百醜千拙草

何とかやっています

夏休み

2008-07-28 | Weblog
去年からときどき、夏目漱石の作品を読んでいるのですが、余り良いと思えず、困惑しています。中学生時代に「我が輩は猫である」とか「門」とか読んで、面白いと思って以来、漱石の作品は面白いものだという思い込みがあったので、週末の楽しみにと思って、「こころ」、「草枕」と「虞美人草」を読んだのですが、さっぱり面白くありません。漱石の他にも子供のころ好きだった森鴎外や中島敦も読んでみたのですが、面白くないのです。どれも妙に薄っぺらく感じてしまいます。しばらく文学書から離れていたせいもあるのかも知れませんが、最近ますます、面白い本を見つけるのに苦労するようになりました。生来、ケチになせいか、面白くない本をお金を出して買うと、時間とお金をダブルで損した気になって、非常に腹が立ちます。昔は週末に本屋によって、その足でジャズ喫茶に行って、コーヒーを飲みながら本を読むのが楽しみでした。それだけで、豊かな気持ちになったものですが、最近、本を読むと「損した」と思うことの方が多くなったような気がします。年のせいでしょうか。今週、ちょっと夏休みをとって、のんびりしようと思っています。その時に本を持っていきたいと思ったのですが、持っていきたい本が見当たりません。こうなったら面白い本は自分で書くしかないかとさえ思い始めました。

 ところで、そもそも、このブログは筆無精の私が、遠くにいる知り合いや家族へ「元気にしてますよ」という「バイタルサイン」を示すために始めたもので、思いついたことやニュースや覚え書きを、とりとめなく書き付けています。しばらく前から決まった日に書くというようにしています。(そうしないとだらだらと書かなくなってしまいますので)今週はコンピューターのそばから離れ、自然を楽しんできたいと思っていますので、ブログの更新はしない予定です。
 最近、有名物理学者の戸塚洋二さん(http://fewmonths.exblog.jp/)が亡くなって、書いていたブログが更新されなくなったということがありました。また膵臓癌で余命数ヶ月と宣告されたコンピューター科学者のRandy Pauschさんが自分の死を前にして行った「最後の授業」がインターネットで大きな反響を呼びました(例えば、http://www.glumbert.com/media/lastadvice や http://www.youtube.com/watch?v=ji5_MqicxSo でその講義が聞けます。数日前に亡くなられました)インターネットの世の中になって、人の死というものが昔に比べてより身近な日常の出来事であることが、より実感されるようになりました。昔、人々の目から隠れたところで密かに忌まわれて扱われていた死は、誕生と同じく、私たちみんながいつかは迎える大きな最後のイベントです。それに向けて人々が生というものをどう捉え、やがて来る死にどう向かい合うかということを知ることができるということは、極めて貴重であると思います。私自身、自分がフルタイムの医師であったときに、少なからぬ数の患者さんを主治医として見送りました。私がその今は亡き患者さんたちから、死へと歩んでいく間に、教えてもらったこと、学んだことは、若かった私のナイーブで薄っぺらな「生」への考え方をずいぶん豊かなものにしてくれました。今では、人はインターネットを通じて、そうした経験を得ることもできるようになりました。私は素晴らしいことだと思います。

 私のブログは自分の独り言なのですが、聞いてくれる人には、それをもって私がまだ生きていることを知ってもらえます。ブログが途切れたら何かあったのではと思うでしょう。それで、今日はブログを書く日ではないのですが、夏休み中のしばらく、ブログを更新しないと死んだのではと心配する人もあると困るので、アップしておくことにしました。夏休みです。元気にしています。
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さよならドリー

