百醜千拙草

何とかやっています

貧すれば鈍する

2021-12-31 | Weblog
私はツイッターでニュースや情報を集めていますけど、最近、頻繁に目にするニュースからは感じるのは、日本人が排他的になり、社会がギスギスとして住みにくいところになっていっていきつつあるということです。

しばらく前の、武蔵野市での外国人住民の住民投票参加権の否決も驚きました。外国人の国政参政を認めるかどうかというような話ではありません。地域住人として合法的に住んでいる人の住民としての意見が投票という意思表示行動を通じて考慮されるべきではないか、という問いかけに対する決議だったわけですが、当然、可決されるものと思っていたのが否決という結果になって、驚くと同時に非常に心配になりました。この結果は、同じ市内に住む住民を国籍によって差別するという市が意思表示示したということです。
この議題の採決の前に、「日本が外国人に乗っ取られる」と主張している人が街頭でアジっている様子を見ましたが、理性的な議論は乏しく、感情的に差別発言を繰り返すのを見て、つくづくイヤな気持ちになりました。

一方、ニューヨークでは非市民にも投票権を与えるという決議が採択。「人権」というのは人間の基本的権利であり、投票権は社会に合法的に住んでいるものの人権の問題にも関わっているので、将来的には、国籍に無関係に住民が政治に参加する権利がおそらく世界的に認められる方向に向かうと予想します。歴史の流れをみれば必然的にそうなるでしょう。日本だけが逆行しているようです。

そもそも、日本では、国会議員でさえ、憲法や人権に対する意識や認識に明らかな問題のある人が多いのが問題です。国民民主の玉木代表、この武蔵野の外国人住民投票権案の否決をうけて、「否決されて安心した」と述べ、「まずは外国人の人権について憲法上どうするのか議論すべき」と強調したらしいです。この人は、日本国憲法に「人権」は、国籍を問わず尊重されなければならないと明記されていることを知らないらしい。こういう言葉が口が出るということは、多分、人権という言葉の意味も知らない可能性が高いですね。

このような憲法遵守の義務も憲法の意義も無視するような者が、憲法をかえようとしているのが恐ろしいです。そもそも憲法はこのような連中が勝手なことをしないようにと設定されたものですからね。

私は、憲法については国民の多数が変えるべきところがあると同意するなら、慎重な熟慮の上で変えればいいと思っています。しかし、憲法も意味もその内容も知らず、それを守る努力もしないばかりか、最低限の人間としての倫理観もわきまえない連中には、どんな理由があっても触ってもらいたくないですね。

話がズレました。この排他的になっていく日本の社会と連動して、日本に長年住む外国人の日本脱出を決心したというツイートを目にすることも増えました。ヘイトの対象になっているアジア系の人々に限りません。何人かの日本に住むフランス人によるスレッドからは、彼らが日本を去る最も大きな理由は、日本の社会と人々の排他性と日常的に感じる差別のようです。外国人の彼らにとって、日本が楽しく安心して暮らせる国ではなくなってしまったと彼らは感じているようです。

事実、しばらく前にInterNationsの海外在住者による投票結果を紹介しましたが、彼らが住みたい場所として東京や日本は非常に評価が低く、その理由として、人々がフレンドリーでない、言葉が通じない、ということをあげています。言葉の問題はともかく、私は日本人はシャイではあっても、基本的に他人に親切で思いやり深い民族だと思っていました。そもそも日本は、十年前は「おもてなし」の国だったはずではなかったのでしょうか。

それが、いつのまにか、自分中心で排他的で他人に冷たい国になっていっているような感じがするようになってしまいました。思うに、その原因は一重に「貧乏」だと思います。生活に余裕がなく、現状に不満、将来に不安しかない状態では、人にやさしく思いやり深くあることは難しいでしょう。

欧米では、日本は、世界で唯一、経済政策の失敗で貧しくなった国だと評価されており、経済学で"Japanization"と言えば、長期停滞とデフレを意味し、高い失業率、弱い経済活動、ゼロに近い金利、量的緩和、人口高齢化などの症状を示す状態を表現する言葉になっています。

基本的に経済の発展と衰退には自然の波がありますけど、それらが行きすぎないように政策によってコントロールしてくのは政治の役割です。諸外国の経済学者は、日本政府がその政治的な役割を果たしていないばかりか、逆に状況をさらに悪くするように動いていると評価しているわけです。無能でウソつきのナルシシストを8年も好き勝手にさせれば、こうなるのでしょう。

内需が6割の経済を占める日本で、経済活動が弱くデフレが続く理由は明らかでしょう。一般国民が貧乏になったからです。政府が消費税を増税し、大企業の減税の穴埋めに使い、国民を支援しないからです。国民が貧乏だから企業も経営拡大に投資ができない、投資ができないから史上最高の内部留保というカネの澱みを生み、せっかくの量的緩和が意味をなさなさずアベノミクスの大失敗に終わったわけです。いますぐ、減税の穴埋めに使った消費税分を企業からとりあげて国民にばら撒いたらどうでしょうかね。企業の売り上げも上がり、澱んだ金も流れ出すでしょう。あいにく、アベの傀儡政権はいまだに企業減税で賃金が上がると言い続け、経済政策の失敗を認めようとしないようです。

ま、日本は一応、民主主義国家ということになっており、選挙によって、もっとマシな政権を選ぶこともできたのですから、自民党や維新に議席を多く与えた国民の自業自得と言えばそのとおりなのですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

