最近、人のブログのコピペばかりしているような気がしますが、先日の柳田先生のブログの記事を読んで、ちょっと思ったこと。
ある危機感
梯子を外される、というわけではないのですが、中堅どころになって、ようやく研究室が回り出したころというのは、プレッシャーが最も大きいと思います。若手のうちは色々あった優遇がなくなり、まだ大御所ほど名前も売れていない、それでも研究費を取り続けていかないと、折角、何年もかけて築き上げたものものと将来が一緒に消え去ってしまいます。研究界全体から見ても、折角、投資してあるところまで育てた人材が消え去るのですから損失なのですけど、競争原理があるから生産性が上がるという信仰みたいなものが広く染み渡っていて、いわば「自然選択」の原理に沿っていて、生産性の低い者は速やかに淘汰されるべきだ、とさえ考えられているフシがあります。
私は、個人的に局所最適解のみにフォーカスするような「動物的」システムを学問や教育の世界に導入するべきではないとと思います。学問や教育というのは、人間的な活動であって、動物の生存競争と違うレベルで考えられるべきだと思うからです。
以前にも書いたかと思いますが、プロジェクトベースの研究費審査というのが問題の根源にあると思います。つまりカネの配分を、期待されるプロダクトの価値に従って行うというやり方です。プロジェクトベースで審査する限り、研究者はプロジェクトの遂行に必要な「モノ」であり、プロジェクトが終われば必要がなくなる使い捨て資源だと形式的には見なされるからです。研究者も普通の労働者と同じで、生活もあれば家族もあるのです。プロジェクトを進めるためや会社が利潤を上げるための「労働力」である以前に、人間であって、家畜でも機械でもないのです。残念ながら、資本主義社会というのは、突き詰めれば、人間はカネを生み出すための道具あると見做すワケで、それを正当化する数多くの理屈があります。現状では、研究室の運営も会社経営と基本的には同じです。カネを取ってこれなければ畳むしかありませんが、この競争原理が研究や学問の分野にもそのまま適用されるべきだとする資金分配者側または資金が潤沢な研究者側に広く蔓延しているのが根本的な問題ではないかと思います。(カネのために)人間が使い捨てにされるのは別に研究者に限ったことではないですが、このネオリベというか、焼肉定食、競争社会を煽り続けてきた最近の政策が行き着く先に、人間らしい社会など望むことはできないと思います。
人間が人間であるために必要なのは、思いやりであり、共感であり、助け合う心です。競争でも強者が弱者に押し付ける自己責任論でもありません。カネや資源と云うものは「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」もので、「うばい合えば戦争 うばい合えば地獄」になるのです。
ついでに言うと、日本の政府や官僚が、戦争に大っぴらに参加できるようにしたいのは、競争原理に基づく近代の資本主義の論理で動いてるからでしょう。つまりは、カネです。戦争は(一部の人間が)儲かるからです。そして非常事態を口実に国債をチャラにしつつ、火事場泥棒的に国民資産を巻き上げつつ、戦後の自らの地位を確保する、一石三鳥です。そして「やらなければ、やられる」という貧困な発想の生む恐怖感を利用して国民世論を操作するのは比較的容易だからでしょう。
しかし、だいたい原発だらけの日本は、武力で攻撃されたらどうやっても確実に負けるのですから、「勝つ」というのは戦争に巻き込まれない、攻撃を予防するという手しかないのです。そのためには自ら戦争を放棄し、他の国にとっても思いやりがあり、付き合って得になる親切な国であることです。小学生なら良くわかることです。ま、「お人好しは利用される」という発想しかなければ、他国とのWin-Winの関係を作り出すための方法を考えようともしないでしょうけれども。
ある危機感
f、、、わたくしが今日こんなタイトルで書こうと思い立ったのは、日本の生命科学関係の研究費はかなり危機的な状況にあり、だれかが意図的に引っ張っていないのに、ある方向にずんずん向かっている。大げさにいえば破滅的な状況かもしれないが、誰かが意図的にしてないがゆえに、批判すべき特定組織があるわけでもなく、研究者がまるで自発的にそういう方向に向かっているかのようで、それがわたくしの危機感を高くしているのです。、、、
一つ目立った成果を上げると、5年くらいの研究費を得ることができます。うまくいけば次なるステップにいけるかもしれません。
次の段階は目立った研究成果を複数連続的にあげた研究者の段階でこのクラスは大学なら教授になれるはずです。研究費も年間3千万円とか5千万円以上になるでしょう。それぞれの分野で我が国の代表研究者になっているはずです。この層の研究者はいまの日本それほど多くないこともありだいたい手厚く対応される可能性が高いです。少なくとも研究費のラウンドを一回あたり5年として、10年くらいまでは。
このレベルで新顔のリーダーが沢山出て、切磋琢磨が起きることが望ましいに決まっています。
問題は、この層の研究をその後国はどのようにあつかうか確かな方針はどこにもないのです。
、、、
ある程度の規模に達したラボが研究費を絶たれたらどうなるか、あまり想像したくありません。しかし、いまの日本そういうことが沢山起き出しているのです。
、、、
現今の日本の研究の問題は、国を代表するような研究者たちが長期的な研究費を絶たれて、実質的にラボを閉鎖するかもしくはやってはいけない研究の方向に向かってなんとか延命を図るかの岐路に立たされているのです。、、、
一つ目立った成果を上げると、5年くらいの研究費を得ることができます。うまくいけば次なるステップにいけるかもしれません。
次の段階は目立った研究成果を複数連続的にあげた研究者の段階でこのクラスは大学なら教授になれるはずです。研究費も年間3千万円とか5千万円以上になるでしょう。それぞれの分野で我が国の代表研究者になっているはずです。この層の研究者はいまの日本それほど多くないこともありだいたい手厚く対応される可能性が高いです。少なくとも研究費のラウンドを一回あたり5年として、10年くらいまでは。
このレベルで新顔のリーダーが沢山出て、切磋琢磨が起きることが望ましいに決まっています。
問題は、この層の研究をその後国はどのようにあつかうか確かな方針はどこにもないのです。
、、、
ある程度の規模に達したラボが研究費を絶たれたらどうなるか、あまり想像したくありません。しかし、いまの日本そういうことが沢山起き出しているのです。
、、、
現今の日本の研究の問題は、国を代表するような研究者たちが長期的な研究費を絶たれて、実質的にラボを閉鎖するかもしくはやってはいけない研究の方向に向かってなんとか延命を図るかの岐路に立たされているのです。、、、
梯子を外される、というわけではないのですが、中堅どころになって、ようやく研究室が回り出したころというのは、プレッシャーが最も大きいと思います。若手のうちは色々あった優遇がなくなり、まだ大御所ほど名前も売れていない、それでも研究費を取り続けていかないと、折角、何年もかけて築き上げたものものと将来が一緒に消え去ってしまいます。研究界全体から見ても、折角、投資してあるところまで育てた人材が消え去るのですから損失なのですけど、競争原理があるから生産性が上がるという信仰みたいなものが広く染み渡っていて、いわば「自然選択」の原理に沿っていて、生産性の低い者は速やかに淘汰されるべきだ、とさえ考えられているフシがあります。
私は、個人的に局所最適解のみにフォーカスするような「動物的」システムを学問や教育の世界に導入するべきではないとと思います。学問や教育というのは、人間的な活動であって、動物の生存競争と違うレベルで考えられるべきだと思うからです。
以前にも書いたかと思いますが、プロジェクトベースの研究費審査というのが問題の根源にあると思います。つまりカネの配分を、期待されるプロダクトの価値に従って行うというやり方です。プロジェクトベースで審査する限り、研究者はプロジェクトの遂行に必要な「モノ」であり、プロジェクトが終われば必要がなくなる使い捨て資源だと形式的には見なされるからです。研究者も普通の労働者と同じで、生活もあれば家族もあるのです。プロジェクトを進めるためや会社が利潤を上げるための「労働力」である以前に、人間であって、家畜でも機械でもないのです。残念ながら、資本主義社会というのは、突き詰めれば、人間はカネを生み出すための道具あると見做すワケで、それを正当化する数多くの理屈があります。現状では、研究室の運営も会社経営と基本的には同じです。カネを取ってこれなければ畳むしかありませんが、この競争原理が研究や学問の分野にもそのまま適用されるべきだとする資金分配者側または資金が潤沢な研究者側に広く蔓延しているのが根本的な問題ではないかと思います。(カネのために)人間が使い捨てにされるのは別に研究者に限ったことではないですが、このネオリベというか、焼肉定食、競争社会を煽り続けてきた最近の政策が行き着く先に、人間らしい社会など望むことはできないと思います。
人間が人間であるために必要なのは、思いやりであり、共感であり、助け合う心です。競争でも強者が弱者に押し付ける自己責任論でもありません。カネや資源と云うものは「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」もので、「うばい合えば戦争 うばい合えば地獄」になるのです。
ついでに言うと、日本の政府や官僚が、戦争に大っぴらに参加できるようにしたいのは、競争原理に基づく近代の資本主義の論理で動いてるからでしょう。つまりは、カネです。戦争は(一部の人間が)儲かるからです。そして非常事態を口実に国債をチャラにしつつ、火事場泥棒的に国民資産を巻き上げつつ、戦後の自らの地位を確保する、一石三鳥です。そして「やらなければ、やられる」という貧困な発想の生む恐怖感を利用して国民世論を操作するのは比較的容易だからでしょう。
しかし、だいたい原発だらけの日本は、武力で攻撃されたらどうやっても確実に負けるのですから、「勝つ」というのは戦争に巻き込まれない、攻撃を予防するという手しかないのです。そのためには自ら戦争を放棄し、他の国にとっても思いやりがあり、付き合って得になる親切な国であることです。小学生なら良くわかることです。ま、「お人好しは利用される」という発想しかなければ、他国とのWin-Winの関係を作り出すための方法を考えようともしないでしょうけれども。