2008-07-25 | Weblog
羊のドリーが体細胞核移植によってクローニングされた衝撃の論文が出たのが1997年でした。そのNatureの論文の筆頭著者、Ian Wilmutは当時50歳過ぎ、獣医学で有名なエジンバラのRoslin Instituteの研究者でした。哺乳類で体細胞核のリプログラミングが可能であることを示した画期的な論文でした。以後、体細胞移植(SCNT)は、ステムセル研究の中心技術として確立し、その他マウスやサルを含む複数の哺乳類でSCNTでのクロニーング、ES細胞株の樹立が成功しています。昨年、Wilmutは約30年を過ごしたRoslin Instituteを辞め、 Scottish Center for Regenerative Medicine in Edinburghでのポストに移りました。現在、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の再生医療についての研究が主なプロジェクトのようですが、SCNTは技術的に困難な上に特殊な機器が必要であったり、大量のドナー卵子を必要とするなどの理由で、研究は遅々として進まないようで、WilmutはSCNTではなくiPSを使った研究へとフォーカスを変えたようです。ステムセルの再生医療への利用を研究するのではなく、細胞のリプログラミングそのものを研究している研究室では、iPSなどでのリプログラミングがどういうメカニズムで起こってくるのかといった基礎的な疑問に答えるために、SCNTや他の方法で得られたステムセルを比較する必要があり、SCNTはまだまだ必要とされているのですが、そういった特殊な例を除けば、iPSの登場によってSCNTの必要性は急激に低下してきているのは事実でしょう。振り返って、ドリーとiPSの科学的価値という点に絞って考えると、哺乳類で核のリプログラミングができるという「生物学的」発見がドリーであって、それが限られた数の遺伝子の強制発現で可能であるという、どちらかと言えば「技術的」発見がiPSであったと言えるような気がします。この分野では、「生物学的」発見の方が通常、「技術的」発見よりも位が高いと考えられていますから、(これは工学という実学への偏見、実学を軽視する歴史的なスノビズムのようなものに大いに依存しているのではないかと思います)ドリーの発見の方が発見度の意義は高いと考えられるのですが、それに使用されたSCNTそのものの価値は、iPSの技術的革新性には比べるべくもありません。何だかんだ言っても、近代生物学は技術の進歩が先導してきていますから、生物学的意義とか工学的意義とかを分けて考える方が本当はおかしいのです。実際、ノーベル賞は「大変役に立った」実学的な発見に対して与えられることが多いですから、生物学的発見の価値はどうあれ、もしもiPSが疾患の治療にでも有効に使われるようなことにでもなれば、ノーベル賞の候補になるのはドリーではなく、iPSの方であろうと思います。WilmutがSCNTという技術にどれ程の思い入れがあるのかどうか知りませんが、元祖SCNTが今やiPSにフォーカスしているということは、ドリーから始まって十年にわたるクローニングブームの終焉を示しているように思いました。思えば、ゲノムプロジェクトと同様にクローニングも一通りやるべきことが終わって一段落ついたという状態なのだと思います。ステムセル研究が、ドリーの時代を終えて、新しい時代へと入ったことが、WilmutがRosline Instituteを離れSCNTでhなくiPSにフォーカスしているという事実によって象徴されているように思います。
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研究と研究者の金銭価値

2008-07-22 | Weblog
経済の後退は、第三次産業にとりわけ大きな影響があります。医療業界も例外ではありません。先週号のNatureのSpecial Reportは、大手製薬会社での研究開発職を解雇されたベテラン研究者の例を取り上げています。Glaxo Smith Kline (GSK)は、製薬業界の大企業の例にもれず、合併、吸収によって、世界第二位の医薬品会社として現在あるわけですが、そこでは、研究開発に17,000人が従事しています。医薬品の開発は費用と時間がかかるものであるにもかかわらず、十年以上の研究開発、臨床試験を経て、莫大な費用をかけて市場に出した製品は、パテントがある限られた期間にできる限りの売り上げを上げて、投資額以上の利益を出さなければならないという厳しいものです。しかもそう簡単に新しい医薬品のシードが転がっているわけでもなく、長年の努力の末にプロジェクトが反故になることもしばしばです。一方、いったん市場に出た薬も、その後も、有効性や副作用について厳しく監視されます。毎年のように、副作用が発見され、裁判になったり、市場から撤回されたりという薬が出ますが、その度、裁判と補償の費用や売り上げの低下で、医薬品会社は相当なダメージを受けます。MerckのVioxxの訴訟は記憶に新しいです。Vioxxの場合、その副作用のメカニズムはおろか、因果関係でさえはっきり証明されたわけではないのに、クラスアクションで総額48億円という巨額の補償をするという結果に落ち着きました。会社がこうした損失を抱えると、経費を減らせて費用を浮かせようとするわけですが、もっとも打撃を受けるのが研究開発部門であろうと思います。十数年単位での研究開発の活動は、十年後に結果が見えてくるかもしれないという類いのものですから、とりあえず縮小しても経済的にはしばらくは困らないので、緊急時の整理の対象となりやすいのだと思います。多くの大手医薬品会社では、自前で研究開発を一からやるということが少なくなってきており、リスクの高い研究部分は、見込みのありそうなバイオテクベンチャーを買収するなり、ライセンスを買い取るなどして、リスクを減らそうとしています。日本、アメリカ、欧州でも、大手医薬品会社が持っていた、あるいは出資していた研究所がどんどん閉鎖されていっています。今回、GSKで勤続20年のベテラン研究部副部長が解雇されたのも、別段、彼の非によるものではなく、会社全体としての生き残り対策の中でおこったリストラであったようです。昨年、New England Medical Journalに発表された臨床論文のため、GSKのヒット糖尿病治療薬、rosiglitazone (Avandia)が心臓発作のリスクを上げる可能性があると報告され、GSKはその影響と対応への費用で、合計20億円の損害があったそうです。一昔前の日本では終身雇用制で、大企業に就職できれば安定していたわけですが、現在のように世界的経済の中で弄ばれるようになってくると、「安定」などというものは、どこにも無くなってしまったように思えます。GSKの研究環境についても、成果主義が強くなり、プロジェクトのターンオーバーが短くなったため、研究部門は、大企業の官僚主義的システムの中でベンチャーなみのリスクを負わなければならなくなっていると述べられています。
 今更、こんなことを言っても仕方ないのですが、「儲けてナンボ」の企業ですから、何十年の経験と知識を積んだ研究者であろうと、いくら画期的な研究であろうと、それらをサポートする場合のコストと見込み利益の比だけで、研究の価値は、最終的には金銭的に決められてしまうのでしょう。悲しい話ですが、会社が生き残るためには、利益を出す必要があり、生き残りは最優先ですからやむを得ない所もあります。ブリジストンがファイアーストンの経営再建に乗り出した時、偶数番の管理職を首にしたという話を聞いたことがあります。副社長、副部長、副係長、、、、その人の実力も経歴も関係無し、偶数番を間引きしただけの人事、私ならそんな人間を畑の野菜とでも思っているような経営陣のいる会社では働きたくありません。いくら頑張っても、今度はいつ奇数番が間引かれるかも知れませんから。製薬業界に留まらず、グローバリゼーションというものは、価値の交換を促進するわけですが、人やものの価値を最も測りやすい共通の単位である金銭におきかえることで価値交換を容易にしています。しかし、結果として、あたかも金銭が唯一の価値基準であるかのような錯覚、金銭至上主義を促進し、人間は、人という生物的存在ではなく金に換算されてはじめて評価の対象となるというような価値観を社会に植付けていっているようです。二十年のベテラン研究者も、会社の経営上の都合で整理されてしまうと、会社に役に立たない人、経済的価値の低い人、更に人間として価値が低いと単純に思われてしまう傾向さえあります。高収入のエグゼクティブの人がその収入の継続を当てに多額の借金をしてハイクラスの生活をしていたが、リストラで会社をクビになり、一気に自己破産まで突き進んでしまうというのはよく聞く話です。会社としては高給取りをクビにする方が効率的に節約できる一方、クビになった高給取りほど再就職に苦労するという現実があって、より一層問題を困難なものにしています。私の身の回りでは、医者をやめて大手製薬会社の研究開発部門に就職した友人は、とりあえずここ五年程は順調で良い生活を享受しているようでした。また大学での研究を辞めてバイオテクでミドルクラスの職を得た人は、いつクビになるかも知れないが、クビになってもすぐ別の職が見つかるから余り心配はしていないと言います。しかし、研究のように、どちらかというと労働と金銭との交換は二次的な目的となる趣味的な活動では、クビになることは金銭以外の問題も大きいのではないかと私は思います。優雅な暮らしをしている製薬会社勤務の元医者の友人をうらやましく思っていましたが、今回のNatureの記事で、製薬業界の厳しさとそこで働く事のリスクをあらためて考えさせられたのでした。
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学会的民主主義の弊害

2008-07-18 | Weblog
しばらく前、柳田充弘先生のブログで、柳田先生自身は偏見と言っていますが、私は真理であると思ってウンウン頷いたことがあったので書き留めておきたいと思います。( http://mitsuhiro.exblog.jp/9164584/)

学会と名のつくものはこの日本という国ではおおむね後ろ向きです。
わたくしのそれほど多くない体験からいっているのですが、かつて革新といっていたものがまったく革新でなく自民党と野合したように、日本でのもろもろの学会に常時巣くってているかたがたは世のためといいながら実際には余計で迷惑のようなことしかしてない、というのがこれも体験からでてきたことです。
なぜでしょうか。
結局、一つの結論を出そう、ださねばならない、ということで少数派の新しい動きは常に頓挫しやすいのです。
だいたい学会にいて、誰もが結局賛成するようなものはたいていろくでもないのです。

私は、学会という社交の場は全てのレベルの人にとってある程度は必要なものであると思っています。切磋琢磨する場でもあるのでプレッシャーもあるけれども、時に志しを同じくする友人やライバルを見つけることができる、そんな所だと思います。しかし、長年そこにいてそれなりに認められてくると、緊張感が無くなって妙に居心地が良くなってしまうのも想像できます。それが「学会に巣食う人」となるのでしょう。そんな学会が居心地良くなってしまったような人が集まって、話合って、多数が合意できるようなことには、長期的に見ればろくでもないものが殆どだという意見は、その通りであろうと思います。これは学会に限らず、民主主義社会の悪い所だと思います。大事に当たっては、ほどほどの人の意見では使い物にならんのです。それを多数決で決めるから誤るのです。しかし、民主主義で決めたことが正しいとの前提で議論を始めると、多数が誤ったのなら、誤った方が正しいのだと多数派は開き直ってしまうので、始末におえません。正しい意見を唱えていた少数派は多いに欲求不満を感じることになります。ガリレオを思い出してみれば、当時のイタリアと同じ社会構造が、今日の学会という小さな社会にもあることは想像できます。学問は本来、先端的なものであって、常に常識を疑うところから新発見が生まれて進歩するという類いの活動だと思います。想像するに、学会に居心地良く集う人々は、皆と同じ様な意見を持っているということに安心し、その事実によって自分の意見を正しいとして思考停止してしまう横着さ、そしてその意見が誤っていた場合でも、皆が誤ったのだから自分は悪くないと開き直ってしまう態度、といったものを知らぬ間に身につけていくのだろうと思います。こうした学問の根本姿勢と相反する様な態度が、意見を同じくする人々がつくる閉鎖的な友達の輪の中での安心にしがみついている間に醸されていくことは想像に難くないことです。人が集って派閥を組んだり、多数決でものごとを決めようとするようなことは、おそらく学問という活動の本質ともっとも相容れないものなのでしょう。重要なことを成し遂げるには孤高の人でならないのかも知れません。そうでなければ、赤信号を皆で渡って全員ひき殺されることになりかねません。居心地の良い学会というのは、社交面では良いかも知れませんが、学問的には余り有益なものではないのだろうと思います。私はそう思って柳田先生の言葉に深く頷いたのでした。
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PLoSの理想と現実

