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百醜千拙草

何とかやっています

偏見と差別について(2)

2010-02-26 | Weblog
前々回の続きなのですけど、偏見については、私は比較的肯定的な立場であったのですけど、何かそれで済ませてしまってはいけないような引っ掛かるような感じが残るような気がしています。「偏見は良くない(以上、終わり)」みたいな教育に有意義性を認めないという立場は変わりません。とりあえず、偏見の良い所と悪い所を、順々に議論していってみたいと思います。

小学校の低学年のころは、友だちを選ぶのに家柄や国籍や住んでいる場所や親の職業などを考えて決める人は、まずいないのではないかと想像します。友だちになるかならないかというのは、ほぼ純粋に、交際時の個人的な経験のみによって、自然に決まることが多いと思います。しかし、時に、親が子供の向かって、「XX君とは遊んではいけません(あそこの家はYYだから)」とか言って、子供に智恵をつけていくわけです。その親や周囲の「教育」がなければ、偏見というものはもっと少ないはずだろうと私は思います。それでは、なぜ、親や周囲がわざわざそんな「教育」を子供にするのでしょうか?このことをよく問い返してみれば、少なくともそれを教える側にとっては、「偏見」が有用なものであると認識されているからだろう、という結論に達するのは自然なことではないでしょうか。
「XX君の親はYYだから、XX君はきっとZZだろう」あるいは、「日本人は黄色人種だからXXXに違いない」というのが、偏見というものでしょう。それは、何らかの(未来を)予測する一つのテクニックとなっています。この偏見の論理は、基本的に天気予報のようなもので、「雲が多くなってきたから雨が降るかも知れない」というのとほぼ同形です。この推論に基づいて、予期されるような危険や不便に対し、人は傘を用意したりするのだと思います。この偏見が個人の危機察知システムとして、自己防衛のためだけに使われる限り、それに有用性があるのは間違いないでしょう。
 我々一般人が、よく知らない他人をその人種や外見や社会クラスで判断しようとすると、偏見(prejudice)と呼ばれますが、空港のセキュリティーやFBIが同じことやると、プロファイリングと呼ばれます。空港の安全係の人は、イスラム系の人や旅行日程がかわっている人、航空券を現金で買った人などは厳しくチェックしますが、小さい子供のいる家族連れの場合は、そのチェックは甘いわけです。当然これは差別なわけですけど、この差別が行われる根拠としては、イスラム系の人にテロリストが多いという事実に基いて、危険を効率よく見つけるための方策なわけです。同様に、「XX君と友だち付き合いしてはいけない」と親が言うとき、その子とつきあうことによって、上昇すると考えられる危険を避けようとしている場合が多いのではないでしょうか。例えば、その子の家がヤクザで自宅にしばしば実弾が撃ち込まれているのだけど、ウチの子はXX君の家のビデオゲームで遊ぶのが大好きである場合などはどうでしょう。そういうケースでXX君と友だち付き合いすることによって、巻き込まれるかも知れない危険を回避するベストの方法はXX君とつきあわないことであると親が判断するのは自然であろう思います。偏見がそういう将来の危険を減らそうとするために発達した智恵なのであれば、そのそのメカニズムそのものを抑制することは、少なくとも近視的には、偏見者の不利益になるであろうと想像できます。
 ですので、例えば「君子危うきに近寄らず」というのは、その偏見に基く智恵である、と解釈できます。なぜなら、本当に危ういかどうかは、近寄って確かめるしか手がないからです。危うさに対する本能に逆らって、「本当は危なくないかも知れない」と近寄って、怪我をするのは愚か者である、と孔子は言っているわけです。この「危ういものと危うくないもの」を事前に嗅ぎ分ける技術をいうものは、私は大変重要であると思っています。極端に言えば、偏見は、自分の身を守るために有用な智恵であり、専守防衛に限って使われる分には、強力な武器なりうると思います。
(続く)
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長崎知事選の民主敗退の理由

