百醜千拙草

何とかやっています

ちょっといい言葉(1)

2009-04-28 | Weblog
「人生は、後から振り返って見ないと理解できないものであるが、それは前向きに生きられなければならない」

キルケゴールの言葉だそうですが、いい言葉ですね。確かに、今、起こっていることの本当の意味は、後になるまで分からないものです。振り返って、「ああ、あの時は分からなかったが、本当はこういうことだったのだな」と膝を打つことがしばしばあります。「生きている」というだけで、人は自分の人生を肯定しているのです。例えば、私に今起こっていること、グラントの危機とか研究が思うように進まないとか、そんな、今は不愉快にしか思わないことでも、後になってみるまで、それらの自分の人生における意味は本当はよく分からないものだ思います。そう思うと、人間の一生というのは、本当にうまくできています。無駄なことは何一つないのですね。このことが分かってから、私は何かに対して不安に思ったり、心配したりすることが極端に少なくなりました。失敗や不幸(と考えられる)ことにも、全て必然的な意味があって、それはずっと後になってから理解されるのだ、という考え方は、現在を生きる上で、心に平安を与えてくれます。これは、つきつめて考えれば、自分の人生は自分だけが決めているものではないということを実感することです。つまり、自分の人生や自分の体が自分のものであるという錯覚をとり払うこと、誤解を恐れずに言えば「降参する」ことであります。
 理想と現実のギャップというものに悩んだことの無い人はいないでしょう。しかし、どんなに望んで努力しても、私にはサンプラスのスライスサーブは打てません。あるいは、例えば、年をとって、体力がなくなり、小じわや白髪が増える、または重い病気に罹る、そのような自分自身の体に起こっているこのような変化に対して、私たちは、極めて無力です。できることは、不健康な生活をしないように努力することぐらいです。努力してもだめだったら、私たちが唯一できることは、「降参し、現実をそのまま受入れる」ことしかありません。「どれだけ、積極的に降参できるか」それが、幸せのコツのような気がします。
 こんな例を一つ一つ思い浮かべてみれば、この世に自分がコントロールできるものは極めて限られていることがわかります。殆ど何もないと言って良いかも知れません。自分の体でさえ、本当は自分のものではない「仮の宿り」にしか過ぎないということが実感されます。つまり、自分のできる限りのことをしたならば、あとは、嫌でも、神の御心のままにまかせるしかないということです。大拙は「蝦躍れども、升を出ず」と喩えました。この点において、禅仏教での「禅」という言葉には(もともとヨガで心の落ち着いた状態を示すサンスクリット語の単なる音訳なのですが)「譲る」とか「明け渡す」とかという意味があることは思い出すことは意味があると思います(禅譲の禅です)。自分というものへの執着心、Egoを「神」に渡し、取りさること、禅はそれを求めます。DyerはEgoは、「Edge God Out」のAcronymであると言いました。神(あるいは世界の創造の源)を排除し、自分よりもはるかに大きなものに対して謙虚にひざまずく気持ちを失わせるものが、Egoであるとの謂いです。
 思春期に目覚めた自我の後始末をつけるのが人間の修行の一つであると私は思います。しかし、自他のない所を知るには、まず、そこから出なければならない、そして、再び、そこへ戻って来なければなりません。むしろ、そのために自我の目覚めがあり、Egoが生まれるのであろうと思います。

「山是山水是水」という禅語が、これと相似のことを述べています。

悟りに至る前、山は山であり、川は川であった。
悟りに至った時、山は山ではなく、川は川ではなかった。
更に悟りが深まると、やはり、山は山であり、川は川であった。
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閑中忙あり

2009-04-24 | Weblog
どうして締め切りというものがあるのでしょう?私は仕事が重なるとパニックになるので、できないことは引き受けない、いつも余裕をもってスケジュールを組む、ことを心がけています。それで、やると決めた仕事がいつ頃、終わるか予想しながら、計画を組むのですが、どういうわけか、大抵、締め切りぎりぎりになります。ならない時は締め切りより1ヶ月も前に終わってしまって、時間を持て余したりします。引き受けた時、締め切りはあんなに遠くに霞んで見えるのに、気がつくと顕微鏡で覘いたような圧迫感で、明日に来ています。締め切りの姿が見えない間の研究活動は波間に漂うかのような自由さがあっていいのですが、突如現れる締め切りの間際には、とりわけ、色々な他の事まで重なるようで、妙に忙しくなって、全てに不完全燃焼感が残ったりします。それが丁度、今日のことです。それで、このようなタイトルにしたのですが、考えてみたら、それでもこんな駄文を書いている閑があるのだから、やはり、忙中閑あり、ですかね。

二三、覚え書き。
Natureの前EditorのSir John Maddox氏死去。ワトソン、クリック、ウィルキンス、フランクリンのDNA構造についての1953年の一連の論文をレビューなしで掲載した時のEditorが彼でした。論文が真にオリジナルな場合にピアレビューはしばしば障害となると考えていたそうです。その通りですけど、それには、卓越した論文の価値を専門家以上に見抜く眼力が必要ですね。誰にでもできることではありません。

話し方についての本で読んだ、姿勢を良くするこつ。首のうしろがいつも襟についているようにする。これは、効果あります。なぜ、シャツには襟があるのか納得しました。

追記:John Maddox氏が、ワトソン、クリックの論文投稿時のEditorであるというのは間違いでした。当時のNatureはピアレビューというものがそもそもなく、誰かの推薦によって採用されていたということを、当のNatureのMaddox氏追悼号で読みました。Maddox氏がNatureのEditorに初めてなったのが1966年で、彼はピアレビューのシステムをむしろ定着させたとあります。彼がEditorを引き受けた時のNatureは発行部数も少ない弱小雑誌だったようで、現在のNatureの最高峰の科学雑誌としての権威の確立に彼が寄与したということだそうです。
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卵の側に立つ(5)

2009-04-21 | Weblog
人類は成長しているのでしょうか?つい数年前まで、私はこのことに懐疑的でした。確かに科学技術などの物質面での進歩は目覚ましいし、そのおかげで、世界中のいろいろな情報が入ってくるようになりました。そうして知った世界の情報の多くは、いつも、どこかで戦争があり、どこかで誰かが誰かを殺していて、権力は腐敗していくという何十年前と同じニュースです。自分たちの何世代も何世代も前から、戦争や殺人が絶えることなく続いていて、人は、それらから何らかを学んだはずなのに、次に世代に伝わっていない、そんなように思っていました。でも、最近は、私は人類はわずかながらも成長していっているような感じがします。リンカーンが奴隷を解放したように、フランスで人権宣言が出されたように、大きなスパンで見ると人類は少しずつ、学び進歩してきています。
 と書いたところで、先日あったフィリピン人一家の強制送還に関して、一般市民(らしい)グループが、強制送還を支持するデモをその中学生の子供の通う学校の前で行ったという、悲しいニュースを聞きました。この行為は、人類が成長していると感じた私に冷や水を浴びせかけました。
 法に基づいた判断を下すという義務がある「システム」側である日本の司法が強制送還という判断を下したのはやむを得ないかも知れません。きっと、不法滞在者は多数いるわけですから、今後のことや、他の不法滞在者のことを考えると、例外を認めることはシステムの維持に困難を生ずる可能性があるのは理解できます。しかし、今回のデモが一般市民(らしい)グループによってなされたということは、全く恥ずべき愚かしい行為です。不法滞在者であれ、普通の日本市民であれ、システムが与えた法的な身分に係らず、みんな同じ壊れ易い人間であるということを、この一般市民(らしい)グループは、どう理解しているのだろうか、国籍は違っても、同じ街に住んで社会を構成している「同じ人間」であるということをどう考えているのだろうか、と私は思いました。他人に対して、同じ人間としてのcompassionを持つことは、人間がこの世にいる間に学ばなければならない重要項目のうちの一つです。これらの人々は、まだそれが理解できていないということなのでしょう。
 個人としての人間は壊れ易い「卵」であり、システムは圧倒的に強い「壁」です。村上春樹は、エルサレム賞のスピーチで言いました、「どんなに壁が正しくても、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と。今回、デモを行った人たちが本当に一般市民なのであれば、彼らも第一に同じ壊れ易い「卵」であるのです。その卵が寄り集まって「壁」のように振る舞い、同じ一つの「卵」に対し、敵意のこもったデモを行ったということは、「卵であること、即ち、一個の人間であることをやめた」のと同意であり、「人間として」恥ずべきである、と私は思いました。不正に入国し滞在したという違法行為に対して、日本の司法がある判断を下した、ということと「人は皆、同じ人権のもとに、お互いに尊重されなければならない」というもっと大切な原理とは無関係です。この市民グループは、デモを行うという攻撃的な行動によって、法を犯すというようなことよりも、もっともっとはるかに重要な人間としてあるべき原理を犯してしまったのだと私は感じます。
「どんなに間違っていても卵の側に立つ」、村上春樹のこの言葉を、心から理解して欲しいと私は思います。
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今が潮時

2009-04-17 | Weblog
千葉知事選で、「それでも男か!」と皆が憤っている、不正献金使用と所属隠しで、不正当選した、元青葉学園剣道部部長に対して、800以上のの告発書を集めた「告発する会」が告発書を千葉地方検察に提出したというニュースを知りました。この選挙は、民主党、対、隠れ自民党という対決でもあったわけで、自民党支部長でありながら完全無所属と偽って選挙活動をしたことや多額の自民党支部への献金の不正流用については、マスコミは、いつものように殆ど何も取り上げず、この千葉知事選では民主推薦の知事候補が敗れたことばかりを報道してきました。自民党の強い千葉の地検が、この告発書にどう対応するのか、あるいは単に握りつぶすのか、興味深いです。
 私はまずは政権交代が行われない限り、日本の社会は良くならないと思いますから、民主(というか小沢氏)を応援しています。ですので、姑息な選挙キャンペーンで不正当選した元剣道部部長には、この際、「俺も男だ!」潔く、千葉知事を辞めて頂いて、次席の民主党候補が、繰り上がり当選にでもなれば、次の衆院選挙に多少の追い風となるのではないかと思っているのですが、多分、検察は動かないだろうし、仮にもっと大きな問題となったところで、当選無効として、選挙をやり直すということは、残念ながら行われないであろうと想像します。騙した方も悪いが、騙された方にも多少の責任はあるわけですし。これまでの公の場での受け答えを見る限り、知事としての能力はちょっと疑問点がありそうですから、それでも選ばれたということは、隠れ自民とわかっていたところで、結果に大きな差はなかった可能性はあります。
 マスコミは例によって、反小沢のネガティブキャンペーンを続けています。ウソか本当か知りませんが、民主党内からも小沢辞任を求める声がある、とかの報道をしつこく流しています。ナンセンスですね。小沢氏が代表を辞めた民主党で、政権交代ができるわけがないし、仮に、政権交代となったところで、小沢氏が指揮しない民主党が、国民が本当に望んでいる官僚政治の解体などできないでしょう。アメリカではオバマになってから、ブッシュの悪政時代の負の遺産を無くすべく、大胆な政策が撮られています。これが成功するか、逆に傷を拡げることになるのか、あと数年(悪くすれば十年以上)は経たないとわかりません。しかし、社会を良くしようという気持ちは伝わってきます。一方、日本で、戦後何十年と自民党政権のもとで、癒着し自己利益を貪りつづけてきた政官財に欠けているものが、「社会をよくしよう」という気持ちだと思います。その国民搾取システムの中に一旦入ってしまうと、国民の利益は自分の不利益であるわけで、どんな人でも、その流れに逆らってまで「社会を良くしたい」という気持ちを持ち続けるのは難しくなるのは理解できます。だから、それを改善するには、個人の気持ちのどうにかするというよりは、システムの問題なので、官僚政治という構造をまず解体しなければ、どうにもならないと私は思います。逆に言えば、この構造さえ潰してしまえれば、少なくとも新しいシステムが腐敗するまでは、政府は国民に向かって仕事をするようになる可能性が高いと思います。これまで、日本はシステムが腐敗しきっているのに、一党独裁のために、それを壊して建替えることができずにいました。今年はその最大のチャンスです。それに抵抗する既得権層は、権力、マスコミを使って姑息な手を繰り出し続けています。しかし、一般国民の多くが、自分だけよければよいよい社会という従来の利己的な社会観ではなく、国民同胞みんなにとってよい社会がよい社会なのだという立場をはずさなければ、政権交代は必ずかなうと思います。国民の意識がどこまで成熟しているかは、実際のところわかりませんが、少なくとも、多くの知識人は、自分だけではなく、国民一般の幸福に意識的であるように思います。
 それに、自民党の一党独裁の終焉は歴史の必然です。何事にも潮時というものがあるのです。
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サーク、十戒

2009-04-14 | Weblog
Natureの訃報欄で、花房秀三郎さんが3月15日に79歳で亡くなったことを知りました。私の研究とは、殆ど何の接点も無いのですが、花房さんの名前はさすがに知っています。大学院に入ったころ、シグナル伝達の研究分野では、蛋白のチロシンをリン酸化する、チロシンキナーゼが大ブレークしていました。その代表的なチロシンキナーゼの一つがSrc(サーク)で、マウスではSrcの変異によって、骨吸収を荷う破骨細胞の機能が欠失するので、がん遺伝子は興味の外だった私でもSrcぐらいは知っていました。花房さんは60年代からがんをおこすレトロウイルスについての研究をロッカフェラ大学でされていて、70年代に、がん化能を失った変異がんウイルスRSVが、ヒト細胞に感染後、ホスト細胞のSrc遺伝子を獲得して、再びがん化能を示すようになることを示し、がんウイルスでの画期的なパラダイムをうち立てました。それから20年近くたって、私が大学院に入ったころ、花房さんのグループは多くのがん遺伝子がSrcと似た構造ドメインをもち、それがチロシンリン酸化異存性に蛋白に結合することを発見し、これらのSrcホモロジー(SH)ドメインが、チロシンリン酸化による蛋白相互作用に重要であることを示しました。というわけで、当時、Srcホモロジードメインという言葉は、駆け出しの分子生物学学生の間での流行語となりました。多分、そのころに、花房さんは文化勲章受賞を受賞されて、その受賞のニュースを医局の新聞で読んだ覚えがあります。その後、奥さんが亡くなり、ロッカフェラを辞めて阪大の研究所の所長となり、昨年まで勤めていたとありました。私にとっては、花房さんは、大学院をはじめたころに名前を聞いただけの人なのですが、若い大学院生の私にとっては、先端の分子生物研究の、いわば一つのアイコンでした。ちょうど、昔、音楽が好きだったころのジョンコルトレーンみたいな感じですかね。そんな若かった私の青春の一ページにあった花房さんの名前を訃報欄で見るというのは、寂しい経験です。若かった頃のことは昨日の様に感じるのですが、本当は、とっくに遠くに過ぎ去ってしまっているのだということを実感させられます。

 この前の日曜日はイースターでした。去年か一昨年にも同じようなことを書いたと思うのですが、イースターには、必ず、チャールストンヘストンとユルブリンナーの映画、「十戒」がテレビで放映されます。映画は1953年製作ですから50年以上前の映画ですが、よくできていると思います。ユルブリンナーは随分前に死んだのは知っていましたが、チャールストンヘストンが亡くなったのは、実は昨年でした。古典的映画に出ていた俳優が、昨年まで存命していたことにむしろ、私はびっくりしました。華やかな映画の世界から引退して何年もの間、どのように毎日暮らしていたのだろうと想像しました。

それで、どこかで知った「十戒」ついてのユダヤジョーク。
十戒は、もともと五戒であった。神は最初、五戒をフランス人に与えようとして、訊いた。
「フランス人よ。汝に五戒を与えよう」
「神よ。それは、何ですか?」
「例えば、汝、姦淫するなかれ、このようなものじゃ」
それで、フランス人は、丁重に断った。
そこで、神は次にルーマニア人に言った。
「ルーマニア人よ。汝に五戒を与えよう」
「神よ。それは、何ですか?」
「例えば、汝、盗むなかれ、このようなものじゃ」
「結構です」
次に、神はアフリカ人に言った。
「アフリカ人よ。汝に五戒を与えよう」
「神よ。それは、何ですか?」
「例えば、汝、殺すなかれ、このようなものじゃ」
「いりません」
最後に、ユダヤ人に言った。
「ユダヤ人よ。汝に五戒を与えよう」
「神よ。それは、いくらですか?」
「もちろん、無料だよ」
ユダヤ人は喜んで言った。
「それなら、二倍にしてください」
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年とってナンボ?

2009-04-10 | Weblog
鳥取大学の研究施設での求人広告の惹き句を見て、ちょっと、一言。

鳥取大学染色体工学センターの発足に伴い、教授あるいは准教授を公募します。遺伝子・再生医療を目指した、あるいは薬物代謝に関するトランスレーショナルリサーチを推進してくださる方。どんなに若くても、実績があれば教授にします。 (太字は筆者)

 普通は、実績があるなら、若くて優秀で、やる気満々の人の方が、良いに決まっていると思うのですけど。なのに、「どんなに若くても」と、逆接の接続詞になっているのはなぜでしょうか?若いやつは信用できない、という年寄りの僻目でしょうか。普通、実績を積むには年数が必要なので、若いと実績が少ないのが当たり前です。ですから、もし万が一、すごい若いのに実績がすごくあったりしたら(インチキでもしていない限り)、それはとても優秀な人であるはずで、同様の実績がある年寄りの人と比べたら、どちらを教授にするかは自明だと思うのですけど。「若くても、教授にする」ではなく、「年喰ってても、教授にする」というのなら、まだ分かります。あるいは、鳥取大には秘密の内規でもあって、年令によって、何らかの差別があるということですかね。それに、「教授にします」というのは何なのでしょうか?アメリカの話で悪いのですが、普通、助教授や教授への昇進というのは、普通、過去の論文、獲得資金状況、依頼講演、教育実績、学会での役員活動などなどを勘案し、かつ外部の複数の専門家の意見をとりまとめて、委員会での審議の上で決められるものです。誰かの鶴の一声で決まる様なものではありません。だからこそ、数年前、MITでテニュア審査に通らなかった黒人ステムセル研究者が、審査に意義を唱えて激しくプロテストしたわけです。アメリカでは「教授にしたり、教授にしてもらう」のではなく、然るべき業績つんで「教授になる」わけです。また、「教授にします」と公募書類に書いてあるということは、そのセンターの教員を選ぶ人に人事での強い権限が集中しているということなのでしょう。国立大学でそんな権力構造があるのはよろしくないと思います。公募にこのようなことが書いてあるということは、日本の大学の人事システムの欠陥をさらしているようなものです。
 と、書きはしましたが、公募を出した人の本音を察するに、若手の優秀でやる気のある人に来て欲しいという気持ちで書かれたのだろうとは思います。しかし、公募にこういう表現をするのはどうかと思います。Politically incorrectですね。

日本では、新聞報道でも、就職活動でも、年令と職業がついて回りますが、何とかならんものでしょうか。年令が一体、その仕事なり事件なりに対して、どれ程の意味があるのでしょう。未成年を保護するために、成年と区別するのは分かります。しかし、一旦、成人に達した大人は、皆、平等に扱うべきではないでしょうか。とりわけ、研究者やスポーツ選手や実業家など、結果を出してナンボの人々を選ぶのに年令を云々するのは、殆ど無意味であると私は思います。結果を出せるか、出せないか、それだけだと思うのですが。カーネルサンダースは六十歳を過ぎてから、フライドチキンのレシピを訪問販売しはじめて、それがKFCにつながたそうです。日本の大学教員なら、定年、引退しているところです。現在のコンピュータービジネスで大成功した人々の少なからずが、大学生でビジネスを始めています。ジョージフォアマンは40前に10年のブランクのあと、カムバックし、45歳でついに、ヘビー級チャンピオンに返り咲きました。何歳であろうと、何人であろうと、男性や女性やその間であろうと、いい仕事ができる人に、いい仕事をしてもらう機会が当たることが、社会のためです。そのためには、人間を年令や職業や性別や人種で、差別する悪習を、日本は、やめないといけません。封建時代の上意下達の名残ですかね。

 今年、政権交代が実現して、官僚政治の撤廃、民主主義の導入と進んで、大学の構造も改善されれば、いいなと思います。
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消え行く新聞紙

2009-04-07 | Weblog
ボストンでの老舗新聞社、Boston Globeが、給料削減要求を呑まなければ閉鎖するという親会社からの通達を受けて、存続の危機に瀕しているというニュースを聞きました。Globeだけではなく、アメリカ各地で新聞社の収益減少は著しく、少なからぬ新聞社が破産申請をしてます。これは、インターネットによるミニコミが発達し、広告もインターネットを通じて行われるようになってきていることを考えると、予測されたことではないかと思います。雑誌を見てみると、毎年、おびただしい数の新刊雑誌が刊行されては、数年と持たずに休刊する、ということを繰り返しているわけで、人々にニュースソースのマスコミへの依存度が減少してきていることを思うと、新聞社も雑誌と同様の運命をたどるのは当然ではないか、と私は思います。私は新聞を定期購読したことがありませんし、新聞のニュースなど、お金を出してまで読む価値はないと思ってきましたから、新聞社の苦境に対して、冷淡で悪いのですが、そもそも、あんなに紙を大量に使って、ゴミのような記事を印刷するのは、紙やインクの無駄遣いだけでなく、環境破壊であるとも思うので、個人的には、世の中から新聞紙というものが消滅するのは、喜ばしいことであると考えています。新聞社はインターネット上でも生き残ることはできるかも知れませんが、いずれにせよ、収益は激減することになるでしょうから、ビジネスとしては成り立たないでしょう。今や、インターネットのおかげで知識そのものを得ることは安くなりました。結局、これだけ情報の伝播が効率的に安価に行われるようになっているということは、おそかれ早かれ、ニュースや情報を売るというビジネスそのものが成り立たなくなるのは、自然の理であろうと思います。同様にテレビ離れも進んでいるようです。視聴率が下がると、コマーシャルが減り、収入が減って、番組制作費が減り、ますます、番組が面白くなくなり、視聴率が減り、、、ということでテレビ離れが加速するのではないかと想像します。一方、ラジオは残るでしょう。制作費が余りかからないし、テレビと違って、車を運転しながらとか、単純作業をしながらとかでも楽しめますから、利用用途も広いです。私、個人的には、この傾向は大歓迎です。大学卒業後、遠方で一人暮らししていた二年間の間、私はテレビなしで過ごしましたが、静かでよかったです。今、テレビは持っていますが、見るのは、朝のニュースと天気予報、あと週に一番組ぐらいです。去年、デジタル波になるとのことで、折角、今の大型テレビに買い換えたのに、子供たちでさえ、テレビは殆ど見なくなってしまい、だだの邪魔な置物になってしまっています。テレビ放送が始まって、街頭テレビの前で力道山の試合を見るのに人々が群れなしてから、六十年、こうしてテレビが衰退していくというのは、子供のころ、夕食後は、家族でテレビの時代劇やホームドラマを見ながら育った私としては、なんとも感慨深いものです。しかし、最近の偏向報道や余りに面白くないバラエティー番組に辟易としている私としては、テレビや新聞が世の中から消えてしまっても、別段、困りません。むしろ、マスメディアというものは、近年とりわけ、益よりも害の方が大きいように思います。マスメディアが解体されミニコミ化していくのは、私は望ましいことであると思います。
 先月の小沢党首の秘書の国策捜査の報道、今回の北朝鮮のミサイル打ち上げ騒動などを見ると、マスコミは、権力の手下で、国民に故意に偏向した情報を流し、国民操作の道具となってしまっていることが、露骨に表れていて、醜悪でした。北朝鮮の人工衛星に関しては、アメリカもミサイルであると報道していますから、「北朝鮮が軍事的野望をふくらませている」という話は、日本の巨額な防衛予算の正当性を国民に刷り込み、アメリカが日本を極東防衛の駒として利用するための日米安保の現状継続という目的にとって都合がよいから、大騒ぎするのでしょう。小沢首相となれば、日米安保は大幅見直しとなるでしょうし、防衛庁のみならず、官僚構造の刷新も行われるでしょうから、マスコミと政府による北朝鮮ミサイル空騒ぎ(実は、ひょっとしたら本当に、単なる人工衛星打ち上げ失敗なのかも知れません)は、今回の小沢失脚スキームの一部であると、考えることもできるかもしれません。
 いずれにせよ、マスコミはこのツケを払わされるでしょう。Globe紙同様のことが日本の新聞やテレビ局に起こるはずです。今のマスコミのレベルを見ていると、それは歓迎すべきことであると私は思います。
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小さな声

2009-04-03 | Weblog
こうしてブログ書き出して2年になりました。郊外の高速道路を一人で運転しているときに、ふと、日記をつけ始めようと思いついたのが始まりです。学生だったころはおりおりに思いついた事を書き留めていましたが、結局、引っ越しなどで、それらは全部どこかに無くなってしまいました。私は古いものをどっと捨てることが多いのです。コンピューターを買ってからは、コンピューター上で日記をつけようとしたこともありましたが、コンピューターがクラッシュしたり、買い替えたりしたりする都度、それらも無くなってしまいました。人の書いたブログを読んだりするうちに、サーバーに残るのなら、自分のパソコンに保存するよりも良いだろうと思い、日記のかわりにブログを書くことを思いついたのでした。また、私は、筆無精で電話嫌いなので、離れたところに住んでいる家族や友人に近況を知らせるのにも便利だと思ったこともあって、三日坊主にならずに、なんとか続いています。内容が容易に検索できるので、便利な一方、余り恥ずかしいことは書けません。もっとも、最近は、恥ずかしいと思うようなことは、殆ど無くなりました。昔なら、書いたものを人に見せることはとても恥ずかしいことだと思ったであろうと思います。中学二年生のとき、ビックリハウスというパロディー雑誌のエンピツ賞という全く権威のない文学賞(?)で、ふざけ半分にかいた短編が、佳作入賞したことがあり、鉛筆一ダースの賞をもらったことがありました。(残念ながら、その後、作家というキャリアに魅力を感じなくなって、創作は止めてしまいました)そのときは、うれしい反面、大変恥ずかしく思いました。今は、平気です。
 最近書いたものを読み返してみると、去年はアメリカ大統領選、今年の第1四半期は日本の政治がらみのことを書いたものが多いなあと思いました。私は単なる一市民ですから、本当に政治家や官僚たちが考えていることは知りません。(実は、政治家や政府内部の人間でも、よくわかっていないのだろうとは思います)それを、表にでてくるニュースなどから推測して、あれこれ書いています。最初は、そんな床屋政談をネット世界という仮にもパブリックの場でやることに抵抗があったのですが、ウラをとっていなくても、提示されている情報に基づいて意見を言うのは、別段、悪いことではないと思い直しました。その動機は、やはり、ヒューマニズムが社会の中心にあるべきだと思う私の信念と明らかに異なる政府やマスコミの行動に対して、一市民が思うべきことを、たとえ小さな声であっても、言わないよりは言ったほうが良いのではないかと考えたからです。政府のやりかたや社会のありかたがおかしいことを指摘することは大切であろうと思います。そして、沢山の人がインターネットなどの様々な手段を使って発言していくことができるというのは素晴らしいです。ただし、闇雲に批判したり、怒りや憎悪や怨念を蓄積させたりすることは、よいことではないと思います。憎悪や恨みにまかせての中傷となっては、生産的ではありません。「言論の自由」は、良心に沿って発言されることを前提としており、何を言ってもよいというのではなく、自己責任において発言をする自由を認めるということだと思います。
それに、人は、「受入れ、赦す」ことを学ぶために生きているのだと、私は信じています。(このことについては、また別に書きたいと思います)日本の社会はまだまだ未熟で、不公平だなあ、と最近思うことが多くなりました。どこが悪いのかも見えてきました。しかし、最終的には、その構成人員の個人が積極的に発言し、お互いの存在を認め合うことなしに、社会の改善は望めないと思います。人は誰でも、悪人でもあり善人でもあるのだと思います。罪を憎んで、人を憎まず、そういう意識が真に受入れられ、お互いに認め合い、お互いの罪を赦し合えることができないと、社会は改善の方向に動かないであろうと感じます。残念ながら、赦すことは簡単ではありません。(幼稚園のころに、妹が私のおやつのプリンを黙って食べてしまったことを、未だに根に持っていたりするのです)人間の精神がそこまで発達するのには、長い年月がかかることでしょう。
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