2008-07-15 | 研究
GeneChipを代表とするマイクロアレイを使った包括的遺伝子発現解析、やゲノム解析は、現在の分子生物学、分子遺伝学を始めとする種々の研究分野で、ルーティンといって良いぐらいの研究技術となりましたが、その歴史はたかだか十年ちょっとです。今では、短い合成オリゴDNAプローブを使うAffymetrix GeneChipが、少なくとも遺伝子発現アレイにおいては市場を圧倒していますが、つい数年前まで、遺伝子発現アレイはおおまかにオリゴ式とcDNA式が共存していました。マイクロアレイ技術の最初の出版は、多分、1995年のScienceで、96のプローブで二色の蛍光ラベルしたサンプルを同時定量をしたというStanford大のPat Brownのグループの論文ではないかと思います。この論文ではPat BrownらはオリゴではなくcDNAを使用しています。その後、Affymetrixの圧倒的な技術力の進歩により、cDNAアレイはあっという間に淘汰されてしまいました。当初の96プローブと、現在のChip一枚に約4万種の遺伝子配列、各種について22のプローブが乗っているAffyのゲノムアレイを比べると、その技術の進歩に恐れ入るばかりです。
ところで、そのマイクロアレイの元祖ともいえるPat Brownを設立メンバーの一人として始まったハイインパクト生物学雑誌がPLoS (Public Library of Science)です。2002年の発刊当時、無料アクセスを謳うコンセプトが賛否両論、喧々諤々たる議論を巻き起こしました。従来の出版のビジネスモデルは購読者から料金をとり出版活動の運営にあてるわけですが、PLoSでは著者から掲載料を取ることで運営していくという方針です。多くの研究は国民の税金でまかなわれているのだから、その成果に国民は無料でアクセスできるべきだという主張が根拠としてあるのです。私は、その筋の研究者でなければ無料で論文にアクセスできたところで論文は無用の長物であろうと思いますし、研究者であればその所属機関を通じて商業誌にアクセスできるので、論文を無料公開することが実質的に社会や国民にプラスになるかどうかという点においては否定的に思っています。しかし、「税金で行った研究成果には無料でアクセスできるべきだ」という筋を通す、つまりpolitically correctであること、を優先すれば論文へは当然無料アクセスできなければならないということになるでしょう。現にアメリカでは、税金で行った研究の論文は、発表後1年以内に公的な論文のリポジトリであるPubMed Centralに論文を提出することが、今年の4月から義務づけられました。その画期的なオープンアクセスモデルを提唱したPLoSでは、掲載論文には数千ドルの掲載料を取り、採択率1割程度で高品質の論文を載せることを目標とするというコンセプトでスタートしました。その程度の収入でも、雑誌のフロントページの省略などで経費を抑えチャリティーで資金を調達することで、トントンでやっていけるという見通しでした。これには楽観的過ぎるという批判が当初からあって、実際、最初の2年の公的な補助があった期間は金銭的にポジティブバランスでしたが、それが切れてから一気にマイナスに転じ、その将来が危ぶまれました。2年程前からその経済状況が多少よくなってきているようで、その様子が7/3号のNature誌にレポートされています。PLoSはハイインパクトの論文のみを出版するというコンセプトがまず最初にあった雑誌で、事実PLoS BiologyはCellの姉妹紙なみのインパクトファクターがあります。しかしPLoSがここ数年、出版雑誌種を拡げて姉妹紙を作ってきたのには、どうやらPLoS Biology一本ではやっていけないという台所事情があったようです。当然ながら掲載者から料金をとるというシステムのPLoSの経済状況を良くするのには掲載論文数の増加が必要なのですが、そうそうハイインパクトな論文が沢山集まるわけがありません。近年のPLoSへの論文数の増加とそれに伴う経済的な改善は、どうもPLoS Oneという新しい姉妹雑誌への掲載論文の増加によるもののようです。この雑誌は、論文の意義とかインパクトは余り考慮されず、科学的研究手法と結果の解釈に誤りがないことが一人のレビューアに確認されれば、アクセプトされるという雑誌です。つまりレビュープロセスが大変甘い雑誌なのです。このNatureのレポートでは、JCIのディレクターのJohn Hawleyは、PLoS Oneは論文掲載数が多過ぎることと論文の質を判断しにくいことから、この雑誌は結局、「ゴミ捨て場」となってしまうであろうと述べています。ハイインパクト論文を売りにしていたPLoSは生き残るために、結果として低品質論文を出版することになる雑誌をその姉妹紙として発刊していく必要にかられたという皮肉でしょうか。ちなみに、同レポートではイギリスのオープンアクセス出版社BioMed Central (BMC)にも言及してあって、BMCが出版する数々のオンライン二流雑誌によってBMCは約20億円の歳入があり、十分ビジネスとして利益を出しているとあります。オープンアクセスとなれば、お客さんは読者ではなく、著者になるわけで、ビジネスとしてはお客さんである著者がより喜ぶサービスを提供することが成功の条件であるのは当然です。著者側には、低品質でもとにかく論文を出版したいという需要が多くあるわけで、高い理想を掲げて出発したPLoSもその顧客ニーズに迎合することなしにはやっていけないという現実に当たり、その妥協がPLoS Oneであったということなのかも知れません。もちろんPLoS側は、PLoS Oneの存在意義を「お金を集めるためにやむなく作ったゴミ捨て場」であるとは言いません。むしろ、レビュープロセスを簡略化し、早く論文を一般読者に提供して、積極的に読者からのフィードバックを得ていくことで、論文の評価を決定していくという画期的な雑誌であると謳っています。しかし、もちろん読者はそれほどヒマではないですから、そのような読者参加型のコンセプトはうまく機能してはいないようです。現時点では、PLoSの名前がついているからという理由でPLoS Oneに投稿する著者も多いでしょうが、長期的にゴミ捨て場であるという認識が広がれば、同じゴミを捨てるなら無料の商業誌に投稿しようという著者が増えるであろうと思われますし、そうなるとPLoSの経営は再び苦しくなってしまうでしょう。
さて、前途多難なPLoSの将来はどうなるのでしょうか。
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スタグフレーション?政府の役割