構造的問題としての再現性の欠如

2021-12-28 | Weblog
8年越しのCancer paper reproducibility projectの総括が出たようです。  これはeLifeを発表プラットフォームにして開始されたプロジェクトで、約10年ほど前に出版されたがん研究関連の50本ほどのハイインパクト論文の再現性を検討するというプロジェクトですが、eLifeでの報告をScineceとNatureがフロントページでカバーしているのを目にしました。
 予想はしていましたけれど、ハイインパクト論文の出版が研究者のキャリアも研究費も生活を決定するアカデミアの研究業界で、こういう結果が出るのは、当然だと思います。これは氷山の一角で、この業界の出世システムを知っている研究者なら、他人の論文のデータには(再現性がないという意味で)ウソがかなりの率で混じっているというのは常識でしょう。また、自己顕示欲が強く、自分の利益のためには原則を捻じ曲げるのに何のためらいもない人間は全人口の数%ぐらいの高頻度でいます。国会で100回以上ウソをつきまくった二代前のどこかの国の総理大臣とか、あまりにウソがひどいのでSNSから締め出された前大統領とかのような自己愛性異常性格者が有名研究者である場合も少なくありません。そうした性向をもつ研究者が意図的に行うデータ操作によって再現性がないデータが一流紙に発表されるような例だけでもかなりあるだろうと思われます。加えて、データを操作する意図はなくとも、結果を都合の良いように過大評価したり、見栄えのするデータだけを採用したりする「厳密性の欠如」によって結果が歪んでしまうような場合などを加えると、かなりの例で論文にはウソが混じっていると考えられます。
 この記事でコメントした複数の人が、この再現性の悪さは衝撃的だが、「予想外ではない」というなコメントをしています。これは、科学実験というものの性質に起因する問題に加えて、ポジティブでインパクトのある結果を得ることに対する研究者自身の強い志向性がデータに反映することを皆が知っているからでしょう。科学的に厳密であることにはコストと時間がかかり、「インパクトのある論文をできるだけ低コストで数多く出版すること」を第一の目標とするアカデミアの研究者の利益にしばしば相反します。「結果主義」、「論文至上主義」によって研究者の評価がなされているアカデミアの構造が研究不正や厳密性の低下を生み、再現性の乏しい論文につながっていると思います。
 また、Natureをはじめとする商業誌は、高い読者数を維持して広告料を集め、ビジネスを発展させる上で、ハイインパクトの論文、つまりより多くの人を「あっ」と驚かせるような論文を載せたいというインセンティブがあり、研究者の方にもNatureなどの一流誌といわれる雑誌に出版したいというモチベーションがあるので、「本当だったらすごい話」が選択的これらの雑誌に採用された挙句、やっぱりそんなすごい話がゴロゴロ転がっているわけがない、というオチになるのだと思います。つまり、この問題は研究者個人の問題である以上に研究業界の構造的問題です。残念ながら、こうした問題に対して雑誌や研究費を出す側や研究所は、研究者への規制や罰則を強めるという非常に近視眼的な対症療法に飛びつきます。直接の実行犯の研究者を責めるのが一番簡単だからでしょう。しかし、厳密な研究を行って正直なネガティブ データを出してもポジションや生活が守られるなら、研究者が「本当ならすごいけど、じつは怪しい話」を発表しようとするモチベーションはもっと低くなるでしょう。怪しいデータがこれほど多く一流誌に掲載されるという現象を引き起こしているメカニズムは業界の論文第一主義であって、これに対する根治治療をしないと、この問題は永遠になくならないと思います。

Natureのフロントページから一部。

基礎がん研究においてハイインパクト論文の結果の再現性を検討するための2億円と8年間をかけた試みが、不穏な結果となった。評価された実験の半分以下しか再現性は確認できなかった。このプロジェクトは、これまでに行われた最も厳密な再現性研究の1つであり、曖昧な研究プロトコルや非協力的な著者などのハードルによって、この取り組みは5年遅れ、当初の検討論文の半分しか検討できなかった。
 協力体制の欠如と、実験開始後のプロトコルの変更や見直しの必要性が、大きな負担となった。平均して、1つの研究を再現するのに197週間を要した。さらに、1回の実験にかかる費用は53,000ドルに上り、これはチームが当初割り当てた金額の約2倍にあたる。、、、
 分析によると、再現実験を試みたうちの46%だけが、オリジナルの発見を確認することができた。また、平均して、当初の報告より85%も小さい効果しか観察されなかった。、、、
 RPCBのプロジェクトリーダーであり、Center for Open Scienceの研究ディレクターであるTim Erringtonは、「本当の問題は、ノイズの中からシグナルを見つけ出すために費やされる時間、費用、労力だ」と言う。、、、

というわけで、再現性の検討に2億円と8年の月日をかけた研究成果、当初の報告の半分未満しか再現できず、しかも再現できたものでもその効果は当初の論文の主張のたったの15%しかなかったという結果。ただし、これらの再現性のない論文の筆頭著者や責任著者はこれらをネタにポジションを得たりグラントを獲得したりしたでしょうから、彼らにとっては意味があったわけです。
 一流雑誌に載るようながん研究プロジェクトは一本に、数年の期間と数千万円のコストはかかっているでしょう。50本のハイインパクト論文を出版するのに10億円として、その再現実験に2億円、結果、相当な数で再現性が確認できなかった、という結果を、一般の人がみれば、やらない方がましと判断されるかも知れません。

なんとなく、デジャビュを覚えると思ったら、アベノマスクでした。500億かけて役立たずのマスクを用意して、満足に配布もできず、使用もされず、大量の在庫が出たら、その保管料に年に6億、あげくに20億かけて検査をしたら15%が不良品、で結局廃棄。国民からすれば、無駄遣いの上に無駄遣いを重ねた愚策中の愚策でしたが、その数百億のかなりの部分を中抜きした縁故業者にとっては十分目的は果たせたというわけです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

