百醜千拙草

何とかやっています

I remember Clifford

2019-04-30 | Weblog
遠回りして晴天の陽気の中を駅まで向かう間、春だなあ、と思ったら、長年聞くこともなかったClifford Brownの"Joy Spring"のメロディーがふと頭に浮かびました。ウチに帰ってから、思い出して、Youtubeでその曲を探しました。

天才ジャズトランペッターといえば、Clifford Brownを挙げる人は多いと思います。ジェームス ディーンと同じで夭折したがために伝説化したせいもあるかもしれませんけど、これだけよく歌うトランペットはなかなかないと私も思います。ディジー ガレスピー、マイルス デイビス、サッチモ、、、いろいろと歴史的トランペッターはおりますが、マイルスが天才トランペッターかと言われたら、それはちょっと違うだろう、と感じるし、ウィントン マルサリスは天才かも知れませんけど、ジャズトッランペッターとしては物足りないものを感じます。

Clifford Brownのセンスは作曲にも現れ、Joy Springは出来すぎた名曲だと私は思います。完成度が高すぎるから発展性がないという部分はあるわけですけど。ひょっとしたらクリフォード ブラウンはあの若さにして完成してしまったからこそ夭折してしまったのかもしれません。

というわけで、1954年の名盤から Joy Spring



Manhattan Transferのボーカルバージョン。ブラウンのソロのところで歌詞をトチってしまい、笑ってごまかすジャニス。



日本人に人気のあった白人歌手Helen MerrillがClifford Brownをフィーチャーして大ヒットしたアルバムHelen Merrill with Clifford Brown”から"You'd be so nice to come home to"。 大昔、学生時代の試験勉強の時にこのアルバムをBGMにしていました。文句のつけようのないブラウンのソロ。



もう一つ、死去したClifford Brownを偲んで、ベニー ゴルソンが書いた名曲、"I remember Clifford"。ジャズのバラッドで最も美しい曲の一つと思います。Art Farmerのフリューゲルホーンの音色が甘くも切ないです。



Manhattan Transferのボーカル バージョン。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の台頭、日本の凋落

2019-04-26 | Weblog
有名人が数人しゃべる核酸関係のシンポジウムをちょっと覗いてきました。
だいたいいつもと同じで、面白い話が2割、つまらない話が2割、そこそこが6割といったところですが、当たり前ですけど、話の8割がtranslational researchです。何らかの臨床的意義を加えないとグラントが取れないのでしょう。

もう一つ思ったことは、研究における中国の台頭と日本の凋落傾向です。話をした中の数割で中国グループとの共同研究が行われていてその結果が大きく貢献しています。ほとんどの研究室で中国人研究者が重要な役割を果たしている一方、日本のグループと共同研究をしたところはゼロ。日本人研究者の名前も一切出てこなくなりました。研究サービスでも、中国会社、例えばBGIのサービスを使っているグループは多いようです。私も研究サポートに中国系の会社を使うようになりました。シークエンス プロジェクトはBGIを使いますし、遺伝子de novo 合成はGenewiz、その他の分子生物実験に使うものはGenscriptと、中国系の会社です。安いですし品質もまずまず信頼できます。三、四十年前の日本のような感じではないでしょうか。研究において、優秀な大学院生の圧倒的な労働力で世界をリードしてきたかつての日本はすっかり、中国にとって代わられました。

残念ながら、この流れはもう変えられないので、中国がかつての日本並みに豊かになって賃金とコストが上昇して国際競争力が落ちるまでは、この調子でしょう。何と言っても日本の10倍以上の人口を持ち、世界で商売すること得意な中国ですから、当分は中国の天下が続くでしょう。次に中国にとって変わる国があるとすれば、インドでしょうが、儒教国の中国人の勤勉さを考えると、インドが中国にとって変わるとは(今のところは)とても思えません。人口や物価で言えばインドネシアも可能性があるのですけど、イスラムの国ですから、同じく超現実主義の中国人の敵ではなさそうです。
(あくまで、ステレオタイプに基づいた予想です)

今後は日本は、帝国主義が終わった後のヨーロッパの小国のように内向きになっていくのでしょう。それは悪いことではないと私は思うのですが、政府と指導者が、成長が終わって初老期にかかろうとしている日本に、いまだに「経済成長」のバカの一つ覚えしか言わず、成長が終わって縮小期に入っているという現実を否定し、現実に沿った長期的政策を全く持ってない、という無能さですから、日本はヨーロッパ諸国のように身の丈にあったライフスタイルに軟着陸することはできず、結局、崖から落とされるようにハードランディングすることになるのでしょう。

先の第二次大戦と同じ間違いを繰り返すことになるのではないかと思います。つまり、戦略は神風頼り、成長路線が失敗した場合のプランBは、総玉砕です。

これからは、自分の身は自分の力で守ることを考えねばなりません。餓え死にするのも自己責任と言われて終わりの国ですからね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴーイング コンサーンの幻想

2019-04-23 | Weblog
ゴーイング コンサーンの幻想というのは、随分前にある会計士の人が西武鉄道の経営を会計学の立場から解析しブログに公開したエントリーのタイトルなのですが、ここしばらく、何人かの研究者の人の苦労話を聞いて、ふと、このタイトルを思い出しました。ゴーイング コンサーンはそもそも会計学の言葉のようで、経営状況を評価する上において、企業は今後も活動を継続していくことを前提とするという概念です。もちろん、計画倒産し出資者や株主を裏切るような企業もあるわけですが、企業が継続を前提とするというのは当然であると言えます。

しかるに、今の日本政府をみると、長期的に日本という国をこれからも健全な形で継続していこうとする努力がとてもあるように思えません。政権浮揚のためだけに、外資のハゲタカファンドに喰いものにされるのがわかっていて、株式市場に日銀の金を打ち込み株価を支える、会社の金(税金)を私物化し盗む、雇用や国民の生活の指標はごまかす、文書は改ざんする、もうメチャクチャです。普通ならこの連中はまとめて牢屋にぶち込まれていないといけません。この連中は、使えるカネは使えるうちに自分たちで使ってしまって、あとのツケは株主(国民)に回して、自分たちはトンズラするという絵を描いているワケで、極めて悪質です。
国民も知っているのかいないのか、大阪衆院補選は残念な結果となりました。今年の国政選挙、多分ダブルになるとおもいますが、このままではまだアベ政権がつづきそうです。となると、もう一億総玉砕に向けてまっしぐらです。

話がズレました。研究の話をするつもりでした。
十年ばかり前に潰れた独立研究所で働いていた人と話をしたことがあります。この研究施設は非営利組織で運営は国や財団からの研究費や寄付などで主に賄われていたようですが、長年にわたる赤字の蓄積で閉鎖に向けて密かに準備をしていたそうです。内部の一部の人間はヤバいと知ってはいても、おおっぴらにすると大混乱に陥って、そっとフェードアウトすることができなくなるので、ギリギリまで黙っていたという話。枝野氏が福島原発事故の時に、爆発とか、メルトダウンという言葉を使わないようにして事の深刻さをごまかしていたのを思い出しました。
ま、そういう状況ですから、組織が潰れるギリギリまで、人を雇い続けていたということでした。組織がなくなり、裸で追い出され、グラントで買った機材は競売にかけられ、一から研究場所を見つけて再スタートを余儀なくされたようです。寝耳に水で、いきなり研究所が閉鎖になると聞かされたポスドクもいたそうです。ふつうは研究所がこれからも継続して存在するという前提を普通は疑わないわけですから驚いたでしょう。他にも、10年ほど前、とある病院附属の研究所が急に閉鎖になり、PhD研究者が突如、職を失って四散するということもありました。この閉鎖がきまる三ヶ月まえに新しい研究員を募集していて、その選考の最中に閉鎖したので驚きました。

これらは研究所自体が突如なくなったという極端な例ですけど、研究室というのはちょっとしたことで閉鎖になります。これも十年ほどまえ、とあるハーバードの有名教授が学会先で変死したために、研究室が閉鎖となり、ポスドクが路頭に迷い、学生が研究室を変わってゼロからやり直しになったということがありました。研究費はその教授に出ていますから、その人が死亡した時点で召し上げになり、そこから給料や研究費がでていた人々は、突然、全てを失うことになりました。(実際は半年の猶予期間がありましたが)こんな極端な話でなくても、研究費が尽きれば研究はできませんから、ポスドクや研究員をやむなく解雇するというケースは多くあります。

研究員にも生活というものがあり、キャリアというものもります。プロジェクトが資金切れで完成しなければ、彼らにとっては、給料と地位を失うばかりか、苦労も形にならず、将来のキャリアに大きく影響するわけです。研究費のサポートは最長でも数年しかありませんから、普通はその間に別の研究費をとってきて継続していくとの前提で、多くの研究室は運営されてきました。つまり数年先の研究費はわからないけけれども、なんとかなるだろうという楽観的観測によって、研究室が今後も継続するという前提でポスドクもポスドクを雇う方も話を進めるわけですが、近年の研究費獲得の困難さを鑑みると、いまやそれは幻想とはいわぬまでも、その前提は少し厳しく見直す必要があると思います。身近にも、大御所といわれて長年、複数のグラントを維持してきたような人々がグラントを失い、研究室閉鎖の危機に瀕しているという例が複数あります。彼らはいざとなれば引退を覚悟しているでしょうが、結局、もっとも大きなストレスはそこで働いているポスドクの人々の将来のことのようです。

わたしも、秋からの2年の小さなプロジェクトに人が必要なのですが、それで悩んでいます。2年から先、そのプロジェクトが継続している可能性はむしろ低いと思っています。継続の努力はするつもりですけど、努力が報われない方が多い世界ですし。そんな状態で、2年限定のポジションにそれなりの人を見つけるのは大変です。昨年、期間限定で多少のの資金に余裕ができたので、雇うことにした人も、もともとMDで、研究のあともう一度臨床に戻るという計画があるので、最悪2年でも構わないとのことで合意になりました。こちらも本音はPhDで基礎研究を数年みっちりやった人が欲しいのですが、PhDとなるとキャリアもかかっているわけで、それなりの論文を書くのに二年は短すぎます。

ゴーイング コンサーンの前提などないに等しい零細研究室ではお互いに難しいものがあります。先日も同様の状態にある人と愚痴になりました。その人も二年分の資金はあるが、多分、それで打ち止めになるので、ポスドクは欲しいが人が見つからないとのこと。

とくに、何の解決策があるわけではありませんけど、やはりdisparityが大きくなっている今だからこそ、富の再配分によって社会主義なシステムで人々の最低限の生活を確保できるようにしていくことが望まれます。あいにく金持ちほどカネを失うことを恐れるといいますから難しいでしょうが、アメリカでは若者が時期大統領選の民主党候補としてバーニー サンダースを支持しているという話を聞くと、若い世代も、現在の弱肉強食の行き過ぎた資本主義社会に大きな問題意識を持っているのだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪12区

2019-04-19 | Weblog
大阪12区の衆院補選、私の思いに反して、宮本候補は苦戦しているようです。
前回の市長、知事ダブル選の結果から予想されたことですが、維新候補がリードとのこと。大阪の維新支持を見ていると第二次大戦前にヒトラーを支持したドイツを想像してしまいます。維新が自民の補完勢力だということを大阪の人は理解しているのでしょうか。
わざわざ議員バッジを外し、あえて無所属で立候補した宮本候補の意図はシンボルとして野党共闘の流れを作ること。そのために己の身を捨てる賭けに出たわけですが、(今のところ)悲しいことに笛吹けども踊らず。選挙区の人々はともかく、最大野党である立憲民主の対応の鈍さはガッカリです。

市民も一部の野党さえ、かつてイデオロギー政党と異端視されてきた共産党への偏見か、その深意と危機感を理解できない様子。しかし、ここ数年、最も国会でよい仕事をし、マトモな呼びかけをしてきたのが共産党でした。宮本議員、飄々としながらも、森友問題などで、最も厳しい追及をしてきたのはこの人です。野党共闘を呼びかけて、前回の選挙でも一部の一人区で自らの候補を下す判断をしたのは志位委員長であり、舌鋒鋭く現政権のデタラメを理詰めで糾弾してきたのは小池さんです。彼らは理想の社会を作るというイデオロギー政党としての遠い目標を達成する以前に、どんどん腐敗し劣悪化する日本の現政権をまずは止めないといけない、という喫緊の課題に現実的に対応しようとしています。それは、志位委員長や小池さんのような優秀な頭脳がなくても誰でもわかる当たり前のことです。

そもそも共産党ではなく最大野党がその旗振りをしないといけないと思いますけど、やる気があるのかないのか。希望の党というマヤカシのおかげで、せっかく新しい党の元に人々が合流する流れができたのに、すでにその勢いを忘れたかのような調子。大阪12区に関しては民主党時代の樽床氏も出ているし、共産党は嫌いだという気持ちもあるのでしょうけど、そんな細かいことに拘泥している場合ではないのであって、最大野党がアベを止めると宣言して、共産党の英断、宮元氏の勇気に敬意を表し、表敬訪問だけではなくキッチリ応援演説をし、最大野党としての立場を明らかにして、もう一度、流れと勢いをつけなければ、結局、政治ゴッコの自己満足で終わってしまいます。

この時期に野党共闘に水を差すような話をするのはどうかと思いますが、結党以来の立憲民主党の行動を見ていると、民進党の解党で行き場を失ったリベラル議員が自分の居場所を作るために作っただけの後ろ向きの党に過ぎないのではないか、とだんだん疑問に感じることが増えました。こう思うのは私だけではない証拠に支持率は南下傾向。これでは、55年体制の社会党と同じ、自民党を引き立てるためだけの脇役、ガス抜きのための存在に過ぎないです。ぜひ、この疑念を払拭してもらいたい。

野党全党(維新は除く)が共に立ち上がることです。宮本さんや山本さんが自らの進退を賭けて切込隊長を勤めているのに、後ろで腕組みしての洞が峠ではあまりに情けない。

大阪12区の補選、宮本さんや共産党とその意図に賛同する野党の熱意が伝わって欲しいと思いますが、無理が通って道理がひっこむ今の世の中「真っ当な政治」を掲げても、人々は共感しないでしょう。道理が理解出来る国民ならアベなどとっくの昔に政権から消えているはずですからね。

思うに、ここは、ご本人の主張の一つ「消費税の減税、廃止」を前面に打ち出すのがいいでしょう。この一点で野党は一致すればよい。どうせ、アベはまた今年の選挙前に消費税増税延期を発表するので、ここは「増税反対」ではなく「減税、廃止」を主張しなければなりません。アベが衆参ダブルに出てきてから、主張するのでは遅いのです。逆に消費税がこれまでどのように使われているのか実態を知った上で「消費税減税、廃止」に賛成できないのでは野党としてはどうなのか、と私は思います。

政治に興味がなく、道理を通そうとしない人々でも、カネのありがたみはみんな知っています。笛では踊らなくてもカネなら踊るのが人間。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸運 - 入学式祝辞

2019-04-16 | Weblog

前回の幸運の話に多少関連して、
東大入学式での、「ジェンダー研究」の上野千鶴子さんの祝辞を新聞で読みました。
がんばっても報われない社会が待っている」

-- 入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。
、、、、(日本の社会での男女不平等のアネクドートをあげ)、、、これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。
ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。、、、

あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。
ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。

そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。
あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
 世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。

あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。
、、、--

この話に、どれほどの入学生が共感してくれるのだろうと思いました。
これまでの東大出身やあるいはエリートコースを歩んできた若者との個人的な交流から、エリートコースの人の多くに共通する点があると感じます。彼らは自分がエリートコースを歩み、競争に勝ってきたことで、自分はエリートコースにいることを自覚しており、そしてその地位を得たのは、自分の努力と才能の成果であると考えている人が多いです。遊びたい時間を削り週末も夏休みの犠牲にして努力して競争に勝ってきた、自分が今の地位にいるのは頑張ったゆえの当然の結果であるという思いです。それゆえに彼らの自信の裏に、しばしば大きなエゴやエリート意識があります。
それが醜悪な形で出た例が、先の国会での横畠内閣法制局長官の傲慢な越権発言でしょう。慇懃無礼に他人を見下していたのが、つい、表に出てしまったのでしょうね。(もちろん、そんなエゴやエリート意識とは無縁の東大出身の人も知っています)

日本ではエリートコースは一流国立大学に合格するところから始まります。しかし、それはペーパーテストで高得点を取るというだけの競争です。だから、彼らがしてきた競争に勝つための努力というのは、答えのある問題の正しい解を人よりも早く見つける訓練に過ぎません。それが、現実の社会を生き抜く上での実力とはほど遠いものであるのは言うまでもありません。ただし、そうしてエリートコースを歩んで「内部」の人間になれば、実力はなくても制度によって守られて生きていくことができます。それで、多くの人が国家公務員や特定の資格の必要な職業につきたがるのだと思います。そのためにやることは極めて単純、つまりテストで高得点を取る技術を身につければ良い、だけです。

上の祝辞では、いわば点とりゲームの勝者として選ばれた東大生に、謙虚に自分自身を見直して、より良い人間になってほしいという気持ちが込められていると思います。入学試験で高得点を取るための訓練は、大学などでの「知」を生み出していくための学問とは異なるし、時には有害であると思います(出版ゲームやグラントゲームに勝つことを最大のゴールとしている人々のゴール達成への強いモチベーションは、良くにも悪くにも働くと思います)。
そして祝辞にあるように、一流大学に入学できて一流の環境で学ぶことができる機会を得たことは、実力や才能以前に「幸運」であったからこそです。

教育熱心でお金に余裕がある家庭に五体満足に生まれる、ということがなければ、東大に入るのは難しいでしょう。生まれつき知的障害のある人、耳や目の不自由な人、重い病気を背負った人、そうした人が学問を追求しようとすると多くの困難に遭遇します。人は自分では選べない環境や条件に生まれ、育ち、一生、その制限を受けます。
良い条件で生まれ育ち、良い教育を受けることができて、よい仕事に就くことができた、ということを「幸運」だったと考えられる人は、不運な人を思いやることができるだろうと思います。
生まれる場所、うまれた条件をちょっと間違えれば、いくら頭がよくて努力家であっても、マリオ カッペッキのように路上生活を送るような子供時代を過ごさざるを得なかったかもしれないです。そう考えれば、人種や性別や民族など、たまたま生まれ持ってきた条件をもとに差別する人々は、自分がそういう環境にうまれていたら、という想像力が圧倒的に欠如しているといえるでしょう。

そう思えば、人生は「運」まかせであり、その大きな制限のなかで成長しようとする努力こそが意味があると思います。それは、「自分の弱さを認め、支え合って生きていく」ことを学ぶことであると私も思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸運

2019-04-12 | Weblog
早速、動物プロトコールの書き直しを指示されました。本審査前のチェックをする予備審査員からです。こんな単純なプロトコールに20箇所ぐらいネチネチと、本当にこんなどうでもいいことを細かく書くことは必要なのか、と思いつつ、仕方なしに作業開始しましたが、むなしいです。規制は必要とは思いますが、こうなってくると、規制のための規制、形式作りにしか思えません。

結局これだけ細かくやらせるのは、一部の研究者がバカをやったりするので、全員をそのレベルに合わせざるを得ないという事情でしょう。人間というのは、利害が絡めば、ウソもつけばズルもする、恫喝、隠蔽、改ざん、国策逮捕、ヤクザをつかって選挙妨害、なんでもやる、そういう動物ですから、規制する側は性善説に立つわけにはいきません。
ま、文句を言っても事態が改善するわけものなく、坦々と作業をしています。

やりたいテーマもあるので、あと数年は研究を続けるつもりですが、研究環境は悪化する一方で、ウンザリすることも多くなり、なんとなく新しいことを始めるべきなのではないか(一度きりの人生だし)というような気分がしばらく前からあります。

これまで、アカデミアでの基礎的研究を楽しんできましたし、今でも、データを見ていろいろ考えるのは楽しいですが、べつにこの世界にこだわる必要はないのではと思い始めました。アカデミアだから自由だとは言えません。だんだんと世知辛くなる一方のアカデミアでそもそも自由な研究というものがすでに難しくなってきており、いまや研究のために資金をえるのではなく、カネのために研究しているという人の方が増え、だんだん、周囲で行われている研究の内容が面白くなくなってきました。企業の下請けのような仕事をやっているのをみていると、カネのためとはいえ、なんとも寂しい気分になります。

そもそも私は根無し草で、特定の分野の専門家というわけではなく、分野と分野の隙間のようなところで細々とやってきたわけで、しがらみもなにもないし、いなくなっても誰も気がつかないぐらいの自由さはすでにあります。続けてもやめても自由です。これまで自由にやらせてもらえて大変、幸運であったと思っていますが、自分の幸運を引け目に感じる必要はないと思っていますし、これからもやりたいことを優先していくつもりです(そのうち、それもできなくなるので)。

しばらく前に研究者をやめた人のブログの記事をみました。若くて意欲があった人が研究環境の悪化で意欲を削がれて志半ばで別の道を選ばざるを得ないような状況に追い込まれるというのは心が痛みます。学問や研究がhumanityの向上の大義に沿ってなされ、それを追求する人には長年にわたる研鑽と訓練が必要なのだから、意欲のある若手研究者が道半ばで研究を離れていくのは、人類にとって大きな損失です。世の中、世知辛くなってくると、humanityの向上というレベルで物事を考える人が減り、自分のことだけしか考えられなくなります。止むを得ないとも言えますが、だからといって、人間は誰でも利己的に自分の利益だけを追求すればよいと開き直るようでは人間とは言えません。

研究、やめました
なかなか踏ん切りがつかず、この年までズルズルと研究業界にしがみついてきましたが、ついにこの春に研究職を離れました。
理由はいろいろあるのですが、やはり年々低下する意欲と厳しくなる経済状況、そしてもうそろそろポジションを得ることが現実的に難しいと判断したからです。

研究者として私の最後の数年は抜け殻のようなものでした。
常に任期更新の有無に気をもみ、公募に落ちるたびに、今こうしてやっている目の前の実験や申請書書きになんの意味があるのか、と自問自答する日々の中、新たな技術や別分野の勉強をする意欲はどんどん失せていきました。ただ、実験をこなす、ただ、データをまとめる。そこに、かつて自分が見出していた知的興奮などはありません。本当に、ただの抜け殻でした。

そんな能力も実績も成長意欲もない人間がいつまでも業界に残れるほど甘い世界ではないことも承知しています。また、そんな人間がなにかの間違いで限られた席を埋めてしまうことは、未来の有望な若者の席を奪うことにもつながりかねません。その判断力が残っているうちに決心しました。

日の当たらない研究生活を這うように続けてきましたが、こうしていざ離れることを決意すると、アカデミアはとても楽しいところでもありました。
。同僚と実験結果について議論し、論文を書き、たとえ小さな一歩でも、人類の知識の上積みに貢献することは、喜び以外の何物でもありませんでした。

いつまでもこの業界に居たかった。
けれど、それはもう過去のことです。

気の毒だなあ、としみじみしてしまいました。ただ、思うに「能力も実績も成長意欲もない人間がいつまでも業界に残れるほど甘い世界ではない」という意見に関しては、私は、そう思う必要は全くないと思います。そもそも能力や実績では研究での発見は予測できないです。それに後世に残る大発見など滅多におこらないわけで、そう考えると99.9%の研究の成果のほとんどが忘れ去られていいきます。しかし、そういう小さな積み重ねがあってあるときブレークスルーが起こるのだろうと思います。そのブレークスルーを起こす人は必ずしも優れた研究者とは限りません。そういう視点でみれば、99.9%の研究者は似たり寄ったりです。ただミクロでみればもちろん差はあります。私の周囲にも、能力と実績と成長意欲に欠ける人間が長い間、研究職でやっている例はありますし、逆に、能力も実績も意欲もあるのに研究職をやめざるを得なくなった例も知っています。

この年まで自分自身を振り返り、周囲の人々を思い返してみると、人の人生を決めているのは「運」だと思うようになりました。振り返ると、私は幸運だったと思います。「あのとき、たまたま、ああいうことが起きたから、助かった」というようなことがあります。それらの出来事は自分でなんとかできるようなものではないので、「運」としか言いようがないのです。逆の場合もあると思います。優秀で、大きな仕事がNatureに載り、これから面白くなるような研究素材も持っている人が、研究を辞めざるを得なくなった例が身近にあります。理由はいろいろ後付けはできるのですけど、私は、このケースは「運」が悪かったというのがもっとも適切だろうと感じます。

運の正体は分からないし、吉禍は糾える縄とか万事塞翁が馬ということわざもあります。幸運、不運というのも主観的なものですし、「運」は運任せなので、何ができるわけでもありません。しかし、現実はどうこうできなくても、自分を幸運だと信じることで幸せな人になることはできます。

というわけで、私は自分を幸運だと思っていますし、その場ではイヤなことが起こっても、これは一見イヤなことに見えるが、実は私にとってベストのことが起こっているのだという観点から、現実を解釈するようにしています。(現実は一つですからベストと考えるのも最悪と考えるのもどちらも自由なので)

そう思いつつ動物実験プロトコール直しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

売国奴の正体

2019-04-09 | Weblog

大阪ダブル選で、維新の勝利。大丈夫か、大阪?選挙前はこのような身勝手な選挙を府民、市民が許すわけがないと思っておりました。そもそも4年前に住民投票で否決された同じ案を持ち出して手前の身勝手で選挙、支持した人々の気持ちがわかりません。ま、終わったことは仕方がないし、大阪の人々の民意に大阪人でもない私が言うことはありません。
今回、自民候補相手でしたが、自民の補完勢力の維新を勝たせる筋書きが自民との間に最初からあったプロレス興行だとの見方もあり。あと残念なのは北海道知事選。アソーと寝業師の地元で自民が負けたのは多少喜ばしいですが、まだまだ野党共闘と形になっていないのと、菅以降の民主党が与党失格の烙印を押されたあとの反野党感が根強いのが痛いです。
そんな中で、国政選挙に向けての山本太郎さんの「消費税減税」運動が野党をまとめる鍵になるのではと期待しています。国の放漫財政、アベの浪費と税金の私物化、アベノミクスの大失敗、日本の財政がここまで悪化した原因は政治にあります。その責任をだれも取ろうとしないばかりか、アベ一味の国家の私物化と浪費はエスカレートする一方です。その諸悪の根源を正そうとせず、カネがたりないから消費税で国民から巻き上げるという安易さ、しかも、巻き上げた消費税のほとんどは国民に還元されておらず、別の用途に使われているという現実があります。端的に言えば詐欺です。山本氏の消費税ゼロを目指すという計画の根拠はここにあります。野党全党が消費税減税を掲げて与党に対決すれば、小選挙区制の強みで勝てるのではないか、と私も思います。

さて、現在、1000兆円を超える借金がある日本、経済は悪化する一方でありながら、過去最大の国家予算を積み上げました。半分は借金、このような放漫財政のツケで、日本は世界一の借金国です。GDP比で比較すれば、あの悪名高いギリシャの1.6倍をはるかに上回る2.4倍の借金でダントツの世界一です。未知の危険領域にあり、正直、国家財政は破綻していると言わざるを得ません。国債を間接的に国民が買っているから外国の場合とは違うという人もいますが、国民は国の持ち物ではないのですから、外国に買ってもらっているよりはリスクは低いでしょうが、借金は借金で違いありません。このことは、国が何らかの事情をつけて国債を踏み倒せば、国民の預金や財産が消滅するということです。

日本は90年初頭のバブル経済末期では日本の財政赤字は100兆未満であり、ずっと安定していたそうですが、90年代中盤のバブル崩壊後から財政赤字は急増、年間50兆円以上ずつ増え続け今日に至るというわけです。その理由は、無駄な公共事業

アメリカでは大恐慌があり、政府は対策としてニューディール政策を行いました。直後に第二次大戦が起こり、その軍需景気でアメリカ経済が持ち直したので、ニューディール政策の効果については不明です。また、最近ではオバマ政権の時に経済刺激対策として、一時的なかなりのカネをばらまきましたが、私が覚えている限り、効果は一時的でした。この手の政府が事業を作ってバラまくというやり方は基本的には持続的効果はないと私は感じています。

それでも日本は公共事業をやり続け、ハコモノを作り続けてきたわけですが、その主たる理由は利権であり、官僚の天下り先の確保でした。官僚が退職後も国民の税金を食えるようにと必要のない国家事業をやり、業者と癒着。もちろん、政権の後押しが必要ですから、この三者がお互いの欲によってつながって、国民を犠牲にして、平成の30年間、国を食いつぶしてきたわけです。政治家は地元企業や住民の票を集めるために、地元に公共事業を通じて税金を流す、そこへ官僚は天下る、税金を納めた一般国民には還元されず、消費税増税までされる始末。

つい先日は、アベとアソーを忖度して需要もない下関北九州道路計画を推進したことを、ベラペラと調子に乗ってしゃべってしまって、辞任する羽目になった塚田一郎国交副大臣。関して、日刊ゲンダイがムダな公共事業を批判

、、、、「下関北九州道路」は、地元では“安倍・麻生道路”と言われている。関門橋とトンネルに続く3本目の関門ルートは必要性に乏しく、凍結されていたが、「整備促進を図る参議院議員の会」会長の吉田博美自民参院幹事長が、昨年12月に塚田氏と面談し、「首相と副総理の地元事業なんだよ」と猛プッシュ。はたして、今年度予算で国直轄調査費として4000万円が計上された。、、、
「塚田副大臣の発言は、架空でもなければ、レアなことを言ったわけではありません。普段、起きていることをありのままに話したまでです。安倍首相の地元では、首相の政治力でムダな公共事業が前に進むことは、日常茶飯のことなのです。モリカケと同様に、問われるべきは安倍案件で行政が歪められ、巨額の血税が無駄にされていることです」

しかし、最も悪質な例は、沖縄の辺野古問題でしょう。
カネが何千億かかろうとも辺野古移設を進める「利権村」の正体 から。
、、、
「なぜ県民の意思を無視するのか」と国会で問われ、安倍首相は「危険な状況にある普天間の全面返還を一日も早く実現をしなければいけない」と、お決まりの答弁を繰り返す。その論理が破綻しているのは、誰の目にも明らかだ。
、、、「水面下70メートルは地盤改良工事を行う作業船の限界深度」という沖縄県の指摘が正しければ、深さ90メートルの地盤改良はできず、辺野古の現計画そのものが根本から見直しを迫られる。計画が暗礁に乗り上げていると言っていいのではないか。それでも、工事を強引に進めようとする。軟弱地盤への対処法は未解決のままだ。核のゴミの後始末を度外視して推進された原発を思い起こさせる。、、、
“基地利権村”のメンバーは、辺野古の工事を受注している大成建設、五洋建設をはじめとする大手ゼネコンや、それらと共同企業体(JV)を組む地元の土木建設会社など。いずれも防衛省から天下りを多数受け入れている企業群だ。その資金や票をあてにしている地元政治家らも含めていいだろう。
2016年1月3日付の朝日新聞は、防衛省が直近の2年間に発注した辺野古移設事業の8割にあたる730億円分を、同省・自衛隊の天下り先企業や共同企業体が受注、辺野古受注業者10社が、工事入札前の2014年だけで、6,300万円を自民党に献金していた、と報じた。、、、、
沖縄防衛局は、ゼネコンや地元業者と、米国防省関係者、政治家をつなぐ“基地利権村”の事務局のような役割を果たしてきた。、、、アメリカに正当な主張さえできない官僚が、巨大な組織と情報収集力を駆使して、米国の望むようにこの国を支配している。それが米国との間で摩擦を起こさず、自己保身につながるいちばんの方法だと彼らは心得ている。その心理構造を作り上げているのが、日米地位協定と、日米合同委員会だ。、、、、、日米安保条約のもとで米軍の権利を定めた地位協定。それを後生大事に守り、沖縄に対しては「上から目線で粛々」と、辺野古への移設を進めようとする日本政府。この主権国家として不本意きわまりない対米関係をなぜ対等なものに変えようとしないのか。どうしてその負担を沖縄ばかりに押しつけるのか。多くの沖縄県民が抱いているであろうこの疑問に対し、日本政府はただの一度も、まともに説明責任を果たしたことがない。、、、、
矢部宏治氏は著書『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』で、アメリカ政府が日本政府より上位、アメリカとの条約群が憲法を含む日本の国内法より上位、という関係が法的に確定してしまっており、官僚が上位の法体系を優先して動くのは当然だ―と主張している。なぜそんな上下関係が確立されたのか。矢部氏は「砂川裁判」の最高裁判決(1959年)が決め手になったと言う。、、、、
沖縄県が政府にいくら談判しても埒があかない背景には、米軍による実質的な占領状態の継続と、複雑に絡み合った利権の構造がある。

ono@ono_ono222さんのツイート
原口一博議員「警備費ひとり当たり日当、39000~59400円出していた。しかし本人(警備員)には1万円しか出していなかった。2年間で77億。入札は一社応札。しかも、相手の言った通りの見積り額を出した。国庫に返すこと。国民を騙す辺野古基地建設は一旦中断するべき」
本当にいい加減にしていただきたい。

こういう税金ドロボーの詐欺師どもが辺野古周辺にウジャウジャしていており、沖縄防衛局は利権事務局だということです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新しいネタ

2019-04-06 | Weblog
ようやく一月かけたグラントを提出し、動物プロトコールを書き上げ、溜まっていた雑用を片付けることができました。今のところ、これらに費やした時間が、何か実のあるものにつながるかどうかわかりませんけど、とにかく無事にやらねばならぬことを終えたということで、多少の解放感を味わっています。その間に保留になっていた実験のことをいろいろと考え出しました。今週から本格的に再始動したいと思います。
BioRxivからまた面白そうなネタになりそうなものを発見。ちょっと時間ができると面白そうなものは色々目について楽しいですが、その間に時間がビュンビュンと過ぎ去っていくのが残念。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カネ集め

2019-04-05 | Weblog
ウチの施設の内部の研究発表シンポジウムに付随して、施設の研究支援の取り組みに関する会議がありました。会議はオープンでウチの施設に所属する研究者や関係者はだれでも会議場に入ることができます。この研究支援組織は10人ほどの外部のアドバイザーからなる委員と年に一度シンポジウムの翌日に会議をしているのですが、今年は、その昼食会に一般研究者として参加しました。
同じテーブルになった委員の人はこれを数年やっている人で、その昼食会でのトップ トピックは、常に、研究資金の絶対的不足の中でいかに研究者を支えていくか、ということだと、ま、当然のことを確認してくれました。いつもカネの話で食傷気味です。しかし、「キャバレー」の歌の文句ではないですが、カネが世の中を回しているわけですから仕方がありません。
この研究支援金はピンチのときに申請すれば、審査に通れば受け取ることができます。私もかつて二度ほどこの支援金でピンチを救ってもらったことがありますので、大変、ありがたいシステムですが、その資金が底をつきつつあるという現実をこの間、知りました。

研究者の立場からすると、自前でカネをなんとかするには限界があるわけで、組織がそのリーダーシップを発揮して、内部での継続的な研究支援金を配布できるようなシステムをつくる必要がありますが、一般研究者の立場から見ると、どうもそれが今のところうまく行かなくなってきているようです。

問題はカネの出所です。ウチの施設では、基本的には、篤志の寄付金や臨床からの余剰収入などで賄ってきたようです。その外部の委員の人のいた施設では、研究費について支給される間接経費の一部も研究支援目的で使っていたと言っていました(それが、法的に許されるのかどうか知りませんが)。

昨日のシンポジウムのあとのレセプションで資金管理の人と話していて知りましたが、ウチの施設でも寄付を募る専門部門があって、職員を雇い、寄付者を探すような努力はしているそうで、私も少額ながら毎月寄付しています。
その委員の人の話で興味深いと思ったのは、その人がかつて所属していた施設の近辺にも別の有名な研究施設があるのですが、そこは寄付金集めが非常にうまいという話でした。特別なグループの人々にカスタマイズした寄付金集めをしているのがその理由ではないか、という話でした。例えば、女性研究者を支援するための寄付を女性権利向上を目的に活動しているグループに対して募るといったように、各グループの活動目的にあったような形で支援をお願いするのだそうです。ウチの施設もそのような形での寄付活動をするように委員会で進言してもらいたいです(してくれているとは思いますが)。

しかし、現状を知ると、このままカネが尽きたら、研究支援どころか研究支援組織そのものが崩壊するかも知れないな、と思った次第です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元号

2019-04-02 | Weblog
新元号が発表されました。結局は中国の詩を元にした漢字をつかうことになり、慣例を半ば踏襲した形になりました。さすがに「安」とか「晋」とかいう漢字は避けられたようで、元号を見るたびに嫌な気持ちになることはなさそうで良かったです。ここまで特定の漢字にネガティブなコノテーションがついてしまったのはこの国の言葉をつかう人々にとって残念なことです。
ま、しかし、元号など役所の書類ぐらいにしか使われなくなり、みんなが西暦を使っているのだから、もうこれからは西暦でいいでしょう。「西暦」という元号にして、今年を西暦19年と呼べば良い、という植草さんの意見も一理あります。元号の代わりに時代の節目になるような呼び方をしたいのであれば、天皇の在位とリンクしているのだから天皇の名前を使えば良い。それでも、日本の歴史や伝統が「でんでん」という人はいるでしょう。しかし、日本の伝統がどうの、というのであれば、やっぱりチョンマゲ、着物に雪駄ばきに身なりを整えた上で言うのがスジではないかと思います。だいたい、明治維新で、ペリーに力の差を見せつけられ、薩長が旗を振って、これからは西洋人のモノマネをして西洋モドキになるのだ、と明治の初めに日本は決めたのです。今更、元号が日本の伝統とか言われても、説得力がないです。古いもので使われなくなったものは自然と淘汰され、変わらぬものは世の中にはないのですから、元号など私からみれば全く無用のもので、無くなっても何とも思いません。
最近の内田樹の研究室の記事の中で、休日に国旗称揚をしなくなったのが1958年ぐらいで、それは大日本帝国の十三回忌にあたるといういう話がありました。 

ー親が死んでだいたい十三回忌になると親族が集まった法事の席で、喪主に当たる老人が言い出すことがありますよね。「いや、お疲れ様。これでなんとか亡き親の十三回忌まで営みました。でも、みんなも年を取ってきて、集まるのも大変になってきた。もう、この辺でいいんじゃないか」というようなことを。ー

元号に関しての私の感覚は、これですね。「もう、この辺でいいんじゃないか (元号を無くしても)」
私が生まれた昭和はひとくくりにするにはあまりに多くのことがありました。書類には、昭和何年、と書くのが普通であり、西暦は付随的でしたから、昭和と書くのは普通でしたから、なんの感情もなくそう書いていました。その後、世界は狭くなり電線やインターネットで繋がって、西暦を主に使うようになりました。昭和天皇の崩御ののち「平成」となったと聞いた時は、パッとしないなあ、とその響きのノッペリ感に違和感を覚えたのを覚えています。かつて、トルコ風呂の名称を変えるようにとのトルコからの圧力で名前が変わった時に、斎藤晴彦さんが歌った「トルコ行進曲」に、「はじめはどことなくぎごちない」という歌詞がありましたが、昭和が平成に変わった時に私は多少それを感じました。今回はなんとも思いません。令という言葉の響きが冷たいのがイマイチですけど、どうせ使わないので関係ないです。

さて、これに先立って、国会が閉幕し、国の経済が低迷し、借金が増え続け、日銀がバクチを打って負け続け、アベが金を浪費しまくっている中、過去最高額の国家予算が成立しました。キチガイ沙汰としか言いようがありません。
与党政府は、このまま国家破綻の行き着くところまで行って、最後は戦争で日本を更地にして、ゼロからやり直せばいい、どうせ、その頃にはワシらはみんなあの世の住人、あとは野となれ山桜、前代未聞の無責任男を担いだ国民の自業自得、とでも思っているのでしょうな。
アベとその一味は、まだまだこれからも、税金を仲間に横流しし、そのツケを日本のこれからの若者の両肩にズッシリと背負わせるつもりのようです。常識が通じない、良いことと悪いこの区別がつかない、ウソをつき人を欺き貶めることをなんとも思わない、常用漢字もまともに読めないクセに元号をダシにシャシャリ出てくる厚顔無知無恥、この邪悪な人間のクズのせいで、日本がこの数年に失ったものは測り知れず、将来の世代に長く残るであろうアベの負の遺産は永久に返済不能かもしれません。

国会が形骸化しているのは与党の数を頼んだ傍若無人なやり方でしょう。露骨に時間稼ぎをして、質問に答えずに時間切れを狙うアベの卑怯さには呆れてものが言えません。アベがマトモに日本語を使って議論しようとしないので、延々と国会での時間を無駄にし、何も先に進まないのだと、メディアもちゃんと批判しないといけません。

10代の過半数「国会は有意義な政策議論の場になってない」 理由1位は「議論が噛み合っていない」というニュース記事を見ました。議論が噛み合うという以前の問題であると、指摘するべきでしょう。
ウソをつき、騙し、隠蔽し、質問にまともに答えようとせず、意味不明のことをダラダラ言って時間を潰し、その上で質問者に逆ギレする、卑劣極まりないアベ相手に、どうやってもマトモな議論になるはずがない。でも議会で多数を占めているがために、この男を罷免することができずに、国会は空転し続けているのです。

このニュースに関しての適確なツイート。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする