百醜千拙草

何とかやっています

科学研究の上流

2014-11-28 | Weblog
先日、とある賞に関連したシンポジウムがあり、その後のレセプションと晩餐会に行きました。小さいながら歴史のあるこの賞は、過去の受賞者の中から二十名以上のノーベル賞受賞者がでています。シンポジウムでは、業界での超有名人を何人も見かけました。

シンポジウムの内容は癌研究に関しての話が主で、やはり最近話題のPD-1抗体などを使った免疫療法の基礎と臨床、がんシグナルの特異的阻害薬を使った治療など、基礎的にも面白い話でした。一昔前には、進行癌には化学療法しか選択肢がなかったのに、すでにある種の癌では化学療法はすでに第一選択ではなくなっており、すっかり治療の潮流が変化しているのを感慨深く思いました。それと同時の各々の病態にフィットしたPersonalized medicineを進めて行く必要があるということが明らかになってきました。個人各々の病態に特異的ながん細胞のcharacterizationのために、血中に循環する少量のがん細胞を分離する技術、その少ない材料から異常を検出する方法などの技術的開発が行われています。

レセプションと晩餐会は100人ほどでホテルの小さな部屋で行われました。そこには受賞者の人や発表者の人以外も大勢の超のつくレベルの有名人が来て、私もいい年してすっかり緊張してしまいました。普段、雑誌のフロントページや新聞でしか見たことのない人が何人もその辺をウロウロしているのです。この小さな部屋がテロで吹き飛んだら、NatureのObituaryの欄はすごいことになるだろうなあ、とバカなことを考えました。ノーベル賞科学者の人が三人いるのに気づきました。そのうちの二人と話したり握手してもらったりして、すっかり舞い上がってしまいました。もう一人のノーベル賞の人は、私が細々と末端でやっている分野の研究の最初の発見者(この人も会場にいました)がポスドクだったときのボスだった人で、すれ違った時に挨拶してくれたので、私はすっかり緊張して敬礼してしまいました。
何人もの雲の上の超有名研究者の人と同じ部屋で同じ晩飯を食べるという非日常的な貴重な経験でした。超有名人でも、基本は食べて出して働いて寝るという我々凡人と同じであり、歳を取れば、シワも増えて頭もハゲるということを改めて実感したひと時でもありました。

今回、たまたま、私は近代生物学の潮流を作り出してきた人々が固まっている水源に近いところに紛れこんだというだけのことで、別に私が水源に寄与しているわけでは全くありません。研究の流れを作り出す人々と、流れを大きくする人々、あるいは流れに流されたり、私のように流れから飛び散る滴で生きているような人間もおります。いずれにせよ、科学研究というものは、全てが繋がっていて、色々な流れも上流から下流へと向う中で多様な研究を潤しているということを、研究の潮流を作り出している源泉に近付いてみて、あらためて実感しました。

そのレセプションの時、とある有名人が大手製薬会社の相談役の人と話をしているのを横で聞いていると意外な話が聞けました。ベンチャーと言えば、アメリカでは西海岸というイメージがありますが、実は、バイオ関係のテクノロジー会社は、結局、東海岸にやってくるのだそうです。カリフォルニアにはそうした技術がないのだそうで、ITはともかく、バイオベンチャー関係は結局、ボストン、ケンブリッジ近郊に集まるのだという話。カリフォルニアの青い空よりも陰鬱なニューイングランドの伝統、CaltechよりもMITということなのでしょう。

 
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プライオリティーは自分

2014-11-25 | Weblog
"The Science of Getting Rich"という古典的成功本をちょっと読んでみようかな、と思って半分ほど読みました。この本はWallace D. Wattlesという人が1910年に書いたもので、著者は出版の翌年亡くなっています。
巷でよく言われている成功の法則のオリジナルエッセンスが書かれているようです。だからそう目新しいことはありませんが、二、三の点で興味深いところがあるので、ちょっとだけ書いておきたいと思います。

一つは、豊かになりたいのであれば、必要以上に貧困に注意を向けないようにせよということです。ちょっと誤解を生みそうな表現ですが、これは恵まれない人に同情心を持つなというような意味ではなく、プライオリティーを考えろということだと思います。
 例えば、ビルゲイツ財団やブラッドピット夫妻らが、発展途上国での子供の貧困、疾病、虐待などの問題に取り組んでいます。彼らがそういう活動ができるのは、彼らにそれだけの金銭的、時間的余裕があるからです。
 また別の例で言えば、病院です。病院が機能して診療活動を行えて、病気の人の治療ができるのは、病院経営がまずしっかりしていて、そこで働く人の健康と生活が守られているからです。しっかりした病院経営のためには、医療体制の整備に加え、患者さんの確保、ムダのない病床管理などが必要です。一方的に患者さんに奉仕するのではなく、患者さんと支払い基金からの金銭的還流という相互作用が必要です。経営をおろそかにして奉仕ばかりを考えていては、病院は成り立たず、そのようないつ倒産して閉院するかもしれないような病院では、患者さんも安心できません。
 社会や人に貢献したいのであれば、自己犠牲の上に貢献するようなことを考えてはならない、まず、自分自身が豊かで健康で十分に機能できることがあってはじめて、他人や社会に対して何かができるのだ、という話です。
 とはいうものの、自己犠牲を美化し、清貧の思想などが流行る国柄ですから、「貧困に注意を向けるな、自分が第一だ」みたいな言明に抵抗を持つ人も多いでしょう。お国のために玉砕したり、藩主のために討ち入りしたり、家のために切腹したり、身を売ったりすることが、普通にあった国です。もちろん、自分が第一というのは、そのために他人を利用したり犠牲にしたり、貧乏人は自己責任として冷酷に切り捨てろということではなく、まずは自分に実力をつけて自立することを第一に考えよということでしょう。

また、貧困の問題に関連して、貧しい人を「貧しい人」であるように見るべきではない、という話もありました。現在、困窮している人は、これから未来に向けて豊かになっていく人であると見なさい、ということです。なるほど、幸せは心の持ちようです。貧しい人には単にもの分け与えるのではなく、これから豊かになっていくプロセスの手助けができるようになりなさい、ということのようです。これは、「空腹の人に、魚を与えれば一日の飢えをしのげるが、魚の釣りかたを教えれば一生の食を満たせる」ということわざに多少通じるものがあるような気がします。結局、誰でも、自分を幸福にできるのは自分自身以外にはいないわけですし。

最近、私は、医師、医学研究者としてカンボジアやアフリカで結核とAIDSの問題に取り組んで来た人の話を聞く機会がありました。戦争で蹂躙された東南アジアの一部の地域はそれは悲惨なのです。貧しいので子供を売る家庭が沢山あります。女の子は十歳にもなれば、売春宿に売られて行き外国人の客をとらされ、HIVに感染します。栄養状態も悪い中で結核に潜在感染している子供は、数年でAIDSを発症して十代の後半には死を待つだけになります。そうなると売春宿から放り出され、運が良ければ親元で、運が悪ければ路上で死を迎えることになります。この医学研究者の人は、こういう話をしながら、結核治療薬と抗ウイルス薬(ART)を使って、どういうレジメンで治療をするのがよいのかを調べるという研究を紹介しました。 この教授本人は普段は先進国の快適な生活を享受し、恵まれた子供時代を過ごしてきているわけです。しかし、彼女がこのような研究ができて、カンボジアの気の毒な子供たちを少なからず助けることができるのは、なにより彼女が豊かな国で十分な医学教育を受けて、研究者としてのトレーニングを積み、十分な経済的、社会的余裕があるが故です。そのような立場にない人間では、同情心がいくらあっても、東南アジアのエイズの子供たちを助けることは難しいでしょう。彼女がこのような活動ができるのは、自身が先進国の豊かで快適な生活が保障されているからであると言えます。

この本を読んで、もう一つ考えさせられたメッセージは、政治家や官僚を非難するな、ということでした。私は、常々、日本やアメリカの腐った政治システムを批判し続けてきましたので、これは耳が痛かったです。理屈は半分理解できます。短くいうと、現実は肯定した方が問題があると考えるよりもプラグマティカルだということだろうと思います。また、同様に、社会や政治を変えたいのであれば、自分にそれだけの力をまずつけよということかも知れません。
 だから、いくらアベ政権の知能指数に相当な問題があっても、大蔵(財務)官僚が傲慢で腐敗していても、最高裁と検察がグルでも、それで無実の人間が冤罪を着せられ、偽装自殺で暗殺されても、私は、もう彼らの悪口をいうのはできるだけ止めようと思いました。
現実を知ることは大切です。しかし、現実を知ることと悪口をいうことは別だろうと思い始めました。悪口をいうことが現実を変えるのに無力なのであれば。

この本の残りを読んでから、また感想を書きたいと思います。
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人生の孤独にしみじみしたい時

2014-11-21 | Weblog
どうでもいい話ですが、最近、明け方にふと目が覚めて、これまでの自分の人生と残された時間のことで胸いっぱいになってしまうことがあります。意識がはっきりしているときは、こういう考えに影響されることはありませんから、多分、これは無意識に抑圧された後悔やあせりみたいなものが出てくるのでしょう。
しかし、理性的、客観的に考えても、われわれが社会に出て活躍できる期間とのは思っているよりも短いのです。われわれができると思っていることも実は大したことはありません。死を目前にした多くの人がもっとも後悔することは、若いときに自分のやりたかったことを存分にするべきだった、ということだそうです。私は、過去のことは後悔しないと決めているので、これから死ぬまでの間に、アフリカに行けなくても、奥志賀第2リフト沿いのコブ斜面でもう二度とスキーができなくても、マルティニーク島でズークを踊れなくても、多分何とも思わないと思います。ただし、感情は理性とは別のところにありますから、夢は見るかも知れません。

死ぬまでの年数を数えていたら、ふと、大昔によく聞いたエルトンジョンのアルバムの中の曲、「60 years on」を思い出して懐かしくなりました。盲目の年老いた孤独な老人の悲哀が滲みだします。当時、二十歳ほどの若者(作詞 Bernie Taupin)が、孤独な老人を見る目は残酷で傲慢です。しかし、(年齢に関係なく)人間の孤独、誰でも独りでその人生を歩み、年老いて死んで行くという事実から漂う悲しみは歌から感じ取れます。そのTaupinもエルトンジョンも今はとっくに60歳を過ぎていますが、幸せそうにしています。

(筆者、意訳)

六十歳になったとき、誰が教会へ一緒にあるいて行ってくれるのだろう。そのときには、貰ったみずぼらしい飼い犬も十年も前に死んでしまっている。
セニョリータ、ギターを弾いてくれ、あなた自身のために。
私のロザリオは壊れてしまい、鎖の数珠は抜け落ちてしまった。

お前は大きなコート架けて、銃を置く。お前の戦った戦争は、余り楽しいものではなかった。そして、お前の未来は銃とは何の関係もない。
六十歳になるまで生きたくはない。

ああ、お前と一緒に座っていてやろう、そして、もう一度、目を開かせてやろう。昔ながらの祈りの言葉は今も同じだ。
マグダレーナ、オルガンを弾いてくれ、あなた自身のために。
あなたが通り過ぎるときには、合唱隊の灯りはとても低く燃える


エルトンジョン、やっぱり歌はうまいですね。


〆切ありの複数の論文原稿とレビューが目の前に溜まっているのを見ると、しみじみと人生の悲哀を感じたいと思ってしまうのは私だけではないでしょう。
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沖縄知事選、マイナス成長、解散

2014-11-18 | Weblog
沖縄知事選、沖縄県民はブレませんね。やはり仲井真氏、裏切り者と思われたのでしょうね。正直は最上のポリシー。コロコロと言葉を変える人は信用されません。辺野古移設反対を掲げた翁長氏が圧倒的な差で勝利。これを弾みにアベ政権打倒へとつながって行って欲しいです。

アベ政権と言えば、最初から大失敗が約束されていた経済政策の結果、案の定、二期連続のマイナス成長という話。

内閣府が17日発表した2014年7~9月期の国内総生産(GDP)の1次速報は、物価の変動の影響をのぞいた実質成長率が、前期(4~6月期)より0・4%減、この状況が1年続いた場合の年率換算ではマイナス1・6%となった。マイナス成長は2四半期連続で、4月の8%への消費増税後の景気低迷が鮮明になった。


最初から「三本のイヤ」ダメノミクスが失敗することは火を見るより明らかでした。ひょっとしたら、指を三本上げて得意そうにしてたダレかさんだけは、大蔵官僚のスピンを真に受けていたのかもしれませんが。

経済は成長どころか縮小し、消費税増税で内需が落ちて来たところへ、QEで円安、物価高が追い打ちをかけます。解散して4年の政権を確保した上で更に消費税増税、とますます景気は悪くなり、国民生活は苦しくなりつづけるでしょう。
「日本銀行券」という紙切れを介さない流通と消費の形態を真剣に考えねばならない時期がくるのではないでしょうか。これに依存している以上、必要以上にモノを作って必要以上に消費しつづけることが必要になります。そのために自然を破壊し、不必要に長時間、低賃金で働かされることになるのです。それが限界に来つつあるという感じがします。管理通貨制度に基づく資本主義が終焉を迎えるのは必然のように思います。
しかも、今の政権は目先のカネ、しかも一年、二年という単位での超短期的な損得しか、考えていません。まるで5年後には日本は滅んでもよいとでも思っているようです。これに対抗するには、地域ごとになるべく独立した機能を確立していって、最終的に「日本銀行券」への依存を減らすことだろう、と思います。おそらく、地方からやむにやまれずそういう方法を取り出すのではないかと思うのですが。

そして、アベは解散宣言。最初からここまで、全部、大蔵官僚の筋書き通りなのでしょうね。アベ内閣の失敗予定の経済政策、と支持率の低下、解散前の金融緩和、それでも野党が総倒れ状態の今なら、公明党票で政権は確保できると考えているのでしょう。その後は、首相は適当なのに変えたり、内閣改造したりで、ごまかしごまかし行って、消費税増税を実行させるということでしょうな。ここで何とか、自公政権打倒が実現できれば大きく違うと思うのですが。

最後どうでもいい話ですが、これがニュースのネタになるのか、とあきれた話。
交番で男女警官がキス、宿泊も 警視庁綾瀬署員4人処分

警視庁によると、交番での勤務中、地域課の男性巡査部長が女性警察官とキスをし、同課の男性巡査は、非番で訪ねてきたこの女性警察官を交番に泊まらせていた。いずれも1人勤務の時間帯だった。


勤務中に「チュー」するぐらい大目にみてやればいいではないか、と思ったのですけど。こんなことぐらいで処分されないといけないのでしょうか? そりゃ、真っ裸で警帽だけ身につけて、わいせつ物陳列罪に抵触するような熱烈なのをやっていた挙げ句に、業務に支障を来しているのなら問題でしょう。しかし、ニュースからはそう熱烈なものであったような印象は受けません。もしそうなら「みだらな行為」とぐらいは書くでしょうから。業務中でも、トイレに行ったり、水を飲んだりするのはよいのでしょう?話をしたりするのもきっと許されているのでしょう?「チュー」はどうしてダメなのでしょうか。手を握って見つめ合うぐらいならOKなのですかね。
というか、こんな話、新聞で印刷して人々に周知させるに値するようなニュースですかね?ニュースそのものよりも、これを配信した新聞社にあきれました。
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握手と解散

2014-11-14 | Weblog
日本人は握手は普通せずにお辞儀をします。お辞儀でも相手の意図を読み取ることはそこそこできますが、握手だともっと直接的に相手の気持ちがわかります。目を見て強く握り返す人、ニコニコしながら手を降ってくる人もいれば、手は添えるだけの人もいます。政治的な局面での握手となれば、さらに複雑な事情が関与するでしょう。
アベ氏と習氏との握手に違和感を感じた人は多かったようです。如何に自国の利益の拡大を戦争抜きで図るかという外交の目的についてアベ氏はどれほど理解しているのか大変疑問です。

続 壺 齋 閑 話 の日中首脳の握手から
写真(APから)は、昨日(11月10日)北京で行われた日中首脳会談を前に、安倍晋三、習近平両首脳が握手する場面を映したものだ。これを見て異様な感じを抱いたのは筆者のみではあるまい。両首脳ともぎこちないというか、不如意というべきか、要するに喜んで握手しているようには見えない。
安倍総理は、日中関係の現在のあり方は世界中から注目されていると言ったそうだが、彼の言う世界とはアメリカのことだろう。
なにしろ日中が本格的な軍事衝突に入るのを最も心配しているのは、日中の当事者ではなく、第三者のアメリカだというのが、今の笑えない現実だ。


日中首脳会談
会談に先立って両首脳が顔を合わせた場面では、「お会いすることが非常にうれしい」と述べた安倍首相に対し、習主席は笑顔を見せず、無言だったことが報じられており、"笑顔なき握手"と評するメディアも。


お前ではダメだ、オザワを出せ、ということでしょうな。

東京新聞、筆洗から
外交の舞台においては、握手というしぐさ一つに大きな意味が込められることがある。その象徴的な例として、駐仏大使などを務めた小倉和夫氏が、一九七二年にあったニクソン米大統領の歴史的訪中での一場面を挙げていた▼空港に出迎えた周恩来首相は背筋をピンと立て、大統領の方にあまり歩み寄らず、手も大きく差し出さなかった。かといって、冷たい印象を与えるわけでもない。実に微妙な態度であったという▼これは<反共主義者として中国と対立していたニクソンを迎え入れることは、決して米国におもねるものではなく、あくまでも戦略的な、冷静な判断に基づくものであることを、世界に示そうとしたもの>だと、小倉氏は指摘していた(外務省発行『外交』誌14号)▼きのう三年ぶりに日中の首脳が会談したが、二人が握手を交わす態度も「実に微妙」であった。習近平氏の手にどれほどの力がこもっているのだろうと、思わせるものだった▼話をニクソン訪中の昔に戻せば、周氏には握手をめぐる屈辱的な思い出があった。一九五四年に米国務長官と会った際、握手を拒否されていたのだ。そういう過去を知っているからこそ、ニクソン氏は自ら歩み寄って、手を差し出したそうだ▼たかが握手、されど握手。日中という隣り合う大国の首脳が、どんな形にせよ握手をしたことに、外交の妙味があるのだろう。


とはいうものの、狭量さはしっかり伝わります。腹の中で何を思おうと自由ですが、「外交」という駆け引きの場では、握手ぐらいは、しっかり相手の目を見て、にこやかに強く握ってもらいたいです。大人ですから。

もひとつついでに、国内の話。岩下おじさんからの「衆院解散についての解説:止まらない解散風の真相」。(強調は筆者)

なぜ急に解散風が吹き出したかと問われれば、急にではなく財務省の熟慮の上での解散風であると言わざるを得ない。、、、
予算の年内編成をぎりぎり間に合わせるには11月中に仕方なく消費税一年半先送りを決定する代わりに、来年の一年半さき2017年4月には消費税が絶対実行が確約されてなければならいことになる。
ところが衆院議員の任期は2016年12月までしかないから、2017年の実行という担保がされていない。、、、
したがって、12月の早い時期に解散総選挙を行い2018年までの政権維持を確保するべきである。、、、というのが財務省の理由である。、、、
総選挙によって国民の信任を得たという「錦の御旗」を得て、フリーハンドを持つしかないだろう。しかもこれから 四年間。
ならば、野党の足並みがそろわず、国民が「まだ」目覚めていない「今」しかないと考えるのは当然だろう。、、、
ほかの解散の理由はテレビで御用評論家のいい加減なご高説を賜っておけばいいと思うが、要は政治家とか権力闘争に原因があるのではなくて、税収の伸びにしか関心がない「大蔵官僚のそろばん勘定」にしたがって政局があるという「事実」を忘れてはならない。

とりあえずここで選挙をやると思い切り投票率は下がるだろうし、国民の無関心がこそが「パワー」の源泉である自民ナンミョウが勝利するであろう。国民は自ら招いた不幸を再びしょい込みさらにあと4年間塗炭の苦しみにあえぐはずである。自己選択の責任は自分で取るしかない。
、、、
「選挙に行かないのは適当な人かいないから?」
バカ言ってはいけない自民ナンミョウ以外なら猿でもなんでもいいから投票するしかないのである。、、、
「政治に倦んで棄権する」というインテリを気取った馬鹿者は、結局自民ナンミョウの応援団なのでありことを自覚してほしい。、、、
この際、与党以外なら親の仇でも構わない、憎んでいても、「共産党」でも仕方ないから選挙を棄権してはならないと思っている。
どうせ今の間接民主主義を革命で変える勇気も力もないのだから、、、、。

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これでいいのか

2014-11-11 | Weblog
宇宙の規模から考えれば、私の抱える悩みなどとるに足らないチッポけなもので、それも何十年も続くものではありません。しかし、当事者はしばしば自分の視点にとらわれて、宇宙から眺めることができなくなってしまいます。

とあるブログで紹介されていた「バカボンのパパの言葉」がなかなか良かったので、書き留めておきます。

自分のパンツは自分で洗うのだ。
自分は自分を尊敬しているから、それくらいのことはなんでもないのだ。
自分がニコニコすれば、自分も嬉しくなってニコニコするのだ。
自分が怒ると自分はこわくなるので、すぐに自分と仲直りするのだ。
自分はとっても傷つきやすいから、自分は自分に優しくするのだ。
自分の言うことさえ聞いていえれば、自分は自分を失うことはない。
、、、

バカっていうのは自分がハダカになることなんだよ。
世の中のいろんな常識を無視して、
純粋な自分だけのものの見方や生き方を
押し通すことなんだよ。
だから、バカだからこそ語れる真実っていっぱいあるんだ
『赤塚不二夫の「これでいいのだ!!」人生相談』


あと東京新聞から。

【北京共同】安倍晋三首相は10日昼(日本時間午後)、中国の習近平国家主席と北京で開いた会談で「安倍内閣は歴代内閣の歴史認識を引き継いでいる」と述べ、過去の植民地支配と侵略を認めた1995年の村山富市首相談話を継承する考えを伝えた。


言うことにもやることにも整合性がありません。ますます、信用できないと思われたでしょうね。

与野党内で10日、早期の衆院解散・総選挙があり得るとの見方が広がった。安倍晋三首相は否定しているが、各党は年内の衆院選も想定して準備に着手した。来年10月に予定される消費税率10%への再増税を先送りして解散に踏み切るとの見方が浮上しているほか、衆院選後に再増税の是非をあらためて判断するとの観測も出ている。


増税に向けての足場がためということでしょう。野党に元気がないので、やり放題と思っているのでしょう。野党はなんとかならんのでしょうかね。かつての小沢マジック、八党連立連合内閣、が再現しないものでしょうか。
日本の政治、これでいいわけがありません。
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バンザイノミクス

2014-11-07 | Weblog
はたして、選挙などに本当に意味があるのでしょうか? 
誰がなっても同じと言えば同じです。結局、政治家が本気で出来上がった「体制」に対して抵抗すれば、スキャンダルをでっち上げられ、マスコミを使ってネガティブキャンペーンを散々張られた上で、官僚は仕事を放置し、それでも無理に体制に切り込もうとすれば暗殺されるだけのことです。選挙は殆ど、国民のガス抜きのための儀式となっており、政治家には何の力もないというのが本当のところでしょう。それでも、国民ができることは少しでもマシな政治家を選び続けることぐらいしかありません。

そんな感じで、私はノンポリ学生の頃の政治観に回帰してきたわけで、アメリカの中間選挙もすっかり興味がなくなりました。当然のようにオバマ民主党は上院、下院とも共和党に多数を握られて、ブッシュ政権末期と同じくLame duck化してきました。この調子だと2年後の大統領選は共和党となりそうです。
しかし、民主党が勝とうが共和党が勝とうがどれほどの差があるのでしょう。多分、大差はないでしょう。どんな政策であってもお互いの批判をするだけのことですから。
現状に不満が高ければ対立する党に国民は投票するし、満足であれば現行の党に投票するでしょう。つまり、二大政党制で選挙の度に優位政党が入れ替わるということは、国民は常に不満を持っているということです。国民の不満とは、つきつめれば「カネ」です。

現時点では、アメリカ経済が他の国を犠牲にせずに上向きになるとは思いにくいです。アメリカ経済だけでなく、世界的に経済活動は停滞していくでしょう。即ち、資本主義という持続的な生産と消費の上にしか成り立たない制度は、やがて衰退しないといけないと私は思います。この制度は富の偏在を引き起こし、多数の貧困層の人々と一部の裕福層という階層化を作りだし、その活動に伴って大量の環境破壊や公害などを生み出します。

衰退するアメリカは、かつてのヨーロッパと同じ道を辿るのだろうと思います。その間、アメリカの政権は選挙の度に変わるものの、何も実際には良くならず、二大政党は相手の足を引っぱるために、お互いの政策を批判して妨害するという(これまでと同じ)不毛な政治が行われるであろうと思います。

しかし、アメリカの話よりも、日本経済の方が問題のように思います。日銀がカネを刷り散らかしたせいで、この円安傾向は続きそれは物価の上昇を呼ぶ一方で、一般国民の所得は増えません。それで困窮する人々が増加するにもかかわらず、そこへ消費税増税がトドメを刺すことになります。下り坂を如何に踏みとどまるかを考えるべき時に、アベ政権は逆に背中を押して一気に転落スピードを速めようとしているようです。もちろん、アベ氏は飾りですから、絵を描いているのは官僚と日米地位協定合同委員会ということでしょう。

田中宇さんの国際ニュース「米国と心中したい日本のQE拡大」から。

 日銀のQE拡大について、米欧では批判的に描く分析が目立っている。分析記事集サイトのゼロヘッジは「日本のQEは、末期の病人に打たれる(沈痛効果だけで治療にならない)モルヒネだ」と題する記事で「ハロウィンの日に日本が自殺した」と書いたり、QEをアベノミクスならぬ「バンザイノミクス」と呼ぶ記事を出している。
「バンザイ」は、戦時中に米軍艦に自爆の体当たり攻撃を仕掛けた特攻隊員が自爆死の間際に叫ぶ言葉として米国で知られている。この記事によると、かつて日銀のQEを賞賛していたゴールドマンサックスは、今やQEやアベノミクス全体を「失敗がほぼ確実な政策だ」と批判している。

黒田がやったことは、勝ち逃げと全く逆方向の、米連銀が危険回避のためにやめたQEを日本が引き継ぐという、他人のリスクを追加で背負い込む行為だった。

 日銀は、01-06年にもQEをやっていた。QEを世界で最初にやったのは日本だ。90年代の日本のバブル崩壊後、それまで政府の要請を受けて日本国債を全て引き受けていた銀行や生保の国債買い支えの余力が低下し、仕方がないので日銀が国債を買い支えていた。当時、日銀のQEは米国側から不健全な行為と批判されていた。しかしリーマン危機の後、打つ手がなくなった米国自身がQEを始めた。そして米国がQEの不健全さに耐えられずにやめていく中で、対米従属という政治的な理由から、安倍政権になって再び日本はQEをやっている。
日銀は、QEを今後10年続ける予定だ。10年も持つのか疑問だ。すでに書いたように、日銀がQEによって発行済み日本国債の半分を保有するようになる4年後の2018年の前後までに、日本のインフレ率が5%以上になって歯止めがかからなくなるか、米国で金融崩壊が起きるのでないか。


ひょっとしたら、それで戦争へ持って行こうとしているつもりなのかも知れません。人間だれでも追い込めば簡単に誘導できますし。借金漬けにした挙げ句ににタコ部屋に放り込むようなものです。戦争は最初に政府が自国民に対して行うものだ、というのはそういう意味でしょう。
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今日も一日

2014-11-04 | Weblog
日が短くなり、気温が下がり、枯れ葉が増え、夏は過ぎ去りました。今年はいろいろと嬉しくないことが重なって、何かと先のことを考えることが多かったです。残りの人生、平均寿命まで生きれるとして、あと何回、夏を迎えることができるのかな、などと思ったりしました。

昨日は29歳の末期脳腫瘍のアメリカ人女性が安楽死したというニュースがありました。ちょうど、週末、安楽死先進国のスイスで、安楽死補助師の人と末期がんの患者さんが安楽死のための薬を飲む時の映像をたまたま見たところでした。やっぱりこういうのを見るのはショックですね。人の死は普通、生きている人々の目から隠されていますから。

細胞死を評価するのに、DNAの断片化をラベルするTUNEL法が簡便な方法としてよく使われますが、TUNEL陽性細胞数から細胞死の割合を計算することは、ある一瞬に行われている葬式の数からその街の死亡率を計算するようなものだ、と喩えた人がおりました。細胞は死ぬと大抵は速やかにその死骸は片付けられてしまい跡かたなく無くなってしまうのです。同じく、人間のレベルでも会社や国や社会のレベルでも死んだら、その死はすぐに視界から隠されて、そして消えて忘れさられていきます。

人間の一生は一瞬一瞬の「今」積み重ねで、その積み重ねられたものも、人がいなくなればすぐに忘れ去れていくものなのだなあと思います。死んで残す虎の皮の価値などその虎自身とは何の関係もないのだなあと思います。しかし、はかないからこそそれは尊いのだもと思わされます。

というわけで、今日も一日、頑張ろうと思った次第です。頑張るのも楽しむのも今日しかありませんし。



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