癒着宣言

2021-12-24 | Weblog
今日、流れてきたツイッターでのニュース、日本も大阪も末期状態と思わせる話。

このたび大阪府と株式会社読売新聞大阪本社は、教育・人材育成、情報発信、安全・安心、子ども・福祉、地域活性化、産業振興・雇用、健康、環境など8分野にわたる連携・協働を一層促進させ、地域の活性化と府民サービスの向上を図っていくために、包括連携協定を締結することとし、以下のとおり締結式を行いますので、お知らせします。
 出席者  大阪府知事 吉村 洋文 株式会社読売新聞大阪本社 代表取締役社長 柴田 岳。

と、どう考えてもこれは、堂々とメディアと権力の癒着宣言、しかも大阪府の広報で行っているとしか思えない話。「包括的連携」という言葉が、やましさ満々です。コラムニストの小田嶋さんは次のようにツイート。


普通はこんなことを広報で大っぴらには言わないもので、あまりに堂々と癒着宣言するものだから、常識の方をうたがわざるを得なくなったということでしょう。

常識は教科書的知識と現実の問題の認識に基づいて人々に広く共有されます。メディアの社会的役割と、メディアの利益相反についての認識ですけど、メディアは第四の権力であり社会の木鐸であるというのが従来の教科書的理解です。三権が分立しているのは、権力の暴走をお互いに制御する目的であり、メディアがもつパワーを考えると、メディアの独立性というのは第一に守られるべき性質のものです。しかるに、新聞社が府政という権力と連立、つまり包括的に提携するということは、少なくともメディアの社会的役割におけるインテグリティを放棄すると宣言したに等しいと思います。NHKの偏向報道に見られるようにメディアと権力の癒着の問題は日本では深刻ですが、その癒着を宣言するバカはいません。山本太郎はテレビやメディアはスポンサーで運営が成り立っているからそこに利益相反が生まれるので視聴者はそれに意識的であるべきだと述べています。NHKの場合は総理大臣が運営委員を任命するという問題があり、政権が運営に口を出してきました。森友でスクープを飛ばした大阪NHKの相澤記者がNHK東京本部の不興を買い、左遷され退職に至ったのは有名な例です。アベが官房副長官の時にNHKに圧力をかけてNHKのドキュメンタリー番組に介入し放送内容を改ざんさせた問題、「NHK番組改変問題」で一挙に有名になったNHKの政治介入、それを報道したのが当時の朝日でした。アベの朝日嫌いはこれが原因かも知れません。

それから、大阪府が一新聞社と包括的連携をすることを広報するということ。普通は、府政と新聞社が包括的に連携するということは、警戒すべき事態と捉えられると思います。これは、読売新聞の報道は大阪府に都合の良い情報が選択され、都合の悪い情報は抑制され、報道が偏向することを意味しますから。
この広報を大阪府が出したということは複数の可能性を示唆すると思います。つまり、大阪府知事と読売新聞がともに非常識だったので、癒着を示唆する広報を出すことの問題を認識しなかったという可能性。それから、問題は認識していたが、大阪府知事と読売新聞は、国民は彼ら以上に愚かな存在なので、この包括的連携(つまり癒着)を問題にしないだろうと考えた可能性。そして、それらの組み合わせ。

これまでのイソジンとか雨ガッパの行動を見ていると、もっともありがちなのは、大阪府知事と維新は、この広報の問題を理解しておらず、逆に何らかの政治的成果だとさえ思っている可能性が高いような気がします。一方、読売新聞と言えば、これで一部の国民の反感を買って評判と売り上げを落としても、府政からうける優遇の方が勝るだろうと算盤をはじいて、カネの前にメディアの矜持を捨てさったという可能性ではないでしょうか。アベに都合の悪い証言をした前文部官僚の前川さんの人格攻撃をするために、週刊誌なみの下ネタをでっちあげて大々的に報道した新聞社ですから、読売に矜持などないものねだりもいいところでしょうが。

いずれにしても、国民や府民がバカにされているのは間違いないように思います。無論、バカにされる方にもそれなりの問題があるわけです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎖国化の理由

2021-12-21 | Weblog
英語力「112カ国中78位」の日本で広がる外国嫌い というフランス人記者の書いた記事を読みました。

日本は112カ国中78位――。近年、さまざまな指標における世界での日本のランキングの低さが話題になるが、ついに「英語力」も下から数えたほうが早くなってしまった。11月16日に発表された、EF英語能力指数(EF EPI)において日本の順位は2020年の55位から大幅にランクダウン。2011年の14位からは急落している。ちなみに、隣国の韓国は34位と日本から背中すら見えない状態だ。、、、

官僚主義の狂気を描いた、フランツ・カフカの小説の主人公が今や成田空港における手続きを担当しているようにすら見えた。審査官らは英語が苦手で、ほとんどの手続きを外国人スタッフに頼っていた。、、、「今の日本に本社の役員を招くことはとてもできない。こんなプロセスを経させたら会社はすぐさま日本への投資をやめるだろう」と、このフライトに乗っていたあるフランス人は嘆く。

今や外国企業は工場やオフィスの設立場所を決める際に、日本を迂回するようになっている。中には北東アジアの本部を日本から韓国に移した企業もある。、、、かつて国際企業の若い幹部候補たちは、キャリアアップの足がかりとして日本でのポジションを切望していた。が、今はもう違う。日本におけるほとんどの市場が縮小しているため、日本は高齢の幹部が優雅にキャリアを終えるために定年前に甘い汁を吸える赴任地となっている。、、、フランスにとって日本は今や、二流の国になっている。真の意味での国賓訪問は、8年前の2013年に当時のフランソワ・オランド仏大統領が訪日したのが最後だ。、、、日本は、東京オリンピックを開催したことで、世界の中心にい続けられると思っているかもしれない。しかし、1964年に東京で開催された壮大で革新的な大会のような重要性は、オリンピックにはない。、、、日本政府はまた、2025年に大阪で開催される万博も桁外れに重要視している。、、、しかし、世界的な博覧会は、今や開催国以外では誰も気にとめないローカルなイベントとなっている。日本人で誰が、現在ドバイが万博を開催していることを知っているというだろうか。、、、(引用 終)