2010-02-23 | Weblog
長崎県知事選で民主党候補者の敗退の理由について、新聞では、相変わらず小沢氏や鳩山氏の金の問題と結びつけようとしています。ネットでの意見はまだ余り出始めていないのですけど、私には、今回の敗退は、沖縄基地問題が未だに「ゼロベース」でLimbo状態であるのが原因であると思うのですけど、そういう意見が現時点で(小沢氏を叩きたい新聞に出ないのは当然かも知れませんけど)あまり見かけないのが不思議です。
 アメリカが辺野古への普天間基地の移設を希望しているのは、実は、辺野古の海岸が軍港に都合がよく、米軍基地の拡大に向いているからだそうです。つまり、辺野古の海岸に基地を移設するということは、実は単に普天間が危険だからという理由ではなく、もっと本格的に沖縄を米軍の永久駐留地としたい、という意志があるわけです。これを自民党が押して来たのは、アメリカへ日本の金で極東基地を提供し沖縄にツケをさらに押し付けることによって得られる「見返り」があるからこそです。我が身さえよければ沖縄の人々のことなどどうでもよい、という意識があったのです。
 国外移設を主張する社民党と連合政権を組んだ民主党は、口を濁したまま、とりあえず五月という期日をきって逃げました。その間にアメリカの意図を測り、交渉戦術を固めようということでしょう。国会前に決断を先送りにしたのは、私は賢明であったと思います。もしも、早く結論を出していたらどうだったでしょうか?辺野古移設を認めるという判断であると、連合を組んでいる社民党とは間違いなくもめて政権は不安定化するでしょう。そして、新聞は公約違反をネタに叩きまくるはずです。一方、辺野古移設をしない、という結論にすると、今度は、(旧政権時代に)一度は決めた国と国どうしの取り決めを反故にし、日本の安全保障を危険に晒すつもりか、と新聞に叩かれるでしょう。いずれにせよ、新聞に攻撃のネタを提供することになります。
 前にも書いたように、沖縄基地問題は民主党政権のアキレス腱となる可能性がある大きな問題です。この問題、日本が独立国家としての誇りをもった一人前の国でありたい、と国民が思うならば、結論は、国外移設しかありません。「安全保障」とかはただの言い訳で、有事の際にアメリカが日本を守ってくれる筈などないというのは、中東の泥沼戦争で忙しく国家の経済力がどんどん落ちて行っているアメリカを見れば、小学生でもわかるでしょう。安全保障という点からは、日本は中国と協定でも結んだ方がましです(もちろん、実際は不可能ですけど)
 さて、米軍基地を国外移設できるかどうかは、アメリカが極東基地としての辺野古をあきらめれるかどうか、そして金の問題でしょう。もし、グアム近辺に軍港になるような海岸があって、移設費用を日本が出すのなら、アメリカは二つ返事だと思います。そもそも、米軍の殆どを5年以内にグアムに移すというのはアメリカの計画なわけですし。思うに、辺野古であれば、軍の維持費は日本持ち、アメリカにとってはそれがベストに決まっています。しかし、いずれ、グアムに移るつもりのアメリカですから、もし辺野古でないならば、日本の別の土地に基地を移すメリットはないでしょう。ですので、日本政府が辺野古案を拒否して、十分に金を積めば、すなおにグアムに直行してくれるだろうと私は思います。
 新聞は、辺野古にはヘリポートを移設するだけで、危険な普天間基地での事故を減らす目的だ、みたいなことを言うわけですけど、勿論、本音では軍港としての永久的基地の拡大を前提としている、というようなことは報道しません。ですので、日本本土の多くの人が、もし辺野古案も国外移設案もダメになった場合に、国内県外移設の線が出て来たときのことを心配するのは、当然であろうと思います。(上記の理由で、私は、国内県外移設という線はまずないと言ってよいと思います)そして、長崎県はその国内県外移設となった場合の候補地の一つです。「ゼロベース」で普天間移設問題が議論されている状態の中での長崎知事選での民主党候補の敗退は、私が思うに、「長崎に米軍基地が来てもらっては困る」という県民の意思表示ではないかと思います。民主党候補の人も、もちろん長崎への基地移設反対を掲げてはいますが、与党推薦であるため、万が一、長崎県への基地移設案が浮上した時に民主党に顔を立てて寝返るかも知れない、そう考えて県民は投票を見送ったのではないでしょうか。ならば、票差はあるとはいうものの、若手で知名度が劣る候補であるということを考えると、それでも2位というのは、立派なものだと思います。一方、同じ理由で、自民公民からの候補に票が入ったのではないでしょうか。つまり、県民としては自公民の政策を応援しようという気はないと思うのです。票を入れた人は、もし長崎が米軍基地移転候補となった場合に、辺野古への移設を決めた時の政権政党であるが故に、「長崎への米軍移転には反対するはずだ」との考えにプラス前副知事で知名度で勝っていたという理由でこの人に投票したのであろうと想像します。
 ですので、この知事選での民主党候補の敗退の理由は、小沢氏の問題とかではなく、候補者自身の知名度の問題に加えて、基地問題の帰趨がはっきりしていない時期であるというタイミングが悪かったのだ、と私は思います。もし、この選挙が普天間基地問題がグアム移転と決まった後であれば、あるいは逆の結果となった可能性もあると思うのですけど、如何でしょうか。

追記。
過去の長崎県知事選での自民党と民主党の得票率を解析したデータをどこかのサイトで目にしました。それによると、過去の二回に比べて、自民党支援(または推薦、公認)候補の得票率は今回、最低となっているようで、一方、民主党推薦候補の得票率は今回、最高となっているようです。この傾向は、むしろ長崎県民の自民党離れ、民主支持が進んで来たことを示唆していると思われます。確かに得票数では大差でしたが、前回、前々回は、もっと極端な大差がついていたようです。
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偏見と差別について(1)

2010-02-19 | Weblog
細胞生物学研究分野で、もっとも有名な細胞株はHeLa細胞だと思います。この細胞株が、黒人女性、Henrietta Lacks (HeLaは頭文字)にできた子宮頸癌に由来するというのも結構有名な話であると思います。この間のNatureの書評欄では、The Immortal Life of Henrietta Lacks (Rebecca Skloot著)という本について触れられていて、そこにHenrietta Lacks本人の写真が出ていました。私は初めて、HeLaの生みの親(?)の人の写真を見ました。Henrietta Lacksが陰部出血と腹痛で発症したのが、1951年。当時、人種隔離政策があり、黒人が行ける病院は限られていました。癌の診断は、自宅から約30キロ離れたボルチモアのJohns Hopkins大学病院でなされ、その細胞の培養が行われました。
 この記述に、私はあらためて、この半世紀の間の社会の変化を実感しました。それほど昔とも思えない60年前は、黒人と白人は隔離されていたのです。アラバマのモンゴメリーでRosa Parksがバスの白人席から動かず逮捕された事件が起きたのが1955年でした。HeLa細胞株の樹立はそれより、更に4年前です。黒人の公民権運動は遠い昔のことではありません。
約一ヶ月ほど前、アメリカでは、Martin Luther King Jr Dayでという祝日がありました。昨年、オバマが民主党の大統領候補としての指名を受けた民主党党大会は、その45年前にKing牧師が、黒人公民権と人種差別の撤廃を訴えた”I have a dream”の歴史的スピーチを行った日でした。キング牧師は黒人公民権運動のリーダーでありましたが、1968年に暗殺されました。それで、彼の公民権、人権運動への貢献を記念して、1986年に一月の彼の誕生日が国家の祝日となりました。それで、この季節のアメリカの小学校では、差別問題と公民権についての教育が行われるのです。
 日本でも昔は、・という階級があって、その後、彼らが土地を持ってできた集落がとなりました。この民に対する大っぴらな差別は1970年代近くまで残っていたようです。私の子供のころは(今もでしょうか?)同和教育とかいう反民差別教育がありました。私が子供の時はそういう授業があるまで、民という人々とか彼らに対する差別があるということさえ知りませんでした。そもそも、小学校の子供に他の子供に対する差別意識などあるはずもなく、同和教育の意義も分かりませんでした。振り返って思えば、こういう教育を小学生にするのは、むしろ、有害ではないのかと思ったりします。
 先日、ウチの子供の小学校で、差別問題の教育のためと称して、ある実習のようなものがありました。その日、いつものように学校に行くと、半数の机の上に赤いカード、残りの半分に青いカードが置かれていて、赤いカードの席の子供は、その日一日、いろいろな差別待遇を受けるということです。例えば、食事の時には決まった場所に座らされるとか、遠いトイレを使わないといけないとか、そういうことらしいです。ウチの子供は赤いカードで、その日帰って来てから、トイレに不自由した、と文句を言っていました。ウチの子は、この実習(?)と差別や公民権侵害という話との関連が理解できなかったようで、私には、差別教育効果があったようには全く思えませんでした。私自身の経験から、そもそも差別意識など殆どない小学生にわざわざ差別を教えて、その実習までするというのは、余計なことだ、と余り愉快に思っていなかったのに、担任の先生が、保護者に「偏見と市民権」について書いてくれるようにとの手紙までよこしたので、私はすっかり不機嫌になってしまいました。私からみると、この担任の先生は、偏見と人権侵害や差別というものが、一繋がりのもので、偏見も差別も無くすことが正しいことだ、と考えているようなのでした。私は、偏見と差別や人権侵害というものを、そのように大雑把に考えるべきではないと思います。
(続く)
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CIA陰謀説は本当か

