実家のある田舎町は、バブルの末期あたりから市のサービス関係を集約させるプロジェクトを始めました。かつて城下町であったため、城と城下町をイメージした派手なガラス張りの市役所ビルを城跡のある丘の上に建てて、文化ホール、図書館、体育館やフィールド、プールのある総合運動公園などを配置しています。実家での休暇の間、本を読んだり勉強したりする必要があって、図書館にはちょくちょく行きました。
このちょっと奇抜で眼を引く建造物が丘の上に並んでいるので、かつての城のように町から眺める分にはいいのですけど、丘の上にあるため、自転車で行くのはちょっと大変です。公共交通機関もバスがたまにくるぐらい。最寄りの電車の駅からは15分は坂道を登ることになり、アクセスは車がなければ不便なところで、図書館を利用する学生や車を運転しない高齢者にとっては使いづらいです。
図書館の規模は小さく、テーブル席も50席ぐらいしかありません。自習したりする学生の人々は、別館にある別の自習部屋で勉強しています。それも100席あまりしかなく、すぐ埋まってしまうようです。これでは学生の人や社会人がちょっと寄って勉強しようとか、読書をしながらゆっくりしようという気になりません。
もう少し大きい神戸市の中央図書館も同じような感じです。交通のアクセスは悪くはないですが、規模が小さく、書架のある部屋には基本的に自習するためのスペースはなく、読書用のテーブルも非常に限られています。自習用の閲覧室があるのですが、利用者数に比べて明らかに不足していて、時間制限もあります。
この日本の図書館設備の貧弱さは、悲しい限りです。図書館だけに限らず、公共設備は日本はどこでも総じて貧弱です。外に出たら、市や区のサービスは限られていて、ちょっと休んだりのんびりする場所というものがあまりありません。中国同様、平坦で人が生活しやすい土地に乏しい日本で、土地が貴重なのはわかりますが、だからこそ政府や地方自治体がそスペースを公共の目的に確保、保護する必要があると思います。
外国と比較するとその貧弱さが際立ちます。例えば、神戸市の約半分の人口のボストンの市立図書館は、規模は、蔵書量とスペースで、神戸市中央図書館の10倍はあるでしょう。図書館は石造りの立派なもので壁画や彫刻で装飾されており、内にはカフェや催し物会場もあるので、本を読まない人でも立ち寄って一休みするスペースはふんだんにありますし、自習しようとして席がないなどということはまずないです。もちろん、こうした公共サービスにはかなりの維持費や運営費がかかっているでしょうが、勉強したり本を楽しむ市民の活動をサポートしようとする姿勢が日本とは段違いに思えます。ヨーロッパでも同様で、市民の文化的活動の支援は充実しています。音楽会ひとつをとっても、日本の文化ホールや会館は、大抵、ただの箱と椅子で殺風景なものですが、西洋の音楽堂は一種の芸術的建造物である場合が多く、生の音楽をそのような環境で鑑賞するという総合的体験が得られます。元々は西洋の文化ですから仕方がないと言えばそうですけど、かつての神戸の繁華街の新開地にまだ僅かに残る100年前の劇場(すでに映画館などになってますが)などの佇まいなどはなかなか風情のあるもので、高い天井に瓦屋根や装飾が施され、かつては、観劇という「体験」を盛り上げていたであろうことが想像されます。そうした立派な建物を市や区などが買い上げて公共施設として活用すればいいと思うのですが、日本の行政は市民の文化的活動に金を使うことを無駄だとでも思っているようで、せっかくの歴史ある建造物が壊されてチープな商業施設に建て替えられてしまったりして失われてしまうのは残念なことです。
図書館の話に戻ると、日本では、家庭の事情などで、集中して勉強したいが、そのための場所がないという学生も多いでしょう。私も受験生の頃は主に図書館を利用していて、休みの日は朝早くから席取りに行ったように思います。なぜ、日本では勉強したい学生や市民をもっと応援しようとしないのでしょう。図書館の規模は10倍とは言わずとも少なくとも2倍以上にして、席数は3 - 4倍に増やすべきだと思います。地方自治体の主な収入は市税、区税、県税でしょうから、これには限りがあり、サービスの優先順位がありますから仕方ないですが、金を作り出すことができる政府が、日本の最大の資源である優秀な頭脳を持つ意欲の高い人材、に投資しようとする姿勢が見られないのは悲しいことです。
自民党政権にとっては国民がバカな方がいいのでしょうが、そんな一党独裁の国の国力がどんどん衰えていくのは当然の成り行きだなと思った次第です。