2008-07-11 | Weblog
5月を一時的なピークとして景気は後退し株価は転落の一途ですが、一方で石油、食料品を始めとした物価は上昇しています。景気後退時におこるインフレはスタグフレーションと呼ばれ、一般国民にとっては、泣き面に蜂です。今回も石油価格の高沸が、前回のオイルショック同様に引き金をひいたようです。石油とか食料原料とか、無しで済ますことのできない物の供給量の不足から、値上がりをおこし、更にそれで儲けようとする投機家がcommodity marketの値をつり上げているということなのでしょう。こういう生活必需品や不動産に関しては、私は各国政府は市場での取引に値段的な制限を加えるべきであろうと思います。今回、前回のオイルショックに比べて悪いのは、発展途上国での需要の増大なのにより石油の供給が需要に追いつかない可能性があるといわれていることでしょうか。石油の値段が下がれば、いずれ物価の上昇は止まり、消費拡大へと転換し、景気の好転を生むか、少なくとも一時的にはインフレは解消すると考えられるのですが、石油の供給量の絶対的不足はどうも当面、解消しそうにありません。石油の値段が十分に上昇し、人々の消費が減少に傾いて、投機的なうまみが無くなれば、石油価格は高めに安定するであろうとは考えられますが、状況が以前のように良くなることはなさそうに思えます。近代世界の経済を牽引してきたものは、工業、科学技術であったわけで、そうしたテクノロジー系はむしろ競争過多で利益は減少傾向にある一方、commodityの供給不足による値段の上昇しているという状況のようで、これまでのように経済活動の拡大によるインフレではなく、むしろ経済縮小時に生活必需品のコストの増大が生んだ物価の上昇なわけで、消費に引っ張られて物の値段が上がっているのではないのですから、インフレという言葉は不適切かもしれません。人々は、「市場は崩れてもいずれは復活する、長期的には経済は拡大し、株価は上がる」という歴史的事実を根拠にいずれ良くなると考えていると思いますが、ちょっと気がめいるのはそれがいつのことになるのか、見えてこないという点でしょうか。前回2000年をピークに2003年ごろ底値を打った景気は2000年レベルに回復するのに2年半かかっています。しかし、ずっと昔を振り返れば、1930年代のアメリカの恐慌では株価の回復に20年ほどかかっているようです。急激な株価の低下は比較的急激な回復を伴うようですが、ちょっと今回ここ一ヶ月ほどの急激な株価の持続的低下は2003年を思い出させるような不吉な感じがあります。経済はカオスシステムですから、長期予測ができない典型的な例なので、あるいは、明日にでも突然景気が回復に向かうかもしれませんが。
 しかしそれにしても、政府や国というものは、税金を通じて富を再配分し、弱者を助け、社会的安定を図るによって、国全体としての繁栄を実現していくためにあるのだと私は考えていましたが、ここ十年、アメリカや日本の政府がやってきたことは全く逆のことばかりです。これでスタグフレーションが進行すれば、弱者の生活はますます圧迫され、日本はますます住みにくい国になってしまうことでしょう。ここずっと増加傾向にある日本の自殺者数も更に上昇するかもしれません。ところで、今回のG8に集った国の多数の首脳の支持率は極めて低かったようで、とりわけ、米、英、日の各首相、大統領の支持率は2割台、中でも日本の首相は最低の支持率だったそうです。このまま景気後退と物価高が進行して国民が苦しい思いをしても、現首相がどんなトボケた反応を示すのか、国民は十分予想がついてしまうということがますます気を滅入らせます。一般国民の幸福を第一に考えない行き当たりばったりのろくでもない政策しか出せない官僚利己主義の政府はさっさと崩壊してもらいたいとさえ思います。
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運営交付金に思うこと