2010-02-16 | Weblog
小沢氏がなぜこのようにしつこく狙われるのか、そして小沢氏不起訴と同時に流れた亀井金融相の「郵便貯金でアメリカ国債を買って運用する」というニュースが意味するところは何か、を考察してあるサイトを見つけました。
  興味深いです。アメリカが日本の民間の富をずっと狙っていたというのは有名な話ですし、かんぽの宿問題にしても、郵政民営化にしても、アメリカがそれらの富を手に入れるための動きであったと読むのは納得できると思います。
 今回の、小沢氏の不起訴という幕引きが、「郵便貯金で米国債を買う」即ち、返すつもりのない国に金を貸す、という条件と引き換えに行われたのであろう、という考えに沿えば、確かに色々なことが腑に落ちるような気がします。
  しかし、それでは、先の読売オーナーもCIAエージェントだったという話ですし、マスコミの多くがCIAのコントロール下にあるというのもそうなのかも知れませんけど、どうして小沢氏不起訴が出た後も、産経をはじめとするゴミメディアは、いまだに小沢たたきを続けているのでしょう。つまり、既に交渉が終わっているのなら、いつまでも小沢氏を叩き続ける必要もないのではないかと私は思うですけど。もし本当に、小沢氏の不起訴が「郵便貯金でアメリカ国債を買う」こととの交換になされ、小沢氏の訪米が決まった、ということなのであれば、ある意味、CIAは小沢氏の生殺権を未だに持っているということでしょう。つまり、小沢氏不起訴はアメリカ側の勝ちを示したものと解釈できます。しかし、まだ小沢たたきを続けるといういうことがCIAの意志によるものならば、アメリカはまだまだ、小沢氏をかなり危険な人物と見ていて、いつでも、次の攻撃を出せることができるように世論をコントロールしておこう、そういうことなのかも知れません。 あるいは、小沢氏とCIAの取引きというのはそもそもなかったのかも知れません。これから、しばらく、マスコミの論調を辿って行けばそのうちわかるかも知れません。
 複数の人が指摘してきたように、今回の小沢氏失脚陰謀が、すべてアメリカの意志によってなされたとするなら、このやり方はかなり露骨ですから、アメリカ側は自分に矛先が向かないよほどの自信があったのか、日本国民を舐め切っているのか、どちらかなのでしょう。いずれにせよ、CIAが今回の小沢失脚未遂事件の首謀者なのであるとすると、アメリカは小沢氏を本当に恐れているのでしょう。果たして、小沢氏はアメリカとの戦争に本当に敗れたのか、あるいは、負けたふりをして、大逆転を狙っているのでしょうか。そのカギは中国との関係にあるような気がします。
  アメリカが小沢氏を完全に支配下に置いたとすると、死に体の自民党復活を画策する必要はなくなりので、メディアは小沢氏への攻撃記事を減らすであろうと思われます。そして、その際には、今回の事件で国民の批判の的となった特捜や検察へ手が回るのはまずい、とアメリカは思うでしょう。なぜなら、検察の権力は強大ですから、アメリカが日本という国をコントロールするのに、検察という構造を保持するのは都合が良いからです。アメリカが自民党から小沢氏に乗り換えるということになれば、アメリカは検察という特権組織を守るために、今度は、自民党関係者を血祭りにあげることを考え出す可能性があります。特捜がアメリカのコントロールの下にある限り、政権が自民であろうと民主であろうと、牽制する方向が違うだけのことですから、どちらでも良く、特捜を守ることを考えるであろうというのは自然な推論だと思います。
 今回の不起訴を受けて、小沢氏や鳩山氏が、あれだけ滅茶苦茶やられていながらも「特捜は公正な捜査を行った」とかいうようなフヤケた声明を出し、検察批判を封じたのは、検察組織への国民の不信感と批判を和らげ、検察という権力組織をコントロール下に置いておきたいアメリカから出された小沢氏と鳩山氏への交換条件であったのではないかという説もありえると思います。つまり、アメリカ側は、小沢氏失脚への攻撃を止めるかわりに、郵便貯金の金で米国債を買うこと、それと検察に手を入れないことを要求したのではないか、という仮説が考えられます。そう思うと、鳩山氏が、小沢氏秘書の拷問的取り調べの最中に、なぜか「取り調べ透明化法案は今期国会に提出しない」と言ったのは、その時点で既に、アメリカ側との交渉内容がかなり具体的に進んでいたということなのかも知れません。 
 すると今後、検察は批判をそらすために、公平さを演出しようとして、今度は自民党関係者に矛先を向けるのではないかという推測されます。前回、西松事件で名前の上がった経世会出の人は、最初に狙われる可能性が高いと思います。
 もし、このような展開になって、検察が自民党に手を入れ始め、メディアの小沢たたきが減ってくることになれば、小沢氏と鳩山政権がアメリカの軍門に下ったという証拠になるのかも知れません。
 私はアメリカはそこまで自信過剰にはなっていないし、小沢氏に対する警戒感は相当根強いと思いますから、この民主党への攻撃は当分続くと思います。小沢氏の反撃は、あるとすれば、参院選を制した後に始まるはずで、参院選が小沢氏にとっても、日本国民にとっても負けられない戦いになると考えられます。
 この辺の陰謀論の当否は別にして(私、個人的には、半分は当たっていると思いますけど、陰謀は嫌いです)、アメリカは小沢氏をかなり警戒していて、一筋縄ではいかないと思っているのは間違いないと思います。これまでの清和会系自民党議員、森、小泉氏のように簡単には操れないと考えているはずです。同様に鳩山氏も侮れないと考えているでしょう。普天間の扱いを見ても喰えない奴だと思っているに違いありません。

  言うまでもなく、アメリカ国債を買うということは運用ではなく、日本の国民の富を上納することです。日本は世界最大の借金国ですが、その国の借金はほとんど、日本国民からされています。ですので、借金といっても、ある意味、国民同士の金のやり繰りにすぎません。一方、郵便貯金をアメリカへ上納するということは、それだけ国内の借金をやり繰りする能力が減少するということで、極端な話、以前アルゼンチンであったように政府が国債をチャラにして国民の借金を借り倒すという最悪のシナリオに進む可能性もがでてきます。そうなると、180兆円ともいわれる郵便貯金が消え去ってしまいます。

とここまで、CIA陰謀説を書いたところで、亀井大臣の発言と現在の郵便貯金の運用内容を冷静に見て、郵便貯金の8割が日本国債で運用されていて、現在アメリカ国債に当てられているのは3%程度に過ぎないこと、そして、亀井大臣は、資金の増加が見込まれるのでアメリカ国債の部分も多少ふえると思う、と発言しただけに過ぎない、ということを指摘している方の意見を知りました。その通りなら、郵便貯金と小沢氏不起訴と繋がっていると読むのは勘ぐり過ぎかも知れません。
  しかし、検察の余りに露骨な国策捜査とその余りに情けない幕切れのウラに黒幕がいるのは間違いないでしょうし、それがアメリカがかなりかんでいるというのも多分間違いないでしょう。とすると、今回の小沢氏失脚未遂が、単なる検察の暴走なのか、小泉人事で固めた検察を利用した自民党の与党奪回のための謀略なのか、あるいは経団連なのか、CIAなのか、本当の首謀者は誰なのか、ということを見極めることが大切ではないかと思います。もしも、本当にCIAが黒幕なのであれば、国内で足のひっぱりあいをしている場合ではないでしょう。

 現在のアメリカ支配から脱し、日本の国益を守ることができる可能性のある人間は誰か、という疑問を、よく考える必要があります。その疑問を考えることなく、マスコミに乗せられて、政治と金だの、闇将軍だの、そのような小さなことに注意を奪われて大事を見誤ってはいかんと思います。角栄がそうでした。日中国交正常化に激怒したアメリカにロッキード事件で嵌められ、国民はマスコミが作り上げたイメージに踊らされました。このおかげて、アメリカは経済成長が止まった後の日本をその後30年にわたって支配し続けることができました。  一方、闇将軍化した角栄は対抗するため政治力の強化に専心し、結果、日本の政治の成熟が妨げられました。
 このように歴史を振り返ってみれば、現在というのは、大きな危機である一方、極めて貴重な転機でもあります。即ち、これまでのように、アメリカの属国として生きるという選択肢を取るのか、自らの独立国としての意志のもとに生きるという選択をするか、ということです。もちろん、これは個人の価値観によって異なると思います。喩えてみれば、前者の選択は落ち目の大企業のサラリーマン、後者は中小企業の社長、というのに近いかも知れません。私自身、研究という零細企業的活動を行っていますので、落ち目の大企業のサラリーマンには魅力を感じないのですけど、逆にいくら一国の主とはいっても中小企業運営などウンザリだと思う人もいるのもわかります。しかし、サラリーマン選択の問題は、大企業のサラリーマンが安定だった頃は既に昔の話であって、今、アメリカの凋落と中国やその他のアジア諸国の台頭が顕著であるということだと思います。日本はその狭間にあります。日本のアジアや世界での位置がどんどん下がって行くのはどうしようもありません。その中で日本が生き残って行く道は、独立、中立の国として自らの立ち位置を確立することではないかと私個人は思います。そして、小沢民主党はとりあえず、その目標に向けての局所最適解であろうと思います。
 小沢氏不起訴の後も、相変わらずマスコミの攻撃はやみません。
「天気晴朗なれど浪高し」というところでしょうか。ならば、独立国としての日本の興廃は次の参院選にあり、民主党と国民の奮励努力を期待したいと思います。

 (ところで、最近つくづく感じるのですけど、日本の政治や社会のことを考え過ぎるのは精神衛生に悪いようです。それで、もう床屋政談や陰謀の話はこれからは、余りしない予定です)
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石川議員の離党に思うこと

2010-02-12 | Weblog
 日米安保は、敗戦後の日本がアメリカに隷属関係にあるということを示した条約であり、ゆえに60年、70年台に、激しい安保反対運動がありました。私より一、二世代上では、安保闘争を中心とした学生運動に多くの大学生が係っていました。今の普天間の米軍基地の問題は当然、日米安保の上にあるもので、歴史を知るものから見れば、安保は日本がアメリカの植民地であるという印であり、建前上軍隊を持たない日本を、有事の際は、土地や金銭との交換でアメリカの武力で守ってもらう、というようなノンキな契約でないということは、はっきりしています。
 敗戦から60年以上たった2010年の現時点においても、日本がアメリカの属国であるという事実は変わっていません。岸信介がCIAの日本エージェントであったという話は有名な話です。一方、アメリカとの繋がりの薄い経世会系の田中角栄、竹下登、金丸信、橋本龍太郎、鈴木宗男、そして小沢一郎は、全員、東京地検特捜に国策捜査を入れられ、現時点で小沢一郎と橋本龍太郎を除いて、全員、逮捕、失脚となっています。橋本龍太郎は逮捕には至りませんでしたが、議員辞職しています。旧利権派はアメリカの属国状態を保ち、アメリカに国民の税金を横流しすることで、その見返りを得るという利害の上にこの構造を維持してきました。高度成長期には税金をアメリカにかすり取られていても、ボロが出ずに済みましたが、高度成長期が終わってすでに30年、一般国民が喰って行くことが難しくなってきた上に、これからの高齢化問題などを抱えている日本で、いつまでも、この植民地政策を続けて行くことは不可能です。鳩山内閣と小沢民主党が考えているように、日本とアメリカの関係は現状をふまえて、双方にとってベストな位置を探しながら改善していく必要があります。
 今では、私の世代も含めて、日本とアメリカとの関係を、(隷属関係であり)屈辱的である、と感じる若い人は余りいないのではないかと思います。学校では、日本は近代民主主義の国であり、戦争放棄をした独立国であると教えられていますし。(事実は、もちろん、違います)
 しかし、私はそれでよいと思います。「独立国という建前だけれども、本当は植民地なのだ」という劣等感というか、ねじれた感情を持つよりは、「独立国という建前なのだから、独立国として振る舞おう」という態度のほうが素直でよいです。戦争放棄しているのは、「日本が憲法九条に基づいて世界平和を実現したいと願っているからだ」と考える方が、「憲法九条は本当はアメリカが日本を骨抜きにして支配するために押し付けたものだ」という事実に卑屈になるよりも余程、建設的であると思います。
 日米安保や憲法九条のように、政治や世の中には、建前と本音があります。社会で言えば、建前は法律であろうと思います。社会人として生活する上でまず優先されなければならないルールです。そして、いくら法律の方がおかしくても、法律である以上、遵守すること、これが法治国家として国を運営していくための基本中の基本であることは、ソクラテスの故事を引用するまでもなく、言を待ちません。このところを曲げてしまっては、いくらその後に善の意志や、戦略上の意義があっても、これは法治国家、民主主義国家というシステムそのものを冒涜するものであると私は思うのです。
 そんなことを、石川議員の民主党離党のニュースを聞いて思いました。議員辞職はしないのになぜ民主党を離党するのか、私は意味がわかりません。議員辞職しないのであれば、民主党を離党する必要もない、と私は思います。起訴されたという事実が重いとか言う人もいますけど、罪もはっきりせず、無罪になる公算が大きい現段階で、(たぶん、世間が民主党に偏見をもつことを心配しているのでしょうけど)民主党を離党する、ということは、デタラメな捜査でも冤罪でも、検察に言いがかりをつけられたら、それだけで「なんとなく有罪」という、推定無罪という法律に対する違反を自ら認めることにならないのか、と思うのです。選挙を半年後に控えた今、次の参院選で民主党が勝つことがなにより大事であって、もしここで世論を軽んじて、負けてしまったら、日本の矛盾を正すことができない、そのためには、身を引いて民主党から離れるほうがよい、そういう判断なのでしょう。しかし、目的のために手段を選ばないようなことをすると、長期的にはマイナスであろう、と私は思うのです。
 どうして、鳩山氏も小沢氏も慰留しないのでしょうか。判断は本人がする、というのはその通りですけど、離党の理由が「選挙のため」という本音以外にないのであれば、離党を認めず、建前を通す方が大切です。鳩山氏や小沢氏が石川議員の離党に口を挟めば、新聞や自民党はまたないことないこと書いて叩きまくるでしょうけど、それを恐れて無理を通すならば、いずれ足下をすくわれると思います。
 石川氏の離党には「強い建前」が必要です。離党の声明を見ても、納得できるような建前はありません。それがないのであれば、離党は逆効果となり得ると思います。私は、すでに、このように世論や明らかにおかしい検察やマスコミの犯罪に正面から闘おうとせず、とりあえず選挙のために日和っておこう、という態度をとる政党は、立場が逆転した時に、今度は逆に、己を通すために弱者に対して違法行為を働くことをためらわなくなるのではないか、と心配になってきています。
 石川議員には、もっとはっきりとした離党の理由(党に迷惑というような理由でなく)を述べてもらって、それが民主主義と法治国家の精神に沿っていることを、納得できるように説明してもらいたい、私はそう思います。
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発見のメカニズム(2)

2010-02-09 | 研究
先日、テロメアで昨年のノーベル医学生理学賞受賞となった三人のうちの一人、Jack Szostack氏の話を聞く機会がありました。
 テロメアの構造とテロメラーゼの発見のきっかけは、何十年も前に遡るのですけど、この発見が、当時、酵母の形質転換とゲノムの組み替えの現象について研究していたSzostackと、テトラヒメナの大核にあった繰り返し配列を研究していたElizabeth Blackburnという、一見、無関係なようにみえる組み合わせによって生み出されたということは興味深いです。
 当時、染色体の末端がどのような構造をしているのか、どのようなメカニズムで核酸分解酵素から保護されているのか、細胞分裂にともなって、欠失すると考えられる末端配列は幹細胞ではどのように補償されるのか、線状の染色体をもつ真核生物での大きな謎でした。
 Szostackは酵母を遺伝子導入によって形質転換する実験をしていましたが、環状のエピソームとして、薬剤耐性遺伝子を導入すると、効率よく形質転換できるが、線状にすると、ゲノムに組み込まれたものが、ごく少数形質転換できるだけで、ゲノムに組み込まれない線状DNAは極めて不安定であるということに着目し、もしも、Blackburnらが研究しているテトラヒメナの大核にある繰り返し配列がテロメアであるならば、その配列をくわえてやることで 線状DNAの安定性が増し、線状DNAによる酵母の形質転換効率が上がる(かもしれない)という仮説のもとに実験し、大当たりを引きました。本人も言っていましたが、やった時は、半信半疑、ダメでもともとの実験でした。
 大発見というのは、きまぐれなものです。iPSの発見もそうでしょう。この手の実験は、やる前は、本人の感じとしては「こんなので、うまくいくはずないだろう、でもダメでもともとだ」というようなものが多いのでしょう。(それでも、やってみる、ところが大切です)
 あと、興味深かったのは、テロメアが幹細胞などで細胞分裂で短くなる分が補償されるメカニズムを考えていたときの話しでした。今では、テロメラーゼという酵素が短くなった分を伸ばすということが分かっていますが、当時はその酵素は知られておらず、そのような特殊な酵素の非存在下でもテロメアの構造が維持できるモデルをSzostackらは考えたそうです。その内の一つのモデルは、テロメアがヘアピン構造をとるというモデルだったそうで、このモデルが、余りに理論的に美しかったのでなかなか捨てることができなかった、という話でした。この気持ちはよく分かります。(小沢氏の裏献金のシナリオが余りに奇麗に書けたので、事実の方を理屈にあわせようとした検察のようなものです)しかし、謙虚に一歩下がって、客観的事実を綿密に調べ、現実が理論に合わないのであれば、理論の方を捨てなければなりません。アインシュタインでさえ、自然がヘンな数字を定数に持つ筈がない、と言ったらしいですから、理論の美しさに対する信仰はみなそれぞれに強いものです。それでも、なお客観的に、公平に、ものごとを見ることができること、それが実験科学研究者に必須の資質であろうと思います。

話かわって、この間の1/28号のNatureでは、抗血液凝固薬で臨床で汎用されているビタミンK拮抗剤のワーファリンのターゲットであるVKORの結晶解析に成功との論文。VKORはビタミンK水酸化キノリンの生成を触媒する酵素ですが、これは、ひと月ほど前に書いたように、結核菌を含むある種の細菌で、ペプチドが高次構造を取る時にシステイン残基同士がS-S結合を起こす際、その酸化還元反応の触媒に必須の蛋白と相同なものです。筆頭著者の人の短いインタビューがフロントページに出ています。この研究の意義として、より安全性の高いワーファリンアナログの開発や、結核でのVKOR相同体が新たな抗結核薬の標的となる可能性などを話しています。ちょっとlong-shotですけど、最近は、一般の人にもわかるように研究の価値を説明することを要求されますから、こんなものでしょう。
 この研究でも、哺乳類でのビタミンK代謝と細菌でのS-S結合という、一見、無関係な分野の研究が、うまく結び付いたことが成功の理由と言えると思います。
 Szostackらの酵母でのテロメアの研究が、Yeast artificial chromosome (YAC)という分子生物学の新しいツールの開発に繋がったように、VKORの研究は、新規抗結核剤の開発へと繋がりつつあります。そして、これがもし成功すれば、これは臨床的意義という点で、非常に大きなものがあります。  
 Retrospectiveに見れば、思いもかけない異分野の研究が結びつくことが、これらの発見の原動力であったと結論できるでしょう。しかし、こういう「幸せな結婚」というのは、然るべきタイミングで、しかるべき様式で起こらなければ、実を結ばないであろうというのも想像できます。表には出ないでしょうけど、「結婚」をあせったばかりに、不幸になった例はきっと何十倍も多いに違いありません。いずれにしても、これらの共同研究における「結婚」は、何か新しいものを生み出そうとして、意図的に行われたのではなく、もっとSpontanousな結びつきであったようです。成果を求めて結婚相手を探す前に、まずは、己を磨くこと、その研鑽があって初めて、有意義な共同研究となるのでしょう。そう思いました。
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特捜完敗なるも勝利は未だ遠し

2010-02-05 | Weblog
最近読んだ本の中の一節。我が身の戒めにと思って書き留めます。

 チェロキーインディアンのある老人が、孫に向かって、人々の心の中で行われている戦いについて話していた。
「すべての人間の中には、二匹のオオカミがいて、お互いに闘っている。一匹は『悪』だ。それは、怒り、妬み、嫉妬、悲しみ、後悔、強欲、傲慢、 自己憐憫、恨み、劣等感、嘘、誤ったプライド、優越感、そして慢心である」
 「もう一匹は『善』だ。それは、喜び、平和、愛、希望、静穏、人間性、やさしさ、博愛、同情心、寛大さ、真実、思いやり、そして信仰である」
 子供は少し考えてから訊いた、「どちらのオオカミが勝つの?」
  老人は答えた、「おまえが餌を与える方だよ」

凡人たる私たちは、この悪のオオカミを戒め、善のオオカミを養わねばなりません。まずは、私たちの心の動きと行動の一つ一つを客観的に評価して、悪を除き、善を育てることを意識的に行う必要があります。そうして、日々、努力すれば、七十になるころには、意識せずとも、矩を越えずに、日々暮らすことができるようになるかも知れません。

ところで、東京地検、小沢氏を不起訴とのニュース。当然の結果です。いくら、公設暴力団だと言っても、これだけ多くの国民からのバッシングを受けては、無理筋を通すのは不可能だ、と読んだのでしょうか。無理してやれば、クーデターです。そこまでの根性も、そもそも、そういうつもりもないのですから、ここで腰が引けるのは当然でしょう。とにかく、これで、前回の西松事件に続いて、地検特捜の二連敗、即ち、完敗です。小沢氏は多分、検察との戦いに勝利した唯一の政治家であろうとのこと。この結果をみて、溜飲を下げた人も多いことでしょう。
  とは言っても、特捜はこれまで信じられないような酷い捜査をしていた連中ですから、これでおとなしく引き下がるとも思えず、不気味な気分が残ります。
 この小沢氏失脚を狙った卑劣な地検特捜の中に透けて見えるものは、強欲、傲慢、嘘、誤ったプライド、優越感、そして慢心、です。多分、後悔、妬みや恨みもあるでしょう。ないものは、喜び、平和、愛、静穏、人間性、やさしさ、博愛、同情心、寛大さ、真実と思いやりです。多分、希望と信仰もないでしょう。
  検察にとっては、「やらねば、やられる」という状況は、多分、変わっていませんから、また次に卑怯な手を繰り出してくるかも知れません。その前に取り調べの可視化を義務づける法案を通して、今回のようなデタラメな嫌疑や捜査が堂々とまかり通らないように牽制してもらいたいと思います。
  あるいは今回の不起訴には、小沢氏側が優位に立ったのを見て、事件を収めるかわりに、官僚組織解体に手心を加えてもらいたい、との取引(もしくは思惑)があったのかも知れません。もしそうなら、小沢氏と鳩山内閣は、検察が空振りに終わることを読んでいて、敗勢の検察が逆にすり寄ってくる機会を与えるために、自ら検察批判を封印していたのかも知れません。
  ここで、検察が無理に起訴しようとすれば、おそらく、さすがの鳩山さんも指揮権発動するでしょうし、そうなれば、検察と全面対決となります。野次馬の立場からは、内閣と検察が大っぴらに全面戦争をやってくれた方が面白いとは思いますけど、今の日本、そんな余裕はないというのが現状でしょう。
 検察にしても、全面戦争となれば、検察の裏金作りをはじめとした組織的犯罪も俎上に上がり、東京地検特捜だけの問題で終わらなくなっていたでしょう。そこまで血まみれの殺し合いをするつもりも根性も特捜にはもとよりありません。西松で代表辞任したぐらいだから、もう一度脅せば、小沢氏は幹事長をやめてくれるだろう、と踏んでいたのでしょうが、そのナメた算段が命取りでした。

 いずれにせよ、政治的意図をもって小沢氏失脚を狙った今回の事件が、とりあえずは、検察の完敗に終わったことは喜ばしいことです。無理が通らずに済みました。しかし、秘書は起訴されるようです。これは大見得を切った検察の投了前の形づくりなのでしょうけど、踏み台にされ、逮捕され、拷問的取り調べをうけ、起訴された秘書の人は気の毒です。小沢氏の不起訴は、もちろん喜ばしいことですが、一方、秘書がスケープゴートにされたのでは、民主主義の勝利とは言えません。この件も検察は速やかに非を認めて、然るべき対処をしてもらいたいと思います。
  結局、検察にとっては、昨年の大久保秘書逮捕と同様、今回、現職議員を含む二人の秘書を逮捕し、派手なアクションで拳を振り上げてみたものの、結局のところ、大山鳴動、ネズミ一匹、何とも情けない結果となりました。普通の企業であれば、これだけ強引にやったプロジェクトがコケたら、責任者はクビかよくて降格、左遷というところでしょう。まして、連中は、本来、役人で、国民の税金で養われ、国民の奉仕する立場であるはず。それが、国民の足を引っぱり、民主主義を冒涜し、他人に濡れ衣を着せようと、人間とも思えぬ悪行に出た結果、しくじったわけです。特捜は、国民と被害者に土下座して謝った上で、関係者は全員懲戒免職、そうあらねばおかしいと思います。そうなって初めて、国民は検察の「悪のオオカミ」との戦いに勝利するといえましょう。

  余り怒ると私は自分の「悪のオオカミ」を養うことになってしまいますけど、検察の「悪のオオカミ」は、もう手がつけられないほど、強大となっています。それを倒すのは、国民の監視とフィードバックではないか、と思うのです。
  検察の横暴に、一般市民がネットで随分、抗議の声を拡げました。週間朝日をはじめとして、少数ながら大メディアも、国民の声を取り上げ、検察批判を展開しました。
  そして、地検特捜は、これまで、記者クラブ制を利用して、手下のように扱って来た大手メディアの一部にまで反旗を翻されつつあります。地検は週間朝日に対して、特捜批判の記事に関して、抗議したとのこと(実は、単なる抗議ではなく、出頭要請であったことは、下に記す通りです)。片腹痛いとはこのことでしょう。対して、週間朝日の編集長は、「記事は、丁寧な取材を重ねたものであり、自信を持っております」とのコメントを発表したそうです。
 更に、ニュースソースによると、

 周辺には、この情報が「編集部に地検から出頭要請」という形で広がった。例えばジャーナリストの有田芳生さんは13時01頃、ツイッター上で、「『捜査妨害だ!』と激怒する検察は、報道内容に関して山口一臣『週刊朝日』編集長に出頭要請した模様。普通、抗議があれば出向くのが社会の常識」と発言したとのこと。

その後のネットの情報から、出頭要請は本当にあったこと、それを検察と朝日新聞本社は、出頭要請ではなく単なる抗議として処理するようにと、週間朝日に強制したという話が伝わりました。この情報は、出頭要請を受けた本人がTwitterを通じて、ネットに流れました。私、Twitterの存在意義には懐疑的でしたが、この威力には驚きました。生の情報が当事者本人から、リアルタイムでネットに流れ出るので、圧力をかけて情報操作しようとしても、押さえ込めないのですね。
 この検察の週刊朝日への抗議と出頭要請に対し、当然、「報道弾圧」であると抗議の声が上がっています。それはそうでしょう、検察は国家権力を振り回して、デタラメをやっているのに、一般国民の持っている武器は声ぐらいのものですから。特捜は、これまで、ゴミメディアに情報をリークしながら、世論誘導してきたくせに、都合の悪いことを書かれると、一転して脅しにかかるのですから、ヤクザそのものです。

ともかく、これを期に報道機関は独立、中立的立場にたって、社会の木鐸としてのプライドを取り戻してもらいたいものです。記者クラブのような密室で一部のメディアに限って情報を与えるというような形式は、記者会見とは言えません。記者クラブの廃止、捜査の透明化、これらは当然のことで、これまでの検察の捜査とその情報開示法は憲法に抵触していると思います。まだまだ、問題は山積みですが、政権交代が叶い、政官財外が癒着して古い利権構造に風穴があきそうな現在、ひょっとしたら、ちょっとしたきっかけで、この構造はガラガラと崩れ落ちていくかも知れません。そう思いたいものです。
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サリンジャーの死に思う

2010-02-02 | 文学
1月27日、J.D. サリンジャー死去とののニュースを聞きました。91歳だったそうです。ニューハンプシャーの自宅で自然死とのこと。 このニュースを聞いて、昨年のレヴィ= ストロースの時と同様の感覚を覚えました。
 「ナインストーリーズ」や「ライ麦畑」がヒットしたのは1950年代で、私が初めて、「ナインストーリーズ」を手にした70年代には、サリンジャーは、既に絶筆状態になってから、随分経っていました。「ナインストーリーズ」を梅田の古本屋で買った時、私はサリンジャーのことを知りませんでした。その本は文庫になる前のハードカバー版で(多分)和田誠さんの魚とヒトデ(だったような気がします)のイラストの表紙に惹かれて、何か別の本と一緒についでに買ったのでした。本のタイトルも、「ナインストーリーズ」ではなく、「九つの物語」だったような気がします。これは、その後に明かされる(多分)架空の一家、Glass家にまつわるエピソードの短編集で、最初の「バナナ魚に最適の日」で、いきなり主人公が自殺をするという話で始まり、当然、当時少年だった私は、よく理解できなかったのですけど、妙に心惹かれるものを感じ、以来、その他の作品も読むようになりました。バナナ魚とは何か、主人公の自殺の意図は何か、何も明かされないまま、この短い話は終わってしまいます。「ライ麦畑」の主人公が、「セントラルパークの池の白鳥は冬はどこに行くのか」という疑問になぜ取り付かれているのか、説明されぬまま話が終わっているのと同様です。これらは、深い隠喩であったのか、あるいはそもそも大した意味はないのか、小説が伝えたいものは何なのか、あるいは、本人が言ったように、自分の楽しみだけに書いている物語で、伝えたいものがあるわけではなく、ただ読者への素材を提供しているだけなのか、私はよくわかりません。
 でも、私は、サリンジャー作品の「雰囲気」が好きでした。当時少年だった私に、サリンジャー研究者が議論するように、彼の作品の意義が理解できたわけではありません。読んでみて、何だかわからないけど、面白いと思っただけなのです。振り返って思えば、それは、現実逃避傾向の強かった私に、サリンジャー作品が、全く異なる世界を見せてくれるように感じたからではなかったか、と思います。そのページの間から漂う昔のニューヨークの香りと私の周囲には見たことのないような行動をする人々は、演歌の流れるパチンコ屋とニンニクの匂い漂う餃子店の前を通って毎日通学していた私の現実を、つかの間、忘れさせてくれました。現在でも、現実逃避癖は残っていますが、今は、不思議なことに、昭和の高度成長期の日本の映画を見たりすると、サリンジャーを初めて読んだときのような気分になるのです。
  いずれにせよ、彼のスタイルがヘミングウェイらのロストジェネレーションの後の現代アメリカ文壇に強い影響を与えたのは間違いありません。その後の近代アメリカの作家がしばしば、サリンジャーの影響を述べていますし、その流れはおそらく、日本では(庄司薫は言うまでもなく)村上春樹らに受継がれているのだろうと思います。
 サリンジャーに私がもう一つ負っていることは、禅仏教へ親しむきっかけを作ってくれたことです。私が禅仏教に興味を持ったのは、サリンジャーの「フラニーとゾーイー」を読んだからでした。ヘンな話です。きっと戦後の欧米での禅ブームのころと、作品が書かれた時期が重なっているのでしょう。ただ、作品としてのフラニーとゾーイーは、ちょっと登場人物が饒舌すぎて、余り面白いと思えませんでした。そして、絶筆前に出された「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア:序章」で、ようやく、ナインストーリーズの「バナナ魚」に、背景が与えられるのです。
  それにしても、サリンジャーの作品が、未だにこれだけ広く読まれ続けているということが私には不思議に思えます。時代をこえて、若者の感性と共鳴するところがあるのでしょう。あるいは、彼の作品が近代アメリカ文学の新しい潮流の源になったという歴史的認識ゆえでしょうか。私はサリンジャーの出世作の「ライ麦畑」を少年時代に読み損なったので、「ライ麦畑」を読んだのは、もうおじさんになりかけてからで、当然というか、あまり、面白いとは思えませんでした。でも、若者時代に読んだ彼の他の本は、とても好きだったことを覚えているのです。
  本人は、とっくに書くことを止めてしまったのに、五十年以上も前に書いた作品が、未だに世界中で読まれ続けていることを、サリンジャーはどう思っていたのでしょうか。そして、この五十年間、秘密に満ちた彼の生活の中で、書くことを止めた彼の精神を支えていたのは何だったのでしょう。想像できません。まるで、彼の人生はこれらの少数の作品を生み出すためだけにあったようです。そして、その仕事が終わった後に、彼はニューハンプシャーの山の中に姿を消してしまいました。その五十年間の孤独の中で、どういう気持ちで暮らしていたのか、そのことを考えると痛々しいような気持ちもします。
  サリンジャーの死亡を伝えるニューヨークタイムスの1/28/10の記事で紹介されている様々な話は興味深いです。若者に対する彼の著作の影響力の例として、ジョンレノンを暗殺したデイビッドチャップマンが、暗殺の説明は「ライ麦畑」を読めば分かると、言ったというようなことが書いてあります。レーガン暗殺未遂の犯人も「ライ麦畑」の愛読者だったそうですし、「ライ麦畑」が禁書になったこともあるそうです。このように社会的インパクトの大きい作品を書いた作者が、社会との関わりに病的な嫌悪感を持っていたことは興味深いです。
 サリンジャーはおそらく激しい潔癖性だったのでしょう、出版に伴うゴタゴタやファンからの手紙、そうしたものに極度の嫌悪感を示したようで、1974年に実現したインタビューでは、書くことは好きだが、自分のためだけに書く、出版することは酷いプライバシーの侵害であると言って、作品の発表を拒んだのだそうです。世の中の作家志望の人の多くとは逆ですね。 私生活やそのパーソナリティーには謎が多く、批判も多いようですけど、私たちにとっては、とんでもなくつき合いにくい変人だが優れた作品を書く作家の方が、とってもいい人なのに作品がつまらない作家よりも、数百倍も有益であるのは論を待ちません。(政治家もそうですね)
 本人が幸せであったかどうかは分かりません。世間とかかわることがここまで苦痛だったのであれば、人間はそもそも社会的動物ですから、たぶん、つらいことも多かったでしょう。
 サリンジャーの死を聞いて、寂しい気持ちに捕われた、元文学少年少女のおじさんやおばさんは多いのではないでしょうか。前出のニューヨークタイムスの書評欄では、サリンジャーをアメリカのトルストイと例えていました。彼の死によって、彼の作品は、現代アメリカ文学ではなく、古典と分類されるようになるのかも知れません。それはちょっと寂しいなあ、という気がするのです。
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