百醜千拙草

何とかやっています

解散はいつだ

2011-02-25 | Weblog
柳田先生、アルメニアの学会でなかなか興味深い体験を書かれていますが、私は個人的な経験からアルメニア人にはあまり良い印象がありません。私の知っているアルメニアに住んでいないアルメニア人の印象ですから、アルメニアのアルメニア人はまた違うのかも知れませんけど、殆ど例外なく、困難な人々です。文化とか習慣の差なのでしょうから、お互いさまかも知れませんが、水と油ですね。私の知っているアルメニア人は押しが強くて、厚かましく、誠実さにかける利己的な人が多いです。そうでなければ生きて行けないような社会なり環境で身に付いた性質なのでしょうけど、実際につきあいがあると、迷惑な人が多くて困ります。それに、どうも彼らや旧ソビエト圏の人々は、マリファナを吸う習慣があるようで、近辺で吸われるとあのスカンクのようなネズミが死んだような不快な匂いがするので、余計に印象が悪いです。ま、これは偏見なワケですが、「偏見」は本能に基づくある種の防御機構だと私は思っていますので、全く持たないわけにはいきません。偏見の方が「抑止力」よりもマシだと思います。

彼らは、外国に難民のように流れ出て、しかし強い民族意識のようなものがあって固まって生活する人々であり、むしろ虐げられ、差別を受けて来た人々なのだろうとは思います。以前はソ連に支配されてきたわけですし、ずっと虐げられて来たという被害者意識がしみ込んでいるのではないかと想像するのです。気の毒な民族ではあります。日本はアメリカの属国とは言え、戦後はそれなりに豊かな方ではありましたから、生き延びるために、盗んだり、騙したり、殺したり、そういう目にあわずに済んできたわけで、恵まれた環境にいる人間が、一方的な価値観で、アルメニア人は性質が悪い、と非難すべきではないでしょう。衣食足りての礼節ですから。しかし、私は自分の身を守るために、できるだけ価値観を共有できない人々のそばには近寄らないようにしております。恵まれた環境で育って来た人は、同じ人間同士だから分かり合えるはず、と思うかも知れませんけど、現実はもっと複雑なものだと思います。例えば、生き残るためには他人を利用するのが当然という世界から来た人間にとっては、人間の善良性を信じていて偏見を持たないことが良い事だと考えているような人は、いいカモです。あえてカモにされる覚悟がないのなら、そういう価値観の違う人には近寄らないことです。

ところで、私も、半年前まで、空きカンは同じ日本人で小沢氏と同じ民主党員だと思っておりましたが、最近は、アレは人間のように見えるが、実は別の動物なのではないか、と思うことが多くなりました。理屈とか法律とか、私たちの生活の根本にある基準とでもいうようなものを、平気で無視できる人間というのに、私はこれまで余り遭遇した経験がありません。やはり、脳の機能にかなりの異常があるのでしょう。異常性格というのもありますが、コレでしょうか。
 常識では理解できない人間モドキが空きカンという生き物なのですが、いよいよ詰みが近づいて来たようで、現民主党の壊滅と新党結成にむかって一気に流動的になりそうな気配です。小沢氏に対する一方的な処分に抗議して松木大臣の辞任、あいかわらず、昼行灯の岡田氏は「パフォーマンスだ」と強がりを言っているようですが、他に言葉を知らないのでしょうか。いくら昼行灯でも、小沢氏に指導してもらった不肖の弟子、状況が理解できていないわけがないでしょうから、誰かに脅かされてヤケクソになっているのでしょう。
 小沢氏側は民主崩壊に備えて、既に根回しは終わっているとのウワサ。民主分裂した後、現執行部を中心とするグループは野党からも国民からも誰からも相手にされずにサヨウナラ、一方、小沢、鳩山の民主党Aは野党との連立やあるいは一気に政界再編を通じて再び主導権を手に入れる計画を着々と練っているという話。私、この辺りで亀井大明神がでてきて、空きカン一派に引導を渡して、政界再編を主導するのではないか、と想像しているのですけど、どうでしょう。

さっき、内田樹の研究室を見たら、悪徳弁護士、マエハラ氏、細野氏らと昼メシを食べて、露骨な質問をしたとの話。(http://blog.tatsuru.com/2011/02/24_2007.php)

ここで公開できないのがたいへん残念なのであるが、解散は●月。選挙の結果は●党の辛勝。むろんそのあと合従連衡の政界再編が始まる。なんとその場合の与党勢力は反●派連合というかたちで組織されるのではないかというのが仙谷さんの予測であった。


悪徳弁護士が解散を予測とのこと、私は空きカンの辞任か総辞職で3月を乗り切るつもりだと思っていましたが、となると、やはり解散は3月ですかね。ウソ言っている可能性も高いですけど。でももしそうなると、総選挙では民主党は惨敗するでしょうし、まさか自民に戻るとも思えませんから、みんなの党などに票が分散することになるでしょう。選挙では小沢-鳩山派の民主党Aは生き残る可能性があり、その数で民主党がかろうじて第一党に残るのでは、と思うのですが。悪徳弁護士は、与党勢力が反小沢は連合で組織されることを望んでいるのでしょうが、こういう筋書きだとそれはあり得ないし、解散総選挙は、空きカン一派に対する総括を求められることになる訳で、その時は、小沢派がその中枢を握ることになるはずだと私は予想します。
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野蛮な国の一縷の希望

2011-02-22 | Weblog
さて、アメリカ下院で大規模な政府支出カット法案が共和党主導で成立しました。民主党は全員反対しましたが届かず。法案は上院に送られることになりました。アメリカでもねじれ国会で、予算の成立が危ぶまれているます。予算が成立しなければ、政府機能のシャットダウンとなり、数々の税金によって運営されている組織は無論のこと、NIH資金に依存する研究者もその活動が制限されてしまう可能性があります。ウィスコンシンでは、強い緊縮財政を敷こうとする州知事に対して、大掛かりな市民プロテストが議事堂に詰めかけ、約1週間続いています。
 ベルギーでは選挙後に組閣に関して揉めていて、ついに250日を越える「無政府」世界記録を樹立したとのこと。無政府も酷いですが、今の日本の政府なら無い方がマシと私は思いますね。

 日本も衆参ねじれで、しかも16人の民主党比例議員の会派離脱宣言(どうもこれは元衆議院の平野貞夫氏の案に賛同した議員が決行したとのこと)で、衆院2/3議決も難しい状況。予算成立と引き換えに空きカン辞任といういつもの筋書きになりそうだ、というマスコミ報道。マスコミ報道にはウラがあります。マスコミは報道のためではなく、世論誘導、国民洗脳のためにあるわけですから、この報道が意味するところは、空きカンはついに飼い主に見限られたといういうことであり、この動きが ”上”からの指令のもとになされているということは、私が望んでいる解散総選挙にはならず、首相のクビをすげ替えるだけのゴマカシ退陣という絵を描いているのだろうということを意味していると思います。空きカンが消えてくれるのは良いとして、かわりに空きカン以上のロクデナシのマエハラ氏とか、昼行灯のオカダ氏が据えられるようでは、まだまだ春は遠いです。とにかく、口だけ威勢のよいことを言って何一つ実行力がなく、責任感と大局観がなく、外国からはバカにされて嫌われているマエハラ氏は、多分、空きカン以上に悪い選択だと思います。鳩山内閣退陣の時には、多くの人が空きカンの本性を知らずに騙されましたが、マエハラ氏は最初からお里が知れています。国民は騙されないでしょうし、これで悪徳弁護士がマエハラ氏に替えて政権延命を図ったところで、先のアホウ政権の時同様に、ジリ貧になって遠からず退陣に追い込まれてタマ切れになるでしょう。その時に日本国民を舐めてきたアメリカの日本対策担当は、国民の支持を得られない政権を操る意味がないとということで、悪徳弁護士もろとも見捨ててくれるのではないかと想像するのですが。
 空きカン、どうせ死ぬなら、道づれとヤケクソ解散総選挙にしたいとでも考えているかも知れませんが、それはさせてもらえないでしょうし、やったら本当に殺されるでしょうから、惨めに去るのみ。それを見越して、野党は内閣総辞職を要求してくるかも知れません。しかし、どっちに転んでもジリ貧の自分の運命を空きカンも分からないワケがないので、本当に石にかじりついてでも一秒でも長く首相の座にしがみつこうと醜態を晒し続ける気かも知れません。辞めたあとは恥ずかしくて顔を出して道を歩けないでしょうから、もう一度、巡礼の旅の続きでもやるつもりなのでしょうか。

検審会の不正を探っている森ゆうこ議員が、「『尖閣問題』について、柳田前法務大臣が本当のことを話すかもしれにゃい。でも、sengoku配下のセクトの連中が、すでに私の関係者に対して卑劣な活動を開始しているので、柳田さん気をつけて。私にもし何かあったら、それは本当はホウソウ関係者ではなくセクトの連中のせい。」(http://twitter.com/moriyukogiin/status/37479683473801216)とツイート。悪徳弁護士、さすがは「ごろつき」と呼ばれるだけありますね。コヤツが今回のアキ缶おろしとその後の単純バカのマエハラ氏にへの首のすげ替えを図っている日本側の首謀者なのでしょう。空きカンを辞めさせて予算を通して、マエハラ氏に替えたら、政権はまだ保つとでも計算しているのなら、勘違いも甚だしいと言わせてもらいましょう。国民はこの狸よりももっと賢いと思います。

2/20の沖縄米軍基地のヘリパッド建設反対を訴える東京でのデモで、逮捕者が出たとのこと。状況からすると、逮捕の理由はほとんど言いがかりで、どうもデモの弾圧目的のようです。いつまでも収束しない市民デモに敵は追いつめられて来ているのだと思います。これからは市民に対しても、汚いことを露骨に仕掛けてくるかも知れません。しかし、この動きは止まらないでしょう。以下のブログなどで取り上げられています。
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/1d9e17f82748be0711cb603eaaf83ce3
http://blog.livedoor.jp/shunzo480707/archives/3501406.html
http://henoko.ti-da.net/e3304448.html
やっぱり、逮捕者を出しているのに、腐れマスコミは報道しませんね。マスコミもいつまでも読者を舐めて騙し続けれるとでも思っているのでしょうか。しかし、支離滅裂な社説を読めばマスコミの知能の低さに呆れるばかりで、実のところは、連中も追いつめられて失禁状態なのでしょう。

権力は腐敗し、マスコミは腐敗した権力のタイコモチ、無理が通って道理が引っ込む、野蛮な国になってしまいました。その中での有志による市民運動、16人の比例選出民主党議員の会派離脱、など、力を持たない人々が立ち上がり始めました。一縷の希望があります。
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最近のニュース、悲しくも方便が必要な国

2011-02-18 | Weblog
先の中間選挙でアメリカ下院を制した共和党が、科学研究関連支出の16%に及ぶカットの提案を出したというニュース。青ざめていたら(Scienceを個人購読しているので)FASEBからメールが来ました。アカデミアの生命科学研究の大多数のスポンサーとなっているNIHの予算に関しては、$1.6 billion (5.2%)のカットという共和党の提案であるので、FASEB会員は担当の議員に至急コンタクトをとって、この法案反対を訴えるように、というメッセージでした。ブッシュ政権になってからNIH予算の増加は抑制されてきましたが、減らされるのはNIH史上初めてではないでしょうか。ただでさえ厳しい状況で、この予算カットがもし通れば、アメリカの生命科学研究にかなりの大打撃となると思います。まだ上院は民主党多数でオバマの拒否権もありますが、彼らも人気商売ですから、どちらに転ぶかわかりません。アメリカ経済が破綻の危機に際しているわけですので、研究のように、時間と労力がかかるわりに成果がすぐには目に見えないような活動から切っていこうとするのはやむを得ないことかもしれませんが、研究者としては、気の滅入る話です。しかし、日本では研究の危機をいくら議員に訴えても、官僚主導の予算案で、しかも特別会計とか怪しい予算枠とかもあったりして、何もかわらないことを思えば、国民が政治家を動かして予算配分を変えることができるアメリカはまだましでしょう。
 世界最大(売り上げで)の製薬会社のファイザーは、研究開発をアウトソースして、大量の研究者リストラの予定とか。大企業が自社での研究開発を放棄して中小のバイオテクからその成果を買い上げることでリスクを減らそうとする傾向は随分前から見られませすが、首を切られる研究者の身になるとやりきれません。バイオテクもハイリスク、ハイリターンに資金を提供する投資者がいて成り立ちますから、経済が厳しいと投資活動への資金流入は抑制されて、そういう所での研究者の雇用も低下していると思われるので、この大量リストラで首になった研究者の人々の再雇用も容易ではないだろうと同情します。

エジプトでムバラク辞任が決まった日に、アメリカの美人テレビレポーターが、興奮したカイロ市民に襲われ、激しい暴行をうけて入院中という話。チュニジアでの市民プロテストではフランス人が殺されました。ならば、エジプトでアメリカ人が襲われるのも当然予想できたことではないか、というのが私の感想。前、紹介したように、エジプトの革命の本質は民主化運動ではなく親米政権に反対する反米運動であるそうです。革命で興奮して判断力を失っている民衆には、アメリカ政府もアメリカ人のテレビレポーターも同じ憎むべき敵に見えるでしょう。このレポーターやその所属するテレビ局は、エジプトの市民革命の本質を十分理解していなかったのか、あるいは暴徒化の可能性をナメてかかっていたのでしょうか。ひょっとしたら「民主主義を大義にかざす国アメリカは「民主化」を求めるエジプト市民の味方だから、エジプト市民に襲われるはずがない、とでも勘違いしていたのかもしれません。危ないところに不用意に近づいた結果ですから、被害者の人には気の毒ですけど、起こるべくして起こった事件という気がします。

さて、数日前の鳩山氏のの話、ちょっと一言、言っておきたく思ったので。
鳩山氏が、「抑止力は在日米軍の普天間基地の辺野古移転のための方便」だった、というような発言をして、バッシングを受けています。マスコミは、小沢、鳩山の悪口を言いたくてウズウズしていて、ちょっとでも悪い方に曲解して針小棒大に言いふらすヤクザものですから、誤解を招いたり揚げ足を取られるようなことを言ったのはまずかったです。ネットでは、一般の人はまたマスコミがどうでも良いことで騒ぎ立てているという冷ややかな反応、私もマスコミがバカをまた晒していると思います。マスコミも「抑止力が方便といえば方便」という鳩山氏の言葉尻を捉えて、ガタガタ言うのなら、そもそも最初に何をもって「抑止力」と言うのか、その辺をキッチリ説明すべきであろうと思います。

鳩山氏、「沖縄に米軍が駐在することが即ち抑止力として働くのではない」という、言ってみればいまや常識となっていることを言いたかっただけの事でしょう。しかし、辺野古に基地を置かないということになると、アメリカの極東軍事戦略上のマイナスとなって、間接的にアメリカ軍に帰属する「抑止力」が低下する(だろう)と思われるので、辺野古に基地を新設することが「抑止力」につながる、というちょっと苦しい理屈です。

「政治とカネ」という意味不明の言葉を使って、マスコミがイメージ操作をしようとしているのと同様に、思うに「抑止力」の本質とは何かを人は良く考えなければなりません。辺野古移設賛成派の政治家の中に「抑止力とは何なのか、具体的に正直に説明してください」と聞いて説明できる人はいないのではないかと私は思います。というのは、「’抑止力とは何か」についての理解に建前と本音、方便と真実があって、本音をおおっぴらに言えないからだと思います。

私は「抑止力」という概念そのものを信じておりませんが、実際に「抑止力」が存在するとしたら、抑止力とは「核兵器」に他ならないと思います。即ち、対立する国同士が、ボタンを押したら自分も相手も破滅するような力をお互いに持ち合うときに、その恐怖の拮抗バランスのことを「抑止力」と呼ぶのではないでしょうか。核でなくても、エボラウイルスでもサリンでもそういう意味では抑止力になり得ると思いますが、現状では「核兵器」が抑止力の本体と言ってよいのではないかと思います。ならば海兵隊程度では恐怖が足りないので、抑止力にはとてもなり得ないのは当然です。鳩山氏、「抑止力」とは核兵器のことであり、「抑止力」を行使するためには、日本に核兵器をおく必要がある、というあたり前のことを、国民に向かって言うことができなかったので、核兵器の部分をワザとぼかして「抑止力」について語ったのだと想像します。私見では、普天間基地の移設と辺野古基地の新設は基本的には独立したものでしょう。むしろ、辺野古基地新設の口実に普天間が使われているとさえ私は思います。

前にも何度か書きましたが、非核三原則は建前であり、佐藤A作が首相だったころから、核持ち込みについての密約があったことがすでに明らかにされ、そして事実、日本に核が持ち込まれていました。しかし、密約といってもも国と国との間の契約のようなものですから、簡単に反故にするわけにはいきません。普天間基地の辺野古移設の本質は、辺野古には(一応、秘密であるが)核兵器貯蔵庫があって、米軍の核の抑止力を維持するためには、辺野古に基地を造るしかない、ということだったのだろうと思います。沖縄の在日米軍そのものは、思いやり予算を取るための口実に過ぎないでしょう。だいたい、彼らは日本や日本人を守るためにそこにいるのではなく、アメリカ極東軍事戦略の一部として存在しており、極東やアジアで何か起こった時には、アメリカ軍人とアメリカ人を守るために沖縄にいるのだということが明言されています。日本をバカにした話です。それが証拠に、日米安保条約というものはいつの間にか日米軍事同盟と呼び名がかわり、在日米軍の目的は日本の安全保障のためではなく、アメリカの軍事戦略のためにあり、日本はアメリカの軍事戦略に協力しなければならないというフザケた内容に変化しています。

鳩山氏、さすがに立場上、沖縄には核兵器庫があって、その核兵器が抑止力の正体だ、沖縄の人はガマンしてください、とは言えなかったのでしょう。一方、非核三原則を盾に沖縄海軍と核兵器の全面撤退を要求する事も可能であっただろうと私は思います。しかし、思いやり予算や基地のスペースなどなど、日米軍事同盟というのは、アメリカにとって余りに美味しすぎるわけですし、また、沖縄や日本側にも、基地にぶら下がる利権者は大勢いて、日本側も一枚岩では全くない、そんななかで、鳩山氏は、各方面から脅かされたのだろうと私は想像しています。

いずれにしても、抑止力とは方便だ、というのは、本音でしょうが、真実をぶちまけることができないのなら、言うべき台詞ではありませんでした。鳩山氏、口が軽いとか、無責任とか、いろいろ怒っている人もいるようですが、私は、政治家として鳩山氏は正直者すぎるのだろうと思います。人間としては軽いのが良いと私は思っておりますし、正直は最上のポリシーだとも思います。だから、日本という国は、政治家が国民に向かって方便を言わねばならないような国、つまり正直にものが言えないような国であるいう事実の方が、鳩山氏の発言そのものよりももっと深刻な問題であると私は思います。

小沢氏支持の民主党衆院議員16人が会派の脱退届けを出したとのこと。宣戦布告ですね。いろいろな思惑もあるのでしょうが、これで、ただでさえ国会を乗り切れずに総辞職か解散になるだろうと予測される空きカン政権にトドメの一撃になるのではないのでしょうか。民主党を蹴り出されるべきなのは、クーデターで政権をとった空きカン一味でしょう。早いとこ全員消えてもらいたいと切に願っております。三月に空きカンが雪隠詰めになって辞めざるを得なくなったときにヤケクソ解散総選挙になって空きカン一味が消えてくれるかも知れません。楽しみです。
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強さの秘密、大阪デモ

2011-02-15 | Weblog
国策捜査で検察に嵌められ、検察と癒着した裁判所から不公平な実刑判決を受け、「それでも国の決めたことだから従う」と言って、収監された鈴木宗男氏、その獄中からの最近の手紙を読みました。(http://www.tokyo-sports.co.jp/hamidashi.php?hid=12083)

手紙の大半は、国策捜査で冤罪を着せられた鈴木氏自身の経験を踏まえて、現在、同様に政治失脚を図られ、国家権力の暴力に晒されている小沢氏への激励なのですが、私は手紙の最初の部分を読んで、心を動かされました。その部分を転載します。

昨年12月に東京拘置所から栃木にある喜連川社会復帰促進センターへ移送され、はや2か月がたちました。これまでの刑務作業は紙袋作りなどを行っていましたが、1月に入ってからは本格的作業に従事しております。
センター内にある病棟の衛生係で朝、昼、夕食の配食や食事後の回収作業などをしています。食事がない日はありませんから365日、毎日になります。出来上がったおかずを手際よく公平に皿へ分けるのですが、ここが気を遣うところです。ほかにも毎日、仕上がった洗濯物を各室へ届け、平日は週2回、施設にある本 (官本)の貸し出しの役目もあります。今、まさに修行中の身といった具合です。


淡々と所内での生活を綴っておられます。そこには「国策捜査で嵌められて、刑務所内の雑用をやらされている」というような恨み節は全く見られません。鈴木氏がおかずを公平に皿へ分けるのに気を使っている様子が目に浮かびます。選挙区の、そして国家の代表としてロシアを初めとする外交に尽力してきた政治家の鈴木氏が、この刑務所内の小さな作業にも、同様に真摯に取り組んでいる様子が滲んできます。「修行中の身」という言葉に、鈴木氏の謙虚さ、誠実さが表れていると思います。

この鈴木氏の強い心の源泉は何なのでしょうか。国の代表としての仕事にも、そして刑務所内での小さな仕事にも、同じ様に心を砕いて誠実に努めようとする態度、理不尽な国策捜査で冤罪を着せられて苦境に立たされてなお、怒ったりふてくされたりすることなく、静かな心で与えられた仕事に誠意をもって取り組むことができる、その心の強さの源とは、謙虚さと感謝の心であろうと、私は察しております。収監前に、ムネオ日記に記されたように、この理不尽な運命に際しても、家族や支持者の人々、多くの現役政治家の信頼と友情を持つ事ができたことに感謝し、幸せだと実感できる能力、それが、鈴木氏の強さの秘密だろうと思うのです。
 この鈴木氏と同じ境遇に落とされたら、空きカンとか岡田氏とか悪徳弁護士とかマエハラ氏とかの「人間のできていない」連中ならどういう態度を取るだろうかと想像せずにおれませんでした。鈴木氏のように静かな心で、真摯に作業に取り組むなどということが、彼らにできるのでしょうか?

最近、読み出した本、「thanks! How the new science of gratitude can make you happier; Robert A Emmons, Ph.D. 日本語訳、Gの法則-感謝できる人は幸せになれる」には、感謝の念を持つことが幸福感に繋がることを科学的データをもって考察されてあります。最初に、スティーブンキングが交通事故で車にはねられて多発骨折などの大けがをしたときに、彼が「ありがたいことだ」と言ったというエピソードが紹介されています。「自分をはねた運転手が殺人者にならなくてよかった、神のご加護だ」と言ったそうです。人は苦しい時ほど、「ありがたさ」に気がつくものです。私も「感謝の念を持つこと」の有用性を苦境の中から学びました。
 感謝する習慣というのは、トレーニングで身につけることができるようです。若いころ、健康で、自分が有能だと信じていて、自分は自分一人の力で生きていると思っている時、人はしばしば傲慢になり、謙虚さを忘れ、人間は奇跡のような恵みの上に生きているということを理解できません。それが理解できないと、なかなか幸せになれません。私も若い頃は、うつ傾向が強くて苦しみました。エゴが大きければ大きいほど、うぬぼれが大きければ大きいほど、謙虚になることを覚えられず、幸せから遠ざかるになるのだろうと思います。私は、年を取ってから、うつになることが少なくなりましたが、その理由は多少は謙虚になることができて自分の境遇が恵まれていることを実感できるようになったからではないかと思っています。
 日本語で感謝するときに「ありがとう」と言います。良いことはなかなか有ることではない、という意味でしょう。感謝の対象は、その縁起であり、あえて言うなら有り難いことを起こしてくれた「神」だと思います。ならば、人間の力を越えた偉大なものの存在の前で謙虚になって言う言葉が、「ありがとう」ではないでしょうか。感謝できる能力というのは、自分よりも偉大なものの存在をacknowledgeし、その前に謙虚になれる能力と密接な関係があると私は思っております。

鈴木氏の強さとは、刑務所内の衛生係の仕事をさせられながら、させられているという意識さえなく、「修行中の身」だと思える心、刑務所の雑用でさえ、天が与えてくれた成長の機会だと謙虚に感謝できる心ではないかと私は思います。


さて、先の土曜日、第二回目の『市民が訴える 「大阪宣言」の会 御堂筋デモ 2011.02.12』が行われました。オンラインのビデオ(http://www.ustream.tv/recorded/12637562#utm_campaigne=synclickback&source=http://sassanarimasa200.blog59.fc2.com/&medium=12637562)で様子を見ました。その様子をブログ、「日々坦々」にレポートされていましたので、転載します(http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry-888.html)。

このデモを見ていて感じたのは、これは明らかに「菅内閣倒閣デモ」だということである。
「菅内閣は国民の敵だ!」
「消費税を上げるな!」
「菅内閣は即刻退陣せよ!」

とシュプレヒコールも過激だった。
マスコミや検察に対しては、
「マスコミは国民の敵だ!」
「マスコミは恥を知れ!」
「マスコミは偏向報道をするな!」
「記者クラブを解散せよ!」
「検察は裏ガネを返せ!」
「検察審査会は解散せよ!」

また
「チュニジア・エジプトに続け!」
「小沢政権を樹立しよう!」
というものもあった。

コースも難波の繁華街で人通りが多く、最後列には途中から加わったように、最初より長い列が出来ていた。
人が多いところでは「フレフレ小沢!」や「小沢コール」が随所で鳴り響いた。

主催者発表では800人ということだったが、もっといたように感じたのは、一人ひとりが声が出ていて、拡声器を持っていた人がたくさんいた事もあったと思う。


ビデオでは、「国民をバカにするな」というシュプレヒコールもありました。このデモに集った人は、少なくとも、

1) 記者クラブで国家権力と癒着し、捏造偏向報道で国に都合の良いように国民を洗脳してきたマスコミの罪、
2) 官僚組織が国家権力を利用して税金を横領し裏金づくりをしてきたこと、
3) 小沢氏の一連の資金疑惑が官僚組織の利権構造にメスを入れようとする小沢氏の失脚を狙った謀略であること、
4) 空きカン一派が政権運営能力ゼロである上に保身のためには国民や仲間を裏切ることを屁とも思わない見下げ果てた卑怯者であること、

を知っていて、行動を起こされました。

官僚組織やマスコミにバカにされ利用されてきたことに気づく国民はますます増えるでしょう。去年、東京を皮切りに各地で自然発生的に始まったこの手のデモ、参加人数はまだまだ少ないですが、ガス抜きで終わるのではなく継続していっているところが頼もしいです。私は参加がちょっと困難なので、こうして陰ながら応援している次第です。

それにしても、イエメンでの約千人の反政府デモは報道するくせに、これまで日本各地で10件はあった千人規模のこれらの市民デモを(東京新聞以外は)一切、無視して来た日本のマスコミ、さすがは偏向捏造報道の詐欺商法、付ける薬がありません。

民主党役員会議で小沢氏の「党員資格停止処分」を決議したとのこと。この中途半端な処分の決議をするところに、この政権政党幹部のアホが丸出しになっています。無罪の自党のしかも政権交代の功労者に「処分」をしたという事実は、そのままこの空きカンどもにブーメランとなって返ってくるでしょう。一方、党員資格処分などという殆ど何の実効もない処分では、小沢氏の力を削ぐことになりません。ま、最悪の判断ですね。「処分不要」として裁判にまかせるとでも言っておれば、まだ将来に繋がったのに、自ら袋小路に入り込みました。つける薬がありません。
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Negative dataについての雑感

2011-02-11 | Weblog
2/3号のNatureのCorrespondence欄に、最近話題になった超能力の存在を報告した論文について、"Nagative data"の重要性についてのコメントが寄せられています。超能力の研究は数十年前は盛んで、プリンストン大にも超能力研究所がありました。結局、超能力が存在するという客観的な証拠が得られず、確か研究所は閉鎖になったはずです。因みに私は超能力を信じております。超能力を持つ人間と余り持たない人間がいて、多分、後者が圧倒的に多数なので、被験者をランダムに選ぶと、科学的には証明できないのだろう、と想像しております。これは一つの"Negative data"です。疾病に対するある新薬の薬効を調べる場合でも、患者対象をある基準で絞り込めば、絞り込まない場合に「有効とは言えない」という結論が、「有効」と判断されるようになることがよくあります。"Negative data"は、数多くの明らかでない原因によって得られるわけですが、場合によっては、その原因を明らかにして排除していくことで"Positve data"になる可能性があるということです。科学研究の場合、Positive data は、即ち、何かと何かを比較して、差のあることが統計的に示されるということであり、通常は「比較されているものの間には、差がない」という「帰無仮説」を却下することによって得られます。(帰無仮説の棄却によらずに、直接「差があること」を検定する方法もあるそうですが、私のような実験研究者が使う統計処理には普通、用いられないと思います)ですので、通常の統計処理だと「差がない」という帰無仮説の却下に失敗した場合に「差があるとはいえない」という"Negative data"になるわけです。「差があるとはいえない」と「差がない」には天と地ほどの開きがあります。話はちょっと変りますが、小沢氏の問題などでの推定無罪というのはこういう理屈と共通するものがあります。即ち、「罪がない」ことを証明することは不可能なので、「罪があるとは言えない」ことをもって「無罪」とみなすということです。これは、国民全員にあてはまります。われわれが道を歩いていていきなり逮捕されたりしないのは、「罪を犯していない」からではなく、「罪を犯しているとは言えない」からに過ぎません。そして「罪を犯しているとは言えない」ことを「無罪」と呼んでいるのです。
 "Negative data"の話に戻りますと、帰無仮説の却下に失敗する場合というのは、数限りない可能性があります。極端な話、実験のヘタクソな人に実験をやらせると、本人でさえ自覚していないような誤りをおかしてヘンなデータがでて、本来、"Positive data"になるべきものでさえ、"Negative"になったりします。ですので、"Negative data"は、解釈可能なものから、この手のどうしようもないレベルのものまで質がバラバラで、"Negative data"のクオリティーを判別することが困難なことが多いので、大抵の場合、"Negative data"は、出版されることも少なく、闇から闇に葬られることになるのです。しかし、"Positive data"にも同様の可能性があります。実験にヘンな癖のある人が、知らない間におかす誤りによって、"Positive data"になる場合もあります。それで、通常、研究者は常にデータを疑って、色々な可能性を見分けるために複数のコントロール実験を行うわけです。因みに、実験で常に考えておくべきものとして、(あいにく出典を知りませんが)「ポジティブコントロール、ネガティブコントロール、そして実験の価値」であると私は習いました。この三つの言葉を私は机の前に貼付けています。
 さて、"Positive data"とは何か、それは通常、何かと何かを比べて、統計処理を行った場合に、ある一定の危険率(通常、0.05未満)をもって、有意差がある、と判断されたデータのことです。危険率は本当は差がないのだけれども、マグレ当たりで差がでると判断される確率を示します。とすると、例えば、危険率0.049で有意とされた場合、4.9%の率でその仮説が誤りである可能性があるということです。
 それで、このNatureのコメントにもどりますと、この超能力を証明した論文、これが、もしも危険率5%で有意と判断されたデータであるならば、その結論が誤りである可能性が5%あるということになります。一方、これまで数多くの超能力の研究は行われて来ており、プリンストンの超能力研究所が閉鎖になったのも「超能力が存在する」という"Positive data"が得られなかったからです。この手の超能力の実験は、実験数が少ないうちは何らかの有意差が出る場合が多いようですが、実験数を増やしてやると、結局、差が消失してしまうのだそうです。とすると、この超能力が統計的有意差をもって存在するという結論を得たこの論文はたまたまPositive data だったので出版されましたが、表にでてこないものの中には、おそらく「超能力は統計的に存在するとは言えない」という"Negative data"は無数にあって、多くは出版されずに忘れ去られていると考えられます。一つ一つの論文を一データとして眺めると、このCorrespondentの人の主張は、例えば19報の『超能力が存在するとは言えない』という出版されなかった論文があったとして、この1報の論文が危険率5%で「超能力が存在する」と言うのであれば、この論文が危険率5%のマグレ当たりである、という可能性もあるのではないか、という話です。
 私、これは正論だと思います。しかし、出版されていない"Negative data"を解析に加えることはできませんから、いくら厳密にやろうとしても、統計処理の前に、恣意的な線引きは行わざるを得ません。だからこそ統計データというものはその前提を十分考慮することが大切だろうと、私は思います。

 また出典不明の話ですが、イギリスで年間観察されたコウノトリの数と赤ちゃんの出生率の相関を調べたら有意な相関があったそうです。この統計結果から意味のある結論を導く事ができるかどうかは、コウノトリと赤ちゃんとの間に何らかの関係が存在するという仮説がある場合です。例えば、コウノトリが赤ちゃんを運んでくるという仮説が、科学的根拠に基づいて考慮される場合、コウノトリの数と出生率の相関性が仮説を支持するという議論をするのは順当だと思います。あるいは、コウノトリと人間の生殖行動が何らかの共通のメカニズムで同様に制御されている、という仮説がある場合もOKだと思います。しかるに、超能力の場合はどうでしょう。超能力がどのようなメカニズムで可能となっているのかという(因果論的)仮説が多くの場合欠如しています。科学というのもは基本的に唯物論、因果論に基づいて観察される事象の説明を求める活動ですから、この例のようにリーズナブルなメカニズムなしに、単に統計処理をしたら有意差が出た、というだけでは、そのデータには、科学的な意味がないと私は思います。
 私は超能力は信じておりますが、超能力が科学的方法によって示されるかという点においては懐疑的です。一方、統計は余り信用しておりません。簡単な思考実験をしてみます。完璧に作られたさいころを投げるとします。10回連続して投げてみると、10回とも1が出たとすると、普通は驚いて、宝くじでも買ってみるか、という気分になるのではないでしょうか。それは10回連続して1がでる確率が極めて低いことを知っているからです。その確率とは完璧なサイコロを投げると、ランダムに1 から6の数字が出るという前提に則って計算されるわけで、この場合だと自由度5のカイ二乗分布に従う(たぶん)として計算されます。しかし、私には「ランダム」というものが実際にあるのかどうか、よく分かりません。ある事象がランダムに起こっているように見える時に、それが本当にランダムであるかどうか証明できるのでしょうか?どこまでいっても、「ランダムでないとは言えない」というレベルに留まるのではないでしょうか。
 また、確率に関して私の気に入らないことは、サイコロで1が連続して10回でてスゴいというのは、この10回をまとめて考えてはじめて意味があります。過去9回のサイコロの結果を忘れてしまえば、サイコロをふったら1が出たということには何の驚きもありません。ならば、この結果がスゴいかどうかは、その事象の観察者が恣意的にどの結果を解析に含めるかによって全く変ってくるということになるのではないでしょうか。同様のことが、この超能力論文にも言えそうな気がします。

さて、Negative dataの問題は、研究活動の様々な面から考える必要がある問題だと思います。例えば、実験的研究では、多くの場合で、違う研究室で行った"同じ"研究が異なる結果を産むことがあります。その場合に"Positive data"を出した方は出版できますが、"Negative data"であった方は出版に苦労します。そしてしばしば、Negative dataを出した方は、positive dataにならないかと思ってしつこく実験するので、Positive dataを出した方よりも、結論が正しいことがままあります。そうすると、sloppyに実験をやってマグレでPositive dataが出た方が、誤った結論を出版して、"Negative data" に終わった方はその誤ったデータが出版されたお陰で、ますます出版が困難になるということがしばしば起こります。科学出版においては、仮説を検証しして何らかの真実を明らかにするという研究活動の結果がPositive dataになるかNegative dataになるかで、論文の帰趨は大きく変わります。この辺がPositive dataを得ることに対する研究者の強いバイアスとそれに伴う捏造データ事件の理由でもあると思います。

時間が切れてしまいました。エリスロポイエチンを物理的に発見したEugene Golwasserの訃報の記事について書くつもりでしたが、それは次の機会に譲ります。
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アメリカ流民主主義の欺瞞

2011-02-08 | Weblog
エジプトはアラブ諸国の中では、もっとも科学研究が盛んな国のようで、Natureの1/27号の記事によると年間の科学論文出版数は約4000あります。しかし、科学研究に回される資金の割合や研究者数の割合でみると、そう高いわけではなく、人口とGDPが他国よりも多いので結果として数がでているということのようです。一方、科学に資金を回す割合が最も多いのがチュニジアで、百万人あたりの研究者の数もヨルダンに次いで二位、約1600人います。アラブ世界において、これらの科学研究が盛んな国で市民革命が相次いで起こっているというのは興味深いと思います。科学者は批判的に物事を見る訓練を受けますから、その辺りの思考様式が市民革命に関係があるのでは、と想像したりしている訳です。
 エジプトでは、これまでのムバラク政権は親米でした。もっと言えば、アメリカ傀儡政権に近いものでした。ちょうど日本と同じです。この市民革命は、独裁政権に対して民主主義を求める戦いである、と日本では報道されていますが、どうも実情はそうではなさそうです。エジプト出身のFiFiさんのブログに次のような記載があるのを知りました。(http://ameblo.jp/fifi2121/)

そもそもこの革命、エジプトの民主化運動なんて言葉で軽く繰られても、それでは深いところは読めませんよ。
エジプトは他のアラブ諸国に比べたらただ一点を除いては不自由なく生活している国ですからね。はっきりいいましょう、ムバラクは確かに長年政権を握ってきたので独裁政権です。しかし、それはアメリカの作った親米政権による独裁であるわけで、国民はその親米による独裁に憤慨しているのです。それはなぜ独裁政権である同じアラブの隣国リビアではこの時期に革命が起きないかとゆう理由が物語っています。要するに民主化を求めているならリビアでも同じように革命が起こっておかしくないですよね?つまりこれは民主化運動とは違うんです。親米政権にウンザリなんです。リビアはちなみに反米政権です。


反米運動だったのですね。この辺りが、日本国民とエジプト国民との社会意識の差でしょうか。一昨年の政権交代で、鳩山-小沢政権を米国からの独立を目指すための政権であった、と見ていた日本国民は一体、何割ぐらいいたでしょう。そして、デララメ極まりない国家権力を利用した小沢氏の失脚工作が、日本独立を阻止しようとするアメリカからの攻撃であったと理解している国民はどれぐらいいるのでしょうか。
 日本は民主主義という名前を被った独裁国家でした。独裁といってもヒトラー、ムソリーニ、フランコやマルコスみたいな具体的な独裁者がいるのではなく、日本における独裁者とは官僚-マスコミ-財界といった既得権益者の複合体であり、個人ではなく、いわば巨大な粘菌状のものです。そのことが、日本が独裁国家であることを、そして本当の敵をわかりにくくしているのだと思います。独裁国家の問題は、国民に主権がないことです。独裁国家が国民主権の喪失であると定義すると、日本は独裁国家以外の何ものでもないと結論せざるを得ません。いくら国民が望んで、政治家に期待をかけても、空きカンのような信念と誠実さのないクズでは、保身と権力欲を突かれて、すぐに独裁粘菌複合体に抱き込まれて国民との約束を平気で裏切るようになりますし、国民のために働いて既得権益複合体の利益を崩そうとする鳩山-小沢民主党のような政治家は国家権力とマスコミで謀略に嵌められその力を削がれます。私は私よりももっと年長の研究者の人が書いているブログなども拝見しておりますが、そんな批判的にデータを眺めるトレーニングを積んで来た人でさえも、日本は民主主義国家で、新聞は社会の木鐸で、検察や警察は国民と社会の安全を守るためにあり、日米同盟は日本の安全保障のためにある、というデタラメをそのまま信じておられたりします。この辺りが、エジプトよりも日本で国民主権を確立することが、遥かに難しいという理由ではないでしょうか。

オバマは先のState of Unionの演説で「民主主義」を何度も口にしました。アメリカがこの言葉を外交というコンテクストで唱える時は危ない、と私は感じます。不条理の固まりの空きカンが「不条理を正す政治」と言ったのは、明らかに不条理な小沢排除をやる、という意味でした。自分が不条理を犯している場合に、まず不条理でないものを不条理と決めつけて先制攻撃するのが不条理の人間のやり方です。私にもこの手を使う隣人が居るのでよく分かります。喩えるなら、一方通行を逆向けに堂々と走り、普通に走っ来た人に対して、イキナリ怒鳴りつけて道を開けさせるヤクザのようなものです。同様に、アメリカが「民主主義」と言う時、それは民主主義的でない謀略が隠されていることが多いワケです。あたかも「民主主義」を世界に広げて世の中を良くするのがアメリカの役割なのだ、というような顔をしていながら、エジプトの独裁政権をずっと支えて来たのはアメリカであり、日本の独裁粘菌複合体を組織してきたのもアメリカでした。今回のエジプト市民革命、アメリカは民主主義という建前が足かせとなって、親米ムバラク政権側をおおっぴらに支援することができなくなっています。恐らく、政権の交代のあと、日本で鳩山政権を潰して、空きカンを据えたようなやりかたで、独裁を続けさせようとするのではないかと思います。アメリカのエジプトへの介入とはこの工作に他ならないのだと思います。ただ、エジプト市民は明らかにこの辺のウラについて、日本国民よりもはるかに意識的なようなので、エジプト国民は、次の政権が顔を変えただけの親米独裁政権にすることを許さないだろう思います。それに比べると、日本の状況は暗いです。日本が民主主義国家になるのは、具体的な独裁者のいる北朝鮮よりも難しいのではないか、と感じざるを得ません。

名古屋市長選、河村氏当選、民主惨敗。リコール署名の不正却下という選管の汚い手を市民がヒックリ返して市議会がリコールされ、出直し選挙となった今回ですが、知事選と絡めるために市長辞任したという河村氏の選挙戦略には賛否ありますが、こうして既得権受益組織にメスを入れることができたのだから、私は素直にこの当選を喜びたいと思います。市の税金無駄遣いを排除して減税する、と約束して市長になった河村氏に、給料を減らされては困ると議会が強い抵抗を示したため、市長自らが旗を振って議会のリコールを主導しました。これは名古屋だけの問題でなく全国の問題で、もしもこれで名古屋市が税金で養われている組織の給与カットなど無駄の削除に成功したならば、霞ヶ関を含む全国の役人にその余波が及ぶことになるでしょう。「官僚の一番好きな食べ物は何ですか」と訊かれて、河村氏「そりゃ税金にきまっとるがにぇ。ヤツらは、税金が増えりゃ、自分たちの財布が膨らむ、、」と言ったそうで(http://latache1992.blog56.fc2.com/blog-entry-392.html)それで、官僚も官僚の操り人形の空きカン連中もマスコミもこの名古屋市長選での河村氏の当選阻止を願って、対抗馬を立て、ネガティブキャンペーンをはったのです。河村氏らの公約は、無駄の削減と減税で、市民や県民、日本国民が望んできたことです。そして鳩山-小沢民主党の総選挙時の約束であります。空きカンはタナボタで首相になった瞬間からこの国民との約束を反故にし、増税路線を明確にしてアイソをつかされました。こういう誠実さのカケラもない小人がもっとも害をなすのですが、悪いことに、日本の公僕の中にはこの手の人間が少くないのが現実のようです。(だいたい連中には公僕という意識がありません)
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科学的でない科学論文レビューのことなど

