百醜千拙草

何とかやっています

シャコンヌとノリ弁

2014-05-30 | Weblog
どうでもいい話ですが。

ここしばらく書きものの日々でストレスが溜まります。集中できないときなどに音楽をかけたりしますが、ここしばらくはずっとバッハです。最近は無伴奏バイオリンのためのパルティータの中の一曲にある有名曲「Chaconne」をバイオリン、チェロ、ギター、ピアノに編曲されたもの、いろいろなフレーバーで聞いています。
ピアノの編曲はブソーニが編曲したものが主に演奏され、私も最初はフランス人美人ピアニスト、エレーヌ グリモーの演奏でこの曲を知りました。またこの曲はブラームスが左手だけで弾くように編曲したバージョンもあり、これは右手を痛めたクララ シューマンのためにブラームスが左手だけで練習できるようにと編曲したもののようです。知りませんでしたが、シャコンヌはもともとは南米のダンス音楽だったらしく、それがヨーローッパに輸入され、スペイン、イタリアでチャコーナとなって流行して北上し、フランスやドイツで独自のアレンジをされたようです。1600年ごろにヨーロッパ上陸、バッハがバイオリンのためのパルティータの最終曲として書いたのがそれから一世紀余り後ということになります。チャコーナは一時はエロティックすぎると演奏が禁止されたという話も聞きました。確かにこのバッハの曲でも珍しく情熱的、耽美的なメロディーが聞かれます。

ピアノも悪くないですが、やはり弓を使う弦楽器のもの方が味わいがあっていいですね。二台のチェロでの好演奏を見つけました。



バッハは聞いているうちに、自分でも弾いてみたいと思って、週末に、少しずつ練習しはじめました。私は、小学校の時、ピアノの練習に通って、バイエルの一冊も終わらないまま、ドロップアウトした暗い過去があります。以来、大学に入るまで、余りピアノを触ったことさえなかったのですけど、どういうわけか、学生時代に渡辺貞夫さんの「ジャズ スタディー」を読んで衝撃を受け、再びたまにピアノに多少、触るようになりました。「ジャズ スタディー」は演奏や編曲のための実用的理論書ですが、個人的に最も衝撃を受けた本のうちの一冊です。

しかし、バッハには付け焼き刃の音楽理論はあまり役に立ちそうにありませんでした。(多分、和音進行が先でその上にメロディーを乗せる従来のジャズやポップスのやりかたと、複数のメロディーの流れの中に和音をつくるバロック時代の音楽との曲の構造に関する捉え方の違いではないかなと勝手に分析しています)
真面目にバッハのピアノをやる人は、インベンション、シンフォニア、とやって平均律へ進むのが正道のようです。多分、平均律の真ん中ぐらいまでやれれば、私の目標のピアノのパルティータの二番を通しでできる位の基礎はつくのだろうと思います。この目標は死ぬまでに達成すればいいと思っているのですけど、私の場合、インベンションから順を追って平均律に到達するころには、寿命が尽きている可能性もあります。私はパルティータが弾きたいので練習しようと思っているのに、練習段階で人生が終わってしまっては悔しいです。それで、弾きたいのをいきなり練習することにしました。ショートケーキの苺は最初に食べる方が理にかなっていると思います。とは言っても、楽譜を見てみるとパルティータ二番の第一曲目の後半と最後のカプリチョはいきなりとても手出しできそうにありません。それで比較的ゆっくりして簡単そうなサラバンドとアルマンドからとりあえずやることにしました。これらは基本的に二声の対位法で書かれているので、インベンション前半のレベルだろうと思いました。より簡単なサラバンドからやり始めました。しかし、週末にちょっとだけ練習するだけですから、悲しいことに、このたった二ページが弾けるようになるのに数ヶ月かかりました。今は、アルマンドの前半を何とか間違えながら弾けるようになったぐらいですが、その進歩の遅い事には我ながら情けなくなります。死ぬまでに全曲、通して弾けるようになる可能性は今のところ、大変低いだろうと思わざるを得ません。

しかし、スキーと同じで、ちょっとずつでも進歩するというのは楽しいですね。こういうのは、自分を何かのカタに嵌めて行く作業です。若い時はそんな作業が楽しいと思えるとは思いもよりませんでした。自分をカタに嵌めて行って、そのうち、自分がカタに嵌っていることさえわからないほど、自然に振る舞えるようになる、ピアノの練習はそんなプロセスに似ています。言葉を覚えるのも同じでしょう。ウチの子供が小さい時は、何を言っているのかわからなかったし、文法もメチャクチャでしたが、だんだんと普通に喋れるようになり、いまでは無意識に正しい文法で正しい言葉を喋っています。

思うに、社会的な人間の成熟というのも、やはり同じプロセスを経て行くように思います。社会があって個人があるのではなく、本来は個人があって、個人の集まりが社会をつくるのだろうと思います。魯迅は「故郷」の中で、初めから道があるの ではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る、といっていましたが、社会も似たようなものでしょう。しかし、実際は、道なしには容易に歩けないし、道から外れると苦労するのです。道から外れないように歩くことを人間は何年も努力して覚えます。そうして七十年修練すれば、「心の欲するところに従ってノリをこえず」という境地に達するのでしょう。自分をカタに嵌めていってそれが自然になるのにそれだけの時間がかかるのですね。

因みに、貧乏学生の時、深夜の麻雀での夜食に食べたノリ弁当の美味しさを私は今もよく覚えています。深夜に食べるシンプルなノリ弁当を越えるものはないと、当時は思いました。去年の夏に久しぶりに弁当屋で弁当を買いました。私は肉食をやめているので、結局ノリ弁当を食べました。やっぱり美味しかったです。やはりノリ弁を越えるものはない、まだ七十になるまでは時間はありますが、私はそう思いました。
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玉砕総選挙

2014-05-27 | Weblog
今週の月曜は、アメリカは戦没者追悼の祝日。第二次大戦以降、アメリカの戦没者はアメリカがその世界覇権を維持するために、適当な名目で仕掛けたいわば侵略戦争によるものでした。その被害にあった国でアメリカ軍に虐殺された抵抗勢力、一般市民の数は、死んだアメリカ兵の百倍はいるでしょう。アメリカ政府が死亡した兵士を讃えるのは政治的に当然のことですが、私にとってみれば、兵士は戦争という絶対悪に関わって、他の国の人々を殺し殺された被害者であると同時に加害者であると思います。靖国も同じことです。違いは、アメリカは戦勝国であり日本は敗戦国であること、つまりアメリカ軍は善であり日本軍は悪であったと政治的に決定してしまったということです。もちろん、兵士であれ一般人であれ、戦勝国であれ敗戦国であれ、人間は人間、良い事をしたり悪い事をしたりして一生を送り、死んだというだけのことです。戦没者追悼であれ靖国参拝であれ、政治的思惑のもとに行われているセレモニーに過ぎません。その偽善性に私は唾を吐きかけたい気分にいつもなります。

戦後生まれの平和の昭和の時代に子供だった私には、戦争というものの実感がありません。もちろん、戦後生まれの「男人形」、アベ氏も本当の戦争がどんなものか知りません。私の両親は戦争の時に子供時代を過ごした不幸な年代です。とくに昭和一ケタと呼ばれる世代は、育ち盛りの時と戦争が重なったので、体の弱い人が多いです。飽食の時代に何不自由なく育ち、親、先祖の七光りの世襲で政治家稼業をやっているアベ氏などにはわからない辛酸を舐めています。

ほんの子供の頃、繁華街で戦争で手足を失った人々が物乞いする姿を見た記憶があります。残った片足にゲートルをつけて戦服を着ておられたような気がします。おそらく、何とか戦争は生き延びたものの、大きな障害を受けて、働くこともできずに戦後何十年もそうやって生きてきたのであろう人々です。

「裸足のゲン」は子供には読むのが恐かかったです。「火垂るの墓」はもう少し大きくなってから読んだと思いますが、いつもは滑稽に感じる「野坂調」がなんとも切なく、つげ義春の貧しい時代の日本の漫画を読んだ時のような衝撃がずっとのこりました。死んでも地獄、生き残っても地獄、間接的に感じただけですが、それが私の戦争に対する印象です。

戦後30年、フォークソングのテーマの一つは反戦でした。子供のときに聞いた「かぐや姫」の「あの人の手紙」にも私はショックを受けました。「正やん」の歌詞は、ぐっとくるものが多いですね。さすがにオリジナルメンバーのものはなかったので、南こうせつさんのセルフカバーのものを見つけました。



曲の解説をウェッブで見つけました。

召集令状で徴兵された兵士、つまり応召兵士は、俗に一銭五厘と云われ、これは、当時の郵便はがき料金が一銭五厘であり、はがき一枚で調達し使い捨てできる兵士という意味で、すなわち職業として軍務に就いている職業軍人らが多い下士官や古参兵が、応召兵に対して、差別的な言動を伴って、よく使った言葉とのことです。

第二次世界大戦における日本は、圧倒的な軍事的戦力差のあるアメリカと、無謀にも、人的な総力と、精神力で戦おうとしました。
そして、いざとなれば、蒙古襲来(元寇)のときのように、突然に神州防衛のために神風が吹いて敵艦船が沈没し、また焼夷弾を降らせるアメリカの戦略爆撃機B29を竹槍で落とそうとしていました。
親などに聞くと、こんな荒唐無稽な話を当時の人も信じていたわけではないようです。
しかし、ただ、それを口に出すことすら、愛国心の名の下に、非国民の非難の下に、許される雰囲気ではなかったということです。


秘密保護法といい、提灯持ち新聞の大本営発表といい、漫画の鼻血たたきといい、戦前そのものの雰囲気が漂っている昨今です。

先週末の、地上げ屋さんのブログ記事もリンクします。

この自民党幹部クラスの事務所では、密かに総選挙の準備を始めたそうです。
「このハナシは・・アンタにゃ話したくないなぁ。 アベの暴走? 党内でも顰蹙だよ。 なんであそこまで突っ走るのかねぇ? エッ、ナニ? 集団的自衛権だよ!」
「まぁ実に日本的な光景なんだけど・・実質的には従来の政府見解のままでも・・大概のことは出来るんだよ。 それをまたなぜ? 与党内にもわざわざ波風立ててまで議論吹っかけるのか? コレ聞いて、オレも最初は耳疑ったけど・・アベさんは・・本気で中国と戦争しようと思ってる。 近いうち、中国が尖閣でコナかけてくるのは間違いない。

その時ナニが起こるか?
公明だよ、公明!
・・ここまで重大なハナシとなると・・党内のハト派が黙っていない。 憲法改正がスジ! スジ論で攻め立ててくる。 正論だから・・言い訳に困るわな? 憲法改正となると・・国民投票もあるので・・時間もかかるし勝算もない。 でも・・国民投票と同じだと強弁出来る手段があるだろ? そうだよ! 総選挙さ。 アベさんは・・総選挙で勝利して・・国民の理解を得た! とこう胸を張るつもりさ。 時期はもう少し先だけど・・オタクらが言うような2年後なんてのは・・ない! 遅くても・・来夏までには・・撃って来ると思うよ」
野党が全然ダメなこの時期。 解散打ってくる・・と言うのは、戦略としてあり得る選択です。与野党の勢力図はほとんど変わらず・・
"集団的自衛権行使容認に向けた国民の理解を得た" こう胸を張ることが出来ます。


ちゅうことは一年ぐらいの間に、解散して、そのまま与党に残れば、解釈改憲で中国相手に勝ち目のない戦争をする気なのかも知れません。別に国を守るための戦争ではないので、勝算は度外視なのでしょう。現状だと、アメリカはおそらく、それを許さないので、不発に終わり、梯子を外されて、アベの自爆、自民玉砕となると考えたいですが、日本同様、切羽詰まっているアメリカですから、その動きはカネ次第。わかりません。
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第二の敗戦から第三の敗戦へ

2014-05-23 | Weblog
日本のトップはやはり本当に戦争をしたいようです。
どうみても日本は下り坂、大多数の一般市民はそれでも生活をダウンサイズして日常のささやかな幸せを見つけながら平和に生きていければそれでいいと考えているだろうと思います。しかし、持っている連中は失うのが恐いのですね。持てば持つほど恐怖に捕われ、狂って行くのでしょう。彼らにとってみれば、経済力の低下に加えて、原発事故の影響が顕在化する来年以降のことを思って、不安で堪らないのでしょう。

私も戦後生まれの戦争を知らない子供です。朝鮮戦争もベトナム戦争も湾岸戦争も全部、対岸の火事でした。日本は、第二次大戦で甚大な被害を受け、戦争に負けて占領されるという屈辱を経験し、そして、戦争を永久放棄して、愚かな戦争を二度と起こさないと誓った国だと思い込んでおりました。日本がまた戦争を始めるなどとは全く想像もしていませんでした。それだけ、想像力に乏しかったとも言えます。しかし、世界では戦争が絶えたためしがありません。それは一部の連中が儲かるからです。きっかけはどうでもいいのです。それを上手に煽って国民の開戦ムードを盛り上げるのは難しいことではありません。日本においては、憲法が大きな抑止力となっていました。それに戦後の高度成長期は、本当の戦争よりも「経済戦争」の方が効率が良かったので、本気でもう一回、戦争をやろうとする動機がなかっただけのことでしょう。しかし、祭り上げられてすっかり勘違いし「私は権力の頂点にいる!」と恥ずかしげもなく口にするようなxxxの弱いのが、神輿の飾りをやっている国です。自分の意思もなく、物事を考える力もなく、将来を想像する想像力もない、振ればカラカラと音がし、吹けばヒュヒューとすきま風が吹き抜けるような張り子細工の飾りだからこそ、いつでも替えがきくし、国民が不満をぶつける対象に持ってこいだということなのでしょう。

ネットで話題になった25年前の予言の書の言葉が気味悪く響きます。

「恐怖の男・安倍氏は、男に生まれながら男人形として、日本の名で世界を歩くでしょう。『はい、わかりました』、この言葉をためらわず言える政治家は生き、少しでも躊躇した政治家に、いい役が回ることはありません」

「その人こそ、わが国が『戦争』の言葉を身近に感じる流れを作る人物であり、操り人形です。政治家たちのランクを、国民1人ひとりが見極め、日本の国のために命を捧げられるほどの人間選びをしなければ、草も口にできなくなります」

誰が、この「男人形」を操っているのでしょう。

昨年の「秘密保護法」から、学者の人々を中心にして、かなり強い懸念が上がりました。この法律が目指している先は、疑いなく、国家全体主義であり、その目的は国民を自由に操って、「非国民」を排除し、最終的には「お国(その実態は、一部の金持ち)」のために」、喜んで戦争ビジネスの捨て駒となってくれる若者を確保することでしょう。多少の想像力のある人間なら、このまま突き進む先は自明です。

岩上さんの記事から。
官邸前抗議行動に加わった現役キャリア官僚の危機感「日本は戦争へ向かう。自分は日本から逃げる」

 
本日の安倍総理の記者会見、安保法制懇の報告書を受け、集団的自衛権行使容認を発表すると思われるが、この流れを深刻に懸念していた官僚もいる。お名前は出せない。官庁名も伏せておく。現役のキャリアである。昨年末、秘密保護法が可決される直前の抗議行動に参加した。人生初のデモ体験だった。

国会前や官邸前、あるいは各省庁前でいくら反対の声をあげても、まったく政治家や官僚にはこたえない。官僚たちは日本が民主主義国だと思ってもいない」とその人物は言った。
、、、
結果として、このキャリアの危機感は的中した。秘密保護法可決からわずか半年で、安倍政権は解釈改憲に踏み込もうとしている。同省内ではかなりハイクラスのポジションにあるが、それでも上の上がいる。意見具申しても聞き入れられる状況にない、という。

「うちの上層部はもう、戦争を覚悟しており、その方向へ進もうとしている」。なぜ?という問いに即座に「一部の人は、儲かるから」。戦争は一部の人間にとってはビジネスなのだ。
、、、
「日本の財政はもうこんなに悪化している。戦争でもやって儲けるしかないと、本気で思っている」つまり官界のトップも、財界、大資本家の意を受けている、ということだ。
、、、
でも、かつて日本は戦争して、初戦の戦闘は勝ったが、資源もなく、結局は負けた。今の支配層に勝算はあるのか?
「そんなこと考えているわけないでしょう」。開戦までは考える、その先は何も考えていない。昔と何も変わらない。

そして解釈改憲となったら、もう自分はキャリアを捨てて外国へ逃げる」。
日本を捨てて逃げる、というこの言葉は、身軽な若者が吐き捨てた言葉ではない。50代の働き盛り、現役キャリア官僚の言葉なのだ。
先日来日した米国防総省元高官モートン・ハルペリン氏は、「日本の秘密保護法は21世紀の民主的政府による最悪の悪法だ」と喝破した。


日本の将来の暗いのは原発事故のせいでもあります。これは、第二の敗戦と呼ばれました。ひょっとしたら本当の敗戦よりもタチがわるいかも知れません。来年ぐらいから、放射線障害が顕在化するでしょう。悪くなるのはこれからです。福島県民健康調査検討委員会資料(PDFです)によれば、現在、悪性と判断された甲状腺癌例が50例、疑いを含めると90例です。母集団数約29万人なので、100万人あたり300人以上の発生率だそうです。これまで言われていたのは100万人当たり1-2人ですから、150 -300 倍の増加ちゅーことになりますね。スクリーニングによる発見率上昇という因子を差し引いても、150 - 300倍という数字はとんでもない数字です。チェルノブイリの例を考えると、来年にはこの数字はさらに10倍に上がる可能性があるでしょう。癌だけではなく、心臓病の発症率も急激に上がるだろうと予測されます。生命保険会社が戦々恐々とするのもわかります。

原発問題から
保険会社の幹部、死因や癌増加の驚愕データに恐怖して『どんどん退職』『東京や日本から逃げ出してる』

事故後、突然、保険系の幹部がどんどん辞めていく、またガンの利率がかわる。
おかしいと思い、話を聞くと、
【いかに政府とマスコミが隠蔽しても、保険会社というものは細かい正確な地点でどこに死者が出てその死因はなにか?ガンが増えだしたか、実に正確な情報が入ってくる。】
その驚愕のデータをみて、金融、特に保険系の幹部クラスが、恐怖してどんどん退職し、東京や日本から逃げ出している

生命保険会社に勤める知人が、「最近、ガン保険のCMがなくなったと思わへん?」と。
理由を訊いたら、外資系には共通の資料が回って来て、原発事故後のガンの発症率が上がったので売り止めがかかってると。
特に0~6歳の子供達の被爆が指摘されてて、北海道~関西圏が汚染地域として指定されている。
外資系保険会社の知人に確認とったら、間違いなく確かやと。
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だめかもわからんね

2014-05-20 | Weblog
しばらく前の内田樹の研究室でのエントリー、「半分あきらめて生きる」を読み返してみました。日本人は、半分、あきらめたり、半分、人生を降りてみたり(中島義道さん)、とりあえず今日を生きてみたり(なだいなださん)、外国人には多分よくわからない中途半端さが好きなようです。和を尊び、予定調和にそって、上下関係の中で他人の意思を忖度しながら自分の居場所を確保する、そうしてきました。そのために何かをあきらめることにそれほど抵抗がないのではないかな、と思います。人生を降りるということは、出世とか、成功とか、子供時代に植え込まれる価値観に沿ってがんばる、というのを放棄するということでしょう。かと言って、全面的に人生を降りたり、あきらめたりして、ゾンビのように生きるのもイヤだ、とりあえず、半分だけ降りてみよう、半分だけあきらめてみよう、それが日本人的プラグマティズムなのでしょうね。

「半分あきらめて生きる」という不思議なお題を頂いた。「あるがままの自己を肯定し、受け入れるためには、上手にあきらめることも必要なのでは。閉塞感漂う現代社会でどう生きていけばいいのか」という寄稿依頼の趣旨が付されていた。 、、、

人間は何かを諦めなければならない。これに例外はない。自分が平時向きの人間であるか、非常時向きの人間であるかを私たちは自己決定することができない。それは生得的な「傾向」として私たちの身体に刻みつけられている。それが言うところの「あるがままの自己」である。だから、「あるがままの自己」を受け入れるということは、「システムが順調に機能しているときは羽振りがよいが、カオスには対応できない」という無能の様態を選ぶか、「破局的状況で生き延びる力はあるが、システムが順調に機能しているときはぱっとしない」という無能の様態を選ぶかの二者択一をなすということである。どちらかを取れば、どちらかを諦めなければならない。


あきらめることは選択することであり、選択するとは決断をするということでもあります。そんなポジティブなコノテーションもあきらめるという言葉には多少あるのかもしれません。

しかし、福島原発事故に関しては、現場はとっくの昔に、半分あきらめたように見えます。半分(もしかしたら全面的に)あきらめていはいるのだが、あきらめていないフリをしている、そのように見えます。
燃料棒の取り出し、汚染水、一触即発の危機の中を、あたかもギリギリの線で踏ん張ってきたかのような報道が昨年末ぐらいまではありました。今年になって、汚染水のことも燃料棒のことも殆ど報道されなくなりました。良い進展があったのであれば、政府もマスコミもどんどん報道するはずですから、便りのないのはヤバい証拠です。

事故を起こした原子炉そのものは、放射能が強過ぎて人間が近づく事もできないお手上げ状態、加えて汚染水の問題。つまり、ただでさえお手上げなのに汚染水が余分な問題を創り出し続けているというお手上げの二乗状態に近いのだろうと思います。それこそ沈没を待つタイタニックの上で、成り行きを見守るしかない乗客の心境なのかもしれません。「これはもうだめかもわからんね」との日航機123便の機長の最後の言葉が、最近は原発事故のニュースを聞く度にしばしば心に浮かぶようになりました。

NEVADAブログの記事をリンクします。

崩れ始めた安倍総理発言:完全にコントロール

昨日、東京電力は以下のような発表をしているのです。
【福島第1原発の≪港湾内と港湾外≫の計5カ所で、海水中の放射性物質濃度が過去最高値を更新した】
その具体的な内容は以下の通りです。

港湾のすぐ北にある採取ポイントで12日に採取した海水で、トリチウムが同8.7ベクレルと最高値を更新。
南へ約3キロの地点で同日に採取した海水からもトリチウムが同4.3ベクレル検出され、これまでの最高値の
2倍超となった。

<1、2号機取水口間> 15日に採取された海水からは、ストロンチウム90などのベータ線を出す放射性物質が同840ベクレル検出され、この場所の最高値である同540ベクレルの1.5倍超となった

<2、3号機の取水口間> 福島第1原発2、3号機の取水口間で12日に採取された海水で、トリチウムが1リットル当たり1900ベクレル検出され、この場所での最高値は4月14日の同1400ベクレルだった。近くの別の採取ポイントでも海水にトリチウムが同1400ベクレル含まれており、これまでの最高値の同1200ベクレルを上回った。

時事通信は以下のようにこの事実報道を締めくくっています、
≪安倍晋三首相は昨年、同原発の汚染水の影響について「港湾内で完全にブロックされている」と述べていた≫

そして今回の最高値更新の理由を東電は以下のように述べていると時事通信は伝えています。

≪原因は分からない≫


きっこのブログでも同じ問題が取り上げられています。ご一読下さい。
消えた汚染水

港湾内の数値が過去最高値の1.5倍以上になり、港湾外の数値が過去最高値の2倍以上になったことに対して、東電は「原因は分かりません」とコメントした。海では自然界に存在しない放射性物質の濃度がどんどん上昇し続けていて、原発からは高濃度の放射能汚染水が来る日も来る日も大量に海へ流出してるのだから、「原因」は小学生でも分かると思うんだけど、東電には「分からない」そうだ。


また、海への排水に関して、次のようにあります。

一方、東電は、毎日汲み上げて巨大な貯水タンクに溜め続けてる汚染水について、「山のほうから流れてくる地下水が1日に400トンほどあり、それが原子炉の周辺で汚染されて汚染水になっている」「毎日400トンの地下水を汲み上げないと溢れてしまう」と説明した。だから、流れてくる地下水を原発より手前の「まだ汚染されていない段階」で汲み上げて海へ放出する「地下水バイパス計画」なんてのを発表して、周辺の漁協の了解も取り付け、今月の21日から放水を始めることになった。


つまり、もう汚染水をタンクに溜め続けることはできなくなり、これまではコッソリと海に流していた汚染水を、これからは大っぴらに流すということにしたい、ということです。福島原発の敷地を写真で見てみればわかりますが、1000基も林立した汚染水タンクで一杯です。毎日300トンの汚染水が増え続けて行く中で、この泥縄式応急処置を永久に続けることができないのは自明です。最後は大っぴらに海に垂れ流すというのは最初からわかっていたことでした。

それにしても、この政府や東電のやり方は姑息で卑怯です。じわじわと情報を小出しにし、国民を騙しながら、既成事実にしていって、最後はなし崩し的に認めさせるのです。原発事故の収束が不可能なのであれば、その現実を国民が認めるのは遅い方がいいと考えているのでしょう。

昔の高田渡さんの「値上げ」という歌を思い出しました。
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鼻血がとまらない

2014-05-16 | Weblog
世の中には、真実を尊び自己欺瞞を嫌う正直な人々と、カネと保身のためならなんでもする人々がおります。私は、人間の善意を基本的に信じておりますが、追いつめられたり、カネに目がくらんだりすると、豹変して賢くない行動をとる人間が多数いることも知っております。むしろ、自分の都合で主義主張をコロコロ変える人間の方が多数でしょう。与党になる前と後での民主党の豹変ぶり、与党返り咲き前と後での自民党の豹変ぶり、そういうものを目にすると、いくら人間は本当は善人なのだと思いこもうとしても、いやになります。

結局、自分の都合でコロコロする連中がマスコミや政府や国家官僚組織をコントロールしているということが今日の禍いの根であろうと私は思っています。自分一人ではビビリで何もできないくせに、アメリカ様の威を借りてアジア諸国相手に強がってみせ、軍隊を持ちたいがために、憲法を変えずにその解釈だけ変えてゴマカそうとし、その批判を封じ込めるために、秘密保護法などというクソ法案を出すような、姑息な卑怯者(それ以外に形容のしようがないです)が首相をやっているのがいい見本でしょう。自分に実力がないから、恐れ怖がり、不安で仕方がないので、強いものに媚びる一方で弱い者には強気にでるのです。精神年齢が子供です。

「美味しんぼ」バッシングは、原発新聞の読売の社説を読めば明らかですが、原発ムラのキャンペーンです。放射能汚染は事実であり、チェルノブイリの例を知っていれば健康被害があるのも当然と考えるのが普通のです。そんなあたり前のこと(自民党自身でさえ過去に黒海答弁で言っていたこと)を漫画に書かれた位で、与党になったと思ったら、手のひら返して「風評」だという言う方がよっぽど、おかしいわけです。しかし、連中に理屈は通用しません。チェルノブイリ後の忌野清志郎さんの反原発アルバムを直前で発禁にしてしまったぐらいですから、原発ムラが力づくで都合のわるい言論を封鎖しようとするのは今にはじまったことではありません。

その「美味しんぼ」を非難する読売の社説は、その第一行目からして、

あらぬ不安を煽る問題の多い内容である。


とエラそうにぬかしています。「あらぬ不安」の一言目から、この社説子の傲慢な悪意を感じます(アベ氏ではあるまいし、現実認識能力の欠如した人間が社説を書いているともおもえませんからね)私なら、「もっともな不安を指摘してあらためて問題提起した内容」とでも書きますね。原発ムラ プロパガンダ部隊の「科学的に証明されていないから、放射能被曝と鼻血は関係がない」という幼稚な論理の飛躍、小学生でも騙されないでしょう。

普通の頭があれば、チェルノブイリの疫学データから学ぼうとするでしょう。読売に限らず、原発ムラ御用メディア、御用ブロガーなどの記事を見れば、当然すべき客観的な検証を無視して、非常に感情的かつ攻撃的に「風評」と決めつけています。このことからだけでも、これらの記事がある悪質な「意図」のもとにかかれた誘導記事であることがわかります。

植草さんのブログでは、チェルノブイリのデータを紹介し、チェルノブイリの近辺の住民は、事故後に5人に1人は鼻血を出していたという事実が記されてあります。もちろん、この因果関係を科学的に「証明」することはできません。証明しようとすると、人間のグループを放射線に被曝させた群と被曝させない群にわけて、鼻血の発症頻度を計測するという実験が必要になるからです。しかし、一般にみられる鼻血の頻度とチェルノブイリでの鼻血の頻度を比較して、統計的検討を行って、関連性を確認することならできるでしょう。これは、証明ではないが、因果関係を示唆する「科学的証拠」であるとは言えます。故に、私は、福島でも鼻血が被曝が原因であると結論づける「科学的証拠」を得ることは難しくないと思います。

チェルノブイリの鼻血問題に関する報告

●プリピャチ市(原発から約3キロ)の避難民アンケート
回答者9501人

「事故後1週間に体に感じた変化」
という質問に、人々は次のように答えた。

頭痛がした    5,754人 60.6%
吐き気を覚えた     4,165人 43.8%
のどが痛んだ      3,871人 40.7%
肌が焼けたように痛んだ  591人  6.2%
鼻血が出た       1,838人 19.3%
気を失った        880人  9.3%
異常な疲労感を覚えた  5,346人 56.3%
酔っぱらったような状態になった1,826人 19.2%
その他         1,566人 16.5%


頭痛、倦怠感、吐き気というのは、よくある症状ですが、鼻血、肌が焼けるように痛む、などは、そう頻度の多い症状ではありません。放射性物質の直接被曝を示唆するものでしょう。のどの痛みは風邪などではよくある症状でしょうが、避難民の40%以上が訴えるというのは異常な話で、やはり飛散した放射性物質を吸引したがための粘膜障害であろうと普通は考えますね。それにしても1割弱の人が「気を失った」と答えたのは驚きです。心筋障害などによる一過性の不整脈でしょうか?

数少ない良識派新聞、中日、東京新聞では、

美味しんぼ」登場の医師 「すべて事実。抗議は被災者に失礼」

小学館の「週刊ビッグコミックスピリッツ」の漫画「美味(おい)しんぼ」に「岐阜環境医学研究所長」として実名で登場し、原発事故や震災がれきと鼻血の関連性を指摘している元岐阜大助教授の松井英介医師(76)=岐阜市=は12日、本紙の取材に「すべて事実。実際に異変を感じている人たちがいる」と主張した。福島県や大阪市などの抗議には「〝事実無根〟というのは、その人たちに失礼だ」と反論した。


もう一つ、ゲンダイの記事

「私が鼻血を出すことが犯罪とでも言うのか」――。こう憤りの声を上げているのは、井戸川克隆・前福島県双葉町長だ。
、、、
(福島の住民が)鼻血を出すという話は、今回、ことさら強調して語ったわけでも、(取材者を)誘導したのでもありません。私は以前からメディアの前でずっと同じことを言い続けていました。これまでは取り上げられてこなかっただけです。だいたい私が鼻血を出した、と話したことが批判されるべきことなのか。それを(閣僚らが)批判するとは人権侵害ですよ」
、、、
何でもかんでも「風評被害」と決めつけて議論すらさせないから不安が募るのだ。福島県も石原も下村も、マンガに噛みつくヒマがあったら、年間被曝線量を20ミリシーベルトに引き上げても「安全」という具体的な根拠を県民に示すべきだ。


ごもっとも。大手新聞よりもタブロイド紙の方がマトモであたり前のことを書くという、笑えない日本の現実があります。

「真実を探すブログ」でアップされていた二年前の国会答弁をリンクします。あきれてものが言えない自民党議員の手のひら返し。同じ人物が同じ問題を論じていますが、二年前の野党時代にに言っていた事とまるっきり逆のことをよくも平気で言えますね。恥とか常識とか知っていたら自民党議員はできんのでしょうな。

最後に愉快なパロディー映像をリンクしておきます。

総統閣下がー美味しんぼ鼻血問題でお怒りのようです。

もう事故から3年ちょっと、チェルノブイリの例を思い出せば、健康被害がこの1-2年のうちに顕在化してくると予測されます。そのころには鼻血どころではないでしょうね。
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鼻血の証明

2014-05-13 | Weblog
ずっと(仕事関係の)書き物モードで、大した話題がありません。

STAP騒動はさすがに鎮静化しました。このまま尻窄みとなるでしょう。訴訟にはならないだろうし、このままです。研究者であれば、普通、研究不正は重罪であることを知っているはずで、にもかかわらず、あえて研究不正をする人間には大抵、強い動機があるものです。つまり、追いつめられて苦しみから逃れるために不正に手を染めるのですが、この件の場合は、ちょっと違うような感じがします。まるで捏造、写真の使い回し、細胞のすり替え、そうしたことが悪いことであるという認識も十分になかったかのような印象があります。振り返れば、この事件においては、追試すればすぐにバレるウソをつく、という(幼稚さまたは病的さ)が、私がもっとも驚いた点です。つい最近、香港グループのSTAPができないことを「証明した」論文は正式にアクセプトされたようです。Natureは間もなくEditorial retractionをするだろうと思います。

このドタバタ騒動が収束する一方で、「美味しんぼ」の鼻血の話題がまだ続いております。私はメディアやネットに出てくる意見の多くは、体制側に都合のよいようなバイアスがかかっていると思っているので、メディアが騒ぎ立てるほど、実際の世間のでは、この福島での鼻血を書いたことに対して、「風評被害」、「福島の復興を妨害」、「差別を広げる」、などという意見に与する人は多くないだろうと想像しております。

漫画に出てくる双葉町前町長が、「私自身、毎日鼻血が出て、特に朝がひどい。発言の撤回はありえない」「なぜあの大臣が私の体についてうんぬんできるのか」(井戸川前双葉町長)と、自民党の石原氏の鼻血と放射能被爆との関係を否定した発言にあらためて異を唱えました。自民党のデタラメをあらためて繰り返しても虚しいだけですが、この件に関しての自民党のデタラメさを「きっこのブログ」が取り上げています。この方は文章力がありますね。

「美味しんぼ」の問題に関する個人的見解

‥‥そんなワケで、話はクルリンパと戻るけど、あたしが冒頭で「どうしても納得できない点がある」と書いたのは、自民党のスタンス、そして、福島県のスタンスについてだ。それは、原発事故後の民主党政権下で、当時、野党だった自民党の議員が、国会で、「子どもたちがたくさん鼻血を出している。これでも安全だと言えるのか?」と民主党に詰め寄ったり、当時の双葉町町長だった井戸川氏の鼻血の例を挙げて、民主党政権の原発事故対応を批判していたからだ。具体的に言うと、2012年3月14日の参院予算委員会で、自民党の参議院議員の熊谷大(ゆたか)氏は、民主党政権に対して、次のように質疑をしている。

「(大臣や官房長官は)大きな不安はないと言っていますが、これは(宮城県の)県南のある小学校の保健便りです。4月から7月22日までの保健室利用状況では、内科的症状で延べ人数469名に頭痛、腹痛、鼻出血が出ているんです。こういう結果が出ているのに、それでも本当に不安はないと言えるのですか?」

(中略)

‥‥そんなワケで、これらの自民党議員の質疑を見れば分かるように、今から2年前の民主党政権下では、自民党は、「原発事故による被曝の影響で、周辺地域では子どもたちに鼻血などの症状が多発している」として、当時の民主党政権の事故対応を批判していたのだ。「安全だ」「直ちに健康に影響はない」と言っていた事故当時の枝野幸男官房長官や、後の平野博文文部科学相を批判していたのだ。


結局、政治家も自分の身に直接関係のないことには「事なかれ主義」なのです。自分に直接関係なければ、国民の命も健康など、どうでもいいというのが本音でしょう。福島の放射能汚染は軽度で、健康被害もなく、復興も順調であるほうが、都合がよいのです。与党政府も東電もそうであって欲しいから、情報の 隠蔽、捏造、不正に手を染めるのでしょう。福島の、役場もそう思っているし、避難したくても避難できずに住み続けている人も、少なからずはそう思っていたいでしょう。

しかし、これは福島だけの問題ではなく、全国的問題です。ウワサのレベルでは遠方の県の米などの農産物にも放射能汚染されたものが混入されているという話はしょっちゅう聞きます。事実、数年前には兵庫県産であるはずの米から放射能が検出され、実は東北産の米が混ぜられていたという事件がありました。

甲板の椅子をいくら並べ替えてもタイタニックの沈没を防ぐことはできません。いくら情報をコントロールしたところで放射能汚染そのものがコントロールできるものでもありません。現実をしっかり把握することから始めるしか本当の解決は有り得ません。

現双葉町町長は、「福島第1原発の事故直後から全町避難を強いられていますが、原因不明の鼻血等の症状を町役場に訴える町民が大勢いるという事実はありません。町民だけでなく、福島県民への差別を助長させる」との抗議文を出版社に出したそうですが、それに対して、ネットでは、「双葉町では、鼻血を出したら町役場の『鼻血課』にでも行って届け出をすることになっているのか」、と鋭いツッコミ。おそらく、双葉町役場には「鼻血課」もなく、町民に鼻血の届け出義務もないだろうと想像します。町役場に鼻血等の症状を訴える町民が大勢いなくても何の不思議もありません。鼻血が止まらなければ役場ではなく耳鼻科にいくでしょうから。「役場に鼻血を訴える人が大勢いるという事実はない」ということを以て、あたかも「鼻血を出す町民は大勢はいない」という結論に誘導しようとする意図が見えます。事実、新聞などでは、(おそらく意図的に)この町長の発言を「原因不明の鼻血などの症状を訴える町民が大勢いるという事実はない」と、誤って伝えています。「原因不明の鼻血等の症状を町役場に訴える町民が大勢いるという事実はない」という原文との差には驚くばかりです。ま、新聞の捏造、偏向報道はいつものことですが。「鼻血の事実がない」ことを証明するのは、多分、STAP細胞がないことを証明するよりも難しいと思うのですが。

この美味しんぼの鼻血の件に関しては、「賢人」の意見を聞いてみたいと思います。私の頭に浮かんだその役に最適な「賢人」は、漫画家にして哲学者、元祖「鼻血ブー」の谷岡ヤスジさんでしたが、残念な事に、谷岡さんは既に地上を去って久しく、現在では誰が鼻血の決着を着けてくれるのか、私には見当がつきません。
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鼻血のトレンド

2014-05-09 | Weblog
私は、雁屋哲さんのブログを折々に見ております。その口調から、非常にストレートで正直な方であろうと思っています。また、信念に沿って発言することを恐れない人であると思います。その点で、私を含む世の中の大多数の人間が、基本的に事なかれ主義で、第三者の立場からヘラヘラと物事を批評するのと違い、責任を持って信念に従って発言する真の言論人であると尊敬しております。

その雁屋さんが二年に渡る取材の後に始まった「美味しんぼ、福島の真実編」に、非難の嵐が殺到しているというニュースを聞きました。私は、あいにく読んでいないのですが、取材の間に、福島で雁屋さん自身が突然の鼻血や倦怠感を感じた経験、取材で聞いた医師や前村長の人(漫画には実名で登場)から聞いた取材経験をもとに書いたものらしいですが、「風評被害だ」とか「根拠のないことを書くな」とかいう相当攻撃的なメッセージが編集部に寄せられているとのことでした。

しかし、鼻血に関しては、雁屋さんの取材の範囲では少なくとも根拠はあったわけで、その取材事実を漫画に描いてあるという点で、私は別段、非難を受けるようなことではないと思います。

福島事故以来、関東、東北で突然、鼻血や咳が出るようになったという話はよく聞きます。吸い込んだ放射性物質が鼻粘膜や肺上皮を損傷するのだという理由らしいです。これは原爆被曝者が骨髄不全になって血小板減少を起こしての出血傾向からの鼻血とはメカニズムが違います。

試しにグーグルトレンドで「鼻血」の検索頻度を調べてみると、原発事故の翌月の2011年4月には、それまで何年も同程度の安定した検索頻度が続いていたのが、急激に3倍に上昇してピークを作っています。そして、その後も事故前の 2-4倍の頻度を維持し続けています。この時期になぜ、急に普段の三倍(平均して)もの人々がグーグルで「鼻血」を検索し出したのでしょう?この検索を地域に分割してみると、普段、検索頻度の少ないところではこのピークはもっとシャープに観察されます。2011年の4月に大抵の地域ではっきりとしたピークがあります。この年の時期に人々の鼻血への興味が急激に上昇したということになります。検索語を「鼻血の原因」としてみると、もっと興味深いです。2010年の8月になぜかピークがありますが、それまではゼロ、そして2011年4月に急上昇してからその検索頻度のレベルが持続しています。つまり、原発事故後に急激に人々の「鼻血の原因」に対する関心が増えたということです。2011年4月のこの「鼻血」検索頻度の急激な上昇は、中国では認められません。日本国内だけの現象です。英語で検索してみても同じことです。日本国内だけで、2011年4月に急激に人々の鼻血への関心が上昇しています。

福島の原発事後が人類史上、最悪の事故であるという事実と、チェルノブイリでの未だに続く健康被害のことを知っておれば、普通は、福島の現状が深刻なものであることは誰でも「理性」では理解できるでしょう。事実、放射線量が高過ぎて、住民が住めない地域が福島にはあります。深刻な放射能汚染の証拠があり、農作物は出荷できず、海産物は漁そのものが規制されているという状況ですから、漫画で鼻血が出たと描いてあるぐらいで「風評被害」という批判は的はずれもいいところだろうと私は思います。

この漫画に苦情を書いている人のコメントをネットでパラパラ見てみました。大変、感情的かつ攻撃的なものが多いです。鼻血の記載に反対する納得できるような理由を上げてあるものは一つもありません。すなわち、これらのコメントは、コメントを書いた人が鼻血に対する意見が雁屋さんと違うことを表明したいのではなく、単に相手を黙らせたいのです。その理由は、利害関係があるからでしょう。(そうでなければ、「自分の方がエラい、お前はバカだ」と決めつけてかろうじて自尊心を慰めているネットによくいる寂しい人々でしょう)。

言論の自由は民主主義の根幹ですから、たとえそれが他人の言論を封鎖するための攻撃であったとしても、それを発言する自由は認められなければなりません。しかし、言論の自由の意味するところをわれわれはもっと深く考えておくべきだろうと思います。そうであれば、漫画の表現に対して、攻撃的で感情的苦情を言う人間も減ると思うのですけど。実在人物がからんだ週刊誌のデッチ上げ記事を真に受ける人は余りいないのに、本来、フィクションの漫画の話で風評被害だ、というのはヘンな話です。

しかし、いずれにせよ、そういう攻撃性のある意見が多く寄せられるということは、金で雇われた工作員であれ、自分の頭で考えられない洗脳人間であれ、日本の原発ムラがまだまだ力を持っていて、カネのためには日本の将来など知ったことか、と思っている連中が多いということを示していると思います。なにしろ、普通の頭があれば、どうやっても割に合わないとしか判断できない原発を推進し、福島の事故収束は後回しにしてもオリンピックでハリボテの復興ムードを盛り上げ、クサいものには蓋をしてしまえ、という底抜けにxxxの弱いのが首相をやっている国ですからね。
根が深いです。
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An old dog, New tricks

2014-05-06 | Weblog
この十年余りで、研究環境は劇的に変化したと私は思います。その原因は、インターネット技術と中国の台頭です。研究内容は高速化し、データ量は激増しました。十年前だと、各分野での重要な論文というのはそれなりに限られており、そうした発見を中心にして枝葉を出すように研究が末端に向けて広がって行く傾向があり、「道筋」が読めました。その道筋を押さえていれば、それぞれの仕事の意義も内容も比較的容易に理解して、覚えておくことは難しくなかったように思います。

それが、今では、おそらく論文出版スピードは数倍に上がっており、しかも、中国などからのゲリラ的ともいえる波状攻撃的な論文の出版によって、従来のメインストリームの道筋に沿って研究動向を理解するというやり方では、多くの穴ができてしまう結果となっているような気がします。知らない間に、中国に出し抜かれていて手遅れになっていたということが起こっています。

そして、道筋に沿って、仮説に基づいて研究を進めるというスタイルは、段々と実際の研究に合わなくなってきており、中国などのようにまだ人件費や研究規制などの点で有利な国では、とくに、仮説検証型研究よりも、大量データ取得型の研究、言わば仮説を検討するのではなく、仮説を作るための研究を優先する傾向があるように感じます。データがあれば、とにかく論文は書けます。それが、中国からの大量の論文出版につながっているのではないかなと思います。

大量のデータに基づく(しばしば、仮説の弱い)現象論的論文は、従来の研究の発展の道筋を追うことによって研究動向を理解していくという普通の人間の理解方法では、頭の中から漏れてしまいます。毎週、出版される興味のある論文を数本読むだけでも、それらを長期的に覚えていることは困難です。加えて、出版論文数の激増で、私の分野では、毎週、数百本の論文が出版されており、論文タイトルを一通り見るだけでも難しいという状況です。記憶力の減退というハンディキャプを持つ上に、大量情報は日々流入してきて、かつ、その情報がゲリラ的に脈絡なくポンポンとでてきます。「えっ、こんな論文が出ていたのか」と後になって、驚くこともしばしばあります。そういう論文は中国、台湾、などから何の前触れもなく出てくるのです。多分、20 - 30年前の日本がそんな感じだったのではないでしょうか。

限られた数の重要な論文をじっくり読んで、深く考えるということが難しくなってきました。何が重要かという点に関して多様化してきている上に、とにかく、入力が多過ぎるのです。それを覚えておくことも満足にできない状況で、一つ、一つ深く考えるということが、おろそかになりがちです。

もっと主観的に言えば、これまでは、自分が歩いている周囲の景色が見えていました。それで自分のやっていることの意義も立ち位置も把握できていたように思います。そして、見えるところと見えていないところの境界も比較的明瞭でした。だからどの方向に進めばよいのかも何となく理解できました。しかし、今では、とにかく周囲に余りに沢山のモノがつぎからつぎへと現れるので、見えているのに何を見ているのか分からない、という状況に陥りつつあり、研究全体を俯瞰して自分の立ち位置を確かめるということすら難しいという感覚を覚えるようになっています。

長年の経験で築いた価値観のようなものをひっくり返されるような危機感を感じることも多いです。しかし、世の中の動きに合わせて、自分の研究戦略を随時にフレキシブルに変えて行くことができなければ、多極化、高速化、大量化する研究環境から落ちこぼれてしまいます。

プロテニスでは、ラケットの改良が一気に世代交代を進めました。剛性の強いフレームのおかげでボールのスピードとコントロールが向上し、大型選手によるパワーテニスが主流となりました。かつて、だんだんと勝てなくなったマッケンローが、ウッドフレームのラケットでカムバックしようとした昔のライバル、ボルグへのコメントを聞かれて、「私は、まだ世界トップクラスと勝負することを考えているのだ。彼はもうトップクラスプレーヤーではない」と言ってコメントを拒否したという話を聞いたことがあります。研究の世界も、高技術化、高速化が進み、ウッドラケットでの必勝法は、通用しなくなってきました。そんななかで、私のように、スピードもパワーもない人間がどのように戦っていくべきか、と頭を悩ませる日々です。
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続 ピリオド、チョン

2014-05-02 | Weblog
研究費を貰っているプロジェクトの中間報告会に行ってきました。ガラス張りのファンシーな会議室で、十人ほどのお偉い先生方の前でしゃべるのは気がひけます。研究者として強烈なオーラを放つこれらの人々が小さな会議室に密集して、こちらを注視しているという状況は、まるで、アメリカンアイドルのオーディションを受けているかのような感じです。私もそこそこ年をとったので、大概のことにはストレスは感じないようにはなっていますが、久しぶりに大学の口頭試問のときのように緊張しました。進行役の先生は、個人的には面識がありませんが、研究上の関連は少しだけあります。この先生のグループがNatureクラスの論文をホイホイと十本出す間に、私は苦しみながら、そこから二ランクは下の雑誌になんとか一本、というレベルですから、とても「同じ」研究者とは言えません。アチラが天翔るハヤブサなら、こちらは地を這うミミズ、ぐらいの差があります。しかし一寸のミミズにも意地がある、ミミズもオケラもアメンボもみんな生きているのです。ま、幸い、反応はそう悪くなかったです。
終わってホッとしましたが、これのために後回しになっていた原稿の手直しをやらねばならないこと思い出し、再び、書き物の日々が継続しています。(全然、実験できません)

その書き物ですが、先日のエントリーに書いたように、ピリオドの後のスペースが一つであるべきだということを、先日学んでから、過去数十年に渡る私のタイピングの習慣を変える努力をしています。ピリオドの後にスペースバーを二度押すという習慣は、なかなか頑固です。これはほとんど、無意識の操作ですから。仕方がないので、書いたものを印刷してチェックする際に、ピリオドの後のスペースを確認するという余計な作業をやっています。このピリオドの後にスペースバーを二つ置くのは、手動タイプ時代の実用的慣習の名残であるということをしばらく前に書きましたが、これについて細かく議論しているコラムがあったので、そこから知ったことを書き留めます。

印刷においては、20世紀までは、多くの国での出版会社は、ピリオドの後には、一つではあるがサイズの大きいスペースを置いていたのだそうです。ピリオドの後に一つのスペースを置くのは、伝統的な出版社の方法で、French spacingと呼ばれていました。一方、ピリオドの後に二つのスペースを置くのは、以前のエントリーで述べた通り、フォントサイズが一定の手動タイプライターに普及に伴って(読みやすいように)普及した実用的習慣で、English spacingと呼ばれ、その後、出版会社もこの方法を取り入れたということです。

このコラムを書いた人は、次のように書いています。

実は、自分も以前は"double-spacer"だった。そしてある日、私はそれを変えたいと願ったのである。きっとこれは困難な道になるだろうと思った。私が最高にノッているときは、一分に100語をタイプする(平均的なタイピストは50 - 80だ)。私は本能的にタイプしており、スペースバーを二度打ちするという体に染み込んだ習慣を止めるのは不可能に思えた。
しかし意外なことに、文章を三つ打ったあと、私はその習慣を打破することができた。そして、以来二度と過去を振り返ることはなかったのである。
その時、私は小さな勝利の感覚を得たように思った。しかし、私の目の前には、まだこれらの余分なスペースで満たされた9万語の原稿があった。私はチマチマと稿正するのが嫌いである。これらのスペースを一個ずつ消していく作業は、とても楽しそうには思えなかった。
しかし、その後、これらを一気に直す方法を発見した。Findファンクションを使うのだ。Findで二つ並んだスペース検索して、それを一つに変換すればよいのである。こうやって、過激な減量療法をやった時のように、原稿から余分なスペースが消え去って行くのを眺めればいい。


なるほど、Find Keyを使って、後で直すという方法があるのですね。タイピングに関する生活習慣を直してヘンに病気になるぐらいなら、問題は後でまとめて処理する方が実際的です。

一方、ピリオドの後はスペース一つでなければならない、という主張に異を唱える"double-spacer"もいて、"double-spacing"を選択する権利を頑強に守ろうとしている人々もいます。"Single space rule"が近代タイプのスタンダードであり、double-spacingは前世紀の遺物である、とでもいうような差別的論調に対して、English-spacing の例や数々の歴史的証拠をあげ、Single-spacingがそもそも正しいというわけではない、ことを綿密なリサーチによって反駁している記事、"Why two spaces after a period isn't wrong (or, the lies typographers tell about history)"を見つけました。随分、長文です。はしょりながら読みましたが、ヒマな人はどうぞ。数えてみたら、5千語あまりありました。ピリオドのあとのスペースが一個であるべきか二個であるべきか、というハムレットでも悩みそうにない問題を、科学論文一本分ほどの分量の英文で、綿密に議論してあります。この記事、もちろんピリオドの後のスペースは二つ。
それにしても、この記事を書いた人も相当なヒマ人なら、その語数を数えている私もヒマ人です。この記事にコメントしている76人もやっぱりヒマ人なら、私の記事を読んでいる人も、もちろん、ヒマ人。     、、、、、ヒマジン、All the people living for today 、、ハハハーン、、、と歌っていたら、、、、、

お昼休みが終わってしまいました。
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