百醜千拙草

何とかやっています

プーチンの終わり

2023-06-27 | Weblog
ヨソの国のことを心配しているような余裕はないのが今の日本ですけども、この週末のニュースと言えばロシア。

世の中は無常であり、驕れるものは必ず衰え、因果は巡り、夏が終わればやがて冬になる、この法則は全ての人間や社会や国に当てはまることを私は一片の疑いなく信じております。いずれ自民党にも終わりが来る時が来ますし、日本という国も遠からず終わるかも知れません。終わりの予感は段々と人々の間に共有されて、ある日、ちょっとしたことをきっかけに、崩壊に至るのだろうと思います。

昨年は安倍氏が殺害されたことで日本も変わるのではないかと思いましたが、結局は、日本を八年にわたって壊し続けてきた自民党の総裁がいなくなっても、何も変わりませんでした。彼も戦後連綿と続いてきた国民間接支配のための神輿の飾りの一つに過ぎなかったということでしょう。統一教会はあれだけ叩かれても解散命令一つ出ないし、統一教会との濃い関係で叩かれた山際氏は何事もなかったかのように次の国政選挙の公認候補となって出てきます。史上最大の原発事故を起こし、12年たっても1グラムのデブリでさえ取り出せていないのに、規定を歪めてまでも危険な原発施設の運用を継続する。嘘がバレて辞めると大見得を切った大臣がのうのうと居座る。自民党というのは結局はただの操り人形なのです。今のキシダ政権を見ればそれは明らかです。大志もビジョンもなにもなく、単に首相になることだけが目的だった男です。その地位さえ守れるなら、民主主義も国民も日本でさえどうでもよく、バイデンに言われるがままに防衛費の巨額の増額を決め、統一教会に言われるがままに子供家庭庁を作り、LGBT差別法案を通し、経団連に言われるがままにインボイス制度によって小規模事業者を潰して消費税を増税、事業受注するゼネコンに言われるがままに海外のインフラ援助だ何だのと外国支援に何兆円もばら撒く。大志も大義も正義も思いやりも何もない自己保身だけが全て、そんな人間がずっと日本の首相でした。情けないと思わないのでしょうか。ま、甘い汁というのは中毒性があるのでしょうな。

安倍氏が神輿の飾りであり続けることができたのは、どうやら韓国のカルト宗教団体の票を握っていたおかげであったらしいという話になって、なるほど一人のキングメーカーと呼ばれる男が死んだところで、自民党が変わるはずもないと納得しました。韓国カルトは安倍派に全額を賭けていたわけではなく、例えば維新という野党モドキをも通じてより狡猾に政治をコントロールしようとしていたわけで、思惑通り自民に見切りをつけた有権者票が維新にながれています。

話がいきなり逸れましたが、今週末、盛者必滅の理を感じたのは、自民党よりもプーチンです。一年半前、ウクライナ侵攻を決めた時、プーチンは今日という日を全く予測していなかったでしょう。しかし振り返れば、その時がプーチン株の売りどきでした。プーチンもその時に引退しておけば安らかな老後が送れたかもしれません。思うに、その時の彼の頭の中は、キエフを1日で陥落させた後、その後、どのようにウクライナ支配を維持し、そして西側諸国との関係のバランスをどう取っていくかということを考えていたに違いありません。ところが、「あてごとと褌は前から外れる」の喩えの通り、キエフ陥落に失敗した後は、立ち往生し、行くに進めず帰るに引けず、泥沼の戦争を続けざるを得なくなりました。国民の命や国の荒廃を引き換えにしても、何としてでもロシアとの戦争に勝って、EUに入り、やがてはNATOのメンバーとなって、ロシアから自由になり、歴史的英雄としてウクライナ史に名を残すのだという血の気の多い大統領のおかげで、ウクライナも自国の多大な犠牲と引き換えに、それ以上のダメージをプーチンに与えたのは間違い無いでしょう。プーチンもプーチンだが、ゼレンスキーもゼレンスキー、河野太郎も真っ青の引くに引けないエゴの張り合い、ですかね。

しかし落ち目の時は、潮が引くかのように運は逃げていくもので、この週末に起こったロシア民間軍事会社ワグネルの反乱は、プーチンの終わりを示唆するに十分なインパクトがありました。プーチンの料理人として政権に取り入り、やがて囚人らを組織して傭兵組織の長となった男、プリゴジン。プーチンの落ち目とこの泥沼の戦争の帰趨を感じ取ったのでしょう、ロシア国防省と対立。一時は軍事拠点を占拠し、その後、武装蜂起を宣言し部隊はモスクワに向けて北上。プーチンは例によって「反乱は許さない」と強い口調で声明を流したものの、そもそもこのような事件が起こること自体、最高司令官が命令系統を制御できていないということであって、プーチン政権の弱体化の証拠を晒した事になりました。戦の最中のならず者一家のお家騒動といったところでしょうか。ベラルース大統領との会談を通じてロシア軍とワグネルの衝突は回避され、お互いに矛先を収めたものの、この事件のプーチン体制への影響は甚大でしょう。そして、その同盟国であるはずのベラルースとカザフスタンはプーチンを支援しないと表明。陳腐な表現をすれば、プーチン体制崩壊への序曲が響き始めました。

支持率3割でも選挙で勝てると踏んで解散を口にするような首相がいる平和な国と違って、普通の国では力を失った独裁者の末路は惨めなものです。想像するに、かなり壮絶な形でプーチン体制は終わる事になりそうな気がします。いずれにしても長くは持ちますまい。これも因果応報、一円を笑うものは一円に泣き、謀略に生きるものは謀略に死す。プーチン無き後の弱体化したロシアは東ヨーロッパの孤立した国々の一つとなって行き、中国が東ユーラシアの中心となるのでしょう。そうなればウクライナは西側のメンバーとなり、バイデンの中国包囲網が完成する事になる。

その後、アメリカがどこで戦争を仕掛けようとするでしょう。中国にちょっかいを出すわけにはいかないし、中国も他所にはなかなか出てこない、となると、また中東に戻るのでしょうね。
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北朝鮮への道

2023-06-20 | Weblog
以前の研究に関しての最終報告書の提出と頼まれた推薦状の提出をこの週末やっていました。報告書や推薦状そのものは数ページの作文で、それぞれ小一時間で書き終わり、気分よく週末のビールに突入する計画でしたが、これらを提出するのが大変でした。

最近は報告書も推薦状も全てオンラインでの提出で、提出者の本人確認というものが必要です。こうした多少なりとも機密性のある文書の情報管理面は以前から段々と強化されており、今回はまずは報告書を提出するためのポータルサイトに入ることからして困難を極めました。アカウントにアクセスするには2段階認証が必要で、2段階目の認証は電話のテキストメッセージを使っているのに、その電話番号が使えないという状況。e-mailで問い合わそうとすると、今度はe-mailのパスワードが期限切れで、それを変えるにも電話での認証が必要。こういう状況を"Catch 22"と呼ぶのだなと思いつつ、独創性を発揮して複数の障害を乗り越えてなんとかログインし、認証方法を変えることに成功しました。電話ではなく認証ソフトを使うやり方が幸い使えて助かりました。

こうしたやり方は家の泥棒対策と同じで、アカウントの持ち主にとっては不便でありますが、情報を安全に管理する必要性からは、やむを得ないことだとは思っています。結局、どんなシステムにも穴があり、ズルい連中はその穴を通ろうとするので、その都度、そうした穴に対処していく間に、手続きが煩雑化していくのでしょう。

抜け穴はどんなシステムにもあり、それを修繕せざる得ない場合は、できるだけその部分だけの改善で済むように、システムをモデュール化して、各々を独立管理していくのが、安全管理の上で賢いやり方だと思われます。異なる情報は独立したモデュール内で管理することで、不都合が起きた場合は、最悪、そのモデュールを切り離すだけでダメージを最小化できます。というわけで、同一人物であっても目的が異なるサイトであれば、異なる認証法を設けているのが普通です。それを統一しようとはしません。違うカードには異なる暗証番号が推奨されます。それと同じで、さまざまな個人情報を含む情報は用途別に独立させて管理しないとリスクが高く、システムに不都合が生じた時のダメージが大きすぎるのでしょう。

然るに、世界のこの情報管理の趨勢に逆らって、「便利だから」とか「ポイントが貰えるから」と言って、個人情報を一つのマイナンバー カードに紐づけさせようとするのは、もはや詐欺師の手口です。個人情報には価値があり、その情報を資産状況まで含めて政府が一括管理しようとするのには不純な動機しか思い浮かびません。

加えて、このカードの規定を見てみれば、このカードによっていくら不都合が起きても政府は責任を一切取らないことが明言されています。すでに少なからぬ人々の個人情報が危険に晒され、不利益を被ってきており、その担当大臣はいつもの傲慢、無責任ぶり全開。

私の場合、カードを作らないのは危険さもさることながら、何より、この担当大臣と自民党政権が信用できないからです。外見や人種をもとに人を嫌い差別してはならないと私は思います。そうした属性はその本人が如何ともし難い部分があるからですが、言動や行動に基づいて他人を評価し、その上で「生理的に受け付けないほどに、人間性に問題がある」と判断するのは正当な権利であります。その上で、公人であれば批判を謙虚に聞くのは当然の職務です。

この「生理的にムリ」な担当大臣の悪口を言うのは自分の人生の時間の無駄遣いではありますが、その地位に相応しくない人間を批判するのは民主主義国家の国民の義務だと思うので、言うだけ言って終わりにします。この担当大臣は自分に都合の悪いツイートされるのが嫌で片っ端から批判的ツイートをするアカウントをブロックするので有名です。公人でありながら、国民からの批判を恐れその声に耳を塞ぎ都合の悪い質問は無視すると言う、重症の心臓縮小症と肛門狭窄症の持ち主です。ま、聞きたくない国民の声をブロックし、批判する相手をバカにするという点では、立民の「左様ならおじさん」も同じですが。批判的な意見を聞きたくないと言うのは誰でもそうですし、批判はそれがどんなに的外れなものであっても、地味にダメージ受けます。しかし、公人である以上は批判を受けても平静を装えるぐらいの余裕と打たれ強さが必要でしょう。彼らは結局、山本太郎が言うところの「貴族」であって、国民のことよりも自分のバッジや立場が第一で、単に死ぬまでの間「先生」と呼ばれて、チヤホヤされたいだけなのでしょう。そうでなければ援交がバレたぐらいで公職を辞任しないでしょう。

さて、この担当大臣は、「生理的にムリ」なのが多い歴代の自民党の大臣の中で最高に「ムリ」な部類です。大臣の椅子のために、それまで大掛かりに展開してきた「脱原発」の主張を一切、ウェッブサイトから消し去って無かったことにするような人間を誰が信用できるでしょう?自分に不都合なツイートをする国民を片っ端からブロックし、人の意見を聞くということができないナルシシストを誰が信用するでしょう?親の七光の世襲で議員になれただけなのに、国会や記者会見では都合の悪い質問は無視し、誰も聞いていない自説を喚き立てるような傲慢で鼻持ちならない人間を誰が尊敬するでしょう?「ムリ」です。以上。

と言うわけで、このように国民にとって何一つメリットがない上にvulnerableなマイナンバー カード。政府がゴリ押しする理由は三つはあると思われます。一つに、利権でしか動かない自民党、票の見返りに事業業者に税金を流し中抜きさせること、第二に年貢の取りたてを効率化すること、そしてこれが最大の目的と思いますけど、国民の資産を含めた個人情報を政府が一括で管理し「国民管理」に使うこと、です。独裁政権にとって潰すべきは国民の自由と団結であり、国民の個人情報を一括で手にいれることは、反政府分子を潰していく強力な武器となります。不景気に増税を繰り返し、インボイスによって小規模事業を根絶やしにしようとする国民貧乏化政策も、国民管理の一環と考えられます。国の農業を潰し、田舎の公共サービスを削り、都会に持たざる人間を集め、個人事業主を廃業させて「囲い込む」、その目的は都会で企業に雇用されることでしか生きられなくなった人々を安い労働力として組織票のもとになっている経団連企業に供給するためでしょう。追い詰められた国民は、目の前にちょいと飴を置いてやれば、何でもするようになります。会社に言われて自分の意思も権利も売り渡し、自民党に投票するようになる、そんな組織票が自民党を支えています。そして、政府の権限をますます高める一方で国民の権利をどんどん削り、生活が苦しいのを中国のせいにして、軍事費を増大し全体主義を煽り、国民生活を圧迫することで戦前の政治に戻す、それが与党と維新、国民の自民補完勢力の目指すところでしょう。彼らが目指す理想の国はすなわち「北朝鮮」でしょう。
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匙は投げられた

2023-06-13 | Weblog
ちょっと長くなってしまいましたが、週末はこの事件でツイッターは怒りのツイートに溢れたもので。すでに言い尽くされたような感もありますが、私も述べておきたいと思ったので。この事件で私が心から情けないと思ったのは、人権意識皆無の与党や維新以上に立民の対応でした。

先週末の法的根拠でさえ失ったにも関わらず、与党と「ゆ党」によって強行採決された入管法改悪法案。非人道的対応を続けた入管によって「殺された」と言っても過言ではないウィシュマ・サンダマリさんの事件があったため、流石に二年前は廃案にせざるを得なかった法案でしたが、ほとんど何も変えないまま、与党は今期国会に出してきて、強行採決。与党補完勢力の「ゆ党」、維新と国民も賛成。
 日本は難民条約に批准していながら、難民に対する人権意識が極端に低く、条約の精神を無視し難民を門前払い、強制送還によって彼らを生命の危険にさらし続け、入管施設では収容外国人に多勢で暴力行為、挙句にウィシュマさんのように死亡者を出す始末。難民保護国とは建前ばかり、しかも、ヘタに難民条約批准している体裁をとっているから余計悪質です。困って縋ってきた人に親切な顔をしながら冷酷に切り捨てる。
 アジア人種でありながら、アメリカにコテンパンにやられてから宗主国の主流人種である白人しか外国人に人権を認めないかのような歪んだ人種主義国でもあるようです。明治以来、やられっぱなしの欧米白人には媚びを売り、文化的歴史的恩恵を受けたアジア諸国の同人種は蔑ろ。肌の色や顔体つき、カネや地位で態度を変え、立場の弱い人間には強権的に振る舞い集団でいじめる、日本の最も卑しくも醜い恥部が現れているのが元与党であり入管です。

この人権意識の全く欠如した改悪入管法をそもそもなぜ、与党と「ゆ党」は通そうとするのか、全く理解に苦しみます。統一教会でしょうか?

今回、野党、特に共産党は、この人権意識ゼロの法案に大きく反対し、委員長の不信任案提出して抵抗しました。対して、立民のぬるま湯的対応は酷かった。次の選挙で公認が欲しい与党議員は如何におかしい法案であっても政権の方針に反対するわけもなく、結果、強行採決が決行され、世界が非難する中、成立。
 そして、強行採決を阻止しようとした山本太郎が委員長に近寄ろうと揉み合いになった時に「暴力」を振るったと難癖をつけられ、参議院の秩序を著しく乱したとして、懲罰動議が参議院に提出されるということがありました。採決を強行しようとする委員長の周りに与党議員で石垣を作る「人間かまくら」それを乗り越えようとすると「暴力」だと非難する、これはよく警察などが目的の市民を逮捕するのにやる「当たり屋」「転び公妨」と同類です。自民党が当たりもしていないのに「暴力」を振るったと一方的に相手に非をなすりつけるのには驚きませんが、今回の(そして前回の)立民の対応には、呆れ返利ました。

れいわ国会議員の懲罰同義に関しては、しばらく前「与党も野党も茶番」というプラカードを掲げたとして、衆院の同党の共同代表、櫛渕氏が十日間登院停止という懲罰を受けました。この時、山本太郎は、プラカードを掲げるというようなことはこれまで自民党も含めて議会では皆がさんざんやってきたことであって、それに対して登院停止という重い罰を加えたということに異論を唱えた上で、この懲罰動議に立民が加わったことに強い懸念を示しました。また、国会でのも揉み合いなど大昔から日常茶飯事でこれまで、揉み合いの一方だけを多数派議員によって懲罰にかけるというようなことはなかったのです。それは議会での懲罰というものは多数によって少数の言論を抑制する性質のものであるということをかつての議員は理解していたからです。小泉政権あたりから党執行部は非常に強権的になり、平気で弱いものいじめをするようになりました。所属議員も暴力団のチンピラのように振る舞って恥じなくなった。多勢に与して弱きを切り捨てることに抵抗がなくなった、そんな「いじめの文化」が議会に蔓延ってしまったようです。

法案反対の立場で採決を阻止しようとした山本氏への今回の懲罰動議に与党とゆ党が提出するのは分からないではないです。結局、権力闘争であり、れいわは少数政党ながら史上、唯一の市民政党という革命的存在だからです。れいわを恐れる気持ちはわかる。しかし、前回に続いて今回も、同じく法案に反対する立場であるはずの立民が、懲罰同義に加わっています。立民、単に頭が悪いのか、あるいは根性が卑しいのか、いずれにしても野党支持者に愛想を尽かされるに十分な行動でした。

しばらく前、参議院では当選以來一度も登院しなかったN党のガーシー議員に懲罰動議が出され、れいわを除く参議院議員の多数の賛成によって、除名されるという事件がありました。この懲罰動議に賛同せず、強い懸念を表明したのはれいわだけでした。つまり、参議院議員としてマトモに活動しているとは思えないこの議員であっても、その後ろにはこの人に投票した国民がいて、彼はその代表であるという民主主義の視点が、その懲罰動議に賛成した議員には欠けているのです。彼をケシカランと思うのは誰でもそうでしょう。しかし、議員という立場の人間がケシカランからと言って同じ議員に懲罰を与えてよいと考えるのは民主主義の精神を理解していないと言えましょう。つまり、彼を参議院から除名するということは、その支持者の権利を切り捨てるということであるということです。ゆえに民主主義の何たるかを理解している議員であれば、議員の懲罰に対して慎重に行動するはずで、それが良識というものです。そんな理屈を考えなくても、議会での懲罰行為を安易に行うということは、その気になれば多数の人間の恣意的な判断で少数意見を抹殺し議会を骨抜きにすることが可能になってしまうということに理解が至らないのであれば、議員としての見識に欠けると言わざるを得ません。

ガーシー議員の懲罰においても、同じ参議院議員が懲罰動議に加わることの影響を、野党全体、議会政治というスケールの視点から考えていたのは、残念ながら山本太郎だけであったということです。立民はともかく共産党でさえ、その視点を持ち得なかった。思えば、ロシア-ウクライナ戦争に対する態度もそうでした。全面的にウクライナ支援、ロシア非難を表明する中で、この戦争の落とし所を考えた場合に、第三国の日本が戦争当事者の一方だけに肩入れすることの負の影響を深く考えていたのはれいわだけだったようでした。

野党第一党である立民の政治センスの無さ、志の低さ、行動力と思考力のなさに政権交代を望んだ多くの人々が愛想を尽かしつつあります。それでも与党や維新よりはマシだと思って支えてきた人が匙を投げ出しました。弱小政党への懲罰動議というのは多数で少数の意見を強引に封じ込める一種の「いじめ」であり、少数意見への言論封鎖です。もうこの党は立憲とか民主とかいう言葉を党名からはずしたほうがいいのではないでしょうかね。

勘ぐるに立民の動機は下世話で浅薄なものでしょう。前回の国政選挙、れいわと共産党の選挙協力で議席を得た立民でしたが、れいわが次回の選挙では独自でやる方針を明らかにしたものだから、れいわは立民と議席を争う敵にな利ました。それで、れいわ潰し。れいわは立民の票を奪うというXXの穴の小さい戦略ではなく、投票率を上げてこれまでの棄権者の票を掘り起こすことで大きくなってきた市民政党で、立民は従来の連合などの組織票で支えられてきた組織。発想が貧弱なのでしょう。れいわが伸びれば立民が縮むとでも思っているのでしょうな。そんな針小のXXの穴政党が大きなビジョンを描けるはずもありません。目指すところはあくまで野党という小さなサル山のボス猿なのでしょう。サル山の外に本当の社会が広がっているのだから、サル山のサルに社会を変えることなどできません。立民の支持が広がらず低下傾向なのはまさにその見識と志の低さのせいでしょう。野党でありながら、わざわざ少数弱小党の懲罰に加担するということは、野党である自らの手足を自分で縛りにいっているようなものなのに、その自覚があるようには見えません。ま、政権を取りに行くつもりもなく、ずっと野党席から批判だけしていればよいという気楽な立場が好きなのでしょう。

しかし、心ある立民議員がいないわけではなく、若手や一部の人々に望みはあります。彼らは早いうちにマトモな人同士で固まって旗印を鮮明にして活動してもらいたいものです。

今回の山本太郎への懲罰動議に関して、最近、憲法委員会をめぐって愚かな立民執行部に背後から撃たれた小西議員、ツイッター述べた意見が的を得ていると思うので、貼り付けておきたいと思います。野党政党が弱小政党への懲罰に加担することの愚かさが解説されていると思います。

(下ツイートより引用)、、、つまり、懲罰制度とはいざ多数派が濫用する気になれば、あっという間に邪魔な国会議員の身分を奪い取り、恐怖政治で国会を支配することを可能にするものなのです。 そうすると、野党議員は常に「こういう発言や行為をすれば懲罰にならないか」と怯えながら、委員会での質疑や討論などを行うことになります(議場でのヤジも懲罰事犯として狙われるでしょう)。 特に、最初の懲罰の濫用が「戒告」などで止まっても、「今度、懲罰事犯を起こしたら即除名だ」となりますから、一度でも懲罰を受けたら終わりという緊張感でずっと縛られることになります。 つまり、懲罰制度とは議会制民主主義を殺す力のある恐ろしい制度なのです。、、、、それが故に、これまでの乱闘国会や強行採決では殆ど懲罰動議は実施されていなかったのです。 自民党もこうした良識のもとに懲罰の運用は極めて抑制的でありました。、、、、特に、今回の山本議員の事例は以下の観点などからもなおさら慎重であるべきと考えます。 ①人の生死が懸かった法案、しかも立法事実が崩壊するなどの異常な法案(=違憲立法)の強行採決であったこと ②暴力そのものが行為の目的ではないと思われ本人もそのように述べていること ③これまでの強行採決の例と明らかにバランスを欠くこと ④立法事実が無い法案を採決した委員長やそれに賛成した議員、その採決を助力した委員外議員(怪我をした二名の議員も委員外議員です)は不問であること(やろうと思えば制度上は懲罰可能です)、、、、、

また鮫島さんはこの事件を取り上げた記事の中で次のように述べています。
、、、
山本代表は、自公与党に徹底抗戦せず、波静かな国会運営を続ける立憲を厳しく批判してきた。立憲が粛々と採決を容認する結果、国会審議は注目されず、世論の関心も高まらず、重要問題法案が多くの国民が気づかないままに次々に成立しているという指摘はその通りであろう。
衆院議員3人・参院議員5人の少数政党であるれいわ新選組が国会で体を張って徹底抗戦し、問題法案によって人権をないがしろにされる少数者たちに寄り添い、少しでも世論の関心を高めようとする努力は、15倍以上の国会議員を有しながら「提案型野党」などと言って迫力を欠く立憲の不甲斐なさと比較して、涙ぐましいものがある。、、、
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今日の聖書 出エジプト記

2023-06-06 | Weblog
知らないうちに冬も春も過ぎ、気がつけば梅雨入り。Duolingoで始めたフランス語も今日で、1,000日目となりました。システマティックに学んでいるわけではないので効率は悪いですが、幼児向けの本ぐらいなら読めるようになりました。聞き取りは3割わかればいい方で、話す方は全然です。

という感じで、毎日それなりに楽しく過ごしていますが、最近、職場でブラブラ歩いていると、無意識に両手を後ろに組んでいることに気づきました。運転する時は曇りの日でもサングラスがないと辛くなりました。いつの間にか、くしゃみの音も大きくなり、立ち上がる時は膝に手をかけて掛け声まで発している時もあります。どうも進行性の病態、Ossanninattans Gravis Progressivaの兆候のようです。年月が過ぎるのは速いです。

と言うことで、この疾患の進行抑制のため、フランス語以外には、ピアノ練習と聖書の読書という日々のノルマを課しています。聖書の方は旧約の最初から順番にぼちぼち読んでますけど、東洋人に生まれ現代社会で育った私には理解できないようなエピソードばかりで、聖書の「神」はロクでもない奴だなとつい思ってしまいます。

しかし、その凡人には理解困難な「神」の振る舞いを、「神は絶対的存在である」という前提のもとに、どのように解釈し、そこから何を学ぶか、というのがおそらく聖書を読む意味なのでしょう。

私は聖書を単なる物語として読んでおるわけですが、それでも不可解な神の言葉や行動について考えてしまうことはしばしばあります。その極端な例がヨブ記に記されている神のヨブへの仕打ちでしょう。神がサタンと賭けをして、信仰厚いヨブに数々の苦難を与えてヨブの信仰を試すという話で、普通に読むと神のクズさ加減に辟易とします。これはキリスト教実践者の中でも最も解釈が難しいと言われている話だそうです。この古い物語の一つ一つのエピソードに隠されている意味を考えていく材料として聖書があるのだと思えば、聖書を読むことは中国仏教での禅問答に触れることに近いものなのかも知れません。

さて、読書の方は、ようやく創世記のあとの出エジプト記を半ばまで来たところです。出エジプト記は、モーゼがエジプトで奴隷となっていたヘブライ人を率いて、エジプトを脱出し、シナイ山で神の降臨とともに十戒を授けられるという旧約での山場の章です。歌舞伎で言えば「勧進帳」のようなものでしょうか。

聖書には神が戒律を与えた時に、戒律を破った場合のことをいろいろな場合に分けてしつこく記載されているのですけど、その中心の考えはこの章の10-23辺りに示されている、「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、、、、によって償われなければならない」という言葉に代表される「罪と罰」の関係ではないかと思います。神は、神とヘブライ人との間の取り決めにも同様に義務を強制しそれに反した場合の罰を定めています。そして、シナイ山に入る前、モーゼは祭壇を設け、雄牛を捧げて、その血を鉢に取り祭壇と人々に注ぎかけ「これは主があなたがたと結ばれる契約の血である」と言うのです。つまりこの「神」は人間を創造し、絶対的権力を持つものではあるが、人間は神とはあくまで独立した存在であり、神の権力と人間の権利の行使は「契約」に基づいているのです。

これは東洋人の私にとっては、非常に違和感を覚えざるを得ないところで、ここでの神とヘブライ人の関係は、喩えて言うならブラック個人企業のワンマン社長と社員のような関係ではないかと感じます。社長は数々の厳しい業務と制約を社員に一方的に課すわけですが、言いつけ通りに仕事をすれば社員には給料は支払われます。

ここに記されている神の言葉が現代の社会でも意味を成す比喩的表現であるとすると、例えば下のような言葉はどう解釈すればいいのでしょうか?

あなたは子やぎを、その母の乳で煮てはならない (出エジプト記 23-19)

あなたの豊かな穀物とあふれる酒とを捧げるにためらってはならない。あなたのういごを私にささげなければならない (出エジプト記 23-26)

そんなことを考えながら週末はビール飲んでます。
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