日本が野蛮で非民主的な警察国家であることがあらためて露わになった陸山会裁判で怒りがなかなか収まりません。ネットでの意見などを拾ってみました。共通しているのは、 これは小沢氏ら反利権政治家だけの問題ではなく、国民全員に向けられた攻撃だという点です。私もその通りだと思います。その気になれば、連中は誰でも捕まえて適当な罪状をでっち上げ、有罪に仕立て上げることができるということを大っぴらに示したのです。
国家が本当に危機に直面すれば、何をするか。 何をやるか。なんでもやるのである。民主主義も三権分立も、そして人権の尊重も言論の自由も、その他諸々の権利もあったものではない。あらゆる思想や制度は隠れ蓑であり、「国家のイデオロギー装置」(アルチュセール)なのである。ひとたび、国家に危機が到来すれば、あらゆるイデオロギー装置は、本性を露わにして、一人一人の国民に向かって牙をむき出すのである。今回の裁判結果は、大げさに言えば、国家が国民に銃口を向けたようなものである。それだけ国家の側が崖っぷちに追い詰められ、生き残りのために「必死」になっていることを意味する。昨日の国会審議を聞いていて、民主党もダメだが自民党はもっとダメだなと思わないわけにはいかなかった。
日本が「形だけでも」掲げていた<法治国家>の看板を下ろした日
もはや、日本はまともな国家としての体裁すら、整えていない状態に成り下がってしまいました。本日、2011年9月26日、日本の司法はついに、裁判の決まりを打ち捨てました。
陸山会事件なる「冤罪」事件で、貴殿のかっての秘書三名に対する「有罪判決」に於いて、登石郁朗裁判長は、証拠の無い事実に対して、『推認』して有罪にする、という裁判官としてあるまじき「不法行為」を行いました。
日本法制史上、類を見ない劇的な暴虐でした。
世相を斬るから
削除要請の危険が多いので、敢えて名前は伏字にて、第一報をお知らせします。なんとも凄いのですが、法務省からの依頼かどうか判断がつかないが、「登*郁*氏」に関する個人データの多くが削除対象になっているようだ。
国策捜査・・と言う言葉は
先にご紹介した皆様のおかげで (笑)
広く世間に知れ渡りましたが・・
国策判決・・と言う言葉は、
今後もあまり世間に知られることはないかも知れません。
登意地だっけ? あと意地川? あの二人は・・あの証拠却下の時点で・・無罪を決めてたと思う。 登意地なんて・・"検察側は心理的圧迫と利益誘導を織り交ぜながら巧妙に誘導した・・" こう決定書に書いて寄越したんだぞ! それがなんでこの判決になったのか?
そりゃ登意地ってくらいだ。 相当抵抗しただろ? でもな・・最後は・・コレまで出てきて・・アッチのアレ・・アレとナシつけたってワケさ。 この霞ヶ関じゃな。 事実と・・判決ってのは・・常に一致するとは限らないんだよ。
草の者が指差す・・コレ・・の先には、中央合同庁舎6号館八階付近・・
アッチのアレには・・最高裁判所があったことを・・ 付け加えさせて戴きます。 (苦笑)
「検察のストーリー」という言葉は何度も聞いたが、「裁判所のストーリー」という言葉は初めてだ。 誰かの良識に期待していてはいけないのだ。
「中途半端に宗主国に弓引くとこんな目にあうのだぞ」という見せしめは日本司令官の義務である。
裁判所の大胆で強気な判断の連続に、判決を聞いていて驚きを禁じ得なかった。
裁判所が、肝心の政治資金収支報告書の記載について淡々と証拠と法律に基づいて判断するのではなく、「政治とカネ」問題を断罪することに並々ならぬ熱意を注いでいた。
こういう判決は「マスコミを活用した雰囲気作りさえできていれば、薄っぺらな状況証拠しかなくても、特捜部の捜査は有罪認定する」という誤ったメッセージ
今、もっとも改革が必要なのは、裁判所かもしれない。(9月27日の朝刊に掲載された共同通信配信の原稿に加筆)
日々坦々から
不当判決を出す裁判所の問題点:「人質司法」「判検交流」「人事制度」
郵便不正事件では、村木元局長は「階段」だったこと、本当の狙いは石井一議員で、真意は民主党に対する攻撃であり、小沢一郎の改革阻止だったことは、少し考えればわかることだ。
いわば、検察は、小沢一郎をターゲットにした一連の事件で、小沢自身の不正ではなく、結果的に検察自らの不正をさらけ出してしまったと云える。
今後は検察と同じく、裁判所の今まで不透明だった数々の不正を白日の下に晒し、検察同様、膿を出していくいいチャンスであると考える。
「2012年小沢政権つぶし」に裁判所が全面に出てきた!
ロッキード事件以来、数々の「でっち上げ」を見てきた私には「またか」という思いがある。
最後の二つの記事に事件の本質がよくまとめられていると思います。
私は、平和ボケの日本でノホホンと育ち、大学を出てからも病院や実験室に籠って、世間から離れて、社会で起こっていることは自分とは直接関係のないことだと無関心でいました。アフリカ、中東、朝鮮半島、中央アメリカなどで、大量の市民が虐殺されてきたのも、自分のいる世界とは別の話だと他人事でした。しかし、この数年、平和な民主主義国家だと教えられてきた日本が実はとんでもない非民主的な劣等国であることをつくづく思い知らされました。日本は既に戦場であり国民は刈り取られる草なのだと思い知らされました。
上の森ゆうこ議員のツイートの後には、次のような意味深な言葉が続いています。
自ら戦いの中に身を置いたのだから。 「座標軸」があることは幸せだ。道に迷うことがないからである。
今の国民は自ら戦いの中に身を置いたのではなく、否応なく戦いの中に放り込まれたのだと思います。その事実を認めたくない人々も多いでしょうが、既に戦争に巻き込まれている以上、私は、少なくとも戦いの中にあることを自覚して、戦うべき時は雄々しく戦う方を選びたいと思います。森議員は、官僚組織(国家)の暴力と戦ってきました。その言葉からは、勝ち目がいかに小さくとも、その目標を目指し、座標軸に沿って、自ら勝利をつかみ取るのだという意志が読み取れます。誰か自分以外の人が助けてくれると期待してはいけないのです。自分自身と同胞を守るためには自分自身が立ち上がり、戦う必要があることをあらためて思い知らされました。