コロナの影響で止まっていた雑誌がまとめて配達されたので、パラパラと見始めました。3/19号のNatureの訃報欄でKatherine Johnsonが今年二月に亡くなったのを知りました。
数年前の映画、Hidden Figuresの主人公のモデルになった数学者です。この映画はその年に見た映画でベストだと思ったので当時のブログにも書きました。
まだ人種隔離政策が続いていたアメリカの宇宙開発計画を陰で支えた黒人計算部隊の話。当時、ロケットの計算は主に手動でやっていて、発射直前にコンピューターの計算の問題に気づいた主人公が手動で計算をして窮地を救うあたりが山場となっています。一つの大きなテーマになっているのは、人種差別のある社会に黒人として生まれた才能ある女性数学者がその社会的制約の中でどのような人生を生きてきたかということです。現在でも根強くのこる人種と性の差別。生まれ持った特性によって社会的に生まれながらにして制裁を加えられる人生という理不尽はなかなか無くなりません。当時、有色人種と白人はトイレもコーヒーも別々。今から思えばつくづく愚かしいと思いますけど、奴隷制という非人間的制度が常識であった過去をもつ欧米諸国ですから当時はそういうものだったのでしょう。他の特性の異なる人間を差別し利用し搾取するというのは欧米に限ったことではないし、日本も朝鮮人の連行とかひどいことをしてきました。アメリカではいまだに外国人移民の搾取と差別は続いております。アメリカの社会のカーストにおいては、同じ教育レベルと英語力ならば、白人と非白人(黒人、ヒスパニック、アジア人)の間に社会的な地位の差と言葉にされない差別意識が存在しています。自らの縄張りを確保するために意識的に差別する場合もあれば、自らの不満をぶつける先として半無意識的に非白人系アメリカ人や移民を嫌悪する場合もあると思います。
Katherine JohnsonがNASA(の前身のNACA)に入ったのが1952年、Rosa Parks事件で黒人公民権運動が大きくなったのは1955年です。映画のNASAプロジェクトの話は多分、1961年ごろで、ワシントン大行進の年、Martin Luther King, Jr.が250万人の聴衆の前で
「I have a dream」スピーチ をしたのが1963年、そんな時代の話です。
(ちなみに数日前オクラホマではトランプの大統領選キックオフ集会の聴衆は1万人 - 追記あり)
そのスピーチで、Martin Luther King, Jrは、トーマス ジェファソンがさらに二百年前に起草したアメリカ独立宣言の最初の言葉、「すべての人間は平等であり、幸福と自由を追求する権利を持つことは自明と考える」という言葉を引用しています。奴隷制の時代、奴隷主であり、奴隷の愛人とに間に子供を残したジェファソンにとって、黒人はその「人間」のうちに含まれていたのかどうか、どういうつもりで独立宣言を書いたのかわかりませんけど、二百年後にking 牧師は、黒人は神の前に平等な人間である、と改めて宣言したのでした。
さて、Hiden Figures の映画の中では人種差別や隔離政策を当然とするような典型的白人、反対する白人らが出てきて、当時の変わりつつある社会を映し出しています。その中で人種を超えた人間の結びつきなどが描かれます。黒人専用トイレが遠くて仕事に支障が出ることを知った上司、ケビン コスナーは、トイレの人種隔離サインを破壊して、「小便の色はみんな黄色だ」と言います。
今では人種隔離政策は無くなりましたが、白人の心の中にある有色人種や性別に対するアメリカでの差別は根強いと思います。性差別も問題になっています。最近、とある大学の歯学部の学部長になった女性研究者の人と今年はじめの学会で会った時に話をしたとき、学部長になって驚いたことは、大学の学部長会議の召集で回ってきたメールのドレスコード欄に、ネクタイの着用は不要、と書いてあったことだ、と呆れた調子で言われました。つまり、彼女以外の学部長は全員、白人男性だった(現在も多分これまでも)ということです。社会で力をもっている組織は、旧体制を維持したがるもので、アメリカでも表立って口にはしないですが、そういうところでは、黒人、アジア人、女性は、差別の対象であり、部下や奴隷としてならばよいが、同僚、仲間には入れたくないという意識があるようです。
もう随分前になりますけど、MITで黒人ステムセル研究者(James Shirley)がテニュアポジションを得られなかったのは人種差別だとデモをしたのが科学雑誌のフロントページの話題になったのを覚えています。テニュア審査に通らなかったのは業績不足だと大学は説明しましたが、もし白人で同じ業績なら違った結果になった可能性もあるのではないかと私は感じました。MITの言語学者でactivistのノーム チョムスキーは当時、Shirley側に立って発言していたのを覚えております。そして数年前、同じMITでは利根川進氏が女性教官を採用することに反対して、脅迫ともとれるメールを候補者に送って辞退させたことがスキャンダルになりました。その結果、確か利根川氏は施設長を降りたように思います。この女性はこれに嫌気がさして、当時新しくできたバージニアのハワードヒューズの研究施設でのポジションを取りました。
今回、ミネアポリスで白人警官による黒人殺害を機に大きくなった反差別運動ですけど、「Black lives matter」という言葉は、7年ほど前の黒人殺害事件をきっかけに作られた全米的組織の名前が由来のようです。初めてこの言葉を知ったのは、白人が大多数のとある州立大学の壁に大きなバナーが掲げられているのもみた時です。その時からこの言葉に対する違和感が拭えません。「matter」という言葉のニュアンスだろうと思います。日常会話でよく、否定形で”it doesn't matter"(どうでもいい)という言葉を聞きますけど、"Black lives matter"という言葉に感じるのは、「黒人の生命は大切だ」ではなく、「黒人の生命はどうでもいい、ということではない」というような消極的なニュアンスです。この言葉は黒人が自らの権利の向上のために用いたのではなく、人種差別に反対する白人グループが白人人種差別主義者に対する抗議の言葉として使ったのではないのか、という感じがずっとしています。言葉は悪いですけど、ビーフステーキを食べながら環境保護と動物愛護活動を語るような感じですかね。(私、肉食の人は環境保護や動物愛護を語るな、と言っているわけではありません。環境や動物を食糧にするということに全く無関心な人よりははるかによいと思います)「Black lives matter」という言葉を、当の黒人の人がどう考えているのか、聞いてみたいとは思います。
関連して、ツイートでしばらくまえにBroad Instituteの黒人女性研究者のエッセイが紹介されてました。(黒人はCOVID19での死亡率が高いというデータがあります。それが医療現場での人種差別なのかどうかは知りません)表立っての制度としての差別はないはずですけど、有色人種であり、女性であるということに対する白人男性社会の無意識的差別というのは根強いと思います。
一方で、社会的な面で不利益をうけている黒人側も白人に対する偏見や差別意識があるでしょう。例えば、かつて黒人のマルコム Xのように積極的に黒人と白人を隔離することで黒人の権利を守るという思想もありました。私は、多くのこの運動に関与している白人たちが考えているように、いろいろな人種や性別の人々がお互いに公平な権利を享受しつつ混じり合っている社会がいいと思います。そのために、まずは、社会的に明らかに不利益を被っている黒人、ヒスパニック、アジア人、女性、ゲイといった被差別者側に立って、差別やを行う側を糾弾し、教育していくことが最初の一歩であろうと思います。
25年前の歌ですけど、Gladys Knightで "Guilty".
黒人で女性に生まれついたというだけで、二重の差別をうける黒人女性の歌。
"One strike for being a female, one strike for being black... female and black to the day I die, (I am) guilty for just being me...."
VIDEO
追記。
オクラホマでのトランプ集会の実際の参加者は1500ほどだったというツイートがありました。残りはサクラと関係者だそうです。