百醜千拙草

何とかやっています

ウクライナ危機のこれから

2022-02-25 | Weblog
この二日で一気にウクライナ情勢はレッドゾーンの危機に達してしまいました。

今回、ロシアがウクライナのドネツクとルハンシクの独立を独自承認し、ロシア系住民の保護を建前に「平和維持軍」を侵出させたことを以て、アメリカと西側諸国は、非難、経済制裁を発動しました。アメリカの金魚のフン、自民党日本政府も追従。ま、国際社会はだれも日本政府を相手にしていませんが、ロシアと関係のある日本人や日本と関係があるロシア人にとってはいい迷惑です。
 西側とアメリカの動きはプーチンは十分にシミュレーションしているでしょうから、すべて想定内。軍事行動は東部の独立承認国の範囲はあるかにこえて、ウクライナ各地で開始、すでにキエフにおよんでいるという話ですから、多分、あと数時間でウクライナはロシアが掌握したという宣言がでるでしょう。そして、西寄り現政府をパージし、新ロシア傀儡政権を新たに建てて、ウクライナ全土をロシア下に抱き入れることになりそうです。

日本や米国のメディアは西側からの解釈をもとにしているので、軍事侵攻であって、ミンスク合意を踏み躙るとロシアを非難。一方、ウクライナ政府に近づいて武器を供給し西側に引き入れ、ロシア系ウクライナ地域に武力行為をしかけ、ロシアに軍事的脅威を与えているのはNATOとアメリカであるとロシア側は考えているようです。

他の国のメディアの論調をみてみました。

例えば、イランのメディアによると、ロシアの独立承認以後、ウクライナ東部のドネツクとルハンシクからロシアへ向かう難民の数がそれまでの数日間と比べて減少しており、その理由に同地域へのロシア平和維持部隊派遣への期待と安全面の向上が挙げられている。とのことで、これは、長らく続いてきた西側寄りのウクライナ政府軍と親ロシアのこの地域との紛争が、2014年ミンスク合意による停戦合意後も解決にいたらず、紛争が継続してきたため、住民の多くがロシアに難民として避難していた状況であったのが、ロシアの介入を受けて収まってきたということです。

また、中国は、一方的な対ロシア制裁を非難。「ロシア・ウクライナ間の緊張の扇動者であるアメリカが今後、どのような役割を果たすか、彼らが何してきたのかを注視する必要がある。戦火を抑えず、この戦火に油を注いだとして他者を非難することは無責任で倫理に反する行為である、アメリカはウクライナへの武器送付を続けることで、常に恐怖感を拡大してきた」とアメリカを非難。

双方に言い分はあるでしょうが、アメリカがこれまで世界中でやってきたことを考えるとごもっとも。

当のウクライナでは、ロシアがウクライナ東部に「特別軍事作戦」を開始したことをうけ、ウクライナ議会の議員は西側による見せかけのウクライナ支援を批判し、「西側によるウクライナ防衛の保証はどこか?」と疑問を投げかけたとのこと。

これまでアメリカ、西側が武器をウクライナに売って政府を西側に引き寄せてきたのに、実際にロシアが領土で軍事行動をおこしたら、口先の批判と経済制裁だけでお茶をにごしていると、裏切られた気持ちにはなるのでしょうな。

トルコは23日、プーチンと首脳会談。ロシアのこの二国の独立承認は認めないとしたものの、黒海を挟んでウクライナ、ロシア両国とは隣国関係にあり、双方と独自の関係を持つトルコは、中立的立場で解決を望んでおり、NATOの対応に期待するとの話。

前回、この事件が将来的に中東に戦争をもたらすのではないかという妄想を述べたわけですが、その中心となるであろうイスラエルは、ロシアの動きにはかなり敏感に反応しています。私の妄想をイスラエルの人はもう少し現実味をもって妄想しているようで、二日前の次のイスラエルの新聞記事から、長いので断片的に少し。

米露間で第三次世界大戦や核ミサイルの応酬が起こることはないとは思うが、月曜日の夜から、ウクライナに関するにらみ合いは、間違いなく、1962年10月のキューバ・ミサイル危機以来、世界の安全保障において最も危険な時を迎えている。、、、今回のウクライナ侵攻の意味は、空間的にも時間的にもウクライナをはるかに超えたところにある。、、、プーチンは頻繁に「NATOの拡大」論とウクライナの軍事同盟への加盟を、彼の関連する不満と正当化として持ち出した。そのため、西側諸国は、プーチンの主張にも一理あると信じ始めた。
、、、アメリカは試されているのだ。そう、危機がドンバス地域を超え、中露の暗黙の枢軸形成の一部であることを認識しているのだ。そして、「アメリカの秩序」が挑戦されていることも認識している。
、、、うまくいけば、アメリカにとってもう一つの厄介な頭痛の種であるイラン核合意の締結と相まって、アメリカの信頼性とリーダーシップを回復することになる。しかし、バイデンは、自分がロシアに対処するために選ばれたのではないこと、そしてウクライナの解放者として再選されることはないだろうということを、最初に認めることになる。

わかりにくい言い回しですけど、イスラエルの新聞にこの記事を書いた人はこれをキューバ危機に例えるほどの事態であると考えており、バイデンにはこの危機を乗り切ることはできないだろうと考えているということでしょう。

この揉め事が長引けば長引くほど、アメリカとロシアとの対立は自然とエスカレートし、世界的核戦争に至る可能性は現実味を帯びてきます。キューバ危機の時と違って「強いロシア」を掲げるプーチンは自ら引くわけにもいかず、バイデンも振り上げた拳を降ろせぬまま、事態は悪化していくでしょう。

ひょっとしたら、この対立の平衡を崩すのは、イスラエルのもつ危機感なのかも知れません。
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ウクライナ侵攻と世界大戦

2022-02-22 | Weblog
近頃、あまり明るい話題がみあたりませんな。ここしばらく関心の的になっているのが、ロシアのウクライナ侵攻の可能性。NATOに対するロシアの対抗策ということです。当初は2月16日、それから冬季オリンピックの終了時に侵攻すると予想されておりました。とりあえず、それは回避されたようですが、現在もロシアはロシアとベラルースで軍事演習を継続。8年前のウクライナのクリミア半島のロシア併合のことも念頭にあるでしょう、バイデン政権は警戒をとかず、強い口調でロシアを牽制しつづけています。クリミアはロシア軍事的重要拠点ではありましたが、その併合はむしろ多数派のロシア系住民が望んだという事情もあります。それで、今回もロシアはウクライナのロシア系住民の保護を口実に侵攻するとアメリカは考えているようです。事実、クリミアほどではないにせよ、ウクライナの東南部はロシア系が多く、ロシア語が主に話されている一方、北西部はウクライナ人が主です。

クリミアは黒海を渡りイスタンブールを経由して水路で地中海にアクセスするために便利な軍事拠点であり、8年前のクリミア併合と今回のウクライナ侵攻は戦略的に繋がっていると思われます。

ニュースによると、今回のロシアの軍事演習では「艦艇から巡航ミサイルや極超音速巡航ミサイルなどを発射する演習を実施し、東へ数千キロ離れたカムチャッカ半島の目標を狙い、ロシア北西部とバレンツ海の潜水艦から弾道ミサイルを1発ずつ発射した」そうです。また、ロシアのラブロフ外相は「この地域におけるロシアの主権を無視すれば、欧州大陸だけでなく、世界の安定に逆の効果をもたらす」と語った、とのことです。記事では深く解説されていませんが、この演習内容や外相の言葉が、私には、かなり不吉に聞こえます。

ウクライナ周辺地域のロシアの権利の保護が目的ならば、なぜ、ロシアは長距離ミサイル、しかも潜水艦や艦艇からの発射演習をしたのでしょうか。ロシアが船を使って長距離ミサイルを打ち込むとしたら、相手は当然、アメリカを想定しているはずです。加えて、ラブロフ外相の言葉は、より直接的に世界大戦の可能性を述べたものです。つまり、今回のロシアの軍事行動は対アメリカがその線上にあり、アメリカ側も当然ながらロシアとの武力衝突をリアルな可能性として感じているということだと思われます。

戦争というのは為政者にとっては何かと都合のよいもので、国内の不満を逸らせ、非常事態を口実に、火事場泥棒的に国民の権利や財産を取り上げ、国債を踏み倒し、ナショナリズムを煽って、権力の拡大を図ることが同時にできます。日本では、アベ一味らが、怪しい口実を並べては、内閣の独裁権力の獲得を目指して、緊急事態条項を手始めに着々と歩をすすめ、露骨に最終段階の憲法にまで手をつけて、自由に戦争ができる形を作ろうとしています。彼らにとって戦争はただの口実ですから、いざ世界大戦が始まった時にバスに乗り遅れて、その機会を逃さないようにしたいのでしょう。

ロシアにおいては、特に「強いロシア」をスローガンにナショナリズムを煽るプーチンにとって、複数の意味でウクライナ侵攻は魅力的なのではないでしょうか。近年はアフガニスタン、イラク、かつてはベトナムに朝鮮戦争などなど、第三国への軍事介入では、アメリカは第二次世界大戦以後、ずっと失敗の連続で、国外への軍事介入を縮小させているアメリカは、今回のロシアのウクライナ侵攻に対しても直接の軍事介入はするつもりはないし、ドイツはそもそもウクライナを通じて供給されるロシアの天然ガスにエネルギーを依存しているので、ウクライナを戦場にしたくないというわけで、アメリカ、NATOは動かず、ロシアが侵攻すればほぼ瞬時にウクライナはロシア支配になると思われます。侵攻のタイミングを伺っているのは、ウクライナ制圧後のことを考えているからででしょう。アメリカは軍事介入はしなくても経済制裁は課してくるので、その問題を現政権が処理できるかどうか、そういったことのシミュレーションをやっているのではないでしょうか。

さて、ロシアがウクライナを押さえ、西側からのNATOとアメリカに対して軍事的緩衝を得た場合に、将来的に何が起こり得るのか、ちょっと妄想してみました。

最近は、話をあまり聞きませんが、数年前の一時期、イランの核開発の動きに対して、アメリカがイランに経済制裁を課したり、ネタニヤフ政権のイスラエルがかなり強硬な態度に出ていました。無論、イランの核開発は表向きはエネルギー対策ということですけど、核兵器が目的なのは間違いないでしょう。イランが核兵器を保有したい理由も核保有国であるイスラエルとの力関係の平衡をとるのが主目的の一つではないかと想像します。このイスラエル対イランの対立はネタニヤフの昨年の退陣を受けてやや緩和したように思われますが、ネタニヤフは復活を目指しているという話ですから、数年後にイスラエルの対イラン姿勢がどう変化するかはまだまだわかりません。イスラムとユダヤとキリスト教徒の共通の聖地であるエルサレムがバレスティナにある以上、イスラエルとイスラム系国家との間に宗教的摩擦は無くなることはなく、イスラエルもイランやその周囲のイスラム世界も、いわば一触即発の状態で睨み合っている状態と思われます。

この地は、聖書のもとになった歴史的出来事がおきた場所であります。聖書を予言の書として解釈する人々によりますと、Ezekiel書は次の世界大戦のことを述べていて、それはイスラエルとイラン間の緊張から引き起こされると解釈できるそうです。その解釈によると、イスラエルとイラン間で戦争が起きた後、ロシアはイランを支援することになります。結果、イランに加勢するロシア軍がその他東欧国およびエチオピアからなる連合軍を率いて中東に侵攻します。アメリカもイスラエルをイスラムとロシアに明け渡すのを許しませんから、イスラエル側に立って参戦、結果、イスラエル-アメリカ 対 ロシア連合軍による世界規模の核戦争になると解釈できるそうです。その時点でロシアはアメリカ本土を潜水艦からの核弾頭ミサイルを使って攻撃することになります。そう考えると、今回のロシアの軍事演習での潜水艦からの中長距離ミサイル発射は、来たる世界大戦で、地中海からのイスラエルへの攻撃および、太平洋、大西洋の潜水艦からの長距離ミサイルでのアメリカ本土都市への攻撃を想定してのことなのかも知れません。

この話が本当におこるとすると、素人考えでは、ロシアの中東へ侵攻には、まずウクライナをロシア側につけて、西からのNATOの動きを止めた上で、クリミアから黒海を通って地中海側に海軍を送る一方で、陸路ではコーカサスを通って南下し、聖地からユダヤを追い出すという名目で、イラン、イラク、シリアのイスラム圏を巻き込んで東側からイスラエルに迫り、東西から挟み撃ちにするのではないだろうかと想像します。

とすると、ウクライナをロシア側につけることはロシア連合軍の中東侵攻への第一歩であり、今回のウクライナ侵攻は来たる第三次世界大戦の序章なのかもしれません。
(という妄想でした。お付き合いありがとうございました)
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学術論文雑誌について

2022-02-18 | Weblog
この間の科学論文出版業界を皮肉った動画の続編がアップされていたので、紹介。


これは、主に税金を使って行われた研究成果の発表の場を提供している商業雑誌が、購読料、掲載料を研究者から集め、研究者の編集労力を無償で利用してビジネスをするアカデミア出版の不条理についての風刺ですが、こうした商業雑誌が年間、20 billion $レベルのビジネスであり、その利益率は40%にも上がり、グーグルを越えている、という話が出て驚きます。これが本当だとすると、あくどい商売にしか聞こえません。この場合はお客が納得して非常識な額の掲載量を払ってNatureブランドを買うわけですから、ぼったくりバーとはわけが違いますけど、Natureに掲載料を払うのは、銀座の一流店のホステスに貢ぐのと同じようなものでしょうか。普通の感覚では理解できない論文出版のビジネスに研究者がなぜ金を払うのか、と理詰めで問いかけられて、最後は涙目で、「金の問題じゃない」とつぶやかざるを得ないところが同情を誘いますね。

私、NatureもScienceもフロントページの記事が楽しみで購読していますけど、この二つの雑誌には基本的姿勢に違いがあると思います。Natureは商業雑誌、金儲けを目的の一つにしています。一方、もともとエジソンとベルの資金で始まったScienceはその後、非営利団体であるAAASが引き継いだ団体機関紙であり、基本的にはメンバーのための雑誌であって、メンバーシップ費を引くと購読料そのものもNatureより安いです。この違いを考えると、Natureは銀行、Scienceは信用金庫に喩えられるかも知れません。つまり、銀行は銀行の金儲けのために顧客と取引をするが、信用金庫は組合員の利益のために金融支援をするという目的の相違が、商業雑誌と非営利団体機関紙との関係に似ているように感じます。

主に税金をつかった研究が論文になるいう点からもアカデミアの論文は、大学紀要やPNASなどの非営利団体の機関紙、PLoSやeLifeなどの非営利雑誌、で発表されるのが望ましいと私は思います。日本からNatureに論文を載せれば、日本の税金が間接的にイギリスの一商業出版社に流れるのです。

Natureのフロントページの記事には購読料を払う価値があると私は思いますけど、Natureが学術論文発表の場である必要はなく、むしろ、サイエンティフィック アメリカンやニュートンやかつての朝日科学のような二次情報の発信にフォーカスした雑誌になった方が私にとっては嬉しいです。

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ビッグ エゴの時代の終わり

2022-02-15 | Weblog
このところ、アメリカのアカデミアで有名研究者のパワハラ、セクハラの不祥事が相次いでおりますが、今回のEric Landerの事件を元に、研究業界のこの問題について論じた記事を目にしたので、一部をDeepLしてみました。

The fall of Eric Lander and the end of science’s ‘big ego’ era (Eric Landerの転落と科学界の「巨大エゴ」時代の終わり)

バイデン大統領の主任科学顧問であったエリック・ランダーの辞任は、ある大統領の研究推進計画に対する打撃であるだけでなく、ある種の科学のやり方の死への行進の兆候でもある。それは「ビッグ サイエンス」ならぬ、「ビッグ・エゴ」とでも言えばいいのだろうか。

科学において、「ビッグ・エゴ」は必ずしも新しい現象ではない。しかし、ここ数十年の間に、学問的な議論に見られるような険悪な議論に対応でき、また、ゲノムのマッピングや細胞内の分子変化が癌につながる仕組みの解明など、ある種の科学的発見をするために膨大なリソースを集められる研究者の出現によって、この現象は大きくなってきた。

このような仕事を成し遂げるには、かつては人並み外れた個性と、科学の意味だけでなくそれを行うことの興奮を、一般人や寄付者、政治家に伝える能力が必要だと考えられていた。ランダーが得意としたのは、この世界であった。彼は何十年もの間、世界で最も引用される科学者の一人であっただけでなく、研究帝国を築いた管理者でもあったのだ。

このプロジェクトは、ノーベル賞受賞者であるジェームズ・ワトソンが中心となって進められた、最初のヒトゲノムの配列決定に向けた政府の取り組みであった。(E.O.ウィルソンはワトソンを「私がこれまでに会った中で最も不愉快な人間」と呼んだ。) 近年、ワトソンは人種差別的、女性差別的な発言で科学界の権威から勘当された。しかし、1990年代には、DNAの二重らせん構造の共同発見者として、まさに研究費の流れを作るために議会に呼ばれるような人物であった。

ランダーが関わった当時、彼は数学者で元ビジネススクール教授、マサチューセッツ工科大学のホワイトヘッド研究所で配列解析センターを立ち上げた人物である。、、、ランダーは、ホワイトヘッドにある大規模なDNAシークエンスセンターの監督を任されたが、官僚的な厳しい争いの末、これを新しい組織、MITとハーバードのブロード研究所(ちなみに、この組織は富豪のドナーの名前に由来する)に移したのである。そして、ランダーのリーダーシップのもと、ブロード研究所は、おそらく世界一の遺伝子研究の中心地となった。

、、、かつて遺伝子情報を自由に利用できるようにするために戦っていた時代には許されていた振る舞いは、現代のホワイトハウスでは許されなくなっている。彼が新しいキャンサー・ムーンショットやARPA-Hという政府内の新しい科学資金調達の仕組みを作ろうとしたことで、彼の昔の悪いやり方が蘇ったのだろう。もしかしたら、彼はいつだって嫌な奴であったのかもしれない。

、、、騒動の火種はたくさんあった。ランダーが遺伝子編集技術CRISPRについて書いた2016年の論文で、彼がブロードの努力を誇張し、後にノーベル賞を受賞したジェニファー・ダウドナやエマニュエル・シャルパンティエの貢献を最小限に抑えるかのように書いたことを、多くの科学者は、いまだに憤っているのだ。

ランダーの最近の行動がもたらす結果は、公的知識人としての役割を著しく低下させ、深刻な事態に至る可能性がある。すでに、米国科学振興協会(American Association for the Advancement of Science)は、科学者の最大の集まりの1つである年次総会から彼を除名している。ランダーが次にどこに行くのか、また、ブロードに戻ることが歓迎されるのかどうか、疑問が残る。

、、、これまでなら公然と同僚をいじめたり見下したりしていた人たちも、自分の目標を達成したいのなら、もはや、そんなことはできないということを知ることになる。、、、ワトソンがついに完全に色あせたのは、2007年にイギリスの新聞に「黒人は白人ほど知的ではない」と発言してからだった。2019年に再び同様の発言をした後、彼は最後の名誉称号を剥奪されたのだった。
、、、、、
科学とは、結局のところ、野心と好奇心の上に成り立つものである。そのためにはエゴは必要だ。しかし、それはそれほど大きなものである必要はない。


というわけで、記事にもあるように、野心はエゴから生まれ、エゴは科学研究にかぎらず、人間の多くの行動のエネルギー源です。「自分が他人より優れた人間であると証明したい」という自己愛と自己顕示欲があるからこそ、彼らは必死に勉強して一流大学に入り、そして一流大学の教授や企業のトップを目指します。その目的のために強引なやり方で他人に犠牲を強いることもしばしばあります。しかし、それはもう許されません。

この手の典型的な野心あふれるビッグ エゴをもつ秀才連中と関わり合いになることが、私は少なからずありました。私はこの手の人々の発するアクというか毒気が苦手です。ツイッターでは、有名雑誌に論文が載ったとか、特大グラントを当てたなどという研究者のツイートが毎日ながれてきますけど、その短い文章のびっくりマーク付きのハイテンションなトーンから滲み出すエゴには時にウンザリします。基本的に野心的な研究者というのは自己顕示欲が強いものですが、一方で、そんなエゴの張り合いが、研究へのエネルギーになっているのは間違いないと思います。

しかしながら、かつてのように一部の成功者が強いリーダーシップを発揮して大規模プロジェクトを推進し、そのためには、彼らの独裁者さながらのエゴを野放しにして、人々が多少の迷惑を被るのもやむを得ない、という考えは許されない時代になりましたと思います。上下関係の構造が組織の機能に必要だった昔なら、愛の鞭やエッチな冗談と見過ごされたであろうものでも、今ではパワハラ、セクハラですから。という事情で、総じて、高齢の教授たちは、ランダーには同情的です。しかし、個人の権利は、国家レベルで達成される科学の成果よりも優先される時代です。私も目的を達成すること以上にとる手段が正しいことの方が大切だと思います。国家が科学技術の振興を図ろうとするのは、そもそもその国の人々の幸福に資するためです。しかるに、国の科学政策アドバイザーのランダーはその目的にもかかわらず、身近な数人の人々を直接不幸にしてしまいました。ホワイトハウスはそれを許さなかったのです。
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Preprintでのピア レビュー

2022-02-11 | Weblog
2/7のScineceのフロントページで、悲しいニュース。今度は、バイデン政権のサイエンスアドバイザーとなったEric Landerの醜聞と辞任。主に女性の部下へのいじめと侮辱のこと。たいへん残念です。私が初めて彼の名を知ったのは、MITのWhitehead Instituteで遺伝学研究者として活躍していたころで、以後、学会などで、何度か彼の話を聞いたことがあります。非常に話がうまく、カリスマに満ちた人でしたので、こんな一面があることを知って驚きました。昨年のDS氏の事件といい、Whiteheadには白人男性優越主義みたいなものがはびこっているのでしょう。思うに、DS氏もセクハラで昨年失脚することがなければ、10年後にはLanderのような立場になっていたのでしょう。Whiteheadに限らず、この界隈の有名研究者のこの手の事件には枚挙がないわけで、つい二日前にも同じ町内の有名大学の教授がセクハラで訴えられたというニュースがありました。多分、これは氷山の一角のさらに一角にしか過ぎないのでしょう。

記事の中では、Landerは「ジキルとハイド」的性格で、外面がよい一方で密室では豹変するとコメントされていました。ま、野心的で成功街道の真ん中を疾走する研究者はエゴも大きく、自然と他人を見下すような態度が密室ででてくるのでしょう。残念ながら、人間的成熟と研究業績には相関はなく、アカデミアではむしろ有名な成功者ほどクソ野郎が多いというのは、この世界に長くいた私の印象ですが、今回の事件は、ただただ残念です。今回は、アカデミアの狭い世界ではなく、政権のアドバイザーという立場で、規模が違う扱いで、主要メディアで拡散されましたから、今後のBroad Instituteでの彼の立場にもかなり影響するでしょう。

さて、話を戻します。現在、ピア レビューが雑誌への掲載と結びついており、雑誌のランクによって研究者が評価され、その評価にそって金やポジションが配分されるというシステムになっているわけですが、その問題について思うところを書いてきました。

つきつめれば、資本主義の原理で世界が動いており、アカデミアの研究業界でも同じく、金と地位を奪い合う競争の勝敗を決めるために、研究者の評価をどう行うかということだと思います。今のシステムが不公平で非効率であることは論を待ちません。ま、資本主義というのは不公平さを作り出すことによって成り立っているわけですが、そこを置いておいても、そもそも、雑誌のランクで業績を評価するということが間違っていると思いますけど、どうしてもメトリックスが必要なのであれば、pre-printでも比較的公平な評価システムを導入することは可能だと思います。

実際的で具体的な妥協案として、例えば、pre-printサイトを使って、評価を受けたい論文は著者が数を限定して選択し、評価希望論文として発表し、評価は評価者のコメントに任せるという方法にすればどうでしょう。評価者は無論ピアになるわけです。そして、論文の責任著者には、評価を希望する論文数 x 3ぐらいの数の他のpre-print論文を実名で評価することを義務付け、ピアレビューの義務を果たさないと、投稿者の論文は評価されないようなシステムを導入すれば、うまくいけば、一つの論文は複数の読者によって評価されるでしょう。オープン サイエンスの時代、ピア レビューも実名で公開してやればいいです。そうすれば、レビューを書く方も相手の立場になってリーズナブルなコメントを書くでしょう。レビューを通じてレビューアの研究者も評価されるというオマケもつきます。また評価を受けることができなかった論文は、そのこと自体が評価となるようにすればいいでしょう。これなら、研究成果の発表を遅らせることなく評価を得られますし、評価は雑誌のレベルではなく直接論文に対して与えられることになると思います。また、出版のために、レビューアの要求するしばしば不必要で無意味な実験などをする必要がなくなります。

そもそも、所詮、研究者もカネやポジションを求めて競争せざるを得ないので、メトリックスが必要で、競争があるからメリットがあっても追求されない研究があり、競争があるので、信用できない論文が増えると考えられます。そして、信用できない、再現性がない、怪しい論文が有名雑誌に掲載された場合のネガティブなインパクトというのはバカになりません。STAPの時のようにすぐにインチキがバレるようなものならダメージは少ないですけど、再現実験が容易でないことを利用して意図的に不正を行ったベル研究所のJan Hendrik Schönのような人々も少なからずおりますから。

しかし、本当にこの金とポジション争奪競争は必要なのでしょうか。限られたリソースを効率的に振り分けるために競争が必要だ、という考えに我々は縛られすぎていると思います。本当にリソースは限られているのでしょうか?私は実はそうは思っておりません。この辺を話しだすと話の収集がつかなくなるので、今回は、これで一連のピア レビューの話は終わりにしたいと思います。
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ピア レビューとpre-print (2)

2022-02-08 | Weblog
ちょうど、先月投稿したリバイス原稿が再びリバイスになって返ってきました。そこについてきた理不尽なレビューアの要求にウンザリしましたけど、結局、現在のピア レビューなど、このレベルのものなのです。レビューアが実験の実際を理解していない場合に、非常識で理不尽なコメントを書くのもよくあることで、とりあえず、エディターにメールしてさりげなく根回ししておくことにしました。

このピア レビューの話、つらつら考えていくと、結局、アカデミアも含めてどんな世界であっても、所詮、この世は、金と力と色に名誉と、人間の欲望のエネルギーで動いているのだなということを改めて思います。こういうのはジャンクフードのようなもので、若い時は渇望するものでも、もう私の年では、胃もたれと胸焼けで気分が悪くなるのがオチです。

さて、少なからぬ人が矛盾を感じている論文出版のシステムですけど、そろそろ変わってもよい時期だと思います。
研究論文の出版には、少なからぬ研究者ボランティアによる編集作業やレビューの時間がついやされております。論文の作成や投稿プロセスは簡便になり研究のグローバル化によって中国などから投稿原稿の数は飛躍的に増えたにもかかわらず、この部分は、昔と変わらず一部の研究者の良心と義務感に依存しており、出版プロセスのボトルネックとなっていると思います。しかも、こうした状況下でレビューアの数も質も低下してきていると思います。

これらの問題を解決するためにも、私は、論文掲載の採否をピア レビューによって決めるやり方はもうやめたら良いと思います。そもそも研究者の善意の奉仕活動に依存しないと成り立たないシステムで、そのサービスの供与者と受益者のインバランスが大きくなりすぎた現在では、ピア レビューや編集を積極的に引き受けようとする人も少なくなる一方でしょう。そしてこのプロセスを利用してビジネスをしている出版社やその他の関係者の思惑がシステムを歪めている上、ピア レビューは徐々に意味の乏しい儀礼的なものに過ぎなくなってきているばかりか、しばしば不必要で意味の乏しい実験をレビューアが自身の興味ゆえに強要するパワハラとでもいうべき悪習が研究者の時間と労力を削るという弊害もおこしています。ついでに言うと、研究費配分におけるピアレビューによるメリットベースの評価法も益よりも害の方がおおきいと私は思っております。これは何年も前にコンピューターシミュレーションで、ピアレビューによる研究費配分はランダムに配布するよりも悪いことが示唆される研究がありましたが、この話はまた長くなるので別の機会にします。

研究成果を雑誌を通じて発表し、その採否にピアレビューを通すというやり方には明らかな問題があり、投稿論文の絶対数の増加、データリッチで複数の分野にまたがるような論文が増えてきた現状で、このシステムは不完全であるばかりかムダが多すぎると思います。ふつう、論文はランクの高い雑誌に投稿して、リジェクトされたら、別の雑誌に投稿する、ということを繰り返して大多数のものが、どこかの雑誌に着地するわけですが、今のシステムでは投稿の度にレビューアの労力は消費され、時間は経過していくというわけで、できの悪い論文ほど、多くのレビューアの労力を消費することになります。どうせどこかの雑誌に拾われるのなら、これは時間と労力のムダです。総じて出来に悪い論文でも、重要な知見が含まれていることはしばしばありますから、どこにも発表されなかったら、その知見は存在しないとほぼ等しいです。

その替わりに、例えば、各研究者は研究成果はオンラインでレビューなしで発表すればいいです。すでにbioRxiv やmedRxivなどのpre-printサイトがありますから、そのプラットフォームを利用すればいいでしょう。あるいはNCBIのPMCやPubMedのデータベースにマージさせるというような形でもいいかもしれません。これらは従来の多額の掲載料と購読料を払う雑誌社を通じた研究成果の発表方法よりもスピーディーで、はるかに低いコストで運営可能ではないでしょうか。もちろん、preprintの弊害というものもありますし、これは前回紹介したNat Medの記事でも考察されていますが、研究者のレベルでいえば、preprintの有用さに疑念の余地はありません。

ここまではいいのですが、そもそもランクの高い(インパクトの大きい)雑誌になぜ、研究者が発表したがるのかということです。研究者がNatureブランドが好きだから、Natureはあのように高飛車なのでしょう。それは、論文の評価が研究者の評価、ひいては、研究費とポジションに結びついているからであるのは自明です。結局は金と力と、たまに色(研究室の上司が異性の部下にほにゃららラララということはよくあるようですから)ちゅーわけで、これらに無縁でかつ胃もたれ胸焼けの私は、余計にバカらしくなってしまうわけです。

ま、しかし、人間の欲望は研究のエネルギーのもとですから、これを止めるわけにはいきません。ランク付けが現行のシステムで必要なのもやむを得ません。しかし、研究者の評価にを掲載雑誌のランクを使うという悪習は簡単にやめられるはずです。影響力の大きい人、たとえばNIHにディレクターなどが、トップダウンで研究者評価に掲載雑誌のインパクトを考慮してはならないと、一言、言えば。

その辺の話はまた次回。

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ピア レビューとpreprint

2022-02-04 | Weblog
ピアレビューと論文出版の問題について、長々と書いてきました。私はピア レビューを通じて論文の出版の適否を決めるやりかたを廃止することを提言してこの話を終わろうと思って、その話を書き始めたところでしたが、最近のNature MedicineのフロントページでCOVID研究におけるpre-printの役割について考察した記事があったので、ちょっと予定を変更して、それをリンクしたいと思います。Pre-printは出版前の原稿をレビュープロセスを経ずに公開しますから、ピア レビューのない発表方法であり、かつ高額の出版料とも購読料とも無縁です。この発表方法の弱点や欠点も当然ありますけど、私は益の方がはるかに大きいと思います。

ところで、生命科学における研究のトレンドを出版論文数によって解析したデータをしばらく前、Twitterで目にしました。論文出版のデータベースが使える期間内での解析ですけど、COVID関連の論文数は圧倒的でした。二位はたぶん結核関連の研究ですが、何十年にもわたるがん研究やその他の研究分野をはるかに圧倒する数の論文がこの二年ほどで出版されたのです。それが起きた理由の一つのはpre-printにを通じた迅速な知見のdisseminationであったと私は思います。

下の記事で、今回のCOVID研究発表の経緯を通じて、著者は、オープンサイエンスのあり方、ピアレビューの問題、研究論文によって研究者の評価が行われることの問題、科学的厳密さと迅速さやインパクトのコンフリクトが論文の質に与える影響など、例をあげてバランスのよい考察をしています。オープンサイエンスの流れは加速するのは間違いないでしょうが、そこで生まれるであろう問題はオープンサイエンスそのものから生じているのではなく、研究者の発表研究の評価方法の問題でから派生すると思います。もっと踏み込んで言えば、研究や研究者を評価してランク付けしてポジションやカネを競わせる業界の資本主義的システムにつきものの問題であると思います。

ちょっと長いので、半分以上端折りましたが、興味のある人は原文をDeepLしてみてください。

中国・武漢で発生した肺炎の集団事例を知ってから2週間以内に、世界保健機関(WHO)はSARS-CoV-2と呼ばれることになる新型コロナウイルスに関する最初のガイダンスを発表した。その数日後、オープンアクセスのプレプリントサーバーbioRxivにCOVID-19に関する最初のプレプリントが掲載された。この研究は、入手可能なわずかな情報に基づいて、ウイルスの感染性をモデル化しようとするものであった。、、、、

COVID-19に関する論文は、パンデミック発生から4カ月間で19,389件も共有され、その3分の1がプレプリントで、フィルターを通さず、誰でも見ることができる。この数は、科学者たちがCOVID-19の治療薬の発見、ワクチンの開発、ウイルスの変異体との格闘を急ぐにつれて、着実に増えていった。プレプリントは、迅速なデータ共有に役立ち、研究を促進することになった。しかし、それは同時に、科学的プロセスの内幕を新たな読者にさらし、パンデミック研究の最良と最悪の状態を露呈することにもなった。、、、「われわれはオープンサイエンスの道を進んでおり、その道はさらに加速される」、、、 「私たちの選択は、それを止める止めないではなく、どう責任を持って進めるかだ」

、、、プレプリントの利点で、明らかに際立っているのは、英国のRECOVERY試験の最初の結果である。、、、デキサメタゾンは薬局の棚にあるような安価で一般的なステロイド剤で、呼吸補助を受けている重症患者の死亡率を最大で1/3まで減少させた。「昼休みに発表したら、お茶の時間には、(デキサメタンソンが)イギリス全土で使われていた」、、、、デキサメタゾンが世界的に大きな影響を与えたにもかかわらず、ホービー氏は、プレプリント出版のスピードは諸刃の剣であると言う。危機的な状況下での迅速なデータ共有が可能になり、研究者はフィードバックを受けて研究を改善することができる。しかし、プレプリントは、拙速な科学から生まれた魅力的な結果が、批評を受ける前に一般の読者に届くという門戸を開くものでもある。

、、、もはやオンライン上に存在しない一つのプレプリントがある。2020年4月初旬にSSRNサーバーに投稿されたこの観察研究では、抗寄生虫薬イベルメクチンが生存率を向上させることが示唆された。このデータ(現在は信用されていないSurgisphereデータベースのもの)は、当時のアフリカ大陸での症例数よりも多くのアフリカ人患者を含んでいた。しかし、この研究論文は5月に消える前に、ペルー政府に提出された白書に引用され、COVID-19の治療にイベルメクチンを使用することが推奨され、その翌週には、国の政策として採用されてしまった(ただし、これは後に撤回された)、、、その影響は大きかった。イベルメクチンの人気は、この薬がきちんとテストされる前に急上昇してしまい、この誇大広告が甚大な被害をもたらしたのだった。
、、、
査読の問題 - パンデミックの出版ペースは、査読の欠点も拡大させた。査読に通ることが質の高い科学と認定されることとイコールであると考えるならば、ジャーナル出版物は未審査のプレプリントよりもはるかに危険である可能性がある。、、、ヒドロキシクロロキンの場合、「方法論的に重大な欠陥」があるフランスの研究が、投稿から1日も経たないうちに2020年3月に出版が認められ、この薬剤の世界的な需要を煽ることになってしまった。、、、9ヵ月後、ヒドロキシクロロキンはCOVID-19の治療には役に立たないという有力な証拠があるにもかかわらず、依然として通常レベル以上に処方されていたのである。そして、この論文は撤回されていない。、、、また、世界で最も権威のある医学雑誌『The Lancet』と『The New England Journal of Medicine』に掲載され、撤回された2本の論文は、調査の結果、大規模な実データが捏造されていたことがわかった。サージスフィアのスキャンダルは、科学とピアレビューのあり方そのものに疑問を投げかけることになった。
、、、、
プレプリントの提唱者であるゴパラクリシュナ氏は、オープンサイエンスの推進は、研究の質を向上させるためのより深い努力と手を携えて行わなければならないと述べている。これには、データの完全な共有、試験開始前の研究プロトコルの登録報告書の公開、透明性と説明責任を高めるために政策決定に使用されたモデリングの公開などが含まれる。

ゴパラクリシュナ氏はまた、研究者や大学、研究機関が問題のある研究慣行について議論することさえ嫌がることを懸念している。、、、、「私たちは論文の数で報われているのであって、科学の質や厳密さ、査読への貢献で報われているのではありません」と彼女は言います。学術界の「Publish or Perish(発表するか、廃業するか)」精神が、研究者に大げさな研究や中途半端な研究を早く発表する逆インセンティブを与えていることにChaccour氏は同意しています。、、、

"Publish or Perish"、つまり"弱肉強食"の競争社会で、限りあるカネをポジションを奪い合うというアカデミアのシステムそのものが、科学研究のインティグリティを損なう根本原因であって、ピア レビューだとか規制強化とかの対症療法をいくら重ねても根絶はできないでしょう。むしろ、そういう部分に割かれる研究者自身の時間や労力はマイナスではないでしょうか。というわけで、続きはまた今度。



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ピア レビューの崩壊 と出版ビジネス

2022-02-01 | Weblog
というわけで、ちょっとした愚痴のつもりでしたが、思いのほか、ピア レビューと論文出版の話が長引いてしまいました。

この論文出版の矛盾だらけのシステムは崩壊寸前だと思います。遠からず、研究発表の方法は変わっていくでしょう。コロナによって学会がオンライン化したことによって人々の科学コミュニケーションへの意識もこの二年で随分変化したのと同様に、従来のピア レビューと(主に)商業雑誌をプラットフォームとする研究成果の発表スタイルも、何かのきっかけ一つで激変する可能性があると思います。

一昨年、NatureはOpen-accessオプションを追加する計画を発表し、その出版料が約$11,000になるという話がありました。この金額には多くの人にショックを与えましたが、多くの研究者の人は出版システムについて不満を持ちつつも基本的に受け入れざるを得ないという態度です。一方、商業雑誌のやりかたに異を唱えて声をあげる人も昔からいて、PLoSやeLifeなどの試みが行われて、一定の成功を得てはいますが、まだまだNatureブランドは強いです。

下のツイッターに投稿された動画は、眼科研究者兼コメディアンの人がNatureのこのOpen-access化について風刺したものです。

Natureの全ての記事をオープンアクセスにするのならともかく、一部の記事をオープンアクセスにしたところで、想像するに多くの人は研究施設や大学の購読を通じて記事にアクセスするでしょうから、Natureの購読料収入に大きな変化があるとは思えません。オープンアクセスを望む論文になぜこれだけ高額の出版料が必要なのか理解困難です。

この一人ショートコントの中で語られているように、研究者が、Natureなどの有名雑誌に発表したいというのは、それが研究者のカネやポジションや名誉に結びついているからです。論文サーチシステムが発達した現在では、知見をシェアするために購読者が多い雑誌を利用するという本来の目的は二次的なものになっていると思います。雑誌社、とくにハイ プロファイルな商業雑誌はそれを利用してビジネスをしているわけですが、そもそも税金が主な原資であるアカデミアの研究の発表のために雑誌社に、一本150万円近くの掲載料を払うことが正当化できるでしょうか。Natureに載せるためなら高額の掲載料も喜んで払う研究者がいるから、NPGはこのレベルの額を設定するのだと思います。

オンラインジャーナルであるNature Communicationsが$5,000以上の掲載料を正当化しようとした時のロジックも妙なものでした。他の雑誌でもカラー印刷料などを含めれば、それぐらいの費用になるからその値段は高くはないというような議論で正当化しようとしていましたが、そもそもNature Communはオンラインジャーナルですからね。多分、Natureの上位雑誌は、オンラインジャーナルのNature Communが$5,000以上するのだから、紙媒体でも発行するNature上位雑誌のコストはその二倍が適正だとでもいうのでしょう。

さて、NPGは極例でしょうけど、利潤を追求する商業雑誌を通じて、研究を発表することにそもそもの問題があると考える人も多いと思います。本来、雑誌社にとって雑誌のコンテンツは商品であり、消費者に商品を売ることと引き換えに購読料を通じて利益を得るというのが建前です。しかるに学術論文においては、雑誌社は発表のプラットフォームを提供しているだけで、実際には、研究者がコンテンツを無料で提供し、その編集を行い、掲載料を払い、そして購読料まで払っていますから、雑誌社の利益はほとんど不労所得であるとも言えます。

下の二年前のツイートは、論文出版を、乳牛(研究者)と牛乳(論文)と農夫 (出版社)に例えたもので、なかなか喩えが面白いので、ツイッターで盛り上がりました。

このツイートのレスポンスをまとめた記事がありますので、興味のある人は見てみてください。レスポンスのツイートの一つにでてくる「鶏」は何の喩えなのでしょうか?


この論文出版プロセスは既得権益者の抵抗さえなければ、比較的簡単に解決できると思います。

長くなったので、つづきはまた次回にします。

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