と日本の国際社会からの後退、先進国グループからの脱落を指摘する記事。いまや、日本の若者に大志と夢を持て、というのが無茶な世の中になっている中で、誰が苦労して外国と交際しようとするでしょうか。海外進出してビジネスを拡大していこうとする成長期は遠く終わり、海外企業は日本を見捨て、日本企業は競争力を失っている状況で、人々が攻めではなく守りに入り、外国に興味が向かなくなるのは当然だろうと思います。

日本人の英語能力は確かに高いとはいえませんけど、それは日本語という言語の特殊性が大きいでしょう。語学の習得は語彙と文法の知識に加えて実践練習のための努力と時間が必要ですが、近縁の言語を学ぶ場合と言語の語彙も体系もかけ離れた言葉を学ぶ場合では習得難易度は数倍になります。例えば、英語話者がスペイン語やフランス語を習得するのに必要な時間が600-800時間と言われているのに比べ、日本語だと2200時間と3倍かかります。この逆も成り立つとすると、日本人が英語をそこそこ使えるようになるのには、週に5時間、年に9ヶ月やったとして、年間180時間、中高の6年では半分にも足りません。政府が本気で日本人の英語力を上げたいと思っているなら、週に10時間ぐらいのプログラムを組む必要があると思います。日本人全員が英語が使える必要はないし、必要なら一日2時間毎日やれば2-3年で問題ないレベルに達するので、英語は高校からは選択制にして選択者は授業時間をふやせばいいのではないでしょうか。

しかし、問題なのは、語学教育システムではなく、言語習得へのモチベーションが低く、外国と関わりたくないと思わせるようになった日本の社会そのものです。今の日本は、政治の無能と腐敗によって、経済成長が止まったあとの30年間、その維持と安定に失敗したばかりか、政治の著しい劣化と腐敗が進み、経済成長の間に貯えた国富を売っては一部の人間の利益に付け替え、国民の生活より一部の特権者の利益を優先してきたために、驚くべきスピードで二流の貧困国へと転落していこうとしています。加えて、超高齢化社会という喫緊の問題を抱えています。こんな状況で、どうやったら若い人が将来に希望をもって外向きに発展的な態度でいられるというのでしょう。彼らにとっては語学習得に投資して外国と積極的にかかわるのはメリットよりもリスクの方が大きいとしか思えないのではないでしょうか。もっとも、これからますます日本が貧しくなって、外国に活路を見出すしかないと国を脱出する人々が増えれば語学能力はあがるかも知れませんが。

私、個人的には、国内で自給自足ができるようになり、人々がそれなりに幸せに暮らしていけるようならば、日本が多少内向きになるのは悪いことではないと思っております。超高齢化が終われば、人口激減がはじまりますけど、それは高度成長のツケでもあります。みなが一斉に成長すればみんな一斉に老化するのです。老化が進んでいるのにいつまでも「成長戦略」しか考えられない与党政府はすでに脳が老化している証拠でしょう。老人が語学を学ぶモチベーションや外国との付き合いへの積極性を失うのは当然のことで、日本がこうして「ランキング」を落としているのは日本がそういう時期だからだと思います。この衰退期が終われば安定期に入り、またそのうち昇り調子の時期がやってくるだろうとは思いますが、その時には是非、過去に学んで、今日の痛い経験を生かしてもらいたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベルリン ポスドク法

2021-12-17 | Weblog
以前ちょっとだけ立ち寄ったベルリンは楽しい所で、有名なガラス張りドームの議事堂やベルリン大聖堂などの観光地はもちろん、ちょっとした駅前の多国籍の屋台が集まる広場なども、どこに行ってもコスモポリタンな活気があって、若い時ならきっと住んでみたいと思っただろうと思うような街でした。しかし、そんなベルリンであっても(あるいは世界中どこであっても)、ポスドクは、屋根の上のバイオリン弾きのように生きています。

しばらく前の話題。先月のScienceのフロントページから。

9月、ベルリンの議会は、多くの若手研究者を悩ませる不安定な雇用状況に対処するため、急進的な一歩を踏み出した。、、、
 この規定は、議員たちが大学の代表者たちに相談することなく採決したもので、市のポスドクの労働条件を改善するものだと支持者たちは言っている。
しかし、雇用の凍結、辞任、ベルリンの研究の中心地としての地位を失うという予測など、混乱が起きている。、、、
 他の国々の若手研究者と同様、ドイツのポスドクは、限られた教員の空席をめぐって厳しい競争にさらされている。また、時間的な制約もある。2007年に制定された時間的制約に関する法律は、博士号取得者が不安定な契約に縛られるのを防ぐためのものである。しかし、生産性の高い多くの研究者を学問の世界から追い出してしまうという意見も多い。
 ベルリンの法律は、ドイツ研究省のウェブサイトに掲載されたビデオが引き金となった。2007年のポスドク期限の法律を宣伝するためのものだったが、研究者の怒りをかった。このビデオは、ハンナという名のポスドクの物語で、この法律は、ハンナのような年配のポスドクに、必要であれば学外の仕事に移ることを奨励し、若い研究者に機会を与えるものだと説明している。、、、
、、、6月24日には、ドイツ連邦議会でこの問題が議論されるほど注目を集めた。ベルリンという都市国家を統治する議員たちは、さらに踏み込んで、すでに制定されていた法案に永住権に関する条項を挿入したのである。
、、、批評家たちは、この法律には、ベルリンに1000以上あるポスドク職のほんの一部でも常勤職に転換し、将来さらにポスドクを雇用するために必要な資金が含まれていないと指摘している。「その目標は高く評価できる。しかし、そのためにはもっと資金が必要だ」と、大学の指導者を代表するドイツ学長会議の会長であるペーター・アンドレ・アルトは言う。
 、、、その一方で、この法律が影響を及ぼす4つの研究集約型大学のうちの1つであるベルリン自由大学は、すべてのポスドク採用を中止している。
 、、、この法律が施行されれば、大学の大規模な再編成が必要となり、他の目標が達成できなくなる、と言う。例えば、学部が正規職員を増やすと、連邦法とは別の規則で、より多くの学部生を受け入れなければならなくなり、さらに予算不足に陥る。また、この法律が施行されると、大学の教授陣が他からポスドクを呼び寄せようとした場合、自動的に正社員として採用されることになるので、大学の能力にも影響が出るだろう、、、。
 ドイツ以外の研究者も注目している。ストラスクライド大学の上級講師で、アーリーキャリアの科学者を擁護してきたミゲル・ジョルジは、この法律は欧州連合内で変化を求める他の声と一致していると話す。例えば、彼が2016年に共著した宣言では、短期プロジェクトへの資金提供から、より長期的なポジションへの資金提供へのシフトが提言されている。それが機能するためには、「資金提供のパラダイムを変える必要がある」と彼は言う。

