前々回の続きなのですけど、偏見については、私は比較的肯定的な立場であったのですけど、何かそれで済ませてしまってはいけないような引っ掛かるような感じが残るような気がしています。「偏見は良くない(以上、終わり)」みたいな教育に有意義性を認めないという立場は変わりません。とりあえず、偏見の良い所と悪い所を、順々に議論していってみたいと思います。
小学校の低学年のころは、友だちを選ぶのに家柄や国籍や住んでいる場所や親の職業などを考えて決める人は、まずいないのではないかと想像します。友だちになるかならないかというのは、ほぼ純粋に、交際時の個人的な経験のみによって、自然に決まることが多いと思います。しかし、時に、親が子供の向かって、「XX君とは遊んではいけません(あそこの家はYYだから)」とか言って、子供に智恵をつけていくわけです。その親や周囲の「教育」がなければ、偏見というものはもっと少ないはずだろうと私は思います。それでは、なぜ、親や周囲がわざわざそんな「教育」を子供にするのでしょうか?このことをよく問い返してみれば、少なくともそれを教える側にとっては、「偏見」が有用なものであると認識されているからだろう、という結論に達するのは自然なことではないでしょうか。
「XX君の親はYYだから、XX君はきっとZZだろう」あるいは、「日本人は黄色人種だからXXXに違いない」というのが、偏見というものでしょう。それは、何らかの(未来を)予測する一つのテクニックとなっています。この偏見の論理は、基本的に天気予報のようなもので、「雲が多くなってきたから雨が降るかも知れない」というのとほぼ同形です。この推論に基づいて、予期されるような危険や不便に対し、人は傘を用意したりするのだと思います。この偏見が個人の危機察知システムとして、自己防衛のためだけに使われる限り、それに有用性があるのは間違いないでしょう。
我々一般人が、よく知らない他人をその人種や外見や社会クラスで判断しようとすると、偏見(prejudice)と呼ばれますが、空港のセキュリティーやFBIが同じことやると、プロファイリングと呼ばれます。空港の安全係の人は、イスラム系の人や旅行日程がかわっている人、航空券を現金で買った人などは厳しくチェックしますが、小さい子供のいる家族連れの場合は、そのチェックは甘いわけです。当然これは差別なわけですけど、この差別が行われる根拠としては、イスラム系の人にテロリストが多いという事実に基いて、危険を効率よく見つけるための方策なわけです。同様に、「XX君と友だち付き合いしてはいけない」と親が言うとき、その子とつきあうことによって、上昇すると考えられる危険を避けようとしている場合が多いのではないでしょうか。例えば、その子の家がヤクザで自宅にしばしば実弾が撃ち込まれているのだけど、ウチの子はXX君の家のビデオゲームで遊ぶのが大好きである場合などはどうでしょう。そういうケースでXX君と友だち付き合いすることによって、巻き込まれるかも知れない危険を回避するベストの方法はXX君とつきあわないことであると親が判断するのは自然であろう思います。偏見がそういう将来の危険を減らそうとするために発達した智恵なのであれば、そのそのメカニズムそのものを抑制することは、少なくとも近視的には、偏見者の不利益になるであろうと想像できます。
ですので、例えば「君子危うきに近寄らず」というのは、その偏見に基く智恵である、と解釈できます。なぜなら、本当に危ういかどうかは、近寄って確かめるしか手がないからです。危うさに対する本能に逆らって、「本当は危なくないかも知れない」と近寄って、怪我をするのは愚か者である、と孔子は言っているわけです。この「危ういものと危うくないもの」を事前に嗅ぎ分ける技術をいうものは、私は大変重要であると思っています。極端に言えば、偏見は、自分の身を守るために有用な智恵であり、専守防衛に限って使われる分には、強力な武器なりうると思います。
(続く)
小学校の低学年のころは、友だちを選ぶのに家柄や国籍や住んでいる場所や親の職業などを考えて決める人は、まずいないのではないかと想像します。友だちになるかならないかというのは、ほぼ純粋に、交際時の個人的な経験のみによって、自然に決まることが多いと思います。しかし、時に、親が子供の向かって、「XX君とは遊んではいけません(あそこの家はYYだから)」とか言って、子供に智恵をつけていくわけです。その親や周囲の「教育」がなければ、偏見というものはもっと少ないはずだろうと私は思います。それでは、なぜ、親や周囲がわざわざそんな「教育」を子供にするのでしょうか?このことをよく問い返してみれば、少なくともそれを教える側にとっては、「偏見」が有用なものであると認識されているからだろう、という結論に達するのは自然なことではないでしょうか。
「XX君の親はYYだから、XX君はきっとZZだろう」あるいは、「日本人は黄色人種だからXXXに違いない」というのが、偏見というものでしょう。それは、何らかの(未来を)予測する一つのテクニックとなっています。この偏見の論理は、基本的に天気予報のようなもので、「雲が多くなってきたから雨が降るかも知れない」というのとほぼ同形です。この推論に基づいて、予期されるような危険や不便に対し、人は傘を用意したりするのだと思います。この偏見が個人の危機察知システムとして、自己防衛のためだけに使われる限り、それに有用性があるのは間違いないでしょう。
我々一般人が、よく知らない他人をその人種や外見や社会クラスで判断しようとすると、偏見(prejudice)と呼ばれますが、空港のセキュリティーやFBIが同じことやると、プロファイリングと呼ばれます。空港の安全係の人は、イスラム系の人や旅行日程がかわっている人、航空券を現金で買った人などは厳しくチェックしますが、小さい子供のいる家族連れの場合は、そのチェックは甘いわけです。当然これは差別なわけですけど、この差別が行われる根拠としては、イスラム系の人にテロリストが多いという事実に基いて、危険を効率よく見つけるための方策なわけです。同様に、「XX君と友だち付き合いしてはいけない」と親が言うとき、その子とつきあうことによって、上昇すると考えられる危険を避けようとしている場合が多いのではないでしょうか。例えば、その子の家がヤクザで自宅にしばしば実弾が撃ち込まれているのだけど、ウチの子はXX君の家のビデオゲームで遊ぶのが大好きである場合などはどうでしょう。そういうケースでXX君と友だち付き合いすることによって、巻き込まれるかも知れない危険を回避するベストの方法はXX君とつきあわないことであると親が判断するのは自然であろう思います。偏見がそういう将来の危険を減らそうとするために発達した智恵なのであれば、そのそのメカニズムそのものを抑制することは、少なくとも近視的には、偏見者の不利益になるであろうと想像できます。
ですので、例えば「君子危うきに近寄らず」というのは、その偏見に基く智恵である、と解釈できます。なぜなら、本当に危ういかどうかは、近寄って確かめるしか手がないからです。危うさに対する本能に逆らって、「本当は危なくないかも知れない」と近寄って、怪我をするのは愚か者である、と孔子は言っているわけです。この「危ういものと危うくないもの」を事前に嗅ぎ分ける技術をいうものは、私は大変重要であると思っています。極端に言えば、偏見は、自分の身を守るために有用な智恵であり、専守防衛に限って使われる分には、強力な武器なりうると思います。
(続く)