2008-07-08 | Weblog
国立大運営費、学部ごと評価し交付金に差。文部科学省は国立大学の運営費交付金について2010年度から、教育や研究の実績を学部ごとに評価して交付金の配分額に差を付ける方針。交付金を一律に年1%削減する現行制度を見直し、大学ごとに削減率を変えることも検討する。配分にメリハリを付けるとともに、成果主義を採り入れて大学間の競争を促す。

 というニュースを聞きました。国に金がないのはわかります。しかし運営費というのは、とりわけ競争力の弱い所の命綱なわけですから、そこにまで成果主義を入れて配分に差をつけるということは、実質、弱小大学、学部を潰していこうという政策ということですね。それにしても、日本政府はどうしてこうも頭がないのでしょうか?格差社会がなぜ生まれたか、その格差社会がどれほど有害であるか多少でも理解しているのでしょうか。大学での教育研究の性質を理解しているのでしょうか。そもそもどういう理由で大学間の研究業績に差が生まれてきているのか知っているのでしょうか。私は先のことが見える方ですが、政府がこのような大学での成果主義や競争がプラスに働くとでも考えているのなら大間違いだと思います。とりわけこの十年ほど、日本政府が大学、研究に関してとってきた政策は日本の高度教育研究を促進するという意味で、全く逆効果です。それはとりもなおさず、儲けたものが偉い、偉いところに金を回すという、資本主義でのビジネスと大学の教育研究との本質的な差がまったく理解できていないということなのであろうと思います。研究や教育を国がサポートするのは数十年後を見据えた投資なのであって、短期の利益を目的としているのではないと思います。研究成果などというものはいったんヒットすれば短期の利益を目的とするスポンサーは自然とついてくるので、そこを政府の金で必要以上にサポートする必要はないのです。ヒットする前の研究にこそ金を回して、シードを育てていかねばならないのに、そこを削った上で、逆に政府からの多少の資金援助はもはや必要ないというレベルの研究室に金を回すのは、研究格差をますます大きくし、研究の多様性をつぶして、新しい大発見の芽を摘む愚行であろうと思います。最近のiPSなど大型研究プロジェクトに資金を集中投下するやりかたは、間違いなく十年後には、日本の研究の国際競争力を落とすでしょう。たとえばiPSがなぜあれほど脚光を浴びているのか、そのコンテクストを考えてみれば、そこに国が金を集中投下することの愚かさは明らかではないでしょうか?iPSはステムセル研究という国際的に非常にホットで競争の激しいところでのブレークスルーであったからあれだけ注目を浴びたのです。ビジネスで言えばすでに成熟した競争の激しい市場に新技術をもって大きく食い込んだということで、これは別段その市場のシェアを大きくとったというのではないのです。市場のシェアは他国の公私のもっと大きな研究室がすでにがっちり取っており、iPSがいくらすばらしい発見であるといっても、ここでいくら日本が資金を投入しても市場をコントロールできるようにはならないのです。結局、いくら日本が金をつぎ込んだところで、先発の大きな研究室にiPSは取り込まれるような形となって収束し、日本が主導権をとることはないでしょう。投資するのなら成熟市場ではなく、まだ市場さえ形成されていないような、まだ皆が将来の可能性に気がついていないような研究に広く投資しなければなりません。そのためには業績にかかわらず、長年ユニークな研究を継続している地味な研究室や、やる気のある若手研究者に広く浅く資金を回すべきです。研究に成果主義を積極的に取り入れることは、偏った選択圧による淘汰を促進し、研究の多様性を潰し、研究不正の増加を来たし、独創的で重要な研究の芽を潰し、十年後の日本の国力を減弱させることに繋がります。研究においては、トップダウン型の研究比率をできるだけ小さくし、研究者主導型の小さなグラントに金を回すこと、研究テーマがホットでない地味な研究で、それ故に競争資金を得るのが困難な研究には、それが枯渇しない程度のサポートをする、そうしていかないと、急な研究の潮流の変化に対応できません。研究は投資であったとしても、数十年単位の長期投資であって、短期の利益を期待する方が間違っています。大株主が短期利益を求めて会社の経営に口出しして会社をめちゃくちゃにしてしまうように、投資効果を短期の金銭的価値でしか評価できないような科学研究政策は日本の大学というシステムそのものを台無しにしてしまうでしょう。

追記。そう考えていたら、事情はイギリスでも同様のようで、6/26号のNature (Special report: Payback time)によると、1998年から増大した科学研究費は主に商業的利益が見込まれそうな研究につぎ込まれ、純粋な学問のための研究はおざなりになっているそうです。「Blue-skies investigator-driven research is getting squeezed out」
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淫せず適度に頑張る

2008-07-04 | Weblog
子供の頃は、将来は無限の可能性を持っていて、頑張れば、いろいろ素敵なことが起こるのだろうと思っていました。今になって振り返れば、素敵なことも起こることには起こりますが、面白くないことや素敵でないことの方が何倍も多く起こるし、今頑張れば後で楽になるということも余り無いようです。ちょうど山登りと同じで、登れば登るほど空気は薄くなって苦しくなるように、頑張れば頑張るほど、もっと頑張らねばならなくなるようです。頂上につけば、さすがに素晴らしい達成感と解放感もあるのでしょうが、すぐに今度はもっと困難な下り道をたどらねばなりません。それでも人は山に登ります。山に登るのは、人間というものが根本的にチャレンジに立ち向かうことが好きだからであろうと思います。 チャレンジに雄々しく立ち向かい、頑張って困難を克服することを、私は、競争社会に入ってから最近まで、比較的ポジティブに考えていました。でも、もう一歩下がってみることも必要ではないかと改めて思い始めたのでした。

山本夏彦さんの言葉、
「何用あって、月世界へ? 月は眺めるものである」

この言葉を聞いて頷かない日本人は少数派であろうと思います。アポロ計画は多大にアメリカとソ連の科学力競争という政治的意味合いが強かったので、日本人であれば宇宙開発に対する批判は自然と持っているものでしょう。しかし、それでは「月」を「山」、例えばエベレストに置換えて見るとどうでしょう。何用あってエベレストへ、私は心の奥底では山や自然は眺め愛でるもので、別段、登ったり征服したりする必要はないと思っています。必要ないのなら人は山には立ち入らない方がよいと考えています。現代人が山に入れば環境は破壊されるのですから。富士山はゴミ捨て場になっているとも聞きます。山に登れば苦しみと危険が待っています。しかしチャレンジに立ち向かいたいという人間の本能がそこに山があれば人を登らせるのだと思います。誰も登ったことのない所に自分が初めて登る喜び、チャレンジに立ち向かった満足感、そういう感情はよくわかります。基礎研究の喜びと同じです。でも、最近は「そんなものが何だ」と思うこともよくあるようになりました。よくよくその感情を見つめてみれば、チャレンジに立ち向かい打ち勝つという行為は結局はその個人の満足感のためになされる利己的な行動に過ぎないのではと思ってしまうからのようです。登られる山やそこに住む動物や植物にしてみたら、そんな人間の自己満足のために利用されるのはいい迷惑でしょう。生物研究で殺されるマウスにしてみれば、たとえそのために新しい知見が得られたとしても、科学の発展に貢献して殺されることをうれしいとは思わないでしょう。現代の科学や医学に対する私の愛憎入り交じった感情は子供のころからのそんな思いに起因しているようです。人間は自らの生活を便利にし、病気を治し、楽しく生きるために、科学を使って多くの発見、発明をしてきました。楽しく楽に生きたいという欲、チャレンジを好む人の性質がその原動力であったのであろうと思います。エジソンが電球を作るのに何百回という失敗を積み重ねた最後に成功したとかいう話とか、キューリー夫人がラジウムを精製に昼夜精勤したために、両手が放射線障害で醜くただれてしまったとかいう話を聞くと、今でも感動に胸を打たれます。しかし、そうした偉大な先人たちが積み重ねてきた科学の発見や発明が、その他の大勢の人々の手を経て、現代社会にもたらしたものは何なのかを考えてみる時、電球や放射線など無かった方がよかったのに、と思うこともしばしばあるのではないでしょうか。医学や産業において、その技術の進歩がもたらしたものは結局、医原性疾患や公害、大量殺傷兵器や人間のロボット化であり、それは他方でもたらした人間生活の便利さや自己満足感を相殺して余りあるものだと思います。人間は目の前の飴を追いかけることに夢中になって、その行為の長期的な影響までじっくり考えることができなかったのでしょうか。あるいは、人類が危険に向かってまっしぐらに進んでいることは実は分かっていても止めることができなかったというのが本当なのかもしれません。ちょうど、核兵器開発競争のように。核兵器を使うと大変なことが起こることは皆知っているし、よって実際には使えないことも知っているのです。使うような時が来る時は人類滅亡となりかねないことも知っているのです。しかし、他の国が核を持っていると、自国が核を持たないという選択をするのは大きな勇気が要ります。というわけで、単に核を持つことによって得られる安心感あるいは外交上の有利さという目先の飴のために使えない兵器の開発を続けているのです。このまま世界中で二酸化炭素を出し続けていたらやばいことは皆知っています。それを止める方法も知っているのです。皆が車に乗るのをやめ、産業をダウンサイズし、夜中まで電気をつけて遊び回るのをやめればよいのです。でもできない。なぜなら目先の飴を舐め続けることが人間の本能に由来するからであろうと私は思います。人間は何かをしていないと不安なのでしょう。何かに没頭して頑張ることでしか自己の存在の意味性を感じられないのかも知れません。 学問であれ何であれ没頭することを「淫する」とも言います。自分とその周囲にしか意識が届かないような頑張りかたは実は結構、有害なのではないでしょうか。人類に英知というようなものが仮にあるとするならば、それは、人間というものは本能をコントロールできるほど賢くないことを知り、身の程をわきまえることを知るということであろう思います。チャレンジを追い求め、頑張ることそのものが目的となるような人間の活動は、ランナーズハイを求めるマラソンランナーと同じく、危険なものではないかと思います。
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幸運の禿げ頭

2008-07-01 | Weblog
最近、いわゆる成功本を読んでいて、「幸運の女神には前髪だけがあって、後頭部は禿げている」という表現を目にしました。どこかで聞いたことがあるなと思っていて思い出したのが、Gladys Knight and Pipsの曲、Butterflyでした。もう手元にCDはないのですが、インターネットで調べてみたら、1978年の「The One and Only」というアルバムに入っていました。私がGladys Knight and Pipsを好きになったのは、たまたまラジオで聞いた「夜汽車よ、ジョージアへ」からでした。ジョージア州アトランタ出身のソウルグループで当初デトロイトのモータウンで活動していて、マービンゲイのカバーでもヒットした「悲しい噂」や数々のソウルナンバー、美しいバラードナンバーのヒットで人気を博しましたが、モータウンのマネージメントに不満がつのり、70年代にBuddah Recordsに移籍します。そのころからソウル、R&Bからポップスよりの編曲となっていきます。「夜汽車よ、ジョージアへ」はBuddah Records移籍後のポップス路線での大ヒットとなり、1973年のグラミー賞を受賞しPipsの新しいサウンドを代表する曲となりました。ですから、私がこの曲を初めて聞いた時は既にヒットから10年以上は経っていて、私は実はリアルタイムでの彼らの活躍を知りません。私はこのポップス路線のちょっと力の抜けたGladys Knight and Pipsが好きで、Buddah Records時代のCDを数枚買った覚えがあります。そのうちの一枚が「The One and Only」で、私が地元を離れた信州の田舎で一人ぐらししていたころの愛聴版でした。Butterflyの曲の終わりの部分でアドリブみたいにして歌っている中に、「Opportunity is like a bald-headed man」という歌詞があって、うまい表現をするなあと感心した覚えがあります。私はこの言葉はてっきりPipsのオリジナルだと思っていて、深く考えませんでした。「幸運の女神の後頭部は禿げている」という表現を聞いて、それで初めて、「Opportunity is like a bald-headed man」にも語源があるのではないかと思いついたのでした。調べてみたら、ありました。この言葉は、20世紀初頭の黒人政治家、Booker T. Washingtonがスピーチの中で使った言葉のようで、

Opportunity is like a bald-headed man with only a patch of hair right in front. You have to grab that hair, grasp the opportunity while it's confronting you, else you'll be grasping a slick bald head.

と続きがあります。幸運の前髪をつかみ損ねたら、ツルツル滑る頭をつかまねばならなくなる、ということで、誰かが日本語に訳する時にハゲ男を幸運の女神に言い換えたのだろうとその時は思いました。しかし、更に調べてみるとこのWashingtonの言葉にも原典があったようで、もとはギリシャ神話で後頭部の禿げた俊足の神、カイロスのことだったようです。カイロスは足にも羽が生えている少年神でOpportunityという意味だそうです。カイロスを描いた絵を見てみると、確かにかわった髪型です。耳のあたりから前は豊かな髪の毛があるのがわかりますが、頭頂、側頭、後頭部はツルツルで、禿げているというよりは、むしろ意図的に剃ったという感じです。この「とき」の神様は、いわゆる幸運の女神、テュケー(Chanceという意味らしいです)とは別で、テュケーは勿論、禿げ頭ではありません。幸運の女神の後頭部が禿げているというのは実はダビンチが語った言葉だそうです(レオナルドダビンチの手記)。そうすると、ダビンチ版の「幸運の女神の後頭部は禿げ」という言葉はBooker Washington版の「幸運は一つかみの前髪しかないハゲ男」という言葉よりも先に成立しているわけです。想像するに、Washingtonがダビンチの言葉を伝え聞いて演説に使ったものと思われます。そこで彼は次のように考えたのではないでしょうか。禿げているのはそもそも、女神ではなく男性神のカイロスであるし、また女神が禿げで、こちらを向いている間に前髪を掴めという話は、政治家として国民に向かって語るという状況下で、いまいち説得性に欠けると。あるいは彼がダビンチとは無関係に独自に発明した表現なのかも知れません。いずれにせよ、神様の前髪やハゲ頭を掴むという行動に私は抵抗を覚えるので、幸運の女神が微笑んだ時は、せいぜい微笑み返すだけでしょう。ひょっとしたら、後頭部の禿げた少年がこっちを向いていたことも過去にあったのかも知れませんが、気持ち悪いと思って見ないでやり過ごしてしまったことが何度もあったのかも知れません。そう言えば、「多くの人が幸運を逃すのはチャンスが作業服を着ていて、いかにも骨の折れるような仕事に見えるからだ」というエジソンの言葉もありました。
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