問題は、議員たちが長期的な効果を理解しないまま、「制度の革命を1つのパラグラフに詰め込もうとした」ことだとクンストは言う。、、、制度に手を加えることは、6年制限によって引き起こされた意図しない害と同様に、下流に影響を及ぼす、、、

ポスドク問題は世界的な問題で、経験を積んだ博士研究者のサプライと彼らが本来就くべき安定した研究職のポジションのデマンドの乖離によって起こされています。日本では、大学院からポスドクというパスを推奨したのは、新卒者の就職機会の減少の問題を先送りするための時限爆弾つきの政策でありました。それが爆発したあと、予想された通り、日本政府は結局は自己責任ということで成り行きにまかせ、高学歴貧困という問題を作り出しました。
 ドイツでのポスドク期限や、今回のポスドクの永久職化というのは、高学歴の経験を積んだ研究者の生活やキャリアを保障する目的であるのはわかりますけど、欠けているのは長期的かつ包括的視点でしょう。数人の人がコメントしている通り、決定的に足りないのは「カネ」です。ポスドク一人当たりの補償を厚くすれば、資金がそれに伴って増えないのであれば、より多くのポスドクか誰かをクビにする必要があります。つまり、競争はこれまで以上に激しくなり、ポスドク職にさえつけない博士が大量に出る可能性があります。また、そうしてポジションを手に入れたポスドクがハズレだった場合は二重の意味で痛いです。

解決策はカネをなんとかするか、博士プログラムを縮小するしかないと思います。それによって「生産性」が落ち、科学技術の「競争力」が落ちるとしても、私は個人の幸せは、国家の競争力に優先すると思います。ドイツはEU中央銀行を支配しているとは言え、ドイツの問題解決のためにEUのカネを刷るわけには行かないでしょうから、資金はどこかを削って回すしかないでしょう。
 一方、日本ではカネを刷ってなんとかするという手があります。何なら、ポスドクや大学問題もニューディール政策のネタに使えばいいです。ちょうど、オバマがリーマンショック後にやったようなばら撒きを長期的計画の下にやればよい。カネを刷って大学や研究関係、学生、せっかくですから全国民に広くばら撒けば、彼らはカネを使い、モノやサービスを買い、大学をに授業料を払い、さまざまな会社も人々の生活も潤います。一人10万円といわず、100万円ぐらいとりあえず、ばら撒きましょう。100兆円ぐらいですか。どうせ日銀が政府口座に数字をチョイと入力するだけのことで、キャシュレスの世の中、お札を印刷する必要さえないです。管理通貨制下での実体のない「カネ」なのですから、緊急事態を乗り切るのなら、もっと管理に融通をきかせればいいと思うのですけど。
 だいたい、日本の経済の6割以上は内需ですから、国民に使うカネが乏しければ経済は成長するわけがありません。この状況で大企業にいくらカネを注いでも内部に溜まるだけでトリクルダウンしないのだから、直接国民に無差別にばら撒いて、ボトムアップに澱んでしまったカネの流れを刺激しないとムリです。大学にドーンと資金援助して、ポスドクや教員の研鑽がムダにならないようにポジションを作ると同時に長期的には大学の規模や数を人口動態にあわせて徐々に縮小して均衡を保つことを目指せばいいのではないでしょうか。

しかし、財務省と与党は「プライマリーバランス」信仰が染み付いているようですから、まずは政権を変えないとダメですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風の時代

2021-12-14 | Weblog
西洋、インドの占星術によると、昨年末に240年続いた「地の時代」が終わりを迎えて「風の時代」に突入し、これからは、物質的なものが尊ばれた時代から、より精神的なものが尊ばれる時代になるのだそうです。占いというのは私は当たった試しがないのですけど、歴史を振り返れば、時代には波や周期があり、ミクロな視点ではカオス的なブラウン運動をしているようにしか見えなくても、マクロで見ると結構はっきりしたアトラクタを指して世界はコヒーレントに動いているように見えるもので、個人のレベルで占いは役に立たなくても、世界全体のレベルでは有用なのかもしれません。

振り返ってみれば、直近の「地の時代」の始まりの240年ぐらい前は18世紀の終盤で、ちょうどヨーロッパで産業革命が始まったころです。産業革命によってモノを作る技術と規模が拡大し、人々の物質的豊かさへの追求が増大し、植民地主義から世界大戦へ、そして環境破壊、経済戦争、拝金主義社会と繋がったと言えます。物質的な豊かさやさまざまな技術の開発は急激な人口の増大を来たし、増加した人々は高エネルギー消費型の西洋的ライフスタイルを好み、飽くなき物欲は、結果地球環境を激しく破壊し、森林は農場化のために焼き払われ、山は希少金属をもとめて掘り返され、海洋は放射能やその他の有害物質によって汚染され、化石燃料の燃焼によって大量に放出された炭素は森林による固定化が追いつかず、温暖化にともなう海水上昇は低地帯を海底に沈め、億単位の人々が難民化すると予想される状況になっています。

個人のレベルで言えば、科学の進歩は驚嘆すべきもので、膨大な人々の努力が物質レベルでのこの世界の成り立ちを解明し、それに応じて人々の生活を向上すべく、科学知識は技術に応用されて、われわれの生活は便利になりました。いまだに折々に目にする素晴らしい科学研究の成果には単純に感動しますけど、物事には両面あります。科学はその他もろもろの人間の活動、音楽や芸術などと同様に人間の知的生活を豊かにするものではありますが、それが技術へと応用され、資本主義と結びついて、ある特定の目的のために追求されだすと、さまざまな弊害を産みます。そして事実、地球レベルでみれば、各個人の物質的な豊かさへの欲は上に述べた通りに、地球環境の激しい破壊に至りました。

ある人が、夜のロスアンジェルスの灯りを飛行機の中から眺めた時、その広がりがまるで正常組織へと浸潤していく悪性腫瘍のように見えたと述べました。地球を人間の体だと例えると、その隅々まで入り込んではコロニーをつくり、己の生存と欲のままに増殖し、周辺の環境を破壊していく現代の人間は、確かに悪性腫瘍細胞のふるまいにそっくりです。結局、ホストの体を滅ぼして自らも滅んでいく腫瘍細胞の姿が人類の未来と重なります。

とすると、その悪性細胞を抑え込むための腫瘍免疫に類似のメカニズムも地球にはあるのかも知れません。コロナのパンデミックが風の時代の幕開け前に起こったのは、地球の歴史というマクロな視点からみれば、それは地球の免疫反応、あるいは警告であったと後々、解釈されるようになるかも知れません。コロナに限らず、地球の各地での異常気象の増加は、これまで以上に地球に負荷がかかっているということそ示しているようです。

もちろん、「地の時代」の唯物主義の物質世界で育った人々は、地球の意志とか地球の免疫システムとかいうと鼻で笑い飛ばすでしょうが、現実に人類は、自らの行いの報いとして、すでに目の前に破滅的な未来を突きつけられているわけです。誰かが何とかしてくれるだろうと全員が楽観的に考えて、このまま突き進んだら50年後はどうなるでしょうか。じっくり考えたあとで、幸せな未来があると予想できる人は少数ではないでしょうか。

幸い、このコロナパンデミックで、人間の活動は抑制され、それに伴って、われわれは急激な環境の改善を目の当たりにしました。飛行機が飛ばず、車が減った都会の空は澄み渡り、良質の蜂蜜が沢山とれるようになりました。人間が活動を抑制すれば、地球は回復する力を持っていることが示されました。コロナを地球からの警告であると捉えて、人間が利己的な活動を自主的に抑制していけば、地球は警告を解くことでしょう。ま、このように擬人的に考えなくても、人間が一斉に活動を抑制すればコロナは行き場を失って終息するはずです。

幾何学の問題を解く時に引く補助線のように、地球の意志をいうものを仮定してみると、われわれが、どう問題を解決するべきか、人がどう生きるべきかが見えてくるように思います。時代を「地の時代」とか「風の時代」とかに区分するのも補助線のようなものだと捉えれば、ただの占い以上の意義があるのかも知れません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

動物実験廃止への動機

2021-12-10 | Weblog
12月2日号のNature front pageのCorrespondence のカラムで、EUの立法的部門であるEuropean Parliamentのニュースに関して科学研究における動物実験の最小化、廃止を訴える記事を目にしました。

「、、、9月には、欧州議会のメンバーが、必要のない動物実験をできるだけ早く廃止するために、タイムテーブルに裏付けられたEU全体の行動を要求した。この課題に取り組むには、科学界の並々ならぬ努力と献身的なコミュニケーションが必要である。ワクチン接種、行動生物学、移植手術など、生物医学やトランスレーショナルリサーチの多くの側面が動物実験に依存しており、動物実験からの切り替えに消極的な研究者を克服するためには、科学コミュニティが代替手段の考案に参加する必要がある。、、、」

と、動物実験の代替手段の開発を勧める論調です。しかし、そんなものが簡単にできるのなら、誰も動物実験などしません。現在の技術レベルだと、人工的なオーガノイドなどは、ごくごく限られた用途にしか使えず、実験動物の変わりに使えるレベルには、おそらく永久に達しないだろうと私は思っています。生理学的あるいは病理学的な研究なら動物実験なしで説得力のある結論を得るのは困難であり、また説得力のある結論を得てインパクトのある論文を書かないと研究者としては生き残れないとなれば、現状では簡単に動物実験をやめるわけにはいかないでしょう。

とはいうものの、私も動物実験はすべきではないと考えるようになり、現在のプロジェクトにカタをつけた後は動物実験はしないつもりです。これは人間の我欲のための地球環境の破壊はすべきではないと思う私の子供のころからの価値観的なものの延長なのかも知れません。三つ子の魂なんとやらで、人間というものは簡単には変わらないものだと実感しています。

ところで、EUの動物実験抑制への取り組みは古く、この記事のもとになったEuropean Parliament の記事(MEPs demand EU action plan to end the use of animals in research and testing) から、化粧品成分のテストを動物で行うことはEUでは2009年から禁止されていることを知りました。一方で、EUが最終的に動物実験の廃止を目指しながら、現状では、2017年には1200万頭の動物がムダに殺されているという現実があり、この目標と現実との乖離がこの度の声明に繋がった模様です。

産業革命以来、物質的繁栄を求めて科学技術の発展を「良いこと」として人類は努力を続け、大変な量の質の知を蓄積しました。その努力には純粋に感動しますけど、一方で、その裏には動物実験や人体実験をはじめとして、無数のさまざまな犠牲がありました。それらを差し引きすると、トントンどころかマイナスでさえないか、と私は密かに思っております。科学技術の発展は良いこともありますが、それと同じぐらい悪いことも作り出し、そのうちのいくつかは取り返しのつかないレベルに達し、地球環境をそこに住むものに適さないような状態に変えようとしています。

これは私の予感にすぎませんけど、遠からず科学技術の発達は何らかの形でピークを迎えて、徐々に衰退していくのではないだろうかと思います。科学技術発展へのモチベーションは何か誰かに役に立つものを作って(金儲けをしたい)という動機が大きいと思います。純粋に学問的興味だけでやっている分には害は少ないと思いますけど、資本主義社会の「豊かさ(つまりカネ)」への追求への強い欲と結びついた科学技術開発の努力が現代の地球規模の問題を作り出してきたといっても過言ではないでしょう。そもそも目標に向かってひたすら努力するやりかたは人間を近視的にし、他を思いやる余裕をなくさせて、長期的に世界に害をおよぼすバランスの悪い状態を生み出します。

動物実験の規制の強化は、これまでのような人間の行き過ぎた利己的活動に対する反動の前触れでなのかも知れません。このEUが主導する動物実験廃止への動きは動物福祉、すなわち動物への思いやりの心に基づいています。つまり、これまでは「自然は人間の幸福のために利用する存在である」との狭い考えであったのが、他の生物へと意識が拡大した結果であり、人間の精神の成長の結果とも言えます。大義のために我欲を我慢することができるのが大人ですから、これが人間の成長なのであれば、人間の不便と引き換えにしても、こうした考えは徐々に徐々に世界に広がっていくでしょう。

多分、アメリカで奴隷制度が廃止された時と同様に、イデオロジカルな動機によって動物実験も遠からず(と言っても50年ぐらいはかかるでしょうけど)廃止にいたると私は想像しています。そして、100年もすれば人間は自然ではなく自らの欲の方をよくコントロールすることを覚え、科学技術の発展への情熱も冷めているのではないだろうか、と想像します。科学技術の発展が人々に幸福をもたらす以上に地球や地球に生きるものに害を及ぼすのであれば、将来的に科学技術は衰退するだろうと思いますし、それは多分人類の長期的な成長において望ましいことなのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都市ランキング

2021-12-07 | Weblog
まだ先の話ですけど、このところの株式市場の不調で、引退の資金が心配になってきました。株式市場のこのところの不調というよりは、この二年ほど、株式市場はバブル状態だったのだと思います。コロナで実質経済規模は縮小し、本来、経営規模拡大などに使われる予定であった資金が行き場を失って賭場に流れたのだろうと想像しています。いずれにせよ、株価は上がればいずれ下がらざるを得ませんし、だいたい年に何もしなくても20%以上も利益がでるのは異常でしょう。
ただし、世界中で、株式などによる運用利益を税制優遇によって引退後の老後資金に使うことが政府に推奨されてきた以上、株式市場は長期的には絶対に上昇する必要がありますから、戦争とか国家破綻とかの破滅的な事態にならない限り、政府はなんらかの介入をして、株式の成長は保たれるだろうとは思っています。国民の老後の生活が、株式とか実体のない数字のゲームに頼っているのですから、イカサマもいいところなのですが、それを言い出すと「カネ」という口座の数字にもそもそも何の実体もないし、「貨幣経済」のシステムというものそのものがすでに「信用」という実体のないものに基づくバーチャルな存在にすぎないわけですが。

それはともかく、カネという数字を通じて実体のあるものがやり取りされる以上は、口座の数字には実体はなくても意味はあり、引退後に向けてその数字を一定レベルにあげて維持していくことは幸せに暮らすために必要です。4%ルールで引退後の生活を補うとすると、私の場合は今後の物価上昇率を考えると早い目に引退するとあまり余裕がなさそうです。

ということで、引退後に豊かに暮らす一つの選択肢として、生活費が比較的安く、安全で快適な場所に移る、ということが挙げられます。

しばらく前、InterNationsの調査で、国外脱出者が選ぶベスト、ワーストの国を少し前に紹介しましたが、今年のベスト、ワーストの都市もリンクします。

多分、回答者の大部分はアメリカ、ヨーロッパ系の人々なので、日本人とは選択の基準が異なっているとは思いますが、興味深いです。

ということで、ベストはクアラルンプール、二位がマラガ(スペイン)、三位デュバイ、四位シドニー、五位シンガポール、六位ホーチミン、、、と東南アジアが相変わらず人気。多分、経済的な利点に加えて住みやすさというのが重要視されているのだろうと思います。

一方、ワーストはローマ、ワースト二位がミラノ、と国でも都市でもイタリアの不人気は相変わらず。お金があって田舎に住むのならいいところなのでしょうが、そうでない人には仕事がないというのが主な理由のようです。ワースト三位がヨハネスブルク、四位がイスタンブール。ヨハネスバーグは色々な意味で危険だし、トルコの経済は非常に低迷していることが原因でしょうか。ワースト五位はわれらが東京、とほほ。続いてカイロ、パリ。

都市の生活の質ランキングではヨーロッパの都市が増えます。ベストはウイーン、二位がスイス バーゼル、三位シンガポール、四位ミュンヘン、五位プラハ、六位チューリッヒ、七位マドリッド、八位ローザンヌ、、、スイスが強いですね。プラハは物価が安く歴史的趣きがあって落ち着いた街。お金があって都市に住むならヨーロッパが快適ということでしょうか。東京は14位と比較的健闘しています。便利さや食文化が評価されたのでしょうか。

