういう優秀な次の世代の人々と、衰え行く体力と記憶力というハンデを抱えた私が、研究資金を争って、闘わないといけないのですから、真っ正面から組み合うわけにはいきません。追いつかれるまでに、できるだけ距離をはなしておかないといけないと思った次第です。(研究分野が違っていてよかったです)とは言っても、せいぜいできることは、短い足でコツコツと毎日、歩き続けることだけですが。
 ま、そういう利己的な話はおいておいて、彼のような優秀な若い世代の人と知り合えるのはうれしいことです。私の身の回りにいるポスドクやファカルティを見回しても、彼ほどのレベルの人は、多分1割に満たないでしょう。
 一流のラボは、彼のような優秀な学生がいて、潤沢な資金で研究をしているのだと思うと、(もともと比べること自体がおこがましいですが)私のような個人経営のような零細研究室では、太刀打ちできないのも道理だ、と不思議に納得した次第です。
 それでも、私も生き残って何らかの意義のある研究成果を出して研究界に貢献したいと思うので、まだ誰かに必要とされている間は、私は自分のNicheでコツコツと頑張ろうと、志を新たにしました。優秀な大学院生に刺激された日でした。(ウチの女の子たちも頑張ってくれていますし)
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ネルソン マンデーラとカリブの音楽

2013-12-09 | Weblog
軍靴の足音が響きはじめようとしている日本。私の両親の世代は、戦後の食糧難の時代に幼少期を過ごしています。成長期の子供が一日にイモが一つで飢えを凌ぐような時代に育っています。愚かな国の指導者が、国の民の子供を飢えさせ、大勢の人々を殺したのです。その愚かな指導者の孫の世代が、今、政治の中枢にいます。戦後ポツダム宣言に基づいて、A級戦犯として最初に逮捕されたものの、アメリカのために働くのと引き換えに助けられたのがアベ氏の祖父の岸信介でした。宗主国に踏みつけられながらも、それでも日本の平和と経済成長という「実」を取りました。しかし、今、その孫が、また戦争をできるようにと、「数の暴力」で、憲法違反も何のその、着々と国民を『カタ』にはめて、ファシズム独裁国家の実現を目指して暴走しているのです。
 思うに、日本は戦争できるようなカネはないでしょうし、いざ戦争となれば、アメリカは日本を本気で助ける気もないし、戦争をやりだしたとたんに梯子をはずされるのが明らかですから、与党全員がアベ氏や軍事オタクぐらいの頭のレベルで無い限り、戦争はおこらないだろうと、私は想像はしているのですが、本当のところは、分かりません。普通の頭があれば、最初から勝ち目がないのが分かっているのに、相手の手にマンマとのせられて真珠湾攻撃したような幼稚な指導者がいた国ですから。というか、日本の指導者層というのは昔からそもそもそんなレベルで、それは今も変っていないのです。
とりあえず、私も、「特定秘密保護法に反対する会」の賛同人に署名しました。

話かわって、先週末、ネルソン マンデーラ氏が95歳で死去とのニュース。
大統領になったのが1994年ですが、1990年に釈放されるまで、26年を監獄で過ごしたのですね。
南アフリカだけでなく、世界中で、人権運動、差別撤廃運動、民主化運動のアイコンとなりました。出獄の時の人々の熱狂を、私も何となく覚えています。「信念の人」という言葉がピッタリする人です。民主化運動のアイコンたるマンデーラが亡くなった翌日に、日本では、日本版NSCの設立へ向けて秘密保護法案が成立し、ファシズム軍国主義国家樹立のため、国家がその国民を恐怖政治で管理し、民主主義を骨抜きにしようとしている、というのは何とも皮肉なものです。

若い時に好きだったセネガルのユッスー ンドールの事実上のデビューアルバムが、1986年リリースの「ネルソン マンデーラ」です。(収監中のマンデーラのカリスマ的人気が高まっていたころですね)そして、数年前には、ユッスー自身が政治活動を強め、セネガルの大統領選への立候補を表明したと言うニュースもありました。
 アフリカの打楽器とホーンの重厚なリズムセクション、今、聞いてもカッコいいです。


マンデーラが闘ったアパルトヘイト政策に反対して、ユッスーのアルバムと同じ1986年に、カリブのグループ、Malavoiがリリースした曲が「アパルトヘイト」です。フランスの植民地であったグアドループやMalavoiが活動していたマルティニーク島で、Zoukと呼ばれる特有のダンス音楽が産み出されました。Malavoiは、Zoukも演奏しますが、ビギンなどの西洋の伝統ダンス音楽の影響が濃い、ストリングスセクションを特徴とするグループで、私は、そのリラックスした南国の雰囲気が若いときは大好きでした。実際を知りませんが、フランスの植民地ですから、マルティニークでも南アフリカ同様、ヨーロッパ人による差別や搾取があったであろうことは想像難くありません。ユッスー ンドールのセネガルももとはフランスの植民地。もとフランスの植民地で、政治色強いプロテストソング(?)が歌われるのは、フランス人がアフリカ系奴隷である彼らの先祖に余程ひどいことをしたのでしょう。
 Edith Lefelがリードボーカルでのライブ版をYoutubeでビデオ見つけました。これは彼女が39歳で亡くなる直前の映像のようです。若い頃は美人でした。


もう一つ、こんなのを見つけました。イギリスのスカ バンド、Specialsです。レゲエやスカといったカリブのジャマイカの音楽はイギリスに根付いて独自の音楽ジャンルになっています。ジャマイカもイギリス領、イギリス人からの搾取と差別を受け続けたジャマイカの人々の音楽が政治色を帯びるのも頷けます。レゲエももともと、エチオピアのジャーをアイコンにアフリカへの回帰をテーマにした政治的な主題を多く含む音楽です(ルーツ レゲエと呼ばれますね。因みに、中学生のころ、エリック クラプトンが好きな友人がボブ マーリーの「I shot the sheriff (but I didn't shoot no deputy)」という曲をよく歌っていました。国家権力の横暴に対するプロテストとも取れますが、わざわざdeputyを射ったのではない、という歌詞は、ひょっとしたら、sheriffとは宗主国イギリスのことで、deputyとはその手下となってしまったジャマイカ政府のことを指していたのかも知れません)
それはともかく、名前をダンス音楽のリフに使われるほど、ネルソン マンデーラは世界中で人気があったということですね。
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愚かな国の冬の時代

2013-12-06 | Weblog
欠陥だらけの違憲法案、秘密保護法の強行採決。
(播磨屋店主の言葉を借りて言えば)「真性のXX」が刃物を振り回しているのに止められなかったということです。真性のXXに権力を与えてしまった国民にも多くの責任があるのは間違いないでしょう。ヒトラーのナチスと同じですね。違いはヒトラーは、日本の真性のXXに比べれば、遥かに頭は良かったということでしょうか。ただ、真性のXXはアベ氏だけではなく、与党に集団として存在しており、まさにナチ化している、というのが問題でしょう。例えば、前から軍事オタクはアブナいと言われていましたが、最近の発言を聞く限り、この人は、加えて、psyがかっています。

法案の参院通過に際して、独りファシズムは次のようなメッセージとともに閉鎖を宣言。

「特定秘密保護法案」の成立をもって思想、言論、表現、出版の自由は終わりました。
なお12月14日付けをもって、拙ブログを閉鎖致します。コメントの返信は終了致しますので、今後の連絡はメールでお願い申し上げます。
                                              Yukino


この方は、本も出しているし、個人情報も晒して発言してきているので、やむを得ないでしょう。言論封鎖のための見せしめにされる可能性が高いですから。

これからは、国民は、政治や社会のことには関心を持たず、ひたすらバカな納税マシーンとなって、「お上」の言うとおりに大人しく働け、というワケですね。

日本戦後の「なんちゃって民主主義」も本当に終わったようです。これからますます、政府は情報を隠蔽し、数多の偽装が行われるでしょう。これまでも、国民は、政府が作った檻の中だけで、一生、チマチマと働いて税金を収めて死んで行くようにと、マスコミなどを使ってソフトに誘導されてきたわけですが、これからは、国民は支配者層に貢ぐために「飼育」され、「調教」される「家畜」なのだ、ということをもっと直接的に思い知らされることになるのかも知れません。

小沢氏は、国民のレベル以上の政治家は出ない、とかつて言っていましたが、そもそも真性のXXに暴走する権力を与えてしまった多くの国民のpoor judgementが、招いた「身から出た錆」とも言えます。そして、行政官僚の方が一般国民よりも、ずっとずる賢かったとも言えます。

しかし、物事には、作用があれば反作用があります。いずれ、因果は巡り、国民を家畜化しようとしたものは自ら家畜とされる運命に対面することになるでしょう。行政官僚もずる賢いだけで、本当の知恵は持っていないのです。しかし、それまで、われわれはこれからますます厳しくなる冬の時代をじっと、臥薪嘗胆、耐え忍ぶしかありません。
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cloud funding

2013-12-03 | Weblog
最近出版されたあなたの論文を見ました。
新しいプロジェクトの資金調達を考えていますか?

というような珍しいメッセージのメールが来ました。最初、サラ金のスパムメールかと、思ったのですが、よく見ると、とあるCloud-fundingの組織からでした。

Cloud-fundingという単語は聞いたことがあり、コンセプトも何となくわかってはいましたが、アカデミアの研究資金の調達に、そういうものがうまく行くはずがないだろうと余り関心を持たずに来ました。しかし、思春期の高校生が一分間に一度はエッチなことを考えるのと同じく、私も、そうとうな頻度で研究資金のことを考えています。運転資金のことを考えないスモールビジネスの人はいないのと同様、研究資金の工面で頭を悩ませない研究者はいないと思います。ただ、私のいるような研究施設は給料も込みでの研究資金で、それなりの金額が必要なので、比較的小額の資金を短期間で集めることを目的とするCloud-fundingはうまくマッチしません。職が安定していて、かつあるアイデアを試してみるために多少の資金が必要だ、という状況にはよいかも知れません。

いくつかあるCloud-funding platformのサイトを見ていました。こんなメールを研究者に送ってくるメリットは何なのだろう、と思ったのです。メールを送ってきた所は、よくみると、「for-profit」組織でした。つまり、この研究のためのfund raisingを助けるサービスは、金儲けの一環としてやっているのです。サービスの対価として5%ぐらいの手数料を取るということです。であれば、沢山の寄付を集めれば集めるだけ、利益が上がるというわけです。そして、沢山の寄付を集めるためには、沢山の研究者に参加してもらわねばならない、ということらしいのでした。

私、サービスに対して何らかのcompensationがあるのは当然だと思いますし、資金を集めたい研究者の人を助け、研究支援したい人を研究者に繋ぐ有意義な活動であるとは思うので、寄付金の中から運営費を出すのも当然だと思います。しかし、そのサービスによって利益を出すことを(少なくとも一つの主要な)目的としているというのは、ちょっとどうかな、と思います。それでは税金をつまみ食いするために天下り先を作る官僚と同じではないかと思います。

税金ベースのアカデミアの研究から利益を出す活動は沢山あります。研究試薬や研究機材を作っている会社、論文を出版する出版社、そういう会社から毎日、山のようにemailの広告が届きます。だから、この「for-profit]」のcloud funding platformにいちいち目くじらを立てるようなものではないのかも知れません。ただ、善意の募金と同じで、募金は、正しく有効に、その目的に沿って使われなければ、寄付してくれた人々の「善意」を悪用することになります。Cloud funding においても、同様ではないでしょうか。

官僚は、社会福祉のために、「年金制度」を作り、「消費税を増税」するというワケですが、本来、年金制度は戦争の資金を調達するため、消費税増税は官僚の天下り先のハコモノを作るカネが必要という理由でしょう。政府が国民からカネを巻き上げる時に言う建前は、基本的にすべて「ウソ」です。

Cloud fundingで、研究資金が欲しい研究者と、善意のサポーターを結びつけるためのプラットフォームを提供する、というのは建前上は、いいアイデアです。でも、どうも本音はそれを利用してカネを儲けたい、というのが主目的だということのようです。ちょっと寂しいですね。

カネの話で思い出しました。先月末に、亡くなられた経営者/作家の堤清二/辻井喬さんへの追悼の言葉が、東京新聞の「筆洗」にでていました。
東京新聞・筆洗(29日付)
本名とペンネーム。二つの名を使い分ける人は数多(あまた)いるが、その二つの名前がいずれも抜群の存在感を放つ人はまれだろう。「無印良品」などで日本の消費文化に新風を吹き込んだ経営者・堤清二。小説や詩で活躍した辻井喬▼二つ顔を持つこの人はある時、たまたま会った財界の大物に誘われ、用件も知らぬまま新聞社の幹部に会いに行く。その新聞は、米国による北ベトナム空爆を批判する社説を載せていた。財界人らは偏向報道だと非難し、圧力をかけた。「このままでは、広告出稿ができなくなる」と▼堤さんは用件も聞かずに同行した軽率さを悔やみつつ言った。「僕はあの社説は偏向しているとは思いません。北爆を続けてもアメリカは国際的に孤立するだけで、勝つことはできないと思います」▼日々、実利を追う経営者の世界と、精神性を大切にする芸術家の世界。堤さんは回顧録『叙情と闘争』(中央公論新社)で記している。この二つの世界の<音信不通と言ってもいい断絶>こそは自分が直面し続けた断絶であり、堤清二と辻井喬の分裂でもあると▼その葛藤の末たどり着いたのは、どんな世界だったのか。回顧録はこんな詩で結ばれている。<もの総(すべ)て/変りゆく/音もなく/思索せよ/旅に出よ/ただ一人/鈴あらば/鈴鳴らせ/りん凜(りん)と>▼凜とした響きを残しつつ、堤さんは人生の幕を閉じた。


このコラムはうまいですね。一人の人間の人生のエッセンスをこの短い文にまとめ、財界の新聞報道への圧力を批判し、カネ(実利)と精神の対立の問題を際立たせ、最後は故人の言葉を引いて、さりげなく読者の蒙を啓こうとしています。朝日新聞も「天声人語」などという傲慢なタイトルのプロパガンダコラムをやめて東京新聞に弟子入りでもすればどうでしょうか(いや、つい要らぬことまで言ってしまいました)。

人生を生きるわれわれにとって、カネは生活の手段の一つであって、目的ではありません。それがすっかり本末転倒してしまっているのが今の日本の戦後経済成長ばかりを目指してきた会社経営者、財界人でしょう。だから、カネのためには、偽装もするし、ウソもつく、新聞社にも圧力をかけるようになってくるのではないでしょうか。中央銀行が印刷するような紙切れのカネがなくても生きて行ける社会の実現を真剣に考え出すべき時に来ていると思います。地方通貨というやり方でも良いし、ビットコインでもいいでしょう。金本位制に戻すのも一つの手かと思います。つまり中央銀行の発行する紙切れに依存せず、経済をもっとローカルに、そして縮小していくということですね。
 資本主義という名の欲望に任せた経済活動で、人間は奴隷化され、地球環境や高度な人間らしい活動が破壊されてきました。現在の数多くの問題が経済活動を縮小すれば解決します。そうすれば、もちろん外国から物が買えなくもなるでしょうし、いざ戦争というときに費用がたりなくもなるでしょう。私は、それでもよいと思います。物が買えなくなれば、自分たちで生産すればよいことです。戦争はしない工夫はできます。それでも攻めて来られたら逃げましょう。「国破れて山河あり」の方が国栄えて放射能まみれよりましです。万が一の心配をしながらカネの奴隷となって人間性を失うのであれば、人間に生まれてきた意味がないと私は思います。あいにく、この国の支配者層、官、財、政とマスコミは、アメリカに戦争に負け、カネ至上教に折伏されてしまったので、ボトムアップの小さなコミュニティーが同時多発的にやるしかありません。民主主義を普通の人々の手で勝ち取るには、政府に嵌められている足枷をみずから外す努力が必要だと思います。
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