「人生は、後から振り返って見ないと理解できないものであるが、それは前向きに生きられなければならない」
キルケゴールの言葉だそうですが、いい言葉ですね。確かに、今、起こっていることの本当の意味は、後になるまで分からないものです。振り返って、「ああ、あの時は分からなかったが、本当はこういうことだったのだな」と膝を打つことがしばしばあります。「生きている」というだけで、人は自分の人生を肯定しているのです。例えば、私に今起こっていること、グラントの危機とか研究が思うように進まないとか、そんな、今は不愉快にしか思わないことでも、後になってみるまで、それらの自分の人生における意味は本当はよく分からないものだ思います。そう思うと、人間の一生というのは、本当にうまくできています。無駄なことは何一つないのですね。このことが分かってから、私は何かに対して不安に思ったり、心配したりすることが極端に少なくなりました。失敗や不幸(と考えられる)ことにも、全て必然的な意味があって、それはずっと後になってから理解されるのだ、という考え方は、現在を生きる上で、心に平安を与えてくれます。これは、つきつめて考えれば、自分の人生は自分だけが決めているものではないということを実感することです。つまり、自分の人生や自分の体が自分のものであるという錯覚をとり払うこと、誤解を恐れずに言えば「降参する」ことであります。
理想と現実のギャップというものに悩んだことの無い人はいないでしょう。しかし、どんなに望んで努力しても、私にはサンプラスのスライスサーブは打てません。あるいは、例えば、年をとって、体力がなくなり、小じわや白髪が増える、または重い病気に罹る、そのような自分自身の体に起こっているこのような変化に対して、私たちは、極めて無力です。できることは、不健康な生活をしないように努力することぐらいです。努力してもだめだったら、私たちが唯一できることは、「降参し、現実をそのまま受入れる」ことしかありません。「どれだけ、積極的に降参できるか」それが、幸せのコツのような気がします。
こんな例を一つ一つ思い浮かべてみれば、この世に自分がコントロールできるものは極めて限られていることがわかります。殆ど何もないと言って良いかも知れません。自分の体でさえ、本当は自分のものではない「仮の宿り」にしか過ぎないということが実感されます。つまり、自分のできる限りのことをしたならば、あとは、嫌でも、神の御心のままにまかせるしかないということです。大拙は「蝦躍れども、升を出ず」と喩えました。この点において、禅仏教での「禅」という言葉には(もともとヨガで心の落ち着いた状態を示すサンスクリット語の単なる音訳なのですが)「譲る」とか「明け渡す」とかという意味があることは思い出すことは意味があると思います(禅譲の禅です)。自分というものへの執着心、Egoを「神」に渡し、取りさること、禅はそれを求めます。DyerはEgoは、「Edge God Out」のAcronymであると言いました。神(あるいは世界の創造の源)を排除し、自分よりもはるかに大きなものに対して謙虚にひざまずく気持ちを失わせるものが、Egoであるとの謂いです。
思春期に目覚めた自我の後始末をつけるのが人間の修行の一つであると私は思います。しかし、自他のない所を知るには、まず、そこから出なければならない、そして、再び、そこへ戻って来なければなりません。むしろ、そのために自我の目覚めがあり、Egoが生まれるのであろうと思います。
「山是山水是水」という禅語が、これと相似のことを述べています。
悟りに至る前、山は山であり、川は川であった。
悟りに至った時、山は山ではなく、川は川ではなかった。
更に悟りが深まると、やはり、山は山であり、川は川であった。
キルケゴールの言葉だそうですが、いい言葉ですね。確かに、今、起こっていることの本当の意味は、後になるまで分からないものです。振り返って、「ああ、あの時は分からなかったが、本当はこういうことだったのだな」と膝を打つことがしばしばあります。「生きている」というだけで、人は自分の人生を肯定しているのです。例えば、私に今起こっていること、グラントの危機とか研究が思うように進まないとか、そんな、今は不愉快にしか思わないことでも、後になってみるまで、それらの自分の人生における意味は本当はよく分からないものだ思います。そう思うと、人間の一生というのは、本当にうまくできています。無駄なことは何一つないのですね。このことが分かってから、私は何かに対して不安に思ったり、心配したりすることが極端に少なくなりました。失敗や不幸(と考えられる)ことにも、全て必然的な意味があって、それはずっと後になってから理解されるのだ、という考え方は、現在を生きる上で、心に平安を与えてくれます。これは、つきつめて考えれば、自分の人生は自分だけが決めているものではないということを実感することです。つまり、自分の人生や自分の体が自分のものであるという錯覚をとり払うこと、誤解を恐れずに言えば「降参する」ことであります。
理想と現実のギャップというものに悩んだことの無い人はいないでしょう。しかし、どんなに望んで努力しても、私にはサンプラスのスライスサーブは打てません。あるいは、例えば、年をとって、体力がなくなり、小じわや白髪が増える、または重い病気に罹る、そのような自分自身の体に起こっているこのような変化に対して、私たちは、極めて無力です。できることは、不健康な生活をしないように努力することぐらいです。努力してもだめだったら、私たちが唯一できることは、「降参し、現実をそのまま受入れる」ことしかありません。「どれだけ、積極的に降参できるか」それが、幸せのコツのような気がします。
こんな例を一つ一つ思い浮かべてみれば、この世に自分がコントロールできるものは極めて限られていることがわかります。殆ど何もないと言って良いかも知れません。自分の体でさえ、本当は自分のものではない「仮の宿り」にしか過ぎないということが実感されます。つまり、自分のできる限りのことをしたならば、あとは、嫌でも、神の御心のままにまかせるしかないということです。大拙は「蝦躍れども、升を出ず」と喩えました。この点において、禅仏教での「禅」という言葉には(もともとヨガで心の落ち着いた状態を示すサンスクリット語の単なる音訳なのですが)「譲る」とか「明け渡す」とかという意味があることは思い出すことは意味があると思います(禅譲の禅です)。自分というものへの執着心、Egoを「神」に渡し、取りさること、禅はそれを求めます。DyerはEgoは、「Edge God Out」のAcronymであると言いました。神(あるいは世界の創造の源)を排除し、自分よりもはるかに大きなものに対して謙虚にひざまずく気持ちを失わせるものが、Egoであるとの謂いです。
思春期に目覚めた自我の後始末をつけるのが人間の修行の一つであると私は思います。しかし、自他のない所を知るには、まず、そこから出なければならない、そして、再び、そこへ戻って来なければなりません。むしろ、そのために自我の目覚めがあり、Egoが生まれるのであろうと思います。
「山是山水是水」という禅語が、これと相似のことを述べています。
悟りに至る前、山は山であり、川は川であった。
悟りに至った時、山は山ではなく、川は川ではなかった。
更に悟りが深まると、やはり、山は山であり、川は川であった。