気候やレジャーではスペインが強いようで、一位はマラガ、二位バルセローナ、三位はケープタウン、四位はマドリッド、五位シドニーとトップ5のうちの三つを占めています。暑くて湿気の多い東南アジアはその点が弱点でしょうか。六位のメキシコシティーは高地にあるので、多分緯度のわりには快適なのだと思います。メキシコはユカタン半島は昔に行きました。低地の熱帯のジャングルは気候的にはちょっと辛いですけど、高地に住むならいいかも知れません。メキシコは医療制度もよく、物価も安いので、引退後のアメリカ人の人気移住地になってきているようです。私もちょっと考えてます。メキシコには公用語が定まっていないようで、英語もそこそこ通じるようですけど、やはりスペイン語話者がほとんど。フランス語が一通り終わったら、とりあえずスペイン語をやることにします。

経済および住居でのランキングでは、クアラルンプール、ホーチミン、バンコック、と東南アジアが上位を占め、四位にメキシコシティー、五位マラガ、という順。東京は57都市中43位。日本の都市の住環境は悲しいです。なんとかならぬものでしょうか。郊外の新興住宅地も狭い土地を切り開いて、そこに最大数の家屋を並べて作ろうとするものだから、やはり空間に余裕がない。田舎は不便だし、昔ながらの集落はやはり密集していますし。比較的いいのは平野が広く、新しく開拓された土地である北海道でしょうか。移住者どうしで古い因習も少ないようですし。でも寒いのはちょっと。

住みたい街ランキングでは、一位、クアラルンプール、二位、メキシコシティー、三位マラガ、四位ナイロビ、五位ムスカット (アラビア半島、オマーン)となっており、土地の人々の友好さなどが考慮されています。そして、東京は57都市中、堂々の最下位。ちょっと悲しい。ストックホルム53位、コペンハーゲン54位、パリが55位、デュッセルドルフが56位という感じで、ヨーロッパの生活費用が高い街も抑えました。東京は、人々の友好度や外国人に暖かいランキングでも48位、55位というランク、言葉の通じやすさでも最下位。

ガラパゴス化する日本というのが近年の懸念ですけど、経済の低迷、重なる天災、腐敗政治、超高齢少子化と日本が外向きに発展できる要素が少なすぎて、内向きに排他的になっていっているのではないかと危惧します。入管での度重なる犯罪行為は、そうした没落するかつての世界二位の経済大国の悲しい現実に生きる人々のルサンチマンの現れではないのかと思ったりします。いずれにせよ、食料の多くを輸入に頼る日本で、ガラパゴス化は死活問題ではないかと思うのですが。

また、高齢化社会で、若い外国人に来てもらって助けてもらおう、と考えているなら、もうちょっと外国人に住みやすい環境が提供できるように政府は考えないといけませんね。どうして同じアジアの国でありながら、マレーシアがトップで、日本は下から五番目なのかを深く考える価値があるのではないでしょうか。確かにクアラルンプールの街は都会も郊外も整っていて空間や自然に余裕があり、住環境は東京よりははるかに上でしょうし、英語も通じやすいでしょう。物価も多少安いでしょう。しかし、それだけでここまで差がつくものでしょうか?こうした東南アジアの街から学んで日本をもっと住み良い場所にできないのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記号化した生命

2021-12-03 | Weblog
まえの続きですけど、科学研究で動物実験が行われる際、人間の立場からみると、その動物は何かのデータを出すための道具という扱いになります。データを抽出すれば、その元になった個体は存在を失います。つまり、人間からすると、実験動物は、呼吸をし、餌を食べて、動き回る存在ではなく、ある種の遺伝子型や何らかの研究の分類上必要な属性によって、分類される記号的存在であって、同じ属性を持つものは相互置換が可能な替えのきく抽象物となります。

生き物から物体、そして記号へと変化する間に、動物もわれわれ人間も生命という不思議を与えられた存在から単なる概念上の存在になっていきます。それぞれ個性をもって呼吸をし生活を営む実験動物ではありますが、記号に変換することで「生命」は抜き取られ、動物を研究道具に使う人は、命を奪うという生々しさを感じずにすむのです。同様に、食用にされる動物も、殺され、皮を剥がれ、血を抜かれ、肉を削がれて、四角く切られて綺麗に包装されていれば、それは「食べ物」という物体であって、誰かによって殺され、「生命」を奪われた牛とは無関係になってしまいます。

キューブラーロスの子供のころのエピソードで、ペットのように思っていた兎が、両親によって殺され料理され晩御飯のおかずになって出てきたことに強くショックを受けたという有名な話がありますが、それはペットという愛情を注ぐべき生き物が、同様に愛情によって結びついた両親の手によって、突然「兎肉」という記号つきの肉料理という物体に目の前で変換されてしまったからでしょう。

またよくある話ですけど、寿司に舌鼓を打っていた外国人が、魚の頭が盛りつけてある魚の活け作りが出てきた途端に強烈な拒否反応を示すことがあります。これも、寿司や刺身という食べ物は、すでに記号化された物体であって、少し前まで生きていた生き物の体の一部であるという認識が希薄になっているからだと思います。日本人でも、活け作りはOKでも白魚の踊り食いはダメという人は多いでしょうから、どこまでが生き物でどこまでが食べ物かという線引きは多分に恣意的なものだと思います。

生きている肉体は、生命という不思議なものが血肉からなる物質に宿ってできており、精神とかスピリットとか、目には見えないけれども確かに存在するものが付随しています。それを物体だけにする、あるいは記号にするというプロセスによって、生命や精神や個性を取り除き、第三者が扱える対象とする、そうして科学実験は行われ、食物は作られます。その際に取り除かれた「生命」はどこへ行くのでしょう?

昔の知り合いから聞いた話を思い出しました。ある研究者が恐山の霊能者に、目が赤い小動物がたくさん肩のあたりにいるのが見える、と言われたのだそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする