百醜千拙草

何とかやっています

シノぐ日々

2010-03-30 | Weblog
先週からの風邪に加え、頭痛と吐き気で、エネルギーレベル2ぐらいになっている上に、論文がらみのスクランブル体制は継続中ということで、芋虫のように地面を這いながらなんとかシノいでおります。世間のことにだんだん関心がなくなってきました。寝ることだけが楽しみなのですけど、寝ていても体調が悪いとよく眠れません。
 ニュースはちらちら見ています。アメリカではヘルスケア法案に反対する保守派が「Tea Party meeting」で気炎を上げています。Tea Party movementは、皆でお茶しながら親交を深めましょう、というような平和な運動ではなく、アメリカ独立運動のきっかけとなったBoston Tea party 事件に因むものです。Boston Tea Party事件は、1773年、宗主国イギリスからの重税に業を煮やしたアメリカが、それに抗議してボストンの海湾にイギリスのお茶を投げ捨てたという事件で、今回も同様に、「大きな」政府の増税に反対する田舎の保守派白人が中心となって、現政権に反対して、アメリカ各地で運動が展開されています。あの人寄せパンダのサラ ペイリンがまた凝りもせずTea Party meetingで、政府と民主党の批判を(批判といってもただの悪口です)しているのをみると、エネルギーレベルがますます下がるような気がしてきます。この人は建設的なことは何一つできないくせに、政府と民主党を批判することしかできない旧社会党のような人なのですね。
同様のことは、日本のマスコミと自民党をみていると感じます。これらの人々は、建設的なことはほとんどしないくせに他人の悪口を言わせては天下一品です。これらの人々には、小沢民主党が躍進して日本が本当に民主主義で国民第一の国になっては、大変だ、と思っているので、利己的な理由があるわけですけど、マスコミに乗せられて、一緒に揚げ足とりの小沢批判をしている一般人がいるのを見ると、戦後60年にしてようやくおこった革命の意義を国民全員が理解しているわけではないのだな、と思います。ただし、大手新聞の民主党たたきにウンザリしている一般購読者はかなりおおいようで、金を払って新聞をとってまで、誰かの悪口ばかり読むのは気分が悪い、と言って、新聞購読を中止する人が激増しているらしく、新聞社はどこもかなりどこも経営が厳しくなっているようで、民主党悪口専門新聞、産経にいたっては、あと2-3年で倒産するだろう、という憶測もあるそうです。読売、朝日も毎日のように読者を減らしていて、広告収入も激減しているそうですから、そのうちなくなるかも知れません。ネットの時代になってもう大新聞の役割は終わったような気もします。
ネットの掲示板のコメント欄で、本質と関係のないどうでもよいようなことをわざわざあげつらって批判し、不毛な議論で消耗していく人を多々みることがあります。何でもかんでも「政治と金」などのスキャンダルを持ち出して、政権批判するマスコミを見ていると、掲示板の低レベルのコメント欄を思い出さずにいられません。マスコミは、そういう「どうでもよい」ことに読者の注意を集めて、それを批判することで、もっと大切なことへの関心をそらそうとしているわけです。大切なこととは、アメリカ従属関係を改善し、日本の富の流出を防ぎ、国民の生活を向上させ、国の安全を確保するということです。小沢民主党がその目標の実現に向けて、動こうとしているのに、その恩恵を最も受ける可能性の高い一般国民が、政治家のどうでもよいようなスキャンダルに気を取られてその足を引っぱるのに何の益があるのでしょう。私だったら、仮に独裁でも金持ちでも人相が多少悪くてもその目標を達成してくれる政治家を応援します。逆に人受けがよくてクリーンでも、政治家としての本業を達成できない無能であればいない方がましだと思うでしょう。小沢民主党批判をしている一般国民は、その批判が奏効して小沢氏が辞めて民主党が崩壊した場合に、いったい誰が彼らの生活を向上させてくれると思っているのか、その辺を知りたいと思います。代わりのもっとよい選択肢がないのなら、仮に現政権に不満があっても、それを潰すようなことをするのは有害なだけであろうと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エゴを捨て良心を持って職務に取り組む

2010-03-26 | Weblog
 最近、論文のことでストレス溜り気味です。前回の時も半年ばかりあれこれ苦しみましたが、結局、自信をもてるようなストーリーにならなかったので、ストーリーは省いて妥協して雑誌のランクを落としました。今回の問題は、競合者の論文が出版間近となっているという、相対的な話です。私が持っているデータになんらかの新しい切り口を加えないとよい雑誌には投稿できないのですけど、この差し迫った時間制限の中で、これまでトライしてきたことは、まだデータに加えることができるような発見にはつながっていません。ちょっと光明が見えているような部分はあるのですけど、これが本当かどうかを確かめるのには多少時間がかかります。雑誌のランクを落として、descriptiveな論文として投稿するか、賭けになりますが競合者と同じ雑誌に出してぶつけるか、仕切りなおしてよいデータが(出るという保障はないのですけど)出るまで、ゴリゴリやるかという選択をせざるを得なくなって来ました。個人的にはゴリゴリを選択することが多いのですけど、過去の経験ではゴリゴリが成功する確率はきわめて低いことがわかっています。
 そんなことで、ハムレット状態になっています。加えて、ちょっと風邪ぎみなようで、悩みに加え、体調低下もあり、ブログ書いている場合ではないのですけど、ちょうど今、コンピューターのencryptionで自分のコンピューターで仕事もできない状態なので、これを人のコンピューターで書いています。

 数年前のグラント危機の時に、苦しみは啓示であり、困難は祝福であることを実感して以来、危機というものを主観的に見ることがなくなりました。ですので、ストレス溜りぎみではありますが、今回の危機を無事に乗り切れることがわかっているので、この論文がどのような展開になるのか楽しみにしている部分もあります。エゴを捨て、研究者としての良心に忠実であれば、論文は落ち着くべきところに落ち着くでしょう。そう思っています。

 エゴを捨て、自分の職務に良心を持って取り組む、ということの大切さを、生方氏はわかっているのでしょうか。なぜ副幹事長更迭の撤回がなされたのかの意図を理解しているようには思えません。それどころか、更迭しようとした高嶋筆頭副幹事長に謝罪さえ求めようとし、なお小沢氏批判を繰り返しています。始末に終えません。助けようと手をのばす救援者の手に噛み付く溺れかけた犬のようです。自分の立場も相手の立場も世の中も見えていないのでしょう。マスコミの反小沢キャンペーンに嬉々としてネタを提供しているところを見ると、やはり確信犯なのか、本当の愚か者なのか、いずれにしてもやりきれません。