2011-02-04 | Weblog
市中引き回しにあっている論文、一番の大きな原因は同じマウスを先に出されてしまったことですが、その後、ますます状況は難しくなってきました。そもそもphenotypeが比較的マイルドというだけで解析が困難なのに、そのマウス作ったという部分を先に出されると、出版のハードルは一気に多分5倍に跳ね上がるような感じです。私は、時間がかかってもよい仕事をする方が大切だ、と信じてきましたが、近年の科学出版では「話題性」と「スピード」が以前にも増して重視されてきているような気がします。昔から競争はありますし、同じ結論であれば少しでも早く出したものがクレジットを取るというルールは変っていませんが、論文の数が飛躍的に増加し、レビューアーの負担が増える一方の今のピアレビューシステムでは、出版しようとする方もレビューする方も仕事が雑になってきているのではないでしょうか。これまでのリジェクトではだいたい一人はOKでもう一人がダメという場合が多くて、残念なことにダメという方は、原稿をきっちり読んでくれていないのです。ま、読みやすい原稿を書くのは著者の責任ではありますが、字数制限があり、実験方法が複雑な場合に、レビューアーが雑に読んでもちゃんと理解してもらうように書くのは易しいことではありません。
 レビューアやエディターが忙しすぎるのが原因の一つではないかと思います。時間がないと、パッと見て、最初に取るか取らないかを決めて、それに沿ってレビューしがちになります。一方、そのレビューアーやエディターの心理を読んで著者の方も原稿を書きますから、より話題性が高くてインパクトのありそうな題材をパッパッパと出したい、と思うでしょう。そうなれば、ただでさえ、時間と労力のかかるマウスの実験では、解析が雑になってしまいますし、ストーリーが先行して、それに沿ってデータを出すという本末転倒が起こりやすくなるのだと思います。ストーリーをまず書いてそれにそって証拠を集めようとすると、日本の検察の捏造事件や冤罪のようなことになります。
 私の研究分野で一流紙に論文を連発する評判の悪い人が、まさにこのスタイルで、ボロが出始めました。ちょっと前、C紙とN紙の姉妹紙に出した論文は、その結論を疑って追試した人のデータから、どうも論文の結論の根拠になっている一つのデータは実験手技の未熟さによるアーティファクトの可能性が強いという結論になりそうです。ここで、この人がこの論文に対する批判の扱いを誤ると研究者としては葬り去られるかも知れません。この人の初期の頃の論文は比較的マトモでした。その後、有名雑誌にバンバン出版し出してから、ちょっとおかしくなって来たようです。しかし一旦、有名雑誌に連発しだすと、レビューアーの方も有名雑誌に出している人だから信用できると思ってしまうようです(実際にそう書かれたレビューを見た事があります)。検察が起訴したら99%有罪になる、ならば検察に起訴された以上は有罪だろう、というのと同じトートロジーです。これでは、批判的レビューになりません。しかし、そんなレビューアー心理があるのが現実で、有名研究室からは論文は通りやすく、そうでない研究室やアジアや東欧など国からの論文は同じような内容でも雑誌のランクが2ランク落ちるということになるわけです。科学論文のレビューは科学的ではないということですね。

検察の起訴で思い出しましたが、小沢氏の検審会の起訴議決(たぶん架空の)を受けての起訴、マスコミは相変わらずバカのように理屈の通らないタワケ話をガナリたてていますが、空きカンや岡田氏は多少トーンダウンしてきているようです。連中にもこのでっち上げ事件が無理筋なのが分からないわけがないわけで、無罪になる裁判でしかも検察審査会という怪しい団体の起訴議決を根拠にしつこく言いすぎると、無罪になった時に自分側に攻撃が向かってくると思っているのではないでしょう。マスコミはそもそも無責任で、どんなウソを書き立ても誰も責任を取りませんから、確信犯でどんどんデタラメを並べ立てますが、政治家個人ならマスコミのレベルの無責任では政治生命にかかわります。
 この検察審議会のそもそもの趣旨は、直接的な被害者がいる事件において、検察がクロである証拠を握っているにもかかわらず、圧力などを受けて起訴をしない場合に、被害者が起訴を促すのが目的のものです。小沢氏の場合は全く逆で、検察は二度もとんでもない言いがかりをつけて強制捜査をした挙げ句に、何の証拠も得られずに不起訴となっただけのことで、まずは、救済すべき直接の被害者がいません。加えて、検察が不起訴にしたのは犯罪の証拠がないからであって、小沢氏の関連者が検察に圧力をかけて起訴を諦めさせたわけでもないのです。建前上、検察審議会は直接の被害者でもない人間の告発を受理すらすべきでなかったわけです。また容疑は資金報告書の日付を秘書が正しく書かなかったことに対する共謀罪です。(しかも、会計の慣例からこれは違反でさえないそうです)。報告書の日付を変えることの犯行の動機は何だと思っているのでしょうか。刑法では「犯意」のないものは罰せず、とあります。これが書き間違えの違反なら訂正すればすむだけのことで、そうではなくワザとやったというのなら犯行動機を検察は証明する義務があります。このデタラメ極まりない検察の起訴に何十億円という税金がつぎ込まれ、こともあろうに、不起訴になった件を「検察審査会」という違憲の組織を利用して議決をでっちあげて、起訴したわけです。そして検察官役の弁護士の一人は「有罪にするために努力する」と開いた口が塞がらないようなコメントをしました。この件においては検察の言いがかりで大々的な捜査をやって証拠がないとなった上で不起訴になったのです。検察審議会の議決を受けた起訴は有罪にするのが目的ではなく、検察が起訴しなかったことが妥当であったかどうかをはっきりさせるのが目的です。このバカは本当に弁護士なのでしょうか。この検察官役の弁護士は、悪徳弁護士と同じ弁護士会に所属する連中で、悪徳弁護士とは同じ穴のムジナですから、仕方ないのかもしれませんが。起訴状を読んだ郷原弁護士、「ひどい代物」とあきれ果てたそうです。 
 また空きカンや岡田氏、野党、マスコミが、小沢氏は政治倫理審査会へ出て説明しろ、と言っていますが、かれらは政倫審の趣旨を全く理解していないノータリンか、あるいは分かっているがワザとやっている確信犯のいずれかでしょう。この会はそもそも小沢氏が作ったもので、これは、ある政治家に倫理的問題の疑いが持たれているにもかかわらず、検察が適切な捜査などをしない場合に、その政治家自らが国会で疑惑を説明することによって、疑惑を晴らし、本人の政治家としての権利を守るために行う自主的に行う会です。ですので、小沢氏が何度も言っているように、検察が捜査して起訴している段階なのであれば、政倫審に出ることそのものに意味がないということになります。なぜなら、政倫審は不当に検察が介入して政治家としての活動を妨害するのを予防するために行うものだからです。これが趣旨をはき違えられ、政治家の権利を守るためではなく、小沢氏を人民裁判にかけて、逆に政治家としての権利を侵害するために、悪利用されているのです。
 それでも、小沢氏は、「政倫審にでることが、国会運営に役立つのなら出る」と言いました。ところが、さすがは昼行灯、岡田氏は、政倫審へ小沢氏を出す事で国会運営をスムーズにするために野党の根回しも何もせずに、国会に出ろと繰り返すだけ。行ってみれば、戦略なしに突撃部隊に爆弾を持たせて突こっませて、無駄死にさせようとするようなものです。しかも自分の育ての親ともいえる上官に特攻させようとするのだからヒドい話です。ま、岡田氏も実家の企業をネタに脅されているのかも知れませんが。
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逆SLAPPで逆襲

2011-02-01 | Weblog
平成のジャンヌダルクとの異名をとる(らしい)森ゆうこ参議院議員の活躍、なかなか痛快なものがあります。一方、義を見て見ぬふりを決め込む他の議員はナニをやっておるのかという気になりますね。小沢氏の検察審議会による起訴議決が架空で無効なものであるらしいことを明らかにして来られましたが、小沢氏はこの架空議決で起訴されました。受けて、森議員は「100%無罪だと思う」とコメント。マスコミは集中的に反小沢系議員からコメントをとって、起訴されたのだから辞めろ、国会に出ろ、という論調を作り上げようと、見え見えの記事づくりをしています。森議員は、検審が正当に開かれたという証拠の開示をこの数ヶ月にわたって要請してきたものの、検察審査会事務局はノラリクラリとその正当な要求をかわしつづけてきました。(この一連の検審についての経緯は、「一市民」さんのブログを参照ください。http://civilopinions.main.jp/)でっち上げているのですから証拠を出せるはずがありません。そもそもこの検察審議会の支出報告を見ると、検察審査会という制度はどうも裁判所の裏金づくりに利用されて来たようです。三井環さんが告発しようとして、逆にでっち上げの罪状で口封じ逮捕された検察の裏金、つまり、調査費の名目で請求したカネを遊興費などに当てて来た、という検察の税金横領と同じです。即ち、検察審議会は架空の審査会をでっちあげ、交通費などを審査委員に配ったことにして、それを横領して来たということらしいです。小沢氏の東京第五検審会も、多分、いつものように裏金づくりの架空審査会を気軽にでっちあげたのでしょう。架空であれば、異なるはずの審査員の平均年齢が一回目と小数点以下まで全く同じでも、一週間の間に7回も審査会を開くことも、審査補助弁護士が決まってから膨大な資料を読み込んだ上で民主党代表選の開票日に合わせて一週間で議論が煮詰まるのも、ありえるでしょう。(科学論文でも、架空のデータならどんな厳しいリバイスでもお茶の子サイサイです)この検審、議事録はなし、審査員への交通費などの支給情報も年齢も、いつ開かれたかという情報さえも、明らかにすることを拒否してきました。最後まで騙し通せるとでも思っているのでしょうか。その森議員、遂に堪忍袋の緒が切れたのか、情報開示しないと国会議員としての権限を行使すると最高裁を脅した、という話を聞いて、私は少し心配になりました。(森議員のサイト http://my-dream.air-nifty.com/moriyuuko/2011/01/post-8d29.html)明らかに、連中は追いつめられています。窮鼠猫を噛むという喩えもあります。政府と官僚の金の問題を告発しようとしていた石井議員は空きカンとの会談の翌日に殺されました。外務省の闇を知りすぎた鈴木宗男氏は冤罪逮捕、有罪判決を受けて現在、収監されています。官僚組織の闇を探ろうとする人は、ことごとく嵌められてきました。森議員一人では、官僚組織を追い込み過ぎると、連中は非常手段を取ってくる可能性があります。あるいは、小沢氏へのこの起訴がこのタイミングで行われたのは森議員の最高裁への脅しが引き金だったのかもしれません。検察がわりの弁護士も、この無理筋の起訴で恥をさらしたくないでしょうから、石川議員の裁判を待ってからやりたかったはずです。石川議員の容疑がそもそもでっち上げで検察に都合の悪い証拠がどんどん出て来ている状況ですから、石川議員はまず無罪になるでしょう。そもそも容疑そのものが資金の出入りの日付が違うという言いがかりで、小沢氏は石川議員と共謀して日付をかえたという容疑。検察は「何のために日付を変えたのか」という「犯行の動機」さえ言えないのです。犯行も犯行の動機も最初から存在しないので言えないのはあたり前ですが。とにかく、石川議員が無罪なら小沢氏は自動的に無罪で、独立して裁判をする意味がありません。そうなってくれれば検察代わりの弁護士もメンツを潰さずにすむと思っていたでしょう。小沢氏側にしてみれば、裁判で数々の検察の不正が明らかになれば、今の段階ではむしろ好ましいとさえ思っているかも知れません。これが無罪にならなかったら、日本の法治は完全に死んでいます。しかし、敵の目的は、小沢氏の政治力を断つことであって、有罪にすることではないわけで、とにかく起訴して「容疑者」と呼べるようになれば、マスコミ連中や反小沢連中は一層小沢氏失脚に役立つと考えているでしょうから、彼らも取りあえずの目的は達したと思っているでしょう。それが彼ら自身の墓穴を掘ることになるだろうと私は思います。小沢氏はこれまで、この件でマスコミが騒ぎ立てる度に、代表を辞め、幹事長を辞めてきました。それは日本に民主主義社会を実現するために民主党政権を確立するという目的のための手段でした。しかし、マスコミや反小沢議員のアホウどもはその辺が本当に分かっているのでしょうかね。連中、この調子でバッシングすれば、小沢氏は議員をやめて離党してくれるだろうとタカを括っているのかも知れませんが、今回は小沢氏は引かないと思います。なぜなら、引けば、日本に民主主義社会を実現するという目的は、むしろ達成から遠のくからです。政治は権力闘争だとしか思っていない平和ボケの空きカン連中は、その見識のなさと大局観の欠如を、アメリカに利用されて、アメリカと官僚のよる独裁国家としての日本のシステムの維持に向けて行動しています。

ところで、名古屋、西宮で検察とマスコミの横暴に対する市民デモが行われました。Youtubeで見て、この市民活動がエジプトなみに広がれば日本は変わるのにと思いました。若い人の参加者はまだまだ少ないのが残念でした。目の前のことで精一杯でマスコミのウソを比較的無批判に受け取ってしまう彼らにこの国の異常さを理解してもらうのは容易ではないのかも知れません。それにしても、つくづく思うのはこの国のマスコミほど卑怯者のウソつきはいないということです。今は特に朝日が酷い。あの三流新聞の産経がマトモに見えるぐらい酷いです。

そのマスコミの捏造、偏向報道に対して、新聞購読やテレビ視聴の中止という手のほかに、一般国民ができることとして、小額裁判をおこすという方法が提起されていました(http://www.asyura.com/11/senkyo105/msg/752.html)。少額の簡易裁判は、裁判官と原告と被告の通常三者のみでの小額の問題を解決するためのもので、アメリカではSmall claim courtと呼ばれる簡単な裁判ですが、日本でも同様の制度があります。申し立て料は補償額によって違いますが数百円から数千円というレベルで気軽に訴えることができます。全国紙に対して、購読者が、捏造報道を読まされて購読料を詐取されたという名目で訴えることが可能なようです。つまりは新聞社に対する嫌がらせですね。裁判に欠席すると自動的に敗訴になりますから、小額の裁判でも数が多ければ相手にとってはかなりの痛手でしょう。もう一つは購読者を多数集めてクラスアクションで正式な訴訟にすることではないでしょうか。
 公害企業などが公害の告発者を黙らせるために起こす恫喝目的のSLAPPと呼ばれる訴訟がありますが、これは補償を求めるのが目的ではなく、立場の弱い相手を訴えてその活動を妨害するの目的でやるものです。
 購読者、消費者というどちらかという立場の弱い側が、大会社の捏造報道に対して、嫌がらせの訴訟を起こすとなると、SLAPPの逆ですね。また、アメリカでは、消費者保護法令というものがあるので、この方法が困難な場合、日本でも購読者が新聞社に対して同様の法令の違反を問う裁判は可能だと思います。
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