以下、ウェッブのニュースから。
 生方氏は高嶋氏について「自分で(私に)辞めろと言った。辞めなくてよくなったのなら、私に理由を言うのが当然だ(がそれがない)。間違った判断をした人は『迷惑をかけて申し訳ない』と国民に言ってほしい」と述べた。
(中略)
 一方、民主党幹部には生方氏の言動を批判的にみる向きが強く、平田健二参院国対委員長は記者会見で「彼の人間性だからあまり論評したくない。無視する」と不快感を示した。

盗人猛々しいとはこのことですね。やっぱり辞めさせた方が後々のためではないか、と思わざるを得ません。ウラでこそこそ党の悪口を言って、あげくに筆頭幹事長との会話の盗聴テーブをマスコミに流し、少なからず党に害を及ぼした人間です。皆に「迷惑をかけた」のは自分の方です。高嶋筆頭副幹事長は間違った判断をして辞めなくてよい人間を辞めさそうとしたのではなく、辞めて当然の人間に温情を示しただけのことです。あいにく、かけた情けが仇となってしまいました。「愚かなものには、ただただ頭を下げよ」、こういう人には道理を説くだけ時間の無駄なのだなあ、とため息がでます。参院国対委員長の「人間性だから論評したくない」というコメントは、それだけ、この人の行為が卑しく、口にするのも汚らわしい、ということでしょう。人間性を軽蔑されるようでは、選挙で選ばれた議員として恥ずかしいと思います。
ハラがたってきたのでこの話はもう止めます。

 論文のことで頭がいっぱいで他のことを考えている余裕がありません。今回はこの辺で。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小人の目は曇ったままであった

2010-03-23 | Weblog
オバマ政権の政策の目玉であるヘルスケアリフォーム法案が、ついに議会を通過しました。これは、先進国で唯一公的健康保険制度をもたず、健康保険会社の利益優先のために病気を持つ社会的弱者が切り捨てられてきたアメリカという国が成長していく上で不可欠のプロセスであったと私は思います。過去、何十年と、この問題を解決しようという試みがあり、その都度、失敗してきました。昨年死亡したテッドケネディーの悲願でもありましたが、それがついに議会を通りました。とはいうものの、投票では共和党は全員一致で反対票を投じ、民主党も30票ほどの反対票で、230対211という僅差でしたから、この法案に対する両党の間での温度差は相当なものがあります。とにかく金がかかることが、共和党の反対の根拠であり、ただでさえの財政困難な時期に更に借金を上乗せすることに共和党は反対しています。しかし、オバマが言ったように、経済が順調であった時でさえも、誰も健康保険制度改革をやろうとしなかったのです。現在、経済的に困難な状態でこれをやらねばならなくなったのは、好ましいことでないことは、民主党もわかっています。しかし、いずれやらねばならないことですから、やるのは正解なのだと思います。時期を待っていてはいつまでたってもなされません。私は、これは現代の奴隷解放だと思っています。奴隷解放に南部が反対したように、健康保険制度に国が大きく介入して税金を注ぎ込むのは保守派白人の利益とならないと共和党は考えているのでしょう。しかし、本当に民主主義の多民族国家として長期繁栄を望むなら、今やマイノリティーに転落しつつある保守派白人の利益だけを考えていてはいけません。そういう風に世の中が動いていこうとしているのです。残念ながらそのような大きな世界の流れとビジョンをもってこの法案を考えることができた共和党員はいなかったようです。目減りしていく自分たちの地盤を守りたいという気持ちにとらわれ、歴史的、世界的見地から自分の国を見る目を自ら閉ざしてしまっているのかも知れません。

さて、日本の民主党の話ですけど、先日の民主党副幹事長であった生方氏の更迭事件、小人の為す不善というものは困ったものです。親の心子知らずなのか、獅子身中の虫となって民主党内部でのテロが目的であった確信犯なのか、ただの愚か者なのかわかりません。
 この事件は副幹事長であったにもかかわらず、幹事長、党執行部を外部で批判したことに対して高嶋筆頭副幹事長に副幹事長を解任処分されたということなのですけど、ネットで人々が指摘している大きな問題点は、この高嶋筆頭副幹事長とのやりとりを、どうも隠しマイクで録音していて、それをさらにマスコミに流したという点です。これはかなり悪質と言わざるを得ません。隠しマイクで録音するというような姑息なマネをし、幹事長会議ではほとんど発言さえしないくせに、ウラでは悪口を言う、という卑怯な態度には怒りがわいてきます。もともと読売出身ということもあって、ネットでは生方氏は民主党破壊工作員であろうというコンセンサスのようです。その後もさらに、「執行部批判をしてはいけないというのは言論の自由がない、民主党は独裁だ」という批判を「外部」でまき散らしているようで、とても見苦しいです。
 執行部批判を建設的な目的でするつもりなら、どうして、執行部幹部にまず言わないのか、文句があるなら本人にまず言うのが筋でしょう。それを、まず外部に向かって民主党の悪口を言って、その行為をとがめられたら「言論の自由がない」と開きなおるのですから、アホです。言論の自由には、まずその言論に責任を取る義務があって始めて許されるもので、なんでも好き勝手に無責任にしゃべってよいというものではありません。 言論の自由を「何でも好き勝手にしゃべってよい」ということとするならば、 風説の流布とか名誉毀損とか詐欺とかの犯罪はなくなってしまいます。自分の無責任な言動(あるいは意図的なサボタージュ)に対する処分を受けて、反省するどころか開き直るというところが、始末におえません。
「ベンチがアホやから野球がでけへん」と監督批判したピッチャーは、そのシーズンで引退しました。自民党執行部批判をした園田さんは、まず幹事長代理を辞任してから、批判しました。自らの属する組織を批判するには、それだけの覚悟をもってするものです。

おそらく、皆の想像通り、この人はウラで反民主グループと通じていて、今回の事件はすべて、民主党への支持低下を謀るための行為で、最初から筋書きがあったのでしょう。自分の党内の人間と話をする時に隠しマイクを持ち込んでマスコミに売るぐらいの人ですから。小沢氏が、その辺のことを前もって知らないわけがないのです。誰が危ない人間かぐらいは当然すべて知っていて、なおかつ、小沢氏は彼らを要職に起用しているのだと思います。あえて自分に反感をもっている人間を使って、与党の要職をつとめさせることで、多様な人間を含むより包容力のある党として成長することを目指しているのだと思います。であるのに、困り者の渡部爺とか前原氏とか今回のこの人とかには、日本の政治全体も小沢氏のビジョンも見えていないわけで、政治は昔から派閥間権力闘争で、自己利益のためには誰かを追い落とすしかないとでも思っているのでしょう、志が卑しくて、それがまた丸見えなので、見苦しいのです。
 生方氏の更迭の決定を聞いて、小沢氏は「残念だ」と言いました。この読売出身の人にも、派閥間権力闘争のような低次元のことにとらわれず、日本の国をよくするためにもっと大きな目標を見てもらいたい、と小沢氏は考えて、そのために副幹事長という役職を与えて力を発揮する機会を与えたのでしょう。しかし、親の心子知らず、小人の目は曇ったままであった、そのことに対して、「残念だ」と言ったのだろうと私は思いました。
 ネットでの大勢の意見は、生方氏は党除籍処分に値する、こういう組織の人間としての自覚もなく、辞職の覚悟もないくせに、執行部の悪口を本人ではなく、外部メディアに向かって垂れ流す、そういう害虫を党においておいてはいけない、という当然の反応です。しかし、小沢氏のビッグピクチャーには、こういう反小沢勢力も日本の政治のプレイヤーとして折り込んであるのだろうと思います。だから、これからも小沢氏は、反小沢派の人間も、多分、可能な限り引き続いて重用していくのであろうと私は思います。問題は、小人が自ら気がついて成長するのを、小沢氏はじっと耐えて待つしかできないということです。人は自ら気づかないと成長しないのです。いくらよい先生がよいアドバイスを与えても、聞く耳をもたなければどうしようもありません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ScienceからRandom samples

2010-03-19 | Weblog
3/5号のScienceのRandom samplesの欄から。
 飛行機内のよくおいてある通信販売の雑誌を見ると、普段見慣れないような商品が載せてあって面白いのですけど、そういう商品が広く流通していないのにはそれなりの理由もあることが多いのだと思います。
 東京ののAkita Electronicsという会社が作っている蚊よけのための携帯電気機器(値段17ユーロ)について、その効果がないという理由で、通信販売雑誌から外すようにとオランダの研究者が運動しているそうです。
 蚊が病気を仲介するマラリアは熱帯地方では大きな問題で、この製品は熱帯地方への旅行者を目当てにしているようです。本当に効かないのであれば、効能を信じて買った旅行者の健康を危険にさらすことにも繋がりますから、私も製品は販売中止されるべきだと思います。この製品、MozStopは販売者によると、人間や動物には聞こえないようなオスの蚊の羽音と似た音を出して、血を吸うメスの蚊を遠ざけるのだそうです。オスの蚊はメスとは一回しか交尾をしないので、一回交尾をして、血を吸うようになったメスはオスを避けるようになるらしいです。ここまで聞くと、蚊の生態を賢く利用した機器と思うのですけど、この研究者によると、メスの蚊というのはそもそも聴覚が劣っているようで、羽音は聞こえないのだそうです。2009年の論文では聴覚刺激が蚊に何の効果もないことが示されているそうです。
月間1000個のMozStopを販売しているKLMはこの商品をカタログから外すことにしたとのこと。Akita Electronicsはノーコメント。

「心頭滅却すれば火もまた涼し」夏の暑さや冬の寒さに文句を言って、勉強をさぼろうとした私に、ウチの親はよく言ったものでした。この言葉は武田信玄に迎えられて甲州塩山恵林寺に来た臨済宗の禅僧、 快川紹喜の辞世の句だそうで、織田信長に敵対した人をかばったために、焼けうちに合い、焼死を遂げた時の言葉だそうです。
 それで、モントリオール大学の研究者が熱した鉄のキューブを使って、禅僧と一般人で、熱さに対する感受性に差があるかどうかを調べたという論文がEmotionという雑誌にでたそうです。簡単には、禅僧の方が熱刺激によって痛みを感じる熱さが2度、一般人より高かったそうで、MRIでは脳で痛み刺激をプロセスするanterior cingulated cortex (ACC)という場所の厚みが増えていたそうです。(ほんまかいな?)
 火事場の馬鹿力(これはクンダリニー覚醒みたいなものでしょうか)とか人間には普段眠っているよくわからない力が備わっていますから、禅の修行などで、そうした力が使えるようになる可能性はもちろんあると思いますけど、この論文では、「2度の差」というあたりが、微妙ですね。本当のようなウソのような。その2度の差に本当に意味があるのか疑問視していまします。そもそも、対象の禅僧の数も少ないし、年齢的や性別にも差があるので、これは、たまたま5%の危険率にヒットした偶然なのかもしれませんし、温度の知覚がそう厳密に測定できるとも思えませんから、この知見が本当に生理的な意味があるのか疑問です。
 個人的には、熱湯の中に浸かったけど、真言を唱えてエイと印を結んだら火傷一つしなかった、とかいうような話を聞きたいと思います。

二年やっているあるプロジェクトが行き詰まって足踏みしていたら、いよいよ対抗グループからのスクープの危機となりました。これは、行き詰まりを口実にのんびりしていたことに対する神様からのおしかりだと思って、心を入れ替えてガンバリ直すことにしました。後一ヶ月で投稿できるレベルにならなければ、長期戦です。しかし、こういうときに焦りは禁物、焦ると判断を誤ります。そう思ってとりあえず、ブログのエントリーでもして気持ちの切り替えを図っておりますが、これからどうも忙しくなりそうな感じです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

晩節を汚す

2010-03-16 | Weblog
講談社のウェップサイト、G2 (http://g2.kodansha.co.jp/) に先月、小沢氏に関して、立花隆からの緊急寄稿があり、その内容のヒドさにあきれた人々のブーイングの嵐にあって、その寄稿がウェッブ上から取り下げられるという事件がありました。私も読みましたが、あきれるほど思い込み、偏見と悪意に満ちたヒドいもので、これが仮にもプロのジャーナリスト、しかも、よくも悪くも有名人である立花隆が書いたものかと思うと情けなくなりました。救いはそこに寄せられているその寄稿に対するコメントでした。95%ぐらいがその偏向した文章に対する批判をしているわけです。その一般読者の冷静かつ公平なものの見方を知って、これは日本人がバカになったのではなく、立花隆の方がおかしいのだということがわかって私はほっとしました。
 私が大学に入り立てのころ、学生自治会執行部は社会党下部組織で、学生の権利向上の運動をやっていました。それより十年ほど前、学生運動の内ゲバをとりあげた「中核対革マル」という立花隆の本がベストセラーになっていたのは私も覚えています。私は読んだことはありませんけど、当時の執行部の筋金入りの学生運動家は、立花隆のことをボロクソに言っていたのを覚えています。つまり、体制側の人間だというのです。当時、若い貧乏な大学生にとって、学生は弱者であり、体制は弱者を搾取し権利を侵害する悪者であるというのが常識でした。事実、国立大学は学生への福利厚生を縮小していっている最中で、大学寮や寮食堂という赤字部門の切り捨ては、バイトで生活費を稼ぎながら大学に通う学生にとって切実な問題でした。そういう嫌でも毎日の生活の問題と直面せざるを得ないあまり裕福でない家庭の学生がその大学生活の権利を守るために組織しているのが自治会なわけで、そこでは、当然、体制側につくものは皆、敵であるという意識があったわけです。立花隆が共産党を批判したり、角栄を批判したりしてみても、現体制が崩れない限り、立花隆自身は安泰であり、好き勝手が言えたわけです。身を張って自らの生活を守るために運動している活動家や政治家とはそもそも考え方も視点も違うといえるでしょう。そういう意味で、当時の若い大学生が「立花隆は所詮、体制側の人間だ」と斬り捨たのだろうと思い返すのです。
「田中角栄研究」「田中角栄いまだ釈明せず」「ロッキード裁判批判を斬る」という本では一貫して、角栄を攻撃し、最初の連載は角栄退陣のきっかけとなったそうです。田中角栄に金権政治というレッテルを貼付けたのは彼の仕事だと思います。日本人の清貧根性を煽ったのでしょう。事実、角栄自身は無罪となることを確信していたそうですから、角栄は日本の司法を多少は信じていたのでしょうし、信じたかったのだと思います。彼の言葉、「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」は心からのものだと思います。そのためにはアメリカ支配を終わらせて、日本を自立した民主主義の国にしなければならないと考えていたでしょう。この立花隆の連載が、角栄の退陣とその後の闇将軍化のきっかけになったのであれば、それは日本がアメリカ支配から脱却する折角の大きなチャンスを潰してしまったのではないかと考えることも可能ではないかと思います。
 このG2の立花隆の記事は、コメントで読者からの指摘もあるように、脱アメリカを目指す小沢民主党に対するただの攻撃で、 まるで清和会系議員やあるいはCIAそのものから小沢氏攻撃記事を書くように指示でも出ているとしか思えないような書き方です。CIAの手先ならば角栄批判も小沢批判も納得がいきますし、そうであるなら尚更、この時期に取材もろくにしないで論理の破綻した文章を緊急寄稿までして、小沢氏のネガティブキャンペーンを派手に張るのかも理解できます。

小沢氏は、正直に「政治には金がかかる」と言いました。政治だけではありません、何らかの仕事をするのに金は必要不可欠です。そもそも、そのために金というものはあるのです。私が読んだり聞いたりして知る限り、角栄や小沢氏が集めた金のほとんどは、 私腹を肥やすためではなく、政治家としての職務の推進ために使われているようです。小沢氏ほど金に潔癖な人はいない、という政治家もいるほどです。無論、角栄が嵌められているのを最も間近で見てきているのですから、金の扱いには細心の注意を払っているはずです。検察が言うような裏献金で土地を買ったりするようなマヌケであるはずがありません。本当にウラ金ならそれをわざわざ表に出して、書類に記載するわけがないでしょう。ウラ金は帳簿に残らないようにウラで使われるものです。
 金が大事なのは、政治家に限りません、過去数年、私も研究資金が乏しいために、やるべき研究をあきらめざるを得なかったことがたびたびありました。もう少し金があったら、もっとよい実験ができたのに、とホゾを噛むのは切ないものです。
 話が脱線しました。立花隆の記事のことでした。そもそも、評論家というのは、人の仕事を異なる視点から見て新しい解釈を発見するのが仕事です。人の仕事の自分に都合の良い部分だけを単純にまとめて、偏った主観に基づいて感想を言うのは、評論とは言えません。この立花隆の一連の小沢氏に対する寄稿は、小学生の感想文なみ、はっきり言って、産経新聞の社説とどっこいどっこいです。

私が読んだ立花隆の本は科学関連の二三とあと「臨死体験」という本を読んだだけなので過去の政治的スタンスを著書からは知りません。しかし、「臨死体験」のような長編を読めば、著者がどういう人物かぐらいはわかります。臨死体験の研究というのは、死にかけた人の体験談から、死後の世界はあるのか、ないのか、あるとすればどういう形であるのか、というような問題を考えるものです。これは「科学的に証明する」ことが困難な問題であるので、議論では、客観的に各証拠を吟味して、理論的に、もっともコヒーレントと考えられるモデルを作りあげていく、という高度な作業が要求されるものです。いわば、理論物理学で宇宙のなりたちを研究するのと同様です。「臨死体験」を読んで思ったことは、取材の量はそれなりにあるのですが、その取材で得た証拠を客観的に吟味するという点に欠けていること、結論に至る論理が通っていないこと、そして明らかに「死後の世界など信じていない」という主観に基づいて結論を述べている部分が多々あることです。彼は科学者でないですから、厳密な論理というものに弱いのかもしれませんけど、私は反発を禁じ得ませんでした。これが科学論文であるなら、 結論が十分に証拠によってサポートされていない、論文の体をなさないもので、その先入観と思い込みには辟易とさせるものがあります。

ところで、緊急寄稿では3部に別れていて、一回目は、「異例の再聴取の裏を読む『小沢はもう終わりだ』」というタイトルで、検察が不起訴を発表する直前に出されており、「小沢氏は逮捕、起訴されてあと1-2日で、政治生命は終わりとなる」と予想しています。(大ハズレですね)二回目は、「『小沢不起訴』の先を読む」、三回目は、「小沢と検察、両者の会見から読み取れるもの」とのタイトルです。一回目に「小沢はもう終わりだ」と大上段に振りかぶっておいたくせに、その舌の根も乾かぬうちに三回目では「小沢の政治生命安泰、検察の組織安泰という日々がつづくのではないか」と結論しています。支離滅裂です。この一連の緊急寄稿は、根拠も示さずに悪意のある意見を垂れ流すただの誹謗中傷以上の何ものでもないと私には思えます。事実、コメントを寄せた殆どの人がそう感じているようです。
 それでネットでの批判が高まってきて、講談社は一端この記事を引っ込めたのですけど、先日、恥ずかしげもなく、あらためて「ドキュメント小沢一郎問題」というタイトルの駄文を先の記事を組み入れる形でG2に載せはじめたので、私も黙っておれなくなった次第です。
 例えば、その冒頭の文は、このようなものです。

政治資金規正法違反事件として、三人の秘書は訴追されたが、小沢一郎民主党幹事長自身は訴追を免れたため、まさに「免れて恥なし」そのままの行動を取りはじめている。

この人は、言いがかりとも言えるような疑いで(事実、疑惑が何であったかさえよくわからない事件でした)あれだけ検察がとんでもない捜査をした挙げ句に、何も見つけることができなかったという事実をどう考えているのでしょう。推定無罪を覆そうと検察があらゆることをやった挙げ句、逮捕も起訴もできなかったということです。これはまさに「潔白」の正式な証明であって、潔白であるということが証明されたのに、何を逃れた、何を恥るべきだと、言っているのか、と思います。これは、最初から「小沢は黒である」という自分の中での結論からすべての話が進めている証拠です。ジャーナリストとして偏見を排除して、公平、客観的立場から物事をまず見るという基本の姿勢がなっていません。この一連の文章の恣意的な証拠の使い方、ねじれた論理を一々指摘していたらきりがありませんのでやりませんが、普通の頭脳のもつ人が一読すれば、開いた口がふさがらないというレベルですから、百聞は一見にしかず、この記事を読んで、このような人が、そのかつての名前を使って大出版社からこのような程度の低いプロパガンダ記事を垂れ流しているという日本の憂うべき現状を実感していただけたらと思います(http://g2.kodansha.co.jp/?p=3793)。(コメント欄の記事批判の意見がまともなのでまだしも救われます)
現時点でコメント欄は、殆どが批判コメントですけど、この調子でブーイングがひどくなると、講談社はまた記事を撤回するのでしょうかね。

仮にも「知の巨人」と異名をとった人が、このような低レベルの記事を出して、都合が悪くなったら引っ込めるというような行動をとるのを見て、「晩節を汚す」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アカデミー賞監督賞を勘ぐる

2010-03-12 | Weblog
アカデミー賞での監督賞は、アバターのジェームスキャメロンとハートロッカーのビグローとの元夫婦対決の末、ビグローがアカデミー賞を取りました。ハートロッカーの方は見ていないので、イラク戦争での爆発物処理班を描いたもの、という情報しか知りません。アバターは見ました。3D効果を駆使したファンタジーの映像は圧巻です。巨額の制作費と長い製作期間を費やしただけあって、映像は素晴らしいと思います。今も世界最高興行収益記録を更新中だそうで、この巨額の制作費も公開2週間でペイしたとのこと。こういう映画を撮れる監督はなかなかいません。構想に10年以上、ようやくコンピューター技術が追いついたものの、その製作には途方も無い時間と金が必要でした。その映画作りの意義と興行的投資の成功性について多額の金を出してくれるスポンサーを説得することができるだけのトラックレコードと器量と実力がキャメロンにあったからこそ可能となった仕事でした。
 金にまかせて作った娯楽映画、と斬り捨てる日本の映画評論家もいるようですが、それはとんでもない誤解というか僻みでしょう。日本では政治家などにも金銭的なクリーンさを求めますが、この清貧根性はかなり有害だと思います。金は社会と人間の潤滑油であります。金は集めると大きな力となり、このような巨大プロジェクトを遂行することが可能となるのです。「この人に賭けてみよう」と思わせるだけの人間でなければ、金はやってきません。スポンサーはジェームスキャメロンをそれだけの人間であると評価し、そして、彼はその期待に答えたのです。
  確かにストーリーにはそう目新しさはありません。パンドラという星を植民地化しようとする地球人とパンドラ星人との戦いを描いています。この構図はアメリカにやって来て、現住民を虐殺していったヨーロッパ人、オイル利権を求めて湾岸戦争やイラクへ侵攻していたアメリカと同じです。即ち、この映画は、ヒューマニズムを賛し、アメリカ帝国主義を批判する映画であると言えます。自然と平和を愛し、調和の中で生きるパンドラ星人の住む星へ経済目的で侵攻していく地球人。出てくるキャラクターは全くのステレオタイプで、その辺はちょっともの足りませんけど、メッセージを伝えるにはシンプルである必要もありますからこれで良かったのでしょう。
  一方、監督賞となったビグロー氏、オスカーが手渡された時に様子をちょっとだけ見ました。いきなり、「イラクやアフガニスタンで命をかけて働いている軍人の人に捧げたい」と言ったので、私はシラけてしまいました。イラクやアフガニスタンでアメリカのしていることは侵略ではないか、とムッとしました。いきなり住んでいる街に武器を担いで侵攻してきたアメリカ兵がイラクの一般人にどんなことをしているのか知った上で発言しているのなら、悪質だと私は思いました。その時に、この映画が監督賞になった背後には絶対に政治的な意図があると私は思いました。映画を見ていないので、この部分はあたっているかどうか知りませんけど、その受賞スピーチからしても、この映画は、「アメリカ軍は世界平和のために身を賭して頑張っている、兵士を応援しよう」みたいな「偏った」メッセージのプロパガンダではないのかと勘ぐってしまいました。きっと映画のスポンサーも武器商人かオイル会社でも絡んでいて、アカデミー賞と引き換えに、授賞式ではアメリカ軍人を讃えるスピーチをするように指示でもされていたのではないでしょうか。そうとでも思わなければ、58歳にもなる大の大人が、「お国のために一生懸命働いている兵士に賞を捧げます」みたいなオボコいことを、多くの国民が見ている前で言えるわけがないでしょう。確信犯とはこのことだ、と私は思いました。
  多分、ジェームスキャメロンも含めて、会場にいた人の半分は、この監督賞にウラがあると感じたに違いありません。この映画のプロデューサーがアバターではなく、ハートロッカーに投票するようにとアカデミー賞選考委員にe-mailを送ったという醜聞もありました。そうなると、ますますクサいです。そもそも、この興行的にはパッとしない映画がアバターと賞を競うということそのものが怪しいです。つまり、ジェームスキャメロンの元夫人が監督した映画だから、元夫君の大ヒット作と競っているという話にすれば話題性が高いというプロモーション上の理由があったのではないのかと思うのです。そして、(映画は見てませんから邪推ですけど)映画の筋からすると、非人道的テロを行うイラクのテロリストが「悪者」でそれと闘うアメリカ軍人が「正義の味方」みたいな描き方をしているようで、これは、一見ヒューマニズムの皮を被ってはいるようですが、事実はアメリカのイラク侵攻やアメリカ帝国主義の正当性を訴えようとしている映画ではないのか、と思えてきます。
  一方、アバターはアメリカ帝国主義批判ですから、いくらこの映画の出来がよくても実際にイラク戦争で儲けている連中は面白くないでしょう。そう思った連中がハートロッカーを利用して、反アメリカ帝国主義映画、アバターにぶつけた結果が、今回のアカデミー監督賞の結果ではないのだろうかと私は思いました。
  もし、この賞にそのようなウラの政治的意図がなく、純粋に映画の内容だけでアカデミー賞選考委員が(何の指示もなしに)決め、ビグロー氏の「アメリカ軍兵士に捧ぐ」スピーチが、心からのものだとすれば、アメリカ人のナイーブさはかなりの危険閾にあると私は感じます。(そんなわけないでしょうけど)

追記。このエントリーアップの直後、アカデミー賞より以前に出たハートロッカーのある批評を読みました。それによると、この映画はむしろイデオロギー的メッセージに欠ける(すなわち、サスペンスとアメリカ兵だけを描いた視野の狭い)映画であると酷評されています。

厄介なイデオロギーの問題には踏み込まず、戦闘をスリリングに描くことに徹した『ハート・ロッカー』は物語の背景を観客に示さないだけでなく、背景の欠落を示唆するヒントも与えてくれない。戦争サスペンスとしては見事だが、ただそれだけの映画だ。

しかし、イラク戦争のプロモーションに利用しようとする側の立場からすれば、こういう映画は利用しやすいと思われたのでしょう。とすると、ビグロー氏自身、きっと本当にこの戦争の意味など知らない(または、興味が無い)のでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Nierenberg死去、iPS研究所

2010-03-09 | Weblog
1/25/10、Nierenberg死去。RNAの三つの核酸の組み合わせが、アミノ酸を決定しますが、その対応を最初に発見しました。
 生化学者で、in vitroでの蛋白合成系を確立し、それを用いて有名なpoly-U実験を行いました。Uridineの連続するRNAを蛋白合成系に入れるとフェニルアラニンの鎖ができることを発見し、UUUがphenylalaninをコードすることを明らかにしたのが、1961年でした。当時の遺伝学業界では、未だに遺伝子は蛋白かDNAかというような議論もあったぐらいです。遺伝子暗号解読が50年も前に始まっていたというのは驚きです。この50年、長いような短いような、すごく進歩したような、そうでもないような、不思議な気持ちにさせられます。Neirenbergのように生命科学の中心にいて、その進歩と一緒に生きて来た人は、この50年をどう考えたのか興味があります。因みに、Nature追悼文はHarvard MecialのPhil Lederが書いていました。

京大iPS細胞研究所所長に山中教授就任とのニュース。4部門18グループ、人員は120人だそうで、オープンラボ方式で研究者間の交流を密にし、研究スピードを加速させるのだそうです。
 この組織は多分、臨床応用を目標とした工学的な研究所になるでしょうから、皆で集まってトップダウンでやっていってもそれなりにうまく行くのかも知れません。しかし、引くに引けない立場に祭り上げられたようにみえる山中さんの心中は果たしてどうなのでしょう。察するに穏やかではないものがあるのではないでしょうか。世間の期待は必要以上に大きく、本来、基礎研究者である山中さんにとっては、それをかなり重荷に感じているのではないかと想像するのです。実際の所、iPS臨床応用の勝算をどれくらいと見積もっているのか本音の所を聞いてみたいと思います。私には、iPSの将来が(臨床応用という観点からは)それほど明るいものには見えないのですけど。
 研究者は研究資金のあるところに引き寄せられますから、iPS研究所には勝算はなくとも集まってくる人々はいるでしょう。そういう人々は成功しなければ別の所に去っていくわけですが、所長となってしまえば話は別と思います。山中さんの場合、うまくいかなかった場合に、新しい所長を見つけて辞任して責任を取るということは難しいでしょう。多分、研究が期待ほど進まなければ、研究所は閉鎖になって別の組織に変わるのでしょうけど、山中さんは最後の最後まで運命を共にすることになると思います。
 思うに、研究者であれば、誰も好き好んで研究所の所長などやりたくないと思います。周囲が必要以上に興奮して先走ったのではないでしょうか。口説き文句にのせられて、軽い気持ちで山中さんは(多分研究費につられて)つい「ウン」と言ってしまっただけなのに、言質を取られ、神輿にのせられて、突っ走らなければならなくなったのではないか、そんなように思います。
 研究室を主宰し子分を抱えた身となれば、運営資金確保が第一の関心事であるはずです。政治の世界同様、秘書や書生を沢山抱える小沢さんのように、とにかくまず、研究者を喰わせて働いてもらわねばならないわけで、研究は(政治も)先立つものがなければ成り立ちません。所長就任と引き換えに、そこへ巨額の研究費を目の前に積まれたら、誰でも反射的に手が出るというものです。これはよくも悪くも子分を養って行かねばならない日本の研究室の宿命とも言えます。そういう点で、ノーベル賞をもらったあとも、数々の研究管理職のオファーを蹴って、生涯、一研究員を全うしたフランシスクリックは、幸せだったとも言えます。そういうしがらみなく、自分の興味のままに研究を続けることは、日本では(世界中どこでもある程度そうですが)困難でしょう。
 もう一つの興味は、この研究室に集まる研究者が、どういうつもりでその研究所にやってくるのか、という点です。グループ長もポスドクもハイインパクト論文を出して、更に上のポジションを目指そうとするわけでしょう。とくに少ない正式ポジションを奪いあうことになるポスドクの人にとっては、同僚は皆、少なからぬ利害相反のあるライバルでもあります。オープンラボにしたからといって、研究の交流がそう簡単に促進されるものではありませんし、研究スピードも加速することもまず見込めないでしょう。iPSがそうであったように、ブレークスルーは小さな要の場所に起こります。それは線形的に研究者の数を増やしたからといって生まれるものではなく、ある時、ある場所で、突然おこるものではないでしょうか。一人の赤ん坊が誕生するのには、産婦人科医が何百人いても十ヶ月はかかるのです。数を増やせば研究の質が必ずしも上がるというものではないでしょう。iPSの臨床応用を目指した研究が、京大という場所で120人程度の人間で力任せにやっても成功するとはちょっと思えません。その類いの研究は企業が本腰を入れる気になれば、その何十倍もの規模でやるはずで、そうなると大学付属の研究所に勝ち目はないでしょう。
 大学の研究室では大学研究に向いた研究、もっと先鋭的で小規模の研究、をやるべきではないのかと思います。iPS研究所のようなどちらかと言えば工学的、トップダウン式の研究所で、比較的目標がはっきりしている場所では、各研究員がユニークな業績をあげることが、より難しくなるような気がします。業績が出なければ職もないというのが、限られた資金を奪い合う競争社会である研究者の宿命です。
 一つの目標をめざして「皆でやろうぜ」と和気あいあいと研究が進んで全員が成功すればよいのですけど、そんなことは現実にはありえません(同じ研究所の研究者同士ライバルなワケですし)。アカデミアでは誰かが浮かべば誰かが沈まねばならないワケで、大学付属の研究所でこのようなフォーカスした研究施設が長期的にランするのか、と私は人ごとながら少し心配です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偏見と差別について(4)

2010-03-05 | Weblog
偏見は、ある意味、専守防衛のための武器です。一方、武器である以上、使い方を誤り、偏見を他人への先制攻撃に使うことは「人権や公民権の侵害」に繋がります。防衛であれ攻撃であれ、同じ武器が使われる以上、ここの線引きは、意識的でなければなりません。
 偏見が確かに人権や公民権の侵害の基礎になる場合もあるでしょうけども、そのオーバーラップは実はそんなに大きなものではないと思います。例えば、ヨーロッパ人がアフリカ黒人を奴隷として使って富を得たという歴史における、黒人の人々の人権の蹂躙は、偏見に基づくというよりは、他人を自己利益のために利用しただけのことであり、アフリカ黒人が手に入る前は、もっと立場の弱い子供などを過酷な炭坑労働などに使用していたわけです。これは子供に対する偏見ゆえではありません。むしろ、そういったシステムを固定化する上で人は偏見を利用したとも言えます。
 偏見がもとになって人権や公民権の侵害が起きている例がどれぐらいあるでしょうか?それは、実際には子供が面白半分にするいじめや社会的弱者の人を攻撃するような例に限られるのではないかと思います。むしろ逆に、公民権、人権の侵害があって、その事実に基づいて形成されるのが偏見というものではないでしょうか。ちょうど、検察とゴミメディアがよってたかって作り上げる冤罪のようなものです。この例において、世間が持つ偏見は、冤罪を作り上げた検察やゴミメディアが「風を吹かせて」つくりだした人為的なものであって根拠を欠くものです。こういうのはいけません。
 イラク侵攻の時、多くの一般アメリカ人は、911のテロを忘れるな、と言いました。イラクに侵攻することは、アメリカを守ることだ、アメリカを守るためには先制攻撃は正当化されるべきだ、という悪名高いブッシュドクトリンのもと、イラクの人々の人権、自治権を踏みにじり、武力侵攻しました。彼らのとっては、イラクに侵攻することと、空港のセキュリティーチェックは殆ど同じレベルで考えられていて、そこにあるのは、自分の権利の保護(そのためには他人の権利は考慮しない)という態度です。それに、今では、イラクとテロは無関係であったことを人々は知っています。それでは、イラク侵攻支持した人は、この行為を今、どのように正当化できるのでしょうか(できません)。自分の権利を守るために他人の権利を侵害する人は「偏見」を有意義に使いこなすことはできません。そういう人は、ひたすら「偏見」を無くす努力をすべきです。一方、偏見が越えてはならない線を意識的に守れるのならば、あえて偏見を無くさないといけないとは思いません。
 そもそも、偏見をなくすことは容易ではありません。それは自己防衛メカニズムであると同時に自己のアイデンティティーに密接に関連しており、感情の問題をも含むからでもあります。そういうことを鑑みると、学校で教えるべきことは、偏見が危険を未然に防ぐ防御機構であるのを通り越して、他に対する攻撃に転じる場合の「行為」を戒めることであろう、と私は思います。人権、公民権というものが法律で保証されている限り、その侵害はやってはいけないことです。一方、偏見を持つのは、言ってみれば個人の自由です。しかし、その偏見によって、他人を攻撃するようなことは、例え法律で禁止されていなくとも、やってはならないことです。
 偏見に基づく行為の中でも微妙なものがあります。例えば「差別をする」という行為には、許されるべき差別とそうでないものがあるのではないかと私は思います。「君子危うきに近寄らず」は比較的passiveな差別でしょうけど、もっとaggressiveな差別もあります。例えば、アメリカの大学では人種や性別によって、優遇枠や逆優遇枠があります。アジア人学生の数は制限されている一方、黒人やヒスパニック系の人は優遇されます。良い大学に優秀なアジア人が入れず、そうでもない他人種が入れるということが起こります。この差別行為は、学生の多様性という大学の利益を高める、あるいは、大学がアジア人だらけになってしまうリスクを回避するための方策で、「学力には人種差がある」という偏見がその根拠となっているわけです。しかし、こういう大学の差別や空港セキュリティーの差別は、私は容認されるべきであると思います。なぜなら、これらのケースでの被差別人の利益と被差別者をも含むシステム全体との利益が相反しているからです。その場合、差別者側の利益が優先(そのために差別するのですから)されるのはやむを得ないのではないかと思います。
 従って、学校が小学生に教えるべきことは、「偏見をなくそう」などということではなく、法治国家の市民として、他人の人権や公民権を侵害してはならない、という遵法の精神であろうと私は思います。「偏見をなくす」というのは、ほとんど「汝の敵を愛する」ことと同義です。そもそもできないことなのであって、現実の世の中で言葉どおりに実践しようと危険です。偏見のない世の中というのは、理想であって、現実の反省の糧とするための喩え話なのであろうと私は思います。

 それでは、私たちはどうするべきでしょう。偏見と差別に満ちた世の中を偏見も差別もない良い世界に変えれたら素晴らしいですけど、まず、できない相談です。「人を変えようとしても簡単ではないが、自分なら変えれる(可能性がある)」のですから、プラグマティックには、自分がまず変わることが大切です。偏見や差別があるのは世の常であることをまず受入れること、それに巻き込まれないように気をつけること、そして、最後には自分自身の持っている偏見を少しずつ取り除いて行く努力をすること、そうやっていくしかありません。大事なのは、他人の偏見を非難する前に自分の偏見を取り除く努力をすることです。これは簡単なことではありません。偏見は、小学生に「偏見は止めましょう」と言って止まるようなものではなく、長年の努力が必要なことであると私は思います。
 
 ところで、このエントリーを書く一つのきっかけになった子供の小学校での差別教育についての後日談を少し。先日、偏見と人権、公民権侵害についての「教育実習」をうちの子供は受けたわけですけど、その担任の先生との個人面談がありました。その若い女の先生は、学校で「偏見や差別はよくないこと」を教えるという目的で、クラスの半数の子供を一方的に被差別者となるようにあてがったのだそうですが、子供によると、その被差別者にされた子供たちはランダムではないと言うのです。被差別者になった子供は一人を除いて全員が男の子で、一人の女の子はその担任の先生が好ましく思っていない子供だというのです。子供のよく話を聞いてみると、担任の先生は明らかな依怙贔屓をするのだそうです。うちの子はあいにく嫌われている方だそうで、クラスの男の子は全員がその先生を嫌っているのだそうです。その個人面談では、うちの子は教師に対する尊敬の態度に欠けるみたいなことを言ったそうで、続けて家庭でのしつけに問題があるようなことをほのめかしたと聞いて、私は「カチン」ときました。尊敬というものはearnするものであり、教師だから自動的にもらえるようなものではないと私は思います。子供を公平に愛情をもって指導することに対する対価が教師に対する尊敬というものです。自分の子供の時を振り返っても、良い先生、悪い先生はいました。尊敬されている先生もいれば、軽蔑されている先生もいました。尊敬される先生は尊敬に価する人間でした。軽蔑されている先生は軽蔑に価する人でした。この先生は、自ら偏見と依怙贔屓を実践していながら、「偏見や差別はよくない」と子供に教え、尊敬に価しない行動を示しながら、子供にもっと尊敬しろ、と教えているようです。それでは、子供は混乱するでしょう。六祖慧能は言いました、「わしは、見えもするし、見えもしない。それは、自分の過ちを常に見ているという意味であり、人の過ちを見ない、という意味である」この先生のやっていることは、その逆ですね。自らを教育できない人間に他人は教育できないでしょう。残念ながら、自分が見えていない人に改善の見込みはありません。子供には、「先生だから」あるいは「親だから」というような偏見に捕われずに、自分の目でその人をじっくり評価してもらいたいものだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

偏見と差別について(3)

2010-03-02 | Weblog
気軽に書き始めましたけど、この話題はちょっと気が重くなってきました。もう少し続けます。

偏見は偏見する側にとって、とりあえず近視的なメリットはありそうです。しかし、問題になっているのは、そのような偏見で見られる側の人のことです。あるイスラム系の人は飛行機に乗る度に、しつこくチェックされて、怪しい目で見られることに最初は随分腹が立った(が、今は慣れてきた)と言っていました。これはイスラム系に対する先入観、偏見によるものです。他人を怪しい目で見ることそのものは、違法というわけではないでしょうし、人権や公民権の侵害とも言えないと思います。偏見を受ける側の不愉快はよく分かりますが、現代の法治国家において、法的なレベルで人権、公民権の侵害がないのであれば、その偏見は(現時点においては)許容されるべきであると私は思います。
 それでは、法に触れなければ野放しにしておいてよいかというのは、また別のレベルの話です。私は個人的には偏見を持つ側がその偏見にまず意識的であること、その上で偏見を排除することの危険を熟知した上で、それでも偏見を無くすように努力することが大切であると思います。

偏見にも、様々なレベルの偏見があると思います。それは連続的であって、良くない偏見もあれば、比較的良性の偏見もあるでしょう。例えば、アメリカにおいて、教育レベルの高くない白人がアジア人を嫌う感情というのは、おそらく自己利益を脅かす存在とみなしているところに起因しているのではないでしょうか。第二次大戦時に日系アメリカ人をキャンプに強制収容したのは、アメリカに戦争をしかけた日本からの移民だからでしょう。現代アメリカで実際に権力を握っているのはユダヤ人ですが、普通のヨーロッパ系アメリカ白人は、自分たちこそが「本当のアメリカ人」だと思っているでしょう。権力を握っているユダヤ人は、ヨーロッパ系白人と対立しないよう表に出ないで、うまくヨーロッパ系白人を含めたアメリカ人を搾取するようなシステムを創り上げています。ですので、普通のヨーロッパ系白人は自分の生活がもっと良くならないのはユダヤ人のせいだとは考えず、後からやってきたアジアや南米からの移民のせいにしたがるのではないでしょうか。これは自己利益を脅かすものを嫌っているわけで、同じ白人でもかつてアイルランド系や東欧系が随分差別を受けたのと同じ理由であろうと思います。既得権を握っているユダヤ人は、ヨーロッパ系白人と対立しないように表に出ないようにしています。一方、後発移民のアジア人には、そんな余裕はありません。生き残って行くために中国系アメリカ人は、子供に勉強や音楽を叩き込みます。そういう中国系と普通のヨーロッパ系白人が真っ向勝負すれば、当然ながら中国人が勝ってしまうわけです。アジア人に対する蔑視というのは、そういう「人種」ぐらいしか誇るべきものがない持たざる白人の劣等感の裏返し、代償行為であるとも考えられます。事実、同じヨーロッパ系白人でも、教育レベルが高く社会的に成功している人々ほど、人種偏見は少ないと思います。こういう偏見は自己利益と繋がっていますから、ちょっと厄介です。欲求不満のはけ口として、他人種を憎むのですから、KKKのような病的で攻撃的な人種主義者と変化する可能性があります。

一方、もっとイノセントな偏見もあると思います。偏見は単純な好き嫌いの延長であることもあります。ニンジンやピーマンが嫌いという同じ感覚で、聖を好み凡を嫌う人もいるでしょう。ニンジンが嫌いな子供に「食べ物を見た目や味で差別するべきではなくて、栄養価を考えて判断すべきだ」と説教するナンセンスは誰でもわかるでしょう。「それでは、味や見た目と栄養価は差別しても良いのか」と反論する子供もいることでしょう。同様に、人間に対する好き嫌いは誰にでもあります。好き嫌いは感情の問題であり、理性で完全にコントロールすることはできません。同様に、偏見の少なからぬ部分が感情の問題となっていますから、偏見を理性がいくら、「良くない」と抑制しようとしても、なかなかどうにでもなるものではありません。そう言う意味で、「偏見は良くないから、無くしましょう」という考え方そのものがプラグマティックではないと私は思うのです。それは「戦争や核兵器はよくないから、無くしましょう」と言ったところで、無くならないのと同じです。戦争をなくそうと思うなら、戦争をする必要のない世界を構築することなしにはなくなりませんし、同様に偏見は、偏見を持つことが何の価値もないような社会にならない限り、無くなることはないのだろうと思います。ですので、現時点で気をつけなければならないことは、偏見そのものを無くすことはすぐにはできないのだから、それが違法行為に繋がらないように監視するということであろうと思うのです。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする